「日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(法華取要抄 336頁)
日蓮仏法においては、法華経を根本としていますが、その法華経の精髄とは何かというと、妙法蓮華経の五字です。唱題の際は、「南無」を付けて、南無妙法蓮華経と唱えます。
あまりにも簡単なため、安逸に考えてしまいがちですが、ただ単に南無妙法蓮華経なのかと考えるのではなく、凝縮に凝縮した南無妙法蓮華経なのだと考えることが必要でしょうね。
広から略、そして要、つまり、肝要に至ってあらわれた南無妙法蓮華経であると認識したうえで、唱題すべきでしょう。
南無妙法蓮華経は、仏法の精髄を凝縮したものであり、修行に際しては、これほど修行しやすい法はありません。南無妙法蓮華経と唱え仏法の神髄を得てからは、今度は逆に自分自身から凝縮された仏法を広げていくことですね。
南無妙法蓮華経そのままでは、凝縮されたままですから、薄めながら社会で展開しなければなりません。
南無妙法蓮華経に基づく智慧を自分自身から出していくことですね。自分が唱えるときは、南無妙法蓮華経でいいのですが、その南無妙法蓮華経そのままを他者に伝えたところで、他者は何も理解できません。
方向性としては、肝要から略、そして広という流れで考えるのがよいでしょう。
考えてみますと、日蓮は、南無妙法蓮華経が根本だからといって、南無妙法蓮華経とだけ言っていたわけではありません。日蓮の著作を読みますと、さまざまな学識によって説明がなされています。ありとあらゆる経典を駆使し、あらゆる思想や歴史を使いこなしています。
我々としても、日蓮と同様に、さまざまな思想や歴史を活用しながら、南無妙法蓮華経という法を展開する必要があります。
唱題の際は肝要ですが、社会で展開する時は、略であり、もっといえば、広で行くべきですね。広げるだけ広げることです。そうしますと、多くの人が理解できるでしょう。
ただ、理解できるほど、根本、肝要から離れていきますので、一旦、理解したならば、そこからまた、広略要という方向性で、南無妙法蓮華経に戻っていくというのがよいでしょう。
つまり、広略要という方向性と要略広という方向性との二つの方向性を行き来するのが大切ですね。自由自在の境涯で信仰していくことが重要です。