「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり・天のあたへ給うべきことわりなるべし」(別当御房御返事 902頁)
日蓮は、自分で自分のことを世界第一の法華経の行者であると言っています。それも、天から与えられたものであると言っています。
なかなかの自信家ですが、700年以上経った現在から考えてみますと、やはり、日蓮は、天から選ばれた特別な人間であることが分かります。
天から選ばれる人は、極めて少数であり、数えるほどしかいないものです。日蓮はその一人といってよいでしょう。
なぜ、天から選ばれているのか。それは、凡人では計り知ることはできません。
天から選ばれている人も、最初は天から選ばれている人とは分からないのですが、時間が経過するにしたがって、その特出した人格が輝きはじめ、天から選ばれている人であることが徐々に他の人々に知られていくのですね。
そう考えますと、私自身は、明らかに天から選ばれていない人間であることが分かります。若い時分は、「もしかしたら、自分は天から選ばれている人間なのでは」などと夢想していたものですが、年輪を重ねるにしたがって、そうではないと確信するようになりましたね。
天から選ばれない人がほとんどであり、別に悲しむことでも落ち込むことでもないので、どうでもいいのですが、自分は天から選ばれていると勘違いしないようにすることは重要なことですね。
時折、勘違いした人がいますが、傍から見て、痛々しい。
冷静に自分自身を見つめることが大切です。
我々としては、天から選ばれている人から学べばよいのであって、その学んだことによって豊かに暮らしていけばよいのです。
天から選ばれている、選ばれていないというのは、ある意味、役割分担であり、本質的なことではないのでしょうね。本質的なことは、豊かに生きることです。
自分なりの人生を歩めばよいのであって、他人と同じ人生である必要もなく、特別に天から選ばれる必要もないわけです。
ただ、天から選ばれている人を見つけ出す能力は必要でしょう。その人からいい意味でのエネルギーを頂きながら、また、その人を支えながら、持ちつ持たれつのいい関係を築けばよいと思いますね。