「若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し」(一生成仏抄 383頁)
自分自身の外に道を求めても何もなりません。このような状態で、いくら、さまざまな修行をしたところで、何の効果もありません。
あくまでも仏法は、自分自身の中に法を求めるものです。
これは、仏法の根本であるわけですが、このことをあらわすのに、お金の譬えを出して説明しています。
貧乏な人間が隣人の財産がいくらだと数え上げたところで、貧乏な人間には一銭も得られず、もっと言えば、半銭も得ることができない。つまり、何も得られないということを示しながら、自分自身に根差した仏法信仰がない人間には、何ら得るところはないことを教えています。
この譬えは、興味深いですね。ある意味、人間は隣人の財産を数えて、不必要な嫉妬の感情に苛まされています。くだらないことをしても仕方がないよと教えているわけですね。
一生懸命、人の収入、資産を調べても、それはそれで、参考情報にはなるでしょうが、自分の収入、資産になるわけではありません。
あくまでも自分の財産は、自分で築いていくしかありません。
浪費をすることなく、着実に、貯蓄、投資を行うことですね。そうすることによって、自分自身の財産が出来上がります。
これと同じように、自分の外、つまり、他人や教団に頼った信仰では、境涯が上がることはなく、他人や教団に利用されるだけで、往々にしてマイナスになる場合があります。
自分自身の中に仏法の根本を見出し、信仰をしていくことですね。最初は、さほど、変化は見られないでしょうが、1年、3年、5年、7年と経過していく中で、境涯が上がり、然るべき人間になっていきます。
地道に貯蓄、投資をしていけば、いつしか財を成せることと同様ですね。いっぺんに財産ができるわけではなく、時間がかかります。信仰も同じですね。