「法華経の行者の祈る祈は響の音に応ずるがごとし・影の体にそえるがごとし、すめる水に月のうつるがごとし」(祈祷抄 1347頁)
法華経の行者の祈りは必ず叶うという御文もありますが、ここでは、法華経の行者の祈りがそのままの形で反映することを説いています。
ある意味、絶対に祈りが叶うということを別の言葉で言っているわけですが、逆の面から考えると、その法華経の行者の境涯に応じた分しか祈りが叶わないとも読めます。
つまり、音が小さければ響きも小さく、体が小さければ影も小さく、月がさほど美しくなければ水面に浮かぶ月もさほど美しくないというように、その人の境涯に応じた祈りに対応した分の祈りが叶うだけということです。その人の境涯以上のものが叶うということは絶対にないということです。
所詮、その人の祈りのレベルによって、叶うもののレベルが決まるわけですね。
一般的な俗な祈りが叶うことも重要ですが、それよりも重要なのは境涯を上げることでしょう。そもそも、祈りといっても境涯を上げることを祈ればよく、その他のことは、境涯が上がるにしたがって、自然と付随していくものです。
根本的な祈りは、境涯を上げることであり、本質的に法華経の行者になるということそのものが祈りの骨格になければなりませんね。
その人の祈っていることがその人の境涯をあらわすわけで、祈っている時にすべてが決定されているといえましょう。
勤行・唱題での祈りは、成仏の原因を作っていると共に成仏の結果をも包含していると考えるのがよいでしょう。このように考えますと、日蓮仏法的な信仰になります。