「どんなにたくさんあっても整理されていない蔵書より、ほどよい冊数で、きちんと整理されている蔵書のほうが、ずっと役に立つ。同じことが知識についてもいえる。いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある」(ショーペンハウアー『読書について』鈴木芳子訳 光文社古典新訳文庫 8頁)
以前は、たくさんの本棚とたくさんの本があり、背表紙を眺めて悦に入っておりました。その割には、さほど本を読んでおらず、形だけであったと思いますね。
本が増えていくにしたがって、圧迫感だけが増えていき、また、蔵書の内、読んでいない本が多く、本を置いているだけではないかと思うようになりました。
いずれは読むという気持であったのでしょうが、実際はいつまでたっても読まないのですね。
断捨離が流行っているということもあり、本の断捨離をはじめたところ、ほとんどの本は、ブックオフに売却し、資源ごみに出されることになりました。
本を処分して困ったことはありません。必要な本だけ残していますから、問題がないわけです。
このことを考えるとたくさんの蔵書があったにしても、それは、「整理されていない蔵書」でしかなかったということなのですね。現在の蔵書は、少ないながらも「きちんと整理されている蔵書」となっています。
蔵書として持っておくべき書は、まずは、聖典類でしょうね。私の場合、御書と法華経ということになります。あとは、電子辞書があるとはいえ、一応、紙媒体の辞書類が必要でしょうね。その他では、多少の古典及び気に入った数冊の本で十分でしょう。
本は蔵書として持っていることに価値があるのではなく、読んで自身の血肉にしてこそ価値があるものです。まずは、読まなければなりません。蔵書にしているだけで読んでいなかった本が多かったころを反省しますね。
現在、蔵書にない本は、ほとんど、図書館にて借りています。読んだら返却というサイクルですね。読み始めて、つまらないと思えば、そこで読むのをやめればよく、返却すれば、蔵書にもならず、部屋は快適です。
蔵書を抱えていた時より、図書館で借りるようになってからの方が本を読むようになりました。おもしろい現象ですね。蔵書というのは、読書にとって、さほど重要ではないのかもしれませんね。
読むのが大切なのであり、所有することに意味はありません。また読みたければ、また借りればよいだけです。別にむずかしいことではありません。
ショーペンハウアーが言うように、知識に関しても同じことがいえますね。量が多くとも自分の中で血肉化されていない知識は、正直なところ、使えません。活用できないわけですね。まさに、意味がないわけですが、若いころは知識が多いことがいいことだと勘違いしていますので、やたらと知識を増やしていたものです。
しかし、今から思うと、ほとんどの知識はどうでもいい知識ですね。単なる知識であり、自分の中からにじみ出る知識ではないのですね。「自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識」とは、言い得ています。
必要なのは、「じっくり考え抜いた知識」であり、血肉化された知識、自分自身からにじみ出る知識ですね。このような知識になると、量は少なくなりますが、別に困りません。使える知識、活用できる知識なのですから、少しであっても効果莫大ですね。そもそも、多量の知識を「じっくり考え抜いた知識」で用立てることなどできません。人間の一生の時間では、足りませんね。
所詮、人間は有限な存在なのですから、あれもこれもと言っていては、その間に寿命が来てしまいます。
価値的に、賢明に生きていくべきでしょうね。