「日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために此の御本尊をわたし奉るならば十羅刹定めて偏頗の法師と・をぼしめされなん、又経文のごとく不信の人に・わたしまいらせずば日蓮・偏頗は・なけれども尼御前我が身のとがをば・しらせ給はずして・うらみさせ給はんずらん」(新尼御前御返事 906頁〜907頁)
不信の人間には、仏法は厳しいということですね。
大尼という人は、フラフラした信仰であり、法華経を捨てておきながら、また、信仰しますから本尊をくださいと言いますが、日蓮は断ります。
当たり前といえば当たり前のことなのですが、宗教、仏法を勘違いしている人は、すべての人に慈悲を施さなければならないと考えているようです。
しかし、仏法は厳しい法理であり、いい加減な人間、不信の人間には手を差し伸べませんし、そもそも、手を差し伸べたところで、不信の人間は、その手を振り払うという暴挙に出ます。
仏法の法理からすると、不信の人間に本尊を授与することは、偏った僧侶という評価をされるようで、間違っているということです。十羅刹女からも「おかしなことをするのではない」と指摘されるというわけですね。
ただ、経文通りに、不信の人間に本尊を授与しないと、その不信の人間は自分が悪いことを棚に上げて、本尊を授与しない人を恨むというのですから、たちが悪いですね。
やはり、不信の人間は、最初から相手にしないのが一番です。関わるだけ境涯を下げてしまいます。徳が低くなり、徳が薄くなります。気を付けなければなりません。
その点、日蓮は、厳しく対処しており、私情で仏法を展開することがなく、あくまでも、経文通りの実践を行っています。
我々としては、御書、法華経そのものを研鑽し、その上で、信仰をしていくという姿勢が求められます。
つまらぬ私情は、仏法信仰において、邪魔なだけですね。振り返ってみますと、途中で信仰から脱落した人は、つまらぬ私情で落ちていっています。仏法とは無関係なところで足を取られ転んでいるのですね。なぜ、御書、法華経そのものを軸に信仰をしないのか、不思議ですが、そのような人だからこそ、落ちていくのでしょうね。
今回拝した御文は、なかなか厳しい御文でございました。