「作品は著者の精神から抽出されたエッセンスである。だから作品は、どんなに偉大な精神の持ち主であっても、著者本人とのおつきあいとは比べものにならないほど、常に内容ゆたかで、基本的にそれを補完するものだ。いや、はるかにしのぎ、凌駕する。凡人が書いたものでもためになり、読み甲斐があり、おもしろいことがある。まさしくそれが書き手の神髄であり、思索と研究が実を結んだものだからだ。これに反して書いた当人とのおつきあいは楽しいものではないかもしれない。したがって著者本人とおつきあいするのは御免こうむりたい場合でも、作品はけっこう読めることがある。だから高い教養・見識が身につけば、しだいにもはや書き手には興味をおぼえず、作品にだけ楽しみを見出すことになる」(ショーペンハウアー『読書について』鈴木芳子訳 光文社古典新訳文庫 150頁)
書かれたものは、書いた本人よりも、その本人の本質を凝縮しているということですね。
実際、会話となると、漫然としたものになるものです。文章であれば、余分なものがそぎ落とされ、シャープな表現になります。いくら下手な文章であれ、会話よりはまとまっています。
会話ではごまかしがききますが、文章ではごまかしがききません。ごまかすと文章にならないからですね。
それ故、「凡人が書いたものでもためになり、読み甲斐があり、おもしろいことがある」わけですね。
まさに、ブログなどその典型例でしょう。書いている人は、プロの作家でなくても、ものによっては、興味深い文章を見つけることは困難ではありません。
なかなかパンチがきいている文章にも出会い、その出会いが楽しいというのがネットの面白さですね。
しかし、その文章を書いている本人さんと直接話をして面白いかといえば、それはどうなんでしょうね。ショーペンハウアーが言うように、楽しくないかもしれませんし、御免こうむりたいということかもしれません。
そうであって、作品はおもしろい場合があり、作品を楽しめばよいのですね。
私の場合、日蓮を読んでおり感銘を受けるわけですが、もし、私が鎌倉時代に生きており、日蓮と実際に接する機会があった場合、なんとなくですが、馬が合わないような気がします。日蓮その人が強烈過ぎるので、私の方で拒否反応が出るのではと思うのですね。また、日蓮としても、私を見て、「何なんだお前は」と感じるのではないかと思うのですね。
直接会った場合、互いに拒否反応がでるのではと推測されるわけです。
しかし、700年以上の月日を隔てますと、日蓮その人はこの世におらず、作品だけが残り、私は、私のペースでその作品を読み感銘を受ければよいので、ちょうどいい塩梅になります。
日蓮と私との間には、700年以上の月日が必要なのでしょうね。
日蓮には、多くの法難が押し寄せましたが、法華経の故という点だけでなく、日蓮その人が強烈であったが故に、相手に必要以上の拒否反応を起こさせ、それが法難の原因のひとつでもあったのではと思います。
私にとっては、今、日蓮を読むのが適切なのであり、鎌倉時代という同時代に、同じ場所に生きて、日蓮と出会っていたならば、法華経信仰をしていたかどうか怪しく、人生、所詮はタイミングと感じますね。
日蓮の文章、思想、行動に感銘を受けながらも、その日蓮の作品から想像する実際の日蓮は、少なくとも私とは合いいれない人物なのではないかと思いますね。
そうであっても、作品そのものは私にとって重要であり、合いいれるものであり、作品と著者とには違いがあるのですね。ショーペンハウアーが言うように、実際の著者その人に興味を覚えなければならないという義務はなく、作品だけを楽しむことが可能なのですね。
世の中には、さまざまな古典がありますが、著者本人は、鼻持ちならない人間が多いのかもしれませんね。ただ、作品は抜群というわけで、後世まで残っているのでしょう。
ショーペンハウアーの指摘は、鋭いですね。参考になります。