「設ひ・いかなる・わづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし」(兄弟抄、1088頁)
日々の生活、仕事の中で、「わづらはしき事」が多いものです。
これでもか、これでもかと「わづらはしき事」が出てきます。
正直なところ、参ってしまうわけですが、参っているだけではどうしようもありませんので、どうにかするわけですね。
時間が経てば、それなりにストレスは解消しますが、強烈な「わづらはしき事」の場合、そう簡単に消えてはくれません。
そこで、日蓮は、そのような「わづらはしき事」は、夢にしてしまえと指摘しています。
夢の使い方が、通常の使い方と違いますね。
普通、夢といった場合、「夢を持て」やら「夢を実現する」という使い方をしますが、夢を持つといっても、夢見人でない限り、そう簡単に夢を持つことはできませんし、ましてや、夢を実現するといっても、ほとんど実現できないものです。
夢を持ったり、夢を実現しようとしたりしたところで、これといった実益はありません。
それこそ、単なる夢でおしまいであり、儚く消えていきます。
しかし、日蓮の夢の使い方は、「わづらはしき事ありとも夢になして」ですから、「わづらはしき事」を夢のように儚いものとして消してしまえ、気にするなという意味で使っています。
夢は、持つものではなく、実現するものではなく、「わづらはしき事」を夢になす、つまり、「わづらはしき事」を消してしまうためにあるのですね。
このような使い方であれば、毎日、使えます。
毎日毎日「わづらはしき事」ばかりですから。
その時に、日蓮が言うように、「わづらはしき事ありとも夢になして」を実践すればよいのですね。
「わづらはしき事」が消えるわけですから、実益そのものですね。
そして、日蓮は、法華経のことを思索せよ、と言います。
根本的に重要な事柄に時間とエネルギーとを使いなさいということですね。
言ってみれば「わづらはしき事」など、実のところ、どうでもいいことです。
気にする必要のない事柄です。
このどうでもいい事柄に囚われている境涯の低さを改善すること、つまり、境涯を上げることが重要ですね。
そのために法華経を研鑽するというわけですね。