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2014年02月16日

仏教信仰の根本から信仰する理由を考える

幸せになるために信仰する、宗教を信じるということがよく言われます。

確かに、幸せになりたいと思うから信仰する人が多いですね。

それはそれで結構なのですが、そう簡単に幸せになれません。

というよりも、人生のほとんどが不幸な期間で占められています。

幸せになるために信仰すると考えると、幸せになれない場合、信仰する必要はありません。

よって、信仰しない人が増えます。

当然でしょう。

しかし、信仰は、幸せになるためだけにするものなのでしょうか。

幸せになるための信仰を否定しているわけではありませんが、信仰の真髄は、幸せになることと別のところにあるような気がします。

日蓮は、「一定として平等も城等もいかりて此の一門をさんざんとなす事も出来せば眼をひさいで観念せよ」(『日蓮大聖人御書全集』1190頁)と言います。

つまり、平左衛門尉らからの迫害があるだろうが、その時は、眼を閉じて観念せよと言っています。

全然、幸せではありませんね。

殺されたり、不幸になったりすることがあるという当たり前のことに対して、覚悟を決めるために信仰するというのが本来の信仰かもしれません。

また、日蓮は、「ただ一えんにおもい切れ・よからんは不思議わるからんは一定とをもへ」(同書 同頁)とも言います。

つまり、思い切れ、良くなることは不思議なことであり、悪くなるのが当然と思えと言っています。

ダメな時はダメであり、その時は、ダメな時なりに生きていけということですね。

どのような状態であれ、覚悟を決めて生きていくことが大事ということです。

幸せになるための信仰などという甘ったるい信仰観では、この境地は分かりませんね。

いかに大変であろうと、その中で自らの仏を開くのが信仰ということでしょう。

よくよく考えてみれば、絵にかいたような幸せになれる人などほんの一握りであり、ほとんどの人は、不幸といえます。

不幸であろうとも、その中で力強く生きていくために信仰するというのが正しい信仰観といえるでしょう。

そして、信仰していく中で、幸せになれれば、それはそれで結構であるという余裕のある態度が好ましいですね。

幸せになりたいと焦って、せっついている姿はみっともないですね。

自分の為すべきことを為し、その上で、自らの境涯を上げていくことが信仰するということです。

どのような事態になっても対応できる人間になるために信仰していると考えるのがよいでしょう。

先程、「覚悟」という言葉を使いましたが、よくよく見てみると、「覚」という漢字も「悟」という漢字も、それぞれ「さとる」と読みます。

仏教は、「さとる」ために行うわけですから、幸せどうのこうのということは仏教の本質とは少しずれているのですね。

あくまでも「覚る」、「悟る」ことが仏教信仰の根本ですね。

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