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2014年02月11日

六波羅蜜を身に付け、生活を正すこと

「日本の行詰まりは意外に速く且だらしがなかった。その根本的な一原因は、戦後意外に速く復興し繁栄したのに気を好くして、世をあげて小のつく者がはびこったことである。小利口者、小才子、小ずるい輩から、小悪党など。然しこんな者のだめなことは今に始まったことではない。やはり、おっとりした、思慮あり、情ある、真面目で勤勉な、頼もしい人間でなければ人が好まない、信用しない。
これから日本人は心を入れかえて人間を修養し、生活を正し、事業を興さねば、益々危くなると思う」(『安岡正篤一日一言』致知出版社 29頁)

好ましい人間、信用に値する人間について、安岡正篤氏は、6つの条件をあげています。

この6つの条件が、ほぼ「六波羅蜜」に対応していると思われますので、まとめてみましょう。

「おっとりした」は、せかせかしていないわけですから「禅定」に該当しそうですね。

「思慮あり」は、そのまま「智慧」といえるでしょう。

「情ある」は、人に情けをかけるわけですから「布施」に相当しそうですね。

「真面目」は、実直な感じであり、戒律を持っている感じですから「持戒」でしょうね。

「勤勉」は、そのまま「精進」ですね。

「頼もしい」は、安心できる、崩れない、堂々としているという観点から「忍辱」といえるのではないかと思います。

今後の日本を考える上で、必要とされる人間は、「六波羅蜜」を身に付けた人間といえるでしょう。

その上で、安岡正篤氏は、4つの行動を促しています。

1 心を入れかえる。
2 人間を修養する。
3 生活を正す。
4 事業を興す。

ここで注目したいのは、「生活を正す」という点ですね。

人生といったところで生活の集積であるわけで、生活がいい加減では、人生もいい加減です。

日頃の行いがその人の人生を形作ります。

あれもしたい、これもしたいと考えても、生活に中にそのしたいことが組み込まれていない場合、いつまでたっても何もしないまま終わってしまいます。

例えば、本を読みたいと思ったにしても、生活の中に読書の時間を組み込まない限り、仕事だ、家事だ、テレビだ、人付き合いだと流されていくと、読書はできません。

また、宵っ張りの朝寝坊で生活のリズムが狂っている場合、読書どころではないでしょう。

適切な睡眠をとらないと脳も体も動きませんので、読書はできません。

「生活を正す」という、あまりにも基本的な、身近なことから変化をつけていくことでしょうね。

大きなことを言ってみたり、夢想してみたりしたところで、何も変わらないどころか、時間が経過するわけで、みっともなく老いていくだけです。

生活を正さないと悪く変化するわけで、ここは、どうしても生活を正す必要があります。

自分にとっての適切な睡眠を確保しますと、起きている時間が分かりますので、その時間内でできることを行うことです。

あれもこれもではなく、最重要事項から行っていくことですね。

読書をすると決めたならば、読書をすればよいでしょう。

間違っても睡眠時間を削って何かをしようとしないことです。

だらだらと残業している生産性のない人間と同じになってしまいます。

時間は限られており、有限であるという当たり前の事実を認識することが大切です。

宵っ張りになると、時間は無限であると勘違いしがちです。

しかし、翌朝、朝寝坊の睡眠不足で体も脳もフラフラになり、その日一日の多くの時間を無駄にしてしまいます。

実際に活用できている時間は、有限であるはずの時間よりも少ないという悪循環に陥ってしまうわけですね。

まずは、生活を正すことが重要ということですね。

そして、その生活に中に、自分がすべきことを組み込んでいくことですね。

生活の中に組み込めないことは、ただ単にできないことということです。

例えば、毎日行えることを、今日できない場合、それはいつまで経ってもできないでしょう。

1週間に1回行えることを、ここ1週間の内にできない場合、それはいつまで経ってもできないでしょう。

1カ月に1回行えることを、ここ1カ月の内に行えない場合、それはいつまで経ってもできないでしょう。

生活の中に組み込めない事柄は、その人の人生にとって存在しない事柄にしか過ぎません。

生活の中に組み込まれている事柄、それこそがその人の人生ということですね。

よって、無駄なもの、いらないもの、価値のないもの、悪影響を及ぼすもの等々は、排除することです。

そうしませんと、時間がいくらあっても足りません。

よくよく観察してみますと、無駄なことに時間を費やしているものです。

本当にこの人の相手をしてもいいものかと検討を加えると、ほとんど、「否」という答えが出ることに驚愕することでしょう。

意外とそんなものです。

限られた時間、有限な時間を価値的に使っていきたいものです。

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posted by lawful at 10:34| 生き方

2014年02月09日

メタ認知

「人間には、認知活動それ自体を対象として認知する心の働きがある。これがメタ認知とよばれるものである。メタ認知を働かせることにより、私たちは、自分の判断や推理、記憶や理解など、あらゆる認知活動にチェックをかけ、誤りを正し、望ましい方向に軌道修正することが可能になる」(三宮真智子 編著『メタ認知』北大路書房 @頁)

人は、一杯一杯の状態の時に、メタ認知を活用することはありません。

余裕があれば、メタ認知を活用することができます。

メタ認知は、重要な力ですが、いつでも使用可能というわけではありません。

そもそも、メタ認知ということを認知できていることがポイントです。

自分がものを考えている時に、ちょっと立ち止まって、ものを考えている自分を第三者の立場から見つめることですね。

ただし、焦っている時、怒っている時、不安な時など、メタ認知の入る隙間はありません。

まずは、落ち着くことですね。

その上で、メタ認知を活用することです。

冷静になることもメタ認知を活用する上で重要ですね。

人を騙す詐欺師などは、騙される人にメタ認知を活用させまいとしているのでしょうね。

新宗教の活動に熱心な人は、メタ認知を活用していないですね。

もっと言うと、メタ認知を活用することを拒否しているのかと思われる程です。

新宗教の上級教団職員は、メタ認知を活用していることでしょう。

その上で、信者の人をうまく動かしているのでしょうね。

要は、メタ認知を活用している人とメタ認知を活用していない人との2種類の人がいるということですね。

当然のことながら、メタ認知を活用する人になっていきましょう。

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2014年02月08日

西條八十「ぼくの帽子」を歴史的仮名遣いで読む

以前、西條八十の「ぼくの帽子」を『名作童謡 西條八十100選』からご紹介しましたので、現代仮名遣いでした。

今回は、国書刊行会の『西條八十全集』第六巻からのご紹介ですので、歴史的仮名遣いです。

まずは、見てみましょう。

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ぼくの帽子   西條 八十

―母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?
 ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
 谿底へ落したあの麦稈帽子ですよ。

―母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
 僕はあの時、ずいぶんくやしかつた、
 だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。―

―母さん、あのとき、向から若い薬売が来ましたつけね。
 紺の脚絆に手甲をした。―
 そして拾はうとして、ずいぶん骨折つてくれましたつけね。
 けれど、たうとう駄目だつた、
 なにしろ深い谿で、それに草が
 背たけぐらゐ伸びてゐたんですもの。

―母さん、ほんとにあの帽子、どうなつたでせう?
 あのとき傍に咲いてゐた、車百合の花は
 もうとうに、枯れちやつたでせうね。そして
 秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
 あの帽子の下で、毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。

―母さん、そして、きつと今頃は、―今夜あたりは、
 あの谿間に、静かに雪が降りつもつてゐるでせう、
 昔、つやつやひかつた、あの以太利麦の帽子と、
 その裏に僕が書いた
 Y・Sといふ頭文字を
 埋めるやうに、静かに、寂しく。―

(『西條八十全集』第六巻 国書刊行会 61頁〜62頁) 

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「ぼくの帽子」は、1922年(大正11年)2月1日、「コドモノクニ」に発表されています。

当然、歴史的仮名遣いで発表されていますので、そのままの形で読んでみたいと思ったわけです。

やはり、現代仮名遣いは読みやすいけれども、歴史的仮名遣いの風情にはかないません。

西條八十が書いたとおりに読むというのがいいですね。

今から92年前に発表された作品ですが、古臭さが全くありません。

否、新しいとさえ感じられます。

この詩には魅力がありますね。

不思議な魅力があります。

夏から秋へ、そして冬へ、季節の変化の中で麦稈帽子に纏わる感情が豊かに描かれています。

子供のための詩として発表されたものですが、実際は、大人のための詩といえるでしょう。

年を取れば取るほど、この詩に籠められた情感を感じ取ることができます。

映像が浮かび上がってくるような詩であり、人生経験を経るごとに、その映像が豊かになっていくようです。

読む人間の器が大きくなれば、この詩は大きく感じられ、読む人間の器が小さくなれば、この詩は小さく感じられることになるでしょう。

読む人間の力量が試される詩といってよいでしょう。

いずれにしても、日本語の美しさを感じさせてくれるこの詩を大切にしていきたいと思います。

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posted by lawful at 21:01| 文学

教団に真理を求めてはいけません

信仰する上で、法、経典、教義に真理を求めるのが普通です。

しかし、宗教団体、つまり、教団に真理を求める人たちがいます。

どこそこの教団は間違っている、どこそこの教団は邪教団だとうるさいわけですが、各教団の特質、特徴を分析したところで、所詮は人間の集団ですから問題点ばかりでしょう。

それがどうしたというのでしょうか。

結局、自分が所属している教団が正しい、真理だと主張して一件落着となるようです。

そのような人々が法そのもの、経典そのもの、教義そのものについて、どれほど真剣に研鑽しているのでしょうか。

少なくとも、そのような人々の言説からすると、ほとんど研鑽していないですね。

彼ら彼女らにとって、教団の正統性を主張すれば事足り、肝心の法そのもの、経典そのもの、教義そのものはどうでもいいようです。

所謂、帰属意識が満足させられれば、それでよいみたいです。

要は、自分自身の自己満足が一番大切なようですね。

難しいこと、大変なこと、努力を要することは嫌なようです。

他の教団の欠点を数え上げることには、大した労力を要しません。

すべての人間はパーフェクトではないわけで、その人間の集団である教団もパーフェクトではありません。

教団の至らぬ点を見つけるのに苦労はしませんし、いくらでも見つけることができます。

このようなことは愚か者でもできることです。

賢者がすることではありません。

よって、教団同士で罵り合いをしている人たちは、愚か者ということになるのでしょう。

もちろん、賢者も各教団の問題点を知悉していますが、それをもって罵るという行動には至らないですね。

罵ることに意味がなく、価値がないからです。

つまり、罵るのではなく、相手にしないということです。

教団の問題点を明らかに見て、そして、相手にするほどのことか、それとも、相手にしなくてもよいほどのことかの判断をして、そして、相手にしないという流れになります。

教団は、利用すべきものであり、活用すべきものであって、信仰の対象ではありません。

教団に真理を求めても仕方がありません。

教団がどうあろうとも、自分自身の信仰が透徹していなければ、何にもなりません。

教団がいい教団であれば、自分もその恩恵に与れるという考えがあるのかもしれませんが、それは間違いでしょう。

教団が信者から寄付金を募って恩恵に浴しているというのが現状でしょう。

恩恵を受けているのは教団であって信者ではないということです。

教団に利用、活用されているようでは、愚か者の信者です。

教団を利用、活用するという姿勢でなければなりません。

その教団に利用できる点、活用できる点があれば、利用、活用すればよいだけです。

なければ、利用しないだけのことです。

愚か者の信者さんは、「教団利用だ。けしからん」などといいますが、利用価値のない教団に存在価値はありません。

教団としては、利用されたくないために、愚か者の信者に「教団を利用してはいけない」という訳のわからないことを言わせているのですね。

なかなか用意周到です。

いずれにしても、教団に重きをおくのではなく、法そのもの、経典そのもの、教義そのものに重きをおきたいものです。

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2014年02月01日

中心的な研究と補助的な研究

「時間を節約する一番いい方法は、なにかを学んだり行ったりする時には、必ず、完全にものにするのだという強い気概をもって臨むことです。そして、一方、どうにもならない限界がみえた時にはいさぎよくそれを認めてしまうことです」(P.G.ハマトン『知的生活』渡部昇一・下谷和幸訳 講談社 141頁)

いい年をした大人があれもこれも身に付けたいと思っても、時間がなさすぎます。

また、あれもこれも身に付けたいと考えていること自体、子供じみています。

ハマトンは、大人の振る舞いを教えてくれていますが、しっかりと学んでおく必要があるでしょう。

あれもこれもといったところで、何も身に付いていないということが多いものです。

というより、身に付いているものが一つもないと言った方が適切かもしれません。

何であれ、学ぶ場合は、ハマトンの言うように、完全を目指すべきです。

そして、身に付きそうもない分野に関しては、専門家に任せて、自分は撤退することですね。

困ったことがあったら、その専門家にお金を払って、解決してもらう方がいいですね。

このようなめりはりのある振る舞いができるのが大人というものでしょう。

「今後も研究を続ける学問においては、完全な、すなわち、正確に体系立った知識を身につけるよう、しっかり心掛けようではありませんか。そして、完全にものにできそうもない研究は、やむを得ず断念することにしましょう」(同書 142頁)

同じようなことを別の言葉で説明しています。

今後も学ぶ事柄に関しては、「完全」、「正確」、「体系」であるべきということですね。

それ以外の事柄に関しては、「断念」ということです。

めりはりが利いています。

ただし、学ぶ事柄がひとつだけというわけではありません。

「ひとつだけ中心的な研究をし、あとは補助的な研究をいくつかやる、しかし、補助にはならない研究にはいっさい手を出さないこと、これが、研究配分を決定する真の原則です」(同書 146頁)

結局、いくつか学ぶのですが、その割合に工夫があります。

「完全」、「正確」、「体系」となる分野はひとつであるけれども、補助となる分野の事柄については、必要に応じて学んでいくことになります。

例えば、法華経、日蓮の御書を中心として研究する場合、他の仏教思想は補助的な研究対象と位置付けられるでしょう。

基本的な仏教の概念や現代の宗教事情等も補助的な研究対象といえます。

また、キリスト教(聖書)、イスラム教(コーラン)などの他宗教も補助的な研究対象となります。

宗教思想だけに限らず補助的な研究対象を考えますと、政治思想なども補助的な研究対象となり得ます。

このように考えますと、補助的な研究対象が広がっていきますが、その補助的な研究対象を極めるわけではありませんので、広く浅くといった態度で学ぶのがよいでしょう。

中心的な研究対象に関しては、狭く深くということになりますでしょうか。

外国語習得に関しても同じようなことがいえると思います。

中心となる外国語を決めることですね。

どの外国語でもいいわけですが、結局、英語をマスターすることがよいでしょうね。

外国語を2つも3つもマスターするのは困難であり、語学力を維持するのにもエネルギーを取られます。

外国語は英語ひとつに絞り、ドイツ語、フランス語、中国語、スペイン語等々の言葉は、その外国語の専門家に頼るのがよいでしょう。

ただ、英語だけは、どうにか自分で理解できるようにしておきたいものです。

もちろん、英語もわれわれ日本人からすると外国語ですから、「完全」、「正確」、「体系」となるまでマスターするのは困難です。

それなりの限界を設定するのが好ましいのですが、「現代外国語の場合は、納得のいくような限界を設定することはそれほど簡単ではありません」(同書 145頁)とハマトンが指摘するように、限界設定そのものが困難という事情があります。

限界を設定するのが面倒ですので、英語に関しても、「完全」、「正確」、「体系」を目指す心構えで学ぶほかはありませんね。

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2014年01月26日

『ユダヤの商法』藤田田

「ユダヤ人は、出社すると一時間ほどは『ディクテイト』(dictate)といって、前日の退社後から出社時間までに届いた商取引の手紙の返事をタイプしてしまう。(中略)
有能なユダヤ人の机の上には『未決』の書類はない」(藤田田『ユダヤの商法』KKベストセラーズ 62頁)

仕事をしていますと、未決書類が溜まっていくものです。

つい、後回しとなるのですが、この文章を読んで、ハッとしましたね。

翌日から、未決書類を片づけ、常に未決書類が残らないように心掛けています。

そうしますと、気持ちがすっきりするものですね。

余裕も生まれます。

出来ることはさっさと行うことですね。

有能無能といっても、所詮は、すぐに仕事をはじめているかどうかだけの差であり、日が経つにつれて、その差が広がっていくということでしょう。

『ユダヤの商法』には、ビジネスのことだけでなく、ユダヤ人の習慣についても触れられています。

「ユダヤ人は、水が不足している場合でも、緊急事態の中にあっても、必ず、体の二ヵ所だけは洗うようにとしつけられている。これは、ジュウイッシュ・バスと言われている入浴法で、体の二ヵ所とは、陰部と脇の下のことである」(同書 133頁)

確かに、不潔な人や体臭がある人にビジネスチャンスは来ないですね。

人間の体の中で、陰部と脇の下は、他の場所以上に臭いを発します。

気をつけておかないと、他の人に不快感を与えてしまいます。

清潔にするということも、未決書類を片づけるのと同様、ちょっとした心掛けです。

特別なことをするのではなく、日常の行動を見直した方が効果的ですね。

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「教養ということ」〈対談〉小林秀雄・田中美知太郎

「教養ということ」と題した小林秀雄氏と田中美知太郎氏との対談がありますが、その中から小林秀雄氏の発言を見ていきましょう。

「ぼくら抽象的思索というようなことをよくいうが、文学の世界にいると、どうしても言葉で考えます。言葉が出てこなければ、なんにも出てきませんからね。だから言葉を探していてみつかると、先が開けてくる」(小林秀雄『読書について』中央公論新社 155頁)

ものを考えるときに何が必要かといえば、「言葉」ですね。

小林秀雄氏が言っているように、言葉がなければ、考えられないという以前に、何も出てこないようです。

所謂、「無」ですね。

何にもないということです。

日本人の場合、言葉とは、取りも直さず日本語ですが、日本語がないと考えることができません。

その日本語が豊潤であればあるほど、考えも豊潤になります。

その日本語が貧困であればあるほど、考えも貧困になります。

簡単なことですね。

考えるためには、何をすべきか。

日本語を勉強し、言葉を豊潤にすることですね。

国語辞典を活用するべきでしょう。

では、豊潤な言葉があるだけで考えることができるのか。

小林秀雄氏によると、そうではないようです。

「書いていくことと考えることがいっしょなんですよ。ぼくなんか書かなくちゃ絶対にわからない。考えられもしない」(同書 157頁)

書くという作業が必要ということですね。

確かに、ブログを書いていますと、大したことを書いているわけではなくとも、ものを考える契機にはなっていますね。

この言葉づかいでいいのだろうかと、国語辞典を引きますからね。

書くことと考えることとは不可分ということですから、ものを考えるためにも、ブログを書いていくことでしょう。

ブログを書くといっても、古典を読み、その古典を引用しながら書いているわけですが、古文、漢文は難しいとはいえ、その古文、漢文の味わいを大切にしたいと思っています。

確かに、現代語訳も大切ですが、まずは、原文そのものを重要視しているところ、小林秀雄氏の以下の発言を読み、意を強くしました。

「古典の現代訳をひじょうに無神経にやることなんかも間違いの根本ですね。姿があるのは造形美術だけではない。言葉にも姿がある。日本人ならかならず日本の言葉についての姿の感覚があるはずです」(同書 164頁)

古文、漢文そのものにも姿があるということです。

この姿を大切にし、この姿の感覚を研ぎ澄ますことが求められます。

言葉そのものも芸術ということですね。

意味を確認するための現代語訳は重要とはいえ、もっと大事なのは、原文そのものです。

古文、漢文の原文そのものを感じることですね。

ものを考えるだけでなく、ものを感じることも大切です。

考え、そして、感じる、このような姿勢を続けていくことが教養ということでしょう。

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『読書について』小林秀雄

「一流の作家なら誰でもいい、好きな作家でよい。あんまり多作の人は厄介だから、手頃なのを一人選べばよい。その人の全集を、日記や書簡の類に至るまで、隅から隅まで読んでみるのだ」(小林秀雄『読書について』中央公論新社 12頁)

私の場合、日蓮をその一人として選んでいます。

五大部、十大部等々の著作だけでなく、各門下、各檀那への消息(書簡)を含めたすべての日蓮の書を丹念に読んでいきたいものです。

「書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えて来るのには、相当な時間と努力とを必要とする。人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返す事、読書の技術というものも、其処以外にはない」(同書 13頁)

端的に「読書の技術」について述べられています。

書物が書物のままにしか見えない、つまり、文字にしか見えない段階では話にならないということですね。

書物から、この世の中を理解したり、さまざまな理論、思想、ものの考え方を理解したりすることも大切ですが、人間そのものを見出さない限り、読書にはなり得ないということでしょう。

日蓮も同じようなことを言っていますね。

「此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり」(『日蓮大聖人御書全集』1025頁)

ここでいう「此の経の文字」とは、法華経のことを言っているわけですが、法華経から釈尊、それも金色の釈尊を見てこそ、法華経を読んだことなり、自分自身の仏をも獲得できるということです。

とはいえ、書物から人間を見るということは、難事中の難事と思われます。

しかし、読書の醍醐味は、書物から人間を見ることですから、どうにかしたいものです。

小林秀雄氏が言うように、ある一人の全集を読むというのが、遠回りのようで近道でしょう。

みっちり読むということですね。

では、書物から人間が見えてどうなるのか、という問いがあるかもしれません。

小林秀雄氏の文章を確認して見ましょう。

「他人を直かに知る事こそ、実は、ほんとうに自分を知る事に他ならぬからである。人間は自分を知るのに、他人という鏡を持っているだけだ」(小林秀雄『読書について』中央公論新社 15頁)

結局は、自分を知るために読書をしているということですね。

そのためには、一流の人間の書物を読み、その書物からその一流の人間を見て、我が身を省みることです。

書を読むのであって、書に読まれてはいけません。

再び、小林秀雄氏の指摘を見てみましょう。

「自分の身に照らして書いてある思想を理解しようと努めるべきで、書いてある思想によって自分を失う事が、思想を学ぶ事ではない」(同書 53頁)

日蓮を読む場合でも、自分自身に引き付けながら日蓮の思想を理解することです。

日蓮の思想を単なる知識として振り回すのではなく、自分自身で消化することが大切です。

学生時代など、読んだ本に読まれてしまい、その本に書いていることをそのままなぞって話しているだけにもかかわらず、いい気になってしまうような読書では意味がないですね。

そうはいっても、学生時代に小林秀雄氏が指摘するような読書がすぐにできるわけではありません。

しかし、いい大人が学生気分の読書ではみっともないので、小林秀雄氏の指摘を肝に銘じておきたいですね。

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2014年01月22日

「守護国家論」の解説を読み比べる

日蓮の著作の中で「守護国家論」という書があります。

初期日蓮の重要な書です。

それぞれの辞典で「守護国家論」の項目を確認してみましょう。

日蓮の書ですから、まずは、『日蓮辞典』(東京堂出版)から見てみましょう。

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守護国家論 しゅごこっかろん
一篇。日蓮著。真蹟一八紙半身延曾存(明治八年焼失)。写本平賀本土寺蔵。正元元年(一二五九)系年。鎌倉における著述。七門に分けて『選択集』を批判し、衆生の救済と国家の安泰は法華経の正法に帰すことにのみ期されることを明かす。本書をもって『立正安国論』の草稿とみる説もあるが、いずれにしても思想的に関わりをもつものと考えられている。思想的には法華・真言未分であるが、日蓮の浄土教批判の初期的段階を代表するものといえ、また日蓮の独自な国家観・国土観を表明していることからも、日蓮教学上重要な位置を占めるものである。
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では、『仏教辞典』第二版(岩波書店)での解説を見てみましょう。

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『守護国家論』しゅごこっかろん
『立正安国論』と並ぶ日蓮初期の代表的著作。成立は1259年(正元1)、38歳のときと推定される。法華経を最高の教えとする立場から、その信仰を廃れさせる元凶として法然の『選択本願念仏集』がきびしく批判される。同じく法然排撃を主題としながらも、念仏流行がもたらす社会的な悪影響を説く『立正安国論』に対し、『守護国家論』の方は法華至上主義の立場からの教理的な批判という色彩が強い。法華と真言をともに正法とする法華真言未分の思想や、この現実世界こそが浄土であるという立場からの西方浄土=穢土論など、注目すべき主張がみられる。また、守護すべき「国家」を支配権力ではなく国土と人民の意味で用いるなど、従来の護国思想とは異なる地平を切り開いている。真筆本は身延山久遠寺にあったが、明治期に火災で焼失した。
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最後に『仏教哲学大辞典』第三版(創価学会)の解説を見てみましょう。

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しゅごこっかろん【守護国家論】
正元元年(一二五九年)日蓮大聖人が三十八歳の時に著された。当時の打ち続く災難の根源は法然の選択集による謗法にあると、念仏を徹底的に打ち破られている。本抄に「予此の事を歎く間・一巻の書を造つて選択集謗法の縁起を顕わし名づけて守護国家論と号す、願わくば一切の道俗一時の世事を止めて永劫の善苗を種えよ、今経論を以て邪正を直す信謗は仏説に任せ敢て自義を存する事無かれ」(三七ページ)と述べられている。
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一番丁寧に解説されているのは、『仏教辞典』第二版(岩波書店)ですね。

『日蓮辞典』(東京堂出版)は、立正大学、身延山大学の方が執筆されており、日蓮宗の立場からの辞典ですね。

また、『仏教哲学大辞典』第三版(創価学会)は、創価学会の立場からの辞典ですね。

日蓮を祖師と仰ぐ、日蓮宗、創価学会の辞典よりも、宗派性のない『仏教辞典』第二版(岩波書店)の方が「守護国家論」について、みっちりと解説されているというのは、興味深いですね。

確かに、『日蓮辞典』(東京堂出版)もしっかり「守護国家論」について解説していますが、やや説明を省略した感がありますね。

欲を言えば、もう一歩突っ込んだ解説があればよいと思います。

『仏教哲学大辞典』第三版(創価学会)は、「守護国家論」についての解説が貧弱ですね。

半分以上が「守護国家論」からの引用で占められており、辞典としての役割が果たされていませんね。

第四版の準備をされているかどうは分かりませんが、改訂版においては、「守護国家論」の解説を充実させてほしいところです。

その他の項目においては、丁寧な解説がなされているいい辞典ですので、「守護国家論」の解説の貧弱さが際立ってしまいます。

いずれにしても、「守護国家論」は、日蓮の著作の中で重要な書であることは間違いありません。

「守護国家論」は「立正安国論」と同じ主題でありながら、分量は、「立正安国論」の約2.5倍あり、こと細やかに論じられています。

「立正安国論」が北条時頼に提出するための書であったためか、修辞に凝り過ぎている感があります。

また、法然批判、念仏批判をしているとはいえ、明確に法華経に帰依せよとの文言はありません。

「法華涅槃の経教は一代五時の肝心なり其の禁実に重し誰か帰仰せざらんや」(『日蓮大聖人御書全集』 29頁)とは言っていますが、やや明確さに欠けます。

別のところでは、「実乗の一善に帰せよ」(同書 32頁)と言っており、「法華経に帰せよ」との表現になっていません。

まわりくどい感じがしますね。

「立正安国論」は、外堀を埋めた感じの書ですね。

それに比べ、「守護国家論」は、

「法華・涅槃を信ぜよ」(同書 45頁)、

「法華涅槃に随う可し」(同書同頁)、

「末代に於て真実の善知識有り所謂法華涅槃是なり」(同書 66頁)、

「在世滅後の一切衆生の誠の善知識は法華経是なり」(同書 68頁)

「法華経に於て十界互具・久遠実成を顕わし了んぬ故に涅槃経は法華経の為に流通と成るなり」(同書 74頁)

「法華涅槃に違する人師に於ては用うべからず」(同書 76頁)等々、

法華経が重要であることを明確に論じています。

内堀を埋め、本丸に突入している感じがします。

法華経を信仰する身としては、明確に法華経の信仰について論じてもらった方がすっきりします。

また、「法華経修行の者の所住の処を浄土と思う可し何ぞ煩しく他処を求めんや」(同書 72頁)と言っており、今、ここにおいて、しっかりと信仰をするよう促しています。

他のところに行けば何かいいことがあるのではないかというフワフワした感覚を一刀両断されています。

分量的にも、内容的にも、信仰的にも「守護国家論」は、法華経修行の者にとって重要な書ですね。

じっくりと研鑽していきたいものです。

その際、必読文献となるは、実は、法然の「選択本願念仏集」ですね。

日蓮が法然の「選択本願念仏集」のどこをどのように批判したかを確認する必要があります。

また、日蓮が法然をどのようにして超えようとしたかを追体験することによって、確固とした信仰者になるものと思われます。

ただ単に信仰していればよいという姿勢では、法華経・日蓮の奥深さを感じることはできません。

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2014年01月19日

『政治学事典』における「法華経」

『政治学事典』(弘文堂)で「法華経」の項目を確認してみましょう。

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▊法華経 [梵] Saddharma-puṇḍarīka-sūtra
『法華経』は、初期大乗経典の代表的なものであり、インドにおいて紀元前1世紀から紀元後2世紀頃までに成立したと推定される。『法華経』には3種の漢訳が現存するが、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳『妙法蓮華経』(406年訳)が最も流行した。

『法華経』方便品は、釈尊はすべての衆生を平等に成仏させるためにこの世に出現したことを明らかにする。そして、声聞、縁覚、菩薩という3種類の修行者のための3種類の教え(三乗)は方便の教えであり、真実には、一切衆生が平等に成仏できる唯一の仏乗があることを明らかにする。また、如来寿量品は、歴史に現われた釈尊は衆生を救済するために出現したものであり、その本質は永遠の存在であることを明らかにする。

なお、『法華経』の観世音菩薩普門品は、独立単行されて『観音経』と呼ばれ、東アジアの仏教圏で最も流行した経典となった。

日本における『法華経』と政治の関係について特筆すべき事象として、

(1)聖徳太子(574〜622)が『法華義疏』(ほっけぎしょ)を執筆したと伝えられること(真偽未決)、

(2)734年の11月の太政官符では、僧侶の資格として、『法華経』または『金光明最勝王経』の暗誦が義務づけられたこと、

(3)国分尼寺が「法華滅罪之寺」と呼ばれ、尼10名を置いて、『法華経』を読誦させ、滅罪懺悔(めつざいざんげ)を祈願させたこと、

(4)『法華経』に直接、護国の思想はないものの、『金光明最勝王経』『仁王護国般若波羅蜜経』とともに、護国三部経典の1つとして権威を与えられていったこと、

(5)聖武天皇以来、天皇や高位の貴族による『法華経』の写経、また彼らのための講経が盛んになったこと、

(6)最澄(767〜822)が『法華経』を中心として鎮護国家の仏教を確立したこと、

(7)日蓮(1222〜82)の『立正安国論』は、現実の世界に仏国土を建設することを目標としたこと、

(8)16世紀の京都において、日蓮宗が強大な勢力を持ち、一種の宗教王国を形成しつつあったが、それに危機感を抱いた比叡山の天台宗が日蓮宗に壊滅的打撃を与えたこと(天文法華の乱)、

(9)豊臣秀吉の主催する千僧供養に招待された日蓮宗の妙覚寺日奥は、信仰を異にする者からの布施は受けないとする宗教上の理由によって出席を拒否し、その後、不受不施派は禁教処分を受けたこと、

(10)戦後、法華系新宗教(創価学会・立正佼成会・霊友会)が強大な勢力を持ち、新政党を作ったり、既成政党の推薦母胎、支援団体となったりなどして、政治に一定の影響をあたえたこと

などが注目される。⦿菅野博史
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「法華経」も項目のひとつとして入れている『政治学事典』は、なかなかの優れた事典ですね。

まずは、方便品と如来寿量品との内容が説明されています。

なぜ、28品ある内の、方便品と如来寿量品なのか。

日蓮の著述を確認してみましょう。

「法華経は何れの品も先に申しつる様に愚かならねども殊に二十八品の中に勝れて・めでたきは方便品と寿量品にて侍り」(『日蓮大聖人御書全集』1201頁)

方便品は、迹門を代表する品であり、如来寿量品は、本門を代表する品ですね。

実際に法華経を通読すると分かりますが、内容の面で方便品と如来寿量品とは、傑出しています。

日蓮宗各派や各新宗教において、勤行を行いますが、方便品と如来寿量品とは必ず含まれていますね。

「法華経」の大枠を示した後は、政治との関わりについての説明があります。

日本の政治を考えたとき、仏教経典を抜きにして分析することは、画竜点睛を欠くといえるでしょう。

そのことから、『政治学事典』では、「法華経」を入れているわけですね。

「法華経」と政治との関係について、10個の項目が並んでいますが、改めて、見てみると、「法華経」がいかに日本の政治に深く関わっているかがよく分かります。

古代から現代に至るまで、日本は「法華経」とともにあったとことが窺われます。

他の経典も日本、また、日本人に多大な影響を与えてきましたが、「法華経」ほどの影響力のある経典はありません。

「法華経」の力強さを再認識した次第です。

当然のことながら、「法華経」ですから、日蓮が登場します。

また、新宗教も出てきます。

「法華経」は、日蓮と新宗教とを外しては論じられないようですね。

歴史に、「もし」はありませんが、もし、日蓮がいなかったら、我々と「法華経」との接点があったかどうか。

ない可能性が高いですね。

もし、新宗教がなかったら、我々は「法華経」と深く接することがあったかどうか。

ひとつの古典として「法華経」の名前を知っているだけで、勤行や読誦、研鑽というところまでには至らなかったでしょう。

やはり、日蓮と新宗教とが「法華経」を多くの人に届けたといえるでしょう。

ただ、「法華経」の可能性が十二分に開かれているかというと、まだまだという気がします。

まさに「法華経」は、これからの経典と思われます。

実際、日蓮宗各派や各新宗教の人々が「法華経」と接していますが、28品全部を読むというわけでもなく、読誦はしても意味を確認するということもない場合が多いですね。

「法華経」の一部分に接しているだけであり、内容を深めるという観点が薄いようです。

これでは、「法華経」の可能性が開かれるとは思われません。

字が読めない時代ではないわけですから、遠慮せず、どんどん「法華経」を読んでいただき、研鑽していただきたいと思います。

そして、「法華経」を自分のものにしていただきたいですね。

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posted by lawful at 17:19| 法華経並開結

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