信仰する上で、法、経典、教義に真理を求めるのが普通です。
しかし、宗教団体、つまり、教団に真理を求める人たちがいます。
どこそこの教団は間違っている、どこそこの教団は邪教団だとうるさいわけですが、各教団の特質、特徴を分析したところで、所詮は人間の集団ですから問題点ばかりでしょう。
それがどうしたというのでしょうか。
結局、自分が所属している教団が正しい、真理だと主張して一件落着となるようです。
そのような人々が法そのもの、経典そのもの、教義そのものについて、どれほど真剣に研鑽しているのでしょうか。
少なくとも、そのような人々の言説からすると、ほとんど研鑽していないですね。
彼ら彼女らにとって、教団の正統性を主張すれば事足り、肝心の法そのもの、経典そのもの、教義そのものはどうでもいいようです。
所謂、帰属意識が満足させられれば、それでよいみたいです。
要は、自分自身の自己満足が一番大切なようですね。
難しいこと、大変なこと、努力を要することは嫌なようです。
他の教団の欠点を数え上げることには、大した労力を要しません。
すべての人間はパーフェクトではないわけで、その人間の集団である教団もパーフェクトではありません。
教団の至らぬ点を見つけるのに苦労はしませんし、いくらでも見つけることができます。
このようなことは愚か者でもできることです。
賢者がすることではありません。
よって、教団同士で罵り合いをしている人たちは、愚か者ということになるのでしょう。
もちろん、賢者も各教団の問題点を知悉していますが、それをもって罵るという行動には至らないですね。
罵ることに意味がなく、価値がないからです。
つまり、罵るのではなく、相手にしないということです。
教団の問題点を明らかに見て、そして、相手にするほどのことか、それとも、相手にしなくてもよいほどのことかの判断をして、そして、相手にしないという流れになります。
教団は、利用すべきものであり、活用すべきものであって、信仰の対象ではありません。
教団に真理を求めても仕方がありません。
教団がどうあろうとも、自分自身の信仰が透徹していなければ、何にもなりません。
教団がいい教団であれば、自分もその恩恵に与れるという考えがあるのかもしれませんが、それは間違いでしょう。
教団が信者から寄付金を募って恩恵に浴しているというのが現状でしょう。
恩恵を受けているのは教団であって信者ではないということです。
教団に利用、活用されているようでは、愚か者の信者です。
教団を利用、活用するという姿勢でなければなりません。
その教団に利用できる点、活用できる点があれば、利用、活用すればよいだけです。
なければ、利用しないだけのことです。
愚か者の信者さんは、「教団利用だ。けしからん」などといいますが、利用価値のない教団に存在価値はありません。
教団としては、利用されたくないために、愚か者の信者に「教団を利用してはいけない」という訳のわからないことを言わせているのですね。
なかなか用意周到です。
いずれにしても、教団に重きをおくのではなく、法そのもの、経典そのもの、教義そのものに重きをおきたいものです。