「一流の作家なら誰でもいい、好きな作家でよい。あんまり多作の人は厄介だから、手頃なのを一人選べばよい。その人の全集を、日記や書簡の類に至るまで、隅から隅まで読んでみるのだ」(小林秀雄『読書について』中央公論新社 12頁)
私の場合、日蓮をその一人として選んでいます。
五大部、十大部等々の著作だけでなく、各門下、各檀那への消息(書簡)を含めたすべての日蓮の書を丹念に読んでいきたいものです。
「書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えて来るのには、相当な時間と努力とを必要とする。人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返す事、読書の技術というものも、其処以外にはない」(同書 13頁)
端的に「読書の技術」について述べられています。
書物が書物のままにしか見えない、つまり、文字にしか見えない段階では話にならないということですね。
書物から、この世の中を理解したり、さまざまな理論、思想、ものの考え方を理解したりすることも大切ですが、人間そのものを見出さない限り、読書にはなり得ないということでしょう。
日蓮も同じようなことを言っていますね。
「此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり」(『日蓮大聖人御書全集』1025頁)
ここでいう「此の経の文字」とは、法華経のことを言っているわけですが、法華経から釈尊、それも金色の釈尊を見てこそ、法華経を読んだことなり、自分自身の仏をも獲得できるということです。
とはいえ、書物から人間を見るということは、難事中の難事と思われます。
しかし、読書の醍醐味は、書物から人間を見ることですから、どうにかしたいものです。
小林秀雄氏が言うように、ある一人の全集を読むというのが、遠回りのようで近道でしょう。
みっちり読むということですね。
では、書物から人間が見えてどうなるのか、という問いがあるかもしれません。
小林秀雄氏の文章を確認して見ましょう。
「他人を直かに知る事こそ、実は、ほんとうに自分を知る事に他ならぬからである。人間は自分を知るのに、他人という鏡を持っているだけだ」(小林秀雄『読書について』中央公論新社 15頁)
結局は、自分を知るために読書をしているということですね。
そのためには、一流の人間の書物を読み、その書物からその一流の人間を見て、我が身を省みることです。
書を読むのであって、書に読まれてはいけません。
再び、小林秀雄氏の指摘を見てみましょう。
「自分の身に照らして書いてある思想を理解しようと努めるべきで、書いてある思想によって自分を失う事が、思想を学ぶ事ではない」(同書 53頁)
日蓮を読む場合でも、自分自身に引き付けながら日蓮の思想を理解することです。
日蓮の思想を単なる知識として振り回すのではなく、自分自身で消化することが大切です。
学生時代など、読んだ本に読まれてしまい、その本に書いていることをそのままなぞって話しているだけにもかかわらず、いい気になってしまうような読書では意味がないですね。
そうはいっても、学生時代に小林秀雄氏が指摘するような読書がすぐにできるわけではありません。
しかし、いい大人が学生気分の読書ではみっともないので、小林秀雄氏の指摘を肝に銘じておきたいですね。