2013年08月06日
日本語を愉しむ
「すべての本は特定の言語で書かれています。日本で出版される大部分の本の場合には、日本語です。本を沢山読むということは、日本語を沢山読むということであり、日本語による表現の多様性、その美しさと魅力を知るということでもあるでしょう。私は本を読んで日本語の文章を愉しんできました。それも読書の愉しみの一つです」(加藤周一『読書術』岩波現代文庫 218頁)
読書をするとなると、その本の内容を身に付けることが主眼となるでしょうが、もっと気楽に文章それ自体を愉しむという姿勢が大切ですね。
加藤周一氏が言うように日本人が日本で本を読む場合、ほとんど、その本は日本語で書かれた本です。
まさに、日本語を読むわけですが、その日本語の文章そのものを愉しむという観点は重要ですね。
つい、知識を身に付けようと必死になりがちですが、あまり、いきり立たず、気楽に読書を愉しみたいものです。
法華経を読んでいる場合、内容、法門を把握することも大切ですが、法華経の文章それ自体の美しさ豊潤さを愉しみながら読んでみますと、味わい深いものです。
また、日蓮の御書を読む場合も、内容、法門の把握をするにしても、それだけでなく、日蓮の文章そのものを愉しみ、日蓮その人とじかに触れ合っているという感覚で読み進めますと、これまた、今までと違った感覚で愉しく読み進めていくことができます。
読書といえば、その本の内容を身に付けるという側面だけで考えていたように思いますが、それだけではなく、文章そのものを愉しむ、日本語の文章そのものを愉しむという次元に至らないと読書の妙味は感じられませんね。
読書をするとなると、その本の内容を身に付けることが主眼となるでしょうが、もっと気楽に文章それ自体を愉しむという姿勢が大切ですね。
加藤周一氏が言うように日本人が日本で本を読む場合、ほとんど、その本は日本語で書かれた本です。
まさに、日本語を読むわけですが、その日本語の文章そのものを愉しむという観点は重要ですね。
つい、知識を身に付けようと必死になりがちですが、あまり、いきり立たず、気楽に読書を愉しみたいものです。
法華経を読んでいる場合、内容、法門を把握することも大切ですが、法華経の文章それ自体の美しさ豊潤さを愉しみながら読んでみますと、味わい深いものです。
また、日蓮の御書を読む場合も、内容、法門の把握をするにしても、それだけでなく、日蓮の文章そのものを愉しみ、日蓮その人とじかに触れ合っているという感覚で読み進めますと、これまた、今までと違った感覚で愉しく読み進めていくことができます。
読書といえば、その本の内容を身に付けるという側面だけで考えていたように思いますが、それだけではなく、文章そのものを愉しむ、日本語の文章そのものを愉しむという次元に至らないと読書の妙味は感じられませんね。
2013年07月22日
脳のしくみを利用する
「まず、ちょっとだけガマンして、5分間だけ集中してやってみることです。たった5分間だけ、ガマンして勉強や仕事を続けてみましょう。そうすると、脳は勝手に勉強モードや仕事モードに入ってくれて、そのまま30分でも1時間でも勉強や仕事を続けていくことができるのです」(中野信子『世界で通用する人がいつもやっていること』アスコム 31頁)
勉強しなければならない、仕事をしなければならない状況であっても、何となくやる気がなくダラダラと何もしないことがあるものですが、たった5分間、とにかくやってみるということが大切みたいですね。
とりあえず、やってみるという軽い感覚でよいのでしょう。
あまり、力が入りすぎると、逆にやることができなくなる懸念があります。
何となく何もしないのではなく、何となく気楽にやってみるというのがいいかもしれませんね。
時間は、5分間ですから短いといえば短いですね。
そうすると、何となくやっているうちに、脳が勝手にやるモードになってくれるというのですから、いい方法です。
確かに、読書においても、何となく開いた本を何となく読み進めていくうちに、いつの間にか集中しており、1時間ぐらい経っていたということがあります。
片づけの時に出てきた書類を何気なく読んでいる中に、30分、1時間が経ってしまい、書類を集中して読むことはできても、片付けが全く進まないといったこともよく経験することです。
とりあえず、まずは、何となく読むというのがいいのかもしれません。
力み過ぎることなく、肩の力を抜いたときの方が集中できるようですね。
力が入りすぎると集中に差し障りがあるようです。
まずは5分間、たった5分間、何かをすることで脳が勝手にやるモードになるということを、とにかく、利用することですね。
勉強しなければならない、仕事をしなければならない状況であっても、何となくやる気がなくダラダラと何もしないことがあるものですが、たった5分間、とにかくやってみるということが大切みたいですね。
とりあえず、やってみるという軽い感覚でよいのでしょう。
あまり、力が入りすぎると、逆にやることができなくなる懸念があります。
何となく何もしないのではなく、何となく気楽にやってみるというのがいいかもしれませんね。
時間は、5分間ですから短いといえば短いですね。
そうすると、何となくやっているうちに、脳が勝手にやるモードになってくれるというのですから、いい方法です。
確かに、読書においても、何となく開いた本を何となく読み進めていくうちに、いつの間にか集中しており、1時間ぐらい経っていたということがあります。
片づけの時に出てきた書類を何気なく読んでいる中に、30分、1時間が経ってしまい、書類を集中して読むことはできても、片付けが全く進まないといったこともよく経験することです。
とりあえず、まずは、何となく読むというのがいいのかもしれません。
力み過ぎることなく、肩の力を抜いたときの方が集中できるようですね。
力が入りすぎると集中に差し障りがあるようです。
まずは5分間、たった5分間、何かをすることで脳が勝手にやるモードになるということを、とにかく、利用することですね。
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2013年07月07日
幸福になる人は、はじめから決まっているのか?
「努力しようとする意欲、挑戦する意欲、さらに(普通の意味での)功績や資格を手に入れようとする意欲といったものでさえ、幸福な家庭と社会的情況とによって決まってしまう」(ジョン・ロールズ『正義論』改訂版 川本隆史ほか訳 紀伊国屋書店 100頁)
よく、「やればできる」という言葉を聞くことがあります。
確かに、やればできますから、この言葉は正しいといえるでしょう。
「やればできる」という言葉は、ただ単に事実を述べているだけの言葉ですね。
努力すれば努力したなりの結果が出るものです。
ここには何らの問題点もありません。
問題なのは、やろうとしても、なかなかできないというところにあります。
つまり、努力できるかどうかが大きな問題ということですね。
なぜ、やろうとしてもできないのか。
なぜ、努力しようとしても努力できないのか。
もっと言えば、そもそも、努力する人と努力しようとしない人との違いは何なのか。
ジョン・ロールズの言葉を借りれば、幸福な家庭に恵まれているかいないかの違いといえそうです。
幸福な家庭に恵まれる人は努力して、より一層、幸福になる。
幸福な家庭に恵まれていない人は、努力しないので、より一層、不幸になる。
簡単に言えばこういうことでしょう。
身も蓋もありませんが、世の中を少しく観察しただけでも、この現実を確認することができます。
その通り、その通り、といった感じですね。
1 努力しようとする意欲
2 挑戦する意欲
3 功績や資格を手に入れようとする意欲
上記3つの意欲は、幸福な家庭に恵まれた人に備わるのであって、不幸な家庭で育つと努力しようとする意欲そのものが備わらないということは、恐ろしい現実のように感じられます。
幸不幸は、最初から決まっているといってもよく、厳しい現実が見て取れます。
「人が意欲的になす努力は当人の生得的能力および技能と当人が手にしている選択肢とによって影響されるということが、ここでも明らかだろう。才能や資質において恵まれた人びとが他の条件が同じであれば良心的に努力する可能性は高いだろうし、また彼らのより大きな幸福に関して割り引く方法が皆無であるように思われる」(同書 415頁)
人が意欲的になす努力には、以下の3つの条件が必要なようです。
1 当人の生得的能力
2 当人の技能
3 当人が手にしている選択肢
まず、元々持っている能力が大切なようですね。
そして、その人が持っている技能が大切ということです。
それだけでなく、「当人が手にしている選択肢」ということですから、さまざまな生き方を選ぶことができる、つまりは、恵まれた家庭、恵まれた環境が大切ということですね。
能力、技能があって、恵まれた家庭環境にある人は、意欲的に努力する傾向があるということです。
逆に言うと、能力がなく、技能がなく、恵まれない家庭環境にある人は、そもそも、意欲的に努力する傾向がないということになりますね。
幸福になる人は、はじめから決まっているといえそうですね。
はじめから幸福な人はいいですが、そうでない人がほとんどでしょうから、このような現実を直視しながらも、どうにかできないものかと考える必要があります。
先にあげた、
1 当人の生得的能力
2 当人の技能
3 当人が手にしている選択肢
を持っている人は、極めて少数であることは確かですが、自分自身にこの3つの条件が本来的にはあるのだけれども、たまたま表に出ていないだけと考える方法があります。
つまり、これからが本番であるという考え方ですね。
元々、意欲的に努力することができる人間であり、これから、それを実現していくという生き方ですね。
過去ではなく、現在を生き、未来に向かって自身の可能性を開くという人生ですね。
確かに、幸福でない家庭で育った過去があるかもしれませんが、その現実はしっかりと受け止めながらも、現在、未来に向けて、いままで表に現れてこなかった幸福を開くという心構えで生きていくことが大切であるように思います。
意欲的に努力する生命を自らの内から汲み出しいくことが肝要ですね。
意欲的に努力する生命が出てくれば、「やればできる」という通り、やるわけですから、できるわけです。
その人に応じた幸福が目の前に現れるということですね。
もっといえば、どんな困難があろうとも、意欲的に努力する生命が放出されている限り、その人は、もう幸福といえるでしょう。
よく、「やればできる」という言葉を聞くことがあります。
確かに、やればできますから、この言葉は正しいといえるでしょう。
「やればできる」という言葉は、ただ単に事実を述べているだけの言葉ですね。
努力すれば努力したなりの結果が出るものです。
ここには何らの問題点もありません。
問題なのは、やろうとしても、なかなかできないというところにあります。
つまり、努力できるかどうかが大きな問題ということですね。
なぜ、やろうとしてもできないのか。
なぜ、努力しようとしても努力できないのか。
もっと言えば、そもそも、努力する人と努力しようとしない人との違いは何なのか。
ジョン・ロールズの言葉を借りれば、幸福な家庭に恵まれているかいないかの違いといえそうです。
幸福な家庭に恵まれる人は努力して、より一層、幸福になる。
幸福な家庭に恵まれていない人は、努力しないので、より一層、不幸になる。
簡単に言えばこういうことでしょう。
身も蓋もありませんが、世の中を少しく観察しただけでも、この現実を確認することができます。
その通り、その通り、といった感じですね。
1 努力しようとする意欲
2 挑戦する意欲
3 功績や資格を手に入れようとする意欲
上記3つの意欲は、幸福な家庭に恵まれた人に備わるのであって、不幸な家庭で育つと努力しようとする意欲そのものが備わらないということは、恐ろしい現実のように感じられます。
幸不幸は、最初から決まっているといってもよく、厳しい現実が見て取れます。
「人が意欲的になす努力は当人の生得的能力および技能と当人が手にしている選択肢とによって影響されるということが、ここでも明らかだろう。才能や資質において恵まれた人びとが他の条件が同じであれば良心的に努力する可能性は高いだろうし、また彼らのより大きな幸福に関して割り引く方法が皆無であるように思われる」(同書 415頁)
人が意欲的になす努力には、以下の3つの条件が必要なようです。
1 当人の生得的能力
2 当人の技能
3 当人が手にしている選択肢
まず、元々持っている能力が大切なようですね。
そして、その人が持っている技能が大切ということです。
それだけでなく、「当人が手にしている選択肢」ということですから、さまざまな生き方を選ぶことができる、つまりは、恵まれた家庭、恵まれた環境が大切ということですね。
能力、技能があって、恵まれた家庭環境にある人は、意欲的に努力する傾向があるということです。
逆に言うと、能力がなく、技能がなく、恵まれない家庭環境にある人は、そもそも、意欲的に努力する傾向がないということになりますね。
幸福になる人は、はじめから決まっているといえそうですね。
はじめから幸福な人はいいですが、そうでない人がほとんどでしょうから、このような現実を直視しながらも、どうにかできないものかと考える必要があります。
先にあげた、
1 当人の生得的能力
2 当人の技能
3 当人が手にしている選択肢
を持っている人は、極めて少数であることは確かですが、自分自身にこの3つの条件が本来的にはあるのだけれども、たまたま表に出ていないだけと考える方法があります。
つまり、これからが本番であるという考え方ですね。
元々、意欲的に努力することができる人間であり、これから、それを実現していくという生き方ですね。
過去ではなく、現在を生き、未来に向かって自身の可能性を開くという人生ですね。
確かに、幸福でない家庭で育った過去があるかもしれませんが、その現実はしっかりと受け止めながらも、現在、未来に向けて、いままで表に現れてこなかった幸福を開くという心構えで生きていくことが大切であるように思います。
意欲的に努力する生命を自らの内から汲み出しいくことが肝要ですね。
意欲的に努力する生命が出てくれば、「やればできる」という通り、やるわけですから、できるわけです。
その人に応じた幸福が目の前に現れるということですね。
もっといえば、どんな困難があろうとも、意欲的に努力する生命が放出されている限り、その人は、もう幸福といえるでしょう。
2013年07月06日
日蓮を支える人々
「曼荼羅本尊だけでなく、他の書状等に用いられた料紙が、ごく精密に調整されているのを見ると、いわば紙の扱いに長じた技術僧が、身延山の僧団のなかにいたに違いない」(『日蓮 久遠のいのち』平凡社 104頁)
日蓮は、曼荼羅本尊を多く残し、また、数々の書状を門下に与えています。紙の量は相当なものになります。
日蓮の執筆活動において、紙を準備する人々が大きな役割を担っていたと考えてよいでしょう。
法を広げようとしても、いくら聖人ほどの人であっても、人間一人の力は知れており、支える人々がいなければ、法は広がりません。
執筆活動を重要な活動としていた日蓮にとって、紙を精密に調整する人々の存在は大きかったといえます。
書くべき内容を持っていても、紙がなければどうしようもありません。
現在と違って簡単に良質な紙が手に入る時代ではありませんから、然るべき調整ができる人々がいなければなりません。
日蓮の周りには、紙を調整することができる人々がいたわけですから、現在に至るまで、日蓮の仏法は生き続けています。
日蓮に感謝すると共に、歴史に名前は残っていませんが、日蓮の曼荼羅本尊、書状のための紙を準備した人々にも感謝したいと思います。
偉大な人物の周りには、その偉大な人物を支えた多くの無名の人々がいることに思いを馳せながら、偉大な人物の残した法を大切にしたいと思います。
日蓮は、曼荼羅本尊を多く残し、また、数々の書状を門下に与えています。紙の量は相当なものになります。
日蓮の執筆活動において、紙を準備する人々が大きな役割を担っていたと考えてよいでしょう。
法を広げようとしても、いくら聖人ほどの人であっても、人間一人の力は知れており、支える人々がいなければ、法は広がりません。
執筆活動を重要な活動としていた日蓮にとって、紙を精密に調整する人々の存在は大きかったといえます。
書くべき内容を持っていても、紙がなければどうしようもありません。
現在と違って簡単に良質な紙が手に入る時代ではありませんから、然るべき調整ができる人々がいなければなりません。
日蓮の周りには、紙を調整することができる人々がいたわけですから、現在に至るまで、日蓮の仏法は生き続けています。
日蓮に感謝すると共に、歴史に名前は残っていませんが、日蓮の曼荼羅本尊、書状のための紙を準備した人々にも感謝したいと思います。
偉大な人物の周りには、その偉大な人物を支えた多くの無名の人々がいることに思いを馳せながら、偉大な人物の残した法を大切にしたいと思います。
2013年06月16日
『脳科学からみた「祈り」』を読む
「信仰」や「祈り」は、宗教的な事柄であるために、神秘的なこととして考えられることが多いようです。
確かに、神秘的な側面が強いですが、違う側面から見てみることも重要でしょう。
脳科学といった分野から、「信仰」「祈り」を再認識することは、興味深いことと思われます。
「信仰者にとって、祈るための時間は、本来なら一日のうちで最も厳粛で大切なひとときであることでしょう。にもかかわらず、「ルーティン化」という脳の性質によって、祈りの時間が「惰性で行う、ただの習慣」に堕してしまいがちなのです。そして、歯磨きのようなたんなる習慣になってしまった祈りは、たいした変化を脳に及ぼすこともなく、願いも漫然として、「叶う」という状態からは程遠くなってしまうのではないでしょうか」(中野信子『脳科学からみた「祈り」』潮出版社 61頁〜62頁)
信仰をはじめた時は、新鮮な気持ちで「祈り」がなされるでしょうが、慣れてくると新鮮さがなくなり、ダラダラした「祈り」になるようです。
こうなってしまうのは、脳の性質のようですね。「ルーティン化」する性質が関係しているようです。
そうなってしまうものと考えておけばよいですね。
脳の性質がそうであるからといって、惰性で叶いもしない祈りをしても仕方がありませんから、脳の性質を理解した上で、さまざまな工夫をしなければなりません。
とりあえず信仰しておけばよいというものではありませんね。
何かにつけて工夫もなく「信心、信心」といっている単なる信仰は、信仰ですらなくなるということですね。
日々、新しいものを取り入れるという姿勢で「信仰」「祈り」を行うべきでしょう。
変化がないと脳は反応しないようですから、時折、自分の「信仰」「祈り」を見つめ直すという癖をつけておきたいですね。
自分自身の「信仰」「祈り」が惰性になっていないかどうか、単なる習慣になっていないかどうか、どこに変化を入れればよいかどうか等々、自分で練り直しをするしかないですね。
「信仰」「祈り」をすることによって、境涯が上がっていくという側面がありますが、そもそも、「信仰」「祈り」をする前の境涯が決定的に重要ですね。
どうにか、惰性の「祈り」を脱し、然るべき「祈り」を為すことができれば、然るべき宗教的境地が得られます。
この宗教的な境地について、アメリカの大学で研究があったようですね。
「ペンシルベニア大のアンドリュー・ニューバーグのグループの研究に、「仏教徒が瞑想や祈りの行為によって深い宗教的境地に達する前後で、どのように脳の働きが違うのか」を調べた実験があります。
実験では、被験者の脳の「方向定位連合野」という部分の活動が抑えられることがわかりました。方向定位連合野は「自分」と「他者」の境界を認識する部分です。
興味深いことに、この宗教的境地について、被験者は「自己と他者の境界がなくなるような感覚」であることを実際に報告しています。具体的には「自分が孤立したものではなく、万物と分かちがたく結ばれている直感」「時間を超越し、無限がひらけてくるような感じ」という表現で、その感覚の説明を試みています」(同書 73頁〜74頁)
まさに法華経的な境地ですね。
繋がっている感覚、包まれている感覚、広がっていく感覚、一体感といったものがあるようです。
法華経は、宇宙大の広がりを感じさせる経典であり、広がりを強調しながら、分断ではなく、結合を志向しているようです。
法華経を読むと分かりますが、時間にしても空間にしても膨大な単位の数字を出し、結局、数えることが不可能であることを表現しています。
時間といっても、始まりもなければ終わりもないという永遠性で表現し、空間といっても、果てがない、突き当りがない、どこまでも広がっていくような感じで表現しています。
法華経は、区切りや分断を拒否しているかのようです。
自他との境がなく、自分という存在は、有情である他者と繋がっているだけでなく、世界、宇宙という非情とも繋がっていることを目指しているようです。
よって、法華経を信仰する人は、このような法華経的感覚を感じ取るのでしょうね。
妙楽大師の言葉に「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」という言葉がありますが、この言葉など、自分が宇宙大の広がりの中で存在していることを適切に表現しています。
また、「祈り」といっても、何を祈るの?というところが重要でしょう。
何を祈っているかでその人の境涯が分かるわけですが、何に注目しているかどうかは、「運」とも関係しているようです。
「京都大学の藤井聡教授が、心理学的アプローチから「運」の正体に迫った「他人に配慮できる人は運がよい」という論文を発表しました。これは、「認知的焦点化理論」というものを用いた研究です。
「認知的焦点化理論」とは、かんたんに言えば、「人が心の奥底で何に焦点を当てているか?」によって、その人の運のよし悪しまでが決まってくる、という考え方です。
藤井教授の研究で、「利己的な傾向を持つ人々の方が、そうでない人々よりも、主観的な幸福感が低い」ということが明らかになりました。利己的な人ほど、自分は幸福ではないと思ったり、周囲の人々に比べて不幸だと思う傾向が強い、という結果が示されたのです」(同書 93頁〜94頁)
先程、触れたように、自分と他者とが繋がっているとの感覚、世界、宇宙との一体感という観点からすれば、利己的という態度は、ありえない態度といえるでしょう。
なぜ、区切りを設け、分断して、そして、自分だけ良ければよいと考えるのか。
法華経の次元からすると不可思議に思えますね。
利己的で自分だけ良ければよいと考え、その通り行動し、それなりに幸福感を得れば、それはそれでいいのでしょうが、実際の研究では、幸福感が低く、それだけでなく、不幸感が強いということです。
やはり、この世の中は法華経が説くような世の中であり、法華経通りでない場合、それなりの境涯になってしまうようですね。
法華経を何度も確認しながら、法華経通りの所作をもって、「運」のある人生を生きていきたいものですね。
確かに、神秘的な側面が強いですが、違う側面から見てみることも重要でしょう。
脳科学といった分野から、「信仰」「祈り」を再認識することは、興味深いことと思われます。
「信仰者にとって、祈るための時間は、本来なら一日のうちで最も厳粛で大切なひとときであることでしょう。にもかかわらず、「ルーティン化」という脳の性質によって、祈りの時間が「惰性で行う、ただの習慣」に堕してしまいがちなのです。そして、歯磨きのようなたんなる習慣になってしまった祈りは、たいした変化を脳に及ぼすこともなく、願いも漫然として、「叶う」という状態からは程遠くなってしまうのではないでしょうか」(中野信子『脳科学からみた「祈り」』潮出版社 61頁〜62頁)
信仰をはじめた時は、新鮮な気持ちで「祈り」がなされるでしょうが、慣れてくると新鮮さがなくなり、ダラダラした「祈り」になるようです。
こうなってしまうのは、脳の性質のようですね。「ルーティン化」する性質が関係しているようです。
そうなってしまうものと考えておけばよいですね。
脳の性質がそうであるからといって、惰性で叶いもしない祈りをしても仕方がありませんから、脳の性質を理解した上で、さまざまな工夫をしなければなりません。
とりあえず信仰しておけばよいというものではありませんね。
何かにつけて工夫もなく「信心、信心」といっている単なる信仰は、信仰ですらなくなるということですね。
日々、新しいものを取り入れるという姿勢で「信仰」「祈り」を行うべきでしょう。
変化がないと脳は反応しないようですから、時折、自分の「信仰」「祈り」を見つめ直すという癖をつけておきたいですね。
自分自身の「信仰」「祈り」が惰性になっていないかどうか、単なる習慣になっていないかどうか、どこに変化を入れればよいかどうか等々、自分で練り直しをするしかないですね。
「信仰」「祈り」をすることによって、境涯が上がっていくという側面がありますが、そもそも、「信仰」「祈り」をする前の境涯が決定的に重要ですね。
どうにか、惰性の「祈り」を脱し、然るべき「祈り」を為すことができれば、然るべき宗教的境地が得られます。
この宗教的な境地について、アメリカの大学で研究があったようですね。
「ペンシルベニア大のアンドリュー・ニューバーグのグループの研究に、「仏教徒が瞑想や祈りの行為によって深い宗教的境地に達する前後で、どのように脳の働きが違うのか」を調べた実験があります。
実験では、被験者の脳の「方向定位連合野」という部分の活動が抑えられることがわかりました。方向定位連合野は「自分」と「他者」の境界を認識する部分です。
興味深いことに、この宗教的境地について、被験者は「自己と他者の境界がなくなるような感覚」であることを実際に報告しています。具体的には「自分が孤立したものではなく、万物と分かちがたく結ばれている直感」「時間を超越し、無限がひらけてくるような感じ」という表現で、その感覚の説明を試みています」(同書 73頁〜74頁)
まさに法華経的な境地ですね。
繋がっている感覚、包まれている感覚、広がっていく感覚、一体感といったものがあるようです。
法華経は、宇宙大の広がりを感じさせる経典であり、広がりを強調しながら、分断ではなく、結合を志向しているようです。
法華経を読むと分かりますが、時間にしても空間にしても膨大な単位の数字を出し、結局、数えることが不可能であることを表現しています。
時間といっても、始まりもなければ終わりもないという永遠性で表現し、空間といっても、果てがない、突き当りがない、どこまでも広がっていくような感じで表現しています。
法華経は、区切りや分断を拒否しているかのようです。
自他との境がなく、自分という存在は、有情である他者と繋がっているだけでなく、世界、宇宙という非情とも繋がっていることを目指しているようです。
よって、法華経を信仰する人は、このような法華経的感覚を感じ取るのでしょうね。
妙楽大師の言葉に「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」という言葉がありますが、この言葉など、自分が宇宙大の広がりの中で存在していることを適切に表現しています。
また、「祈り」といっても、何を祈るの?というところが重要でしょう。
何を祈っているかでその人の境涯が分かるわけですが、何に注目しているかどうかは、「運」とも関係しているようです。
「京都大学の藤井聡教授が、心理学的アプローチから「運」の正体に迫った「他人に配慮できる人は運がよい」という論文を発表しました。これは、「認知的焦点化理論」というものを用いた研究です。
「認知的焦点化理論」とは、かんたんに言えば、「人が心の奥底で何に焦点を当てているか?」によって、その人の運のよし悪しまでが決まってくる、という考え方です。
藤井教授の研究で、「利己的な傾向を持つ人々の方が、そうでない人々よりも、主観的な幸福感が低い」ということが明らかになりました。利己的な人ほど、自分は幸福ではないと思ったり、周囲の人々に比べて不幸だと思う傾向が強い、という結果が示されたのです」(同書 93頁〜94頁)
先程、触れたように、自分と他者とが繋がっているとの感覚、世界、宇宙との一体感という観点からすれば、利己的という態度は、ありえない態度といえるでしょう。
なぜ、区切りを設け、分断して、そして、自分だけ良ければよいと考えるのか。
法華経の次元からすると不可思議に思えますね。
利己的で自分だけ良ければよいと考え、その通り行動し、それなりに幸福感を得れば、それはそれでいいのでしょうが、実際の研究では、幸福感が低く、それだけでなく、不幸感が強いということです。
やはり、この世の中は法華経が説くような世の中であり、法華経通りでない場合、それなりの境涯になってしまうようですね。
法華経を何度も確認しながら、法華経通りの所作をもって、「運」のある人生を生きていきたいものですね。
能「隅田川」
能の名作のひとつである「隅田川」の詞章は、素晴らしいものです。
作者は、観世元雅ということですが、なかなかの人物ですね。
他の能の詞章の場合、ものによっては、くどく感じられるものもありますが、「隅田川」の詞章には、全くの無駄がなく、くどさなどありません。
何度、読んでも、また、音読しても心地よいという特徴がありますね。
内容も、『伊勢物語』を土台にしているだけあって、雅な感じ、麗しい感じがあります。
文学的にも優れた詞章といえるでしょう。
『伊勢物語』第九段に出てくる業平の和歌を引用していますが、趣のある和歌ですね。
シテは、物狂ですが、今の言葉の感覚では、病気なのかと思ってしまいますけれども、病気とは関係がないようですね。
「物狂はすでにふれたように病気ではありませんが、ある一つのことを思いつめて他を省みない。精神が異常に集中している状態です」(渡辺保『能ナビ』マガジンハウス 161頁)
一点集中の状態が、物狂というわけですね。
「物狂は病気ではないことはすでにふれた通りですが、それは物に狂うさまを見せる芸でもありました。物狂がなにかに集中するように、芸もまたなにかにとりつかれている状態でもあるからです」(同書 162頁)
また、物狂が芸でもあったということですね。
「隅田川」の詞章で気になるところをあげてみましょう。
もとよりも、契り仮なる一つ世の、契り仮なる一つ世の、そのうちをだに添ひもせで
親子の縁というものは、その時かぎりの、現世かぎりのものである、と謡っています。
その一回かぎりの親子の縁ですら、一緒にいられないとは、何と悲しいことよ、と謡い、悲しさがよく表れています。
「子を失った母の悲しみは他人にははかり知れない、そのはかり知ることができない深さを、能はきわめて鮮明に描いていることです。その目に見えない心の絶叫は抑えに抑えた表現によってかえって鮮明になるのです」(同書 165頁)
仰々しくないところが能の良さであろうと思います。
しかし、現今の能は、江戸時代からの伝統を引き継いでいるようで、謡いそのものが、あまりにもゆっくりです。
観阿弥、世阿弥、観世元雅の室町時代の頃の謡のスピードは、現在の半分程度であったようです。
「能は信光の出た十六世紀前半を過ぎると、ほとんど新作は生まれなくなり、もっぱら芸の練磨伝承、芸統の保存という面に傾くようになった。江戸時代に入るとこの傾向は一層強く、式楽化されて荘重を旨とするようになったため、上演時間も当初の倍ぐらいに延びた。現在の能もその延長上にある」(河竹登志夫『演劇概論』東京大学出版会 203頁)
例えば、狂言が現在のスピードの二倍に延びてしまったら、面白くもなんともないでしょう。
なぜ、ゆっくり過ぎる演じ方になるのかといぶかしく感じられるでしょう。
現在の「隅田川」の上演時間は約80分ですが、詞章の分量からすれば、半分の約40分が妥当のような気がします。
そうしますと、いい意味での緊張感も出るように思います。
江戸時代からの伝統ではなく、室町時代からの伝統を大事にしてもらいたいと思いますね。
正直なところ、眠たくなるだけです。
せっかく素晴らしい詞章があるわけですから、その素晴らしさを引き出すべきでしょう。
あまりにもゆっくり過ぎる謡いは素晴らしい詞章を壊す所作と思いますね。
狂言で演じられているスピードを参考にすべきでしょうね。
狂言は、ゆっくりとはいえ、程よい感じのスピードであり、絶妙な演じ方といえるでしょう。
その上で、世阿弥、観世元雅の芸論に基づき、素晴らしい能を見せていただきたいものです。
「世阿弥は、能を本来現実では見ることができないもの、見えないものを見るものだと考えていた。梅若丸の亡霊はもとより芸そのものまで。能は目だけではなく精神の見るもの、そう思っていた。だから声だけの方がいいのです。
しかし元雅はそうは思わなかった。世阿弥のいうとおり、能は見えないものを見せるものに違いないとしても、それを形にしてみせることこそ能の本質だと思っていたのでしょう。そこにこそ、奇蹟が現実になる瞬間の面白さがある」(渡辺保『能ナビ』マガジンハウス 171頁〜172頁)
とはいえ、いつまでもゆっくり過ぎる謡いによる能を見せられることになるでしょうね。
新しい人が出てこない限り、変化はないでしょう。
能の翻案といった演劇もひとつの可能性として考えられるでしょう。
歌舞伎にその一端が感じられますが、やはり、歌舞伎は歌舞伎であり、翻案というよりも、違う作品になっていますね。
能の詞章を活かす演劇が出てきてもよいように思います。
作者は、観世元雅ということですが、なかなかの人物ですね。
他の能の詞章の場合、ものによっては、くどく感じられるものもありますが、「隅田川」の詞章には、全くの無駄がなく、くどさなどありません。
何度、読んでも、また、音読しても心地よいという特徴がありますね。
内容も、『伊勢物語』を土台にしているだけあって、雅な感じ、麗しい感じがあります。
文学的にも優れた詞章といえるでしょう。
『伊勢物語』第九段に出てくる業平の和歌を引用していますが、趣のある和歌ですね。
名にし負はば、いざ言問はん都鳥、我が思ふ人はありやなしやと
シテは、物狂ですが、今の言葉の感覚では、病気なのかと思ってしまいますけれども、病気とは関係がないようですね。
「物狂はすでにふれたように病気ではありませんが、ある一つのことを思いつめて他を省みない。精神が異常に集中している状態です」(渡辺保『能ナビ』マガジンハウス 161頁)
一点集中の状態が、物狂というわけですね。
「物狂は病気ではないことはすでにふれた通りですが、それは物に狂うさまを見せる芸でもありました。物狂がなにかに集中するように、芸もまたなにかにとりつかれている状態でもあるからです」(同書 162頁)
また、物狂が芸でもあったということですね。
「隅田川」の詞章で気になるところをあげてみましょう。
もとよりも、契り仮なる一つ世の、契り仮なる一つ世の、そのうちをだに添ひもせで
親子の縁というものは、その時かぎりの、現世かぎりのものである、と謡っています。
その一回かぎりの親子の縁ですら、一緒にいられないとは、何と悲しいことよ、と謡い、悲しさがよく表れています。
「子を失った母の悲しみは他人にははかり知れない、そのはかり知ることができない深さを、能はきわめて鮮明に描いていることです。その目に見えない心の絶叫は抑えに抑えた表現によってかえって鮮明になるのです」(同書 165頁)
仰々しくないところが能の良さであろうと思います。
しかし、現今の能は、江戸時代からの伝統を引き継いでいるようで、謡いそのものが、あまりにもゆっくりです。
観阿弥、世阿弥、観世元雅の室町時代の頃の謡のスピードは、現在の半分程度であったようです。
「能は信光の出た十六世紀前半を過ぎると、ほとんど新作は生まれなくなり、もっぱら芸の練磨伝承、芸統の保存という面に傾くようになった。江戸時代に入るとこの傾向は一層強く、式楽化されて荘重を旨とするようになったため、上演時間も当初の倍ぐらいに延びた。現在の能もその延長上にある」(河竹登志夫『演劇概論』東京大学出版会 203頁)
例えば、狂言が現在のスピードの二倍に延びてしまったら、面白くもなんともないでしょう。
なぜ、ゆっくり過ぎる演じ方になるのかといぶかしく感じられるでしょう。
現在の「隅田川」の上演時間は約80分ですが、詞章の分量からすれば、半分の約40分が妥当のような気がします。
そうしますと、いい意味での緊張感も出るように思います。
江戸時代からの伝統ではなく、室町時代からの伝統を大事にしてもらいたいと思いますね。
正直なところ、眠たくなるだけです。
せっかく素晴らしい詞章があるわけですから、その素晴らしさを引き出すべきでしょう。
あまりにもゆっくり過ぎる謡いは素晴らしい詞章を壊す所作と思いますね。
狂言で演じられているスピードを参考にすべきでしょうね。
狂言は、ゆっくりとはいえ、程よい感じのスピードであり、絶妙な演じ方といえるでしょう。
その上で、世阿弥、観世元雅の芸論に基づき、素晴らしい能を見せていただきたいものです。
「世阿弥は、能を本来現実では見ることができないもの、見えないものを見るものだと考えていた。梅若丸の亡霊はもとより芸そのものまで。能は目だけではなく精神の見るもの、そう思っていた。だから声だけの方がいいのです。
しかし元雅はそうは思わなかった。世阿弥のいうとおり、能は見えないものを見せるものに違いないとしても、それを形にしてみせることこそ能の本質だと思っていたのでしょう。そこにこそ、奇蹟が現実になる瞬間の面白さがある」(渡辺保『能ナビ』マガジンハウス 171頁〜172頁)
とはいえ、いつまでもゆっくり過ぎる謡いによる能を見せられることになるでしょうね。
新しい人が出てこない限り、変化はないでしょう。
能の翻案といった演劇もひとつの可能性として考えられるでしょう。
歌舞伎にその一端が感じられますが、やはり、歌舞伎は歌舞伎であり、翻案というよりも、違う作品になっていますね。
能の詞章を活かす演劇が出てきてもよいように思います。
2013年05月15日
お金の法則
スージー・オーマン『幸せになれる人バカな人生を送る人のお金の法則』エレファントパブリッシング にお金の法則が5つ挙げられていました。確認してみましょう。
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・
1 お金は真実から生まれ、ウソで失われる
2 過去ではなく、現状に目を向けなさい
3 お金にとって正しいことをする前に、自分にとって正しいことをしなさい
4 不確実なものに投資する前に、確実に必要となるものにお金を使いなさい
5 お金はそれだけでは何の力も持たない
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・
お金に関する哲学が示されていますね。
どの法則も無理がなく常識的でありながら鋭さをも兼ね備えています。
ハッとさせられる法則ばかりといってよいでしょう。
真実とウソとの対比など鋭いですね。
自分自身に対してウソに基づいて生きるのではなく真実に基づいて生きることを勧めているようです。
お金とは、すなわち、人生といえる感じですね。
お金に関し、真剣に考える人は自らの人生も真剣に考えているといえます。
反対にお金のことを真剣に考えず卑しいものと勘違いしている人は、自らの人生に対する自省もなく卑しい人生を歩むことになるでしょう。
過去ではなく現状に目を向けよとの指摘も鋭いですね。
終わったことはどうしようもないわけですから、現在の位置確認と未来への展望が必要ということですね。
お金も重要だが自分自身がより重要との指摘は、お金の側面だけに偏っていない法則であり、人間味があふれています。
確かに、お金お金だけでは、ちょっとしんどいですからね。
投資する前に、絶対必要なものに出費しなさいとの指摘は、物事の順番を間違えるなとの指摘と思われます。
投資も結構だが、その前に、ということですね。
人間、肝心な出費をおろそかにする傾向があるようです。
注意したいですね。
お金だけでは意味がないとの指摘は、この法則の中で核となる法則といえるでしょう。
お金のことをいろいろ検討したところで、所詮は、自分自身が人生の主人公であるわけですから、お金には魔力があるとはいえ、お金を主人公にする愚だけは避けなさいという指摘ですね。
上記の5つの法則は、お金に対する法則であると共に人生そのものに対する法則といえますね。
まさに、哲学そのものといった感じがあります。
お金に振り回されがちな人間にとって、お金の法則は、お金の世界で迷子になりそうなときに使用する羅針盤の役割を果たしてくれます。
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・
1 お金は真実から生まれ、ウソで失われる
2 過去ではなく、現状に目を向けなさい
3 お金にとって正しいことをする前に、自分にとって正しいことをしなさい
4 不確実なものに投資する前に、確実に必要となるものにお金を使いなさい
5 お金はそれだけでは何の力も持たない
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お金に関する哲学が示されていますね。
どの法則も無理がなく常識的でありながら鋭さをも兼ね備えています。
ハッとさせられる法則ばかりといってよいでしょう。
真実とウソとの対比など鋭いですね。
自分自身に対してウソに基づいて生きるのではなく真実に基づいて生きることを勧めているようです。
お金とは、すなわち、人生といえる感じですね。
お金に関し、真剣に考える人は自らの人生も真剣に考えているといえます。
反対にお金のことを真剣に考えず卑しいものと勘違いしている人は、自らの人生に対する自省もなく卑しい人生を歩むことになるでしょう。
過去ではなく現状に目を向けよとの指摘も鋭いですね。
終わったことはどうしようもないわけですから、現在の位置確認と未来への展望が必要ということですね。
お金も重要だが自分自身がより重要との指摘は、お金の側面だけに偏っていない法則であり、人間味があふれています。
確かに、お金お金だけでは、ちょっとしんどいですからね。
投資する前に、絶対必要なものに出費しなさいとの指摘は、物事の順番を間違えるなとの指摘と思われます。
投資も結構だが、その前に、ということですね。
人間、肝心な出費をおろそかにする傾向があるようです。
注意したいですね。
お金だけでは意味がないとの指摘は、この法則の中で核となる法則といえるでしょう。
お金のことをいろいろ検討したところで、所詮は、自分自身が人生の主人公であるわけですから、お金には魔力があるとはいえ、お金を主人公にする愚だけは避けなさいという指摘ですね。
上記の5つの法則は、お金に対する法則であると共に人生そのものに対する法則といえますね。
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2013年05月12日
経済学の十大原理
『マンキュー入門経済学』東洋経済新報社の23頁に「経済学の十大原理」がまとめられています。
内容を確認してみましょう。
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・
人々はどのように意思決定するか
1 人々はトレードオフ(相反する関係)に直面している
2 あるものの費用は、それを得るために放棄したものの価値である
3 合理的な人々は限界的な部分で考える
4 人々はさまざまなインセンティブ(誘因)に反応する
人々はどのように影響しあうのか
5 交易(取引)はすべての人々をより豊かにする
6 通常、市場は経済活動を組織する良策である
7 政府は市場のもたらす成果を改善できることもある
経済は全体としてどのように動いているか
8 一国の生活水準は、財・サービスの生産能力に依存している
9 政府が紙幣を印刷しすぎると、物価が上昇する
10 社会は、インフレ率と失業率の短期的トレードオフに直面している
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・
経済学といってもなかなか理解できないでいましたが、十大原理として大枠を示してもらうと理解しやすくなります。
もちろん、細かい部分は分かりませんが、アウトラインが分からず経済学の世界を右往左往していた身からするとありがたいのがこの十大原理です。
現在の経済状況も、この十大原理からみれば、よりよく理解できます。
経済系の書籍を読んだとき、それぞれの著者の個性があり、その都度、その著者の考えに流されてしまう懸念がありました。
しかし、今後は、この十大原理にあてはめながら、自分自身が現在学んでいるところは、どのような位置づけのところなのかを確認することができます。
経済学の世界で迷子にならないための羅針盤の役割を果たすのがこの十大原理といえるでしょう。
あと経済学でよく聞く言葉がミクロ経済学とマクロ経済学ですが、マンキューの説明を確認してみましょう。
「経済学は、伝統的に二つの研究分野に分けられてきた。ミクロ経済学は、家計や企業の意思決定と、特定の市場におけるそれらの相互作用を研究する。マクロ経済学は、経済全体に関わる現象を研究する」(同書 41頁)
上記の十大原理と合わせて考えると経済学の見取り図ができるようです。
あとは、現代社会での経済現象を観察しながら、アカデミックな経済学の書籍を随時参照しながら、経済の眼を養っていきたいですね。
内容を確認してみましょう。
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・
人々はどのように意思決定するか
1 人々はトレードオフ(相反する関係)に直面している
2 あるものの費用は、それを得るために放棄したものの価値である
3 合理的な人々は限界的な部分で考える
4 人々はさまざまなインセンティブ(誘因)に反応する
人々はどのように影響しあうのか
5 交易(取引)はすべての人々をより豊かにする
6 通常、市場は経済活動を組織する良策である
7 政府は市場のもたらす成果を改善できることもある
経済は全体としてどのように動いているか
8 一国の生活水準は、財・サービスの生産能力に依存している
9 政府が紙幣を印刷しすぎると、物価が上昇する
10 社会は、インフレ率と失業率の短期的トレードオフに直面している
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・
経済学といってもなかなか理解できないでいましたが、十大原理として大枠を示してもらうと理解しやすくなります。
もちろん、細かい部分は分かりませんが、アウトラインが分からず経済学の世界を右往左往していた身からするとありがたいのがこの十大原理です。
現在の経済状況も、この十大原理からみれば、よりよく理解できます。
経済系の書籍を読んだとき、それぞれの著者の個性があり、その都度、その著者の考えに流されてしまう懸念がありました。
しかし、今後は、この十大原理にあてはめながら、自分自身が現在学んでいるところは、どのような位置づけのところなのかを確認することができます。
経済学の世界で迷子にならないための羅針盤の役割を果たすのがこの十大原理といえるでしょう。
あと経済学でよく聞く言葉がミクロ経済学とマクロ経済学ですが、マンキューの説明を確認してみましょう。
「経済学は、伝統的に二つの研究分野に分けられてきた。ミクロ経済学は、家計や企業の意思決定と、特定の市場におけるそれらの相互作用を研究する。マクロ経済学は、経済全体に関わる現象を研究する」(同書 41頁)
上記の十大原理と合わせて考えると経済学の見取り図ができるようです。
あとは、現代社会での経済現象を観察しながら、アカデミックな経済学の書籍を随時参照しながら、経済の眼を養っていきたいですね。
2013年04月21日
豊かな語彙力を身に付けること
「語彙が豊富なこと、それは広い一般的な知識があるという意味であり、職業のいかんにかかわらす、成功者の特徴となっています」(佐藤富雄『ツキを呼び込む成功法則』オーエス出版 186頁)
身の回りを見渡しても、語彙、言葉が貧困な人は、生活も貧困です。
反対に語彙、言葉が豊富な人は、生活も豊かですね。
相関関係があります。
その語彙、言葉も良い語彙、言葉である必要があります。
そうでなければ、豊かにはなれません。
いずれにしても、たくさんの語彙、言葉を身に付けることが肝要なわけですが、普段の生活においては、語彙力を身に付けるのは困難です。
やはり、たくさんの本を読むということが必要です。
それもあらゆる分野の本を読むことですね。
それと現代の書籍だけでなく、100年前の明治時代の頃の本、例えば夏目漱石の『草枕』などを読むというのもいいかもしれません。
『草枕』には、これでもかというほど、現代では使用しない語彙、言葉が出てきます。
難しいといえば難しいのですが、見事な文章力により読まされてしまいますから、それなりに楽しめます。
また、古典の分野にも手を伸ばしておきたいですね。
例えば、鎌倉時代の日蓮の遺文(御書)を読むのもよいと思います。
法華経の世界観に基づきながら、仏法、人生、社会、生活についての著述がなされており、豊潤な語彙、言葉のオンパレードです。
夏目漱石、日蓮等の一級の人物の著作を読むことによって、豊かな語彙力を身に付けたいものです。
身の回りを見渡しても、語彙、言葉が貧困な人は、生活も貧困です。
反対に語彙、言葉が豊富な人は、生活も豊かですね。
相関関係があります。
その語彙、言葉も良い語彙、言葉である必要があります。
そうでなければ、豊かにはなれません。
いずれにしても、たくさんの語彙、言葉を身に付けることが肝要なわけですが、普段の生活においては、語彙力を身に付けるのは困難です。
やはり、たくさんの本を読むということが必要です。
それもあらゆる分野の本を読むことですね。
それと現代の書籍だけでなく、100年前の明治時代の頃の本、例えば夏目漱石の『草枕』などを読むというのもいいかもしれません。
『草枕』には、これでもかというほど、現代では使用しない語彙、言葉が出てきます。
難しいといえば難しいのですが、見事な文章力により読まされてしまいますから、それなりに楽しめます。
また、古典の分野にも手を伸ばしておきたいですね。
例えば、鎌倉時代の日蓮の遺文(御書)を読むのもよいと思います。
法華経の世界観に基づきながら、仏法、人生、社会、生活についての著述がなされており、豊潤な語彙、言葉のオンパレードです。
夏目漱石、日蓮等の一級の人物の著作を読むことによって、豊かな語彙力を身に付けたいものです。
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新たに生きること
「人間は五十歳にもなれば或る程度人生の結論に達する。と同時に心のどこかに自らを恕す、肯定しようとする意志が働く。その時に「五十にして四十九年の非を知る」、今までの自己を一度否定することは、これは非常に難しい」(『安岡正篤一日一言』致知出版社 71頁)
私は、まだ50歳に至っておりませんが、いくつであっても上記の言葉は重要ですね。
現在の年齢にあてはめれば、そのまま自分自身に対する格言となります。
他者に対しては、なるべく「肯定」する態度で接するのがよいでしょう。
「否定」を軸に他者に向かい合うのは得策ではありません。
しかし、自分自身に対しては、安易に「肯定」するのではなく、至らぬ点を厳しく「否定」することが必要です。
「肯定」すべきいいところはそのままでよく、より一層よくしていけばよいのですが、やはり、完璧な人間などおらず、反省すべき点が多いのが人間です。
よって、今までの人生において、非の部分をあぶり出し、しかと「否定」する作業をした方がよいですね。
ただ、自分自身に甘くなるもので、自分の非を「否定」したくなくなり、つい、他者の非を「否定」してごまかしてしまう傾向があるようです。
あくまで自分自身の問題であるわけですから、他者の問題を持ち出しても何の意味もありません。
難しくとも自分自身の非を見つめ、新たな人生を生きるという姿勢でありたいものですね。
私は、まだ50歳に至っておりませんが、いくつであっても上記の言葉は重要ですね。
現在の年齢にあてはめれば、そのまま自分自身に対する格言となります。
他者に対しては、なるべく「肯定」する態度で接するのがよいでしょう。
「否定」を軸に他者に向かい合うのは得策ではありません。
しかし、自分自身に対しては、安易に「肯定」するのではなく、至らぬ点を厳しく「否定」することが必要です。
「肯定」すべきいいところはそのままでよく、より一層よくしていけばよいのですが、やはり、完璧な人間などおらず、反省すべき点が多いのが人間です。
よって、今までの人生において、非の部分をあぶり出し、しかと「否定」する作業をした方がよいですね。
ただ、自分自身に甘くなるもので、自分の非を「否定」したくなくなり、つい、他者の非を「否定」してごまかしてしまう傾向があるようです。
あくまで自分自身の問題であるわけですから、他者の問題を持ち出しても何の意味もありません。
難しくとも自分自身の非を見つめ、新たな人生を生きるという姿勢でありたいものですね。