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2013年11月09日

嫉妬・諂誑の心

法華経の安楽行品第十四に

「斯の経典を受持し、読誦せん者は、嫉妬・諂誑の心を懐くこと無かれ」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 144頁)

との言葉が出てきます。

「斯の経典」と言っているのは、「法華経」のことですね。

ここで注目したいのは、「嫉妬・諂誑の心」です。

まずは、「嫉妬」と「諂誑」との言葉の意味を確認してみましょう。

「嫉妬」は、日常でもよく使う言葉ですから、馴染みがあります。

「嫉」の字も「妬」の字もそれぞれ、「ねたむ」、「そねむ」、または、「ねたみ」、「そねみ」と読みますね。

「自分より優れている者や、恵まれた環境にいる者をうらやみ憎む」(『使い方の分かる類語例解辞典』小学館)という意味です。

「「ねたむ」「そねむ」には、話者の悪感情がより深くこめられている場合が多い」(『使い方の分かる類語例解辞典』小学館)ということですから、当然のことながら、誉められた感情ではなく、できる限り避けたい感情ですね。

次に、「諂誑」(「てんおう」若しくは「てんのう」)という言葉ですが、馴染みがありません。

一字一字確認してみましょう。

「諂」は、「へつらう」と読みます。意味を確認すると、

へつら・う【諂う】
人の気に入るように振る舞う。また、お世辞を言う。おもねる。追従(ついしょう)する。「上司に―・う」(『デジタル大辞泉』小学館)

ということですね。

「誑」は、「たぶらかす」と読みます。意味を確認すると、

たぶら‐か・す【誑かす】
だまして惑わす。人をあざむく。「言葉たくみに―・される」(『デジタル大辞泉』小学館)

ということですね。

やはり、「嫉妬」と「諂誑」との感情は悪い感情ですね。

自分には、「嫉妬」という感情などない、などと思いたい場合もあるでしょうが、法華経が存在しないものを論じるわけもなく、やはり、人間の心には「嫉妬」の感情が沸々と出てくるものです。

常に、自分自身の「嫉妬」の感情をチェックして、「嫉妬」の感情が大きくなる前に、その都度、「嫉妬」の感情を消去したり、もっと前向きな感情に切り替えたりする必要があります。

自分には、「嫉妬」などないと、ごまかしていると、いつの間にか、その「嫉妬」が肥大化していたということになりますから、好ましくない自分の感情であっても、しっかりと、見つめる癖をつけておきたいですね。

「諂う」には、「人の気に入るように振る舞う」という意味がありましたが、いやらしい感じが出ていますね。また、「おもねる」という意味もありましたが、人におもねることなく、常に堂々としていたいものです。

卑屈になるのはみっともないですから、気を付けておきたいところです。

「誑かす」には、「だます」、「あざむく」という意味がありましたが、他人をだます、あざむくことは好ましくないと共に、自分自身をだます、あざむくことも好ましくありません。

先程出てきた「嫉妬」の感情について、自分には「嫉妬」の感情がないと思い込むことなど、まさに、自分自身をだまし、あざむいていることに他なりません。

法華経を受持して、読誦する人間だけでなく、誰しも、「ねたむ」「そねむ」「へつらう」「たぶらかす」という感情には気を付けておかなければなりません。

「嫉妬」のことを考えてみますと、どうしようもない人間心理に考えが及びます。芥川龍之介の「鼻」という作品の一節を思い起こします。

「人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこつちで何となく物足りないやうな心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいやうな気にさへなる。さうして何時の間にか、消極的ではあるが、或敵意をその人に対して抱くやうな事になる」(『芥川龍之介全集』第一巻 岩波書店 166頁)

この内容を芥川龍之介は、「傍観者の利己主義」(同書 同頁)との一言にまとめています。

不幸であった人に同情するのは、それはそれで結構なことでしょう。別に非難されることではありません。

しかし、その人がその不幸を乗り越える、つまり、「かわいそうに」と下に見ていた人が自分と同等、若しくは、上に行ってしまうことがあると、沸々とむかつきの感情が出てくるのですね。

「もう一度、不幸になれ」との怨念が出てくるようです。芥川龍之介が「敵意」と書いていますが、「悪意」も包含しているといってよいでしょう。

「嫉妬」に近い、卑しい感情が見て取れます。

法華経の安楽行品の文は、このような卑しい感情や、卑屈な感情、ごまかしや偽りの感情に陥らないよう注意を与えています。

まずは、自分自身に「嫉妬」・「諂誑」の心があると認識することです。

間違っても、そんな感情などないと勘違いをしないことですね。

そして、早め早めに自分自身の中から、その「嫉妬」・「諂誑」の心を見つけ出すことです。

ほっておくと「嫉妬」・「諂誑」の心が肥大化し、自分では対処できなくなるようでは救いがたいわけで、早期発見、早期治療が大切です。

毎日、毎日、その都度、その都度、きれいに掃除をするという心構えが必要ですね。

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2013年10月26日

日蓮教学研鑽に必要な姿勢

藤原保信氏の『西洋政治理論史』の叙述スタイルについて、「解説」では4つの特徴を指摘しています。

この4つの特徴は、取りも直さず、日蓮教学研鑽に必要な姿勢であると思われます。

以下で4つの特徴を確認してみましょう。

1 「テキストをして語らしめるかのように、原典からの引用を重視」(『藤原保信著作集』第4巻 解説 新評論 387頁)

2 「思想の全体性を統一的に理解しようとする手法」(同書 388頁)

3 「既存の研究の蓄積を踏まえたきわめて正攻法のもの」(同書 同頁)

4 「自らの理論家としての問題関心をストレートに表現」(同書 同頁)

当然のことながら、日蓮教学の研鑽ですから、日蓮の書、御書そのものが第一次資料として重要になります。

まずは、御書の引用が必要です。

その上で、日蓮を一面的に把握するのではなく、全面的に把握することです。「思想の全体性を統一的に理解」するとは、まさにこのことですね。

また、日蓮研究での業績の蓄積がありますから、その業績を確認しながら、オーソドックスな研鑽を心掛けることですね。突拍子もないことを言っても仕方がありません。

しかし、御書を引用し、全体的・統一的に把握し、正攻法の研鑽をするにしても、それだけでは、根本的に何かが欠けていると思われます。

つまり、研鑽者自身の問題関心がなければ、ただの字義解釈に終わってしまいます。

やはり、研鑽者自身の視点、問題関心、生命の充実があってこそ、日蓮教学研鑽は活きてくるものです。

日蓮の御書を鎌倉時代のだけのものにするのではなく、現代に蘇えらせる研鑽が必要です。

結局は、研鑽者自身の境涯がポイントとなります。最初から境涯が高い人はいませんから、日蓮教学を研鑽していきながら、境涯を上げていけばよいでしょう。

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2013年10月19日

竹内均先生に学ぶ

「私は時間のユニットを十五分単位で考えている。十五分くらい時間があったら、その時間内にできる仕事をやるということである」(竹内均『頭のうまい使い方へたな使い方』三笠書房 34頁)

こま切れ時間を活用することが推奨されていますが、なかなか活用できずにダラダラしてしまうものです。

こま切れ時間といったところで、一体、どれほどの時間なのかと考えることなく、何となくこま切れ時間と考えているから、活用に至らないのでしょう。

竹内均先生によると、「15分」をひとつのユニットと考えられているようです。

具体的に「15分」と時間がはっきりすると、その「15分」でできることは何かと考え始めます。

あとは、すべきことを見つけたら、少しずつ行っていけばよいわけです。

「無理算段をして自分自身の小さい図書館や研究室をつくっているが、個人で作り得る図書館の規模はたかが知れている」(同書 96頁)

この指摘は、その通りですね。

個人でたくさんの蔵書があるという人も、せいぜい数万冊の蔵書でしょう。

確かに、数万冊の蔵書は多いのですが、図書館のようにどこにどの本があるのかコンピューターで管理している人などほとんどいないでしょう。

結局、管理されていない本の集まりにしか過ぎません。

自分の蔵書の中から目当ての本が見つけられないという嘆きを時折見かけますが、これでは話になりませんよね。

大きなお世話ですが、数万冊の蔵書がある人は、自分が死んだ後のことを考えているのでしょうか。

遺族からすると、とんでもないお荷物ですね。稀覯本などほとんどありませんし、だいたい入手可能な本ばかりです。

図書館としても、どんな本でも寄贈で受け付けてくれるわけではありませんし、古本屋としても、欲しい本は一部分でしょう。結局、蔵書処分をすることになります。

また、本は、一冊では大した重さではありませんが、まとめてみると尋常ではない重さになります。

まさか、遺族に肉体労働をさせようという気はないでしょうが、結果的に、肉体労働をさせてしまうことになりますね。

肉体労働の対極にあると思しき「蔵書」という存在で肉体労働となれば、皮肉としか言いようがありませんね。

存命中に死後のことを考えておくべきですね。

失礼ながら、ごみを残して死ぬのはみっともないですね。

やはり、個人の蔵書は、公立図書館の蔵書に比べれば、大したことはなく、問題点も多いと考えるべきでしょう。

市立図書館であれば、20万冊から50万冊程度の蔵書があるものです。

また、県立図書館クラスであれば、80万冊から100万冊程度の蔵書があります。

また、蔵書はコンピューターで管理されており、インターネットで検索も可能であり、そもそも、専門の司書の方がいるわけですから、目当ての本はすぐに準備してくれます。

「情報整理というものの基本は、このように、不要な情報を潔く捨てられる勇気があるかどうかにかかっているのである」(同書 164頁)

ここ数年、断捨離が流行っていますが、やはり、時代でしょうね。

いらないものが多くなりすぎたのでしょう。

私も、もう読まない本は、古本屋に売却したり、資源ごみに出したりしました。

いらないものに囲まれていると、いつの間にか、自分自身もいらないものの一つになってしまうかもしれませんから、注意したいところですね。

不要なものを捨てると、本来は必要であるものがないことに気付き、その必要なものを入手するということがありました。

これは、断捨離の効果でしょうね。

「私が提言したいのは、ビジネスマンでも誰でも、一日一時間だけは自己完成のための時間をとってほしいということである。自分のやりたいことをやったり、自由に思考を巡らしたりする時間を持ってほしいのだ」(同書 196頁)

何かをしたいと思いながら、何もせず、時間だけが過ぎていくということがあるものですが、「1日1時間」と時間を区切ると具体的に何かができるような感じがします。

とにかく「1日1時間」は、自分を磨くための時間として何かをするということですね。

2時間、3時間となると時間の都合がつかず、結局、何もできないということになりそうです。

「1時間」という絶妙な時間がいいのかもしれませね。

もちろん、時間の余裕があるならば、その「1時間」を数セットこなせばいいだけです。

結果、2時間、3時間の研鑽ができたとなれば、それはそれでいいことです。

「1日1時間」を堅持するという姿勢が大切ですね。

「私は、結局、真面目にやった者だけが真面目の程度に応じて生き残っていく、という考えを新たにしたのだった」(同書 229頁)

真面目に物事に対処することが重要ですね。

人生がうまくいっていない人を観察すると、ほとんど、不真面目な人という特徴があります。

なぜ、不真面目なのかはよく分かりませんが、不真面目なのですね。

不真面目の程度の応じた人生を歩んでいますね。

「だいたい、他人というのは身勝手なものだから、あまり当てにはならない。また、自分が自由に生きているなら相手も自由に生きている。だから、必ず利益を与えてくれと強制したりはできない。むしろ、人がどうであるかを考えるよりも前に、自分がその人に対してどれほどためになることができるかを、真っ先に考えるべきなのだ」(同書 230頁)

他人に期待することは、ある意味、ないものねだりであり、厚かましくさえありますね。

心配しなくても、他人は何もしてくれません。

そのことを気に病んでストレスをためても仕方がありませんね。

万一、他人が自分のために何かをしてくれたならば、あり得ないことが起こったわけですから「有難うございます」と言って、感謝すればよいのです。

あとは、他人がどうというよりは、自分が何かをするということですね。

間違っても、自分が何かをしたからといって、相手に感謝を求めてはいけません。

感謝がないといって一人で怒ってストレスをためている人がいますが、人間観察が雑で何も見えていない人間であることを証明しているだけですから、傍から見ていると滑稽です。

やはり、自分自身に確固としたものを持ち、周りを適切に観察し、目配りしながら、為すべきことを粛々と為していくことが大切ですね。
posted by lawful at 19:28| 雑感

2013年10月18日

テキスト中心主義の観点からの日蓮教学研鑽

テキスト中心主義という言葉がありますが、どのような意味なのかを確認してみましょう。

「ここでいうテキスト中心主義とは、歴史を超えた普遍的な価値基準の存在および永遠の問いとそれへの回答の可能性を信じ、現代の問題に対する示唆や解答を求めてテキストとの直接的対話を行う方法のことである」(『藤原保信著作集』第4巻 解説 新評論 371頁)

規範的なものを求めながら、テキスト、所謂、古典を読み込んでいくということですね。

日蓮教学の観点からいえば、「御書」と「法華経」とを読み込んでいくということになります。

とにかく、「御書」と「法華経」とを繰り返し読み、自分自身のものにしていくわけです。

その上で、「御書」と「法華経」とから汲み出したものを自分自身の現在の生活に活かしていくわけですから、至って実践的です。

しかし、「実はテキスト中心主義がともすると抽象の世界にこもり、コンテキスト主義とは違った意味で実践から後退する危険性をはらんでいる」(同書 372頁)ということですから、話はそう簡単ではないようです。

「御書」と「法華経」とを読み込んでいくにしても、抽象の世界で読んでいくならば、つまり、自分自身の問題として読まないならば、また、単なる昔話として読んでしまうならば、実践的ではなく、「御書」と「法華経」とが宙に浮いた感じになってしまいます。

こうなってしまっては意味がありませんね。あくまでも自分自身と「御書」、自分自身と「法華経」という観点から読み込んでいくべきです。

単なる字面の解釈だけでは、お勉強になってしまいます。実践的に読むという観点がどうしてもはずせません。

そのことから以下の視点は重要ですね。

「学ぶことの意味それ自体を絶えず自問し、学生たちにも学問の社会的責任や実践的な問題意識をもつことの重要性を説き続けた藤原にとって、本質的に実践的であるはずの政治学をやりながら没政治的になるというのは明らかに矛盾であった。それゆえに、藤原は単純な意味でのテキスト中心主義者にはなりえない」(同書 同頁)

日蓮教学を研鑽する意味それ自体を常に自分自身に問い掛けるという姿勢が大切です。

また、社会的責任を果たすといった観点から日蓮教学研鑽を見直すことも必要でしょう。

そもそも、日蓮の「立正安国論」などは、社会的責任を果たそうとしてしたためられた書であり、社会的な観点を外しての日蓮教学研鑽はあり得ないといえましょう。

自分自身の問題を解決するために日蓮教学を研鑽するという点だけでなく、社会的な問題を解決するために日蓮教学を研鑽するという点も忘れてはなりません。

そして、実践的に日蓮教学を研鑽することですね。

ただし、「実践、実践」と言いながら、「御書」と「法華経」とはどこかに置き忘れ、手足をバタバタさせているだけの人もいますから、このような人には惑わされないようにすることですね。

また、「御書」と「法華経」とを単なる古文・漢文としてしか認識できないようでは、実践的以前の問題といえます。

日蓮仏法は、本質的に実践的ですから、日蓮教学を研鑽しながら実践的でない状態になることは自己矛盾です。

そうならないためにも、自分自身という軸と「御書」と「法華経」とのつながりを確固としたものにする必要があります。別々になってはいけません。

実践といっても、「御書」と「法華経」とが自分自身の人生に滲み出てくればよいわけで、そんなに難しいことではありません。

常日頃からの自分の振る舞いの中に「御書」と「法華経」とを体現していくことが実践ということです。

特別なことをするのが実践なのではありません。誰かから言われたことをするのが実践なのではありません。

自分の生命から湧き出るものが実践の元であり、その上で活力ある生活をすることが取りも直さず実践ということです。

そこで「信仰」という側面が重要視されます。「御書」と「法華経」とを自分自身の生命と一体化することが、「信仰」の作用といえましょう。

自分自身の古典として、「御書」と「法華経」とを読み込んでいきながら、実践的であり続けるようなテキスト中心主義であれば、バランスのとれた好ましい状態といえるでしょう。

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posted by lawful at 22:06| 日蓮

2013年10月02日

新聞の読み方

「新聞を読むのは、新聞を読んで何らかの投資行動を起こすためではありません。(中略)要は、「その情報をみんなが知っているのかどうか」「誰が知っている可能性があるのか」を知るために、新聞を読むのです」(松本大『「お金の流れ」はこう変わった!』ダイヤモンド社 121頁)

新聞を読んでさまざまな情報を得て、株を買ったりすることがあると思いますが、新聞を読んで投資しているようでは損失を被るようですね。

新聞に記事が載っている段階で、その情報は古いと考えておく必要があるようです。

では、なぜ、古い情報を載せている新聞を読むのか。

それは、ほとんどの人、多くの人が知るに至った情報は何であるかを確認するためなのですね。

新聞を読むことによって、世の中の流れを見るわけですが、その流れは、もうとっくの昔から始まっているということを確認するわけですね。

新聞で新しい情報を得るというのではなく、世の中に出回っている情報(所謂、古い情報)は何なのかを確認するために、新聞を読むということですね。

一応、世の中の流れを確認するために新聞を活用するのであって、自分自身が本当に欲する情報は、新聞という媒体ではなく、直接、自分で体験するなり、人と会って話をするなり、まとまった書籍を読むなりして得ていかなければなりませんね。
posted by lawful at 20:04| 雑感

2013年09月22日

自分の人生の目的

「企業経営の目的は、企業価値の最大化であり、それ以外のものではありえない。従業員の福祉向上や、地域社会への貢献、あるいは顧客の満足度を高めることなどは、企業価値を最大化するための手段であって、目的ではない」(野口悠紀雄『実力大競争時代の「超」勉強法』幻冬舎 206頁)

「企業経営の目的」を「自分の人生の目的」と読み替えた場合、自分の人生の目的は、「自分の価値の最大化」となります。

仏教でいえば、「成仏」となりますね。

「仏」の境涯を得ることとなりますでしょうか。

従業員の福祉向上、地域社会への貢献、顧客の満足といっても、これはすべて、「他者」の話ですね。

他者の福祉向上、他者への貢献、他者の満足ということですね。

他者のために何かをすることを通じて、自分自身が「仏」の境涯を得ることが大切であり、他者のために何かをすることは手段というわけですね。

確かに、他者のために何かをしている人でも、それが身に付いている人を見ると、他者のために何かをすることによって、その人自身が輝いていますね。

所謂、「成仏」の状態に至っています。

しかし、偽善者が他者のために何かをすると、より一層、偽善が際立ち、「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」の生命が滲み出てきます。

他者のために何かをするのを目的とするのではなく、自分自身の「成仏」「仏」の境涯を得ることを目的としなければなりません。

また、「成仏」「仏」の境涯を得れば、存在そのものが他者のためになっていきます。

もう、何かをするという次元ではなく、存在するだけで価値を放出する次元に至るわけですね。

目的を間違うと変な新宗教の団体に絡まれますから、気を付けておくことですね。

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posted by lawful at 16:29| 生き方

文系の数学と理系の数学との違い

数学を学ぶことによって論理的な思考能力がつくと聞くことがあります。

そこで、数学を学ぼうとするのですが、一口に数学といっても幅が広いものです。

「代数学」、「解析学」、「幾何学」、「確率・統計」等々、いろいろな分野があります。

中学校のことを思い起こすと、1学期に方程式等が出てきますので「代数学」、2学期に関数等が出てきますので「解析学」、3学期に図面、図形等が出てきますので「幾何学」を学んでいたと思います。

高等学校では、「数学T」「基礎解析」「代数・幾何」「確率・統計」という科目がありました。

中学、高校とさほど真剣に数学に取り組んでいませんでしたので、数学の知識はほとんどありません。

その反省もあり、数学を学んでみようかと思うのですが、さて、どのような数学を学ぶべきか、どこから手を付けていいのか、数学の全体像がよく分からないため、右往左往している状態でした。

「文系で必要とされる数学は、理系で用いられる数学と同じではない。線形代数学や確率論が中心だが、これは理系ではあまり重要でない数学である。私は工学部の出身なので、経済学で用いられている数学に、最初は違和感を覚えた(その半面で、微分積分学は、物理学のために作られた数学であり、経済学ではあまり重要ではない)」(野口悠紀雄『実力大競争時代の「超」勉強法』幻冬舎 140頁)

簡単にまとめると以下の通りですね。

文系の数学:線形代数学、確率論(特に経済学)

理系の数学:微分積分学(特に物理学)

経済学を学びたい人にとっての数学と、物理学を学びたい人との数学に違いがあるのですね。

自分がどのような分野を学びたいかによって、学ぶ数学が変わってきます。

ただ、数学は積み重ねの学問といわれましても、一から始めるのは、なかなか大変です。

くそまじめに最初から学ぶのも結構ですが、そのような時間も意欲も大してないものです。

「高校で微分法を学ぶとき、関数の連続性や微分可能性についての厳密な議論を経ているわけではない。いくつかの簡単な関数に微分の公式を当てはめているだけである」(同書 147頁)

高校の数学といっても、かいつまんだ感じなのですね。

一々、細かいことをしているのではなく、出来上がった公式を使って、問題を解いているわけで、数学を学ぶというよりは、数学を活用する方法を学んでいるといった方がよいかもしれません。

結局、数学を専門にする人以外にとっては、数学を活用できればよいわけで、その視点から、数学を学ぶ方がよいでしょうね。

論理的思考能力を付けたい場合は、端的に「論理学」を学べばよいでしょう。

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2013年09月15日

還著於本人 観世音菩薩普門品第二十五

「呪詛・諸の毒薬に、身を害せんと欲られん者、彼の観音の力を念ぜば、還って本人に著きなん」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 508頁)

「還著於本人」を含む法華経観世音菩薩普門品第二十五の文です。

簡単に意味を見ていきましょう。

呪詛ですから、呪いですね。

また、さまざまな毒薬が出てきます。

この呪いや毒薬によって危害を加えられようとしている人がいるわけです。

ということは、呪いや毒薬によって危害を加えようとしている人もいるわけです。

危害を加えられようとしている人は、そのままでは、呪いや毒薬にやられてしまいます。

そこで、観音の力を念ずることを法華経は教えています。

そうするとどうなるか。危害を加えようとしていた人が発した呪いや毒薬がそのまま、その危害を加えようとしていた人に戻っていくのですね。

所謂、「還著於本人」(還って本人に著きなん)ですね。

注目したいのは、危害を加えられようとしていた人がしているのは、観音の力を念ずることだけです。

直接に、危害を加えようとしていた人に何かをしているわけではありません。

まあ、考えてみれば、危害を加えようとしている人に接するとろくなことがありませんし、どうでもいい火の粉をかぶる可能性も大いにあります。

さて、危害を加えようとしていた人の呪いや毒薬とはどのようなものか。

少し考えてみたいと思います。

自分にとって、この人は気持ち悪いなと思う人や、この人は不愉快だなと思う人がいますが、これらの人は、何がしらの悪意、毒素を発しているものです。

その悪意、毒素が気持ち悪さや、不愉快さを発生させているといえるでしょう。

直感的に嫌だと思うことは、往々にして正しく、変に理屈をこねて嫌だと思わないようにしようとする必要はないでしょう。

「世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴で埋っている」(夏目漱石『草枕』小学館文庫 163頁)わけですが、このような不愉快な人々が発する呪い、悪意、毒素等々にやられてしまってはいけません。

そうはいっても直接に手を下すのは好ましくなく、手を汚すことなく処理したいものです。

そこで、法華経の文を活用しようというわけです。

観音の力、もっと言えば、法華経そのものの力を念ずることにより、その呪い、悪意、毒素をその不愉快な人々にお返しするわけです。

呪い、悪意、毒素をお返しすれば、こちらとしては、もう、何もすることはありません。

その呪い、悪意、毒素によって、不愉快な人がどうなろうと、それは、その不愉快な人の自業自得であり、そちらで始末を付けてくださいというだけのことです。

お返しする時に、「倍返し」「10倍返し」「100倍返し」となるかは、不愉快な人の呪い、悪意、毒素の具合によって決まるでしょう。

こちらとしては、不愉快な人々という変な人たちの相手をすることなく、ただただ、法華経の信仰を透徹させていけばいいだけです。

呪いをかけたい、悪意を持ちたい、毒素を発したいという人は、好きにすればよいでしょう。

勝手にすればよいことです。

こちらは法華経の行者として、その呪い、悪意、毒素を、お返しするだけです。

簡単なことですね。

ただ、注意しなければならないのは、不愉快な人々に仕返しをしようとしたり、懲らしめようとしたりしないことです。

その気持ちそのものが、ある意味、呪いであり、悪意であり、毒素でありますから、こちらがそのような呪い、悪意、毒素を出す必要はありません。

ただただ、法華経通りの信仰をしていけばいいのですね。

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2013年09月01日

英語を学ぶ際心得るべき3つの点

英語の命は「音と語順」である。その両方を手に入れるには、とりあえず聞きまくり、読みまくるしかない。これこそ英語を「内在化」する最も効率的な方法である。たとえ、少しばかり時間と労力がかかるとしても」(『英語ベストセラー本の研究』晴山陽一 幻冬舎 229頁)

英語は日本語と「音」の面で大きく違いがあります。

日本人としては、なかなか英語が聞き取れないという問題点があります。

結局、英語をたくさん聞くしかないわけですが、英語学習において、「音」の面を強調しても強調しすぎることはありません。

昔は、英語教材にCDが付いていることなどなく、どうやって「音」を確認するのだろうかといぶかしく思っていましたが、今は、インターネットをはじめ、電子辞書、英語教材にはもれなくCDやDVDが付いてきますから、「音」を確認するにはいい時代となったといえるでしょう。

あと、英語と日本語との大きな違いは「語順」であり、また、日本語と違い英語の「語順」は厳密であるということですね。

単語の順番を間違うと英語として成立しませんから、日本語の感覚とは大きく違います。

英文法の知識が必要になる意味が分かります。

英語の「音」「語順」を身に付けるには、やはり、練習、訓練としての音読、暗誦が必要になります。

「音」を聞くだけでなく、「音」を発する必要があり、「語順」(英文法)を学習するだけでなく、その「語順」(英文法)を口に出すことによって、体に覚えこませる(内在化)必要があります。

上記の点を3つにまとめると以下の通りになるでしょうか。

1 「音」:英語教材は、CD、DVDが付いているものを用いるべし。
2 「語順」:基礎的な英文法をマスターすべし。
3 「内在化」:英文の音読、暗誦を繰り返すべし。

とにかく、英語をマスターすべく、楽しく学んでいきたいものです。

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posted by lawful at 23:27| 英語学習

根拠は3つ

「たとえば小論文を書くときには、最終的に必ず自分の結論を考えますが、できれば根拠を3つ挙げる訓練をしたほうがいいでしょう。これは現実にフランスの教育現場で行われていることです。

誰でも1つ目、2つ目くらいまでは思いつくのですが、3つ目を挙げることは意外に難しいものです。なかなか大変ですが、あらかじめあれこれ多角的に研究し、根拠を挙げる思考訓練をすることは、能力開発に有効です」(『テレビに破壊される脳』和田秀樹 徳間書店 223頁)

何がしらの主張をする場合、その結論に至った根拠を示す必要がありますが、たった1つの根拠で判断すると、ちょっとした反論でグダグダになるものです。

2つでも弱いでしょう。

よって、根拠は3つ欲しいところです。

4つ以上になると主張する人間も混乱するでしょう。

根拠が3つあれば、反論にもそれなりに対応できます。

3つの根拠をすべて覆すほどの反論など、なかなかないものです。

万一、3つの根拠すべてを覆すほどの反論があった場合、その3つの根拠そのものが根拠として破綻しているからだといえるでしょう。

反論に備えるために3つの根拠を揃えるというよりは、自分自身の主張、結論に問題がないかを自ら検証するために3つの根拠を準備すると考えた方がよいでしょうね。

フランスの教育現場では、根拠を3つ挙げる訓練をしているようですが、いい心掛けですね。

道理でフランス人の発言は理路整然としています。

我々もフランスに習い、根拠を3つ挙げる癖をつけておきたいですね。

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