こま切れ時間を活用することが推奨されていますが、なかなか活用できずにダラダラしてしまうものです。
こま切れ時間といったところで、一体、どれほどの時間なのかと考えることなく、何となくこま切れ時間と考えているから、活用に至らないのでしょう。
竹内均先生によると、「15分」をひとつのユニットと考えられているようです。
具体的に「15分」と時間がはっきりすると、その「15分」でできることは何かと考え始めます。
あとは、すべきことを見つけたら、少しずつ行っていけばよいわけです。
「無理算段をして自分自身の小さい図書館や研究室をつくっているが、個人で作り得る図書館の規模はたかが知れている」(同書 96頁)
この指摘は、その通りですね。
個人でたくさんの蔵書があるという人も、せいぜい数万冊の蔵書でしょう。
確かに、数万冊の蔵書は多いのですが、図書館のようにどこにどの本があるのかコンピューターで管理している人などほとんどいないでしょう。
結局、管理されていない本の集まりにしか過ぎません。
自分の蔵書の中から目当ての本が見つけられないという嘆きを時折見かけますが、これでは話になりませんよね。
大きなお世話ですが、数万冊の蔵書がある人は、自分が死んだ後のことを考えているのでしょうか。
遺族からすると、とんでもないお荷物ですね。稀覯本などほとんどありませんし、だいたい入手可能な本ばかりです。
図書館としても、どんな本でも寄贈で受け付けてくれるわけではありませんし、古本屋としても、欲しい本は一部分でしょう。結局、蔵書処分をすることになります。
また、本は、一冊では大した重さではありませんが、まとめてみると尋常ではない重さになります。
まさか、遺族に肉体労働をさせようという気はないでしょうが、結果的に、肉体労働をさせてしまうことになりますね。
肉体労働の対極にあると思しき「蔵書」という存在で肉体労働となれば、皮肉としか言いようがありませんね。
存命中に死後のことを考えておくべきですね。
失礼ながら、ごみを残して死ぬのはみっともないですね。
やはり、個人の蔵書は、公立図書館の蔵書に比べれば、大したことはなく、問題点も多いと考えるべきでしょう。
市立図書館であれば、20万冊から50万冊程度の蔵書があるものです。
また、県立図書館クラスであれば、80万冊から100万冊程度の蔵書があります。
また、蔵書はコンピューターで管理されており、インターネットで検索も可能であり、そもそも、専門の司書の方がいるわけですから、目当ての本はすぐに準備してくれます。
「情報整理というものの基本は、このように、不要な情報を潔く捨てられる勇気があるかどうかにかかっているのである」(同書 164頁)
ここ数年、断捨離が流行っていますが、やはり、時代でしょうね。
いらないものが多くなりすぎたのでしょう。
私も、もう読まない本は、古本屋に売却したり、資源ごみに出したりしました。
いらないものに囲まれていると、いつの間にか、自分自身もいらないものの一つになってしまうかもしれませんから、注意したいところですね。
不要なものを捨てると、本来は必要であるものがないことに気付き、その必要なものを入手するということがありました。
これは、断捨離の効果でしょうね。
「私が提言したいのは、ビジネスマンでも誰でも、一日一時間だけは自己完成のための時間をとってほしいということである。自分のやりたいことをやったり、自由に思考を巡らしたりする時間を持ってほしいのだ」(同書 196頁)
何かをしたいと思いながら、何もせず、時間だけが過ぎていくということがあるものですが、「1日1時間」と時間を区切ると具体的に何かができるような感じがします。
とにかく「1日1時間」は、自分を磨くための時間として何かをするということですね。
2時間、3時間となると時間の都合がつかず、結局、何もできないということになりそうです。
「1時間」という絶妙な時間がいいのかもしれませね。
もちろん、時間の余裕があるならば、その「1時間」を数セットこなせばいいだけです。
結果、2時間、3時間の研鑽ができたとなれば、それはそれでいいことです。
「1日1時間」を堅持するという姿勢が大切ですね。
「私は、結局、真面目にやった者だけが真面目の程度に応じて生き残っていく、という考えを新たにしたのだった」(同書 229頁)
真面目に物事に対処することが重要ですね。
人生がうまくいっていない人を観察すると、ほとんど、不真面目な人という特徴があります。
なぜ、不真面目なのかはよく分かりませんが、不真面目なのですね。
不真面目の程度の応じた人生を歩んでいますね。
「だいたい、他人というのは身勝手なものだから、あまり当てにはならない。また、自分が自由に生きているなら相手も自由に生きている。だから、必ず利益を与えてくれと強制したりはできない。むしろ、人がどうであるかを考えるよりも前に、自分がその人に対してどれほどためになることができるかを、真っ先に考えるべきなのだ」(同書 230頁)
他人に期待することは、ある意味、ないものねだりであり、厚かましくさえありますね。
心配しなくても、他人は何もしてくれません。
そのことを気に病んでストレスをためても仕方がありませんね。
万一、他人が自分のために何かをしてくれたならば、あり得ないことが起こったわけですから「有難うございます」と言って、感謝すればよいのです。
あとは、他人がどうというよりは、自分が何かをするということですね。
間違っても、自分が何かをしたからといって、相手に感謝を求めてはいけません。
感謝がないといって一人で怒ってストレスをためている人がいますが、人間観察が雑で何も見えていない人間であることを証明しているだけですから、傍から見ていると滑稽です。
やはり、自分自身に確固としたものを持ち、周りを適切に観察し、目配りしながら、為すべきことを粛々と為していくことが大切ですね。
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