「呪詛・諸の毒薬に、身を害せんと欲られん者、彼の観音の力を念ぜば、還って本人に著きなん」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 508頁)
「還著於本人」を含む法華経観世音菩薩普門品第二十五の文です。
簡単に意味を見ていきましょう。
呪詛ですから、呪いですね。
また、さまざまな毒薬が出てきます。
この呪いや毒薬によって危害を加えられようとしている人がいるわけです。
ということは、呪いや毒薬によって危害を加えようとしている人もいるわけです。
危害を加えられようとしている人は、そのままでは、呪いや毒薬にやられてしまいます。
そこで、観音の力を念ずることを法華経は教えています。
そうするとどうなるか。危害を加えようとしていた人が発した呪いや毒薬がそのまま、その危害を加えようとしていた人に戻っていくのですね。
所謂、「還著於本人」(還って本人に著きなん)ですね。
注目したいのは、危害を加えられようとしていた人がしているのは、観音の力を念ずることだけです。
直接に、危害を加えようとしていた人に何かをしているわけではありません。
まあ、考えてみれば、危害を加えようとしている人に接するとろくなことがありませんし、どうでもいい火の粉をかぶる可能性も大いにあります。
さて、危害を加えようとしていた人の呪いや毒薬とはどのようなものか。
少し考えてみたいと思います。
自分にとって、この人は気持ち悪いなと思う人や、この人は不愉快だなと思う人がいますが、これらの人は、何がしらの悪意、毒素を発しているものです。
その悪意、毒素が気持ち悪さや、不愉快さを発生させているといえるでしょう。
直感的に嫌だと思うことは、往々にして正しく、変に理屈をこねて嫌だと思わないようにしようとする必要はないでしょう。
「世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴で埋っている」(夏目漱石『草枕』小学館文庫 163頁)わけですが、このような不愉快な人々が発する呪い、悪意、毒素等々にやられてしまってはいけません。
そうはいっても直接に手を下すのは好ましくなく、手を汚すことなく処理したいものです。
そこで、法華経の文を活用しようというわけです。
観音の力、もっと言えば、法華経そのものの力を念ずることにより、その呪い、悪意、毒素をその不愉快な人々にお返しするわけです。
呪い、悪意、毒素をお返しすれば、こちらとしては、もう、何もすることはありません。
その呪い、悪意、毒素によって、不愉快な人がどうなろうと、それは、その不愉快な人の自業自得であり、そちらで始末を付けてくださいというだけのことです。
お返しする時に、「倍返し」「10倍返し」「100倍返し」となるかは、不愉快な人の呪い、悪意、毒素の具合によって決まるでしょう。
こちらとしては、不愉快な人々という変な人たちの相手をすることなく、ただただ、法華経の信仰を透徹させていけばいいだけです。
呪いをかけたい、悪意を持ちたい、毒素を発したいという人は、好きにすればよいでしょう。
勝手にすればよいことです。
こちらは法華経の行者として、その呪い、悪意、毒素を、お返しするだけです。
簡単なことですね。
ただ、注意しなければならないのは、不愉快な人々に仕返しをしようとしたり、懲らしめようとしたりしないことです。
その気持ちそのものが、ある意味、呪いであり、悪意であり、毒素でありますから、こちらがそのような呪い、悪意、毒素を出す必要はありません。
ただただ、法華経通りの信仰をしていけばいいのですね。