法華経の薬王菩薩本事品に「諸余怨敵・皆悉摧滅」との言葉があります。諸々の、その余の怨敵を皆悉く摧いて滅した、という意味です。怨敵を全滅させたということですね。
「諸余怨敵・皆悉摧滅」の前後の文章を確認してみましょう。
「善き哉、善き哉、善男子よ、汝は能く釈迦牟尼仏の法の中に於いて、是の経を受持し、読誦し、思惟し、他人の為に説けり。
所得の福徳無量無辺なり。
火も焼くこと能わず、水も漂わすこと能わじ。
汝の功徳は、千仏共に説きたもうとも尽くさしむること能わじ。
汝今已に能く諸の魔賊を破し、生死の軍を壊し、諸余の怨敵皆悉く摧滅せり。
善男子よ、百千の諸仏、神通力を以て、共に汝を守護したもう。
一切世間の天・人の中に於いて、汝に如く者無し。
唯如来を除いて、其の諸の声聞、辟支仏、乃至菩薩の智慧、禅定も、汝と等しき者有ること無けん」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 448頁)
まず、釈迦牟尼仏の法の中ということですから、仏教の中においてと考えればよいでしょう。
その仏教の中において、是の経、つまり、法華経がポイントとなります。
法華経に関して、「受持」、「読誦」、「思惟」、「説く」という四つの行いをする人には、表現不能なほどの福徳、功徳があるといいます。
そのような福徳、功徳により、魔賊を打ち破ることができ、苦悩を克服すると共に、「諸余怨敵・皆悉摧滅」との言葉通り、その他多くのさまざまな怨敵をもすべて粉砕することができるといいます。
このような人には、百千という多くの仏が「神通力」をもって守護にあたってくれるというのですから、心強い限りです。
そして、十界論と関わってきますが、このような人は、人、天、という次元を超え、また、声聞、辟支仏(縁覚)、菩薩を超えるほどの「智慧」と「禅定」があるといいます。
もちろん、如来(仏)を除いてということです。
つまり、法華経と一体化した人格は、仏と同格であり、別格の存在たり得ると読むことができます。
仏法は、声聞や辟支仏や菩薩といった次元に満足するような法ではないのですね。
その名の通り、仏の法ですから、仏、如来の次元を我が身に開いていくことが肝要です。
人生行路は、魔賊、怨敵だらけといってもよいでしょう。
嫌なこと、苦しいこと、辛いことがあった際は、自らの信仰が透徹していることが前提ですが、すかさず、「諸余怨敵・皆悉摧滅」と口にするなり、念ずるなりして、澱んだ雰囲気を一掃することですね。
嫌な気分を長引かせるのは得策ではありません。
せっかく法華経を信仰しているならば、このようなテクニックを駆使しなければなりません。
その上で、百千の仏による「神通力」で守護されているのだという確信を持てば、恐いものなしです。
ある意味、自分の力には限界があります。
多くの仏の生命による守護をいただくという発想は、よいことだと思われます。
そして、仏の生命を湧現させていけば、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の前後を含むこの法華経の文を自分のものにしたことになります。