「本尊者法華経行者一身当体也」(『日蓮聖人遺文』第3巻 2672頁)
本尊は、どこか遠くにあり、自分自身と関係ないものと思いがちですが、日蓮の言葉からすると、そのような考え方は大きな誤りということになります。
本尊とは法華経の行者の一身の当体であるということですから、法華経の行者といえるほどの人は、その身そのままが本尊の当体ということになります。
人と本尊とは一体となっているということですね。
法華経の行者ほどの人間であるかどうかがポイントとなります。
ただ単に自分自身が本尊というわけにはいきません。
然るべき精進があって、その上で、法華経の行者にならなければなりません。
自分自身を磨いていく中で、法華経の行者になり、自らが根本的に尊い本尊の当体になることが大事ですね。
自分が本尊ということになれば、特別にパワースポットに行く必要もなければ(もちろん行ってもいいわけですが)、特別な場所で修行しなければならないということもありません(もちろん、してもいいわけですが)。
なんといっても、自分が本尊なのですから、どこに移動しようと、自分のいる場所が尊い場所、浄土になります。
このような仏法でなければ、信仰する意味はないでしょう。
どこそこに行かなければ、功徳がないなどという宗教や、お金ばかり要求する宗教は、そもそも偽物です。
法華経の行者の第一人者とは誰なのかと考えてみると、やはり、日蓮をあげることができます。
この点から、日蓮はその身に本尊を体現した人物です。
その日蓮の言葉を研鑽しながら、自らの信仰を透徹させ、自らも本尊を体現するという姿勢でありたいものです。
間違っても、おすがり信仰になってはいけません。
中古価格
¥10,173から
(2012/9/5 20:20時点)