2021年02月16日
「現代日本の開花」講演本文 8/18
夏目漱石「現代日本の開花」明治44,8月和歌山講演 VOL,8/18
これに反して、電車や電話の設備があるにしても、是非今日は向こうまで歩いて行きたいという道楽心の増長する日も年に二度や三度は怒らないとは限りません。
好んで体を使って疲労を求める。
吾々が毎日やる散歩という贅沢も、要するにこの活力消耗の部類に属する積極的な命の取り扱い法の一部分なのであります。
がこの道楽気の増長した時に幸いに行って来いという命令が下れば丁度好いが、まあ大抵はそううまくはいかない。
いいつかった時は、多く歩きたくない時である。
だから歩かないで用を足す工夫をしなければならない。
となると、勢い、訪問が郵便になり、その電報が電話になる理屈です。
詰まるところは、人間存在上の必要上、何か仕事をしなければならないのを、なろうことならしないで用を足して、そうして満足に生きていたいという我儘な了見、と申しましょうかまたはそうそう身を粉(こ)にしてまで働いて生きているんじゃ割に合わない、馬鹿にするねえ、冗談じゃねえという発奮の結果が、怪物のように辣腕(らつわん)な器械力と豹変したのだとみれば、差し支えないでしょう。
この怪物の力で距離が縮まる、時間が縮まる、手数が省ける、すべて義務的の労力が最小低額に切り詰められた上に、また切り詰められて、どこまで押していくかわからないうちに、彼の反対の活力消耗と名付けておいた道楽根性のほうも、また自由我儘の出来る限りを尽くして、これまた瞬時の絶え間なく、天然自然と発達しつつ、とめどもなく前進するのである。
この道楽根性の発展も、道徳家に言わせると、怪しからんとか言いましょう。
がそれは徳義上の問題で、事実上の問題にはなりません。
事実の大局からいえば、活力を吾好む所に、消費するというこの工夫精神は二六時中休みなく働いて、休みっこなく発展しています。
元々社会があればこそ義務的の行動を余儀なくされる人間も、放り出しておけばどこまでも自我本位に立脚するのは、当然だから、自分の好いた刺激に精神なり身体なりを消費しようとするのは、致し方もない仕儀(しぎ=やり方)である。
もっとも好いた刺激に反応して、自由に活力を消耗すると言ったって、何も悪いことをするとは限らない。
道楽だって女を相手にするばかりが道楽じゃない。
好きな真似をするとは、開花の許す限りのあらゆる方面にわたっての話であります。
自分が画がかきたいと思えば、出来るだけ画ばかりかこうとする。
本が読みたければ、差し支えない以上、本ばかり読もうとする。
或いは学問が好きだといって、親の心も知らないで、書斎に入って青くなっている子息(むすこ)がある。
傍(はた=そば)から見れば何のことか分からない。
親父が無理算段の学資を工面して、卒業の上は月給でも取らせて、早く隠居でもしたいと思っているのに、子供のほうでは、活計(くらし)の方なんかまるで無頓着で、ただ天地の真理を発見したいなどと太平楽を並べて、机にもたれて苦り切っているのもある。
親は生計のための修行と考えているのに、子供は道楽のための学問とのみ合点している。
こういうようなわけで、道楽の活力は、いかなる道徳学者も杜絶(とぜつ)するわけにはいかない。
現にその発現は、世の中にどんな形になって、どんなに表れているかということは、この競争激甚(げきじん)の世に、道楽なんどとてんでその存在の権利を承認しないほど家業に励精(れいせい)な人でも、少し注意されれば、肯定しないわけに行かなくなるでしょう。
引用書籍
夏目漱石「現代日本の開花」
講談社学術文庫刊行
これに反して、電車や電話の設備があるにしても、是非今日は向こうまで歩いて行きたいという道楽心の増長する日も年に二度や三度は怒らないとは限りません。
好んで体を使って疲労を求める。
吾々が毎日やる散歩という贅沢も、要するにこの活力消耗の部類に属する積極的な命の取り扱い法の一部分なのであります。
がこの道楽気の増長した時に幸いに行って来いという命令が下れば丁度好いが、まあ大抵はそううまくはいかない。
いいつかった時は、多く歩きたくない時である。
だから歩かないで用を足す工夫をしなければならない。
となると、勢い、訪問が郵便になり、その電報が電話になる理屈です。
詰まるところは、人間存在上の必要上、何か仕事をしなければならないのを、なろうことならしないで用を足して、そうして満足に生きていたいという我儘な了見、と申しましょうかまたはそうそう身を粉(こ)にしてまで働いて生きているんじゃ割に合わない、馬鹿にするねえ、冗談じゃねえという発奮の結果が、怪物のように辣腕(らつわん)な器械力と豹変したのだとみれば、差し支えないでしょう。
この怪物の力で距離が縮まる、時間が縮まる、手数が省ける、すべて義務的の労力が最小低額に切り詰められた上に、また切り詰められて、どこまで押していくかわからないうちに、彼の反対の活力消耗と名付けておいた道楽根性のほうも、また自由我儘の出来る限りを尽くして、これまた瞬時の絶え間なく、天然自然と発達しつつ、とめどもなく前進するのである。
この道楽根性の発展も、道徳家に言わせると、怪しからんとか言いましょう。
がそれは徳義上の問題で、事実上の問題にはなりません。
事実の大局からいえば、活力を吾好む所に、消費するというこの工夫精神は二六時中休みなく働いて、休みっこなく発展しています。
元々社会があればこそ義務的の行動を余儀なくされる人間も、放り出しておけばどこまでも自我本位に立脚するのは、当然だから、自分の好いた刺激に精神なり身体なりを消費しようとするのは、致し方もない仕儀(しぎ=やり方)である。
もっとも好いた刺激に反応して、自由に活力を消耗すると言ったって、何も悪いことをするとは限らない。
道楽だって女を相手にするばかりが道楽じゃない。
好きな真似をするとは、開花の許す限りのあらゆる方面にわたっての話であります。
自分が画がかきたいと思えば、出来るだけ画ばかりかこうとする。
本が読みたければ、差し支えない以上、本ばかり読もうとする。
或いは学問が好きだといって、親の心も知らないで、書斎に入って青くなっている子息(むすこ)がある。
傍(はた=そば)から見れば何のことか分からない。
親父が無理算段の学資を工面して、卒業の上は月給でも取らせて、早く隠居でもしたいと思っているのに、子供のほうでは、活計(くらし)の方なんかまるで無頓着で、ただ天地の真理を発見したいなどと太平楽を並べて、机にもたれて苦り切っているのもある。
親は生計のための修行と考えているのに、子供は道楽のための学問とのみ合点している。
こういうようなわけで、道楽の活力は、いかなる道徳学者も杜絶(とぜつ)するわけにはいかない。
現にその発現は、世の中にどんな形になって、どんなに表れているかということは、この競争激甚(げきじん)の世に、道楽なんどとてんでその存在の権利を承認しないほど家業に励精(れいせい)な人でも、少し注意されれば、肯定しないわけに行かなくなるでしょう。
引用書籍
夏目漱石「現代日本の開花」
講談社学術文庫刊行
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