2021年02月16日
「現代日本の開花」講演本文 16/18
夏目漱石「現代日本の開花」明治44, 8月和歌山講演 VOL,16/18
ところが日本の現代の開花を支配している波は、西洋の潮流で、その波を渡る日本人は西洋人でないのだから、新しい波が寄せる度に、自分がその中で居候をして気兼ねをしているような気持になる。
新しい波はとにかく、いましがたようやくの想いで脱却した古い波の特質やら、真相やらもわきまえるひまのないうちにもう棄てなければならなくなってしまった。
食膳に向かって、皿の数を味わい尽くすどころか、元来どんな御馳走が出たか、ハッキリと眼に映じないまえに、もう膳を引いて、新しいのを並べられたと同じ事であります。
こういう開花の影響を受ける国民はどこかに空虚の感が無ければなりません。
またどこかに不満と不安の念を抱かなければなりません。それをあたかもこの開花が内発的でもあるかのごとき顔をして、得意である人のあるのは宜しくない。
それはよほどハイカラです、宜しくない。
虚偽である。
軽薄でもある。
自分はまだ煙草を喫っても、さも旨そうな風をしたら生意気でしょう。
それを敢えてしなければ立ち行かない日本人は、随分悲惨な国民といわなければならない。
開花の名は下せないかもしれないが、西洋人と日本人の社交を見てもちょっと気が付くでしょう。
西洋人と光彩をする以上、日本本位ではどうしても旨く行きません。
交際しなくても宜いといえばそれまであるが、情けないかな交際しなければいられないのが日本人の現状でありましょう。
而(しか)して強いものと交際すれば、どうしても己を棄てて先方の習慣に従わなければならなくなる。
吾々があの人はフォークの持ちようも知らないとか、ナイフの持ちようも心得ないとか何とか云って、他を批評して得意なのは、つまりは何でもない、ただ西洋人がわれわれより強いからである。
われわれの方が強ければ、彼方(あっち)に此方(こっち)の真似をさせて、主客の位置を易(か)えるのは、容易のことである。
がそういかないから此方(こっち)で先方の真似をする。
しかも自然天然に発展してきた風俗を急に変えるわけにはいかぬから、ただ器械的に西洋の礼式などを覚えるよりほかに仕方がない。
自然と内に発酵して醸された礼式でないから、取って付けたようではなはだ見苦しい。
これは開花じゃない、開花の一端とも言えない程の些細(ささい)なことであるが、そういう些細なことにいたるまで、我々の遣っている事は内発的でない、外発的である。
これを一言にして言えば、現代日本の開花は、皮相上滑りの開花であるという事に帰着するのである。
無論一から十まで何から何までとは言わない。
複雑な問題に対して、そう過激の言葉は慎まなければ悪いが、我々の開花の一部分、あるいは大部分は、いくら己惚(うぬぼ)れて見ても上滑りと評するより仕方がない。
しかしそれが悪いからお止(よ)しなさいと言うのでは無い。
事実已(や)むを得ない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないというのです。
引用書籍
夏目漱石「現代日本の開花」
講談社学術文庫刊行
ところが日本の現代の開花を支配している波は、西洋の潮流で、その波を渡る日本人は西洋人でないのだから、新しい波が寄せる度に、自分がその中で居候をして気兼ねをしているような気持になる。
新しい波はとにかく、いましがたようやくの想いで脱却した古い波の特質やら、真相やらもわきまえるひまのないうちにもう棄てなければならなくなってしまった。
食膳に向かって、皿の数を味わい尽くすどころか、元来どんな御馳走が出たか、ハッキリと眼に映じないまえに、もう膳を引いて、新しいのを並べられたと同じ事であります。
こういう開花の影響を受ける国民はどこかに空虚の感が無ければなりません。
またどこかに不満と不安の念を抱かなければなりません。それをあたかもこの開花が内発的でもあるかのごとき顔をして、得意である人のあるのは宜しくない。
それはよほどハイカラです、宜しくない。
虚偽である。
軽薄でもある。
自分はまだ煙草を喫っても、さも旨そうな風をしたら生意気でしょう。
それを敢えてしなければ立ち行かない日本人は、随分悲惨な国民といわなければならない。
開花の名は下せないかもしれないが、西洋人と日本人の社交を見てもちょっと気が付くでしょう。
西洋人と光彩をする以上、日本本位ではどうしても旨く行きません。
交際しなくても宜いといえばそれまであるが、情けないかな交際しなければいられないのが日本人の現状でありましょう。
而(しか)して強いものと交際すれば、どうしても己を棄てて先方の習慣に従わなければならなくなる。
吾々があの人はフォークの持ちようも知らないとか、ナイフの持ちようも心得ないとか何とか云って、他を批評して得意なのは、つまりは何でもない、ただ西洋人がわれわれより強いからである。
われわれの方が強ければ、彼方(あっち)に此方(こっち)の真似をさせて、主客の位置を易(か)えるのは、容易のことである。
がそういかないから此方(こっち)で先方の真似をする。
しかも自然天然に発展してきた風俗を急に変えるわけにはいかぬから、ただ器械的に西洋の礼式などを覚えるよりほかに仕方がない。
自然と内に発酵して醸された礼式でないから、取って付けたようではなはだ見苦しい。
これは開花じゃない、開花の一端とも言えない程の些細(ささい)なことであるが、そういう些細なことにいたるまで、我々の遣っている事は内発的でない、外発的である。
これを一言にして言えば、現代日本の開花は、皮相上滑りの開花であるという事に帰着するのである。
無論一から十まで何から何までとは言わない。
複雑な問題に対して、そう過激の言葉は慎まなければ悪いが、我々の開花の一部分、あるいは大部分は、いくら己惚(うぬぼ)れて見ても上滑りと評するより仕方がない。
しかしそれが悪いからお止(よ)しなさいと言うのでは無い。
事実已(や)むを得ない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないというのです。
引用書籍
夏目漱石「現代日本の開花」
講談社学術文庫刊行
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