2021年02月16日
「現代日本の開花」講演本文 10/18
夏目漱石「現代日本の開花」明治44,8月和歌山講演 VOL,10/18
けれども実際は同(ど)うか?打ち明けて申せばお互いの生活は甚だ苦しい。
昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛のもとに生活しているのだという自覚がお互いの中にある。
否開花が進めば進むほど競争がますます激しくなって、生活はいよいよ困難になるような気がする。
なるほど以上二種の活力の猛烈な奮闘で開花は勝ち得たに相違ない。
しかしこの開化は一般に生活の程度が高くなったという意味で、生存の苦痛が比較的和らげられたという意味ではありません。
ちょうど小学校の生徒が学問の競争で苦しいのと、大学の学生が学問の競争で苦しいのと、その程度は違うが、比例に至っては同じである如く、昔の人間と今の人間が、どのくらい幸福の程度において違っているかといえば、あるいは不幸の程度において違っているかといえば、活力消耗、活力節約の両工夫において大差はあるかもしれないが、生存競争から生ずる不安や努力に至っては、決して昔より楽になっていない。
否(いな)昔よりかえって苦しくなっているかも知れない。
昔は死ぬか生きるかのために争ったものである。
それだけの努力を敢えてしなければ死んでしまう。
止むを得ないからやる。
加之(しかのみならず)道楽の念はとにかく道楽の途はまだ開けていなかったから、こうしたい、ああしたいという方角も程度も至って微弱なもので、たまに足を押したり手を休めたりして、満足していたくらいのものだろうと思われる。
今日は死ぬか生きるかの問題は大分超越している。
それが変化してむしろ生きるか生きるかという競争になってしまったのであります。
生きるか生きるかというのは、可笑(おか)しゅうございますが、Aの状態で生きるか、Bの状態で生きるかの問題に腐心しなければならないという意味であります。
活力節減の方で例を引いてお話をしますと、人力車を挽(ひ)いて渡世にするか、または自動車のハンドルを握って暮らすかの競争になったのであります。
どっちを家業にしたって命に別状は無いに決まっているが、どっちに行っても労力は同じだとはいわれません。
人力車を挽(ひ)く方が汗がよほど多分にでるでしょう。
自動車の御者になってお客を乗せれば、(もっとも自動車を有(も)つくらいならお客を乗せる必要もないが、)短い時間で長いところが走れる。
糞力はちっとも出さないで済む。
活力節約の結果、楽に仕事が出来る。されば自動車の無い昔はいざ知らず、いやしくも発明される以上、人力車は自動車にまけなければならない。
負ければ追いつかなければならない。
というわけで、少しでも労力を節減し得て、優勢なるものが地平線上に現れて、ここに一つの波瀾を誘うと、ちょうど一種の低気圧と同じ現象が、開花の中に起こって、各部の比例がとれ、平均が回復されるまでは、動揺して已(や)められないのが人間の本来であります。
引用書籍
夏目漱石「現代日本の開花」
講談社学術文庫刊
けれども実際は同(ど)うか?打ち明けて申せばお互いの生活は甚だ苦しい。
昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛のもとに生活しているのだという自覚がお互いの中にある。
否開花が進めば進むほど競争がますます激しくなって、生活はいよいよ困難になるような気がする。
なるほど以上二種の活力の猛烈な奮闘で開花は勝ち得たに相違ない。
しかしこの開化は一般に生活の程度が高くなったという意味で、生存の苦痛が比較的和らげられたという意味ではありません。
ちょうど小学校の生徒が学問の競争で苦しいのと、大学の学生が学問の競争で苦しいのと、その程度は違うが、比例に至っては同じである如く、昔の人間と今の人間が、どのくらい幸福の程度において違っているかといえば、あるいは不幸の程度において違っているかといえば、活力消耗、活力節約の両工夫において大差はあるかもしれないが、生存競争から生ずる不安や努力に至っては、決して昔より楽になっていない。
否(いな)昔よりかえって苦しくなっているかも知れない。
昔は死ぬか生きるかのために争ったものである。
それだけの努力を敢えてしなければ死んでしまう。
止むを得ないからやる。
加之(しかのみならず)道楽の念はとにかく道楽の途はまだ開けていなかったから、こうしたい、ああしたいという方角も程度も至って微弱なもので、たまに足を押したり手を休めたりして、満足していたくらいのものだろうと思われる。
今日は死ぬか生きるかの問題は大分超越している。
それが変化してむしろ生きるか生きるかという競争になってしまったのであります。
生きるか生きるかというのは、可笑(おか)しゅうございますが、Aの状態で生きるか、Bの状態で生きるかの問題に腐心しなければならないという意味であります。
活力節減の方で例を引いてお話をしますと、人力車を挽(ひ)いて渡世にするか、または自動車のハンドルを握って暮らすかの競争になったのであります。
どっちを家業にしたって命に別状は無いに決まっているが、どっちに行っても労力は同じだとはいわれません。
人力車を挽(ひ)く方が汗がよほど多分にでるでしょう。
自動車の御者になってお客を乗せれば、(もっとも自動車を有(も)つくらいならお客を乗せる必要もないが、)短い時間で長いところが走れる。
糞力はちっとも出さないで済む。
活力節約の結果、楽に仕事が出来る。されば自動車の無い昔はいざ知らず、いやしくも発明される以上、人力車は自動車にまけなければならない。
負ければ追いつかなければならない。
というわけで、少しでも労力を節減し得て、優勢なるものが地平線上に現れて、ここに一つの波瀾を誘うと、ちょうど一種の低気圧と同じ現象が、開花の中に起こって、各部の比例がとれ、平均が回復されるまでは、動揺して已(や)められないのが人間の本来であります。
引用書籍
夏目漱石「現代日本の開花」
講談社学術文庫刊
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