願成寺(がんじょうじ)は、山梨県韮崎市神山町鍋山にある曹洞宗の寺院である。山号は鳳凰山。本尊は阿弥陀如来。
概要
甲府盆地の西部、釜無川右岸の氾濫原から市域西部の山麓地域に至る神山地区の東部に位置する。神山町北宮地の武田八幡宮へ至る街道の南側に立地する。中世には巨摩郡武田郷、近世の九筋二領では北山筋鍋山村にあたり、付近には武田八幡宮のほか、神山町鍋山の鍋山山頂には武田信義築城と伝わる白山城跡が存在するなど、甲斐源氏・武田氏ゆかりの史跡が多い。
古代甲斐国では天台宗・真言宗の密教が伝わっており、願成寺も創建当時は天台宗寺院であったと言われる。甲斐国では平安時代後期に常陸国から源義清・清光(逸見冠者)が甲斐国の市河荘へ土着し、その子孫は甲斐源氏として盆地各地へ進出した。山梨県内には義清・清光開創を伝える寺院は多い。
『甲斐国志』に拠れば、願成寺は源清光の子で甲斐源氏棟梁・武田氏始祖の武田信義(願成寺殿)が開祖であると言われる。鎌倉時代に甲斐源氏の一族は源頼朝の粛清を受けて没落する。
戦国時代には守護・武田氏により中興され、臨済宗に改宗されたという。『甲斐国志』によれば、戦国期に住職となった願成寺俊虎(がんじょうじ しゅんこ)は武田晴信(信玄)の甥にあたるとされるが、系譜関係は不明。
武田氏滅亡後、武田遺領を巡る天正壬午の乱や慶長12年(1607年)の火災で寺宝を消失したという。近世には承応年間に然室が中興し、曹洞宗に改宗され、上条南割村の大公寺末寺となる。
所在地 山梨県韮崎市神山町鍋山1111
位置 北緯35度42分27.1秒 東経138度26分6.1秒
山号 鳳凰山
宗派 曹洞宗
本尊 阿弥陀如来
開基 武田信義
札所等 甲斐百八霊場77番
文化財 木造阿弥陀如来及び両脇侍像(国の重要文化財)
五輪塔・阿弥陀三尊像・山号額銅鐘(韮崎市指定文化財)
2024年01月01日
2023年12月30日
鞆淵八幡神社(ともぶちはちまんじんじゃ)は、和歌山県紀の川市中鞆淵にある神社
鞆淵八幡神社(ともぶちはちまんじんじゃ)は、和歌山県紀の川市中鞆淵にある神社。祭神は応神天皇・仲哀天皇・姫大神。旧県社。例祭は毎年10月15日に実施される。
元は石清水八幡宮の荘園である鞆淵荘の産土神を祀るために同八幡宮の別院として平安時代に創建されたと推定されている。
安貞2年(1228年)に石清水八幡宮から神輿が送られ、その後もこの時の仕様のものが製作・使用された。現存の神輿は平安時代末〜鎌倉時代初期のもので国宝に指定されている。また、三間社流造の本殿(寛正3年(1462年)の棟札を有する)および大日堂は重要文化財である。
文化財
国宝
沃懸地螺鈿金銅装神輿(附:神輿奉送目録)
沃懸地(いかけじ)とは漆工芸の技法の一つで、漆を塗った器面に鑢(やすり)で磨り下ろした金粉を密に蒔き詰め、その上からもう一度漆を塗って研ぎ出したもの。沃懸地に螺鈿の装飾は平安時代後期から鎌倉時代の漆工芸品にしばしば見られる。金銅装(こんどうそう)とは、「金銅(銅に金メッキ)の金具で飾った」という意味である。
総高226センチ。12世紀末(平安時代末期〜鎌倉時代初期)の作品。この神輿は、周囲に鳥居や高欄(手すり)を設けない古式のもので、四面の軒下には帽額(もこう)を垂らし、各面に3枚ずつ計12枚の華鬘(けまん)を吊り下げ、屋根の四隅の蕨手にはそれぞれ幡(ばん)を吊り下げる。帽額とは几帳などの上部に目隠しのために垂らした横長の布のことである。帽額、華鬘、幡はいずれも金銅製で宝相華唐草文を透かし彫りし、帽額と幡には木瓜形、華鬘には八花形の鏡板を嵌め込む。四隅の柱は後補のものであるが、框(土台部分の水平材)と桁(屋根荷重を受ける水平材)は当初のもので、沃懸地螺鈿で装飾されている。神輿とともに伝来する奉送目録によると、安貞2年(1228年)、中宮藤原長子により石清水八幡宮に神輿が奉納された際、不用となったこの神輿が別宮である鞆淵八幡神社に奉送されたという。当時、石清水八幡の放生会に際し、中宮が神輿3基を調進・奉納することが例となっていた。鞆淵八幡神社に奉送されたこの神輿の製作年代は、当然ながら安貞2年以前であり、建久3年(1192年)、時の中宮藤原任子が調進したものがこれに該当する可能性が高い。
重要文化財
本殿
大日堂
所在地 和歌山県紀の川市中鞆渕58番地
位置 北緯34度13分13.0秒 東経135度27分36.9秒
主祭神 応神天皇・仲哀天皇・姫大神
本殿の様式 三間社流造
元は石清水八幡宮の荘園である鞆淵荘の産土神を祀るために同八幡宮の別院として平安時代に創建されたと推定されている。
安貞2年(1228年)に石清水八幡宮から神輿が送られ、その後もこの時の仕様のものが製作・使用された。現存の神輿は平安時代末〜鎌倉時代初期のもので国宝に指定されている。また、三間社流造の本殿(寛正3年(1462年)の棟札を有する)および大日堂は重要文化財である。
文化財
国宝
沃懸地螺鈿金銅装神輿(附:神輿奉送目録)
沃懸地(いかけじ)とは漆工芸の技法の一つで、漆を塗った器面に鑢(やすり)で磨り下ろした金粉を密に蒔き詰め、その上からもう一度漆を塗って研ぎ出したもの。沃懸地に螺鈿の装飾は平安時代後期から鎌倉時代の漆工芸品にしばしば見られる。金銅装(こんどうそう)とは、「金銅(銅に金メッキ)の金具で飾った」という意味である。
総高226センチ。12世紀末(平安時代末期〜鎌倉時代初期)の作品。この神輿は、周囲に鳥居や高欄(手すり)を設けない古式のもので、四面の軒下には帽額(もこう)を垂らし、各面に3枚ずつ計12枚の華鬘(けまん)を吊り下げ、屋根の四隅の蕨手にはそれぞれ幡(ばん)を吊り下げる。帽額とは几帳などの上部に目隠しのために垂らした横長の布のことである。帽額、華鬘、幡はいずれも金銅製で宝相華唐草文を透かし彫りし、帽額と幡には木瓜形、華鬘には八花形の鏡板を嵌め込む。四隅の柱は後補のものであるが、框(土台部分の水平材)と桁(屋根荷重を受ける水平材)は当初のもので、沃懸地螺鈿で装飾されている。神輿とともに伝来する奉送目録によると、安貞2年(1228年)、中宮藤原長子により石清水八幡宮に神輿が奉納された際、不用となったこの神輿が別宮である鞆淵八幡神社に奉送されたという。当時、石清水八幡の放生会に際し、中宮が神輿3基を調進・奉納することが例となっていた。鞆淵八幡神社に奉送されたこの神輿の製作年代は、当然ながら安貞2年以前であり、建久3年(1192年)、時の中宮藤原任子が調進したものがこれに該当する可能性が高い。
重要文化財
本殿
大日堂
所在地 和歌山県紀の川市中鞆渕58番地
位置 北緯34度13分13.0秒 東経135度27分36.9秒
主祭神 応神天皇・仲哀天皇・姫大神
本殿の様式 三間社流造
2023年12月29日
正楽寺(しょうらくじ)は、岡山県備前市蕃山に所在する高野山真言宗準別格本山の寺
正楽寺(しょうらくじ)は、岡山県備前市蕃山に所在する高野山真言宗準別格本山の寺。山号は日光山。詳しくは日光山 千手院 正楽寺と号する。本尊は十一面観世音菩薩。中国三十三観音霊場第三番札所、百八観音霊場第四番札所。宗教法人としての名称は「千手院」。
概要
寺伝によれば、奈良時代中期の天平勝宝年間(749年 – 756年)に備前四十八ヶ寺の一つとして報恩大師が開いたとされる。その後衰亡し、鎌倉時代末期の嘉元2年(1304年)に大和国般若寺の僧・信賢が再興し伽藍を整備した。この時の寺院名は勝楽寺であったと伝えられている。
江戸時代初期の元和元年(1615年)に火災により伽藍が焼亡した。岡山藩主池田家は寺院を庇護し伽藍を江戸中期から後期にかけて再び整備した。池田家歴代の位牌が安置されている。
寺院の近くには藩の学者・熊沢蕃山が逼塞した屋敷跡がある。この地は元来、寺口村と言ったが蕃山隠棲の地に因み蕃山村(しげやまむら)と改称された。
所在地 岡山県備前市蕃山1305
位置 北緯34度45分38.4秒 東経134度15分22.5秒
山号 日光山
院号 千手院
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
寺格 準別格本山
本尊 十一面観音
創建年 伝・天平勝宝年間(749年 - 756年)
開基 伝・報恩大師
中興年 嘉元2年(1304年)
中興 信賢
正式名 日光山 千手院 正楽寺
札所等 中国三十三観音3番
百八観音4番
文化財 四座講式(国の重要文化財)
山門・白衣観音図・十一面観音立像(岡山県指定文化財)
本堂・客殿及び玄関・鐘楼(備前市指定文化財)
概要
寺伝によれば、奈良時代中期の天平勝宝年間(749年 – 756年)に備前四十八ヶ寺の一つとして報恩大師が開いたとされる。その後衰亡し、鎌倉時代末期の嘉元2年(1304年)に大和国般若寺の僧・信賢が再興し伽藍を整備した。この時の寺院名は勝楽寺であったと伝えられている。
江戸時代初期の元和元年(1615年)に火災により伽藍が焼亡した。岡山藩主池田家は寺院を庇護し伽藍を江戸中期から後期にかけて再び整備した。池田家歴代の位牌が安置されている。
寺院の近くには藩の学者・熊沢蕃山が逼塞した屋敷跡がある。この地は元来、寺口村と言ったが蕃山隠棲の地に因み蕃山村(しげやまむら)と改称された。
所在地 岡山県備前市蕃山1305
位置 北緯34度45分38.4秒 東経134度15分22.5秒
山号 日光山
院号 千手院
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
寺格 準別格本山
本尊 十一面観音
創建年 伝・天平勝宝年間(749年 - 756年)
開基 伝・報恩大師
中興年 嘉元2年(1304年)
中興 信賢
正式名 日光山 千手院 正楽寺
札所等 中国三十三観音3番
百八観音4番
文化財 四座講式(国の重要文化財)
山門・白衣観音図・十一面観音立像(岡山県指定文化財)
本堂・客殿及び玄関・鐘楼(備前市指定文化財)
2023年12月28日
大念仏寺(だいねんぶつじ)は、大阪府大阪市平野区にある融通念仏宗の総本山の寺院
大念仏寺(だいねんぶつじ)は、大阪府大阪市平野区にある融通念仏宗の総本山の寺院。山号は大源山。本尊は十一尊天得如来(絵像)。創建は大治2年(1127年)とされ、日本最初の念仏道場である。「十一尊天得如来」とは融通念仏宗特有の呼称で、阿弥陀如来と十菩薩の絵像である。
本堂(大阪市指定有形文化財)
歴史
比叡山延暦寺の天台宗僧・良忍が、大治2年(1127年)に鳥羽上皇の勅願により開創した。
摂津国住吉郡平野庄(現・大阪市平野区)の領主である平野殿・坂上広野の私邸内に建立した融通念仏の道場の菩提所・修楽寺の別院が前身となっている。
第6世・良鎮が寿永元年(1182年)に亡くなると、大念仏寺の流派では良い後継者に恵まれず寺勢は振るわなくなった。それでも、融通念仏の教え自体は嵯峨清凉寺、花園法金剛院、壬生地蔵院などで盛んに修せられていた。
元亨元年(1321年)、139年ぶりに第7世として法明が就き大念仏宗(融通念仏宗)を再興すると、大和国當麻寺で行われていた練供養を基にした万部おねりを行い始める。
元和元年(1615年)、平野庄代官の末吉孫左衛門より寺地を寄進され、これまで寺地が一定していなかった大念仏寺がこれによって現在地に堂社を構えることとなった。
慶安2年(1649年)、天台宗寺院である京都大原来迎院の山内寺院・浄蓮華院の一院であり、融通五派の一つであった大原南坊が、大念仏寺は大原南坊の末寺であると言い出す事件が起きた。しかし、大念仏寺は江戸幕府の寺社奉行に大原南坊を訴えると寛文元年(1661年)、勝訴した。
第43世・舜空は大堂を建立した。元禄年間(1688年 - 1704年)には、第46世・大通が諸堂を再建するとともに法儀の用具を完備して、元禄16年(1703年)大念仏宗の名称を融通念仏宗に改めた。以後、大念仏寺は融通念仏宗の本山として現在に至っている。
境内地は24,000m2(約7300坪)、30余りの堂宇があり、本堂は大阪府下最大の木造建築物である。
開祖である良忍上人が京都の大原で修行中、唱える念仏が美しすぎるために近くの滝の轟音がかき消されてしまうといったエピソードがある。現在[いつ?]でもその滝は“音無の滝”として広く知られる。
山門
アクセス
所在地
大阪府大阪市平野区平野上町1丁目7-26
鉄道
平野駅 (JR西日本)より徒歩5分
平野駅 (Osaka Metro)より徒歩8分
バス
大阪シティバス「JR平野駅筋」停留所
近鉄バス「平野元町六丁目」停留所
山号 大源山
院号 諸仏護念院
宗派 融通念仏宗
寺格 総本山
本尊 十一尊天得如来
創建年 大治2年(1127年)
開山 良忍
開基 鳥羽上皇(勅願)
正式名 ゥ佛護念院大源山大念佛寺
札所等 河内西国霊場特別客番
おおさか十三仏霊場第10番
なにわ七幸めぐり
神仏霊場巡拝の道第46番(大阪第5番)
文化財 毛詩鄭箋残巻 1巻(国宝)
明徳版本融通念仏縁起 2巻、浄土論 1巻、後小松天皇宸翰融通念仏勧進帳 1巻(重要文化財)
本堂(大阪市指定有形文化財)
歴史
比叡山延暦寺の天台宗僧・良忍が、大治2年(1127年)に鳥羽上皇の勅願により開創した。
摂津国住吉郡平野庄(現・大阪市平野区)の領主である平野殿・坂上広野の私邸内に建立した融通念仏の道場の菩提所・修楽寺の別院が前身となっている。
第6世・良鎮が寿永元年(1182年)に亡くなると、大念仏寺の流派では良い後継者に恵まれず寺勢は振るわなくなった。それでも、融通念仏の教え自体は嵯峨清凉寺、花園法金剛院、壬生地蔵院などで盛んに修せられていた。
元亨元年(1321年)、139年ぶりに第7世として法明が就き大念仏宗(融通念仏宗)を再興すると、大和国當麻寺で行われていた練供養を基にした万部おねりを行い始める。
元和元年(1615年)、平野庄代官の末吉孫左衛門より寺地を寄進され、これまで寺地が一定していなかった大念仏寺がこれによって現在地に堂社を構えることとなった。
慶安2年(1649年)、天台宗寺院である京都大原来迎院の山内寺院・浄蓮華院の一院であり、融通五派の一つであった大原南坊が、大念仏寺は大原南坊の末寺であると言い出す事件が起きた。しかし、大念仏寺は江戸幕府の寺社奉行に大原南坊を訴えると寛文元年(1661年)、勝訴した。
第43世・舜空は大堂を建立した。元禄年間(1688年 - 1704年)には、第46世・大通が諸堂を再建するとともに法儀の用具を完備して、元禄16年(1703年)大念仏宗の名称を融通念仏宗に改めた。以後、大念仏寺は融通念仏宗の本山として現在に至っている。
境内地は24,000m2(約7300坪)、30余りの堂宇があり、本堂は大阪府下最大の木造建築物である。
開祖である良忍上人が京都の大原で修行中、唱える念仏が美しすぎるために近くの滝の轟音がかき消されてしまうといったエピソードがある。現在[いつ?]でもその滝は“音無の滝”として広く知られる。
山門
アクセス
所在地
大阪府大阪市平野区平野上町1丁目7-26
鉄道
平野駅 (JR西日本)より徒歩5分
平野駅 (Osaka Metro)より徒歩8分
バス
大阪シティバス「JR平野駅筋」停留所
近鉄バス「平野元町六丁目」停留所
山号 大源山
院号 諸仏護念院
宗派 融通念仏宗
寺格 総本山
本尊 十一尊天得如来
創建年 大治2年(1127年)
開山 良忍
開基 鳥羽上皇(勅願)
正式名 ゥ佛護念院大源山大念佛寺
札所等 河内西国霊場特別客番
おおさか十三仏霊場第10番
なにわ七幸めぐり
神仏霊場巡拝の道第46番(大阪第5番)
文化財 毛詩鄭箋残巻 1巻(国宝)
明徳版本融通念仏縁起 2巻、浄土論 1巻、後小松天皇宸翰融通念仏勧進帳 1巻(重要文化財)
2023年12月27日
熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ)は、大分県豊後高田市にある平安時代後期の磨崖仏
熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ)は、大分県豊後高田市にある平安時代後期の磨崖仏である。国の重要文化財(1964年5月26日指定)及び史跡(1955年2月15日指定)に指定されている。
概要
熊野磨崖仏への入り口は、豊後高田市田染の田原山(鋸山)山麓にある今熊野山胎蔵寺(いまくまのさんたいぞうじ)である。この寺の脇から急な山道を300メートルほど分け入ると、鬼が一夜にして積み上げたという伝説が残る自然石を乱積にした石段に達する。この急峻な石段を登ると左手が開け、岩壁に刻まれた2体の巨大な磨崖仏が現れる。磨崖仏の作者は不明だが、六郷山寺院の本尊寺宝等の記載もある安貞の目録には、深明如来の作とされている。実態は不明だが、磨崖仏の裏手には仏師が籠もったとされる洞窟(御所帯場と呼ばれる)などが存在する。
また、石段を登りきると熊野神社がある。
不動明王二童子像
向かって左に位置する高さ約8メートルの半身像。鎌倉時代の作とされ、安山岩質の礫混じりの硬い岩壁に造られたため、彫り口がやや浅く、明王像ではあるが口元に柔和な笑みを浮かべているようにも見える。左右両脇には高さ約3メートルの矜羯羅童子像、制多迦童子像の痕跡が認められる。
大日如来像(如来形像)
向かって右に位置する高さ約6.7メートルの半身像。高さ約8メートルのくぼみ(龕(がん))の中に彫り出されている。螺髪等の造形的特徴から、不動明王像よりも制作年代が遡ると推定されている。光背上部の種子曼荼羅は鎌倉時代の追刻。
通常の大日如来像は菩薩形(髻を結い、装身具を着ける)に造形されるが、本像は頭髪を螺髪としており、本来の像名は不明である。重要文化財指定名称は「如来形(にょらいぎょう)像」となっている。
概要
熊野磨崖仏への入り口は、豊後高田市田染の田原山(鋸山)山麓にある今熊野山胎蔵寺(いまくまのさんたいぞうじ)である。この寺の脇から急な山道を300メートルほど分け入ると、鬼が一夜にして積み上げたという伝説が残る自然石を乱積にした石段に達する。この急峻な石段を登ると左手が開け、岩壁に刻まれた2体の巨大な磨崖仏が現れる。磨崖仏の作者は不明だが、六郷山寺院の本尊寺宝等の記載もある安貞の目録には、深明如来の作とされている。実態は不明だが、磨崖仏の裏手には仏師が籠もったとされる洞窟(御所帯場と呼ばれる)などが存在する。
また、石段を登りきると熊野神社がある。
不動明王二童子像
向かって左に位置する高さ約8メートルの半身像。鎌倉時代の作とされ、安山岩質の礫混じりの硬い岩壁に造られたため、彫り口がやや浅く、明王像ではあるが口元に柔和な笑みを浮かべているようにも見える。左右両脇には高さ約3メートルの矜羯羅童子像、制多迦童子像の痕跡が認められる。
大日如来像(如来形像)
向かって右に位置する高さ約6.7メートルの半身像。高さ約8メートルのくぼみ(龕(がん))の中に彫り出されている。螺髪等の造形的特徴から、不動明王像よりも制作年代が遡ると推定されている。光背上部の種子曼荼羅は鎌倉時代の追刻。
通常の大日如来像は菩薩形(髻を結い、装身具を着ける)に造形されるが、本像は頭髪を螺髪としており、本来の像名は不明である。重要文化財指定名称は「如来形(にょらいぎょう)像」となっている。
2023年12月26日
出石寺(しゅっせきじ)は愛媛県大洲市に所在する真言宗御室派別格本山の寺院
出石寺(しゅっせきじ)は愛媛県大洲市に所在する真言宗御室派別格本山の寺院。金山(きんざん)、光明院(こうみょういん)と号す。本尊は千手千眼観世音菩薩。山号を冠して「金山出石寺」と呼ばれるとともに、地元では親しみを込めて「おいずしさん」と呼ばれる。
四国八十八箇所霊場第四十三番札所準堂、四国別格二十霊場第七番札所、四国三十三観音霊場第十八番札所、西瀬戸三観音霊場、伊予十観音霊場第五番札所、伊予道十観音霊場第九番札所、伊予巡錫二十一霊場第十九番札所、南予七福神・寿老人。
本尊真言:おん ばさら たらま きりく
御詠歌:くもりなき 二名の島の 金山に みのりの光 かがやくを見よ
本堂は最高所に建つ
本堂
出石山の山頂(812m)、
山の中腹ではなく
てっぺんに本堂が建っているお寺です
若き日の弘法大師が
修行したと伝えられています
出石寺 大師像
所在地 愛媛県大洲市豊茂乙1
位置 北緯33度32分8.7秒 東経132度27分56.3秒
山号 金山
院号 光明院
宗派 真言宗御室派
寺格 別格本山
本尊 千手千眼観世音菩薩
創建年 (伝)養老2年(718年)
開基 (伝)道教
正式名 金山 光明院 出石寺
札所等
四国八十八箇所 第43番準堂
四国別格二十霊場 第7番
四国三十三観音霊場 第18番
西瀬戸三観音
伊予十観音 第5番
伊予道前道後十観音霊場 第9番
伊予巡錫二十一霊場 第19番
南予七福神霊場 第6番(寿老尊)
弘法大師雪中修行霊跡
文化財
銅鐘(国の重要文化財)
木造釈迦如来坐像(県文化財)
金山出石寺(県名勝)
四国八十八箇所霊場第四十三番札所準堂、四国別格二十霊場第七番札所、四国三十三観音霊場第十八番札所、西瀬戸三観音霊場、伊予十観音霊場第五番札所、伊予道十観音霊場第九番札所、伊予巡錫二十一霊場第十九番札所、南予七福神・寿老人。
本尊真言:おん ばさら たらま きりく
御詠歌:くもりなき 二名の島の 金山に みのりの光 かがやくを見よ
本堂は最高所に建つ
本堂
出石山の山頂(812m)、
山の中腹ではなく
てっぺんに本堂が建っているお寺です
若き日の弘法大師が
修行したと伝えられています
出石寺 大師像
所在地 愛媛県大洲市豊茂乙1
位置 北緯33度32分8.7秒 東経132度27分56.3秒
山号 金山
院号 光明院
宗派 真言宗御室派
寺格 別格本山
本尊 千手千眼観世音菩薩
創建年 (伝)養老2年(718年)
開基 (伝)道教
正式名 金山 光明院 出石寺
札所等
四国八十八箇所 第43番準堂
四国別格二十霊場 第7番
四国三十三観音霊場 第18番
西瀬戸三観音
伊予十観音 第5番
伊予道前道後十観音霊場 第9番
伊予巡錫二十一霊場 第19番
南予七福神霊場 第6番(寿老尊)
弘法大師雪中修行霊跡
文化財
銅鐘(国の重要文化財)
木造釈迦如来坐像(県文化財)
金山出石寺(県名勝)
2023年12月25日
大縣神社(おおあがたじんじゃ)は、愛知県犬山市にある神社
大縣神社(おおあがたじんじゃ)は、愛知県犬山市にある神社である。旧社格は、式内社(名神大社)・尾張国二宮・旧国幣中社・別表神社。
「大県神社(読みは同じ)」と表記する場合もある。
祭神
祭神は、大縣大神(おおあがたのおおかみ)としている。大縣大神は、国狭槌尊とする説、天津彦根命(大縣主の祖神)とする説、少彦名命とする説、大荒田命(日本武尊の三世孫で迩波縣君の祖)とする説、武恵賀前命(神八井耳命の孫で迩波縣君の祖)とする説などがあり、はっきりしない。いずれにしても、「大縣大神は、尾張国開拓の祖神である」とされている。
祭事
豊年祭
別名「於祖々祭(おそそ祭)」とも言う。毎年3月15日直前の日曜日に行なわれる祭事。女陰をかたどった山車などが練り歩く。この祭りと対になっているのが、田縣(たがた)神社の豊年祭で、こちらでは男根をかたどった神輿が練り歩く。
梅まつり
毎年3月、梅の花が咲く時期に行なわれる祭。俳句大会なども行なわれる。
交通アクセス
名鉄小牧線の楽田駅下車、徒歩で約20分。または、楽田駅東口から犬山市コミュニティバス つつじヶ丘団地行き(平日のみ、祝日も運行)で約8分。
愛知県道177号大県神社線
所在地 愛知県犬山市宮山3
位置 北緯35度19分48.56秒 東経136度57分58.45秒
主祭神 大縣大神
社格等 式内社(名神大)
尾張国二宮
旧国幣中社
別表神社
創建 垂仁天皇27年
本殿の様式 尾張造
例祭 10月10日
「大県神社(読みは同じ)」と表記する場合もある。
祭神
祭神は、大縣大神(おおあがたのおおかみ)としている。大縣大神は、国狭槌尊とする説、天津彦根命(大縣主の祖神)とする説、少彦名命とする説、大荒田命(日本武尊の三世孫で迩波縣君の祖)とする説、武恵賀前命(神八井耳命の孫で迩波縣君の祖)とする説などがあり、はっきりしない。いずれにしても、「大縣大神は、尾張国開拓の祖神である」とされている。
祭事
豊年祭
別名「於祖々祭(おそそ祭)」とも言う。毎年3月15日直前の日曜日に行なわれる祭事。女陰をかたどった山車などが練り歩く。この祭りと対になっているのが、田縣(たがた)神社の豊年祭で、こちらでは男根をかたどった神輿が練り歩く。
梅まつり
毎年3月、梅の花が咲く時期に行なわれる祭。俳句大会なども行なわれる。
交通アクセス
名鉄小牧線の楽田駅下車、徒歩で約20分。または、楽田駅東口から犬山市コミュニティバス つつじヶ丘団地行き(平日のみ、祝日も運行)で約8分。
愛知県道177号大県神社線
所在地 愛知県犬山市宮山3
位置 北緯35度19分48.56秒 東経136度57分58.45秒
主祭神 大縣大神
社格等 式内社(名神大)
尾張国二宮
旧国幣中社
別表神社
創建 垂仁天皇27年
本殿の様式 尾張造
例祭 10月10日
2023年12月24日
極楽寺(ごくらくじ)は、岩手県北上市稲瀬町(旧江刺郡)にある真言宗智山派の寺院
極楽寺(ごくらくじ)は、岩手県北上市稲瀬町(旧江刺郡)にある真言宗智山派の寺院、および、その前身で平安時代に現在の国見山一帯に栄えた山岳仏教寺院。山号は国見山または金福山。
概要
北上市街地の東方、北上川東岸の国見山(244メートル)の山上および山麓一帯には仏堂や仏塔の遺跡が散在し、かつてこの地域に大規模な仏教伽藍の存在したことが明らかである。この寺院跡は「国見山廃寺跡」の名称で国の史跡に指定されている。『日本文徳天皇実録』の天安元年(857年)条に「陸奥国極楽寺、定額寺に預かり」云々の記述があり、この「極楽寺」は国見山廃寺を指すものと推定されている[2][3]。この寺は平安時代初期の9世紀に創建され、発掘調査の結果から、10 - 11世紀に最盛期を迎えたと推定される。伝承では、坂上田村麻呂が異敵降伏のため毘沙門天を祀ったのが始まりであるという。
国見山南麓の谷奥には極楽寺の寺号を継承する小寺院が残っている。また極楽寺の近くにある如意輪寺、国見山北麓の立花毘沙門堂(万福寺)もかつての極楽寺の坊舎の跡と考えられている。立花毘沙門堂には木造毘沙門天立像と木造二天像(いずれも国の重要文化財)が安置されている。
文化財
重要文化財(国指定)
銅竜頭 4頭
銅錫杖頭(どう しゃくじょうとう)1柄
上記2件は極楽寺の所蔵で、平安時代の作である。
所在地 岩手県北上市稲瀬町内門岡30
位置 北緯39度15分45.3秒 東経141度8分23.8秒
山号 国見山
宗派 真言宗智山派
本尊 阿弥陀如来
創建年 850年
札所等 岩手三十三観音霊場一番札所 江刺三十三観音霊場一番札所
文化財 銅竜頭 4頭、銅錫杖頭(重要文化財)
概要
北上市街地の東方、北上川東岸の国見山(244メートル)の山上および山麓一帯には仏堂や仏塔の遺跡が散在し、かつてこの地域に大規模な仏教伽藍の存在したことが明らかである。この寺院跡は「国見山廃寺跡」の名称で国の史跡に指定されている。『日本文徳天皇実録』の天安元年(857年)条に「陸奥国極楽寺、定額寺に預かり」云々の記述があり、この「極楽寺」は国見山廃寺を指すものと推定されている[2][3]。この寺は平安時代初期の9世紀に創建され、発掘調査の結果から、10 - 11世紀に最盛期を迎えたと推定される。伝承では、坂上田村麻呂が異敵降伏のため毘沙門天を祀ったのが始まりであるという。
国見山南麓の谷奥には極楽寺の寺号を継承する小寺院が残っている。また極楽寺の近くにある如意輪寺、国見山北麓の立花毘沙門堂(万福寺)もかつての極楽寺の坊舎の跡と考えられている。立花毘沙門堂には木造毘沙門天立像と木造二天像(いずれも国の重要文化財)が安置されている。
文化財
重要文化財(国指定)
銅竜頭 4頭
銅錫杖頭(どう しゃくじょうとう)1柄
上記2件は極楽寺の所蔵で、平安時代の作である。
所在地 岩手県北上市稲瀬町内門岡30
位置 北緯39度15分45.3秒 東経141度8分23.8秒
山号 国見山
宗派 真言宗智山派
本尊 阿弥陀如来
創建年 850年
札所等 岩手三十三観音霊場一番札所 江刺三十三観音霊場一番札所
文化財 銅竜頭 4頭、銅錫杖頭(重要文化財)
2023年12月23日
佐竹寺(さたけじ)は、茨城県常陸太田市にある真言宗豊山派の寺
佐竹寺(さたけじ)は、茨城県常陸太田市にある真言宗豊山派の寺である。山号は妙福山、院号は明音院。本尊は十一面観音。坂東三十三観音霊場の二十二番札所。
本堂(重要文化財)
歴史
寺記によれば大同2年(807年)徳一の開創とされるが、坂東霊場記では寛和元年(985年)に板東巡礼中の花山院が、随行の元蜜上人に聖徳太子作の十一面観音像を与えて建立させたとされている。建立当時は観音寺と呼ばれ、現在地の北西、稲村神社の北の洞崎の峰にあった。
源義光の孫の源昌義は、寺領を寄進し祈願所とした。昌義はこの寺で節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称したとされる。天文12年(1543年)に兵火により焼失するが、天文15年(1546年)に佐竹氏18代佐竹義昭が佐竹城(太田城)の鬼門除けとして現在地に再建した。最盛期には六支院と三ヶ坊を有したが、関ヶ原の戦いの後、佐竹氏が出羽に移封されたことにより衰退する。それでも、江戸時代は坂東三十三観音霊場の二十二番札所としての賑わいがあったが、明治に入っての廃仏毀釈より荒廃し、昭和24年(1949年)まで無住の寺であった。
建造物
往時をしのぶ建物は本堂のみである。寺院本堂には珍しく北向きに建てられている。本堂は寄棟造、茅葺で、主屋の周囲にこけら葺の裳階(もこし)をめぐらし、正面には唐破風がつく。窓や柱、梁などに桃山建築につながる意匠が見られ、1906年に国の重要文化財に指定された。
山門(仁王門)は昭和15年(1940年)の再建だが、安置されている金剛力士(仁王)像は宝永年間の作とされている。ただし、現在仁王像は修復の為別の場所にあり、 塗装修復が終わった山門のみが見られる。
寺務所は山門を入って右側にあり、納経所[2]も兼ねる。
文化財
重要文化財(国指定)
本堂 - 室町時代後期(1467年-1572年)の建立。桁行五間、梁間五間、一重もこし付、寄棟造、茅葺、もこし正面中央一間唐破風付、こけら葺。明治39年(1906年)04月14日指定。
所在地
茨城県常陸太田市天神林町2404
水郡線(JR東日本)常陸太田駅から茨城交通バス、天神下車(ただし本数が少ないのでタクシーを利用するのが無難)
水郡線常陸太田駅から徒歩30分。
境内散策は自由
位置 北緯36度31分33.7秒 東経140度30分16.8秒
山号 妙福山
宗派 真言宗豊山派
本尊 十一面観音
創建年 1.伝・大同2年(807年)
2.伝・寛和元年(985年)
開基 1.伝・徳一
2.伝・花山院、元蜜上人(開山)
正式名 妙福山 明音院 佐竹寺
札所等 坂東三十三観音22番
文化財 本堂(重要文化財)
本堂(重要文化財)
歴史
寺記によれば大同2年(807年)徳一の開創とされるが、坂東霊場記では寛和元年(985年)に板東巡礼中の花山院が、随行の元蜜上人に聖徳太子作の十一面観音像を与えて建立させたとされている。建立当時は観音寺と呼ばれ、現在地の北西、稲村神社の北の洞崎の峰にあった。
源義光の孫の源昌義は、寺領を寄進し祈願所とした。昌義はこの寺で節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称したとされる。天文12年(1543年)に兵火により焼失するが、天文15年(1546年)に佐竹氏18代佐竹義昭が佐竹城(太田城)の鬼門除けとして現在地に再建した。最盛期には六支院と三ヶ坊を有したが、関ヶ原の戦いの後、佐竹氏が出羽に移封されたことにより衰退する。それでも、江戸時代は坂東三十三観音霊場の二十二番札所としての賑わいがあったが、明治に入っての廃仏毀釈より荒廃し、昭和24年(1949年)まで無住の寺であった。
建造物
往時をしのぶ建物は本堂のみである。寺院本堂には珍しく北向きに建てられている。本堂は寄棟造、茅葺で、主屋の周囲にこけら葺の裳階(もこし)をめぐらし、正面には唐破風がつく。窓や柱、梁などに桃山建築につながる意匠が見られ、1906年に国の重要文化財に指定された。
山門(仁王門)は昭和15年(1940年)の再建だが、安置されている金剛力士(仁王)像は宝永年間の作とされている。ただし、現在仁王像は修復の為別の場所にあり、 塗装修復が終わった山門のみが見られる。
寺務所は山門を入って右側にあり、納経所[2]も兼ねる。
文化財
重要文化財(国指定)
本堂 - 室町時代後期(1467年-1572年)の建立。桁行五間、梁間五間、一重もこし付、寄棟造、茅葺、もこし正面中央一間唐破風付、こけら葺。明治39年(1906年)04月14日指定。
所在地
茨城県常陸太田市天神林町2404
水郡線(JR東日本)常陸太田駅から茨城交通バス、天神下車(ただし本数が少ないのでタクシーを利用するのが無難)
水郡線常陸太田駅から徒歩30分。
境内散策は自由
位置 北緯36度31分33.7秒 東経140度30分16.8秒
山号 妙福山
宗派 真言宗豊山派
本尊 十一面観音
創建年 1.伝・大同2年(807年)
2.伝・寛和元年(985年)
開基 1.伝・徳一
2.伝・花山院、元蜜上人(開山)
正式名 妙福山 明音院 佐竹寺
札所等 坂東三十三観音22番
文化財 本堂(重要文化財)
2023年12月22日
太宰治記念館 「斜陽館」(だざいおさむきねんかん しゃようかん)は、青森県五所川原市にある小説家太宰治の生家
太宰治記念館 「斜陽館」(だざいおさむきねんかん しゃようかん)は、青森県五所川原市にある小説家太宰治の生家。現在は、五所川原市太宰治記念館「斜陽館」として、五所川原市立の施設となっている。また、近代和風住宅の代表例として2004年(平成16年)国の重要文化財に指定されている。
概要
建物は1907年(明治40年)に太宰の父で衆議院議員であった津島源右衛門によって立てられたもの。当時の住所は青森県北津軽郡金木村。
太宰が中学進学に伴い1923年(大正12年)に青森市へ転居するまでこの家で暮らした。東京へ出た後、共産党の非合法活動に協力したり、何度か心中を繰り返したため郷里から勘当された。勘気を許されてこの家に戻る事が許されたのは、1942年(昭和17年)に太宰の母タネが亡くなった後である。その後1945年(昭和20年)、太宰は戦況悪化に伴い妻子を連れて疎開。翌年までこの地にとどまり、文筆活動を続ける。小説『思ひ出』や『津軽』等には太宰がこの家に対して抱いたイメージが記されている。
太宰の死後1950年(昭和25年)に津島家はこの家を売却[1]。町内の旅館経営者が買収し太宰治文学記念館を併設した旅館として改装され太宰の小説『斜陽』から「斜陽館」と命名された[1]。1950年から営業をはじめた旅館「斜陽館」は太宰ファンが多く宿泊に訪れており、中には喫茶店も併設されていた。また文学記念館は宿泊者以外にも公開され、多くの太宰ファンでにぎわった。
しかし、1988年(昭和63年)ごろから宿泊客が減少し、さらに1990年(平成2年)に所得税の申告漏れにより1億円あまりの追徴課税を受けたため経営が悪化。これにより、経営者が手放す旨を発表した。これに対して、1996年(平成8年)金木町(当時)は経営者から斜陽館を買い取り、町営の文学記念館として再出発することになった。旅館は1996年4月7日に廃業し、1998年(平成10年)、名称が現在の《太宰治記念館 「斜陽館」》と改められて改装オープンした。新しく改装された斜陽館では従来のような宿泊は出来なくなったものの太宰の文学資料、また昭和初期の大地主であった津島家の貴重な資料を展示する資料館として多くの観光客、太宰ファンが訪れている。
文化財
重要文化財
旧津島家住宅
主屋 附:棟札1枚
文庫蔵 附:棟札1枚
中の蔵
米蔵
煉瓦塀(2棟)
土地 2,255.55平方メートル
主屋は西を正面とし、西面南寄りに入母屋屋根の玄関がある。玄関の左手には「店」(金融執務室)、右手には事務室があり、「店」の奥には和室がある。玄関を抜けた先は居住空間で、南側を幅の広い「通りにわ」(土間)とし、北側は東西3室・前後2列の計6室を設ける。室名は前列が西から「前座敷」、「茶の間」、「常居」、後列が西から「仏間」、「小座敷」、「小間」となる(室名は資料によって差異がある)。これらの室の東側は広い「板の間」とする。板の間は天井を張らず、トラスの小屋組を見せる。土間の南、建物の東南側の室は現在は休憩室となっているが、当初は女中部屋で、その後炊事場となっていた。玄関脇の階段を上った2階は洋間の応接室のほか、和室7室を設ける。主屋の東に「中の蔵」、その東に「米蔵」、主屋の北に「文庫蔵」(現・展示室)が建つ。津島家住宅は、津軽地方の伝統的な町屋の形式を踏襲しつつ、店、応接室などに洋風意匠を取り入れている。当住宅は、著名作家の生家であるとともに、大規模で質の高い邸宅建築で、蔵、煉瓦塀、庭園などを含む屋敷構えが良好に保存されていることから、文化財としての価値も高い。
交通アクセス
津軽鉄道線金木駅下車、徒歩約7分。
弘南バス小泊線「斜陽館前」下車。
所在地 青森県五所川原市金木町朝日山412-1
位置 北緯40度54分9.36秒 東経140度27分19.41秒
類型 大地主邸宅
形式・構造 木造2階建、入母屋造、和洋折衷建築
敷地面積 2255.55m2
延床面積 1302.48m2
建築年 1907年(明治40年)
文化財 国の重要文化財
概要
建物は1907年(明治40年)に太宰の父で衆議院議員であった津島源右衛門によって立てられたもの。当時の住所は青森県北津軽郡金木村。
太宰が中学進学に伴い1923年(大正12年)に青森市へ転居するまでこの家で暮らした。東京へ出た後、共産党の非合法活動に協力したり、何度か心中を繰り返したため郷里から勘当された。勘気を許されてこの家に戻る事が許されたのは、1942年(昭和17年)に太宰の母タネが亡くなった後である。その後1945年(昭和20年)、太宰は戦況悪化に伴い妻子を連れて疎開。翌年までこの地にとどまり、文筆活動を続ける。小説『思ひ出』や『津軽』等には太宰がこの家に対して抱いたイメージが記されている。
太宰の死後1950年(昭和25年)に津島家はこの家を売却[1]。町内の旅館経営者が買収し太宰治文学記念館を併設した旅館として改装され太宰の小説『斜陽』から「斜陽館」と命名された[1]。1950年から営業をはじめた旅館「斜陽館」は太宰ファンが多く宿泊に訪れており、中には喫茶店も併設されていた。また文学記念館は宿泊者以外にも公開され、多くの太宰ファンでにぎわった。
しかし、1988年(昭和63年)ごろから宿泊客が減少し、さらに1990年(平成2年)に所得税の申告漏れにより1億円あまりの追徴課税を受けたため経営が悪化。これにより、経営者が手放す旨を発表した。これに対して、1996年(平成8年)金木町(当時)は経営者から斜陽館を買い取り、町営の文学記念館として再出発することになった。旅館は1996年4月7日に廃業し、1998年(平成10年)、名称が現在の《太宰治記念館 「斜陽館」》と改められて改装オープンした。新しく改装された斜陽館では従来のような宿泊は出来なくなったものの太宰の文学資料、また昭和初期の大地主であった津島家の貴重な資料を展示する資料館として多くの観光客、太宰ファンが訪れている。
文化財
重要文化財
旧津島家住宅
主屋 附:棟札1枚
文庫蔵 附:棟札1枚
中の蔵
米蔵
煉瓦塀(2棟)
土地 2,255.55平方メートル
主屋は西を正面とし、西面南寄りに入母屋屋根の玄関がある。玄関の左手には「店」(金融執務室)、右手には事務室があり、「店」の奥には和室がある。玄関を抜けた先は居住空間で、南側を幅の広い「通りにわ」(土間)とし、北側は東西3室・前後2列の計6室を設ける。室名は前列が西から「前座敷」、「茶の間」、「常居」、後列が西から「仏間」、「小座敷」、「小間」となる(室名は資料によって差異がある)。これらの室の東側は広い「板の間」とする。板の間は天井を張らず、トラスの小屋組を見せる。土間の南、建物の東南側の室は現在は休憩室となっているが、当初は女中部屋で、その後炊事場となっていた。玄関脇の階段を上った2階は洋間の応接室のほか、和室7室を設ける。主屋の東に「中の蔵」、その東に「米蔵」、主屋の北に「文庫蔵」(現・展示室)が建つ。津島家住宅は、津軽地方の伝統的な町屋の形式を踏襲しつつ、店、応接室などに洋風意匠を取り入れている。当住宅は、著名作家の生家であるとともに、大規模で質の高い邸宅建築で、蔵、煉瓦塀、庭園などを含む屋敷構えが良好に保存されていることから、文化財としての価値も高い。
交通アクセス
津軽鉄道線金木駅下車、徒歩約7分。
弘南バス小泊線「斜陽館前」下車。
所在地 青森県五所川原市金木町朝日山412-1
位置 北緯40度54分9.36秒 東経140度27分19.41秒
類型 大地主邸宅
形式・構造 木造2階建、入母屋造、和洋折衷建築
敷地面積 2255.55m2
延床面積 1302.48m2
建築年 1907年(明治40年)
文化財 国の重要文化財