旧黒澤家住宅(きゅうくろさわけじゅうたく)は、群馬県多野郡上野村にある古民家である。1970年(昭和45年)6月17日、国の重要文化財に指定された。1979年(昭和54年)から上野村所有。
概要
黒澤家は桓武平氏の流れをくむと伝え、黒澤左馬助重時は弘治2年(1556年)ごろに北条氏の家臣として下野皆川城主であったという。北条氏滅亡後に現在の地に移住し、江戸時代には上野村から万場町までの地域の大総代(大庄屋に相当)を務めた。
旧黒澤家住宅の建築年代に関する記録はないが、前身建物が約200年前ごろに火災で焼失し、その後建てられたという伝承があり、建築様式からみて19世紀中頃の建築と推定される。
構造
形式・規模
形式 木造二階建、切妻造、板葺石置屋根
桁行 11間半(21.803メートル)
梁間 8間半(15.940メートル)
軒高 5.0メートル
棟高 8.7メートル
建築面積 348.458平方メートル
間取り[6]
旧黒澤家住宅は、1階床上に13室を有し、「トボーグチ」「ムラゲンカン」「式台」という3つの玄関を南面に設けるなど、通常の農家建築とは異なる特徴を有する。
東第2間、軒桁より1間奥まった位置にある潜り戸のついた幅1間の片開きの大戸が「トボーグチ」で、家族や近所の住人が利用する玄関であった。「トボーグチ」を入ると東西3間南北3間の土間「ダイドコロ」となっており、建物規模の割に土間が狭い点も通常の農家と異なる。「ダイドコロ」北西角には径1.15尺(約35センチ)の大黒柱が位置し、直接棟木を支持している。「ダイドコロ」北の床上は、東西3間南北2間の「オカッテ」となっており、中央に囲炉裏を備える。「オカッテ」北は東西2間半南北2間の「ヒロシキ」となる。
東第4・5間に東西2間南北1間半の広さで設けられているのが「ムラゲンカン」で、村役人などが出入りした[3]。「ムラゲンカン」から入ると東西3間半南北4間半(畳31枚分)に及ぶ最大の部屋「チャノマ」があり、東側は「ダイドコロ」と「オカッテ」に接続している。「チャノマ」北寄りに囲炉裏があり、「チャノマ」北側2間は吹き抜けとなっており、北東に2階への階段がある。吹き抜け部西側の鴨居上には高さ2メートルに達する豪華な神棚が設けられている。「チャノマ」南、「ムラゲンカン」西は南北1間半東西1間半の「化粧ベヤ」となっており「チャノマ」から接続する。「チャノマ」北側は東を東西1間半南北2間の「ナンド」(昭和55・56年の修理以前は「ミソベヤ」となっていた)、西を東西2間南北2間の「キャクマ」とする。
「化粧ベヤ」の西が東西2間南北1間の、第三の玄関「式台」で、代官などが駕籠を乗付けるために低い位置に床板が張られている。「式台」北は東西2間南北2間で北側に幅半間の床を備えた「オシラス」と称する部屋である。「オシラス」北は東西2間南北2間半の「女ベヤ」で、東の「チャノマ」と接続する。「女ベヤ」の北が東西2間南北2間で床・平書院を備えた「主人ベヤ」で、「女ベヤ」と「キャクマ」に接続する。
「オシラス」「女ベヤ」の西は幅半間の廊下となっており、「休息の間」「中の間」「中段の間」に接続する。
「休息の間」「中の間」「中段の間」「上段の間」は南北2間東西2間の座敷を南北に4室続き間としもので、最も北の「上段の間」は床・違い棚・平書院を備え、「中段の間」との境の欄間には透かし彫りの彫刻を施す。
4室の西は幅半間の廊下で、北の突き当たりは下屋の便所につながる。また下屋の東側の便所には、「主人ベヤ」と「キャクマ」から北に張り出した廊下を介して連絡する。
「休息の間」「中の間」「中段の間」「上段の間」「主人ベヤ」は竿縁天井となっている。
2階は吹き抜け部と続き間の上方を除き広い板の間となっていて、南側に窓を並べて養蚕のための空間となっている。
所在地 群馬県多野郡上野村楢原甲200
位置 北緯36度5分13.6秒 東経138度44分9.5秒
類型 庄屋宅
形式・構造 木造二階建、切妻造、板葺石置屋根
建築年 19世紀中期
文化財 国の重要文化財
2024年01月22日
2024年01月21日
第五高等学校(だいごこうとうがっこう)は、1887年(明治20年)5月に熊本区(1889年(明治22年)以降は市制を施行して熊本市)に設立された官立高等中学校を母体とする旧制高等学校
第五高等学校(だいごこうとうがっこう)は、1887年(明治20年)5月に熊本区(1889年(明治22年)以降は市制を施行して熊本市)に設立された官立高等中学校を母体とする旧制高等学校。略称は「五高」(ごこう)。
概要
全国で5校のナンバースクールの高等中学校の一つとして設立された。1887年(明治20年)4月の仙台の旧制二高、金沢の四高に次ぐものである。初期の教員は校長をはじめ一高からの転出者が多く、一高をモデルとした全寮制と寮自治が志向された(寄宿舎は「習学寮」)。
文科・理科よりなる修業年限3年の高等科が設置された。入学者は九州出身者が多く、卒業後の進学先は地元の九州帝国大学よりも東京帝国大学が多かった。
関東の旧制一高、関西の旧制三高、長州(山口)の旧制山口高と並んで、肥後(九州)の旧制五高は、政治家志向、中央官僚志向が強かった。そのため、内閣総理大臣経験者をはじめ、多くの政治家や官僚を輩出した。
新制熊本大学の前身校の一つであり、法文学部および理学部の構成母体となった。
校風は「剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)」。代表寮歌は「東京帝国大学寄贈之歌」、通称「武夫原頭(ぶふげん
とう)」。
旧制高等学校の中では飛び抜けて校地が広く、他の旧制高等学校が2万坪を標準としたのに対し、5万坪の敷地を誇り、陸上用グラウンドと野球用グラウンドを別々に設けるなど、かなり余裕がある使い方をしていた。
戦後、男女共学になり女子学生を受け入れた。
学生帽の白線は3条である。
沿革
1887年(明治20年)
5月 - 第五高等中学校設立。本科・予科を設置。
8月 - 長崎に医学部を設置。
1894年(明治27年)9月 - 高等学校令により第五高等学校に改称。大学予科・医学部を設置。
1897年(明治30年)4月 - 工学部を設置。
1901年(明治34年)4月 - 医学部を分離し長崎医学専門学校として独立。
1906年(明治39年)3月 - 工学部を分離し熊本高等工業学校として独立。
1949年(昭和24年)5月 - 新制熊本大学に包括され、在学生が卒業するまで熊本大学第五高等学校として存続。
1950年(昭和25年)3月 - 最後の卒業生を送り出し、廃校。
校地の変遷と継承
開校当初の校地は熊本市東北の龍田山(立田山)麓に置かれ(龍南校地)、寮歌では「武夫原」(ぶふげん)と歌われた。新制熊本大学への包括後、五高校地は同大学の黒髪キャンパス北地区に継承され現在に至っている。赤煉瓦造の旧本館および旧化学実験場、正門(赤門)は1969年(昭和44年)、国の重要文化財に指定され、1993年(平成5年)には旧・本館が「五高記念館」として公開されている。
創立 1887年(明治20年)
所在地 熊本区(現・熊本県熊本市中央区)
初代校長 野村彦四郎
廃止 1950年(昭和25年)
後身校 熊本大学
同窓会 不明
概要
全国で5校のナンバースクールの高等中学校の一つとして設立された。1887年(明治20年)4月の仙台の旧制二高、金沢の四高に次ぐものである。初期の教員は校長をはじめ一高からの転出者が多く、一高をモデルとした全寮制と寮自治が志向された(寄宿舎は「習学寮」)。
文科・理科よりなる修業年限3年の高等科が設置された。入学者は九州出身者が多く、卒業後の進学先は地元の九州帝国大学よりも東京帝国大学が多かった。
関東の旧制一高、関西の旧制三高、長州(山口)の旧制山口高と並んで、肥後(九州)の旧制五高は、政治家志向、中央官僚志向が強かった。そのため、内閣総理大臣経験者をはじめ、多くの政治家や官僚を輩出した。
新制熊本大学の前身校の一つであり、法文学部および理学部の構成母体となった。
校風は「剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)」。代表寮歌は「東京帝国大学寄贈之歌」、通称「武夫原頭(ぶふげん
とう)」。
旧制高等学校の中では飛び抜けて校地が広く、他の旧制高等学校が2万坪を標準としたのに対し、5万坪の敷地を誇り、陸上用グラウンドと野球用グラウンドを別々に設けるなど、かなり余裕がある使い方をしていた。
戦後、男女共学になり女子学生を受け入れた。
学生帽の白線は3条である。
沿革
1887年(明治20年)
5月 - 第五高等中学校設立。本科・予科を設置。
8月 - 長崎に医学部を設置。
1894年(明治27年)9月 - 高等学校令により第五高等学校に改称。大学予科・医学部を設置。
1897年(明治30年)4月 - 工学部を設置。
1901年(明治34年)4月 - 医学部を分離し長崎医学専門学校として独立。
1906年(明治39年)3月 - 工学部を分離し熊本高等工業学校として独立。
1949年(昭和24年)5月 - 新制熊本大学に包括され、在学生が卒業するまで熊本大学第五高等学校として存続。
1950年(昭和25年)3月 - 最後の卒業生を送り出し、廃校。
校地の変遷と継承
開校当初の校地は熊本市東北の龍田山(立田山)麓に置かれ(龍南校地)、寮歌では「武夫原」(ぶふげん)と歌われた。新制熊本大学への包括後、五高校地は同大学の黒髪キャンパス北地区に継承され現在に至っている。赤煉瓦造の旧本館および旧化学実験場、正門(赤門)は1969年(昭和44年)、国の重要文化財に指定され、1993年(平成5年)には旧・本館が「五高記念館」として公開されている。
創立 1887年(明治20年)
所在地 熊本区(現・熊本県熊本市中央区)
初代校長 野村彦四郎
廃止 1950年(昭和25年)
後身校 熊本大学
同窓会 不明
2024年01月20日
東本願寺(ひがしほんがんじ)は、京都府京都市下京区常葉町にある真宗大谷派の本山寺院
東本願寺(ひがしほんがんじ)は、京都府京都市下京区常葉町にある真宗大谷派の本山寺院。本尊は阿弥陀如来。正式名称は真宗本廟(しんしゅうほんびょう)[2][3]であり、山号はない。東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)に対して東に位置することに由来している。愛称は「お東」「お東さん」。2020年(令和2年)7月現在の門首は、大谷暢裕(修如)。
歴史
天正19年(1591年)、浄土真宗本願寺派法主で本願寺11世の顕如は、豊臣秀吉により新たに寺地の寄進を受け、本願寺を大坂天満から京都堀川六条に移転させた。
慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所(御影堂と阿弥陀堂もあり)を設けて、北方に隠居させられていた教如(顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進された。これにより本願寺は正式に准如(顕如の三男)の西(本願寺派)と、新たに分派してできた教如の東(大谷派)に分立した。この時、江戸幕府内では本願寺派法主の准如が関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方したことから、准如に代わり教如を本願寺派法主にしようとの考えもあったが、浄土真宗の力を削ぐのに有効との考えから結局分立させることになった、ということになっている。しかし、教如は以前から石山合戦以来の自らの派(後の大谷派)を有しており、宗派内部はすでに完全に分裂状態にあった。
分立当初は准如の堀川六条の「本願寺」は「本願寺」「六条門跡」「本門」「にしもんぜき」などと呼ばれ、教如の烏丸七条の「本願寺」は「信淨院(教如の院号)本願寺」「本願寺隠居」「七条本願寺」「信門(「信淨院の門跡」の意)」「ひがしもんぜき」などと呼ばれた。便宜上、堀川六条の本願寺の東側にある烏丸七条の本願寺が「東本願寺」と通称されたため、相対的に堀川六条の本願寺も「西本願寺」と通称されるようになった。
寛永18年(1641年)、3代将軍徳川家光から1万坪の土地が寄進された。寄進された土地は東本願寺から少し東に行ったところであり、以後、飛び地境内となった。その後、承応2年(1653年)に石川丈山によって庭園が造られ、渉成園と名付けられた。
万治元年(1658年)、3年後(寛文元年(1661年))に親鸞聖人四百回御遠忌があるため、それに合わせて老朽化していた阿弥陀堂・御影堂(以下、両堂)を再建する。
寛文10年(1670年)、親鸞聖人を祀る大谷祖廟が造立される。延享2年(1745年)には8代将軍徳川吉宗が、大谷祖廟に隣接している長楽寺の境内地1万坪を没収し、そのまま大谷祖廟に寄進している。
天明8年(1788年)1月の天明の大火によって両堂が焼失するが、寛政10年(1798年)に幕府による用材の寄進もあって両堂は再建された。
文政6年(1823年)11月15日、境内からの失火で両堂が焼失する。天保6年(1835年)、両堂が再建される。
安政5年(1858年)北の町屋からの火で両堂が焼失する。しかし、3年後(文久元年(1861年))に親鸞聖人六百回御遠忌が控えていたために、万延元年(1860年)には早くも両堂は仮堂ながらも再建された。しかし、仮堂とはいえその平面規模は焼失以前の両堂と同規模であった。
元治元年(1864年)7月の禁門の変に伴うどんどん焼けで両堂は焼失する。
東本願寺は、江戸時代に上記にある通り4度の火災に遭っており、その火災の多さから「火出し本願寺」と揶揄された。しかし、東本願寺が火元となったのは、文政6年(1823年)11月15日の火災のみである。
現在の阿弥陀堂と御影堂は1880年(明治13年)に起工され、1895年(明治28年)にようやく落成した建物である。建築・障壁画等の製作には当時の第一級の職人が参加している。
大谷派の最高規範である『真宗大谷派宗憲』(以降、『宗憲』)には、「真宗本廟は、宗祖聖人の真影を安置する御影堂(ごえいどう)及び阿弥陀堂を中心とする聖域であって、本願寺とも称し、本派の崇敬の中心、教法宣布の根本道場である」と規定される。しかし、お東騒動と呼ばれる内紛が起こり、その結果、1987年(昭和62年)に「単位宗教法人(被包括宗教法人) 本願寺(通称:東本願寺)」は、「包括宗教法人 真宗大谷派」によって解散させられ、「包括宗教法人 真宗大谷派」に吸収されてその直属の宗教施設となり、通称:東本願寺は正式名称を「本願寺」から「真宗本廟」に改称した。
よって現在、真宗本廟は真宗大谷派が管理する礼拝施設等(伽藍)の総称であり、宗教法人法による「寺院」ではない(宗教法人法による宗教法人の分類については、宗教法人#単位宗教法人と包括宗教法人を参照。)。
これ以降厳密には本願寺と呼ばれる寺院は、下京においては浄土真宗本願寺派本山の本願寺(通称:西本願寺)のみとなっているのだが、現在でも真宗本廟の通称として「東本願寺」の名称が引き続いて使用されている。
アクセス
所在地 - 京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754番地
京都駅より徒歩7分(経路案内)。
五条駅(京都市営地下鉄烏丸線)より徒歩5分。
京都市営バス烏丸七条バス停より徒歩1分。
開門・閉門時間
3月〜10月 - 5時50分開門、17時30分閉門。
11月〜2月 - 6時20分開門、16時30分閉門。
所在地 京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754
位置 北緯34度59分27.66秒 東経135度45分30.44秒
山号 なし
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
寺格 本山
本尊 阿弥陀如来
創建年 大谷本願寺 - 元亨元年(1321年)
東本願寺 - 慶長7年(1602年)
開基 大谷本願寺 - 覚如(本願寺第3世)
東本願寺 - 教如(本願寺第12世)
中興年 文明3年(1471年)頃
中興 蓮如(本願寺第8世)(吉崎御坊・山科本願寺)
正式名 真宗本廟
(1987年(昭和62年)までは本願寺)
別称 お東、お東さん
文化財 『教行信証』(坂東本)全6冊(国宝)
御影堂、阿弥陀堂、絹本著色親鸞聖人像(安城御影)ほか(重要文化財)
歴史
天正19年(1591年)、浄土真宗本願寺派法主で本願寺11世の顕如は、豊臣秀吉により新たに寺地の寄進を受け、本願寺を大坂天満から京都堀川六条に移転させた。
慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所(御影堂と阿弥陀堂もあり)を設けて、北方に隠居させられていた教如(顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進された。これにより本願寺は正式に准如(顕如の三男)の西(本願寺派)と、新たに分派してできた教如の東(大谷派)に分立した。この時、江戸幕府内では本願寺派法主の准如が関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方したことから、准如に代わり教如を本願寺派法主にしようとの考えもあったが、浄土真宗の力を削ぐのに有効との考えから結局分立させることになった、ということになっている。しかし、教如は以前から石山合戦以来の自らの派(後の大谷派)を有しており、宗派内部はすでに完全に分裂状態にあった。
分立当初は准如の堀川六条の「本願寺」は「本願寺」「六条門跡」「本門」「にしもんぜき」などと呼ばれ、教如の烏丸七条の「本願寺」は「信淨院(教如の院号)本願寺」「本願寺隠居」「七条本願寺」「信門(「信淨院の門跡」の意)」「ひがしもんぜき」などと呼ばれた。便宜上、堀川六条の本願寺の東側にある烏丸七条の本願寺が「東本願寺」と通称されたため、相対的に堀川六条の本願寺も「西本願寺」と通称されるようになった。
寛永18年(1641年)、3代将軍徳川家光から1万坪の土地が寄進された。寄進された土地は東本願寺から少し東に行ったところであり、以後、飛び地境内となった。その後、承応2年(1653年)に石川丈山によって庭園が造られ、渉成園と名付けられた。
万治元年(1658年)、3年後(寛文元年(1661年))に親鸞聖人四百回御遠忌があるため、それに合わせて老朽化していた阿弥陀堂・御影堂(以下、両堂)を再建する。
寛文10年(1670年)、親鸞聖人を祀る大谷祖廟が造立される。延享2年(1745年)には8代将軍徳川吉宗が、大谷祖廟に隣接している長楽寺の境内地1万坪を没収し、そのまま大谷祖廟に寄進している。
天明8年(1788年)1月の天明の大火によって両堂が焼失するが、寛政10年(1798年)に幕府による用材の寄進もあって両堂は再建された。
文政6年(1823年)11月15日、境内からの失火で両堂が焼失する。天保6年(1835年)、両堂が再建される。
安政5年(1858年)北の町屋からの火で両堂が焼失する。しかし、3年後(文久元年(1861年))に親鸞聖人六百回御遠忌が控えていたために、万延元年(1860年)には早くも両堂は仮堂ながらも再建された。しかし、仮堂とはいえその平面規模は焼失以前の両堂と同規模であった。
元治元年(1864年)7月の禁門の変に伴うどんどん焼けで両堂は焼失する。
東本願寺は、江戸時代に上記にある通り4度の火災に遭っており、その火災の多さから「火出し本願寺」と揶揄された。しかし、東本願寺が火元となったのは、文政6年(1823年)11月15日の火災のみである。
現在の阿弥陀堂と御影堂は1880年(明治13年)に起工され、1895年(明治28年)にようやく落成した建物である。建築・障壁画等の製作には当時の第一級の職人が参加している。
大谷派の最高規範である『真宗大谷派宗憲』(以降、『宗憲』)には、「真宗本廟は、宗祖聖人の真影を安置する御影堂(ごえいどう)及び阿弥陀堂を中心とする聖域であって、本願寺とも称し、本派の崇敬の中心、教法宣布の根本道場である」と規定される。しかし、お東騒動と呼ばれる内紛が起こり、その結果、1987年(昭和62年)に「単位宗教法人(被包括宗教法人) 本願寺(通称:東本願寺)」は、「包括宗教法人 真宗大谷派」によって解散させられ、「包括宗教法人 真宗大谷派」に吸収されてその直属の宗教施設となり、通称:東本願寺は正式名称を「本願寺」から「真宗本廟」に改称した。
よって現在、真宗本廟は真宗大谷派が管理する礼拝施設等(伽藍)の総称であり、宗教法人法による「寺院」ではない(宗教法人法による宗教法人の分類については、宗教法人#単位宗教法人と包括宗教法人を参照。)。
これ以降厳密には本願寺と呼ばれる寺院は、下京においては浄土真宗本願寺派本山の本願寺(通称:西本願寺)のみとなっているのだが、現在でも真宗本廟の通称として「東本願寺」の名称が引き続いて使用されている。
アクセス
所在地 - 京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754番地
京都駅より徒歩7分(経路案内)。
五条駅(京都市営地下鉄烏丸線)より徒歩5分。
京都市営バス烏丸七条バス停より徒歩1分。
開門・閉門時間
3月〜10月 - 5時50分開門、17時30分閉門。
11月〜2月 - 6時20分開門、16時30分閉門。
所在地 京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754
位置 北緯34度59分27.66秒 東経135度45分30.44秒
山号 なし
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
寺格 本山
本尊 阿弥陀如来
創建年 大谷本願寺 - 元亨元年(1321年)
東本願寺 - 慶長7年(1602年)
開基 大谷本願寺 - 覚如(本願寺第3世)
東本願寺 - 教如(本願寺第12世)
中興年 文明3年(1471年)頃
中興 蓮如(本願寺第8世)(吉崎御坊・山科本願寺)
正式名 真宗本廟
(1987年(昭和62年)までは本願寺)
別称 お東、お東さん
文化財 『教行信証』(坂東本)全6冊(国宝)
御影堂、阿弥陀堂、絹本著色親鸞聖人像(安城御影)ほか(重要文化財)
2024年01月19日
称念寺(しょうねんじ)は、新潟県上越市にある時宗の寺院
称念寺(しょうねんじ)は、新潟県上越市にある時宗の寺院。
歴史
遊行6代他阿一鎮(1278年 - 1355年)が嘉暦2年(1327年)に越後国府中(新潟県上越市五智。直江津)に建立した。当時は応称寺と称した。越前国長崎道場称念寺の住職が兼務していたため、2代目住職の時に「称念寺」と改称した。後に高田城築城の際に、城下に寺町が設けられ、当寺も移転した。
文化財
重要文化財(国指定)
木造一鎮倚像 - 七条仏師の手になると考えられる寿像
交通アクセス
えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン 高田駅より南西へ徒歩約10分
所在地 新潟県上越市寺町2-11-12
位置 北緯37度06分35.6秒 東経138度14分21.6秒
山号 西方山
院号 無量寿院
宗旨 時宗
宗派 時宗遊行派
本尊 阿弥陀如来像
正式名 西方山無量寿院称念寺
文化財 木造一鎮倚像(重要文化財)
歴史
遊行6代他阿一鎮(1278年 - 1355年)が嘉暦2年(1327年)に越後国府中(新潟県上越市五智。直江津)に建立した。当時は応称寺と称した。越前国長崎道場称念寺の住職が兼務していたため、2代目住職の時に「称念寺」と改称した。後に高田城築城の際に、城下に寺町が設けられ、当寺も移転した。
文化財
重要文化財(国指定)
木造一鎮倚像 - 七条仏師の手になると考えられる寿像
交通アクセス
えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン 高田駅より南西へ徒歩約10分
所在地 新潟県上越市寺町2-11-12
位置 北緯37度06分35.6秒 東経138度14分21.6秒
山号 西方山
院号 無量寿院
宗旨 時宗
宗派 時宗遊行派
本尊 阿弥陀如来像
正式名 西方山無量寿院称念寺
文化財 木造一鎮倚像(重要文化財)
2024年01月18日
圓照寺(えんしょうじ、円照寺)は、福井県小浜市尾崎にある臨済宗南禅寺派の寺院
圓照寺(えんしょうじ、円照寺)は、福井県小浜市尾崎にある臨済宗南禅寺派の寺院。山号は地久山。本尊は大日如来。大和国春日大社の神託で彫られた大日如来像を三笠山にて祀ったのち、南川対岸の谷田部地区の若狭堂谷に真言宗遠松寺を建立し祀ったという。南川の洪水により、文安元年(1444年)に現在地に移して圓照寺と名を改め、より臨済宗南禅寺派に改宗。若狭観音霊場第19番札所。
文化財
重要文化財
木造大日如来坐像[1][2]
平安時代、像高251.5cm。伝春日仏師作。寄木造。寺の公式サイトの説明によれば、国宝、重文指定の63躰の大日如来像の中で4番目の大きさであり、北陸随一の大きさであるという。
木造不動明王立像
平安時代後期、像高158.7cm。檜材の寄木造。
福井県指定名勝
庭園は、自然地形を利用した回遊式庭園である。モリアオガエルの生息地としても知られる。
交通アクセス
JR小浜線小浜駅から車で15分
舞鶴若狭自動車道小浜ICから約5km
若狭西部広域農道木崎から約2km
所在地 福井県小浜市尾崎22-15
位置 北緯35度28分11.9秒 東経135度44分28.6秒
山号 地久山
宗派 臨済宗南禅寺派
本尊 大日如来
創建年 文安元年(1444年)
正式名 地久山圓照寺
札所等 若狭観音霊場 第19番
文化財 大日如来坐像、不動明王立像(国の重要文化財)
庭園(県指定名勝)
文化財
重要文化財
木造大日如来坐像[1][2]
平安時代、像高251.5cm。伝春日仏師作。寄木造。寺の公式サイトの説明によれば、国宝、重文指定の63躰の大日如来像の中で4番目の大きさであり、北陸随一の大きさであるという。
木造不動明王立像
平安時代後期、像高158.7cm。檜材の寄木造。
福井県指定名勝
庭園は、自然地形を利用した回遊式庭園である。モリアオガエルの生息地としても知られる。
交通アクセス
JR小浜線小浜駅から車で15分
舞鶴若狭自動車道小浜ICから約5km
若狭西部広域農道木崎から約2km
所在地 福井県小浜市尾崎22-15
位置 北緯35度28分11.9秒 東経135度44分28.6秒
山号 地久山
宗派 臨済宗南禅寺派
本尊 大日如来
創建年 文安元年(1444年)
正式名 地久山圓照寺
札所等 若狭観音霊場 第19番
文化財 大日如来坐像、不動明王立像(国の重要文化財)
庭園(県指定名勝)
2024年01月17日
円興寺(えんこうじ)は、岐阜県大垣市にある天台宗の寺院
円興寺(えんこうじ)は、岐阜県大垣市にある天台宗の寺院である。山号は篠尾山。本尊は木造聖観音菩薩立像(国の重要文化財)。西美濃三十三霊場第三十二札場。
かつては山頂に存在していた。旧円興寺跡地には礎石が残り、源朝長の墓、源義朝、源義平の供養塔などが残る。現在の円興寺には源朝長の位牌や関わる遺品がある。
境内
沿革
寺伝によれば、790年(延暦9年)、美濃国不破郡青墓(現大垣市青墓町)の大炊氏に懇願され、最澄が開山したという。
1574年(天正2年)、織田信長により焼き討ちにあい、全てを焼失する。この際本尊が勝手に動き、石の上へ難を逃れたという。このことから、本尊を石上観音と呼ぶ。
1658年(万治元年)に再興され、現在地へ移転する。
交通アクセス
東海道本線(美濃赤坂線)美濃赤坂駅より約3km。
東海道本線、養老鉄道養老線大垣駅(大垣駅前バスのりば)1番のりば
名阪近鉄バス「赤坂総合センター」行き終点より約2km。
名阪近鉄バス「池田温泉」行き終点より約3km。
所在地 岐阜県大垣市青墓町880
位置 北緯35度23分55.91秒 東経136度33分20.75秒
山号 篠尾山
宗派 天台宗
本尊 聖観音菩薩(石上観音)
創建年 伝・790年(延暦9年)
開基 伝・最澄
中興年 1658年(万治元年)
札所等 西美濃三十三霊場32番
文化財 木造聖観音立像(国の重要文化財)ほか
かつては山頂に存在していた。旧円興寺跡地には礎石が残り、源朝長の墓、源義朝、源義平の供養塔などが残る。現在の円興寺には源朝長の位牌や関わる遺品がある。
境内
沿革
寺伝によれば、790年(延暦9年)、美濃国不破郡青墓(現大垣市青墓町)の大炊氏に懇願され、最澄が開山したという。
1574年(天正2年)、織田信長により焼き討ちにあい、全てを焼失する。この際本尊が勝手に動き、石の上へ難を逃れたという。このことから、本尊を石上観音と呼ぶ。
1658年(万治元年)に再興され、現在地へ移転する。
交通アクセス
東海道本線(美濃赤坂線)美濃赤坂駅より約3km。
東海道本線、養老鉄道養老線大垣駅(大垣駅前バスのりば)1番のりば
名阪近鉄バス「赤坂総合センター」行き終点より約2km。
名阪近鉄バス「池田温泉」行き終点より約3km。
所在地 岐阜県大垣市青墓町880
位置 北緯35度23分55.91秒 東経136度33分20.75秒
山号 篠尾山
宗派 天台宗
本尊 聖観音菩薩(石上観音)
創建年 伝・790年(延暦9年)
開基 伝・最澄
中興年 1658年(万治元年)
札所等 西美濃三十三霊場32番
文化財 木造聖観音立像(国の重要文化財)ほか
2024年01月16日
英勝寺(えいしょうじ)は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある浄土宗の寺院
英勝寺(えいしょうじ)は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある浄土宗の寺院であり、現在、鎌倉唯一の尼寺である。山号は東光山。寺域は、開基英勝院尼の祖先であり、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌邸跡地とされる。
東国花の寺百ヶ寺鎌倉6番札所。
英勝寺本殿
歴史
徳川家康の側室で、太田道灌4代の太田康資の娘とされるお勝の方は、家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により、後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めた。家康の死後は落飾して英勝院と称したが、その後、3代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷の地を賜り、英勝寺を創建した。
創建にあたっては、徳川頼房の娘・小良姫を7歳の時に玉峯清因と名付け得度させ、これを門主に迎え開山とした。英勝院尼は寛永19年(1642年)没し、英勝寺裏山に葬られた。寛永14年(または15年)に寺領朱印地として池子村(現逗子市池子)420石を与えられたほか、裏山にあたる源氏山(旗立山)も与えられている。
創建の経緯から、その後も代々の住持は水戸家の姫が務め、このため英勝寺は「水戸御殿」や「水戸の尼寺」とも呼ばれた。高貴な姫である住持は人前に出ることはなく、折々の法要は芝増上寺や、鎌倉材木座光明寺の僧が勤めていたという。
しかし明治維新を機に水戸家からの住持は絶え、寺勢は衰えた。その後、明治28年(1895年)に松平家より住持を迎え、さらに大正8年(1919年)以降は東京青山善光寺より住職を招請し、今日に至る。
大正12年(1923年)の関東大震災では山門、庫裏、蔵が倒壊するなど大きな被害を受け、山門はそのまま鎌倉市内山王ヶ谷(小町3丁目)の資産家に売却されたが、有志による復興事業により旧地の礎石上に復興され、2011年5月16日に落慶式が行われた。
山門
文化財
重要文化財
建造物
英勝寺 (5棟一括指定) - 指定年月日:2013年(平成25年)8月7日。
仏殿(附:棟札4枚、扁額1面、梁牌2枚)
山門(附:棟札2枚、扁額2面)
鐘楼
祠堂(附:英勝院墓)
祠堂門
彫刻
木造阿弥陀如来及両脇侍像龕 - 指定年月日:2007年(平成19年)6月8日。(鎌倉国宝館に寄託)
龕]となる四角い白檀材の内部を削りながら阿弥陀三尊像を彫り残す手法で檀龕仏(だんがんぶつ)とよばれる。中尊の阿弥陀如来は宝冠阿弥陀であるが、条帛を掛ける服制が珍しく、肩が張り胸の厚い堂々とした躰型を示し、伏せ目で唇の厚い目鼻立ち、左右に張った耳たぶ、下膨れの顔の輪郭は平安中期の特色である。
鐘楼
交通
JR横須賀線・江ノ島電鉄鎌倉駅下車徒歩15分
所在地 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-16-3
位置 北緯35度19分30.5秒 東経139度32分59.5秒
山号 東光山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀三尊像
創建年 寛永13年(1636年)
開山 玉峯清因尼
開基 英勝院尼
正式名 東光山英勝寺
札所等 東国花の寺百ヶ寺 鎌倉6番
文化財 仏殿など建造物5棟、阿弥陀如来及両脇侍像龕(国の重要文化財)
東国花の寺百ヶ寺鎌倉6番札所。
英勝寺本殿
歴史
徳川家康の側室で、太田道灌4代の太田康資の娘とされるお勝の方は、家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により、後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めた。家康の死後は落飾して英勝院と称したが、その後、3代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷の地を賜り、英勝寺を創建した。
創建にあたっては、徳川頼房の娘・小良姫を7歳の時に玉峯清因と名付け得度させ、これを門主に迎え開山とした。英勝院尼は寛永19年(1642年)没し、英勝寺裏山に葬られた。寛永14年(または15年)に寺領朱印地として池子村(現逗子市池子)420石を与えられたほか、裏山にあたる源氏山(旗立山)も与えられている。
創建の経緯から、その後も代々の住持は水戸家の姫が務め、このため英勝寺は「水戸御殿」や「水戸の尼寺」とも呼ばれた。高貴な姫である住持は人前に出ることはなく、折々の法要は芝増上寺や、鎌倉材木座光明寺の僧が勤めていたという。
しかし明治維新を機に水戸家からの住持は絶え、寺勢は衰えた。その後、明治28年(1895年)に松平家より住持を迎え、さらに大正8年(1919年)以降は東京青山善光寺より住職を招請し、今日に至る。
大正12年(1923年)の関東大震災では山門、庫裏、蔵が倒壊するなど大きな被害を受け、山門はそのまま鎌倉市内山王ヶ谷(小町3丁目)の資産家に売却されたが、有志による復興事業により旧地の礎石上に復興され、2011年5月16日に落慶式が行われた。
山門
文化財
重要文化財
建造物
英勝寺 (5棟一括指定) - 指定年月日:2013年(平成25年)8月7日。
仏殿(附:棟札4枚、扁額1面、梁牌2枚)
山門(附:棟札2枚、扁額2面)
鐘楼
祠堂(附:英勝院墓)
祠堂門
彫刻
木造阿弥陀如来及両脇侍像龕 - 指定年月日:2007年(平成19年)6月8日。(鎌倉国宝館に寄託)
龕]となる四角い白檀材の内部を削りながら阿弥陀三尊像を彫り残す手法で檀龕仏(だんがんぶつ)とよばれる。中尊の阿弥陀如来は宝冠阿弥陀であるが、条帛を掛ける服制が珍しく、肩が張り胸の厚い堂々とした躰型を示し、伏せ目で唇の厚い目鼻立ち、左右に張った耳たぶ、下膨れの顔の輪郭は平安中期の特色である。
鐘楼
交通
JR横須賀線・江ノ島電鉄鎌倉駅下車徒歩15分
所在地 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-16-3
位置 北緯35度19分30.5秒 東経139度32分59.5秒
山号 東光山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀三尊像
創建年 寛永13年(1636年)
開山 玉峯清因尼
開基 英勝院尼
正式名 東光山英勝寺
札所等 東国花の寺百ヶ寺 鎌倉6番
文化財 仏殿など建造物5棟、阿弥陀如来及両脇侍像龕(国の重要文化財)
2024年01月15日
箱崎神社(はこざきじんじゃ)は鹿児島県伊佐市にある神社
箱崎神社(はこざきじんじゃ)は鹿児島県伊佐市にある神社。旧社格は無格社。
祭神
応神天皇
由緒
元寇で動員された地元の武士である丸山氏、赤池氏、淵上氏が筥崎宮の八幡神を勧請して祀ったのが始まりとされる。
社殿
現在の本殿は室町時代初期に建立されたと推定され、大正4年(1915年)11月に改築されているもの。三間社流見世棚造の桟瓦葺。平成元年(1989年)に国の重要文化財に指定された。建築様式に琉球文化の影響が強く見られる特異な建物である。
文化財
重要文化財
本殿(附:宮殿) - 室町時代後期(1467年
-1572年)の建立。三間社流見世棚造、桟瓦葺。三間社流造の社殿で、建築年代を確定する資料はないが、室町時代後期の建築様式を示している。この本殿は地方色が濃い。柱・組物など主要部材にクスノキを用い、また向拝各柱間に入る頭貫を唐破風状に作ることなどは、九州地方の古建築にみられる地方色である。この建物は南九州地方における数少ない中世建築のひとつであり、細部に地方色を濃厚にもっている建築として価値がある。平成元年(1989年)05月19日指定。
所在地 鹿児島県伊佐市菱刈市山790
位置 北緯32度02分57.3秒 東経130度38分22.5秒
主祭神 応神天皇
社格等 旧無格社
本殿の様式 三間社流見世棚造桟瓦葺
例祭 10月15日
祭神
応神天皇
由緒
元寇で動員された地元の武士である丸山氏、赤池氏、淵上氏が筥崎宮の八幡神を勧請して祀ったのが始まりとされる。
社殿
現在の本殿は室町時代初期に建立されたと推定され、大正4年(1915年)11月に改築されているもの。三間社流見世棚造の桟瓦葺。平成元年(1989年)に国の重要文化財に指定された。建築様式に琉球文化の影響が強く見られる特異な建物である。
文化財
重要文化財
本殿(附:宮殿) - 室町時代後期(1467年
-1572年)の建立。三間社流見世棚造、桟瓦葺。三間社流造の社殿で、建築年代を確定する資料はないが、室町時代後期の建築様式を示している。この本殿は地方色が濃い。柱・組物など主要部材にクスノキを用い、また向拝各柱間に入る頭貫を唐破風状に作ることなどは、九州地方の古建築にみられる地方色である。この建物は南九州地方における数少ない中世建築のひとつであり、細部に地方色を濃厚にもっている建築として価値がある。平成元年(1989年)05月19日指定。
所在地 鹿児島県伊佐市菱刈市山790
位置 北緯32度02分57.3秒 東経130度38分22.5秒
主祭神 応神天皇
社格等 旧無格社
本殿の様式 三間社流見世棚造桟瓦葺
例祭 10月15日
2024年01月14日
斑鳩寺(いかるがでら)は、兵庫県揖保郡太子町鵤(いかるが)にある天台宗の寺院
斑鳩寺(いかるがでら)は、兵庫県揖保郡太子町鵤(いかるが)にある天台宗の寺院。山号はなし。本尊は釈迦如来・薬師如来・如意輪観音。新西国三十三箇所第32番札所。
三重塔(重要文化財)
歴史
伝承によれば、推古天皇14年(606年)、聖徳太子が推古天皇から播磨国揖保郡の土地360町歩を賜り、大和国斑鳩宮から移住し当地を斑鳩荘(鵤荘)と命名、政所と寺院を建立したとされる。これが斑鳩寺の始まりと伝える。推古天皇14年(606年)に聖徳太子が推古天皇に法華経を講義して、播磨国の水田を賜ったことは史実と認められ、その縁で当地に斑鳩寺が建てられたものと思われる。
長らく七堂伽藍と数十の坊庵を誇る大寺院であったが、室町時代後期の天文10年(1541年)4月7日、播磨国に攻め込んできた出雲国の守護大名である尼子氏の戦禍を受け、灰燼に帰した。後に龍野城主・赤松政秀とその子赤松広英、中興・楽々山円勝寺(現・たつの市)の円光院昌仙などの発願で徐々に復興していった。また復興を機に、従来法隆寺別院であったのを天台宗へ改めている。
豊臣秀吉から300石を寄進され、江戸時代には歴代将軍の御朱印地となった。
聖徳殿奥殿
講堂
所在地 兵庫県揖保郡太子町鵤709
位置 北緯34度50分13.41秒 東経134度34分31.62秒
山号 なし
宗派 天台宗
本尊 釈迦如来・薬師如来・如意輪観音(全て重要文化財)
創建年 伝・推古天皇14年(606年)
開基 伝・聖徳太子
中興 昌仙
正式名 斑鳩寺
別称 お太子さん、はんきゅうじ
札所等 新西国三十三箇所第32番
西国薬師四十九霊場第23番
播州薬師霊場第18番
聖徳太子霊跡第28番
文化財 三重塔、釈迦如来坐像、薬師如来坐像、如意輪観音坐像ほか(重要文化財)
三重塔(重要文化財)
歴史
伝承によれば、推古天皇14年(606年)、聖徳太子が推古天皇から播磨国揖保郡の土地360町歩を賜り、大和国斑鳩宮から移住し当地を斑鳩荘(鵤荘)と命名、政所と寺院を建立したとされる。これが斑鳩寺の始まりと伝える。推古天皇14年(606年)に聖徳太子が推古天皇に法華経を講義して、播磨国の水田を賜ったことは史実と認められ、その縁で当地に斑鳩寺が建てられたものと思われる。
長らく七堂伽藍と数十の坊庵を誇る大寺院であったが、室町時代後期の天文10年(1541年)4月7日、播磨国に攻め込んできた出雲国の守護大名である尼子氏の戦禍を受け、灰燼に帰した。後に龍野城主・赤松政秀とその子赤松広英、中興・楽々山円勝寺(現・たつの市)の円光院昌仙などの発願で徐々に復興していった。また復興を機に、従来法隆寺別院であったのを天台宗へ改めている。
豊臣秀吉から300石を寄進され、江戸時代には歴代将軍の御朱印地となった。
聖徳殿奥殿
講堂
所在地 兵庫県揖保郡太子町鵤709
位置 北緯34度50分13.41秒 東経134度34分31.62秒
山号 なし
宗派 天台宗
本尊 釈迦如来・薬師如来・如意輪観音(全て重要文化財)
創建年 伝・推古天皇14年(606年)
開基 伝・聖徳太子
中興 昌仙
正式名 斑鳩寺
別称 お太子さん、はんきゅうじ
札所等 新西国三十三箇所第32番
西国薬師四十九霊場第23番
播州薬師霊場第18番
聖徳太子霊跡第28番
文化財 三重塔、釈迦如来坐像、薬師如来坐像、如意輪観音坐像ほか(重要文化財)
2024年01月13日
円通寺(えんつうじ)は、広島県庄原市本郷町にある臨済宗妙心寺派の寺院
円通寺(えんつうじ)は、広島県庄原市本郷町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は慈高山。本尊は千手観音菩薩。
歴史
この寺の創建年代等については不詳であるが、奈良時代の僧行基が千手堂を建立したのに始まるとも、1324年(正中元年)備後国守護代山内首藤通資によって創建されたとも伝えられる。なお、この寺は天文年間(1532年 - 1555年)に)備後山内氏九代山内直通により中興されている。
備後山内氏甲山城の城郭に位置する。
備後山内氏菩提寺である。
文化財
重要文化財(国指定)
本堂 (附 厨子)
所在地 広島県庄原市本郷町233
位置 北緯34度51分8.9秒 東経132度57分15.5秒
山号 慈高山
宗旨 臨済宗
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 千手観音菩薩
創建年 正中元年元和6年(1324年)
開基 山内首藤通資
中興年 約1500年
中興 山内直通
文化財 本堂(重要文化財)
歴史
この寺の創建年代等については不詳であるが、奈良時代の僧行基が千手堂を建立したのに始まるとも、1324年(正中元年)備後国守護代山内首藤通資によって創建されたとも伝えられる。なお、この寺は天文年間(1532年 - 1555年)に)備後山内氏九代山内直通により中興されている。
備後山内氏甲山城の城郭に位置する。
備後山内氏菩提寺である。
文化財
重要文化財(国指定)
本堂 (附 厨子)
所在地 広島県庄原市本郷町233
位置 北緯34度51分8.9秒 東経132度57分15.5秒
山号 慈高山
宗旨 臨済宗
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 千手観音菩薩
創建年 正中元年元和6年(1324年)
開基 山内首藤通資
中興年 約1500年
中興 山内直通
文化財 本堂(重要文化財)