武蔵御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)は、東京都青梅市(旧武蔵国多磨郡)にある御嶽神社。武蔵御岳山の山上に鎮座する。
御岳、御嶽とは修験道の中心地である吉野地方(奈良県)の金峯山を指している。蔵王権現、櫛真智命などを祀り、山岳信仰の霊場として中世以降発展し、武蔵・相模に渡る信仰圏を獲得した。式内社の大麻止乃豆天神社(「武蔵国の式内社一覧」参照)であるという説があり、旧府社である。現在は神社本庁に属していない単立神社である。
ご眷属の大口真神(おいぬ様)も祀っていることから、祈願のため犬を連れた参拝客が近年増えており、御岳登山鉄道は、ケージを用いずに犬を乗車させることができる。
祭神
蔵王権現
櫛真智命
大己貴命
少彦名命
安閑天皇
日本武尊
由緒
崇神天皇7年(紀元前91年)の創建とされ、天平8年(736年)に行基が蔵王権現を勧請したといわれる。
文暦元年(1234年)に大中臣国兼が荒廃していた社殿を再興し、以降は修験場として知られ、関東の武家政権や武士から多くの武具が奉納される。江戸時代には、慶長10年(1605年)に大久保長安を普請奉行として本社が、元禄13年(1700年)には幣殿と拝殿が建立された。
明治に入ると神仏分離によって、それまでの御嶽大権現(御嶽蔵王権現)から大麻止乃豆天神社に改称した。これは当社が延喜式に載せられている「大麻止乃豆天神社」に比定されたためであるが、同様に大麻止乃豆天神社であると比定される神社が他にもあったため(東京都稲城市大丸の大麻止乃豆乃天神社)、御嶽神社と改称した。昭和27年(1952年)に現在の武蔵御嶽神社に改称した。
祭事
1月1日:元旦祭
2月3日:節分祭
3月8日:春季大祭
5月7日・8日:日の出祭(例大祭)
6月30日:大祓
9月29日:流鏑馬祭
10月体育の日前の土日:薪神楽
11月8日:秋季大祭
交通
公共交通機関
JR東日本青梅線御嶽駅下車
御嶽駅より西東京バスで「ケーブル下」停留所下車(10分)
御岳登山鉄道滝本駅より御岳山駅下車(6分)
御岳山駅より徒歩(25分)
駐車場
「滝本駅」に有料駐車場有。
徒歩
「滝本駅」より山上まで参道を徒歩約1時間。
一般車は滝本駅まで乗り入れ可能。滝本駅から山頂までは指定車両以外は通行禁止。
所在地 東京都青梅市御岳山176
位置 北緯35度46分58.2秒 東経139度9分0秒
主祭神 櫛真智命
社格等 式内社(小)論社
旧府社
創建 (伝)崇神天皇7年(紀元前91年)
本殿の様式 一間社神明造
例祭 春季大祭(3月8日)
例大祭・日の出祭(5月7日・8日)
大祓(6月30日)
秋季大祭(11月8日)
2024年02月03日
2024年02月01日
旧花野井家住宅(きゅうはなのいけじゅうたく)は千葉県野田市にある古民家
旧花野井家住宅(きゅうはなのいけじゅうたく)は千葉県野田市にある古民家。国の重要文化財に指定されている歴史的建造物である。
概要
花野井家は江戸時代、代々幕府直轄の小金牧の牧士を任され、名字帯刀を許された家柄である。小金牧は現代の千葉県北西部に位置した広大な牧である。野馬奉行配下で牧の管理、野馬の捕獲を指揮したのがこの牧士である。野馬の捕獲は多くの農民を動員し、たいそうな賑わいで、はるばる江戸からも見物客が訪れ、それを目当てに茶店まで出来たそうである。捕獲した馬の多くは民間に払い下げられたという。
花野井家住宅は元々流山市の前ヶ崎城址付近にあった花野井四郎氏の家屋を1971年(昭和46年)に野田市へ寄贈・移築したものであり、現在は野田市郷土博物館の展示施設として公開されている。清水公園の南側隣接地にあり、慈光山金乗院と同様に事実上当公園と一体化している。旧花野井家住宅は1969年(昭和44年)6月20日に国の重要文化財に指定された。
建築概要
建築年代は17世紀後半。
桁行15.5 m、梁間9.1 m、平屋。
屋根は寄棟造、茅葺。
移転前は間口10間半、奥行5間半の大きさだったが、移転後は間口8間、奥行5間の建造当初の規模に復原された。正面左側に土間、中央に囲炉裏付きの居間、奥には部屋と納屋、右側には玄関、中の間、床の間付き奥の間が配されている。
現在でも茅葺き屋根の保護のため、しばしば囲炉裏の煙で燻している(囲炉裏の煙には防虫・放湿効果がある)。
所在地
〒278-0043 千葉県野田市清水馬作902
アクセス
東武野田線清水公園駅より徒歩10分。
公開時間・料金
9:00-16:00
入場料:無
休館日:月・火(祝日の場合は翌日)、年末年始
概要
花野井家は江戸時代、代々幕府直轄の小金牧の牧士を任され、名字帯刀を許された家柄である。小金牧は現代の千葉県北西部に位置した広大な牧である。野馬奉行配下で牧の管理、野馬の捕獲を指揮したのがこの牧士である。野馬の捕獲は多くの農民を動員し、たいそうな賑わいで、はるばる江戸からも見物客が訪れ、それを目当てに茶店まで出来たそうである。捕獲した馬の多くは民間に払い下げられたという。
花野井家住宅は元々流山市の前ヶ崎城址付近にあった花野井四郎氏の家屋を1971年(昭和46年)に野田市へ寄贈・移築したものであり、現在は野田市郷土博物館の展示施設として公開されている。清水公園の南側隣接地にあり、慈光山金乗院と同様に事実上当公園と一体化している。旧花野井家住宅は1969年(昭和44年)6月20日に国の重要文化財に指定された。
建築概要
建築年代は17世紀後半。
桁行15.5 m、梁間9.1 m、平屋。
屋根は寄棟造、茅葺。
移転前は間口10間半、奥行5間半の大きさだったが、移転後は間口8間、奥行5間の建造当初の規模に復原された。正面左側に土間、中央に囲炉裏付きの居間、奥には部屋と納屋、右側には玄関、中の間、床の間付き奥の間が配されている。
現在でも茅葺き屋根の保護のため、しばしば囲炉裏の煙で燻している(囲炉裏の煙には防虫・放湿効果がある)。
所在地
〒278-0043 千葉県野田市清水馬作902
アクセス
東武野田線清水公園駅より徒歩10分。
公開時間・料金
9:00-16:00
入場料:無
休館日:月・火(祝日の場合は翌日)、年末年始
2024年01月31日
焼火神社(たくひじんじゃ、たくびじんじゃ)は、島根県隠岐郡西ノ島町にある神社
焼火神社(たくひじんじゃ、たくびじんじゃ)は、島根県隠岐郡西ノ島町にある神社。島前の西ノ島における最高峰、焼火山の8合目辺りに鎮座する旧県社。航海安全の守護神として遠く三陸海岸まで信仰を集めた。本殿・通殿・拝殿からなる社殿は国の重要文化財に指定。重要有形民俗文化財の和船トモドも所有する。
本殿
社名
明治以前は焼火山雲上寺(たくひさんうんじょうじ)と号し、焼火社、焚火社、離火社(いずれも「たくひ(び)のやしろ」、または「たくひ(び)しゃ」と訓む)とも称されたが、明治初頭の神仏判然令を受けて現社名に改めた。
祭神
大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)を祀る。なお、大日孁貴尊は天照大神の別称である。
焼火山は古く「大山(おおやま)」と称され、元来は山自体を神体として北麓の大山神社において祭祀が執行されたと見られているが
、後世修験道が盛行するに及ぶとその霊場とされて地蔵尊を祀り、これを焼火山大権現と号した。やがて祭神を大日孁貴尊とする伝えも起こって、元禄16年(1703年)には「焼火山大権現宮(中略)伊勢太神宮同躰ナリ、天照大日孁貴、離火社神霊是ナリ、手力雄命左陽、万幡姫命右陰」(『島前村々神名記』)と伊勢の皇大神宮(内宮)と同じ神社で、伊勢神宮同様3座を同殿に祀ると説くようにもなり、明治初頭に大日孁貴尊のみを祀る現在の形となった。
文化財
国指定
本殿・通殿・拝殿 1棟(重要文化財(建造物)、平成4年8月10日)
附(つけたり) - 宮殿(厨子)1基、旧内陣扉構1式、棟札7枚、仁王経(裏書に材木注文あり)1巻、文書1冊、絵図1鋪
トモド1隻(重要有形民俗文化財、昭和30年2月3日)
和船の1種で、長さ20尺5寸最大幅3尺。樅材を刳り抜いた重木仕立て(船腹から船底にかけて繰り出す「く」字形の船材を用いた丸木舟)。その製作技法もさることながら、用法も隠岐独特なものとされる。古来、隠岐にも海人の活動が見られるが、一般的な海人が素潜りによる海草や貝類の漁撈で知られるのに対し、隠岐では素潜りは行わず、トモド船から海底を覗き込み、鉤(かぎ)や杈(やす)といった漁具を使って鮑や栄螺を収穫する、熟練の必要な「カナギ漁」を行っていた。貞享4年(1687年)の『隠岐記』に、当時で島前に327艘、島後に197艘ものトモドがあったと記録され、かつては隠岐諸島に存在した船舶の大部分を占めたと言われるが、現存するのはこの1艘のみである。
拝殿 斜面に沿うように本殿と繋いでいる部分が通殿。
所在地 島根県隠岐郡西ノ島町美田1294
位置 北緯36度4分24.2秒 東経133度1分42.9秒
主祭神 大日孁貴尊
社格等 旧県社
創建 伝 一条天皇朝
本殿の様式 一間社流造銅板葺
別名 隠岐の権現さん
例祭 7月23日
主な神事 龍灯祭(旧暦12月大晦日)
本殿
社名
明治以前は焼火山雲上寺(たくひさんうんじょうじ)と号し、焼火社、焚火社、離火社(いずれも「たくひ(び)のやしろ」、または「たくひ(び)しゃ」と訓む)とも称されたが、明治初頭の神仏判然令を受けて現社名に改めた。
祭神
大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)を祀る。なお、大日孁貴尊は天照大神の別称である。
焼火山は古く「大山(おおやま)」と称され、元来は山自体を神体として北麓の大山神社において祭祀が執行されたと見られているが
、後世修験道が盛行するに及ぶとその霊場とされて地蔵尊を祀り、これを焼火山大権現と号した。やがて祭神を大日孁貴尊とする伝えも起こって、元禄16年(1703年)には「焼火山大権現宮(中略)伊勢太神宮同躰ナリ、天照大日孁貴、離火社神霊是ナリ、手力雄命左陽、万幡姫命右陰」(『島前村々神名記』)と伊勢の皇大神宮(内宮)と同じ神社で、伊勢神宮同様3座を同殿に祀ると説くようにもなり、明治初頭に大日孁貴尊のみを祀る現在の形となった。
文化財
国指定
本殿・通殿・拝殿 1棟(重要文化財(建造物)、平成4年8月10日)
附(つけたり) - 宮殿(厨子)1基、旧内陣扉構1式、棟札7枚、仁王経(裏書に材木注文あり)1巻、文書1冊、絵図1鋪
トモド1隻(重要有形民俗文化財、昭和30年2月3日)
和船の1種で、長さ20尺5寸最大幅3尺。樅材を刳り抜いた重木仕立て(船腹から船底にかけて繰り出す「く」字形の船材を用いた丸木舟)。その製作技法もさることながら、用法も隠岐独特なものとされる。古来、隠岐にも海人の活動が見られるが、一般的な海人が素潜りによる海草や貝類の漁撈で知られるのに対し、隠岐では素潜りは行わず、トモド船から海底を覗き込み、鉤(かぎ)や杈(やす)といった漁具を使って鮑や栄螺を収穫する、熟練の必要な「カナギ漁」を行っていた。貞享4年(1687年)の『隠岐記』に、当時で島前に327艘、島後に197艘ものトモドがあったと記録され、かつては隠岐諸島に存在した船舶の大部分を占めたと言われるが、現存するのはこの1艘のみである。
拝殿 斜面に沿うように本殿と繋いでいる部分が通殿。
所在地 島根県隠岐郡西ノ島町美田1294
位置 北緯36度4分24.2秒 東経133度1分42.9秒
主祭神 大日孁貴尊
社格等 旧県社
創建 伝 一条天皇朝
本殿の様式 一間社流造銅板葺
別名 隠岐の権現さん
例祭 7月23日
主な神事 龍灯祭(旧暦12月大晦日)
2024年01月30日
旧五輪教会堂(きゅうごりんきょうかいどう)は、長崎県五島市の久賀島にあるキリスト教(カトリック教会)の教会堂(聖堂)
旧五輪教会堂(きゅうごりんきょうかいどう)は、長崎県五島市の久賀島にあるキリスト教(カトリック教会)の教会堂(聖堂)である。1881年(明治14年)に建てられたカトリック浜脇教会の旧教会堂をそのまま移築したもので、国の重要文化財に指定されており、ユネスコの世界遺産(文化遺産)候補で2018年に登録審査が決まり、同年6月30日に世界遺産登録が決定した「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する「久賀島の集落」に包括される教会である。
1985年(昭和60年)、隣接地にカトリック五輪教会が建てられたことにより福江市(現在は五島市)に寄贈され、保存公開されている。
沿革
1881年(明治14年)4月20日 - 久賀島で最初の教会堂であるカトリック浜脇教会が完成。
1931年(昭和6年) - 浜脇教会の改築に伴い、浜脇教会の旧教会堂を解体。その資材を五輪地区へ運び、旧五輪教会を建設。
1985年(昭和60年)2月14日 - 長崎県の有形文化財に指定。
1985年6月23日 - 旧聖堂のすぐ右側に新聖堂建設、献堂(新聖堂は原則として非公開)。
1999年(平成11年)5月13日 - 旧五輪教会堂が国の重要文化財に指定される。
2015年(平成27年)10月1日 - 拝観が事前予約制となる。
2016年(平成28年) - 世界遺産としては「禁教期に焦点を絞るべき」との指摘をうけ推薦が一旦取り下げられ、対応を協議し再推薦は決まったが禁教期を象徴する「久賀島の集落」に包括する扱いとなった。
2018年(平成30年)6月30日 - 世界遺産登録が決定。
建物概要
木造平屋
リブ・ヴォールト天井
設計、施工:不詳
1881年に建設された旧教会堂は、長崎県にある教会堂としては大浦天主堂(国宝)に次ぐ古さを持つ木造教会であり、移築の際に特に改修をしていないことから創建当時の姿を残している。
所在地
〒 853-2172 長崎県五島市蕨町993-11
ただしこの教会へのアクセス道路は登山道のような道しかないので、雨天時の訪問は困難である。
1985年(昭和60年)、隣接地にカトリック五輪教会が建てられたことにより福江市(現在は五島市)に寄贈され、保存公開されている。
沿革
1881年(明治14年)4月20日 - 久賀島で最初の教会堂であるカトリック浜脇教会が完成。
1931年(昭和6年) - 浜脇教会の改築に伴い、浜脇教会の旧教会堂を解体。その資材を五輪地区へ運び、旧五輪教会を建設。
1985年(昭和60年)2月14日 - 長崎県の有形文化財に指定。
1985年6月23日 - 旧聖堂のすぐ右側に新聖堂建設、献堂(新聖堂は原則として非公開)。
1999年(平成11年)5月13日 - 旧五輪教会堂が国の重要文化財に指定される。
2015年(平成27年)10月1日 - 拝観が事前予約制となる。
2016年(平成28年) - 世界遺産としては「禁教期に焦点を絞るべき」との指摘をうけ推薦が一旦取り下げられ、対応を協議し再推薦は決まったが禁教期を象徴する「久賀島の集落」に包括する扱いとなった。
2018年(平成30年)6月30日 - 世界遺産登録が決定。
建物概要
木造平屋
リブ・ヴォールト天井
設計、施工:不詳
1881年に建設された旧教会堂は、長崎県にある教会堂としては大浦天主堂(国宝)に次ぐ古さを持つ木造教会であり、移築の際に特に改修をしていないことから創建当時の姿を残している。
所在地
〒 853-2172 長崎県五島市蕨町993-11
ただしこの教会へのアクセス道路は登山道のような道しかないので、雨天時の訪問は困難である。
2024年01月29日
元興寺(がんごうじ)は、奈良県奈良市にある寺院
元興寺(がんごうじ)は、奈良県奈良市にある寺院。南都七大寺の1つ。
極楽坊本堂(国宝)
蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内に移転した寺院である。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、次の3寺院が分立する。
1 元興寺(奈良市中院町)
旧称「元興寺極楽坊」、1978年(昭和53年)「元興寺」に改称。
真言律宗、西大寺末寺。本尊は智光曼荼羅。元興寺子院極楽坊の系譜を引き、鎌倉時代から独立。本堂・禅室・五重小塔は国宝。境内は国の史跡「元興寺極楽坊境内」。世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産の1つ。
2 元興寺(奈良市芝新屋町)
華厳宗、東大寺末寺。本尊は十一面観音。元興寺五重塔・観音堂(中門堂)の系譜を引く。木造薬師如来立像は国宝。境内は国の史跡「元興寺塔跡」。
3 小塔院(奈良市西新屋町)
真言律宗。本尊は虚空蔵菩薩。元興寺小塔院の系譜を引く。境内は国の史跡「元興寺小塔院跡」。
歴史
現在、「史跡元興寺」として指定されている地域は、奈良市中院町の「元興寺極楽坊」、同市芝新屋町の「元興寺塔跡」、同市西新屋町の「元興寺小塔院跡」の3か所である。これらはいずれも、蘇我馬子が6世紀末、飛鳥に建立した日本最古の本格的寺院、法興寺(現在の飛鳥寺)の後身である。
和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。法興寺は養老2年(718年)平城京へ移転したが、飛鳥の法興寺も廃止はされずに元の場所に残った。通常、飛鳥にある寺を「法興寺」「本元興寺」、平城京の方の寺を「元興寺(新元興寺)」と称している。「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。
奈良時代の元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。寺域は南北4町(約440メートル)、東西2町(約220メートル)と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢池の南方、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であった。猿沢池南東側にある交番のあたりが旧境内の北東端、奈良市音声館(奈良市鳴川町)のあたりが旧境内の南西端にあたる。
奈良においては東大寺、興福寺が勢力を増す一方で、元興寺は律令制度が崩壊する10〜11世紀以降徐々に衰退していった。長元8年(1035年)の「堂舎損色検録帳」という史料によると、金堂をはじめとする元興寺の伽藍は、この頃には荒れ果てて見る影もなかったという。この頃、元興寺の別当が修理のために、玄象(絃上)と並ぶ名物とされた寺宝の琵琶「元興寺」を後朱雀天皇に売却したという話が「江談抄」(巻三、六十および六十一)「古今著聞集」(巻十二偸盗篇 第十九)に見え、寺の維持のために寺宝の琵琶を手放さなければならなかった元興寺の窮状を伝えている。なお寛元4年(1246年)の記録では、この頃までに五重塔の四、五重目と相輪が失われ、南大門、鐘楼が大破していたという。
元興寺には奈良時代の学僧・智光が描かせた阿弥陀浄土図(智光曼荼羅)があったが、平安末期の末法思想の流行や阿弥陀信仰の隆盛とともにこの曼荼羅が信仰を集めるようになった。曼荼羅を祀る堂は「極楽院」と呼ばれて、次第に元興寺本体とは別の寺院として発展するようになった。これが現在、奈良市中院町にある元興寺、通称元興寺極楽坊である。現存する元興寺極楽坊の本堂と禅室は、奈良時代に智光をはじめとする僧たちが住んでいた僧房を鎌倉時代に改築したものである。
このほか当時の元興寺では、中門に安置されていた二天像(持国天・増長天)とその眷属である夜叉像八体、同じく中門に安置され、中門観音と呼ばれていた十一面観音像が多くの信仰を集めていた。
このうち二天像と夜叉像については9世紀前半頃に元興寺の僧であった義昭がまとめた「日本感霊録」や「今昔物語集」(巻十八第五十話)などの仏教説話集に霊験あらたかな像として喧伝されており、後に運慶も神護寺中門の二天像造立の際にこの元興寺中門二天像を摸刻している(『神護寺略記』)。なお、運慶は教王護国寺の中門再建の際にも元興寺二天像を模刻しているが(『東宝記』)、この像は文明18年(1486年)の土一揆で焼失した。
また中門観音は長谷寺の観音像と同じ木で造ったと伝えられ、長谷寺に参詣する者はまずこの中門観音に詣でるべきことが鎌倉時代初めに成立した「建久御巡礼記」(『當麻寺』の項参照)「護国寺本諸寺縁起集」などに見え、実際に、時期はさかのぼるが天禄2年(971年)、正暦元年(990年)にそれぞれ長谷寺参詣を行った藤原道綱母や藤原実資らがその途次、元興寺に参詣して灯明などを献じたことがそれぞれ「蜻蛉日記」(132段)、「小右記」(正暦元年九月七日条)に見える。
二天像は応仁元年(1467年)に落雷のため失われたが、この頃すでに元興寺観音堂に移されていた中門観音は難を逃れ、元興寺観音堂の後身である元興寺(塔跡)の本尊として現在でも祀られている。
室町時代の宝徳3年(1451年)、土一揆による焼き討ちによって小塔院が炎上すると炎は元興寺全体に広がった。五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった。金堂は再建されるが、これも文明4年(1472年)の大風で倒壊し、これ以降金堂は再建されなかった。
この後、焼け跡に住宅が建てられていったこともあり、この頃を境に、寺は智光曼荼羅を祀る「極楽院」(現・極楽坊)、五重塔を中心とする「観音堂」(現・塔跡)、それに「小塔院」の3つの寺院に分裂した。極楽坊は奈良西大寺の末寺となって真言律宗寺院となり、中世以降は智光曼荼羅、弘法大師(空海)、聖徳太子などの民間信仰の寺院として栄えた。
現在の寺院
元興寺は、奈良県奈良市中院町にある真言律宗の寺院。山号はなし。本尊は智光曼荼羅。元興寺の子院であった極楽坊の系譜を引くため、元興寺極楽坊と呼ばれる。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
文化財
国宝
本堂(附:厨子及び仏壇、棟札(寛元2年))
禅室
五重小塔 - 収蔵庫に安置。奈良時代。高さ5.5メートルほどの小塔だが、内部構造まで省略せずに忠実に造られており、「工芸品」ではなく「建造物」として国宝に指定されている。同じく建造物として国宝に指定されている海龍王寺の五重小塔は、奈良時代の作であるものの内部構造は省略されているため、現存唯一の奈良時代の五重塔の建築構造を伝える資料として貴重である。かつては「小塔院」の建物小塔堂内に安置されていたと伝えられる。一貫して屋内にあったため傷みが少ない。
重要文化財
東門
著色智光曼荼羅図(板絵)(附:絹本著色智光曼荼羅図)
木造阿弥陀如来坐像
木造弘法大師坐像(附:像内納入品)
木造聖徳太子立像 善春作(附:像内納入品)
所在地 奈良県奈良市中院町11
位置 北緯34度40分40.09秒 東経135度49分52.88秒
山号 なし
宗派 真言律宗
本尊 智光曼荼羅
創建年 推古天皇元年(593年)
開基 蘇我馬子
正式名 元興寺
別称 元興寺極楽坊
札所等 西国薬師四十九霊場第5番
大和北部八十八ヶ所霊場第9番
南都七大寺第3番
大和地蔵十福霊場第2番
神仏霊場巡拝の道追加(奈良第30番、2018年から)
文化財 本堂、禅室、五重小塔(国宝)
東門、着色智光曼荼羅図、木造阿弥陀如来坐像ほか(重要文化財)
世界遺産
極楽坊本堂(国宝)
蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内に移転した寺院である。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、次の3寺院が分立する。
1 元興寺(奈良市中院町)
旧称「元興寺極楽坊」、1978年(昭和53年)「元興寺」に改称。
真言律宗、西大寺末寺。本尊は智光曼荼羅。元興寺子院極楽坊の系譜を引き、鎌倉時代から独立。本堂・禅室・五重小塔は国宝。境内は国の史跡「元興寺極楽坊境内」。世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産の1つ。
2 元興寺(奈良市芝新屋町)
華厳宗、東大寺末寺。本尊は十一面観音。元興寺五重塔・観音堂(中門堂)の系譜を引く。木造薬師如来立像は国宝。境内は国の史跡「元興寺塔跡」。
3 小塔院(奈良市西新屋町)
真言律宗。本尊は虚空蔵菩薩。元興寺小塔院の系譜を引く。境内は国の史跡「元興寺小塔院跡」。
歴史
現在、「史跡元興寺」として指定されている地域は、奈良市中院町の「元興寺極楽坊」、同市芝新屋町の「元興寺塔跡」、同市西新屋町の「元興寺小塔院跡」の3か所である。これらはいずれも、蘇我馬子が6世紀末、飛鳥に建立した日本最古の本格的寺院、法興寺(現在の飛鳥寺)の後身である。
和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。法興寺は養老2年(718年)平城京へ移転したが、飛鳥の法興寺も廃止はされずに元の場所に残った。通常、飛鳥にある寺を「法興寺」「本元興寺」、平城京の方の寺を「元興寺(新元興寺)」と称している。「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。
奈良時代の元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。寺域は南北4町(約440メートル)、東西2町(約220メートル)と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢池の南方、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であった。猿沢池南東側にある交番のあたりが旧境内の北東端、奈良市音声館(奈良市鳴川町)のあたりが旧境内の南西端にあたる。
奈良においては東大寺、興福寺が勢力を増す一方で、元興寺は律令制度が崩壊する10〜11世紀以降徐々に衰退していった。長元8年(1035年)の「堂舎損色検録帳」という史料によると、金堂をはじめとする元興寺の伽藍は、この頃には荒れ果てて見る影もなかったという。この頃、元興寺の別当が修理のために、玄象(絃上)と並ぶ名物とされた寺宝の琵琶「元興寺」を後朱雀天皇に売却したという話が「江談抄」(巻三、六十および六十一)「古今著聞集」(巻十二偸盗篇 第十九)に見え、寺の維持のために寺宝の琵琶を手放さなければならなかった元興寺の窮状を伝えている。なお寛元4年(1246年)の記録では、この頃までに五重塔の四、五重目と相輪が失われ、南大門、鐘楼が大破していたという。
元興寺には奈良時代の学僧・智光が描かせた阿弥陀浄土図(智光曼荼羅)があったが、平安末期の末法思想の流行や阿弥陀信仰の隆盛とともにこの曼荼羅が信仰を集めるようになった。曼荼羅を祀る堂は「極楽院」と呼ばれて、次第に元興寺本体とは別の寺院として発展するようになった。これが現在、奈良市中院町にある元興寺、通称元興寺極楽坊である。現存する元興寺極楽坊の本堂と禅室は、奈良時代に智光をはじめとする僧たちが住んでいた僧房を鎌倉時代に改築したものである。
このほか当時の元興寺では、中門に安置されていた二天像(持国天・増長天)とその眷属である夜叉像八体、同じく中門に安置され、中門観音と呼ばれていた十一面観音像が多くの信仰を集めていた。
このうち二天像と夜叉像については9世紀前半頃に元興寺の僧であった義昭がまとめた「日本感霊録」や「今昔物語集」(巻十八第五十話)などの仏教説話集に霊験あらたかな像として喧伝されており、後に運慶も神護寺中門の二天像造立の際にこの元興寺中門二天像を摸刻している(『神護寺略記』)。なお、運慶は教王護国寺の中門再建の際にも元興寺二天像を模刻しているが(『東宝記』)、この像は文明18年(1486年)の土一揆で焼失した。
また中門観音は長谷寺の観音像と同じ木で造ったと伝えられ、長谷寺に参詣する者はまずこの中門観音に詣でるべきことが鎌倉時代初めに成立した「建久御巡礼記」(『當麻寺』の項参照)「護国寺本諸寺縁起集」などに見え、実際に、時期はさかのぼるが天禄2年(971年)、正暦元年(990年)にそれぞれ長谷寺参詣を行った藤原道綱母や藤原実資らがその途次、元興寺に参詣して灯明などを献じたことがそれぞれ「蜻蛉日記」(132段)、「小右記」(正暦元年九月七日条)に見える。
二天像は応仁元年(1467年)に落雷のため失われたが、この頃すでに元興寺観音堂に移されていた中門観音は難を逃れ、元興寺観音堂の後身である元興寺(塔跡)の本尊として現在でも祀られている。
室町時代の宝徳3年(1451年)、土一揆による焼き討ちによって小塔院が炎上すると炎は元興寺全体に広がった。五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった。金堂は再建されるが、これも文明4年(1472年)の大風で倒壊し、これ以降金堂は再建されなかった。
この後、焼け跡に住宅が建てられていったこともあり、この頃を境に、寺は智光曼荼羅を祀る「極楽院」(現・極楽坊)、五重塔を中心とする「観音堂」(現・塔跡)、それに「小塔院」の3つの寺院に分裂した。極楽坊は奈良西大寺の末寺となって真言律宗寺院となり、中世以降は智光曼荼羅、弘法大師(空海)、聖徳太子などの民間信仰の寺院として栄えた。
現在の寺院
元興寺は、奈良県奈良市中院町にある真言律宗の寺院。山号はなし。本尊は智光曼荼羅。元興寺の子院であった極楽坊の系譜を引くため、元興寺極楽坊と呼ばれる。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
文化財
国宝
本堂(附:厨子及び仏壇、棟札(寛元2年))
禅室
五重小塔 - 収蔵庫に安置。奈良時代。高さ5.5メートルほどの小塔だが、内部構造まで省略せずに忠実に造られており、「工芸品」ではなく「建造物」として国宝に指定されている。同じく建造物として国宝に指定されている海龍王寺の五重小塔は、奈良時代の作であるものの内部構造は省略されているため、現存唯一の奈良時代の五重塔の建築構造を伝える資料として貴重である。かつては「小塔院」の建物小塔堂内に安置されていたと伝えられる。一貫して屋内にあったため傷みが少ない。
重要文化財
東門
著色智光曼荼羅図(板絵)(附:絹本著色智光曼荼羅図)
木造阿弥陀如来坐像
木造弘法大師坐像(附:像内納入品)
木造聖徳太子立像 善春作(附:像内納入品)
所在地 奈良県奈良市中院町11
位置 北緯34度40分40.09秒 東経135度49分52.88秒
山号 なし
宗派 真言律宗
本尊 智光曼荼羅
創建年 推古天皇元年(593年)
開基 蘇我馬子
正式名 元興寺
別称 元興寺極楽坊
札所等 西国薬師四十九霊場第5番
大和北部八十八ヶ所霊場第9番
南都七大寺第3番
大和地蔵十福霊場第2番
神仏霊場巡拝の道追加(奈良第30番、2018年から)
文化財 本堂、禅室、五重小塔(国宝)
東門、着色智光曼荼羅図、木造阿弥陀如来坐像ほか(重要文化財)
世界遺産
2024年01月28日
北山本門寺(きたやまほんもんじ)は、静岡県富士宮市北山にある日蓮宗の寺院
北山本門寺(きたやまほんもんじ)は、静岡県富士宮市北山にある日蓮宗の寺院で、同宗の七大本山の1つ。日興の法脈を継承した富士門流に属し、静岡県の駿東地方に分布する 西山本門寺、 大石寺、 下条妙蓮寺、 小泉久遠寺とともに同門流の「富士五山」を構成する。また、さらに 京都要法寺、伊豆実成寺、保田妙本寺とあわせて「興門八本山」のひとつにも数えられる。正式呼称は法華本門寺根源。山号は富士山。他の通称に重須本門寺がある。
北山本門寺 仁王門
歴史
日興は1293年(永仁元年)に石川能忠の寄進をうけて北山に重須談所を設けると、同時に、本堂・御影堂・垂迹堂の建設にとりかかり、5年後の1298年(永仁6年)に落成した。大石寺は弟子の日目に譲ったが、日目が南条時光の血縁関係であったことも理由のひとつとされている。同様に石川一族は、日興の血縁関係者であった。日興は晩年の36年間を重須談所で過ごした。
日興の後は第2代として日代が継いだが、日代は教義上の対立から地元大衆に寺を追い出され、西山本門寺を建立して初代住職となった。
生御影(祖師堂安置)
本門寺という呼称
日蓮宗にとって、本門寺という呼称には特別な意味が込められている。中国の天台大師は天台山に、日本の伝教大師は比叡山に寺塔を建立したが、日蓮は寺塔を建立する場所を示さなかった。「冨士一跡門徒存知の事」によれば、景勝地を選んで寺塔を建立するべきであり、その景勝地は富士山であり、そこに建立されるべき根本の寺が本門寺であるとされる。本門寺を建立することが日蓮の遺志を継ぐこととされ、その名称は、日蓮の弟子にとっては特別な名称であって根本中の根本であり、日蓮の教えの中心であるということになっている。
本堂
文化財
重要文化財
貞観政要 巻第一 日蓮筆 2巻
細字金字法華経(藍紙)1巻
その他
五重塔跡 明治42年修理中に失火し焼失した五重塔の礎石が残る。
山門跡
開山堂
交通アクセス
JR身延線富士宮駅より富士急静岡バス、白糸の滝・猪の頭方面行19分、「本門寺入口」バス停下車徒歩5分
東京駅からやきそばエクスプレス高速バス「本門寺入口」バス停下車徒歩5分
JR東海道新幹線新富士駅よりタクシーで35分
東名高速道路富士ICより22分
駐車場 あり
所在地 静岡県富士宮市北山4965
位置 北緯35度16分35.6秒 東経138度36分30.5秒
山号 富士山
宗派 日蓮宗
寺格 大本山(霊蹟寺院)・興門八本山・富士五山
正式名 富士山法華本門寺根源
別称 重須本門寺
文化財 貞観政要 巻第一・細字金字法華経(重要文化財)
北山本門寺 仁王門
歴史
日興は1293年(永仁元年)に石川能忠の寄進をうけて北山に重須談所を設けると、同時に、本堂・御影堂・垂迹堂の建設にとりかかり、5年後の1298年(永仁6年)に落成した。大石寺は弟子の日目に譲ったが、日目が南条時光の血縁関係であったことも理由のひとつとされている。同様に石川一族は、日興の血縁関係者であった。日興は晩年の36年間を重須談所で過ごした。
日興の後は第2代として日代が継いだが、日代は教義上の対立から地元大衆に寺を追い出され、西山本門寺を建立して初代住職となった。
生御影(祖師堂安置)
本門寺という呼称
日蓮宗にとって、本門寺という呼称には特別な意味が込められている。中国の天台大師は天台山に、日本の伝教大師は比叡山に寺塔を建立したが、日蓮は寺塔を建立する場所を示さなかった。「冨士一跡門徒存知の事」によれば、景勝地を選んで寺塔を建立するべきであり、その景勝地は富士山であり、そこに建立されるべき根本の寺が本門寺であるとされる。本門寺を建立することが日蓮の遺志を継ぐこととされ、その名称は、日蓮の弟子にとっては特別な名称であって根本中の根本であり、日蓮の教えの中心であるということになっている。
本堂
文化財
重要文化財
貞観政要 巻第一 日蓮筆 2巻
細字金字法華経(藍紙)1巻
その他
五重塔跡 明治42年修理中に失火し焼失した五重塔の礎石が残る。
山門跡
開山堂
交通アクセス
JR身延線富士宮駅より富士急静岡バス、白糸の滝・猪の頭方面行19分、「本門寺入口」バス停下車徒歩5分
東京駅からやきそばエクスプレス高速バス「本門寺入口」バス停下車徒歩5分
JR東海道新幹線新富士駅よりタクシーで35分
東名高速道路富士ICより22分
駐車場 あり
所在地 静岡県富士宮市北山4965
位置 北緯35度16分35.6秒 東経138度36分30.5秒
山号 富士山
宗派 日蓮宗
寺格 大本山(霊蹟寺院)・興門八本山・富士五山
正式名 富士山法華本門寺根源
別称 重須本門寺
文化財 貞観政要 巻第一・細字金字法華経(重要文化財)
2024年01月27日
善水寺(ぜんすいじ)は、滋賀県湖南市岩根にある天台宗の寺院
善水寺(ぜんすいじ)は、滋賀県湖南市岩根にある天台宗の寺院。山号は岩根山(いわねさん)。本尊は薬師如来。
常楽寺、長寿寺とともに湖南三山の1つに数えられる。
本堂(国宝
歴史
中世以前の沿革はあまり明らかでないが、伝承では奈良時代の和銅年間(708年 – 715年)に元明天皇が国家鎮護の道場として建立し、和銅寺と称したという。
その後、平安時代の初期に最澄が入山して池から出てきた薬師如来を本尊として請雨の祈祷をし、天台寺院に改めた上で延暦寺の別院諸堂を建立したという。
桓武天皇が病気になった際、最澄が法力により当寺の霊水を献上したところ、たちどころに回復した。これによって天皇から岩根山善水寺の寺号を賜わったという。
その後に境内は広げられ、本堂のある地を中尾、清涼山を東尾、岩根山を西尾といい、塔頭が計26ヵ坊存在していた。なかでも岩根山は善覚院、中之坊、角之坊、岩蔵坊、持蓮坊、宝泉坊、角心坊、善明坊、浄心坊、大門坊、宝乗坊、実蔵坊の十二坊があった。これにより岩根山は十二坊山とも呼ばれた。
1953年(昭和28年)に大雨により仁王門が流失した。
善水寺 元三大師堂
文化財
国宝
本堂 附:厨子 1基
重要文化財
木造薬師如来坐像 - 当寺の秘仏本尊で、本堂中央の厨子に安置する。像内納入品の文書から正暦4年(993年)の造像とわかる。2005年 - 2006年に京都国立博物館および東京国立博物館で開催された特別展「最澄と天台の国宝」に出展し公開された。
木造梵天・帝釈天立像
木造兜跋毘沙門天立像
木造持国天・増長天立像 - 鎌倉時代の造像。
木造四天王立像 4躯
木造不動明王坐像
木造僧形文殊坐像
金銅誕生釈迦仏立像 - 鋳銅・鍍金、肉髻相。耳朶環状として、左右に極めて小さい貫通孔がある。上半身が後ろに傾いているが、これは偶然ではなく当初から意図していたと見られる。像高23.2cm、右手指先から足ほぞ先までは28cmで、これは東大寺にある誕生仏に次ぐ大きさで、完成度もこれに次ぐ。そのため本像は、造東大寺司に関わる工房による造像で、天平宝字6年(762年)4月に石山寺の灌仏会で用いられたか可能性が指摘されている。
木造金剛二力士立像 2躯
拝観情報
開門時間 - 9時から16時
拝観料 - 600円
所在地
〒520-3252 滋賀県湖南市岩根3518
交通アクセス
JR草津線 甲西駅下車 バス11分 岩根バス停下車 徒歩10分 車10分
名神竜王IC 20分
駐車場
普通車30台、大型車4台
位置 北緯35度0分23.2秒 東経136度6分45.2秒
山号 岩根山(いわねさん)
院号 醫王院
宗派 天台宗
本尊 薬師如来(秘仏、重要文化財)
創建年 和銅年間(708年 - 715年)
開基 元明天皇(勅願)
正式名 岩根山醫王院善水寺
別称 和銅寺
札所等 西国薬師四十九霊場第47番
甲賀西国三十三所第21番
びわ湖百八霊場第93番
湖南三山
文化財 本堂(国宝)
木造薬師如来坐像、木造梵天・帝釈天立像、木造兜跋毘沙門天立像ほか(重要文化財)
常楽寺、長寿寺とともに湖南三山の1つに数えられる。
本堂(国宝
歴史
中世以前の沿革はあまり明らかでないが、伝承では奈良時代の和銅年間(708年 – 715年)に元明天皇が国家鎮護の道場として建立し、和銅寺と称したという。
その後、平安時代の初期に最澄が入山して池から出てきた薬師如来を本尊として請雨の祈祷をし、天台寺院に改めた上で延暦寺の別院諸堂を建立したという。
桓武天皇が病気になった際、最澄が法力により当寺の霊水を献上したところ、たちどころに回復した。これによって天皇から岩根山善水寺の寺号を賜わったという。
その後に境内は広げられ、本堂のある地を中尾、清涼山を東尾、岩根山を西尾といい、塔頭が計26ヵ坊存在していた。なかでも岩根山は善覚院、中之坊、角之坊、岩蔵坊、持蓮坊、宝泉坊、角心坊、善明坊、浄心坊、大門坊、宝乗坊、実蔵坊の十二坊があった。これにより岩根山は十二坊山とも呼ばれた。
1953年(昭和28年)に大雨により仁王門が流失した。
善水寺 元三大師堂
文化財
国宝
本堂 附:厨子 1基
重要文化財
木造薬師如来坐像 - 当寺の秘仏本尊で、本堂中央の厨子に安置する。像内納入品の文書から正暦4年(993年)の造像とわかる。2005年 - 2006年に京都国立博物館および東京国立博物館で開催された特別展「最澄と天台の国宝」に出展し公開された。
木造梵天・帝釈天立像
木造兜跋毘沙門天立像
木造持国天・増長天立像 - 鎌倉時代の造像。
木造四天王立像 4躯
木造不動明王坐像
木造僧形文殊坐像
金銅誕生釈迦仏立像 - 鋳銅・鍍金、肉髻相。耳朶環状として、左右に極めて小さい貫通孔がある。上半身が後ろに傾いているが、これは偶然ではなく当初から意図していたと見られる。像高23.2cm、右手指先から足ほぞ先までは28cmで、これは東大寺にある誕生仏に次ぐ大きさで、完成度もこれに次ぐ。そのため本像は、造東大寺司に関わる工房による造像で、天平宝字6年(762年)4月に石山寺の灌仏会で用いられたか可能性が指摘されている。
木造金剛二力士立像 2躯
拝観情報
開門時間 - 9時から16時
拝観料 - 600円
所在地
〒520-3252 滋賀県湖南市岩根3518
交通アクセス
JR草津線 甲西駅下車 バス11分 岩根バス停下車 徒歩10分 車10分
名神竜王IC 20分
駐車場
普通車30台、大型車4台
位置 北緯35度0分23.2秒 東経136度6分45.2秒
山号 岩根山(いわねさん)
院号 醫王院
宗派 天台宗
本尊 薬師如来(秘仏、重要文化財)
創建年 和銅年間(708年 - 715年)
開基 元明天皇(勅願)
正式名 岩根山醫王院善水寺
別称 和銅寺
札所等 西国薬師四十九霊場第47番
甲賀西国三十三所第21番
びわ湖百八霊場第93番
湖南三山
文化財 本堂(国宝)
木造薬師如来坐像、木造梵天・帝釈天立像、木造兜跋毘沙門天立像ほか(重要文化財)
2024年01月25日
筑後川昇開橋(ちくごがわしょうかいきょう)は、、日本国有鉄道(国鉄)佐賀線に存在していた鉄道用可動式橋梁
筑後川昇開橋(ちくごがわしょうかいきょう、Chikugo River Lift bridge)は、日本国有鉄道(国鉄)佐賀線に存在し、筑後川をまたいで福岡県大川市と佐賀県佐賀市諸富町(廃線時・佐賀郡諸富町)を結んでいた鉄道用可動式橋梁である。佐賀線の廃線後も保存され、現在は歩道橋として活用されている。旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)として重要文化財および機械遺産に指定されている。
概要
筑後川昇開橋は、鉄道省佐賀線の鉄道橋梁「筑後川橋梁(ちくごがわきょうりょう)として建設され、1935年(昭和10年)竣工、同年5月25日に開業した。舟運との共存のため、橋の一部が可動式となっている可動橋には旋回橋、跳開橋(跳ね橋)、昇開橋などがあるが、本橋は橋桁の一部が垂直方向に上下する昇開橋として日本に現存する最古のものである。橋の全長は507.2メートル、可動部分の長さは24.2メートル、昇降差は23メートルである。本橋の設計施行に中心的役割を果たしたのは、鉄道技師の釘宮磐(鉄道省熊本建設事務所長)であった。昇開橋の仕組みそのものは、坂本種芳が考えた。竣工当時は「東洋一の可動式鉄橋」と呼ばれた。また、この筑後川昇開橋の構造を解説するために精巧な模型が交通博物館(閉館)及び鉄道博物館(埼玉県さいたま市)で展示されている。ちなみに、昇開橋の精巧模型は1937年(昭和12年)にフランス・パリで行われたパリ万博に出展されたものである。
建設するにあたっては、位置的に筑後川の河口付近で、有明海の潮の干満の影響も直に受ける地理的条件があり、しかも、付近には港もあり、建設当時は船が主要交通機関であったため、大型船の往来も激しかった。通常の橋だと干満の影響で船が通れなくなってしまう可能性があったため、中央部の橋が可動して船が通れる構造になった。
国鉄の民営化を前に1987年(昭和62年)3月27日限りで佐賀線は廃線となり、同橋梁も閉鎖され、筑後川を管理する当時の建設省からも撤去勧告がなされ、解体も検討された。しかし地元では橋存続の要望が強く、1992年(平成4年)9月17日に日本国有鉄道清算事業団から大川市へ無償譲渡され、1996年(平成8年)に遊歩道として復活し、現在では大川市と諸富町のシンボル的存在となっている。また、橋の両端には公園が整備されていて、現役当時の橋の姿のモニュメントや佐賀線で使われていた3灯式信号機や警報機などが保存されている。
1996年(平成8年)に国の登録有形文化財に登録、2003年(平成15年)5月30日に、国の重要文化財に指定され[4]、2007年(平成19年)8月7日に日本機械学会より機械遺産(23番)に認定された。2009年(平成21年)7月30日から橋脚の修復や塗装の塗り替え、遊歩道に防水加工を施すなどの保存修理工事が行われ、2011年(平成23年)2月13日に通行が再開された。調査費を含めた総事業費は約3億円。平成27年2月1日から平行滑車の劣化が原因で桁に歪みが生じたため補修工事が行われた。同年3月1日に通行が再開された。
観光情報
稼働日
1月4日〜12月28日
休業日
毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日)
稼働時間
9:00〜17:00
通行料金
不要(ただし、橋の運営資金のための寄付金箱が橋の中央部の事務所前に設置されている)
両岸に駐車場があり約20台ほど駐車できる。佐賀県側は特産物直売所「橋の駅ドロンパ」。また、橋はペット連れやバイクの乗り入れは不可能である。自転車は降りて通行する事は可能。なお、気象条件により休業の場合があり、大型船の航行により稼働時間がずれる場合がある。
2011年12月に可動桁の滑車が故障したため、遊歩道としては一時通行止めとなっていたが、2013年(平成25年)6月に復旧し、現在は平常どおり通行できるようになっている。
2012年(平成24年)3月27日より日没〜22時にライトアップが行われている。
アクセス方法
西鉄天神大牟田線西鉄柳川駅から
西口駅前バスセンター3番のりばより西鉄バス「大川・諸富経由の佐賀駅バスセンター」行に乗り、「大川橋」で下車。そのバス停から向かって大川橋交差点を左折し、二つに分岐している道があるのでそこを右折直進し、しばらくすると筑後川昇開橋が見えてくる。バスダイヤも福岡天神方面からの特急電車と連絡する形となっており、福岡市方面からは最も便利な行き方である。
JR九州長崎本線佐賀駅から
佐賀駅バスセンター3番のりばから佐賀市営バス「諸富・早津江線」に乗り、「昇開橋前」下車。
上記の西鉄バス「西鉄柳川駅〜佐賀駅バスセンター」でアクセスする場合は、「諸富橋」が佐賀県側の最寄りバス停となる。2系統合わせると、日中1時間あたり2〜3本の便がある。
JR九州鹿児島本線羽犬塚駅から
同駅のバス停より西鉄バス「大野島農協前」行に乗車し、「中原高木病院前」乗換、タクシーまたは西鉄バス「佐賀駅バスセンター」行に乗車し、「大川橋」で下車。バス停からは「西鉄柳川駅から」の項を参照。
自家用車の場合
九州自動車道の八女ICより、国道442号を西へ直進。宮内交差点を左折、しげあみ交差点を右折、中原交差点を左折、そして東町交差点を右折し直進(宮内交差点を直進し、中原交差点を直進し、東町交差点を右折し直進するルートもある)。
長崎自動車道の東脊振ICより、国道385号を南へ直進し、青木中津大橋を渡った後、右折し、筑後川の堤防に沿って大川橋交差点を直進し、一方通行の道へ入り、若津下町交差点を右折する。
概要
筑後川昇開橋は、鉄道省佐賀線の鉄道橋梁「筑後川橋梁(ちくごがわきょうりょう)として建設され、1935年(昭和10年)竣工、同年5月25日に開業した。舟運との共存のため、橋の一部が可動式となっている可動橋には旋回橋、跳開橋(跳ね橋)、昇開橋などがあるが、本橋は橋桁の一部が垂直方向に上下する昇開橋として日本に現存する最古のものである。橋の全長は507.2メートル、可動部分の長さは24.2メートル、昇降差は23メートルである。本橋の設計施行に中心的役割を果たしたのは、鉄道技師の釘宮磐(鉄道省熊本建設事務所長)であった。昇開橋の仕組みそのものは、坂本種芳が考えた。竣工当時は「東洋一の可動式鉄橋」と呼ばれた。また、この筑後川昇開橋の構造を解説するために精巧な模型が交通博物館(閉館)及び鉄道博物館(埼玉県さいたま市)で展示されている。ちなみに、昇開橋の精巧模型は1937年(昭和12年)にフランス・パリで行われたパリ万博に出展されたものである。
建設するにあたっては、位置的に筑後川の河口付近で、有明海の潮の干満の影響も直に受ける地理的条件があり、しかも、付近には港もあり、建設当時は船が主要交通機関であったため、大型船の往来も激しかった。通常の橋だと干満の影響で船が通れなくなってしまう可能性があったため、中央部の橋が可動して船が通れる構造になった。
国鉄の民営化を前に1987年(昭和62年)3月27日限りで佐賀線は廃線となり、同橋梁も閉鎖され、筑後川を管理する当時の建設省からも撤去勧告がなされ、解体も検討された。しかし地元では橋存続の要望が強く、1992年(平成4年)9月17日に日本国有鉄道清算事業団から大川市へ無償譲渡され、1996年(平成8年)に遊歩道として復活し、現在では大川市と諸富町のシンボル的存在となっている。また、橋の両端には公園が整備されていて、現役当時の橋の姿のモニュメントや佐賀線で使われていた3灯式信号機や警報機などが保存されている。
1996年(平成8年)に国の登録有形文化財に登録、2003年(平成15年)5月30日に、国の重要文化財に指定され[4]、2007年(平成19年)8月7日に日本機械学会より機械遺産(23番)に認定された。2009年(平成21年)7月30日から橋脚の修復や塗装の塗り替え、遊歩道に防水加工を施すなどの保存修理工事が行われ、2011年(平成23年)2月13日に通行が再開された。調査費を含めた総事業費は約3億円。平成27年2月1日から平行滑車の劣化が原因で桁に歪みが生じたため補修工事が行われた。同年3月1日に通行が再開された。
観光情報
稼働日
1月4日〜12月28日
休業日
毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日)
稼働時間
9:00〜17:00
通行料金
不要(ただし、橋の運営資金のための寄付金箱が橋の中央部の事務所前に設置されている)
両岸に駐車場があり約20台ほど駐車できる。佐賀県側は特産物直売所「橋の駅ドロンパ」。また、橋はペット連れやバイクの乗り入れは不可能である。自転車は降りて通行する事は可能。なお、気象条件により休業の場合があり、大型船の航行により稼働時間がずれる場合がある。
2011年12月に可動桁の滑車が故障したため、遊歩道としては一時通行止めとなっていたが、2013年(平成25年)6月に復旧し、現在は平常どおり通行できるようになっている。
2012年(平成24年)3月27日より日没〜22時にライトアップが行われている。
アクセス方法
西鉄天神大牟田線西鉄柳川駅から
西口駅前バスセンター3番のりばより西鉄バス「大川・諸富経由の佐賀駅バスセンター」行に乗り、「大川橋」で下車。そのバス停から向かって大川橋交差点を左折し、二つに分岐している道があるのでそこを右折直進し、しばらくすると筑後川昇開橋が見えてくる。バスダイヤも福岡天神方面からの特急電車と連絡する形となっており、福岡市方面からは最も便利な行き方である。
JR九州長崎本線佐賀駅から
佐賀駅バスセンター3番のりばから佐賀市営バス「諸富・早津江線」に乗り、「昇開橋前」下車。
上記の西鉄バス「西鉄柳川駅〜佐賀駅バスセンター」でアクセスする場合は、「諸富橋」が佐賀県側の最寄りバス停となる。2系統合わせると、日中1時間あたり2〜3本の便がある。
JR九州鹿児島本線羽犬塚駅から
同駅のバス停より西鉄バス「大野島農協前」行に乗車し、「中原高木病院前」乗換、タクシーまたは西鉄バス「佐賀駅バスセンター」行に乗車し、「大川橋」で下車。バス停からは「西鉄柳川駅から」の項を参照。
自家用車の場合
九州自動車道の八女ICより、国道442号を西へ直進。宮内交差点を左折、しげあみ交差点を右折、中原交差点を左折、そして東町交差点を右折し直進(宮内交差点を直進し、中原交差点を直進し、東町交差点を右折し直進するルートもある)。
長崎自動車道の東脊振ICより、国道385号を南へ直進し、青木中津大橋を渡った後、右折し、筑後川の堤防に沿って大川橋交差点を直進し、一方通行の道へ入り、若津下町交差点を右折する。
2024年01月24日
広徳寺(こうとくじ)は、埼玉県比企郡川島町にある真言宗豊山派の寺院
広徳寺(こうとくじ)は、埼玉県比企郡川島町にある真言宗豊山派の寺院である。山号は大御山(おおみさん)。院号は西福院。本尊は五大明王。
歴史
この寺は、「平家物語」に名が見える源頼朝の家臣三尾谷(水尾谷)広徳の開基により創建されたと伝えられる。1399年(応永6年)宥範によって中興され、江戸時代には大御堂領として江戸幕府から朱印状が与えられた。
文化財
重要文化財(国指定)
大御堂- 室町時代後期(1467年-1572年)の建立。桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、茅葺。昭和13年(1938年)07月04日指定。
所在地 埼玉県比企郡川島町表76
位置 北緯35度58分48.0秒 東経139度30分17.3秒
山号 大御山
院号 西福院
宗派 真言宗豊山派
本尊 五大明王
開基 水尾谷広徳
中興 宥範
文化財 大御堂(重要文化財)
歴史
この寺は、「平家物語」に名が見える源頼朝の家臣三尾谷(水尾谷)広徳の開基により創建されたと伝えられる。1399年(応永6年)宥範によって中興され、江戸時代には大御堂領として江戸幕府から朱印状が与えられた。
文化財
重要文化財(国指定)
大御堂- 室町時代後期(1467年-1572年)の建立。桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、茅葺。昭和13年(1938年)07月04日指定。
所在地 埼玉県比企郡川島町表76
位置 北緯35度58分48.0秒 東経139度30分17.3秒
山号 大御山
院号 西福院
宗派 真言宗豊山派
本尊 五大明王
開基 水尾谷広徳
中興 宥範
文化財 大御堂(重要文化財)
2024年01月23日
禅師峰寺(ぜんじぶじ)は、高知県南国市にある真言宗豊山派の寺院
禅師峰寺(ぜんじぶじ)は、高知県南国市にある真言宗豊山派の寺院。八葉山(はちようざん)、求聞持院(ぐもんじいん)と号す。本尊は十一面観世音菩薩。四国八十八箇所第三十二番札所。
本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:静かなるわがみなもとの禅師峰寺 浮かぶ心は法(のり)の早船(はやぶね)
境内
歴史
寺伝によれば、聖武天皇の勅命を受けた行基が海上安全を祈願して堂宇を建立したのを起源とし、空海(弘法大師)はここを霊地と感得し虚空蔵求聞持法の護摩を修法、十一面観世音菩薩を刻んで本尊として祀り、山の姿が補陀落山の八葉の蓮台に似ていることから八葉山、求聞持法を修したことから求聞持院禅師峰寺と寺名を定めたという。
本尊は「船魂(ふなだま)の観音」と呼ばれ、古くから漁師たちの信仰を集め、また、土佐藩主山内一豊以来、歴代藩主の信仰を受けており、参勤交代で浦戸湾を出航する際には航海の無事を祈願したという。
山門
境内
山門(仁王門):国の重要文化財の金剛力士像(鎌倉時代、仏師定明の作)は収蔵庫に移されている。
本堂
大師堂:大師像を拝顔できる。
鐘楼
地蔵堂
阿弥陀堂
潮の干満水が溜まる岩:岩の上の窪みに水が溜まっていて潮の干満により水が増減する。
不動明王像(峰寺不動明王)
宝物館
句碑・歌碑:芭蕉「木枯らしに岩吹きとがる杉間かな」が本堂前の岩山の中に、玉照「曇り無き心の空に照る月は いく世経るとも光り輝やく」と晴海「思い出を枝にのこしてはらはらと 落つる木の葉よ秋をうらむな」が仁王門の右の池の前にある。
麓から山道を登っていくと右に庫裏・納経所への分岐を過ぎると手水場があり山門に至る。山門脇には不動明王像が立つ。さらに石段を上ると右手に鐘楼があり正面奥に本堂が建つ。本堂左手に大師堂があり、その左には地蔵堂、阿弥陀堂がある。山上からは土佐湾が一望できる。
宿坊:なし
駐車場:30台、大型5台。無料。
本堂
峰寺不動明王
駐車場には大きな観音が出迎える
寺号
地元では、峰寺(みねんじ、みねじ)と呼ばれることが多く、人によっては禅師峰寺という名称が通じない場合もある。以前は峰寺の道路標示もあったが現在は峰寺トンネルの表示があるのみで禅師峰寺の表示になっている。当山(標高82.9m)の下を通過する県道14号の峰寺トンネルの東側からはライトアップされた大きな石像が臨める。
交通案内
鉄道
とさでん交通後免線 - 鹿児停留場 (6.1 km)
バス
南国市コミュニティバス 「峰寺通」下車 (0.8 km)、とさでん交通前浜パークタウン線「緑ヶ丘三丁目」下車(1.9km)
道路
一般道:高知県道14号春野赤岡線 石土神社 (1.1 km)
所在地 高知県南国市十市3084
位置 北緯33度31分36.1秒 東経133度36分41秒
山号 八葉山
院号 求聞持院
宗派 真言宗豊山派
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 (伝)神亀年間(724年 – 729年)
開基 (伝)行基、聖武天皇(勅願)
正式名 八葉山 求聞持院 禅師峰寺
別称 峰寺(みねんじ・みねでら)
札所等 四国八十八箇所32番
文化財 木造金剛力士像(国の重要文化財)
梵鐘、鰐口(県文化財)
本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:静かなるわがみなもとの禅師峰寺 浮かぶ心は法(のり)の早船(はやぶね)
境内
歴史
寺伝によれば、聖武天皇の勅命を受けた行基が海上安全を祈願して堂宇を建立したのを起源とし、空海(弘法大師)はここを霊地と感得し虚空蔵求聞持法の護摩を修法、十一面観世音菩薩を刻んで本尊として祀り、山の姿が補陀落山の八葉の蓮台に似ていることから八葉山、求聞持法を修したことから求聞持院禅師峰寺と寺名を定めたという。
本尊は「船魂(ふなだま)の観音」と呼ばれ、古くから漁師たちの信仰を集め、また、土佐藩主山内一豊以来、歴代藩主の信仰を受けており、参勤交代で浦戸湾を出航する際には航海の無事を祈願したという。
山門
境内
山門(仁王門):国の重要文化財の金剛力士像(鎌倉時代、仏師定明の作)は収蔵庫に移されている。
本堂
大師堂:大師像を拝顔できる。
鐘楼
地蔵堂
阿弥陀堂
潮の干満水が溜まる岩:岩の上の窪みに水が溜まっていて潮の干満により水が増減する。
不動明王像(峰寺不動明王)
宝物館
句碑・歌碑:芭蕉「木枯らしに岩吹きとがる杉間かな」が本堂前の岩山の中に、玉照「曇り無き心の空に照る月は いく世経るとも光り輝やく」と晴海「思い出を枝にのこしてはらはらと 落つる木の葉よ秋をうらむな」が仁王門の右の池の前にある。
麓から山道を登っていくと右に庫裏・納経所への分岐を過ぎると手水場があり山門に至る。山門脇には不動明王像が立つ。さらに石段を上ると右手に鐘楼があり正面奥に本堂が建つ。本堂左手に大師堂があり、その左には地蔵堂、阿弥陀堂がある。山上からは土佐湾が一望できる。
宿坊:なし
駐車場:30台、大型5台。無料。
本堂
峰寺不動明王
駐車場には大きな観音が出迎える
寺号
地元では、峰寺(みねんじ、みねじ)と呼ばれることが多く、人によっては禅師峰寺という名称が通じない場合もある。以前は峰寺の道路標示もあったが現在は峰寺トンネルの表示があるのみで禅師峰寺の表示になっている。当山(標高82.9m)の下を通過する県道14号の峰寺トンネルの東側からはライトアップされた大きな石像が臨める。
交通案内
鉄道
とさでん交通後免線 - 鹿児停留場 (6.1 km)
バス
南国市コミュニティバス 「峰寺通」下車 (0.8 km)、とさでん交通前浜パークタウン線「緑ヶ丘三丁目」下車(1.9km)
道路
一般道:高知県道14号春野赤岡線 石土神社 (1.1 km)
所在地 高知県南国市十市3084
位置 北緯33度31分36.1秒 東経133度36分41秒
山号 八葉山
院号 求聞持院
宗派 真言宗豊山派
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 (伝)神亀年間(724年 – 729年)
開基 (伝)行基、聖武天皇(勅願)
正式名 八葉山 求聞持院 禅師峰寺
別称 峰寺(みねんじ・みねでら)
札所等 四国八十八箇所32番
文化財 木造金剛力士像(国の重要文化財)
梵鐘、鰐口(県文化財)