定善寺(じょうぜんじ)は、宮崎県日向市大字財光寺にある日蓮正宗の寺院。山号は日知屋山(ひちやざん)。日蓮正宗三本山のひとつで日向本山。元は郷門寺院。
日蓮正宗改宗に抵抗した檀家が離脱し近隣に日蓮宗本光寺を建立し本東寺より住職を迎えた。
起源と沿革
1331年(元弘元年) - 薩摩阿闍梨日叡により建立される。開基檀那は地元の領主である伊東氏[2][3]。
1486年(文明18年) - 保田妙本寺の僧侶日蔵により日向市大王谷に本建寺創建。
1957年(昭和32年)8月30日 - 日蓮正宗へ改宗。定善寺及び末寺の日向六ヶ寺の日蓮正宗帰一奉告法要が奉修される。
1977年(昭和52年)12月4日 - 現在の本堂が完成。本建寺を定善寺内に移転。
所在地
宮崎県日向市大字財光寺7295。
寺院の特徴
毎年、虫払い法要は御会式終了後に行われ、地元では「おまんだらさま」として親しまれ、テレビ中継が行われるほど有名である。
交通アクセス
日豊本線日向市駅から徒歩15分
その他
現存する『曽我物語』の最古のものであり、国の重要文化財の指定を受けている「曾我物語(真名本)」十巻は、天文15年(1546年)に定善寺の一僧侶であった四位日助によって親本から書き写されたものが、保田妙本寺の日我の元へ渡ったものである。
2024年02月25日
2024年02月24日
済生館(さいせいかん)は、山形県山形市の旧済生館病院本館
済生館(さいせいかん)は、山形県山形市の旧済生館病院本館。1873年(明治6年)に私立病院として設立され、1878年9月に当時の県庁そばに本館が竣工した。国の重要文化財。建物自体は同市の霞城公園内に移築され山形市郷土館として利用されている。
概要
戦後の合併による市域面積の拡大や人口の集中、さらには、医療保険制度の徹底等によって、老朽化した木造建築物で診察を行っていた市立病院済生館は、医療体制の充実が求められた。1961年12月に市は「済生館施設整備委員会」を設置し、委員会は老朽化した建物を撤去し、鉄筋コンクリート造りの近代的な設備を備える医療施設の建設計画を定めた。
これによって、まず、1963年9月に病棟の改築に着手した。だが、改築工事が進捗すると本館と称していた木造三層楼の存廃問題が持ち上がった。この建物は明治初期の木造高層洋風建築物として、市の文化の象徴ともされており、加えて、全国的に見ても唯一の明治初年の病院遺構として貴重な存在とされていた。だが、病院設備としての利用価値はほとんどなかった。1965年11月に市は、市長の諮問機関として「市立病院済生館建物処分委員会」を設置し、審議の結果、委員会は本館を廃棄と決定答申した。これに対し、市民や市内文化団体が反発する声を上げ、市及び市議会に陳情を繰り広げた。この動きを受け、大久保傳蔵市長が解体の一時休止を命じ、文部省から係官を招き、調査をした所、明治初期の下見板張擬洋風建築の最高傑作と評価され、1966年12月に国から重要文化財に指定された。
旧済生館病院本館は重要文化財の指定を受けたが、病院改築の構造上、現状保存は困難であるため、移転復元の方法を探ることになり、文部省係官からの指導も得つつ、移転先は霞城公園内の山形財務部官舎跡に決定した。移築修理は市が主管し文化庁の指導によって行われ、工事は一般競争入札の結果、市村工務店(山形市)が請け負い、1967年7月から解体作業に入り、1969年12月に移転復元が竣工した。
移転復元となった旧済生館病院本館は、建物の保存や文化財活用の観点から、1971年4月に「山形市郷土館」として1階と2階の一部と蒐集した文献等が展観公開されることになった。主な展示物として医療および医学教育に関する資料、漢方および西洋医学資料、山形城や郷土の歴史関係の資料が展示されている。なお、2009年4月から入館料の徴収は撤廃された。
建物の特徴
旧済生館病院本館は、3層楼なのに実は4層、ドーナツ型の1階部、2階は直径10メートルほどの柱のないホール、中3、4階へは螺旋階段、そしてステンドグラス。
内部構造は大変ユニークで、2階は16角形のホールで中央に柱は1本も立っていないのにもかかわらず、ホール上部に中3階・4階がのっている。これは当時日本に入ってきたばかりのトラス構造を利用して支えられている。さらに、16角形から8角形へ楼の形を変えるのに際して使われているのは多宝塔上層部をくみ上げる工法で、日本古来の建築にも熟達した人物の指揮があったことがうかがえる。
1階 中庭
螺旋階段
概要
戦後の合併による市域面積の拡大や人口の集中、さらには、医療保険制度の徹底等によって、老朽化した木造建築物で診察を行っていた市立病院済生館は、医療体制の充実が求められた。1961年12月に市は「済生館施設整備委員会」を設置し、委員会は老朽化した建物を撤去し、鉄筋コンクリート造りの近代的な設備を備える医療施設の建設計画を定めた。
これによって、まず、1963年9月に病棟の改築に着手した。だが、改築工事が進捗すると本館と称していた木造三層楼の存廃問題が持ち上がった。この建物は明治初期の木造高層洋風建築物として、市の文化の象徴ともされており、加えて、全国的に見ても唯一の明治初年の病院遺構として貴重な存在とされていた。だが、病院設備としての利用価値はほとんどなかった。1965年11月に市は、市長の諮問機関として「市立病院済生館建物処分委員会」を設置し、審議の結果、委員会は本館を廃棄と決定答申した。これに対し、市民や市内文化団体が反発する声を上げ、市及び市議会に陳情を繰り広げた。この動きを受け、大久保傳蔵市長が解体の一時休止を命じ、文部省から係官を招き、調査をした所、明治初期の下見板張擬洋風建築の最高傑作と評価され、1966年12月に国から重要文化財に指定された。
旧済生館病院本館は重要文化財の指定を受けたが、病院改築の構造上、現状保存は困難であるため、移転復元の方法を探ることになり、文部省係官からの指導も得つつ、移転先は霞城公園内の山形財務部官舎跡に決定した。移築修理は市が主管し文化庁の指導によって行われ、工事は一般競争入札の結果、市村工務店(山形市)が請け負い、1967年7月から解体作業に入り、1969年12月に移転復元が竣工した。
移転復元となった旧済生館病院本館は、建物の保存や文化財活用の観点から、1971年4月に「山形市郷土館」として1階と2階の一部と蒐集した文献等が展観公開されることになった。主な展示物として医療および医学教育に関する資料、漢方および西洋医学資料、山形城や郷土の歴史関係の資料が展示されている。なお、2009年4月から入館料の徴収は撤廃された。
建物の特徴
旧済生館病院本館は、3層楼なのに実は4層、ドーナツ型の1階部、2階は直径10メートルほどの柱のないホール、中3、4階へは螺旋階段、そしてステンドグラス。
内部構造は大変ユニークで、2階は16角形のホールで中央に柱は1本も立っていないのにもかかわらず、ホール上部に中3階・4階がのっている。これは当時日本に入ってきたばかりのトラス構造を利用して支えられている。さらに、16角形から8角形へ楼の形を変えるのに際して使われているのは多宝塔上層部をくみ上げる工法で、日本古来の建築にも熟達した人物の指揮があったことがうかがえる。
1階 中庭
螺旋階段
2024年02月23日
月輪寺(がちりんじ)は、山口県山口市にある曹洞宗の寺院
月輪寺(がちりんじ)は、山口県山口市にある曹洞宗の寺院。山号は清涼山。
文治5年(1198年)、重源が太政大臣九条兼実の協力を得て建立したものと伝えられ、山口県内で最古の木造建造物。薬師堂内には薬師如来をはじめ多数の仏像が安置されており、国の重要文化財の指定を受けている。 毎年5月5日が薬師大縁日。
歴史
周防国佐波郡 コ地(得地)庄の串村に、聖徳太子の作と言われる観音を本尊とした清涼寺という寺があったが、維持する者がなく朽ち果てたため、寺にあった観音菩薩像と十二神将像のみ上徳地の上村(のち島地村)に移されたが、それもまた打ち捨てられたままに朽ちていた。
12世紀に、焼失した東大寺の再建用材の調達のために当地を訪れた重源がこれを聞きつけ、この地に移し新たに本堂を建立し、当地の得分であり助力者だった九条兼実の二つ名である「月輪関白、月輪殿」に因んで月輪寺と名付けた。
特徴
当時のまま現存しているのは観音堂(薬師堂)のみだが、鉋を使わず斧・釿のみで削ったと思われる珍しい建造物である。また、堂の柱という柱に無数の呪釘の跡が残されている。 創建当時は正面3間、側面2間であったものを、文治年間の移築の際に5間×4間に改めたとみられる。
堂の内部には、20年に一度開帳される秘仏薬師如来坐像のほか、聖観音菩薩立像、四天王像(いずれも県有形文化財)が収められている。
薬師堂
文化財
重要文化財(国指定)
薬師堂 - 平安時代後期(1086年-1184年)の建立。桁行五間、梁間四間、一重、寄棟造、茅葺。昭和24年(1949年)02月18日指定。
所在地 山口県山口市徳地上村字蔵場572番地
位置 北緯34度08分36.2秒 東経131度43分14.6秒
山号 清涼山
宗派 曹洞宗
本尊 薬師如来
その他十二神将、聖観音菩薩、四天王など
創建年 1189年(文治5年)
正式名 清涼山月輪寺
札所等 中国四十九薬師霊場第25番札所
文化財 薬師堂(国指定)
文治5年(1198年)、重源が太政大臣九条兼実の協力を得て建立したものと伝えられ、山口県内で最古の木造建造物。薬師堂内には薬師如来をはじめ多数の仏像が安置されており、国の重要文化財の指定を受けている。 毎年5月5日が薬師大縁日。
歴史
周防国佐波郡 コ地(得地)庄の串村に、聖徳太子の作と言われる観音を本尊とした清涼寺という寺があったが、維持する者がなく朽ち果てたため、寺にあった観音菩薩像と十二神将像のみ上徳地の上村(のち島地村)に移されたが、それもまた打ち捨てられたままに朽ちていた。
12世紀に、焼失した東大寺の再建用材の調達のために当地を訪れた重源がこれを聞きつけ、この地に移し新たに本堂を建立し、当地の得分であり助力者だった九条兼実の二つ名である「月輪関白、月輪殿」に因んで月輪寺と名付けた。
特徴
当時のまま現存しているのは観音堂(薬師堂)のみだが、鉋を使わず斧・釿のみで削ったと思われる珍しい建造物である。また、堂の柱という柱に無数の呪釘の跡が残されている。 創建当時は正面3間、側面2間であったものを、文治年間の移築の際に5間×4間に改めたとみられる。
堂の内部には、20年に一度開帳される秘仏薬師如来坐像のほか、聖観音菩薩立像、四天王像(いずれも県有形文化財)が収められている。
薬師堂
文化財
重要文化財(国指定)
薬師堂 - 平安時代後期(1086年-1184年)の建立。桁行五間、梁間四間、一重、寄棟造、茅葺。昭和24年(1949年)02月18日指定。
所在地 山口県山口市徳地上村字蔵場572番地
位置 北緯34度08分36.2秒 東経131度43分14.6秒
山号 清涼山
宗派 曹洞宗
本尊 薬師如来
その他十二神将、聖観音菩薩、四天王など
創建年 1189年(文治5年)
正式名 清涼山月輪寺
札所等 中国四十九薬師霊場第25番札所
文化財 薬師堂(国指定)
2024年02月22日
恵林寺(えりんじ)は、山梨県甲州市塩山小屋敷にある寺院
恵林寺(えりんじ)は、山梨県甲州市塩山小屋敷にある寺院。山号は乾徳山(けんとくさん)。臨済宗妙心寺派に属する寺院である。甲斐武田氏の菩提寺として知られる。
恵林寺の歴史
恵林寺の創建
鎌倉時代の元徳2年(1330年)に、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、五山派の夢窓疎石を招き開山。二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされる。もとは円覚寺派に属し、関東準十刹の寺格を有していた。
恵林寺は甲斐における臨済宗の中心となり、古先印元、青山慈永、龍湫周沢や絶海中津らが勅命を奉じて輪番住持となる。後には足利義満により鎌倉禅林十刹に準ずる寺格を与えられた。応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれる。
伽藍
1905年(明治38年)の出火で焼失した後、再建したものもあるが(方丈・庫裡)、桃山様式の四脚門(国の重要文化財)や夢窓作といわれる庭園(国指定の名勝)がある。
本堂
明王殿
庫裡
開山堂
柳沢廟
佛舎利宝塔(三重塔)
四脚門(重要文化財)
アクセス
JR中央本線塩山駅から
甲州市市民バス西沢渓谷線・窪平線に乗車し「恵林寺」バス停で下車。
甲州市市民バス下柚木線に乗車し「小屋敷」または「下藤木」バス停下車。ただし休日は運休。
JR中央本線山梨市駅から
山梨市営バス西沢渓谷線に乗車し「隼上」バス停で下車。
新宿駅から
高速バス「甲州ワインライナー」に乗車し「恵林寺」バス停で下車。ただし平日は運休。
拝観について
8:30 - 16:30 拝観は有料、信玄公宝物館は別料金
所在地 山梨県甲州市塩山小屋敷2280
位置 北緯35度43分47.9秒 東経138度42分49.8秒
山号 乾徳山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦如来
創建年 元徳2年(1330年)
開基 夢窓疎石
札所等 甲斐百八霊場9番
文化財 四脚門ほか(重要文化財)
庭園(名勝)
恵林寺の歴史
恵林寺の創建
鎌倉時代の元徳2年(1330年)に、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、五山派の夢窓疎石を招き開山。二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされる。もとは円覚寺派に属し、関東準十刹の寺格を有していた。
恵林寺は甲斐における臨済宗の中心となり、古先印元、青山慈永、龍湫周沢や絶海中津らが勅命を奉じて輪番住持となる。後には足利義満により鎌倉禅林十刹に準ずる寺格を与えられた。応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれる。
伽藍
1905年(明治38年)の出火で焼失した後、再建したものもあるが(方丈・庫裡)、桃山様式の四脚門(国の重要文化財)や夢窓作といわれる庭園(国指定の名勝)がある。
本堂
明王殿
庫裡
開山堂
柳沢廟
佛舎利宝塔(三重塔)
四脚門(重要文化財)
アクセス
JR中央本線塩山駅から
甲州市市民バス西沢渓谷線・窪平線に乗車し「恵林寺」バス停で下車。
甲州市市民バス下柚木線に乗車し「小屋敷」または「下藤木」バス停下車。ただし休日は運休。
JR中央本線山梨市駅から
山梨市営バス西沢渓谷線に乗車し「隼上」バス停で下車。
新宿駅から
高速バス「甲州ワインライナー」に乗車し「恵林寺」バス停で下車。ただし平日は運休。
拝観について
8:30 - 16:30 拝観は有料、信玄公宝物館は別料金
所在地 山梨県甲州市塩山小屋敷2280
位置 北緯35度43分47.9秒 東経138度42分49.8秒
山号 乾徳山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦如来
創建年 元徳2年(1330年)
開基 夢窓疎石
札所等 甲斐百八霊場9番
文化財 四脚門ほか(重要文化財)
庭園(名勝)
2024年02月21日
鞆淵八幡神社(ともぶちはちまんじんじゃ)は、和歌山県紀の川市中鞆淵にある神社
鞆淵八幡神社(ともぶちはちまんじんじゃ)は、和歌山県紀の川市中鞆淵にある神社。旧社格は県社。正式には八幡神社である。
祭神
主祭神 - 応神天皇、仲哀天皇、比売大神
配祀神 - 仁徳天皇、武内宿禰、天之御中主神、猿田彦命、事代主命、大山祇尊、品陀和気命、須佐之男命、天照皇大神、家都御子大神、伊弉諸尊、伊弉冉尊
歴史
詳しい創建年代は不明であるが、石清水八幡宮の荘園であった鞆淵荘の産土神として八幡神が勧請され、石清水八幡宮の別院として創建されたようである。または、帝の寵愛をうけた鶴千代姫が安貞2年(1228年)に帰郷の際、石清水八幡宮の別宮として勧請したという。
安貞2年(1228年)に石清水八幡宮から神輿が送られ、その後もこの時の仕様のものが製作・使用された。現存の神輿は平安時代末期から鎌倉時代初期のもので国宝に指定されている。
弘安2年(1279年)に遷宮が行われ本殿の他に摂社として若宮社、高良社、武内社があり、神職として神主、大炊祢宜、若宮神主、権祢宜、神人がいたことが記録されている。この神人らは百姓と結束して荘官の下司・公文と対立し闘争している。
元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の勅裁により当地は高野山領となるが、百姓らは下司・公文や高野山に抵抗し、室町時代にかけて度々激しい闘争を行った。この闘争の中で当社は荘民の鎮守として信仰され、惣として団結する精神的支柱となっていた。
寛正3年(1463年)には社殿が造営され、現在の三間社流造の本殿(重要文化財)が完成している[2]。
江戸時代には本殿の他に未社8、本地堂、御供所、舞台、神楽所、庁、宝蔵、神宮寺などがあり、高野街道沿いのため多くの参詣人があった。
明治時代になると神仏分離が行われて神宮寺は廃寺とされた。しかし、神宮寺の大日堂(重要文化財)は破却されずに残された。
1906年(明治39年)に村内の12社を合祀している。1923年(大正12年)に県社に列せられた。
境内
本殿(重要文化財) - 寛正3年(1462年)再建。三間社流造、檜皮葺。
拝殿
大日堂(重要文化財) - かつての神宮寺の建物。神仏習合の名残り。五間四方。
神楽殿
宝蔵庫 - 鉄筋コンクリート造。
神輿庫 - 鉄筋コンクリート造。
社務所
所在地
和歌山県紀の川市中鞆渕58
アクセス
西日本旅客鉄道和歌山線笠田駅から車で約30分
祭神
主祭神 - 応神天皇、仲哀天皇、比売大神
配祀神 - 仁徳天皇、武内宿禰、天之御中主神、猿田彦命、事代主命、大山祇尊、品陀和気命、須佐之男命、天照皇大神、家都御子大神、伊弉諸尊、伊弉冉尊
歴史
詳しい創建年代は不明であるが、石清水八幡宮の荘園であった鞆淵荘の産土神として八幡神が勧請され、石清水八幡宮の別院として創建されたようである。または、帝の寵愛をうけた鶴千代姫が安貞2年(1228年)に帰郷の際、石清水八幡宮の別宮として勧請したという。
安貞2年(1228年)に石清水八幡宮から神輿が送られ、その後もこの時の仕様のものが製作・使用された。現存の神輿は平安時代末期から鎌倉時代初期のもので国宝に指定されている。
弘安2年(1279年)に遷宮が行われ本殿の他に摂社として若宮社、高良社、武内社があり、神職として神主、大炊祢宜、若宮神主、権祢宜、神人がいたことが記録されている。この神人らは百姓と結束して荘官の下司・公文と対立し闘争している。
元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の勅裁により当地は高野山領となるが、百姓らは下司・公文や高野山に抵抗し、室町時代にかけて度々激しい闘争を行った。この闘争の中で当社は荘民の鎮守として信仰され、惣として団結する精神的支柱となっていた。
寛正3年(1463年)には社殿が造営され、現在の三間社流造の本殿(重要文化財)が完成している[2]。
江戸時代には本殿の他に未社8、本地堂、御供所、舞台、神楽所、庁、宝蔵、神宮寺などがあり、高野街道沿いのため多くの参詣人があった。
明治時代になると神仏分離が行われて神宮寺は廃寺とされた。しかし、神宮寺の大日堂(重要文化財)は破却されずに残された。
1906年(明治39年)に村内の12社を合祀している。1923年(大正12年)に県社に列せられた。
境内
本殿(重要文化財) - 寛正3年(1462年)再建。三間社流造、檜皮葺。
拝殿
大日堂(重要文化財) - かつての神宮寺の建物。神仏習合の名残り。五間四方。
神楽殿
宝蔵庫 - 鉄筋コンクリート造。
神輿庫 - 鉄筋コンクリート造。
社務所
所在地
和歌山県紀の川市中鞆渕58
アクセス
西日本旅客鉄道和歌山線笠田駅から車で約30分
2024年02月20日
正楽寺(しょうらくじ)は、岡山県備前市蕃山に所在する高野山真言宗準別格本山の寺
正楽寺(しょうらくじ)は、岡山県備前市蕃山に所在する高野山真言宗準別格本山の寺。山号は日光山。詳しくは日光山 千手院 正楽寺と号する。本尊は十一面観世音菩薩。中国三十三観音霊場第三番札所、百八観音霊場第四番札所。宗教法人としての名称は「千手院」。
概要
寺伝によれば、奈良時代中期の天平勝宝年間(749年 – 756年)に備前四十八ヶ寺の一つとして報恩大師が開いたとされる。その後衰亡し、鎌倉時代末期の嘉元2年(1304年)に大和国般若寺の僧・信賢が再興し伽藍を整備した。この時の寺院名は勝楽寺であったと伝えられている。
江戸時代初期の元和元年(1615年)に火災により伽藍が焼亡した。岡山藩主池田家は寺院を庇護し伽藍を江戸中期から後期にかけて再び整備した。池田家歴代の位牌が安置されている。
寺院の近くには藩の学者・熊沢蕃山が逼塞した屋敷跡がある。この地は元来、寺口村と言ったが蕃山隠棲の地に因み蕃山村(しげやまむら)と改称された。
所在地 岡山県備前市蕃山1305
位置 北緯34度45分38.4秒 東経134度15分22.5秒
山号 日光山
院号 千手院
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
寺格 準別格本山
本尊 十一面観音
創建年 伝・天平勝宝年間(749年 - 756年)
開基 伝・報恩大師
中興年 嘉元2年(1304年)
中興 信賢
正式名 日光山 千手院 正楽寺
札所等 中国三十三観音3番
百八観音4番
文化財 四座講式(国の重要文化財)
山門・白衣観音図・十一面観音立像(岡山県指定文化財)
本堂・客殿及び玄関・鐘楼(備前市指定文化財)
概要
寺伝によれば、奈良時代中期の天平勝宝年間(749年 – 756年)に備前四十八ヶ寺の一つとして報恩大師が開いたとされる。その後衰亡し、鎌倉時代末期の嘉元2年(1304年)に大和国般若寺の僧・信賢が再興し伽藍を整備した。この時の寺院名は勝楽寺であったと伝えられている。
江戸時代初期の元和元年(1615年)に火災により伽藍が焼亡した。岡山藩主池田家は寺院を庇護し伽藍を江戸中期から後期にかけて再び整備した。池田家歴代の位牌が安置されている。
寺院の近くには藩の学者・熊沢蕃山が逼塞した屋敷跡がある。この地は元来、寺口村と言ったが蕃山隠棲の地に因み蕃山村(しげやまむら)と改称された。
所在地 岡山県備前市蕃山1305
位置 北緯34度45分38.4秒 東経134度15分22.5秒
山号 日光山
院号 千手院
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
寺格 準別格本山
本尊 十一面観音
創建年 伝・天平勝宝年間(749年 - 756年)
開基 伝・報恩大師
中興年 嘉元2年(1304年)
中興 信賢
正式名 日光山 千手院 正楽寺
札所等 中国三十三観音3番
百八観音4番
文化財 四座講式(国の重要文化財)
山門・白衣観音図・十一面観音立像(岡山県指定文化財)
本堂・客殿及び玄関・鐘楼(備前市指定文化財)
2024年02月19日
道明寺(どうみょうじ)は、大阪府藤井寺市道明寺にある真言宗御室派の寺院(尼寺)
道明寺(どうみょうじ)は、大阪府藤井寺市道明寺にある真言宗御室派の寺院(尼寺)。山号は蓮土山。本尊は十一面観音。
道明寺 本堂
歴史
道明寺周辺は菅原道真の祖先にあたる豪族で、野見宿禰の子孫である土師(はじ)氏の根拠地であった。推古天皇2年(594年)、聖徳太子の尼寺建立の発願により土師連八嶋がその邸を寄進して土師氏の氏寺・土師寺を土師神社(現・道明寺天満宮)の南に建立し、やがて神宮寺となった。当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。
延喜元年(901年)、大宰府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれている。道真の死後、天暦元年(947年)には道真自刻と伝える十一面観音像を祀って土師寺を道明寺と改めるが、これは道真の号である「道明」に由来する。この時同時に、土師神社内に天満宮も創建されたが、この後土師神社は天満宮が中心となっていった。
鎌倉時代には大和国西大寺の末寺となり、永仁6年(1298年)に忍性によって鎌倉幕府の祈祷寺となり、引き続いて室町幕府の祈祷寺にもなっている。
天正3年(1575年)には、高屋城の戦いの兵火で天満宮を含む寺の大部分が焼失するが、後に再興する。
正徳6年(1716年)には石川が氾濫したため、道明寺を天満宮境内に移転させると、道明寺本堂が天満宮本殿のすぐ西隣に建てられるなど両者はやがて一体化していった。
1872年(明治5年)神仏分離することとなり、道明寺の五坊のうち二之室が神職家となって6月に天満宮は土師神社(現・道明寺天満宮)に改称する。翌1873年(明治6年)9月、道明寺はついに天満宮と分離し、東高野街道を隔てた西隣の現在地に移転した。
境内には当時の堂の大きな礎石が残る。当寺の南には五重塔跡の礎石も残っている。
楼門
文化財
国宝
木造十一面観音立像 - 平安時代初期、9世紀の菅原道真の作とされる。カヤ材の一木造で彩色を施さない素地仕上げとする。カヤ材をビャクダンの代用材として用いた檀像様(だんぞうよう)の作品である。像高98cm。
十一面観音像
所在地 大阪府藤井寺市道明寺1丁目14-31
位置 北緯34度34分7.94秒 東経135度36分57.65秒
山号 蓮土山
宗派 真言宗御室派
本尊 十一面観音菩薩(国宝)
創建年 6世紀
開基 土師連八嶋
札所等 聖徳太子霊跡第3番
河内飛鳥古寺霊場第5番
文化財 木造十一面観音菩薩立像(国宝)
木造十一面観音立像(試みの観音)、木造聖徳太子立像(重要文化財)
道明寺 本堂
歴史
道明寺周辺は菅原道真の祖先にあたる豪族で、野見宿禰の子孫である土師(はじ)氏の根拠地であった。推古天皇2年(594年)、聖徳太子の尼寺建立の発願により土師連八嶋がその邸を寄進して土師氏の氏寺・土師寺を土師神社(現・道明寺天満宮)の南に建立し、やがて神宮寺となった。当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。
延喜元年(901年)、大宰府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれている。道真の死後、天暦元年(947年)には道真自刻と伝える十一面観音像を祀って土師寺を道明寺と改めるが、これは道真の号である「道明」に由来する。この時同時に、土師神社内に天満宮も創建されたが、この後土師神社は天満宮が中心となっていった。
鎌倉時代には大和国西大寺の末寺となり、永仁6年(1298年)に忍性によって鎌倉幕府の祈祷寺となり、引き続いて室町幕府の祈祷寺にもなっている。
天正3年(1575年)には、高屋城の戦いの兵火で天満宮を含む寺の大部分が焼失するが、後に再興する。
正徳6年(1716年)には石川が氾濫したため、道明寺を天満宮境内に移転させると、道明寺本堂が天満宮本殿のすぐ西隣に建てられるなど両者はやがて一体化していった。
1872年(明治5年)神仏分離することとなり、道明寺の五坊のうち二之室が神職家となって6月に天満宮は土師神社(現・道明寺天満宮)に改称する。翌1873年(明治6年)9月、道明寺はついに天満宮と分離し、東高野街道を隔てた西隣の現在地に移転した。
境内には当時の堂の大きな礎石が残る。当寺の南には五重塔跡の礎石も残っている。
楼門
文化財
国宝
木造十一面観音立像 - 平安時代初期、9世紀の菅原道真の作とされる。カヤ材の一木造で彩色を施さない素地仕上げとする。カヤ材をビャクダンの代用材として用いた檀像様(だんぞうよう)の作品である。像高98cm。
十一面観音像
所在地 大阪府藤井寺市道明寺1丁目14-31
位置 北緯34度34分7.94秒 東経135度36分57.65秒
山号 蓮土山
宗派 真言宗御室派
本尊 十一面観音菩薩(国宝)
創建年 6世紀
開基 土師連八嶋
札所等 聖徳太子霊跡第3番
河内飛鳥古寺霊場第5番
文化財 木造十一面観音菩薩立像(国宝)
木造十一面観音立像(試みの観音)、木造聖徳太子立像(重要文化財)
2024年02月18日
薦神社(こもじんじゃ)は、大分県中津市に所在する八幡宮
薦神社(こもじんじゃ)は、大分県中津市に所在する八幡宮で、別名大貞八幡宮(おおさだはちまんぐう)とも称される。境内の三角池(みすみいけ:古くは「御澄池」と記すこともある)を内宮、神殿を外宮とする。全国八幡宮の総本宮である宇佐神宮の祖宮といわれ、承和年間(834-848年)の創建と伝える古社である。
祭神
本殿 - 応神天皇(八幡大神)、比淘蜷_(宗像三女神)、息長帯比売命(神功皇后)
八坂社(祇園社) - 素盞嗚尊(すさのおのみこと)
若宮社 - 応神天皇皇子
比淘蜷_とは宗像三女神のことで、沖津宮(沖ノ島)の田心比売命(たごりひめのみこと)、中津宮(福岡県大島)の瑞津比売命(たぎつひめのみこと)、辺津宮(へつみや)(同県宗像市田島)の市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)を示す。この三女神は『日本書紀』巻第1神代上第6段一書第3の条によると、「則ち日神の生れまする三の女神を以ては、葦原中国(あしはらのなかつくに)の宇佐島に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す」とあり、最初は宇佐の地に降り立ったことを示している。
祭祀
2月11日 - 鎮疫祭、御心経会(鬼やらい行事)
4月21日 - 例祭
9月第3土・日曜日 - 仲秋祭(御神幸祭)
交通
JR九州小倉駅より、日豊本線の特急ソニックで約30分で中津駅下車。駅から車で約15分。
路線バス利用の場合は、中津駅南口より大交北部バス田中行きまたは少年学院官舎前行きに乗車、薦神社前下車。所要約20分。
所在地 大分県中津市大字大貞209
位置 北緯33度34分02.2秒 東経131度13分05.1秒
主祭神 応神天皇
比売大神
息長帯比売命
社格等 旧県社
創建 承和年間(9世紀前葉)
本殿の様式 流造
別名 大貞八幡宮
例祭 4月21日
祭神
本殿 - 応神天皇(八幡大神)、比淘蜷_(宗像三女神)、息長帯比売命(神功皇后)
八坂社(祇園社) - 素盞嗚尊(すさのおのみこと)
若宮社 - 応神天皇皇子
比淘蜷_とは宗像三女神のことで、沖津宮(沖ノ島)の田心比売命(たごりひめのみこと)、中津宮(福岡県大島)の瑞津比売命(たぎつひめのみこと)、辺津宮(へつみや)(同県宗像市田島)の市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)を示す。この三女神は『日本書紀』巻第1神代上第6段一書第3の条によると、「則ち日神の生れまする三の女神を以ては、葦原中国(あしはらのなかつくに)の宇佐島に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す」とあり、最初は宇佐の地に降り立ったことを示している。
祭祀
2月11日 - 鎮疫祭、御心経会(鬼やらい行事)
4月21日 - 例祭
9月第3土・日曜日 - 仲秋祭(御神幸祭)
交通
JR九州小倉駅より、日豊本線の特急ソニックで約30分で中津駅下車。駅から車で約15分。
路線バス利用の場合は、中津駅南口より大交北部バス田中行きまたは少年学院官舎前行きに乗車、薦神社前下車。所要約20分。
所在地 大分県中津市大字大貞209
位置 北緯33度34分02.2秒 東経131度13分05.1秒
主祭神 応神天皇
比売大神
息長帯比売命
社格等 旧県社
創建 承和年間(9世紀前葉)
本殿の様式 流造
別名 大貞八幡宮
例祭 4月21日
2024年02月17日
伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)は、愛媛県松山市にある神社
伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)は、愛媛県松山市にある神社。式内社で、旧社格は県社。神紋は「左三つ巴」。
別称として「湯月八幡」・「道後八幡」とも呼ばれる。
楼門(重要文化財)
概要
松山市市街地の西部、道後温泉近くの道後山の東南端に鎮座する。もとは道後公園のある場所にあったが、建武年間に河野通盛によって湯築城構築のため現在地に移された。
現存する社殿は寛文7年(1667年)に松山藩主松平定長によって造営された。
国の重要文化財に指定されている社殿は、全国に3例しかない八幡造である。このほか、重要文化財の太刀(銘 国行)が伝えられている。
祭神
主祭神
譽田別尊 (ほんだわけのみこと) - 応神天皇に同じ
足仲彦尊 (たらしなかつひこのみこと) - 仲哀天皇に同じ
氣長足姫尊 (おきながたらしひめのみこと) - 神功皇后に同じ
三柱姫大神 - 宗像三女神に同じ。以下の3柱を指す
市杵島姫尊 (いちきしまひめのみこと)
湍津姫尊 (たぎつひめのみこと)
田心姫命 (たぎりひめのみこと)
配神
東照大神 (東照大権現) - 徳川家康に同じ
本殿と透塀(ともに重要文化財)
歴史
概史
社伝によれば、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来湯した際の行宮跡に創建されたという。旧鎮座地は「伊佐爾波岡」と呼ばれていた。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「伊予国温泉郡 伊佐尓波神社」と記載され、式内社に列している。神仏習合の時代には、宝厳寺と石手寺は、共に伊佐爾波神社の別当寺であったとされる。
伊予国守護・河野氏による湯築城の築城に際し、現在の地に移転した。当社は湯築城の守護神として河野氏から崇敬されたほか、道後七郡(野間・風速・和気・温泉・久米・伊予・浮穴の各郡)の総守護とされた。
松山藩の藩主となった加藤嘉明は、松山城の固めとして松山八社八幡を定め、当社は「湯月八幡宮」として一番社とされた。また武運長久の祈願社として、社領に久米郡井合の土地100石を寄進した。
寛文2年(1661年)、弓の名手といわれた三代藩主松平定長は、将軍家より江戸城内において弓の競射を命じられた際、湯月八幡宮へ必中祈願をした。寛文4年(1664年)6月、定長は、将軍家の御前で弓を無事に射ることができ、祈願成就の御礼として社殿の造替に着手した。
寛文7年(1667年)5月15日、大工697人、延べ人数69,017人を要し新社殿が完成。松平家より代参として家老竹内家が参拝し、遷宮式が挙行された。新社殿は石清水八幡宮を模したとされる八幡造で、宇佐八幡宮とあわせて3例のみである(現存)。
常盤新田霊社(重要文化財)
文化財
重要文化財(国指定)
建造物
本殿 - 昭和31年指定
申殿及び廊下 - 昭和42年指定
楼門 - 昭和42年指定
廻廊 - 昭和42年指定
(以下、附(つけたり))
透塀 1棟 - 昭和31年指定(本殿と同時)
末社高良玉垂社本殿 - 昭和42年指定
末社常盤社新田霊社本殿 - 昭和42年指定
石燈籠 2基 - 昭和42年指定
棟札 1枚 - 昭和42年指定
工芸品
太刀(銘 国行)
鎌倉時代の作。長さ77.7cm。寛文5年(1665年)8月、松山城主・松平定長による奉納。昭和3年指定。
高良玉垂社(重要文化財)
現地情報
交通アクセス
最寄駅:伊予鉄道城南線(市内電車) 道後温泉駅 (徒歩5分)
所在地 愛媛県松山市桜谷町173
位置 北緯33度51分2.66秒 東経132度47分20.48秒
主祭神 譽田別尊
足仲彦尊
氣長足姫尊
三柱姫大神
社格等 式内社(小)
旧県社
創建 不詳
本殿の様式 八幡造
別名 湯月八幡宮・道後八幡
例祭 10月6日
別称として「湯月八幡」・「道後八幡」とも呼ばれる。
楼門(重要文化財)
概要
松山市市街地の西部、道後温泉近くの道後山の東南端に鎮座する。もとは道後公園のある場所にあったが、建武年間に河野通盛によって湯築城構築のため現在地に移された。
現存する社殿は寛文7年(1667年)に松山藩主松平定長によって造営された。
国の重要文化財に指定されている社殿は、全国に3例しかない八幡造である。このほか、重要文化財の太刀(銘 国行)が伝えられている。
祭神
主祭神
譽田別尊 (ほんだわけのみこと) - 応神天皇に同じ
足仲彦尊 (たらしなかつひこのみこと) - 仲哀天皇に同じ
氣長足姫尊 (おきながたらしひめのみこと) - 神功皇后に同じ
三柱姫大神 - 宗像三女神に同じ。以下の3柱を指す
市杵島姫尊 (いちきしまひめのみこと)
湍津姫尊 (たぎつひめのみこと)
田心姫命 (たぎりひめのみこと)
配神
東照大神 (東照大権現) - 徳川家康に同じ
本殿と透塀(ともに重要文化財)
歴史
概史
社伝によれば、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来湯した際の行宮跡に創建されたという。旧鎮座地は「伊佐爾波岡」と呼ばれていた。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「伊予国温泉郡 伊佐尓波神社」と記載され、式内社に列している。神仏習合の時代には、宝厳寺と石手寺は、共に伊佐爾波神社の別当寺であったとされる。
伊予国守護・河野氏による湯築城の築城に際し、現在の地に移転した。当社は湯築城の守護神として河野氏から崇敬されたほか、道後七郡(野間・風速・和気・温泉・久米・伊予・浮穴の各郡)の総守護とされた。
松山藩の藩主となった加藤嘉明は、松山城の固めとして松山八社八幡を定め、当社は「湯月八幡宮」として一番社とされた。また武運長久の祈願社として、社領に久米郡井合の土地100石を寄進した。
寛文2年(1661年)、弓の名手といわれた三代藩主松平定長は、将軍家より江戸城内において弓の競射を命じられた際、湯月八幡宮へ必中祈願をした。寛文4年(1664年)6月、定長は、将軍家の御前で弓を無事に射ることができ、祈願成就の御礼として社殿の造替に着手した。
寛文7年(1667年)5月15日、大工697人、延べ人数69,017人を要し新社殿が完成。松平家より代参として家老竹内家が参拝し、遷宮式が挙行された。新社殿は石清水八幡宮を模したとされる八幡造で、宇佐八幡宮とあわせて3例のみである(現存)。
常盤新田霊社(重要文化財)
文化財
重要文化財(国指定)
建造物
本殿 - 昭和31年指定
申殿及び廊下 - 昭和42年指定
楼門 - 昭和42年指定
廻廊 - 昭和42年指定
(以下、附(つけたり))
透塀 1棟 - 昭和31年指定(本殿と同時)
末社高良玉垂社本殿 - 昭和42年指定
末社常盤社新田霊社本殿 - 昭和42年指定
石燈籠 2基 - 昭和42年指定
棟札 1枚 - 昭和42年指定
工芸品
太刀(銘 国行)
鎌倉時代の作。長さ77.7cm。寛文5年(1665年)8月、松山城主・松平定長による奉納。昭和3年指定。
高良玉垂社(重要文化財)
現地情報
交通アクセス
最寄駅:伊予鉄道城南線(市内電車) 道後温泉駅 (徒歩5分)
所在地 愛媛県松山市桜谷町173
位置 北緯33度51分2.66秒 東経132度47分20.48秒
主祭神 譽田別尊
足仲彦尊
氣長足姫尊
三柱姫大神
社格等 式内社(小)
旧県社
創建 不詳
本殿の様式 八幡造
別名 湯月八幡宮・道後八幡
例祭 10月6日
2024年02月16日
大縣神社(おおあがたじんじゃ)は、愛知県犬山市にある神社
大縣神社(おおあがたじんじゃ)は、愛知県犬山市にある神社である。旧社格は、式内社(名神大社)・尾張国二宮・旧国幣中社・別表神社。
「大県神社(読みは同じ)」と表記する場合もある。
歴史
概史
社伝によれば「垂仁天皇27年に、本宮山の山頂から現在地に移転した」とある。
神階
承和14年(847年)11月11日、無位から従五位下(『続日本後紀』)- 表記は「大県天神」
仁寿3年(853年)5月22日、従五位下から従四位下(『日本文徳天皇実録』)- 表記は「大県神」
天安3年(859年)2月17日、従四位下から従四位上(『日本三代実録』)- 表記は「大県神」
貞観15年(873年)8月13日、従四位上から正四位下(『日本三代実録』)- 表記は「大県神」
祭神
祭神は、大縣大神(おおあがたのおおかみ)としている。大縣大神は、国狭槌尊とする説、天津彦根命(大縣主の祖神)とする説、少彦名命とする説、大荒田命(日本武尊の三世孫で迩波縣君の祖)とする説、武恵賀前命(神八井耳命の孫で迩波縣君の祖)とする説などがあり、はっきりしない。いずれにしても、「大縣大神は、尾張国開拓の祖神である」とされている。
文化財
重要文化財
大縣神社 2棟
本殿[附透塀1棟、古図1枚、棟札12枚
祭文殿及び東西回廊(1棟) 附棟札1枚
所在地
愛知県犬山市宮山3
交通アクセス
名鉄小牧線の楽田駅下車、徒歩で約20分。または、楽田駅東口から犬山市コミュニティバス つつじヶ丘団地行き(平日のみ、祝日も運行)で約8分。
愛知県道177号大県神社線
「大県神社(読みは同じ)」と表記する場合もある。
歴史
概史
社伝によれば「垂仁天皇27年に、本宮山の山頂から現在地に移転した」とある。
神階
承和14年(847年)11月11日、無位から従五位下(『続日本後紀』)- 表記は「大県天神」
仁寿3年(853年)5月22日、従五位下から従四位下(『日本文徳天皇実録』)- 表記は「大県神」
天安3年(859年)2月17日、従四位下から従四位上(『日本三代実録』)- 表記は「大県神」
貞観15年(873年)8月13日、従四位上から正四位下(『日本三代実録』)- 表記は「大県神」
祭神
祭神は、大縣大神(おおあがたのおおかみ)としている。大縣大神は、国狭槌尊とする説、天津彦根命(大縣主の祖神)とする説、少彦名命とする説、大荒田命(日本武尊の三世孫で迩波縣君の祖)とする説、武恵賀前命(神八井耳命の孫で迩波縣君の祖)とする説などがあり、はっきりしない。いずれにしても、「大縣大神は、尾張国開拓の祖神である」とされている。
文化財
重要文化財
大縣神社 2棟
本殿[附透塀1棟、古図1枚、棟札12枚
祭文殿及び東西回廊(1棟) 附棟札1枚
所在地
愛知県犬山市宮山3
交通アクセス
名鉄小牧線の楽田駅下車、徒歩で約20分。または、楽田駅東口から犬山市コミュニティバス つつじヶ丘団地行き(平日のみ、祝日も運行)で約8分。
愛知県道177号大県神社線