筑後川昇開橋(ちくごがわしょうかいきょう、Chikugo River Lift bridge)は、日本国有鉄道(国鉄)佐賀線に存在し、筑後川をまたいで福岡県大川市と佐賀県佐賀市諸富町(廃線時・佐賀郡諸富町)を結んでいた鉄道用可動式橋梁である。佐賀線の廃線後も保存され、現在は歩道橋として活用されている。旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)として重要文化財および機械遺産に指定されている。
概要
筑後川昇開橋は、鉄道省佐賀線の鉄道橋梁「筑後川橋梁(ちくごがわきょうりょう)」として建設され、1935年(昭和10年)竣工、同年5月25日に開業した。舟運との共存のため、橋の一部が可動式となっている可動橋には旋回橋、跳開橋(跳ね橋)、昇開橋などがあるが、本橋は橋桁の一部が垂直方向に上下する昇開橋として日本に現存する最古のものである。橋の全長は507.2メートル、可動部分の長さは24.2メートル、昇降差は23メートルである。本橋の設計施行に中心的役割を果たしたのは、鉄道技師の釘宮磐(鉄道省熊本建設事務所長)であった。昇開橋の仕組みそのものは、坂本種芳が考えた。竣工当時は「東洋一の可動式鉄橋」と呼ばれた。また、この筑後川昇開橋の構造を解説するために精巧な模型が交通博物館(閉館)及び鉄道博物館(埼玉県さいたま市)で展示されている。ちなみに、昇開橋の精巧模型は1937年(昭和12年)にフランス・パリで行われたパリ万博に出展されたものである。
建設するにあたっては、位置的に筑後川の河口付近で、有明海の潮の干満の影響も直に受ける地理的条件があり、しかも、付近には港もあり、建設当時は船が主要交通機関であったため、大型船の往来も激しかった。通常の橋だと干満の影響で船が通れなくなってしまう可能性があったため、中央部の橋が可動して船が通れる構造になった。
国鉄の民営化を前に1987年(昭和62年)3月27日限りで佐賀線は廃線となり、同橋梁も閉鎖され、筑後川を管理する当時の建設省からも撤去勧告がなされ、解体も検討された。しかし地元では橋存続の要望が強く、1992年(平成4年)9月17日に日本国有鉄道清算事業団から大川市へ無償譲渡され、1996年(平成8年)に遊歩道として復活し、現在では大川市と諸富町のシンボル的存在となっている。また、橋の両端には公園が整備されていて、現役当時の橋の姿のモニュメントや佐賀線で使われていた3灯式信号機や警報機などが保存されている。
1996年(平成8年)に国の登録有形文化財に登録、2003年(平成15年)5月30日に、国の重要文化財に指定され、2007年(平成19年)8月7日に日本機械学会より機械遺産(23番)に認定された。2009年(平成21年)7月30日から橋脚の修復や塗装の塗り替え、遊歩道に防水加工を施すなどの保存修理工事が行われ、2011年(平成23年)2月13日に通行が再開された。調査費を含めた総事業費は約3億円。平成27年2月1日から平行滑車の劣化が原因で桁に歪みが生じたため補修工事が行われた。同年3月1日に通行が再開された。
観光情報
稼働日
1月4日〜12月28日
休業日
毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日)
稼働時間
9:00〜17:00
通行料金
不要(ただし、橋の運営資金のための寄付金箱が橋の中央部の事務所前に設置されている)
両岸に駐車場があり約20台ほど駐車できる。佐賀県側は特産物直売所「橋の駅ドロンパ」。また、橋はペット連れやバイクの乗り入れは不可能である。自転車は降りて通行する事は可能。なお、気象条件により休業の場合があり、大型船の航行により稼働時間がずれる場合がある。
2011年12月に可動桁の滑車が故障したため、遊歩道としては一時通行止めとなっていたが、2013年(平成25年)6月に復旧し、現在は平常どおり通行できるようになっている。
2012年(平成24年)3月27日より日没〜22時にライトアップが行われている。
アクセス方法
西鉄天神大牟田線西鉄柳川駅から
西口駅前バスセンター3番のりばより西鉄バス「大川・諸富経由の佐賀駅バスセンター」行に乗り、「大川橋」で下車。そのバス停から向かって大川橋交差点を左折し、二つに分岐している道があるのでそこを右折直進し、しばらくすると筑後川昇開橋が見えてくる。バスダイヤも福岡天神方面からの特急電車と連絡する形となっており、福岡市方面からは最も便利な行き方である。
JR九州長崎本線佐賀駅から
佐賀駅バスセンター3番のりばから佐賀市営バス「諸富・早津江線」に乗り、「昇開橋前」下車。
上記の西鉄バス「西鉄柳川駅〜佐賀駅バスセンター」でアクセスする場合は、「諸富橋」が佐賀県側の最寄りバス停となる。2系統合わせると、日中1時間あたり2〜3本の便がある。
JR九州鹿児島本線羽犬塚駅から
同駅のバス停より西鉄バス「大野島農協前」行に乗車し、「中原高木病院前」乗換、タクシーまたは西鉄バス「佐賀駅バスセンター」行に乗車し、「大川橋」で下車。バス停からは「西鉄柳川駅から」の項を参照。
自家用車の場合
九州自動車道の八女ICより、国道442号を西へ直進。宮内交差点を左折、しげあみ交差点を右折、中原交差点を左折、そして東町交差点を右折し直進(宮内交差点を直進し、中原交差点を直進し、東町交差点を右折し直進するルートもある)。
長崎自動車道の東脊振ICより、国道385号を南へ直進し、青木中津大橋を渡った後、右折し、筑後川の堤防に沿って大川橋交差点を直進し、一方通行の道へ入り、若津下町交差点を右折する。
2024年03月16日
2024年03月15日
金剛頂寺(こんごうちょうじ)は、高知県室戸市元乙に位置する真言宗豊山派の寺院
金剛頂寺(こんごうちょうじ)は、高知県室戸市元乙に位置する真言宗豊山派の寺院。龍頭山(りゅうずざん)、光明院(こうみょういん)と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所第二十六番札所。
室戸市周辺では西寺とよばれ]。
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:往生に望みをかくる極楽は 月のかたむく西寺(にしでら)の空
概要
当寺は標高165 m辺りの三角山の中腹にあり、室戸岬を臨め眼下に太平洋が広がる行当岬上部の景勝地にある。北東の鬼門に約7 km離れた池山池に池山神社、南西の裏鬼門に約1.5 km離れた崎山地区に法満宮を配して創建された。当寺から南に下がった海岸は行当岬の東側にあたり、硯が産出されたことから硯が浦とも呼ばれる。
『拾遺往生伝』によると、当寺11世住職・蓮薹(れんたい)は、承徳2年(1098年)6月7日、高野山からの帰り道で「南無弘法大師遍照金剛菩薩」と云えりとあって、大師宝号を初めて唱えたとされている]。
歴史
寺伝によれば、空海(弘法大師)にとって最初の勅願寺の創建として、大同2年(807年)平城天皇の勅願により、本尊薬師如来を刻んで「金剛定寺」と号し、女人禁制の寺院であったという。次の嵯峨天皇が「金剛頂寺」の勅額を下賜し、その寺名に改められた。『南路志』(江戸時代の土佐の地誌)所収の寺記によれば、大同元年、唐から帰国途次の空海が当地に立ち寄り創建したとされる。同寺記によれば、さらに次の淳和天皇も勅願所とし、住職も10世まで勅命によって選定され、その後の16世・覚有の頃まで寺運は栄え、多い時は180人余の修行僧がいた。
鎌倉時代になると無縁所となり、体制から逃れた人々をすべて受け入れ「西寺乞食(にしでらこつじ)」と呼ばれるようになり、侵すことのできない聖域として存在した。
文明11年(1479年)には堂宇を罹災したが、長宗我部元親が寺領を寄進しているほか、土佐藩主山内家の祈願所とされ、復興は早く整備された。その後、1899年(明治32年)の火災で大師堂・護摩堂以外の伽藍を焼失し、本堂ほか現存する堂宇は再建である。阿南室戸歴史文化道の指定を受けている。
アクセス
鉄道
土佐くろしお鉄道ごめんなはり線 – 奈半利駅 (18.1 km)
バス
高知東部交通 「元橋」下車 (1.2 km)
道路
国道55号 元橋 (2.3 km)
駐車場:20台、大型3台(納経所にて駐車料:普通車200円、マイクロバス400円、大型バス1,000円)
所在地 高知県室戸市元乙523
位置 北緯33度18分26秒 東経134度07分22.3秒
山号 龍頭山
院号 光明院
宗旨 新義真言宗
宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来
創建年 (伝)大同2年(807年)
開基 (伝)嵯峨天皇(勅願)、空海(弘法大師)
正式名 龍頭山 光明院 金剛頂寺
別称 西寺(にしでら)
札所等 四国八十八箇所26番
文化財 銅造観世音菩薩立像・木造阿弥陀如来坐像・
板彫真言八祖像・銅鐘・金銅旅壇具・
金銅密教法具(国の重要文化財)
室戸市周辺では西寺とよばれ]。
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:往生に望みをかくる極楽は 月のかたむく西寺(にしでら)の空
概要
当寺は標高165 m辺りの三角山の中腹にあり、室戸岬を臨め眼下に太平洋が広がる行当岬上部の景勝地にある。北東の鬼門に約7 km離れた池山池に池山神社、南西の裏鬼門に約1.5 km離れた崎山地区に法満宮を配して創建された。当寺から南に下がった海岸は行当岬の東側にあたり、硯が産出されたことから硯が浦とも呼ばれる。
『拾遺往生伝』によると、当寺11世住職・蓮薹(れんたい)は、承徳2年(1098年)6月7日、高野山からの帰り道で「南無弘法大師遍照金剛菩薩」と云えりとあって、大師宝号を初めて唱えたとされている]。
歴史
寺伝によれば、空海(弘法大師)にとって最初の勅願寺の創建として、大同2年(807年)平城天皇の勅願により、本尊薬師如来を刻んで「金剛定寺」と号し、女人禁制の寺院であったという。次の嵯峨天皇が「金剛頂寺」の勅額を下賜し、その寺名に改められた。『南路志』(江戸時代の土佐の地誌)所収の寺記によれば、大同元年、唐から帰国途次の空海が当地に立ち寄り創建したとされる。同寺記によれば、さらに次の淳和天皇も勅願所とし、住職も10世まで勅命によって選定され、その後の16世・覚有の頃まで寺運は栄え、多い時は180人余の修行僧がいた。
鎌倉時代になると無縁所となり、体制から逃れた人々をすべて受け入れ「西寺乞食(にしでらこつじ)」と呼ばれるようになり、侵すことのできない聖域として存在した。
文明11年(1479年)には堂宇を罹災したが、長宗我部元親が寺領を寄進しているほか、土佐藩主山内家の祈願所とされ、復興は早く整備された。その後、1899年(明治32年)の火災で大師堂・護摩堂以外の伽藍を焼失し、本堂ほか現存する堂宇は再建である。阿南室戸歴史文化道の指定を受けている。
アクセス
鉄道
土佐くろしお鉄道ごめんなはり線 – 奈半利駅 (18.1 km)
バス
高知東部交通 「元橋」下車 (1.2 km)
道路
国道55号 元橋 (2.3 km)
駐車場:20台、大型3台(納経所にて駐車料:普通車200円、マイクロバス400円、大型バス1,000円)
所在地 高知県室戸市元乙523
位置 北緯33度18分26秒 東経134度07分22.3秒
山号 龍頭山
院号 光明院
宗旨 新義真言宗
宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来
創建年 (伝)大同2年(807年)
開基 (伝)嵯峨天皇(勅願)、空海(弘法大師)
正式名 龍頭山 光明院 金剛頂寺
別称 西寺(にしでら)
札所等 四国八十八箇所26番
文化財 銅造観世音菩薩立像・木造阿弥陀如来坐像・
板彫真言八祖像・銅鐘・金銅旅壇具・
金銅密教法具(国の重要文化財)
2024年03月14日
桐生天満宮(きりゅうてんまんぐう)は、群馬県桐生市天神町にある神社(天満宮)
桐生天満宮(きりゅうてんまんぐう)は、群馬県桐生市天神町にある神社(天満宮)。
現在の桐生市街は、桐生天満宮を基点として成立しており、天満宮鳥居前が本町一丁目となっており、桐生市は多くの高校が存在するため、受験シーズンには多くの参拝者が訪れる。また、天満宮の近くに群馬大学工学部や桐生工業高等学校があり、緑の多い静かな環境となっている。
歴史
社伝では景行天皇の時代(71年 – 130年)に天穂日命を祀る神社として創建されたと伝えられ、当初は礒部明神といった。南北朝時代初期に桐生綱元(桐生氏の祖)が現在の所在地に移し、菅原道真を合祀して天満宮となった。江戸時代には徳川家の祈願所となっていた。現在の社殿は1789年に建造されたものである。
文化財
重要文化財(国指定)
天満宮 2棟(建造物) - 2023年(令和5年)9月25日指定。
本殿・幣殿・拝殿 1棟(附 宮殿1基、棟札4枚、絵図1枚、文書1冊)
末社春日社本殿 1棟(附 末社機神神社本殿1棟)
国の重要文化財への指定以前、天満宮社殿は1990年(平成2年)9月25日に群馬県指定重要文化財に指定され、末社春日社は1991年(平成3年)1月8日に桐生市指定重要文化財に指定されていた。
所在地 群馬県桐生市天神町1丁目2番1号
位置 北緯36度25分19.70秒 東経139度20分46.85秒
主祭神 天穂日命
菅原道真公
創建 伝・景行天皇時代
別名 礒部明神
現在の桐生市街は、桐生天満宮を基点として成立しており、天満宮鳥居前が本町一丁目となっており、桐生市は多くの高校が存在するため、受験シーズンには多くの参拝者が訪れる。また、天満宮の近くに群馬大学工学部や桐生工業高等学校があり、緑の多い静かな環境となっている。
歴史
社伝では景行天皇の時代(71年 – 130年)に天穂日命を祀る神社として創建されたと伝えられ、当初は礒部明神といった。南北朝時代初期に桐生綱元(桐生氏の祖)が現在の所在地に移し、菅原道真を合祀して天満宮となった。江戸時代には徳川家の祈願所となっていた。現在の社殿は1789年に建造されたものである。
文化財
重要文化財(国指定)
天満宮 2棟(建造物) - 2023年(令和5年)9月25日指定。
本殿・幣殿・拝殿 1棟(附 宮殿1基、棟札4枚、絵図1枚、文書1冊)
末社春日社本殿 1棟(附 末社機神神社本殿1棟)
国の重要文化財への指定以前、天満宮社殿は1990年(平成2年)9月25日に群馬県指定重要文化財に指定され、末社春日社は1991年(平成3年)1月8日に桐生市指定重要文化財に指定されていた。
所在地 群馬県桐生市天神町1丁目2番1号
位置 北緯36度25分19.70秒 東経139度20分46.85秒
主祭神 天穂日命
菅原道真公
創建 伝・景行天皇時代
別名 礒部明神
2024年03月13日
大慈寺(だいじじ)は熊本県熊本市南区にある曹洞宗の寺院
大慈寺(だいじじ)は熊本県熊本市南区にある曹洞宗の寺院。山号は大梁山(だいりょうざん)。元九州本山。修行道場として僧堂がある。本尊は釈迦三尊。「大慈禅寺(だいじぜんじ)」の名でも知られる。
開山の寒巌義尹が後鳥羽天皇(順徳天皇とも)の皇子であったため、朝廷との結びつきが深く、紫衣を許可され、曹洞宗の九州本山として寒巌派の拠点となっていたが、度重なる火災で衰退した。
歴史
開山の寒巌義尹(1217 - 1300)は、道元に参禅した曹洞宗の僧で、2度の入宋の後、博多の聖福寺を経て肥後に住した。地元の地頭河尻泰明は寒巌に帰依し、境内地を寄進して、弘安元年(1278年)、大慈寺が創建された。寺は亀山法皇の勅願寺となり、正安2年(1300年)に本堂が完成した。
正平年間(1346年 - 1370年)に焼失し、大雲化縁が再興。その後も中世を通じてたびたび焼失と再興を繰り返した。永正17年(1520年)には戦乱に巻き込まれて焼失。再興するも天文9年(1540年)にも戦乱に巻き込まれて焼失、天文15年(1545年)に再興した。
近世に入っても火災があり、享禄2年(1629年)に再興、明和5年(1768年)にも焼失している。
明治時代初期には廃仏毀釈で荒廃。昭和9年には河川改修工事により、境内地が削られている。昭和期には澤木興道が滞在し、坐禅を指導。昭和60年に再興された。
交通
JR鹿児島本線川尻駅から徒歩25分
桜町バスターミナルより九州産交バス川尻バイパス・大慈禅寺経由南区役所・宇土・松橋方面行きに乗車、大慈禅寺(だいじぜんじ)下車、徒歩5分
所在地 熊本県熊本市南区野田1丁目7-1
位置 北緯32度43分59.8秒 東経130度41分21.6秒
山号 大梁山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦三尊
別称 大慈禅寺
文化財 梵鐘
寒巌義尹文書
開山の寒巌義尹が後鳥羽天皇(順徳天皇とも)の皇子であったため、朝廷との結びつきが深く、紫衣を許可され、曹洞宗の九州本山として寒巌派の拠点となっていたが、度重なる火災で衰退した。
歴史
開山の寒巌義尹(1217 - 1300)は、道元に参禅した曹洞宗の僧で、2度の入宋の後、博多の聖福寺を経て肥後に住した。地元の地頭河尻泰明は寒巌に帰依し、境内地を寄進して、弘安元年(1278年)、大慈寺が創建された。寺は亀山法皇の勅願寺となり、正安2年(1300年)に本堂が完成した。
正平年間(1346年 - 1370年)に焼失し、大雲化縁が再興。その後も中世を通じてたびたび焼失と再興を繰り返した。永正17年(1520年)には戦乱に巻き込まれて焼失。再興するも天文9年(1540年)にも戦乱に巻き込まれて焼失、天文15年(1545年)に再興した。
近世に入っても火災があり、享禄2年(1629年)に再興、明和5年(1768年)にも焼失している。
明治時代初期には廃仏毀釈で荒廃。昭和9年には河川改修工事により、境内地が削られている。昭和期には澤木興道が滞在し、坐禅を指導。昭和60年に再興された。
交通
JR鹿児島本線川尻駅から徒歩25分
桜町バスターミナルより九州産交バス川尻バイパス・大慈禅寺経由南区役所・宇土・松橋方面行きに乗車、大慈禅寺(だいじぜんじ)下車、徒歩5分
所在地 熊本県熊本市南区野田1丁目7-1
位置 北緯32度43分59.8秒 東経130度41分21.6秒
山号 大梁山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦三尊
別称 大慈禅寺
文化財 梵鐘
寒巌義尹文書
2024年03月12日
賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、京都市北区上賀茂本山にある神社
賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、京都市北区上賀茂本山にある神社。通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。
概要
京都最古の歴史を有する一社であり、かつてこの地を支配していた古代氏族である賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに賀茂神社(賀茂社)と総称される。賀茂社は奈良時代には既に強大な勢力を誇り[1]、平安遷都後は皇城の鎮護社として京都という都市の形成に深く関わってきた。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。また、社報「上賀茂」が年2回発行されている。
祭神
主祭神 - 賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)
主な祭事
1月
白馬奏覧神事(1月7日)[5]
武射神事 (1月16日)
2月
幸在祭 (2月24日)
5月
賀茂競馬(5月5日)
賀茂祭(葵祭 )(5月15日)
9月
重陽神事・烏相撲 (9月9日)
11月
相嘗祭 (11月13日)
文化財
国宝
建造物
本殿 - 1863年建造
権殿 - 1863年建造
アクセス
鉄道
最寄駅:京都市営地下鉄烏丸線 北山駅 (徒歩約25分)
路線バス
京都市営バス
「上賀茂神社前」バス停(4・46・67号系統)
「御薗口町」バス停(4・46・67・北3号系統) - 賀茂川堤
「上賀茂御薗橋」バス停(9・37・北3号系統) - 賀茂川対岸
京都バス
「上賀茂神社前」バス停(30・32・34・35・急行36) - 京都市営バスの「御薗口町」バス停と同じ場所にある。
自動車
駐車場:有り
所在地 京都府京都市北区上賀茂本山339
位置 北緯35度3分37秒 東経135度45分10秒
主祭神 賀茂別雷大神
神体 神山(神体山)
社格等 式内社(名神大)
山城国一宮
二十二社(上七社)
旧官幣大社
勅祭社
別表神社
創建 伝・天武天皇6年(677年)
本殿の様式 三間社流造
札所等 神仏霊場巡拝の道第102番(京都第22番)
例祭 5月15日(賀茂祭、葵祭)
主な神事 武射神事(1月16日)
競馬会神事(5月5日)
御阿礼神事(5月12日)
烏相撲(9月9日)
ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。
概要
京都最古の歴史を有する一社であり、かつてこの地を支配していた古代氏族である賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに賀茂神社(賀茂社)と総称される。賀茂社は奈良時代には既に強大な勢力を誇り[1]、平安遷都後は皇城の鎮護社として京都という都市の形成に深く関わってきた。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。また、社報「上賀茂」が年2回発行されている。
祭神
主祭神 - 賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)
主な祭事
1月
白馬奏覧神事(1月7日)[5]
武射神事 (1月16日)
2月
幸在祭 (2月24日)
5月
賀茂競馬(5月5日)
賀茂祭(葵祭 )(5月15日)
9月
重陽神事・烏相撲 (9月9日)
11月
相嘗祭 (11月13日)
文化財
国宝
建造物
本殿 - 1863年建造
権殿 - 1863年建造
アクセス
鉄道
最寄駅:京都市営地下鉄烏丸線 北山駅 (徒歩約25分)
路線バス
京都市営バス
「上賀茂神社前」バス停(4・46・67号系統)
「御薗口町」バス停(4・46・67・北3号系統) - 賀茂川堤
「上賀茂御薗橋」バス停(9・37・北3号系統) - 賀茂川対岸
京都バス
「上賀茂神社前」バス停(30・32・34・35・急行36) - 京都市営バスの「御薗口町」バス停と同じ場所にある。
自動車
駐車場:有り
所在地 京都府京都市北区上賀茂本山339
位置 北緯35度3分37秒 東経135度45分10秒
主祭神 賀茂別雷大神
神体 神山(神体山)
社格等 式内社(名神大)
山城国一宮
二十二社(上七社)
旧官幣大社
勅祭社
別表神社
創建 伝・天武天皇6年(677年)
本殿の様式 三間社流造
札所等 神仏霊場巡拝の道第102番(京都第22番)
例祭 5月15日(賀茂祭、葵祭)
主な神事 武射神事(1月16日)
競馬会神事(5月5日)
御阿礼神事(5月12日)
烏相撲(9月9日)
2024年03月11日
称念寺(しょうねんじ)は、新潟県上越市にある時宗の寺院
称念寺(しょうねんじ)は、新潟県上越市にある時宗の寺院。
歴史
遊行6代他阿一鎮(1278年 - 1355年)が嘉暦2年(1327年)に越後国府中(新潟県上越市五智。直江津)に建立した。当時は応称寺と称した。越前国長崎道場称念寺の住職が兼務していたため、2代目住職の時に「称念寺」と改称した。後に高田城築城の際に、城下に寺町が設けられ、当寺も移転した。
文化財
重要文化財(国指定)
木造一鎮倚像 - 七条仏師の手になると考えられる寿像
交通アクセス
えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン 高田駅より南西へ徒歩約10分
所在地 新潟県上越市寺町2-11-12
位置 北緯37度06分35.6秒 東経138度14分21.6秒
山号 西方山
院号 無量寿院
宗旨 時宗
宗派 時宗遊行派
本尊 阿弥陀如来像
正式名 西方山無量寿院称念寺
文化財 木造一鎮倚像(重要文化財)
歴史
遊行6代他阿一鎮(1278年 - 1355年)が嘉暦2年(1327年)に越後国府中(新潟県上越市五智。直江津)に建立した。当時は応称寺と称した。越前国長崎道場称念寺の住職が兼務していたため、2代目住職の時に「称念寺」と改称した。後に高田城築城の際に、城下に寺町が設けられ、当寺も移転した。
文化財
重要文化財(国指定)
木造一鎮倚像 - 七条仏師の手になると考えられる寿像
交通アクセス
えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン 高田駅より南西へ徒歩約10分
所在地 新潟県上越市寺町2-11-12
位置 北緯37度06分35.6秒 東経138度14分21.6秒
山号 西方山
院号 無量寿院
宗旨 時宗
宗派 時宗遊行派
本尊 阿弥陀如来像
正式名 西方山無量寿院称念寺
文化財 木造一鎮倚像(重要文化財)
2024年03月10日
敦賀市立博物館(つるがしりつはくぶつかん)は、福井県敦賀市にある歴史民俗系の博物館
敦賀市立博物館(つるがしりつはくぶつかん)は、福井県敦賀市にある歴史民俗系の博物館。1927年(昭和2年)竣工の旧大和田銀行本店(国の重要文化財)を館施設として使用している。
敦賀市立博物館。重要文化財
歴史
1978年(昭和53年)8月、旧大和田銀行本店の建物内に敦賀市歴史民俗資料館が開館した。1993年(平成5年)2月に博物館登録され、同年7月に敦賀市立博物館に改称した。
もともと博物館用に建てられた建築物ではないことから、展示スペースやバックヤードの確保などに問題を抱えており、1998年(平成10年)の「敦賀市立博物館検討委員会」による答申以来、新博物館の建設に向けての要望が市に対して上がっていた。2004年(平成16年)には「敦賀市新博物館建設検討委員会」が、旧大和田銀行建物の復原的活用と、新博物館建設をめざす委員会の設置をもとめる答申を市に提出した。しかし「諸般の事情」から新博物館の建設構想は停滞しており、旧大和田銀行本店の「復原的活用」が先行して進められることとなった。
2012年(平成24年)8月20日より建物修復のため長期休館に入り、その間は隣接するみなとつるが山車会館で図録等の頒布を行っていた。2015年(平成27年)7月に再開館した。
敦賀市立博物館の敷地内にある大和田荘七の銅像
収蔵品・展示
常設展の展示物は敦賀にゆかりのある資料で、県内屈指のコレクションである近世・近代絵画300点超をはじめ、俳句・俳諧、郷土、歴史資料、民俗資料、港湾関係など多岐にわたる。企画展、特別展も定期的に開催している。近世・近代絵画は、地元所縁の旧大名家や素封家のコレクションを引き継いだものではなく、博物館自身が時間をかけて収集していった作品群である。敦賀は京都文化の影響が強いことから、円山・四条派、岸派、原派、土佐派、復古大和絵といった京都ゆかりの画派を中心に収集している。特に敦賀出身の内海吉堂ら内海三代や、実父が敦賀の馬借頭だった幸野楳嶺、敦賀と縁がある橋本長兵衛、曾宮一念らの作品が多い。
1階の階段
交通アクセス
JR北陸本線・小浜線 敦賀駅から徒歩で約25分。
敦賀駅から敦賀市コミュニティバス 松原線で「山車会館」停留所下車、ぐるっと敦賀周遊バス(観光ルート)で「博物館通り」停留所下車。ともに停留所から徒歩1分。
前身 敦賀市歴史民俗資料館
専門分野 歴史・民俗
館長 千葉雅人
事業主体 敦賀市
建物設計 永瀬・吉田建築事務所
延床面積 1451.58 m2
開館 1978年(昭和53年)
所在地 〒914-0062
福井県敦賀市相生町7-8
位置 北緯35度39分23.4秒 東経136度4分7.5秒
敦賀市立博物館。重要文化財
歴史
1978年(昭和53年)8月、旧大和田銀行本店の建物内に敦賀市歴史民俗資料館が開館した。1993年(平成5年)2月に博物館登録され、同年7月に敦賀市立博物館に改称した。
もともと博物館用に建てられた建築物ではないことから、展示スペースやバックヤードの確保などに問題を抱えており、1998年(平成10年)の「敦賀市立博物館検討委員会」による答申以来、新博物館の建設に向けての要望が市に対して上がっていた。2004年(平成16年)には「敦賀市新博物館建設検討委員会」が、旧大和田銀行建物の復原的活用と、新博物館建設をめざす委員会の設置をもとめる答申を市に提出した。しかし「諸般の事情」から新博物館の建設構想は停滞しており、旧大和田銀行本店の「復原的活用」が先行して進められることとなった。
2012年(平成24年)8月20日より建物修復のため長期休館に入り、その間は隣接するみなとつるが山車会館で図録等の頒布を行っていた。2015年(平成27年)7月に再開館した。
敦賀市立博物館の敷地内にある大和田荘七の銅像
収蔵品・展示
常設展の展示物は敦賀にゆかりのある資料で、県内屈指のコレクションである近世・近代絵画300点超をはじめ、俳句・俳諧、郷土、歴史資料、民俗資料、港湾関係など多岐にわたる。企画展、特別展も定期的に開催している。近世・近代絵画は、地元所縁の旧大名家や素封家のコレクションを引き継いだものではなく、博物館自身が時間をかけて収集していった作品群である。敦賀は京都文化の影響が強いことから、円山・四条派、岸派、原派、土佐派、復古大和絵といった京都ゆかりの画派を中心に収集している。特に敦賀出身の内海吉堂ら内海三代や、実父が敦賀の馬借頭だった幸野楳嶺、敦賀と縁がある橋本長兵衛、曾宮一念らの作品が多い。
1階の階段
交通アクセス
JR北陸本線・小浜線 敦賀駅から徒歩で約25分。
敦賀駅から敦賀市コミュニティバス 松原線で「山車会館」停留所下車、ぐるっと敦賀周遊バス(観光ルート)で「博物館通り」停留所下車。ともに停留所から徒歩1分。
前身 敦賀市歴史民俗資料館
専門分野 歴史・民俗
館長 千葉雅人
事業主体 敦賀市
建物設計 永瀬・吉田建築事務所
延床面積 1451.58 m2
開館 1978年(昭和53年)
所在地 〒914-0062
福井県敦賀市相生町7-8
位置 北緯35度39分23.4秒 東経136度4分7.5秒
2024年03月09日
大矢田神社(おやだじんじゃ)は、岐阜県美濃市にある神社
大矢田神社(おやだじんじゃ)は、岐阜県美濃市にある神社である。旧社格は郷社。
本殿は江戸時代初期の1672年(寛文12年)、拝殿は1671年(寛文11年)再建であり、ともに重要文化財に指定されている。また、楼門は1723年(享保8年)再建であり、美濃市指定文化財である。
拝殿、本殿(重要文化財)
祭神
建速須佐之男命
天若日子命
歴史
創建は孝霊天皇の時代という。以下は社伝による。
深山に悪竜が棲み付き、困った里人が喪山の天若日子廟所(現・喪山天神社)に加護を祈ったところ、建速須佐之男命を祀るよう夢告があった。 その通り勧請を行うと、建速須佐之男命が現れ、悪竜を退治してくれた。平和を取り戻した里人は、建速須佐之男命と天若日子命を祀る祠を建てた。
716年(養老2年)、泰澄大師は、この地(天王山)一帯を開基。天王山禅定寺号した。祠はその一部となり、牛頭天王として習合される。
禅定寺は7坊を有したが、1556年(弘治2年)に戦火で焼失。その後、極楽坊と常泉坊の2坊のみ再興された。
1870年(明治3年)、神仏分離・廃仏毀釈により牛頭天王を建速須佐之男命に戻して奉祀、大矢田神社に改称して極楽坊の社僧・真清氏が神官となる。
護摩堂・鐘楼・観音堂など仏教施設は廃されたが、唯一、楼門(仁王門)が残された。このため神社の中に仏教式の門が残っている。
楼門
所在地・アクセス
岐阜県美濃市大矢田
岐阜バス高美線「大矢田」バス停より約2.0km
のり愛くん(相乗りタクシー・要予約)「大矢田上切集会場」停留所より約1.0Km
所在地 岐阜県美濃市大矢田2596
位置 北緯35度33分20.9秒 東経136度52分6.15秒
主祭神 建速須佐之男命、天若日子命
社格等 郷社・金幣社
創建 伝・孝霊天皇時代
本殿の様式 三間社流造
例祭 4月第2日曜日
主な神事 ひんここ祭り(4月第2土曜日、11月23日)
本殿は江戸時代初期の1672年(寛文12年)、拝殿は1671年(寛文11年)再建であり、ともに重要文化財に指定されている。また、楼門は1723年(享保8年)再建であり、美濃市指定文化財である。
拝殿、本殿(重要文化財)
祭神
建速須佐之男命
天若日子命
歴史
創建は孝霊天皇の時代という。以下は社伝による。
深山に悪竜が棲み付き、困った里人が喪山の天若日子廟所(現・喪山天神社)に加護を祈ったところ、建速須佐之男命を祀るよう夢告があった。 その通り勧請を行うと、建速須佐之男命が現れ、悪竜を退治してくれた。平和を取り戻した里人は、建速須佐之男命と天若日子命を祀る祠を建てた。
716年(養老2年)、泰澄大師は、この地(天王山)一帯を開基。天王山禅定寺号した。祠はその一部となり、牛頭天王として習合される。
禅定寺は7坊を有したが、1556年(弘治2年)に戦火で焼失。その後、極楽坊と常泉坊の2坊のみ再興された。
1870年(明治3年)、神仏分離・廃仏毀釈により牛頭天王を建速須佐之男命に戻して奉祀、大矢田神社に改称して極楽坊の社僧・真清氏が神官となる。
護摩堂・鐘楼・観音堂など仏教施設は廃されたが、唯一、楼門(仁王門)が残された。このため神社の中に仏教式の門が残っている。
楼門
所在地・アクセス
岐阜県美濃市大矢田
岐阜バス高美線「大矢田」バス停より約2.0km
のり愛くん(相乗りタクシー・要予約)「大矢田上切集会場」停留所より約1.0Km
所在地 岐阜県美濃市大矢田2596
位置 北緯35度33分20.9秒 東経136度52分6.15秒
主祭神 建速須佐之男命、天若日子命
社格等 郷社・金幣社
創建 伝・孝霊天皇時代
本殿の様式 三間社流造
例祭 4月第2日曜日
主な神事 ひんここ祭り(4月第2土曜日、11月23日)
2024年03月08日
英勝寺(えいしょうじ)は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある浄土宗の寺院
英勝寺(えいしょうじ)は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある浄土宗の寺院であり、現在、鎌倉唯一の尼寺である。山号は東光山。寺域は、開基英勝院尼の祖先であり、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌邸跡地とされる。
東国花の寺百ヶ寺鎌倉6番札所。
仏殿
歴史
徳川家康の側室で、太田道灌4代の太田康資の娘とされるお勝の方は、家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により、後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めた。家康の死後は落飾して英勝院と称したが、その後、3代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷の地を賜り、英勝寺を創建した。
創建にあたっては、徳川頼房の娘・小良姫を7歳の時に玉峯清因と名付け得度させ、これを門主に迎え開山とした。英勝院尼は寛永19年(1642年)没し、英勝寺裏山に葬られた。寛永14年(または15年)に寺領朱印地として池子村(現逗子市池子)420石を与えられたほか、裏山にあたる源氏山(旗立山)も与えられている。
創建の経緯から、その後も代々の住持は水戸家の姫が務め、このため英勝寺は「水戸御殿」や「水戸の尼寺」とも呼ばれた。高貴な姫である住持は人前に出ることはなく、折々の法要は芝増上寺や、鎌倉材木座光明寺の僧が勤めていたという。
しかし明治維新を機に水戸家からの住持は絶え、寺勢は衰えた。その後、明治28年(1895年)に松平家より住持を迎え、さらに大正8年(1919年)以降は東京青山善光寺より住職を招請し、今日に至る。
大正12年(1923年)の関東大震災では山門、庫裏、蔵が倒壊するなど大きな被害を受け、山門はそのまま鎌倉市内山王ヶ谷(小町3丁目)の資産家に売却されたが、有志による復興事業により旧地の礎石上に復興され、2011年5月16日に落慶式が行われた。
境内
仏殿、山門、鐘楼は寛永20年(1643年)の建立。祠堂、祠堂門も同じ頃の建立と推定され、5棟が国の重要文化財に一括指定されている。各建物は本格的な禅宗様になり、仏殿、山門、鐘楼は屋根を反りのない直線で構成する点に共通点がみられる。
文化財
重要文化財
建造物
英勝寺 (5棟一括指定) - 指定年月日:2013年(平成25年)8月7日。
仏殿(附:棟札4枚、扁額1面、梁牌2枚)
山門(附:棟札2枚、扁額2面)
鐘楼
祠堂(附:英勝院墓)
祠堂門
彫刻
木造阿弥陀如来及両脇侍像龕 - 指定年月日:2007年(平成19年)6月8日。(鎌倉国宝館に寄託)
龕[注 1]となる四角い白檀材の内部を削りながら阿弥陀三尊像を彫り残す手法で檀龕仏(だんがんぶつ)とよばれる。中尊の阿弥陀如来は宝冠阿弥陀であるが、条帛を掛ける服制が珍しく、肩が張り胸の厚い堂々とした躰型を示し、伏せ目で唇の厚い目鼻立ち、左右に張った耳たぶ、下膨れの顔の輪郭は平安中期の特色である。
交通
JR横須賀線・江ノ島電鉄鎌倉駅下車徒歩15分
所在地 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-16-3
位置 北緯35度19分30.5秒 東経139度32分59.5秒
山号 東光山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀三尊像
創建年 寛永13年(1636年)
開山 玉峯清因尼
開基 英勝院尼
正式名 東光山英勝寺
札所等 東国花の寺百ヶ寺 鎌倉6番
文化財 仏殿など建造物5棟、阿弥陀如来及両脇侍像龕(国の重要文化財)
東国花の寺百ヶ寺鎌倉6番札所。
仏殿
歴史
徳川家康の側室で、太田道灌4代の太田康資の娘とされるお勝の方は、家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により、後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めた。家康の死後は落飾して英勝院と称したが、その後、3代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷の地を賜り、英勝寺を創建した。
創建にあたっては、徳川頼房の娘・小良姫を7歳の時に玉峯清因と名付け得度させ、これを門主に迎え開山とした。英勝院尼は寛永19年(1642年)没し、英勝寺裏山に葬られた。寛永14年(または15年)に寺領朱印地として池子村(現逗子市池子)420石を与えられたほか、裏山にあたる源氏山(旗立山)も与えられている。
創建の経緯から、その後も代々の住持は水戸家の姫が務め、このため英勝寺は「水戸御殿」や「水戸の尼寺」とも呼ばれた。高貴な姫である住持は人前に出ることはなく、折々の法要は芝増上寺や、鎌倉材木座光明寺の僧が勤めていたという。
しかし明治維新を機に水戸家からの住持は絶え、寺勢は衰えた。その後、明治28年(1895年)に松平家より住持を迎え、さらに大正8年(1919年)以降は東京青山善光寺より住職を招請し、今日に至る。
大正12年(1923年)の関東大震災では山門、庫裏、蔵が倒壊するなど大きな被害を受け、山門はそのまま鎌倉市内山王ヶ谷(小町3丁目)の資産家に売却されたが、有志による復興事業により旧地の礎石上に復興され、2011年5月16日に落慶式が行われた。
境内
仏殿、山門、鐘楼は寛永20年(1643年)の建立。祠堂、祠堂門も同じ頃の建立と推定され、5棟が国の重要文化財に一括指定されている。各建物は本格的な禅宗様になり、仏殿、山門、鐘楼は屋根を反りのない直線で構成する点に共通点がみられる。
文化財
重要文化財
建造物
英勝寺 (5棟一括指定) - 指定年月日:2013年(平成25年)8月7日。
仏殿(附:棟札4枚、扁額1面、梁牌2枚)
山門(附:棟札2枚、扁額2面)
鐘楼
祠堂(附:英勝院墓)
祠堂門
彫刻
木造阿弥陀如来及両脇侍像龕 - 指定年月日:2007年(平成19年)6月8日。(鎌倉国宝館に寄託)
龕[注 1]となる四角い白檀材の内部を削りながら阿弥陀三尊像を彫り残す手法で檀龕仏(だんがんぶつ)とよばれる。中尊の阿弥陀如来は宝冠阿弥陀であるが、条帛を掛ける服制が珍しく、肩が張り胸の厚い堂々とした躰型を示し、伏せ目で唇の厚い目鼻立ち、左右に張った耳たぶ、下膨れの顔の輪郭は平安中期の特色である。
交通
JR横須賀線・江ノ島電鉄鎌倉駅下車徒歩15分
所在地 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-16-3
位置 北緯35度19分30.5秒 東経139度32分59.5秒
山号 東光山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀三尊像
創建年 寛永13年(1636年)
開山 玉峯清因尼
開基 英勝院尼
正式名 東光山英勝寺
札所等 東国花の寺百ヶ寺 鎌倉6番
文化財 仏殿など建造物5棟、阿弥陀如来及両脇侍像龕(国の重要文化財)
2024年03月07日
感応寺(かんのうじ)は、鹿児島県出水市野田町下名にある臨済宗相国寺派の寺院
感応寺(かんのうじ)は、鹿児島県出水市野田町下名にある臨済宗相国寺派の寺院である。山号は「鎮国山」。
写真サイトCANON iMAGE GATEWAYの日本人なら一度は訪れたい寺「名刹巡礼 古寺 100選」に選ばれた。
沿革
1194年(建久5年)、島津忠久の命により家臣の本田貞親が栄西を開山として創建した寺院とされる。最古の禅宗寺院の1つ。
その後、島津氏の菩提寺となり大変に栄えたが、明治2年の廃仏毀釈のおり廃寺となった。のち明治13年(1888年)に難を逃れた寺宝を元に再興された。
西側には「五廟社」とよばれる墓地があり、ここに島津忠久、島津忠時、島津久経、島津忠宗、島津貞久の島津氏初代から5代までの墓がある。
所蔵文化財
十一面千手観音像 脇侍四天王像(鹿児島県指定文化財)
文安2年(1444年)仏師、院隆より作られた最晩期の院派仏像。
絹本着色 雲山和尚像(鹿児島県指定文化財) 毎年4月8日のみ公
所在地 鹿児島県出水市野田町字下名5735番地
位置 北緯32度4分2.5秒 東経130度16分0.3秒
山号 鎮國山
宗旨 禅宗(臨済宗)
宗派 相国寺派
正式名 鎭國山感應禪寺
写真サイトCANON iMAGE GATEWAYの日本人なら一度は訪れたい寺「名刹巡礼 古寺 100選」に選ばれた。
沿革
1194年(建久5年)、島津忠久の命により家臣の本田貞親が栄西を開山として創建した寺院とされる。最古の禅宗寺院の1つ。
その後、島津氏の菩提寺となり大変に栄えたが、明治2年の廃仏毀釈のおり廃寺となった。のち明治13年(1888年)に難を逃れた寺宝を元に再興された。
西側には「五廟社」とよばれる墓地があり、ここに島津忠久、島津忠時、島津久経、島津忠宗、島津貞久の島津氏初代から5代までの墓がある。
所蔵文化財
十一面千手観音像 脇侍四天王像(鹿児島県指定文化財)
文安2年(1444年)仏師、院隆より作られた最晩期の院派仏像。
絹本着色 雲山和尚像(鹿児島県指定文化財) 毎年4月8日のみ公
所在地 鹿児島県出水市野田町字下名5735番地
位置 北緯32度4分2.5秒 東経130度16分0.3秒
山号 鎮國山
宗旨 禅宗(臨済宗)
宗派 相国寺派
正式名 鎭國山感應禪寺