唐沢山神社(からさわやまじんじゃ)は、栃木県佐野市の唐沢山山頂にある神社。藤原秀郷を祀る。旧社格は別格官幣社。
概要
祭神の藤原秀郷は俵藤太(田原藤太)の別名でも知られ、下野国押領使として唐沢山に唐沢山城を築城し、秀郷の子孫の佐野氏が居城した。秀郷は平将門の乱を鎮圧して鎮守府将軍となったことから忠皇の臣とされ、秀郷の後裔や佐野氏の旧臣らが中心となって秀郷を祀る神社の創建が始められ、明治16年(1883年)、唐沢山城の本丸跡地に創建・鎮座された。明治23年(1890年)に別格官幣社に列格した。
当社より西2kmの佐野市新吉水町にある秀郷の墓所は、飛地境内となっている。
所在地 栃木県佐野市富士町1409
位置 北緯36度21分13.61秒 東経139度36分3.05秒
主祭神 藤原秀郷公
社格等 別格官幣社・別表神社
創建 明治16年(1883年)
例祭 4月25日・10月25日
2024年03月27日
2024年03月26日
切幡寺(きりはたじ)は徳島県阿波市市場町切幡にある高野山真言宗の寺院
切幡寺(きりはたじ)は徳島県阿波市市場町切幡にある高野山真言宗の寺院。得度山(とくどざん)灌頂院(かんじょういん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所第十番札所、阿波西国三十三観音霊場(東部)第28番札所。
本尊真言:おん ばさら たらま きりく
ご詠歌:欲心をただ一筋に切幡寺 後の世までの障(さわ)りとぞなる
納経印:当寺本尊、奥之院八祖大師
本堂
歴史
寺伝によれば、修行中の空海(弘法大師)が、着物がほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、娘は織りかけの布を惜しげもなく切りさいて差し出した。これに感激した空海が娘の願いを聞くと、父母の供養のため千手観音を彫ってほしいとのことであった。そこで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘はたちまち七色の光を放ち即身成仏して千手観音の姿になったという。
空海はこのことを嵯峨天皇に伝えたところ、勅願によって堂宇を建立、空海の彫った千手観音を南向きに、娘が即身成仏した千手観音を北向きに安置し本尊として開基したという。山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる。
往時は堂塔伽藍二十四坊を抱えていたが、天正年間(1573年 – 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失し、明治42年に再び火災によって大塔以外を焼失している。その後に再建されたのが現在の伽藍である。
はたきり観音
大塔
文化財
重要文化財
大塔:桃山時代1607年、明治15年移築、本瓦葺、高さ24.168 m、昭和50年6月23日指定[4][5]。
交通案内
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 徳島線 – 阿波川島駅下車 (6.3 km)、学駅下車 (6.5 km)
道路
一般道:徳島県道139号船戸切幡上板線 切幡古田 (0.6 km)
自動車道:土成IC (7.9 km)
所在地 徳島県阿波市市場町切幡129
位置 北緯34度6分27.9秒 東経134度18分15.4秒
山号 得度山
院号 灌頂院
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
本尊 千手観世音菩薩
創建年 (伝)弘仁年間(810年 – 824年)
開基 (伝)空海(弘法大師)
正式名 得度山灌頂院切幡寺
別称 幡切り観音
札所等 四国八十八箇所10番
阿波西国三十三観音霊場(東部)第28番
文化財 大塔(国の重要文化財)
本尊真言:おん ばさら たらま きりく
ご詠歌:欲心をただ一筋に切幡寺 後の世までの障(さわ)りとぞなる
納経印:当寺本尊、奥之院八祖大師
本堂
歴史
寺伝によれば、修行中の空海(弘法大師)が、着物がほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、娘は織りかけの布を惜しげもなく切りさいて差し出した。これに感激した空海が娘の願いを聞くと、父母の供養のため千手観音を彫ってほしいとのことであった。そこで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘はたちまち七色の光を放ち即身成仏して千手観音の姿になったという。
空海はこのことを嵯峨天皇に伝えたところ、勅願によって堂宇を建立、空海の彫った千手観音を南向きに、娘が即身成仏した千手観音を北向きに安置し本尊として開基したという。山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる。
往時は堂塔伽藍二十四坊を抱えていたが、天正年間(1573年 – 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失し、明治42年に再び火災によって大塔以外を焼失している。その後に再建されたのが現在の伽藍である。
はたきり観音
大塔
文化財
重要文化財
大塔:桃山時代1607年、明治15年移築、本瓦葺、高さ24.168 m、昭和50年6月23日指定[4][5]。
交通案内
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 徳島線 – 阿波川島駅下車 (6.3 km)、学駅下車 (6.5 km)
道路
一般道:徳島県道139号船戸切幡上板線 切幡古田 (0.6 km)
自動車道:土成IC (7.9 km)
所在地 徳島県阿波市市場町切幡129
位置 北緯34度6分27.9秒 東経134度18分15.4秒
山号 得度山
院号 灌頂院
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
本尊 千手観世音菩薩
創建年 (伝)弘仁年間(810年 – 824年)
開基 (伝)空海(弘法大師)
正式名 得度山灌頂院切幡寺
別称 幡切り観音
札所等 四国八十八箇所10番
阿波西国三十三観音霊場(東部)第28番
文化財 大塔(国の重要文化財)
2024年03月25日
青渭神社(あおいじんじゃ)は、東京都の旧武蔵国多摩郡にある神社
青渭神社(あおいじんじゃ)は、東京都の旧武蔵国多摩郡にある神社である。延喜式神名帳に「武蔵國多磨郡 青渭神社」として記載されているが、式内・青渭神社の論社は稲城市東長沼、調布市深大寺元町、青梅市沢井の三社がある。
所在地は東京都稲城市東長沼1053で、JR南武線の稲城長沼駅から徒歩5分ほどのところにある。旧社格は郷社。
祭神は青渭神、猿田彦命、天鈿女命の三柱[1]。長沼という地名からもわかるように、この地は多摩川の氾濫原であり、長く沼地であった。そのため、かつては大沼明神、青沼大明神などとも呼ばれていた。この長沼の地にしろ深大寺にしろ水に関わりが深い土地であり、青渭神は水神であると考えられている。
創建年代は不明であるが、伝承では弘仁年間(810年 - 824年)の創建とされている。現在の社殿は1974年(昭和49年)に造営されたコンクリート造りであるが、覆殿内に安置された本殿は17世紀初期の建立と推測されている。
狛犬は2対(4匹)置かれており、本殿に近い1対の狛犬(右写真に写っているもの)の裏面には「文政十三龍」(1830年)と彫られている。もう1対の狛犬には明治の年号が彫られている。
境内は南北に細長く、付近には新建材を利用した建売住宅も目立って風情を損なっているが、古さびた大木も残っており、古くからの神域であることが理解される。かつてを知る古老によれば、うっそうとした大木が無数に生い茂って昼なお暗かったという。
例大祭には「青渭獅子舞」と呼ばれる獅子舞が奉納される。
所在地 東京都稲城市東長沼1053
主祭神 青渭神、猿田彦命、天鈿女命
社格等 式内社、郷社
創建 (伝承では弘仁年間)
例祭 10月第1日曜日
所在地は東京都稲城市東長沼1053で、JR南武線の稲城長沼駅から徒歩5分ほどのところにある。旧社格は郷社。
祭神は青渭神、猿田彦命、天鈿女命の三柱[1]。長沼という地名からもわかるように、この地は多摩川の氾濫原であり、長く沼地であった。そのため、かつては大沼明神、青沼大明神などとも呼ばれていた。この長沼の地にしろ深大寺にしろ水に関わりが深い土地であり、青渭神は水神であると考えられている。
創建年代は不明であるが、伝承では弘仁年間(810年 - 824年)の創建とされている。現在の社殿は1974年(昭和49年)に造営されたコンクリート造りであるが、覆殿内に安置された本殿は17世紀初期の建立と推測されている。
狛犬は2対(4匹)置かれており、本殿に近い1対の狛犬(右写真に写っているもの)の裏面には「文政十三龍」(1830年)と彫られている。もう1対の狛犬には明治の年号が彫られている。
境内は南北に細長く、付近には新建材を利用した建売住宅も目立って風情を損なっているが、古さびた大木も残っており、古くからの神域であることが理解される。かつてを知る古老によれば、うっそうとした大木が無数に生い茂って昼なお暗かったという。
例大祭には「青渭獅子舞」と呼ばれる獅子舞が奉納される。
所在地 東京都稲城市東長沼1053
主祭神 青渭神、猿田彦命、天鈿女命
社格等 式内社、郷社
創建 (伝承では弘仁年間)
例祭 10月第1日曜日
2024年03月24日
旧学習院初等科正堂(きゅうがくしゅういんしょとうかせいどう)は、千葉県成田市大竹にある明治時代後期(19世紀末)の学校建築
旧学習院初等科正堂(きゅうがくしゅういんしょとうかせいどう)は、千葉県成田市大竹にある明治時代後期(19世紀末)の学校建築である。国の重要文化財に指定されている。
年表
1899年(明治32年)7月10日 - 東京府東京市四谷区尾張町(現・東京都新宿区)に学習院初等科正堂として建造される。
1936年(昭和11年)11月13日 - 皇太子の入学に備えて正堂を改築することになり、宮内庁下総御料牧場のあった印旛郡遠山村への下賜が決定。宮内省で伝達式が行われる。
1937年(昭和12年)4月 - 移築工事が始まる。同年6月1日、遠山尋常高等小学校にて上棟式が行われる。
1938年(昭和13年)3月23日 - 竣工式が行われ、遠山尋常高等小学校の講堂として使われる。
1947年(昭和22年) - 遠山尋常高等小学校から遠山村立遠山中学校へと改称。
1954年(昭和29年) - 町村合併に伴い成田市立遠山中学校へ改称。
1966年(昭和41年) 6月28日 - 新東京国際空港(現・成田国際空港)建設地内定に対し、三里塚住民らが「新空港反対総決起集会」を開催し、三里塚新国際空港反対同盟(三里塚芝山連合空港反対同盟の前身)を結成。(→成田空港問題)
1973年(昭和48年)6月2日 - 国の重要文化財に指定される。
10月15日 - 成田市立遠山中学校にて解体工事が始まる。同年12月10日、解体作業終了。成田市から千葉県に寄贈された。
1975年(昭和50年)12月 - 現在地の千葉県立房総風土記の丘(現・千葉県立房総のむら)へ移築される。なお、千葉県立房総のむらは千葉県印旛郡栄町と同県成田市にまたがっており、当建物の所在地は成田市である。
構造形式
構造 : 木造
建築面積 : 647.7m2
階数 : 1階平屋建て
その他 : スレート及び瓦棒銅板葺
旧用途 講堂
現用途 常設展示物
創建 1899年(明治32年)
移築 1975年(昭和50年)
設計 新家孝正
施工 不明
区分 重要文化財
指定年月日 1973年(昭和48年)6月2日
所有者 千葉県
所在
〒286-0841
千葉県成田市大竹1451
年表
1899年(明治32年)7月10日 - 東京府東京市四谷区尾張町(現・東京都新宿区)に学習院初等科正堂として建造される。
1936年(昭和11年)11月13日 - 皇太子の入学に備えて正堂を改築することになり、宮内庁下総御料牧場のあった印旛郡遠山村への下賜が決定。宮内省で伝達式が行われる。
1937年(昭和12年)4月 - 移築工事が始まる。同年6月1日、遠山尋常高等小学校にて上棟式が行われる。
1938年(昭和13年)3月23日 - 竣工式が行われ、遠山尋常高等小学校の講堂として使われる。
1947年(昭和22年) - 遠山尋常高等小学校から遠山村立遠山中学校へと改称。
1954年(昭和29年) - 町村合併に伴い成田市立遠山中学校へ改称。
1966年(昭和41年) 6月28日 - 新東京国際空港(現・成田国際空港)建設地内定に対し、三里塚住民らが「新空港反対総決起集会」を開催し、三里塚新国際空港反対同盟(三里塚芝山連合空港反対同盟の前身)を結成。(→成田空港問題)
1973年(昭和48年)6月2日 - 国の重要文化財に指定される。
10月15日 - 成田市立遠山中学校にて解体工事が始まる。同年12月10日、解体作業終了。成田市から千葉県に寄贈された。
1975年(昭和50年)12月 - 現在地の千葉県立房総風土記の丘(現・千葉県立房総のむら)へ移築される。なお、千葉県立房総のむらは千葉県印旛郡栄町と同県成田市にまたがっており、当建物の所在地は成田市である。
構造形式
構造 : 木造
建築面積 : 647.7m2
階数 : 1階平屋建て
その他 : スレート及び瓦棒銅板葺
旧用途 講堂
現用途 常設展示物
創建 1899年(明治32年)
移築 1975年(昭和50年)
設計 新家孝正
施工 不明
区分 重要文化財
指定年月日 1973年(昭和48年)6月2日
所有者 千葉県
所在
〒286-0841
千葉県成田市大竹1451
2024年03月23日
焼火神社(たくひじんじゃ、たくびじんじゃ)は、島根県隠岐郡西ノ島町にある神社
焼火神社(たくひじんじゃ、たくびじんじゃ)は、島根県隠岐郡西ノ島町にある神社。島前の西ノ島における最高峰、焼火山の8合目辺りに鎮座する旧県社。航海安全の守護神として遠く三陸海岸まで信仰を集めた。本殿・通殿・拝殿からなる社殿は国の重要文化財に指定。重要有形民俗文化財の和船トモドも所有する。
本殿(左奥)と拝殿
社名
明治以前は焼火山雲上寺(たくひさんうんじょうじ)と号し、焼火社、焚火社、離火社(いずれも「たくひ(び)のやしろ」、または「たくひ(び)しゃ」と訓む)とも称されたが、明治初頭の神仏判然令を受けて現社名に改めた。
祭神
大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)を祀る。なお、大日孁貴尊は天照大神の別称である。
焼火山は古く「大山(おおやま)」と称され、元来は山自体を神体として北麓の大山神社において祭祀が執行されたと見られているが、後世修験道が盛行するに及ぶとその霊場とされて地蔵尊を祀り、これを焼火山大権現と号した。やがて祭神を大日孁貴尊とする伝えも起こって、元禄16年(1703年)には「焼火山大権現宮(中略)伊勢太神宮同躰ナリ、天照大日孁貴、離火社神霊是ナリ、手力雄命左陽、万幡姫命右陰」(『島前村々神名記』)と伊勢の皇大神宮(内宮)と同じ神社で、伊勢神宮同様3座を同殿に祀ると説くようにもなり[1]、明治初頭に大日孁貴尊のみを祀る現在の形となった。
文化財
(項目名付属の括弧内は指定の種別と年月日)
国指定
本殿・通殿・拝殿 1棟(重要文化財(建造物)、平成4年8月10日)
附(つけたり) - 宮殿(厨子)1基、旧内陣扉構1式、棟札7枚、仁王経(裏書に材木注文あり)1巻、文書1冊、絵図1鋪
トモド1隻(重要有形民俗文化財、昭和30年2月3日)
和船の1種で、長さ20尺5寸最大幅3尺。樅材を刳り抜いた重木仕立て(船腹から船底にかけて繰り出す「く」字形の船材を用いた丸木舟)。その製作技法もさることながら、用法も隠岐独特なものとされる。古来、隠岐にも海人の活動が見られるが、一般的な海人が素潜りによる海草や貝類の漁撈で知られるのに対し、隠岐では素潜りは行わず、トモド船から海底を覗き込み、鉤(かぎ)や杈(やす)といった漁具を使って鮑や栄螺を収穫する、熟練の必要な「カナギ漁」を行っていた。貞享4年(1687年)の『隠岐記』に、当時で島前に327艘、島後に197艘ものトモドがあったと記録され、かつては隠岐諸島に存在した船舶の大部分を占めたと言われるが、現存するのはこの1艘のみである。
所在地 島根県隠岐郡西ノ島町美田1294
位置 北緯36度4分24.2秒 東経133度1分42.9秒
主祭神 大日孁貴尊
社格等 旧県社
創建 伝 一条天皇朝
本殿の様式 一間社流造銅板葺
別名 隠岐の権現さん
例祭 7月23日
主な神事 龍灯祭(旧暦12月大晦日)
本殿(左奥)と拝殿
社名
明治以前は焼火山雲上寺(たくひさんうんじょうじ)と号し、焼火社、焚火社、離火社(いずれも「たくひ(び)のやしろ」、または「たくひ(び)しゃ」と訓む)とも称されたが、明治初頭の神仏判然令を受けて現社名に改めた。
祭神
大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)を祀る。なお、大日孁貴尊は天照大神の別称である。
焼火山は古く「大山(おおやま)」と称され、元来は山自体を神体として北麓の大山神社において祭祀が執行されたと見られているが、後世修験道が盛行するに及ぶとその霊場とされて地蔵尊を祀り、これを焼火山大権現と号した。やがて祭神を大日孁貴尊とする伝えも起こって、元禄16年(1703年)には「焼火山大権現宮(中略)伊勢太神宮同躰ナリ、天照大日孁貴、離火社神霊是ナリ、手力雄命左陽、万幡姫命右陰」(『島前村々神名記』)と伊勢の皇大神宮(内宮)と同じ神社で、伊勢神宮同様3座を同殿に祀ると説くようにもなり[1]、明治初頭に大日孁貴尊のみを祀る現在の形となった。
文化財
(項目名付属の括弧内は指定の種別と年月日)
国指定
本殿・通殿・拝殿 1棟(重要文化財(建造物)、平成4年8月10日)
附(つけたり) - 宮殿(厨子)1基、旧内陣扉構1式、棟札7枚、仁王経(裏書に材木注文あり)1巻、文書1冊、絵図1鋪
トモド1隻(重要有形民俗文化財、昭和30年2月3日)
和船の1種で、長さ20尺5寸最大幅3尺。樅材を刳り抜いた重木仕立て(船腹から船底にかけて繰り出す「く」字形の船材を用いた丸木舟)。その製作技法もさることながら、用法も隠岐独特なものとされる。古来、隠岐にも海人の活動が見られるが、一般的な海人が素潜りによる海草や貝類の漁撈で知られるのに対し、隠岐では素潜りは行わず、トモド船から海底を覗き込み、鉤(かぎ)や杈(やす)といった漁具を使って鮑や栄螺を収穫する、熟練の必要な「カナギ漁」を行っていた。貞享4年(1687年)の『隠岐記』に、当時で島前に327艘、島後に197艘ものトモドがあったと記録され、かつては隠岐諸島に存在した船舶の大部分を占めたと言われるが、現存するのはこの1艘のみである。
所在地 島根県隠岐郡西ノ島町美田1294
位置 北緯36度4分24.2秒 東経133度1分42.9秒
主祭神 大日孁貴尊
社格等 旧県社
創建 伝 一条天皇朝
本殿の様式 一間社流造銅板葺
別名 隠岐の権現さん
例祭 7月23日
主な神事 龍灯祭(旧暦12月大晦日)
2024年03月22日
清水寺(きよみずでら)は長崎県長崎市鍛冶屋町にある真言宗霊雲寺派の寺院
清水寺(きよみずでら)は長崎県長崎市鍛冶屋町にある真言宗霊雲寺派の寺院である。山名は長崎山(ちょうきさん)。本尊は千手観音。
当寺は、京都・清水寺の僧・慶順により、元和9年(1623年)に創建された。現存する本堂は寛文8年(1668年)、唐商人の何高材(がこうざい)とその子供兆晋・兆有らの寄進によって建立されたものである。
本堂
重要文化財。寛文8年(1668年)の建立。入母屋造、本瓦葺きで、屋根の上部と下部に段差を付けて葺く錣葺き(しころぶき)とする。平面構成は方五間(桁行・梁間ともに柱間が五間)で、その中央の方三間を床上部とし、その周囲の幅一間分は吹き放しの土間とする。建物外周には石製礎盤の上に面取角柱を立てる。板張り部分は手前の梁間一間分を外陣、奥の梁間二間分を内陣とする。外陣部分は当初は吹き放しであったが、現状は仮設の建具を入れている。外陣の正面から側面にかけて切目縁を設ける。建物は西側を正面とし、南側(内陣に向かって右)には張出しを設け、そこに座敷などの4室を田の字形に設ける。外陣天井の輪垂木を並べた架構は、長崎の唐寺にみられる中国風のもので、黄檗天井と通称される。真言宗寺院の本堂であるが、開放的な構えや細部にみられる中国風の意匠などに黄檗寺院との共通性がみられる。内陣にある入母屋造妻入りの厨子は延宝2年(1674年)の作である。 2005年(平成17年)から2010年(平成21年)にかけて解体を伴った修復工事が実施され、1862年(文久2年)当時の姿に復元された。長崎県内に残る密教寺院の本堂としては最も古いものであり、2010年12月24日付で国の重要文化財に指定された。
堂内には本尊千手観音立像のほか、千手観音の眷属である二十八部衆像を安置する。寛文8年(1668年)に福建省出身の何高材と息子の兆晋・兆有によって着手された本堂再建の造営を記念した石碑(「重建清水寺紀縁石碑」)は本堂の「附」(つけたり)として国の重要文化財に指定されている。
交通アクセス
崇福寺停留場から徒歩約3分
所在地 長崎県長崎市鍛冶屋町8-43
位置 北緯32度44分27.8秒 東経129度53分2.8秒
山号 長崎山
宗派 真言宗霊雲寺派
本尊 千手観音
創建年 1623(元和9)年
開基 慶順
当寺は、京都・清水寺の僧・慶順により、元和9年(1623年)に創建された。現存する本堂は寛文8年(1668年)、唐商人の何高材(がこうざい)とその子供兆晋・兆有らの寄進によって建立されたものである。
本堂
重要文化財。寛文8年(1668年)の建立。入母屋造、本瓦葺きで、屋根の上部と下部に段差を付けて葺く錣葺き(しころぶき)とする。平面構成は方五間(桁行・梁間ともに柱間が五間)で、その中央の方三間を床上部とし、その周囲の幅一間分は吹き放しの土間とする。建物外周には石製礎盤の上に面取角柱を立てる。板張り部分は手前の梁間一間分を外陣、奥の梁間二間分を内陣とする。外陣部分は当初は吹き放しであったが、現状は仮設の建具を入れている。外陣の正面から側面にかけて切目縁を設ける。建物は西側を正面とし、南側(内陣に向かって右)には張出しを設け、そこに座敷などの4室を田の字形に設ける。外陣天井の輪垂木を並べた架構は、長崎の唐寺にみられる中国風のもので、黄檗天井と通称される。真言宗寺院の本堂であるが、開放的な構えや細部にみられる中国風の意匠などに黄檗寺院との共通性がみられる。内陣にある入母屋造妻入りの厨子は延宝2年(1674年)の作である。 2005年(平成17年)から2010年(平成21年)にかけて解体を伴った修復工事が実施され、1862年(文久2年)当時の姿に復元された。長崎県内に残る密教寺院の本堂としては最も古いものであり、2010年12月24日付で国の重要文化財に指定された。
堂内には本尊千手観音立像のほか、千手観音の眷属である二十八部衆像を安置する。寛文8年(1668年)に福建省出身の何高材と息子の兆晋・兆有によって着手された本堂再建の造営を記念した石碑(「重建清水寺紀縁石碑」)は本堂の「附」(つけたり)として国の重要文化財に指定されている。
交通アクセス
崇福寺停留場から徒歩約3分
所在地 長崎県長崎市鍛冶屋町8-43
位置 北緯32度44分27.8秒 東経129度53分2.8秒
山号 長崎山
宗派 真言宗霊雲寺派
本尊 千手観音
創建年 1623(元和9)年
開基 慶順
2024年03月21日
元興寺(がんごうじ)は、奈良県奈良市中院町にある真言律宗の寺院
元興寺(がんごうじ)は、奈良県奈良市中院町にある真言律宗の寺院。山号はなし。本尊は智光曼荼羅。元興寺の子院であった極楽坊の系譜を引くため、元興寺極楽坊と呼ばれる。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
極楽坊本堂(国宝)
歴史
極楽院は明治以降は荒れ果て、現在国宝に指定されている本堂も1950年(昭和25年)ころまでは床は落ち、屋根は破れて「化け物が出る」と言われたほどの荒れ方であった。第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)に極楽院の住職となった辻村泰圓は、戦後になって戦災孤児のための社会福祉事業に尽力するかたわら、境内の整備や建物の修理を進めた。1962年(昭和37年)には辻村により境内に財団法人元興寺仏教民俗資料研究所が設立され(1978年(昭和53年)に元興寺文化財研究所と改称)、1965年(昭和40年)には寺宝を収蔵展示する収蔵庫が完成するなど、徐々に整備が進んだ。元興寺仏教民俗資料研究所は、本堂解体修理中に屋根裏から発見された数万点の庶民信仰資料(板塔婆など)を研究することを当初の目的として設立された。極楽院は1955年(昭和30年)に「元興寺極楽坊」と改称、さらに1977年(昭和52年)に「元興寺」と改称されている。2010年(平成22年)8月、禅室の一部に使用されている木材が世界最古の現役木製建築部材であることが確認された。
禅室(国宝)
文化財
国宝
本堂(附:厨子及び仏壇、棟札(寛元2年))
禅室
五重小塔 - 収蔵庫に安置。奈良時代。高さ5.5メートルほどの小塔だが、内部構造まで省略せずに忠実に造られており、「工芸品」ではなく「建造物」として国宝に指定されている。同じく建造物として国宝に指定されている海龍王寺の五重小塔は、奈良時代の作であるものの内部構造は省略されているため、現存唯一の奈良時代の五重塔の建築構造を伝える資料として貴重である。かつては「小塔院」の建物小塔堂内に安置されていたと伝えられる。一貫して屋内にあったため傷みが少ない。
東門(重要文化財)
所在地 奈良県奈良市中院町11
位置 北緯34度40分40.09秒 東経135度49分52.88秒
山号 なし
宗派 真言律宗
本尊 智光曼荼羅
創建年 推古天皇元年(593年)
開基 蘇我馬子
正式名 元興寺
別称 元興寺極楽坊
札所等 西国薬師四十九霊場第5番
大和北部八十八ヶ所霊場第9番
南都七大寺第3番
大和地蔵十福霊場第2番
神仏霊場巡拝の道追加(奈良第30番、2018年から)
文化財 本堂、禅室、五重小塔(国宝)
東門、着色智光曼荼羅図、木造阿弥陀如来坐像ほか(重要文化財)
世界遺産
極楽坊本堂(国宝)
歴史
極楽院は明治以降は荒れ果て、現在国宝に指定されている本堂も1950年(昭和25年)ころまでは床は落ち、屋根は破れて「化け物が出る」と言われたほどの荒れ方であった。第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)に極楽院の住職となった辻村泰圓は、戦後になって戦災孤児のための社会福祉事業に尽力するかたわら、境内の整備や建物の修理を進めた。1962年(昭和37年)には辻村により境内に財団法人元興寺仏教民俗資料研究所が設立され(1978年(昭和53年)に元興寺文化財研究所と改称)、1965年(昭和40年)には寺宝を収蔵展示する収蔵庫が完成するなど、徐々に整備が進んだ。元興寺仏教民俗資料研究所は、本堂解体修理中に屋根裏から発見された数万点の庶民信仰資料(板塔婆など)を研究することを当初の目的として設立された。極楽院は1955年(昭和30年)に「元興寺極楽坊」と改称、さらに1977年(昭和52年)に「元興寺」と改称されている。2010年(平成22年)8月、禅室の一部に使用されている木材が世界最古の現役木製建築部材であることが確認された。
禅室(国宝)
文化財
国宝
本堂(附:厨子及び仏壇、棟札(寛元2年))
禅室
五重小塔 - 収蔵庫に安置。奈良時代。高さ5.5メートルほどの小塔だが、内部構造まで省略せずに忠実に造られており、「工芸品」ではなく「建造物」として国宝に指定されている。同じく建造物として国宝に指定されている海龍王寺の五重小塔は、奈良時代の作であるものの内部構造は省略されているため、現存唯一の奈良時代の五重塔の建築構造を伝える資料として貴重である。かつては「小塔院」の建物小塔堂内に安置されていたと伝えられる。一貫して屋内にあったため傷みが少ない。
東門(重要文化財)
所在地 奈良県奈良市中院町11
位置 北緯34度40分40.09秒 東経135度49分52.88秒
山号 なし
宗派 真言律宗
本尊 智光曼荼羅
創建年 推古天皇元年(593年)
開基 蘇我馬子
正式名 元興寺
別称 元興寺極楽坊
札所等 西国薬師四十九霊場第5番
大和北部八十八ヶ所霊場第9番
南都七大寺第3番
大和地蔵十福霊場第2番
神仏霊場巡拝の道追加(奈良第30番、2018年から)
文化財 本堂、禅室、五重小塔(国宝)
東門、着色智光曼荼羅図、木造阿弥陀如来坐像ほか(重要文化財)
世界遺産
2024年03月19日
北山本門寺(きたやまほんもんじ)は、静岡県富士宮市北山にある日蓮宗の寺院
北山本門寺(きたやまほんもんじ)は、静岡県富士宮市北山にある日蓮宗の寺院で、同宗の七大本山の1つ。日興の法脈を継承した富士門流に属し、静岡県の駿東地方に分布する 西山本門寺、 大石寺、 下条妙蓮寺、 小泉久遠寺とともに同門流の「富士五山」を構成する。また、さらに 京都要法寺、伊豆実成寺、保田妙本寺とあわせて「興門八本山」のひとつにも数えられる。正式呼称は法華本門寺根源。山号は富士山。他の通称に重須本門寺がある。
北山本門寺 仁王門
歴史
日興は1293年(永仁元年)に石川能忠の寄進をうけて北山に重須談所を設けると、同時に、本堂・御影堂・垂迹堂の建設にとりかかり、5年後の1298年(永仁6年)に落成した。大石寺は弟子の日目に譲ったが、日目が南条時光の血縁関係であったことも理由のひとつとされている。同様に石川一族は、日興の血縁関係者であった。日興は晩年の36年間を重須談所で過ごした。
日興の後は第2代として日代が継いだが、日代は教義上の対立から地元大衆に寺を追い出され、西山本門寺を建立して初代住職となった。
本堂
本門寺という呼称
日蓮宗にとって、本門寺という呼称には特別な意味が込められている。中国の天台大師は天台山に、日本の伝教大師は比叡山に寺塔を建立したが、日蓮は寺塔を建立する場所を示さなかった。「冨士一跡門徒存知の事」によれば、景勝地を選んで寺塔を建立するべきであり、その景勝地は富士山であり、そこに建立されるべき根本の寺が本門寺であるとされる。本門寺を建立することが日蓮の遺志を継ぐこととされ、その名称は、日蓮の弟子にとっては特別な名称であって根本中の根本であり、日蓮の教えの中心であるということになっている。
境内には、日尊上人腰掛石がある。日興は重須談所で弟子の育成に努めたが、窓の外を舞い落ちる木の葉に気をとられた日尊を破門した。破門された日尊は、諸国を巡り36箇寺を建立したと伝えられている。破門されてもなお毎年、お会式には必ず参詣に来た。しかし本堂に入ることは許されないため、人知れず門の外の石に腰掛て参詣したという。
交通アクセス
JR身延線富士宮駅より富士急静岡バス、白糸の滝・猪の頭方面行19分、「本門寺入口」バス停下車徒歩5分
東京駅からやきそばエクスプレス高速バス「本門寺入口」バス停下車徒歩5分
JR東海道新幹線新富士駅よりタクシーで35分
東名高速道路富士ICより22分
駐車場 あり
所在地 静岡県富士宮市北山4965
位置 北緯35度16分35.6秒 東経138度36分30.5秒
山号 富士山
宗派 日蓮宗
寺格 大本山(霊蹟寺院)・興門八本山・富士五山
正式名 富士山法華本門寺根源
別称 重須本門寺
文化財 貞観政要 巻第一・細字金字法華経(重要文化財)
北山本門寺 仁王門
歴史
日興は1293年(永仁元年)に石川能忠の寄進をうけて北山に重須談所を設けると、同時に、本堂・御影堂・垂迹堂の建設にとりかかり、5年後の1298年(永仁6年)に落成した。大石寺は弟子の日目に譲ったが、日目が南条時光の血縁関係であったことも理由のひとつとされている。同様に石川一族は、日興の血縁関係者であった。日興は晩年の36年間を重須談所で過ごした。
日興の後は第2代として日代が継いだが、日代は教義上の対立から地元大衆に寺を追い出され、西山本門寺を建立して初代住職となった。
本堂
本門寺という呼称
日蓮宗にとって、本門寺という呼称には特別な意味が込められている。中国の天台大師は天台山に、日本の伝教大師は比叡山に寺塔を建立したが、日蓮は寺塔を建立する場所を示さなかった。「冨士一跡門徒存知の事」によれば、景勝地を選んで寺塔を建立するべきであり、その景勝地は富士山であり、そこに建立されるべき根本の寺が本門寺であるとされる。本門寺を建立することが日蓮の遺志を継ぐこととされ、その名称は、日蓮の弟子にとっては特別な名称であって根本中の根本であり、日蓮の教えの中心であるということになっている。
境内には、日尊上人腰掛石がある。日興は重須談所で弟子の育成に努めたが、窓の外を舞い落ちる木の葉に気をとられた日尊を破門した。破門された日尊は、諸国を巡り36箇寺を建立したと伝えられている。破門されてもなお毎年、お会式には必ず参詣に来た。しかし本堂に入ることは許されないため、人知れず門の外の石に腰掛て参詣したという。
交通アクセス
JR身延線富士宮駅より富士急静岡バス、白糸の滝・猪の頭方面行19分、「本門寺入口」バス停下車徒歩5分
東京駅からやきそばエクスプレス高速バス「本門寺入口」バス停下車徒歩5分
JR東海道新幹線新富士駅よりタクシーで35分
東名高速道路富士ICより22分
駐車場 あり
所在地 静岡県富士宮市北山4965
位置 北緯35度16分35.6秒 東経138度36分30.5秒
山号 富士山
宗派 日蓮宗
寺格 大本山(霊蹟寺院)・興門八本山・富士五山
正式名 富士山法華本門寺根源
別称 重須本門寺
文化財 貞観政要 巻第一・細字金字法華経(重要文化財)
2024年03月18日
善水寺(ぜんすいじ)は、滋賀県湖南市岩根にある天台宗の寺院
善水寺(ぜんすいじ)は、滋賀県湖南市岩根にある天台宗の寺院。山号は岩根山(いわねさん)。本尊は薬師如来。
常楽寺、長寿寺とともに湖南三山の1つに数えられる。
歴史
中世以前の沿革はあまり明らかでないが、伝承では奈良時代の和銅年間(708年 – 715年)に元明天皇が国家鎮護の道場として建立し、和銅寺と称したという。
その後、平安時代の初期に最澄が入山して池から出てきた薬師如来を本尊として請雨の祈祷をし、天台寺院に改めた上で延暦寺の別院諸堂を建立したという。
桓武天皇が病気になった際、最澄が法力により当寺の霊水を献上したところ、たちどころに回復した。これによって天皇から岩根山善水寺の寺号を賜わったという。
その後に境内は広げられ、本堂のある地を中尾、清涼山を東尾、岩根山を西尾といい、塔頭が計26ヵ坊存在していた。なかでも岩根山は善覚院、中之坊、角之坊、岩蔵坊、持蓮坊、宝泉坊、角心坊、善明坊、浄心坊、大門坊、宝乗坊、実蔵坊の十二坊があった。これにより岩根山は十二坊山とも呼ばれた。
1953年(昭和28年)に大雨により仁王門が流失した。
文化財
国宝
本堂 附:厨子 1基
交通アクセス
JR草津線 甲西駅下車 バス11分 岩根バス停下車 徒歩10分 車10分
名神竜王IC 20分
駐車場
普通車30台、大型車4台
所在地 滋賀県湖南市岩根3518
位置 北緯35度0分23.2秒 東経136度6分45.2秒
山号 岩根山(いわねさん)
院号 醫王院
宗派 天台宗
本尊 薬師如来(秘仏、重要文化財)
創建年 和銅年間(708年 - 715年)
開基 元明天皇(勅願)
正式名 岩根山醫王院善水寺
別称 和銅寺
札所等 西国薬師四十九霊場第47番
甲賀西国三十三所第21番
びわ湖百八霊場第93番
湖南三山
文化財 本堂(国宝)
木造薬師如来坐像、木造梵天・帝釈天立像、木造兜跋毘沙門天立像ほか(重要文化財)
常楽寺、長寿寺とともに湖南三山の1つに数えられる。
歴史
中世以前の沿革はあまり明らかでないが、伝承では奈良時代の和銅年間(708年 – 715年)に元明天皇が国家鎮護の道場として建立し、和銅寺と称したという。
その後、平安時代の初期に最澄が入山して池から出てきた薬師如来を本尊として請雨の祈祷をし、天台寺院に改めた上で延暦寺の別院諸堂を建立したという。
桓武天皇が病気になった際、最澄が法力により当寺の霊水を献上したところ、たちどころに回復した。これによって天皇から岩根山善水寺の寺号を賜わったという。
その後に境内は広げられ、本堂のある地を中尾、清涼山を東尾、岩根山を西尾といい、塔頭が計26ヵ坊存在していた。なかでも岩根山は善覚院、中之坊、角之坊、岩蔵坊、持蓮坊、宝泉坊、角心坊、善明坊、浄心坊、大門坊、宝乗坊、実蔵坊の十二坊があった。これにより岩根山は十二坊山とも呼ばれた。
1953年(昭和28年)に大雨により仁王門が流失した。
文化財
国宝
本堂 附:厨子 1基
交通アクセス
JR草津線 甲西駅下車 バス11分 岩根バス停下車 徒歩10分 車10分
名神竜王IC 20分
駐車場
普通車30台、大型車4台
所在地 滋賀県湖南市岩根3518
位置 北緯35度0分23.2秒 東経136度6分45.2秒
山号 岩根山(いわねさん)
院号 醫王院
宗派 天台宗
本尊 薬師如来(秘仏、重要文化財)
創建年 和銅年間(708年 - 715年)
開基 元明天皇(勅願)
正式名 岩根山醫王院善水寺
別称 和銅寺
札所等 西国薬師四十九霊場第47番
甲賀西国三十三所第21番
びわ湖百八霊場第93番
湖南三山
文化財 本堂(国宝)
木造薬師如来坐像、木造梵天・帝釈天立像、木造兜跋毘沙門天立像ほか(重要文化財)
2024年03月17日
高知城(こうちじょう)は、高知県高知市にある日本の城
高知城(こうちじょう)は、高知県高知市にある日本の城。瓦や壁の色が鷹の羽の色に似ているとして、鷹城(たかじょう)とも呼ばれる。
江戸時代には土佐藩の藩庁が二の丸御殿に置かれた。江戸時代に築かれた天守が残る現存天守十二城の一つであるほか、本丸御殿や追手門等が現存する。城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。四国八十八景27番。
概要
高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高45m)上に築かれた梯郭式平山城で、山の南を流れる鏡川、北の江ノ口川をそれぞれ外堀として利用されていた。
戦国時代以前には大高坂山城(おおたかさかやまじょう/おおたかさやま-)または大高坂城と呼ばれる城が築かれていた。最初の築造時期は南北朝時代。土佐の戦国大名として台頭した長宗我部元親は1588年(天正16年)、岡豊城(おこうじょう)からここへ本拠地を移そうとしたが低湿地の山麓は工事が難航し、代わりに港(浦戸湾)に臨む浦戸城を選んだ。
長宗我部氏は関ヶ原の戦いで敗れた西軍に与して改易され、代わりに翌1601年(慶長6年)、山内一豊が土佐国を与えられて土佐藩を立てた。一豊は大高坂山で築城に取り掛かり、1603年(慶長8年)に本丸や二の丸は完成したが、城全体の完工は1611年(慶長16年)、一豊の没後で二代目藩主の忠義の代になっていた。3層6階の天守は、一豊が加増・転封前に居城としていた掛川城(静岡県)を模したといわれる。一豊により河中山城(こうちやまじょう)と名付けられたが、高智山城と名を変えたのち、現在の城名となった。
江戸時代初期の建物は1727年(享保12年)の大火でほとんどが焼失し、1753年(宝暦3年)まで四半世紀かけて再建され、現存天守は1749年(寛延2年)造と推測されている。
高知城は本丸の建造物が完全に残る唯一の城として知られていて、又天守と本丸御殿が両方現存する唯一の城である。明治6年(1873年)に発布された廃城令や、太平洋戦争による戦災を免れて天守、本丸御殿、追手門など15棟の建造物が現存し、全て国の重要文化財に指定されている。現在これらは高知県の所有物となっている。また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の一部であると伝わる部材が収蔵されている。
城全域は高知公園として無料で開放されているが、天守および本丸御殿(別名「懐徳館」)への入館は有料となっている。城の周辺には高知市役所、高知県庁、高知地方裁判所、高知地方検察庁といった行政・司法機関が立ち並び、高知県の行政の中心地となっている(県庁舎のみ実質的には公園内にある)。
また、城内には一豊と妻の千代(見性院)、板垣退助の銅像が立つ。予算の関係で二の丸御殿、三の丸御殿、鉄門等と言ったこれ以上の木造復元計画はない。
文化財
重要文化財
重要文化財指定は以下の15棟。
天守
本丸御殿・懐徳館[かいとくかん]
納戸蔵
黒鉄門
西多聞
東多聞
詰門
廊下門
追手門
天守東南矢狭間塀
天守西北矢狭間塀
黒鉄門西北矢狭間塀
黒鉄門東南矢狭間塀
追手門西南矢狭間塀
追手門東北矢狭間塀
アクセス
路面電車(とさでん交通伊野線)高知城前停留場下車、徒歩約5分
JR四国土讃線高知駅から
徒歩約25分
バス約10分
入明駅から
500メートル
駐車場
高知公園駐車場(年中無休、7時30分〜18時30分)65台(有料)
県庁前地下駐車場(8時〜22時)222台(有料)
他、付近に多数所在
開館時間・料金
二ノ丸以下は終日立ち入り可能。
高知城天守・ 懐徳館(本丸御殿)開館時間
通常:9時 - 17時(入場は16時30分まで)
休館日:12月26日〜1月1日
料金
18歳以上:420円、18歳未満:無料
団体(20名以上):330円
利用情報
日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所
本丸御殿入口(開館時のみ押印可)
別名 鷹城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 独立式望楼型 4重6階(1601年築・1747年再、現存)
築城主 大高坂氏?
築城年 南北朝時代(14世紀頃)
主な改修者 長宗我部元親、山内一豊、山内豊敷
主な城主 山内氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存天守、御殿、櫓、門
石垣、堀、鐘撞堂
指定文化財 重要文化財(天守など15棟)
国の史跡
位置 北緯33度33分38.53秒 東経133度31分53.54秒
江戸時代には土佐藩の藩庁が二の丸御殿に置かれた。江戸時代に築かれた天守が残る現存天守十二城の一つであるほか、本丸御殿や追手門等が現存する。城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。四国八十八景27番。
概要
高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高45m)上に築かれた梯郭式平山城で、山の南を流れる鏡川、北の江ノ口川をそれぞれ外堀として利用されていた。
戦国時代以前には大高坂山城(おおたかさかやまじょう/おおたかさやま-)または大高坂城と呼ばれる城が築かれていた。最初の築造時期は南北朝時代。土佐の戦国大名として台頭した長宗我部元親は1588年(天正16年)、岡豊城(おこうじょう)からここへ本拠地を移そうとしたが低湿地の山麓は工事が難航し、代わりに港(浦戸湾)に臨む浦戸城を選んだ。
長宗我部氏は関ヶ原の戦いで敗れた西軍に与して改易され、代わりに翌1601年(慶長6年)、山内一豊が土佐国を与えられて土佐藩を立てた。一豊は大高坂山で築城に取り掛かり、1603年(慶長8年)に本丸や二の丸は完成したが、城全体の完工は1611年(慶長16年)、一豊の没後で二代目藩主の忠義の代になっていた。3層6階の天守は、一豊が加増・転封前に居城としていた掛川城(静岡県)を模したといわれる。一豊により河中山城(こうちやまじょう)と名付けられたが、高智山城と名を変えたのち、現在の城名となった。
江戸時代初期の建物は1727年(享保12年)の大火でほとんどが焼失し、1753年(宝暦3年)まで四半世紀かけて再建され、現存天守は1749年(寛延2年)造と推測されている。
高知城は本丸の建造物が完全に残る唯一の城として知られていて、又天守と本丸御殿が両方現存する唯一の城である。明治6年(1873年)に発布された廃城令や、太平洋戦争による戦災を免れて天守、本丸御殿、追手門など15棟の建造物が現存し、全て国の重要文化財に指定されている。現在これらは高知県の所有物となっている。また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の一部であると伝わる部材が収蔵されている。
城全域は高知公園として無料で開放されているが、天守および本丸御殿(別名「懐徳館」)への入館は有料となっている。城の周辺には高知市役所、高知県庁、高知地方裁判所、高知地方検察庁といった行政・司法機関が立ち並び、高知県の行政の中心地となっている(県庁舎のみ実質的には公園内にある)。
また、城内には一豊と妻の千代(見性院)、板垣退助の銅像が立つ。予算の関係で二の丸御殿、三の丸御殿、鉄門等と言ったこれ以上の木造復元計画はない。
文化財
重要文化財
重要文化財指定は以下の15棟。
天守
本丸御殿・懐徳館[かいとくかん]
納戸蔵
黒鉄門
西多聞
東多聞
詰門
廊下門
追手門
天守東南矢狭間塀
天守西北矢狭間塀
黒鉄門西北矢狭間塀
黒鉄門東南矢狭間塀
追手門西南矢狭間塀
追手門東北矢狭間塀
アクセス
路面電車(とさでん交通伊野線)高知城前停留場下車、徒歩約5分
JR四国土讃線高知駅から
徒歩約25分
バス約10分
入明駅から
500メートル
駐車場
高知公園駐車場(年中無休、7時30分〜18時30分)65台(有料)
県庁前地下駐車場(8時〜22時)222台(有料)
他、付近に多数所在
開館時間・料金
二ノ丸以下は終日立ち入り可能。
高知城天守・ 懐徳館(本丸御殿)開館時間
通常:9時 - 17時(入場は16時30分まで)
休館日:12月26日〜1月1日
料金
18歳以上:420円、18歳未満:無料
団体(20名以上):330円
利用情報
日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所
本丸御殿入口(開館時のみ押印可)
別名 鷹城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 独立式望楼型 4重6階(1601年築・1747年再、現存)
築城主 大高坂氏?
築城年 南北朝時代(14世紀頃)
主な改修者 長宗我部元親、山内一豊、山内豊敷
主な城主 山内氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存天守、御殿、櫓、門
石垣、堀、鐘撞堂
指定文化財 重要文化財(天守など15棟)
国の史跡
位置 北緯33度33分38.53秒 東経133度31分53.54秒