旧小寺家厩舎(きゅうこでらけきゅうしゃ)は兵庫県神戸市中央区の相楽園内にある西洋スタイルの厩舎建築。建築家河合浩蔵の設計で1910年に竣工したもの。1970年に国の重要文化財に指定されている。
この建物は相楽園を築いた実業家小寺泰次郎の息子である元神戸市長・小寺謙吉が園内の一角に建てたもの。相楽園に残っている戦前の数少ない遺構の一つである。建物平面はL字型、 1階は左側が馬車庫で右側が馬房、2階は厩務員宿舎という用途で、1階が煉瓦造、2階が木骨煉瓦造という構造である。外観は円型塔屋や急勾配の屋根・屋根窓と切妻飾り等々、ドイツ民家風の重厚な意匠に飾られている。
建築概要
設計― 河合浩蔵
竣工― 1910年頃
構造― 煉瓦造2階建て(2階部分は木骨煉瓦造)、一部吹抜、塔屋付、スレート葺
建築面積― 188.1m2
所在地― 〒650-0004 兵庫県神戸市中央区中山手通5-3-1 相楽園内
文化財指定
以下の物件が国の重要文化財に指定されている(1970年6月17日指定、附指定物件は1981年6月5日追加指定)。
旧小寺家厩舎(兵庫県神戸市生田区中山手通)1棟
(以下、附指定)
作業場 1所
設計図 66枚
予算書及び工事仕様書 1冊
交通アクセス
山陽新幹線 新神戸駅 徒歩18分
神戸市営地下鉄西神・山手線 県庁前駅 徒歩5分
JR神戸線 元町駅 下車 徒歩10分
阪神本線 元町駅 下車 徒歩10分
2024年03月05日
大元神社(おおもとじんじゃ)は、広島県廿日市市宮島町(厳島)に鎮座する神社
大元神社(おおもとじんじゃ)は、広島県廿日市市宮島町(厳島)に鎮座する神社で厳島神社の摂社である。
歴史
創建年は不詳。飛鳥時代に創建した厳島神社よりも前に創建されたと伝えられる古社で、厳島神社の旧社と考えられている。その他にも広島県内には広島市安佐南区の大元神社や同市佐伯区の大元神社など、同名の神社が複数存在している。
大元神社の由来については諸説あり、土地の神様を祀った大元の社とする説や、厳島神社を創設した佐伯鞍職を祀っていたと考えられる大伴社が現在の大元神社になったという説がある。
また同じく宮島にある長浜神社とは向かい合うような位置にあり、厳島神社の両翼を成していて、両社とも毎年6月の管絃祭では、船の上での祭事が執り行われている。
現存する建物は、1523年(大永3年)築で国の重要文化財にしていされている。屋根は板葺きで、日本で唯一の「六枚重三段葺き」となっており、本殿内陣の玉殿は1443年(嘉吉3年)の墨書があり、社殿より古いことがわかる。
祭神
国常立尊
大山祇神
大山祇神
保食神
佐伯鞍職
交通
JR「宮島口駅」からJR連絡宮島航路または松大観光船で約10分、宮島桟橋下船し徒歩で約15分。
所在地 広島県廿日市市宮島町10
主祭神 国常立尊
大山祇神
大山祇神
保食神
佐伯鞍職
創建 不詳
例祭 1月20日
歴史
創建年は不詳。飛鳥時代に創建した厳島神社よりも前に創建されたと伝えられる古社で、厳島神社の旧社と考えられている。その他にも広島県内には広島市安佐南区の大元神社や同市佐伯区の大元神社など、同名の神社が複数存在している。
大元神社の由来については諸説あり、土地の神様を祀った大元の社とする説や、厳島神社を創設した佐伯鞍職を祀っていたと考えられる大伴社が現在の大元神社になったという説がある。
また同じく宮島にある長浜神社とは向かい合うような位置にあり、厳島神社の両翼を成していて、両社とも毎年6月の管絃祭では、船の上での祭事が執り行われている。
現存する建物は、1523年(大永3年)築で国の重要文化財にしていされている。屋根は板葺きで、日本で唯一の「六枚重三段葺き」となっており、本殿内陣の玉殿は1443年(嘉吉3年)の墨書があり、社殿より古いことがわかる。
祭神
国常立尊
大山祇神
大山祇神
保食神
佐伯鞍職
交通
JR「宮島口駅」からJR連絡宮島航路または松大観光船で約10分、宮島桟橋下船し徒歩で約15分。
所在地 広島県廿日市市宮島町10
主祭神 国常立尊
大山祇神
大山祇神
保食神
佐伯鞍職
創建 不詳
例祭 1月20日
2024年03月04日
金倉寺(こんぞうじ)は、香川県善通寺市金蔵寺町にある天台寺門宗の寺院
金倉寺(こんぞうじ)は、香川県善通寺市金蔵寺町にある天台寺門宗の寺院。鶏足山(けいそくざん)宝幢院(ほうどういん)と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所第七十六番札所。
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:まことにも神仏僧を開くれば 真言加持(かじ)の不思議なりけり
納経印:当寺本尊、七ヶ所参り弁財天
本堂
概要
入唐8家で、讃岐5大師であり、延暦寺第5代座主を868年より24年間務め、天台寺門派の宗祖である円珍(智証大師)の生誕地として知られ、また、乃木希典が明治31年(1898年)から3年間当寺の客殿を仮住まいにしており、客殿には乃木ゆかりの品々が展示され、境内には銅像もある。
歴史
宝亀5年(774年)景行天皇の子孫の和気道善(円珍の祖父)が金輪如意(如意輪観音)を祀って一堂を建立し自在王堂と呼ばれていた。仁寿元年(851年)道善の子である和気宅成の上奏により、自在王堂を官寺とし道善寺と名付けた。その後、宅成の子である円珍が承和13年(846年)に入唐、天安2年(858年)帰朝した後、故郷の当寺に訪れて長安の青龍寺に倣した伽藍を造営、薬師如来を彫像して本尊とした。861年伽藍の造営を終え、落慶の斎会に円珍が再訪する。延長6年(928年)醍醐天皇の勅命により金倉郷(かなくらごう)から名前をとり現在の「金倉寺」、山号は釈迦十大弟子の迦葉尊者が入定した山名の「鶏足山」と改め隆盛をきわめた。
その後、幾多の兵火により重要文化財の自画像と本尊などの宝物以外は焼失、慶長11年(1606年)それまで無住寺になっていたが、近くの真言寺院に後見してもらい一時期真言宗になるが、窮状を知った高松藩主の松平頼重により、天台宗に戻り再興、慶安4年(1651年)には、智証大師御影堂を始め、諸堂や客殿、庫裏にいたるまで再建し現在に至る。
大正14年(1925年)、龍川村の地主が差し押さえた農地の競売をめぐり小作争議が激化。金倉寺の伽藍に地主、小作人、警官が集まり仲裁が行われた。
円珍の銅像
山門(仁王門)
交通
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 土讃線 – 金蔵寺駅 (0.5 km)
駅名の読みは同じだが字が異なる。
道路
一般道:香川県道25号善通寺多度津線・香川県道33号高松善通寺線 金倉寺交差点 (0.3 km)
自動車道:高松自動車道 善通寺IC (2.0 km)
所在地 香川県善通寺市金蔵寺町字本村1160番地
位置 北緯34度15分0.35秒 東経133度46分51.65秒
山号 鶏足山
院号 宝幢院
宗派 天台寺門宗
寺格 別格本山
本尊 薬師如来
創建年 (伝)宝亀5年(774年)
開基 (伝)和気道善
正式名 鶏足山 宝幢院 金倉寺
札所等 四国八十八箇所76番
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:まことにも神仏僧を開くれば 真言加持(かじ)の不思議なりけり
納経印:当寺本尊、七ヶ所参り弁財天
本堂
概要
入唐8家で、讃岐5大師であり、延暦寺第5代座主を868年より24年間務め、天台寺門派の宗祖である円珍(智証大師)の生誕地として知られ、また、乃木希典が明治31年(1898年)から3年間当寺の客殿を仮住まいにしており、客殿には乃木ゆかりの品々が展示され、境内には銅像もある。
歴史
宝亀5年(774年)景行天皇の子孫の和気道善(円珍の祖父)が金輪如意(如意輪観音)を祀って一堂を建立し自在王堂と呼ばれていた。仁寿元年(851年)道善の子である和気宅成の上奏により、自在王堂を官寺とし道善寺と名付けた。その後、宅成の子である円珍が承和13年(846年)に入唐、天安2年(858年)帰朝した後、故郷の当寺に訪れて長安の青龍寺に倣した伽藍を造営、薬師如来を彫像して本尊とした。861年伽藍の造営を終え、落慶の斎会に円珍が再訪する。延長6年(928年)醍醐天皇の勅命により金倉郷(かなくらごう)から名前をとり現在の「金倉寺」、山号は釈迦十大弟子の迦葉尊者が入定した山名の「鶏足山」と改め隆盛をきわめた。
その後、幾多の兵火により重要文化財の自画像と本尊などの宝物以外は焼失、慶長11年(1606年)それまで無住寺になっていたが、近くの真言寺院に後見してもらい一時期真言宗になるが、窮状を知った高松藩主の松平頼重により、天台宗に戻り再興、慶安4年(1651年)には、智証大師御影堂を始め、諸堂や客殿、庫裏にいたるまで再建し現在に至る。
大正14年(1925年)、龍川村の地主が差し押さえた農地の競売をめぐり小作争議が激化。金倉寺の伽藍に地主、小作人、警官が集まり仲裁が行われた。
円珍の銅像
山門(仁王門)
交通
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 土讃線 – 金蔵寺駅 (0.5 km)
駅名の読みは同じだが字が異なる。
道路
一般道:香川県道25号善通寺多度津線・香川県道33号高松善通寺線 金倉寺交差点 (0.3 km)
自動車道:高松自動車道 善通寺IC (2.0 km)
所在地 香川県善通寺市金蔵寺町字本村1160番地
位置 北緯34度15分0.35秒 東経133度46分51.65秒
山号 鶏足山
院号 宝幢院
宗派 天台寺門宗
寺格 別格本山
本尊 薬師如来
創建年 (伝)宝亀5年(774年)
開基 (伝)和気道善
正式名 鶏足山 宝幢院 金倉寺
札所等 四国八十八箇所76番
2024年03月03日
石嘉波神社(いしかじんじゃ)は、沖縄県国頭郡本部町瀬底島にある神社
石嘉波神社(いしかじんじゃ)は、沖縄県国頭郡本部町瀬底島にある神社であり、字瀬底の小字石嘉波村落(方言:イッチャファ)の東南方の小高い森一帯を指す。一帯は御嶽タキサンとも呼ばれている。 根所・神アサギも石嘉波神社(御嶽タキサン)に含まれる。
概要
字瀬底の小字石嘉波村落(方言:イッチャファ)の東南方の小高い森一帯が、石嘉波神社である。森の中にコンクリート造りの祠があり(1928年7月28日建立)西側入口に鳥居が建っている。
神社と呼ばれているが、根所・神アサギも石嘉波神社(御嶽タキサン)を指す森一帯に含まれる。
歴史
石嘉波村は伊野波間切創設時からの古村であり、元は健堅村に隣接した石嘉波にあったが、蔡温の山林政策で、尚敬王代の1736年(乾隆元年)に瀬底島の東側に村移しさせられた。石嘉波神社はその際、村人によって作られた拝所である。
以後、村は石嘉波村として存続したが、1903年(明治36年)県令第36号によって石嘉波村が瀬底村に合併して一村となり、さらに1908年(明治41年)本部間切瀬底村から本部村字瀬底に改められ、次いで1940年(昭和15年)本部町字瀬底となった。
石嘉波村落の御嶽タキサンも旧石嘉波村落へのお通し御嶽であり、祭祀も現在に至るまで瀬底村落とは別々に行われている。旧七月二十日には「ウークイ(ウフユミ)」という、豊漁・豊作の感謝と予祝御願を中心に村人の健康、繁栄を御願する儀礼が行なわれる。
なお、『琉球国由来記』(1713年)には「石嘉波村、前之嶽・神名マツノワカッカサノ御イベ、ヨネフサキ嶽・神名カネマツ司ノ御イベ、アラサケ嶽・神名イシノ御イベ」と記されているが、特定出来ない。
根所
根所
根所(方言:ニードゥクール)は、タキサンの北側約30メートルのところに位置する。間口2メートル、奥行160センチメートル、高さ2メートルの破風型コンクリート造りで、祭神は根所火神である。
神アサギ
神アサギ
神アサギとは神を迎え招宴をする場所のことをいう。
石嘉波神社の神アサギは根所の西側、一段低いところにある。柱はコンクリート、屋根はセメント瓦葺きで造られている。
所在地 沖縄県国頭郡本部町瀬底2261
位置 北緯26度38分47.2秒 東経127度52分8.7秒
主祭神 根所火神
創建 1928年(昭和3年)7月28日(旧暦6月12日)建立
別名 御嶽タキサン
例祭 ウークイ(ウフユミ)
概要
字瀬底の小字石嘉波村落(方言:イッチャファ)の東南方の小高い森一帯が、石嘉波神社である。森の中にコンクリート造りの祠があり(1928年7月28日建立)西側入口に鳥居が建っている。
神社と呼ばれているが、根所・神アサギも石嘉波神社(御嶽タキサン)を指す森一帯に含まれる。
歴史
石嘉波村は伊野波間切創設時からの古村であり、元は健堅村に隣接した石嘉波にあったが、蔡温の山林政策で、尚敬王代の1736年(乾隆元年)に瀬底島の東側に村移しさせられた。石嘉波神社はその際、村人によって作られた拝所である。
以後、村は石嘉波村として存続したが、1903年(明治36年)県令第36号によって石嘉波村が瀬底村に合併して一村となり、さらに1908年(明治41年)本部間切瀬底村から本部村字瀬底に改められ、次いで1940年(昭和15年)本部町字瀬底となった。
石嘉波村落の御嶽タキサンも旧石嘉波村落へのお通し御嶽であり、祭祀も現在に至るまで瀬底村落とは別々に行われている。旧七月二十日には「ウークイ(ウフユミ)」という、豊漁・豊作の感謝と予祝御願を中心に村人の健康、繁栄を御願する儀礼が行なわれる。
なお、『琉球国由来記』(1713年)には「石嘉波村、前之嶽・神名マツノワカッカサノ御イベ、ヨネフサキ嶽・神名カネマツ司ノ御イベ、アラサケ嶽・神名イシノ御イベ」と記されているが、特定出来ない。
根所
根所
根所(方言:ニードゥクール)は、タキサンの北側約30メートルのところに位置する。間口2メートル、奥行160センチメートル、高さ2メートルの破風型コンクリート造りで、祭神は根所火神である。
神アサギ
神アサギ
神アサギとは神を迎え招宴をする場所のことをいう。
石嘉波神社の神アサギは根所の西側、一段低いところにある。柱はコンクリート、屋根はセメント瓦葺きで造られている。
所在地 沖縄県国頭郡本部町瀬底2261
位置 北緯26度38分47.2秒 東経127度52分8.7秒
主祭神 根所火神
創建 1928年(昭和3年)7月28日(旧暦6月12日)建立
別名 御嶽タキサン
例祭 ウークイ(ウフユミ)
2024年03月02日
観興寺(かんこうじ)は福岡県久留米市山本町耳納にある曹洞宗の寺院
2024年03月01日
願成寺(がんじょうじ)は、福島県喜多方市にある浄土宗の寺院
願成寺(がんじょうじ)は、福島県喜多方市にある浄土宗の寺院。山号は叶山。本尊は阿弥陀如来。会津大仏で知られる。
歴史
嘉禄3年(1227年)、浄土宗の開祖法然の高弟である隆寛律師が開基したと伝えられる。多念義派の本山となっている。
慶長16年(1611年)、慶長三陸地震による震災で現在の場所に移転された。この際、会津松平家がこの会津地域で唯一庇護した寺であったと伝わる。
文化財
重要文化財(国指定)
木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像(通称:会津大仏)
会津大仏御堂に安置される。鎌倉時代の作。寄木造り。中尊阿弥陀如来像の像高は2.41m。中尊は来迎印を示し、千仏舟形光背を負う。左脇侍(向かって右)は観音菩薩、右脇侍は勢至菩薩。両脇侍は大和座りで、この形式は、京都三千院の阿弥陀三尊像と同じであり、東北地方では珍しい。
所在地 福島県喜多方市上三宮町上三宮字籬山833番地
位置 北緯37度41分17秒 東経139度51分48秒
山号 叶山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・1227年(嘉禄3年)
開基 伝・隆寛
正式名 叶山 三寳院 願成寺
文化財 木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像(国の重要文化財)
木造行道面、本堂、旧阿弥陀堂、山門(県文化財)
歴史
嘉禄3年(1227年)、浄土宗の開祖法然の高弟である隆寛律師が開基したと伝えられる。多念義派の本山となっている。
慶長16年(1611年)、慶長三陸地震による震災で現在の場所に移転された。この際、会津松平家がこの会津地域で唯一庇護した寺であったと伝わる。
文化財
重要文化財(国指定)
木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像(通称:会津大仏)
会津大仏御堂に安置される。鎌倉時代の作。寄木造り。中尊阿弥陀如来像の像高は2.41m。中尊は来迎印を示し、千仏舟形光背を負う。左脇侍(向かって右)は観音菩薩、右脇侍は勢至菩薩。両脇侍は大和座りで、この形式は、京都三千院の阿弥陀三尊像と同じであり、東北地方では珍しい。
所在地 福島県喜多方市上三宮町上三宮字籬山833番地
位置 北緯37度41分17秒 東経139度51分48秒
山号 叶山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・1227年(嘉禄3年)
開基 伝・隆寛
正式名 叶山 三寳院 願成寺
文化財 木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像(国の重要文化財)
木造行道面、本堂、旧阿弥陀堂、山門(県文化財)
2024年02月29日
等澍院(とうじゅいん)は、北海道様似郡様似町にある天台宗の寺院
等澍院(とうじゅいん)は、北海道様似郡様似町にある天台宗の寺院。山号は歸嚮山(ききょうざん)。
概要
文化元年(1804年)、江戸幕府の蝦夷地統治およびアイヌ教化政策の一環として建立された蝦夷三官寺の1つとして日高国様似郡に創建される。正式名称は歸嚮山厚澤寺等澍院。当時仏教を信仰していなかったアイヌの居住地域に立てられたために檀家もおらず、幕府から年間100俵の禄米などを支給されることで寺を維持してきた。ところが、明治維新によって保護を失うと急速に衰退、明治18年(1885年)に廃寺に追い込まれる。その後、明治32年(1899年)になって再興され、以後国道建設などで場所を移転をしつつ、今日に至っている。
院名は、「仏の法を以て等しく澍(うるお)す」という意味。「澍」は「さんずい」である。間違って「等樹院」と書かれることがある。
文化財
江戸時代の文書・記録類15点と百万遍念珠箱1点、計16点が「蝦夷三官寺等澍院関係資料」の名称で重要文化財に指定されている(様似町郷土館に寄託)。
所在地 北海道様似郡様似町潮見台11- 4
位置 北緯42度7分46.5秒 東経142度55分8.9秒
山号 歸嚮山
宗旨 天台宗
本尊 薬師瑠璃光如来
創建年 文化3年(1806年)
開基 徳川家斉
正式名 歸嚮山 厚澤寺 等澍院
文化財 蝦夷三官寺等澍院関係資料(重要文化財)
概要
文化元年(1804年)、江戸幕府の蝦夷地統治およびアイヌ教化政策の一環として建立された蝦夷三官寺の1つとして日高国様似郡に創建される。正式名称は歸嚮山厚澤寺等澍院。当時仏教を信仰していなかったアイヌの居住地域に立てられたために檀家もおらず、幕府から年間100俵の禄米などを支給されることで寺を維持してきた。ところが、明治維新によって保護を失うと急速に衰退、明治18年(1885年)に廃寺に追い込まれる。その後、明治32年(1899年)になって再興され、以後国道建設などで場所を移転をしつつ、今日に至っている。
院名は、「仏の法を以て等しく澍(うるお)す」という意味。「澍」は「さんずい」である。間違って「等樹院」と書かれることがある。
文化財
江戸時代の文書・記録類15点と百万遍念珠箱1点、計16点が「蝦夷三官寺等澍院関係資料」の名称で重要文化財に指定されている(様似町郷土館に寄託)。
所在地 北海道様似郡様似町潮見台11- 4
位置 北緯42度7分46.5秒 東経142度55分8.9秒
山号 歸嚮山
宗旨 天台宗
本尊 薬師瑠璃光如来
創建年 文化3年(1806年)
開基 徳川家斉
正式名 歸嚮山 厚澤寺 等澍院
文化財 蝦夷三官寺等澍院関係資料(重要文化財)
2024年02月28日
地蔵院(じぞういん)は、三重県亀山市にある真言宗御室派の寺院
地蔵院(じぞういん)は、三重県亀山市にある真言宗御室派の寺院。
概要
本尊は地蔵菩薩。山号は九関山(きゅうかんざん)、寺号は宝蔵寺(ほうぞうじ)。九関山宝蔵寺地蔵院と号するが、通常は院号の地蔵院をもって呼ばれる。関の地蔵、関地蔵院とも称される。
歴史
東海道の関宿に位置し、古くから関の地蔵と呼ばれて信仰されてきた。創建については判然としないが、元禄8年(1695年)成立の『地蔵院略縁起』には天平13年(741年)行基によって創建されたと伝える。享保3年(1718年)成立の『関地蔵菩薩瑞像記』には大同元年(806年)、最澄の弟子により地蔵堂が建てられ、久冠山宝蔵寺と号したとある。
文化財
重要文化財
地蔵院 3棟
本堂(附:棟札下書、地蔵堂再興日記、地蔵菩薩本堂再興之由縁、勘定帳、江戸開帳願之記) - 寄棟造本瓦葺き。元禄13年(1700年)建立。
愛染堂 - 寛永7年(1630年)建立。
鐘楼(附:棟札、三町普請鐘楼堂修覆記) - 寛永21年(1644年)建立。
所在地 三重県亀山市関町新所1173
位置 北緯34度51分10.9秒 東経136度23分21.4秒
山号 九関山
院号 地蔵院
宗旨 古義真言宗
宗派 真言宗御室派
本尊 地蔵菩薩
創建年 (伝)741年(天平13年)
開基 (伝)行基
正式名 九関山宝蔵寺地蔵院
別称 関の地蔵、関地蔵院
札所等 三重四国八十八箇所 28番札所
文化財 本堂・愛染堂・鐘楼(国の重要文化財)
概要
本尊は地蔵菩薩。山号は九関山(きゅうかんざん)、寺号は宝蔵寺(ほうぞうじ)。九関山宝蔵寺地蔵院と号するが、通常は院号の地蔵院をもって呼ばれる。関の地蔵、関地蔵院とも称される。
歴史
東海道の関宿に位置し、古くから関の地蔵と呼ばれて信仰されてきた。創建については判然としないが、元禄8年(1695年)成立の『地蔵院略縁起』には天平13年(741年)行基によって創建されたと伝える。享保3年(1718年)成立の『関地蔵菩薩瑞像記』には大同元年(806年)、最澄の弟子により地蔵堂が建てられ、久冠山宝蔵寺と号したとある。
文化財
重要文化財
地蔵院 3棟
本堂(附:棟札下書、地蔵堂再興日記、地蔵菩薩本堂再興之由縁、勘定帳、江戸開帳願之記) - 寄棟造本瓦葺き。元禄13年(1700年)建立。
愛染堂 - 寛永7年(1630年)建立。
鐘楼(附:棟札、三町普請鐘楼堂修覆記) - 寛永21年(1644年)建立。
所在地 三重県亀山市関町新所1173
位置 北緯34度51分10.9秒 東経136度23分21.4秒
山号 九関山
院号 地蔵院
宗旨 古義真言宗
宗派 真言宗御室派
本尊 地蔵菩薩
創建年 (伝)741年(天平13年)
開基 (伝)行基
正式名 九関山宝蔵寺地蔵院
別称 関の地蔵、関地蔵院
札所等 三重四国八十八箇所 28番札所
文化財 本堂・愛染堂・鐘楼(国の重要文化財)
2024年02月27日
高蔵寺(こうぞうじ)は、宮城県角田市にある真言宗智山派の寺
高蔵寺(こうぞうじ)は、宮城県角田市にある真言宗智山派の寺である。
宮城県角田市・高蔵寺阿弥陀堂
概要
819年(弘仁10年)に徳一が開創したとされる。1177年(治承元年)に聖円が堂宇を修営したが、阿弥陀堂は飛騨工の手よるもので鎖釘を全く使用していないという。その中に丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、その左右には小仏像がまつられていた13の跡がある。上梁文には、造替修理について治承3年に藤原秀衡が、建武2年に北畠顕家がそれぞれ修営したことが記されている。
阿弥陀堂と阿弥陀如来坐像は国の重要文化財に指定されている。阿弥陀堂は県内最古の寺社建築とされ、また東北地方に現存する平安時代の建築は、岩手県平泉町の中尊寺金色堂と福島県いわき市の白水阿弥陀堂、および当堂の3ヶ所のみである。
文化財
重要文化財
高蔵寺阿弥陀堂 - 1177年(治承1年)建立 宮城県最古の木造建築
附棟札2枚
木造阿弥陀如来坐像
宮城県指定有形文化財
木造薬師如来坐像
木造阿弥陀如来坐像
所在地 宮城県角田市高倉字寺前49
位置 北緯37度59分59.5秒 東経140度43分5.8秒
宗派 真言宗智山派
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・弘仁10年(819年)
開山 徳一
文化財 阿弥陀堂、阿弥陀如来坐像(重要文化財)
宮城県角田市・高蔵寺阿弥陀堂
概要
819年(弘仁10年)に徳一が開創したとされる。1177年(治承元年)に聖円が堂宇を修営したが、阿弥陀堂は飛騨工の手よるもので鎖釘を全く使用していないという。その中に丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、その左右には小仏像がまつられていた13の跡がある。上梁文には、造替修理について治承3年に藤原秀衡が、建武2年に北畠顕家がそれぞれ修営したことが記されている。
阿弥陀堂と阿弥陀如来坐像は国の重要文化財に指定されている。阿弥陀堂は県内最古の寺社建築とされ、また東北地方に現存する平安時代の建築は、岩手県平泉町の中尊寺金色堂と福島県いわき市の白水阿弥陀堂、および当堂の3ヶ所のみである。
文化財
重要文化財
高蔵寺阿弥陀堂 - 1177年(治承1年)建立 宮城県最古の木造建築
附棟札2枚
木造阿弥陀如来坐像
宮城県指定有形文化財
木造薬師如来坐像
木造阿弥陀如来坐像
所在地 宮城県角田市高倉字寺前49
位置 北緯37度59分59.5秒 東経140度43分5.8秒
宗派 真言宗智山派
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・弘仁10年(819年)
開山 徳一
文化財 阿弥陀堂、阿弥陀如来坐像(重要文化財)
2024年02月26日
慈恩寺(じおんじ)は、山形県寒河江市にある仏教寺院
慈恩寺(じおんじ)は、山形県寒河江市にある仏教寺院で、現在は慈恩宗の本山。山号は瑞宝山。宗教法人としての登録名は「本山慈恩寺」。
概要
行基によって見い出され、聖武天皇の勅によって創建したとされる。その後、鳥羽天皇の勅で再建され、後白河法皇と源頼朝によって山号を与えられた。平安時代は荘園領主である藤原摂関家から、鎌倉時代から室町時代にかけては地頭・寒河江大江氏の庇護を受け、寒河江大江氏が滅ぶと最上氏や江戸幕府によって寺領を認められた。
江戸時代には東北随一の御朱印地を有し、院坊の数は3ヵ院48坊に達した。修験による祈願寺として御朱印地を拝領していたため檀家を持たず、明治の上知令により一山は困窮して帰農する坊が続出した。現在は3ヵ院17坊を伝える。
本尊は弥勒菩薩で、脇侍として地蔵菩薩、釈迦如来、不動明王と降三世明王を配する日本国内でも珍しい五尊形式である。創建当初は八幡大菩薩を鎮守神として祭っていたが、時代の変化とともに法相宗、真言宗、天台宗を取り入れ、現在は天台宗真言宗兼学の一山寺院として慈恩宗を称する。
境内地は周囲の中世城館群や行場などとともに2014年10月に国の史跡に指定された。
歴史
奈良時代(創建)
伝承によれば、神亀元年(724年)に行基がこの地を選び、天平18年(746年)に聖武天皇の勅により婆羅門僧正菩提僊那が寺院を建立したのに始まるとされる。山号を寒江山とし、大慈恩律寺と称した。
しかし、奈良時代盛時の勅願寺であれば平地に七堂伽藍を建築するべきところを、慈恩寺は山中に伽藍を構築しており山岳寺院の傾向を持つ。麻木脩平によれば、慈恩寺開創の時期は平安初期の9世紀と考えられるという。その根拠として第一に、全国的に弥勒菩薩を本尊とするか本尊に準ずる扱いを受けている寺院はほとんどが平安初期に創立されたものであること。第二に永仁の大火(1296年、後述)で焼失した本尊は平安初期に盛行した檀像風の像であったと考えられること。第三に慈恩寺が、寺号や弥勒菩薩との関わりが深い法相教学の寺院として創建されたと考えると、この寺を開いた僧侶は南都(奈良)仏教系の人であると考えられ、南都系僧侶が出羽国にまで教線を拡大する情熱と力を失っていない時期は平安初期までで、それ以後とは考えられない。法相宗の徳一が会津で活動したのは9世紀前半であり、山形県内にも徳一開基を伝える寺院があり、南都の法相宗が県内に進出したのはほぼ確実なことを挙げている。さらに、平安時代に出羽国に設置された定額寺の中に慈恩寺の名が見えないことから、慈恩寺は当初、定額寺に列せられるような規模の大きな寺ではなく、小規模な法相系の私寺だったのではないかと論じた。
本山慈恩寺管長布施慶典の『法相宗について』によれば、現在でも本堂で行われる行事、修正会・一切経会などは法相宗の様式を伝えているという。
院坊
慈恩寺は3ヵ院48坊からなる一山寺院を形成し、鎮護国家、除災招福を祈願する寺院であった。一山を代表する支配職は、真言方は宝蔵院・華蔵院、天台方は最上院の3ヵ院で、所属の院坊をまとめ、幕府など大檀那への年礼を主とした。現在は3ヵ院17坊が一山を支える。
文化財
重要文化財
本堂(附:厨子1基)
元和4年(1618年)最上氏により築造。桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、茅葺。明治41年(1908年)、当時の古社寺保存法により特別保護建造物(現行法の「重要文化財」に相当)に指定。近年では、昭和28年(1953年)に半解体修理が行われたほか、令和4年(2022年)から令和6年(2024年)に茅葺屋根の葺き替え、屋根材の補修、天井絵の剥落止めが行われる。
本尊木造弥勒菩薩、釈迦如来坐像、地蔵菩薩坐像、不動明王立像、降三世明王立像、木造騎獅文殊菩薩、木造騎象普賢菩薩、十羅刹女像、木造二天王立像、木造如来坐像及び両脇侍立像、木造如来立像、木造菩薩坐像、木造力士立像などを安置する。
拝観
境内へは無料で入ることができるため、重要文化財である本堂・山門・三重塔などの外観は自由に拝観することができる。
受付 9時 - 16時
拝観料 700円(15名以上600円)
所在地
山形県寒河江市大字慈恩寺地籍31
慈恩寺の所在する旧慈恩寺村は江戸時代を通して慈恩寺の寺領であり[58]、1889年(明治22年)に町村制が発足すると日和田村・箕輪村と合併して醍醐村となった。1954年(昭和29年)、他の村とともに寒河江町と合併して寒河江市の一部となっている。
アクセス
JR奥羽本線天童駅から車25分。
JR左沢線羽前高松駅から徒歩20分、寒河江駅から車12分。
山形自動車道寒河江ICから車15分。
山形空港から車20分。
山交バス慈恩寺口バス停から徒歩20分。
概要
行基によって見い出され、聖武天皇の勅によって創建したとされる。その後、鳥羽天皇の勅で再建され、後白河法皇と源頼朝によって山号を与えられた。平安時代は荘園領主である藤原摂関家から、鎌倉時代から室町時代にかけては地頭・寒河江大江氏の庇護を受け、寒河江大江氏が滅ぶと最上氏や江戸幕府によって寺領を認められた。
江戸時代には東北随一の御朱印地を有し、院坊の数は3ヵ院48坊に達した。修験による祈願寺として御朱印地を拝領していたため檀家を持たず、明治の上知令により一山は困窮して帰農する坊が続出した。現在は3ヵ院17坊を伝える。
本尊は弥勒菩薩で、脇侍として地蔵菩薩、釈迦如来、不動明王と降三世明王を配する日本国内でも珍しい五尊形式である。創建当初は八幡大菩薩を鎮守神として祭っていたが、時代の変化とともに法相宗、真言宗、天台宗を取り入れ、現在は天台宗真言宗兼学の一山寺院として慈恩宗を称する。
境内地は周囲の中世城館群や行場などとともに2014年10月に国の史跡に指定された。
歴史
奈良時代(創建)
伝承によれば、神亀元年(724年)に行基がこの地を選び、天平18年(746年)に聖武天皇の勅により婆羅門僧正菩提僊那が寺院を建立したのに始まるとされる。山号を寒江山とし、大慈恩律寺と称した。
しかし、奈良時代盛時の勅願寺であれば平地に七堂伽藍を建築するべきところを、慈恩寺は山中に伽藍を構築しており山岳寺院の傾向を持つ。麻木脩平によれば、慈恩寺開創の時期は平安初期の9世紀と考えられるという。その根拠として第一に、全国的に弥勒菩薩を本尊とするか本尊に準ずる扱いを受けている寺院はほとんどが平安初期に創立されたものであること。第二に永仁の大火(1296年、後述)で焼失した本尊は平安初期に盛行した檀像風の像であったと考えられること。第三に慈恩寺が、寺号や弥勒菩薩との関わりが深い法相教学の寺院として創建されたと考えると、この寺を開いた僧侶は南都(奈良)仏教系の人であると考えられ、南都系僧侶が出羽国にまで教線を拡大する情熱と力を失っていない時期は平安初期までで、それ以後とは考えられない。法相宗の徳一が会津で活動したのは9世紀前半であり、山形県内にも徳一開基を伝える寺院があり、南都の法相宗が県内に進出したのはほぼ確実なことを挙げている。さらに、平安時代に出羽国に設置された定額寺の中に慈恩寺の名が見えないことから、慈恩寺は当初、定額寺に列せられるような規模の大きな寺ではなく、小規模な法相系の私寺だったのではないかと論じた。
本山慈恩寺管長布施慶典の『法相宗について』によれば、現在でも本堂で行われる行事、修正会・一切経会などは法相宗の様式を伝えているという。
院坊
慈恩寺は3ヵ院48坊からなる一山寺院を形成し、鎮護国家、除災招福を祈願する寺院であった。一山を代表する支配職は、真言方は宝蔵院・華蔵院、天台方は最上院の3ヵ院で、所属の院坊をまとめ、幕府など大檀那への年礼を主とした。現在は3ヵ院17坊が一山を支える。
文化財
重要文化財
本堂(附:厨子1基)
元和4年(1618年)最上氏により築造。桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、茅葺。明治41年(1908年)、当時の古社寺保存法により特別保護建造物(現行法の「重要文化財」に相当)に指定。近年では、昭和28年(1953年)に半解体修理が行われたほか、令和4年(2022年)から令和6年(2024年)に茅葺屋根の葺き替え、屋根材の補修、天井絵の剥落止めが行われる。
本尊木造弥勒菩薩、釈迦如来坐像、地蔵菩薩坐像、不動明王立像、降三世明王立像、木造騎獅文殊菩薩、木造騎象普賢菩薩、十羅刹女像、木造二天王立像、木造如来坐像及び両脇侍立像、木造如来立像、木造菩薩坐像、木造力士立像などを安置する。
拝観
境内へは無料で入ることができるため、重要文化財である本堂・山門・三重塔などの外観は自由に拝観することができる。
受付 9時 - 16時
拝観料 700円(15名以上600円)
所在地
山形県寒河江市大字慈恩寺地籍31
慈恩寺の所在する旧慈恩寺村は江戸時代を通して慈恩寺の寺領であり[58]、1889年(明治22年)に町村制が発足すると日和田村・箕輪村と合併して醍醐村となった。1954年(昭和29年)、他の村とともに寒河江町と合併して寒河江市の一部となっている。
アクセス
JR奥羽本線天童駅から車25分。
JR左沢線羽前高松駅から徒歩20分、寒河江駅から車12分。
山形自動車道寒河江ICから車15分。
山形空港から車20分。
山交バス慈恩寺口バス停から徒歩20分。