明石城(あかしじょう)は日本の城。所在地は兵庫県明石市明石公園。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれた。別名、喜春城(きはるじょう、きしゅん-)、錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる。
坤櫓(左)と巽櫓(右)
沿革
江戸時代
1617年(元和3年)信濃松本藩主より明石藩主となった小笠原忠真は、明石城の西方、明石川河口西岸にあった船上城に入城した。譜代大名たる小笠原氏10万石の居城として城郭を建設するよう、同年に第2代・将軍徳川秀忠より築城命令された。この時の様子を『本田家記』によると、
元和六年午の春明石ニ新城を築可申旨、上意ニ而本多美濃守殿右近様御相談、地形見立言上可被成との儀ニ而美濃守明石ヘ両度御方々御見分塩見分塩屋与申処浜ニ少し入江有之ニ一所、亦明石より西かまか坂与申処高き岡あるに一処、又明石人丸山ニ一所御見立有之、御相談之上人丸山ニ極リ
− 本田家記(小笠原文庫蔵)
と記されている。この文中にある「元和六年」とは「元和四年」の誤記ではないかと思われ、「本多美濃守殿」とは当時姫路城の城主であった本多忠政の事である。この『本田家記』によると、徳川秀忠より築城命令があり、本多忠政と小笠原忠真は相談しながら(忠政は忠真の義父にあたる)、築城から町割りまで行った。当初検討された地は三ヵ所、塩屋町(現在の神戸市垂水区塩屋町周辺)、かにが坂(現在の明石市和坂周辺)と人丸山(赤松山)が検討されたが、人丸山には大きな池があり城の防備に役立つとして人丸山に定まった。徳川秀忠は旗本の都筑為政、村上吉正、建部政長らを普請奉行として派遣し、築城費として銀一千貫を支給した。
人丸山の地の利を利用し、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用し着工され、坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられている。また細川忠興書状には、忠興から忠真へ中津城天守を贈ったとあり、この部材も転用された。元和5年(1619年)正月から作事が始まり、元和6年(1620年)正月には小笠原忠真が船上城から移り住み、同年6月から城内の建物関係の工事が開始された。このとき天守は台石まで積まれたが、建てられなかった。
築城と並行して城下町の町割りも実施され、当時小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したと『赤石市中記』『播磨鑑』『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』など各史書に記録されている。
城の天守台
船上城からの移築とされる巽櫓
伏見城からの移築とされる坤櫓
櫓見学と交通
坤櫓は奇数月、巽櫓は偶数月に一般公開される。いずれも公開は1階部分だけで土日祝限定で天候によって中止されることもある。
電車でのアクセス
JR西日本 神戸線 明石駅
山陽電気鉄道 本線 山陽明石駅
徒歩約10分
車でのアクセス
第二神明道路 大蔵谷IC → 兵庫県道21号 → 兵庫県道52号 → 国道2号
周辺に有料駐車場多数有
別名 喜春城、錦江城
城郭構造 連郭梯郭混合式平山城
天守構造 なし(天守台はあり)
築城主 小笠原忠真
築城年 1618年(元和4年)
主な改修者 松平直常
主な城主 松平氏(越前系)
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 櫓、石垣、堀、移築門
指定文化財 国の重要文化財(巽櫓・坤櫓)、国の史跡
再建造物 土塀
位置 北緯34度39分10.07秒 東経134度59分30.47秒
2023年08月26日
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