極楽寺(ごくらくじ)は、岩手県北上市稲瀬町(旧江刺郡)にある真言宗智山派の寺院、および、その前身で平安時代に現在の国見山一帯に栄えた山岳仏教寺院。山号は国見山または金福山。
概要
北上市街地の東方、北上川東岸の国見山(244メートル)の山上および山麓一帯には仏堂や仏塔の遺跡が散在し、かつてこの地域に大規模な仏教伽藍の存在したことが明らかである。この寺院跡は「国見山廃寺跡」の名称で国の史跡に指定されている。『日本文徳天皇実録』の天安元年(857年)条に「陸奥国極楽寺、定額寺に預かり」云々の記述があり、この「極楽寺」は国見山廃寺を指すものと推定されている。この寺は平安時代初期の9世紀に創建され、発掘調査の結果から、10 - 11世紀に最盛期を迎えたと推定される。伝承では、坂上田村麻呂が異敵降伏のため毘沙門天を祀ったのが始まりであるという。
国見山南麓の谷奥には極楽寺の寺号を継承する小寺院が残っている。また極楽寺の近くにある如意輪寺、国見山北麓の立花毘沙門堂(万福寺)もかつての極楽寺の坊舎の跡と考えられている。立花毘沙門堂には木造毘沙門天立像と木造二天像(いずれも国の重要文化財)が安置されている。
所在地 岩手県北上市稲瀬町内門岡30
位置 北緯39度15分45.3秒 東経141度8分23.8秒
山号 国見山
宗派 真言宗智山派
本尊 阿弥陀如来
創建年 850年
札所等 岩手三十三観音霊場一番札所 江刺三十三観音霊場一番札所
文化財 銅竜頭 4頭、銅錫杖頭(重要文化財)
2024年02月15日
2024年02月14日
筑波山神社(つくばさんじんじゃ)は、茨城県つくば市筑波にある神社
筑波山神社(つくばさんじんじゃ)は、茨城県つくば市筑波にある神社。式内社(名神大社1座、小社1座)。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
筑波山神社 拝殿
概要
関東平野北東部、茨城県南西にそびえる筑波山を神体山として祀る神社であり、主要社殿は次の3箇所に形成されている。
男体山本殿 - 西峰頂上(男体山<なんたいさん>、標高871メートル)。
女体山本殿 - 東峰頂上(女体山<にょたいさん>、標高877メートル)。
拝殿 - 山腹(標高270メートル)。両本殿を遥拝する。
筑波山は西峰・東峰からなる双耳峰であり、筑波山神社本殿はその両山頂に1棟ずつ鎮座している。境内は広大で、筑波山南面の海抜270メートルの線(拝殿)以上を社地とし、その面積はおよそ354ヘクタールにも及ぶ。
南面中腹にある拝殿周辺には、門前町が形成されている。一般に「筑波山神社」という場合は、この拝殿周辺を指すことが多い。拝殿の西には筑波観光鉄道の筑波山ケーブルカーの宮脇駅があるほか、登山口も設けられており、参拝客のみならず登山客によっても賑わいを見せている。
筑波山は『常陸国風土記』に見える頃より神の山として信仰が深く、その神霊を祀る筑波山神社は公家・武家から崇敬が深い神社であった。また文化財では、太刀(銘吉宗)が国の重要文化財に指定されているほか、社殿数棟が茨城県・つくば市指定有形文化財に指定されている。
男体山本殿
女体山本殿
祭神
主祭神は次の2柱。
筑波男ノ神(つくばおのかみ、筑波男大神)
男体山の神。人格神を伊弉諾尊(いざなぎのみこと)とする。
筑波女ノ神(つくばめのかみ、筑波女大神)
女体山の神。人格神を伊弉冊尊(いざなみのみこと)とする。
本殿の神体は神衣(かんみそ)で、御座替祭で取り替えられる。なお『明治神社誌料』では神鏡とする。
伊弉諾尊・伊弉冊尊2神は結婚し、多くの神々を産みまた国産みをしたことから、縁結び・夫婦和合・家内安全・子授け・子育て等のご利益があるとして信仰される。また交通安全、工事安全等のご利益があるともされている。
現地情報
所在地
拝殿・社務所:茨城県つくば市筑波1番地
交通アクセス
バス
つくばエクスプレス つくば駅(つくばセンター)から、筑波山(直行)シャトルバスで「筑波山神社入口」バス停下車 (乗車時間約40分、下車後徒歩約10分)
山麓の筑波山口バスターミナルから、関東鉄道バスで「筑波山神社入口」バス停下車 (乗車時間約15分、下車後徒歩約10分)
車
駐車場は直営・公営・私営ともに料金500円程度。ただし、筑波山神社有料駐車場は1時間無料で利用可能[44]である。最遠のつくば市営第一駐車場は無料開放(筑波山梅林の季節以外)されているが、車通りの多い県道沿いを長く歩く必要がある。
所在地 茨城県つくば市筑波1番地
位置 男体山本殿
北緯36度13分32.50秒 東経140度5分54.70秒
女体山本殿
北緯36度13分31.67秒 東経140度6分23.97秒
拝殿
北緯36度12分49.25秒 東経140度6分4.72秒
主祭神 筑波男ノ神(伊弉諾尊)
筑波女ノ神(伊弉冊尊)
神体 神衣(本殿)
筑波山(神体山)
社格等 式内社(名神大1座、小1座)
旧県社
別表神社
創建 不詳(有史以前)
本殿の様式 一間社流造2棟
例祭 4月1日・11月1日(御座替祭)
筑波山神社 拝殿
概要
関東平野北東部、茨城県南西にそびえる筑波山を神体山として祀る神社であり、主要社殿は次の3箇所に形成されている。
男体山本殿 - 西峰頂上(男体山<なんたいさん>、標高871メートル)。
女体山本殿 - 東峰頂上(女体山<にょたいさん>、標高877メートル)。
拝殿 - 山腹(標高270メートル)。両本殿を遥拝する。
筑波山は西峰・東峰からなる双耳峰であり、筑波山神社本殿はその両山頂に1棟ずつ鎮座している。境内は広大で、筑波山南面の海抜270メートルの線(拝殿)以上を社地とし、その面積はおよそ354ヘクタールにも及ぶ。
南面中腹にある拝殿周辺には、門前町が形成されている。一般に「筑波山神社」という場合は、この拝殿周辺を指すことが多い。拝殿の西には筑波観光鉄道の筑波山ケーブルカーの宮脇駅があるほか、登山口も設けられており、参拝客のみならず登山客によっても賑わいを見せている。
筑波山は『常陸国風土記』に見える頃より神の山として信仰が深く、その神霊を祀る筑波山神社は公家・武家から崇敬が深い神社であった。また文化財では、太刀(銘吉宗)が国の重要文化財に指定されているほか、社殿数棟が茨城県・つくば市指定有形文化財に指定されている。
男体山本殿
女体山本殿
祭神
主祭神は次の2柱。
筑波男ノ神(つくばおのかみ、筑波男大神)
男体山の神。人格神を伊弉諾尊(いざなぎのみこと)とする。
筑波女ノ神(つくばめのかみ、筑波女大神)
女体山の神。人格神を伊弉冊尊(いざなみのみこと)とする。
本殿の神体は神衣(かんみそ)で、御座替祭で取り替えられる。なお『明治神社誌料』では神鏡とする。
伊弉諾尊・伊弉冊尊2神は結婚し、多くの神々を産みまた国産みをしたことから、縁結び・夫婦和合・家内安全・子授け・子育て等のご利益があるとして信仰される。また交通安全、工事安全等のご利益があるともされている。
現地情報
所在地
拝殿・社務所:茨城県つくば市筑波1番地
交通アクセス
バス
つくばエクスプレス つくば駅(つくばセンター)から、筑波山(直行)シャトルバスで「筑波山神社入口」バス停下車 (乗車時間約40分、下車後徒歩約10分)
山麓の筑波山口バスターミナルから、関東鉄道バスで「筑波山神社入口」バス停下車 (乗車時間約15分、下車後徒歩約10分)
車
駐車場は直営・公営・私営ともに料金500円程度。ただし、筑波山神社有料駐車場は1時間無料で利用可能[44]である。最遠のつくば市営第一駐車場は無料開放(筑波山梅林の季節以外)されているが、車通りの多い県道沿いを長く歩く必要がある。
所在地 茨城県つくば市筑波1番地
位置 男体山本殿
北緯36度13分32.50秒 東経140度5分54.70秒
女体山本殿
北緯36度13分31.67秒 東経140度6分23.97秒
拝殿
北緯36度12分49.25秒 東経140度6分4.72秒
主祭神 筑波男ノ神(伊弉諾尊)
筑波女ノ神(伊弉冊尊)
神体 神衣(本殿)
筑波山(神体山)
社格等 式内社(名神大1座、小1座)
旧県社
別表神社
創建 不詳(有史以前)
本殿の様式 一間社流造2棟
例祭 4月1日・11月1日(御座替祭)
2024年02月13日
太宰治記念館 「斜陽館」(だざいおさむきねんかん しゃようかん)は、青森県五所川原市にある小説家太宰治の生家
太宰治記念館 「斜陽館」(だざいおさむきねんかん しゃようかん)は、青森県五所川原市にある小説家太宰治の生家。現在は、五所川原市太宰治記念館「斜陽館」として、五所川原市立の施設となっている。また、近代和風住宅の代表例として2004年(平成16年)国の重要文化財に指定されている。
太宰治記念館 「斜陽館」旧津島家住宅
概要
建物は1907年(明治40年)に太宰の父で衆議院議員であった津島源右衛門によって立てられたもの。当時の住所は青森県北津軽郡金木村。
太宰が中学進学に伴い1923年(大正12年)に青森市へ転居するまでこの家で暮らした。東京へ出た後、共産党の非合法活動に協力したり、何度か心中を繰り返したため郷里から勘当された。勘気を許されてこの家に戻る事が許されたのは、1942年(昭和17年)に太宰の母タネが亡くなった後である。その後1945年(昭和20年)、太宰は戦況悪化に伴い妻子を連れて疎開。翌年までこの地にとどまり、文筆活動を続ける。小説『思ひ出』や『津軽』等には太宰がこの家に対して抱いたイメージが記されている。
太宰の死後1950年(昭和25年)に津島家はこの家を売却[1]。町内の旅館経営者が買収し太宰治文学記念館を併設した旅館として改装され太宰の小説『斜陽』から「斜陽館」と命名された[1]。1950年から営業をはじめた旅館「斜陽館」は太宰ファンが多く宿泊に訪れており、中には喫茶店も併設されていた。また文学記念館は宿泊者以外にも公開され、多くの太宰ファンでにぎわった。
しかし、1988年(昭和63年)ごろから宿泊客が減少し、さらに1990年(平成2年)に所得税の申告漏れにより1億円あまりの追徴課税を受けたため経営が悪化。これにより、経営者が手放す旨を発表した。これに対して、1996年(平成8年)金木町(当時)は経営者から斜陽館を買い取り、町営の文学記念館として再出発することになった。旅館は1996年4月7日に廃業し、1998年(平成10年)、名称が現在の《太宰治記念館 「斜陽館」》と改められて改装オープンした。新しく改装された斜陽館では従来のような宿泊は出来なくなったものの太宰の文学資料、また昭和初期の大地主であった津島家の貴重な資料を展示する資料館として多くの観光客、太宰ファンが訪れている。
2階応接室
交通アクセス
津軽鉄道線金木駅下車、徒歩約7分。
弘南バス小泊線「斜陽館前」下車。
1階内部、手前の室は「常居」
所在地 青森県五所川原市金木町朝日山412-1
位置 北緯40度54分9.36秒 東経140度27分19.41秒
類型 大地主邸宅
形式・構造 木造2階建、入母屋造、和洋折衷建築
敷地面積 2255.55m2
延床面積 1302.48m2
建築年 1907年(明治40年)
文化財 国の重要文化財
太宰治記念館 「斜陽館」旧津島家住宅
概要
建物は1907年(明治40年)に太宰の父で衆議院議員であった津島源右衛門によって立てられたもの。当時の住所は青森県北津軽郡金木村。
太宰が中学進学に伴い1923年(大正12年)に青森市へ転居するまでこの家で暮らした。東京へ出た後、共産党の非合法活動に協力したり、何度か心中を繰り返したため郷里から勘当された。勘気を許されてこの家に戻る事が許されたのは、1942年(昭和17年)に太宰の母タネが亡くなった後である。その後1945年(昭和20年)、太宰は戦況悪化に伴い妻子を連れて疎開。翌年までこの地にとどまり、文筆活動を続ける。小説『思ひ出』や『津軽』等には太宰がこの家に対して抱いたイメージが記されている。
太宰の死後1950年(昭和25年)に津島家はこの家を売却[1]。町内の旅館経営者が買収し太宰治文学記念館を併設した旅館として改装され太宰の小説『斜陽』から「斜陽館」と命名された[1]。1950年から営業をはじめた旅館「斜陽館」は太宰ファンが多く宿泊に訪れており、中には喫茶店も併設されていた。また文学記念館は宿泊者以外にも公開され、多くの太宰ファンでにぎわった。
しかし、1988年(昭和63年)ごろから宿泊客が減少し、さらに1990年(平成2年)に所得税の申告漏れにより1億円あまりの追徴課税を受けたため経営が悪化。これにより、経営者が手放す旨を発表した。これに対して、1996年(平成8年)金木町(当時)は経営者から斜陽館を買い取り、町営の文学記念館として再出発することになった。旅館は1996年4月7日に廃業し、1998年(平成10年)、名称が現在の《太宰治記念館 「斜陽館」》と改められて改装オープンした。新しく改装された斜陽館では従来のような宿泊は出来なくなったものの太宰の文学資料、また昭和初期の大地主であった津島家の貴重な資料を展示する資料館として多くの観光客、太宰ファンが訪れている。
2階応接室
交通アクセス
津軽鉄道線金木駅下車、徒歩約7分。
弘南バス小泊線「斜陽館前」下車。
1階内部、手前の室は「常居」
所在地 青森県五所川原市金木町朝日山412-1
位置 北緯40度54分9.36秒 東経140度27分19.41秒
類型 大地主邸宅
形式・構造 木造2階建、入母屋造、和洋折衷建築
敷地面積 2255.55m2
延床面積 1302.48m2
建築年 1907年(明治40年)
文化財 国の重要文化財
2024年02月12日
天徳寺(てんとくじ)は、秋田県秋田市にある曹洞宗の寺院
天徳寺(てんとくじ)は、秋田県秋田市にある曹洞宗の寺院。本尊は聖観音。久保田藩(秋田藩)主佐竹家の菩提寺である。秋田県指定史跡。
歴史
1462年(寛正3年)、当時の佐竹家当主佐竹義人(義憲)が夫人(佐竹義盛娘)を弔うため、常陸国久慈郡太田村(茨城県常陸太田市)に創建した。1590年(天正18年)、水戸霊松山(水戸市宮町、現在の水戸東照宮所在地)へ移転。1602年(慶長7年)、佐竹家の転封に伴い、出羽国秋田郡楢山村の楢山(現在の金照寺山)に移る。
1624年(寛永元年)12月27日、火災により総門を残して全焼したため、翌年5月に現在地である秋田郡泉村の泉山に移された。この際、焼失を免れた総門も移築されている。その後1676年(延宝4年)12月[1]に再び火災が起こり、総門と山門を残して全焼。9年の月日をかけて再建され、現在に至る。
また1672年(寛文12年)には本堂西の墓所に佐竹家の霊屋(たまや)が建てられ、歴代久保田藩主と夫人の霊が祀られている。1998年(平成10年)東京の総泉寺にあった正室や側室などの墓も移された。
平成初期(1990年)に本堂、書院、山門、総門の4棟と佐竹家霊屋が重要文化財に指定された他、「十六羅漢像」など多くの寺宝が秋田県・秋田市の文化財に指定されている。これらの寺宝は毎年8月17日・8月18日に虫干しを兼ねて無料で一般公開される。
文化財
重要文化財
本堂 - 1687年(貞享4年)の建立。入母屋造、茅葺き、間口約30メートルの大建築。内部は左右4室・前後2列の8室に分かれ、前面に板敷きの内縁がある。建物の正面右側に玄関、背面左側に開山堂が付属する。
書院 - 本堂の東に接する。本堂より時代が下り、1806年(文化3年)の建立。寄棟造、鉄板葺き。藩主の墓参時の休憩に用いられた上段の間がある。
山門 - 1709年(宝永6年)の建立。三間一戸(柱間が3間で中央1間を通路とする)、瓦葺きの楼門(2階建て門)。
総門 - 境内入口に建つ。切妻造瓦葺きの四脚門。本堂等から離れて建つため1676年(延宝4年)の火災をまぬがれたものと思われ、寺が常陸から秋田へ移転した慶長年間(17世紀初頭)の建立と推定される。
佐竹家霊屋 - 本堂西側の墓域にある。入母屋造、鉄板葺き。歴代秋田藩主の霊を祀る建物で、3代藩主佐竹義処(よしずみ)が1672年(寛文12年)に建立した。
所在地
秋田県秋田市泉三嶽根10-1
交通アクセス
JR東日本秋田駅西口バスターミナル8番線から、秋田中央交通バス『添川線』『神田旭野線』『神田土崎線』にて約15分、天徳寺前バス停下車
JR東日本泉外旭川駅・外旭川駅前広場から、秋田中央交通バス『神田旭野線』『神田土崎線』にて約5分、天徳寺前バス停下車
位置 北緯39度44分19.19秒 東経140度7分12.09秒
山号 萬固山
宗派 曹洞宗
本尊 聖観音
創建年 1462年(寛正3年)常陸太田に建立
開基 佐竹義人
中興年 1602年(慶長7年)秋田に移転
中興 佐竹義宣
文化財 本堂、書院、山門、総門、佐竹家霊屋(重要文化財)
歴史
1462年(寛正3年)、当時の佐竹家当主佐竹義人(義憲)が夫人(佐竹義盛娘)を弔うため、常陸国久慈郡太田村(茨城県常陸太田市)に創建した。1590年(天正18年)、水戸霊松山(水戸市宮町、現在の水戸東照宮所在地)へ移転。1602年(慶長7年)、佐竹家の転封に伴い、出羽国秋田郡楢山村の楢山(現在の金照寺山)に移る。
1624年(寛永元年)12月27日、火災により総門を残して全焼したため、翌年5月に現在地である秋田郡泉村の泉山に移された。この際、焼失を免れた総門も移築されている。その後1676年(延宝4年)12月[1]に再び火災が起こり、総門と山門を残して全焼。9年の月日をかけて再建され、現在に至る。
また1672年(寛文12年)には本堂西の墓所に佐竹家の霊屋(たまや)が建てられ、歴代久保田藩主と夫人の霊が祀られている。1998年(平成10年)東京の総泉寺にあった正室や側室などの墓も移された。
平成初期(1990年)に本堂、書院、山門、総門の4棟と佐竹家霊屋が重要文化財に指定された他、「十六羅漢像」など多くの寺宝が秋田県・秋田市の文化財に指定されている。これらの寺宝は毎年8月17日・8月18日に虫干しを兼ねて無料で一般公開される。
文化財
重要文化財
本堂 - 1687年(貞享4年)の建立。入母屋造、茅葺き、間口約30メートルの大建築。内部は左右4室・前後2列の8室に分かれ、前面に板敷きの内縁がある。建物の正面右側に玄関、背面左側に開山堂が付属する。
書院 - 本堂の東に接する。本堂より時代が下り、1806年(文化3年)の建立。寄棟造、鉄板葺き。藩主の墓参時の休憩に用いられた上段の間がある。
山門 - 1709年(宝永6年)の建立。三間一戸(柱間が3間で中央1間を通路とする)、瓦葺きの楼門(2階建て門)。
総門 - 境内入口に建つ。切妻造瓦葺きの四脚門。本堂等から離れて建つため1676年(延宝4年)の火災をまぬがれたものと思われ、寺が常陸から秋田へ移転した慶長年間(17世紀初頭)の建立と推定される。
佐竹家霊屋 - 本堂西側の墓域にある。入母屋造、鉄板葺き。歴代秋田藩主の霊を祀る建物で、3代藩主佐竹義処(よしずみ)が1672年(寛文12年)に建立した。
所在地
秋田県秋田市泉三嶽根10-1
交通アクセス
JR東日本秋田駅西口バスターミナル8番線から、秋田中央交通バス『添川線』『神田旭野線』『神田土崎線』にて約15分、天徳寺前バス停下車
JR東日本泉外旭川駅・外旭川駅前広場から、秋田中央交通バス『神田旭野線』『神田土崎線』にて約5分、天徳寺前バス停下車
位置 北緯39度44分19.19秒 東経140度7分12.09秒
山号 萬固山
宗派 曹洞宗
本尊 聖観音
創建年 1462年(寛正3年)常陸太田に建立
開基 佐竹義人
中興年 1602年(慶長7年)秋田に移転
中興 佐竹義宣
文化財 本堂、書院、山門、総門、佐竹家霊屋(重要文化財)
2024年02月11日
安宅住吉神社(あたかすみよしじんじゃ)は、石川県小松市安宅町、日本海沿岸に鎮座する神社
安宅住吉神社(あたかすみよしじんじゃ)は、石川県小松市安宅町、日本海沿岸に鎮座する神社。
境内に安宅の関址があり、「安宅」「勧進帳」にも取り上げられた伝承から、難関突破の神として知られる。
祭神
主祭神:住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)
相殿神:別雷神・少彦名命
境内社
金比羅社
稲荷社
関ノ宮
由緒
かつては安宅住吉大明神・二宮住吉大明神・住吉宮とも称した。天応2年(782年)創建の古社で、当初は琴佩山に鎮座していたが、天暦2年(948年)に鷹降山、天正5年(1577年)小倉野へと遷座を重ね、現在の二堂山に落ち着いたのは正保4年(1647年)のことである。海陸ともに北陸道の要所でもあり、永く旅人の崇敬を集めた。
主な祭礼
元旦祭 - 1月1日
紀元祭・大漁祈願祭 - 2月11日
祈年祭・鎮火祭 - 3月10日
大祓式 - 6月30日
例大祭(安宅まつり) - 9月7日〜9日
安宅新嘗祭 - 11月30日
大祓祭 - 12月31日
交通
小松バス安宅線 関跡前下車 徒歩5分
北陸自動車道小松ICから梯川を渡って1km
所在地 石川県小松市安宅町タ17
位置 北緯36度25分09秒 東経136度25分05秒
主祭神 住吉三神
例祭 9月7日・8日・9日
境内に安宅の関址があり、「安宅」「勧進帳」にも取り上げられた伝承から、難関突破の神として知られる。
祭神
主祭神:住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)
相殿神:別雷神・少彦名命
境内社
金比羅社
稲荷社
関ノ宮
由緒
かつては安宅住吉大明神・二宮住吉大明神・住吉宮とも称した。天応2年(782年)創建の古社で、当初は琴佩山に鎮座していたが、天暦2年(948年)に鷹降山、天正5年(1577年)小倉野へと遷座を重ね、現在の二堂山に落ち着いたのは正保4年(1647年)のことである。海陸ともに北陸道の要所でもあり、永く旅人の崇敬を集めた。
主な祭礼
元旦祭 - 1月1日
紀元祭・大漁祈願祭 - 2月11日
祈年祭・鎮火祭 - 3月10日
大祓式 - 6月30日
例大祭(安宅まつり) - 9月7日〜9日
安宅新嘗祭 - 11月30日
大祓祭 - 12月31日
交通
小松バス安宅線 関跡前下車 徒歩5分
北陸自動車道小松ICから梯川を渡って1km
所在地 石川県小松市安宅町タ17
位置 北緯36度25分09秒 東経136度25分05秒
主祭神 住吉三神
例祭 9月7日・8日・9日
2024年02月10日
伊豆木陣屋(いずきじんや)は長野県飯田市伊豆木(信濃国伊那郡)にあった交代寄合旗本の小笠原氏1千石の陣屋
伊豆木陣屋(いずきじんや)は長野県飯田市伊豆木(信濃国伊那郡)にあった交代寄合旗本の小笠原氏1千石の陣屋である。
概要
陣屋は慶長5年(1600年)に松尾小笠原氏の小笠原信嶺の弟で交代寄合旗本となった小笠原長巨(ながなお)によって築かれた。徳川家康の命で武蔵国本庄から転封となり、中世の山城である伊豆木城の麓に陣屋を構えた。
陣屋は居間、書院を中心に土蔵、厩舎などがあった。陣屋入り口には物見櫓があり、陣屋門として太鼓門があった。太鼓門は現在、飯田市伝馬町の専照寺の山門となっている。
陣屋の南側を取り巻くように兄川が流れている。小笠原氏の築いた陣屋にて明治維新を迎えている。交代寄合は江戸城柳の間詰で、老中・若年寄の支配を受けたが、妻子は諸大名とは異なり在所で生活することが許された。
遺構
明治以降、建物が取り壊される中で書院(旧小笠原家書院)と玄関が現存している。陣屋址には旧陣屋門と物見櫓の石垣が残っている。
旧小笠原家書院
江戸時代初期の寛永年間ごろの懸造りによる武家書院。南の約3分の1が崖の上に迫り出した構造で、正面には、桁ゆき3.43m、梁間3.73mの唐破風造りの玄関があり、虹梁上に家紋の三階菱を装飾した蟇股が据え付けられており、屋根はこけら葺きである。書院の内部は桁ゆき14.4m、梁ゆき11.5mで、「田の字」型に4室に分けられ、北側を除く3方に側縁を巡らせている。用材は恵那山一帯の総ヒノキ造りである。展示品には室町時代の白輿や、太鼓門外に掛けられていた文政2年(1819年)の目安箱、伊豆木人形の頭などがある。
1872年に書院、玄関、室蔵一棟を残して解体された。1952年に国の重要文化財に指定され、1969年から翌年にかけて文化庁により半解体修復された。
併設の小笠原資料館は1999年に開館、設計はSANAAが手掛けている。
概要
陣屋は慶長5年(1600年)に松尾小笠原氏の小笠原信嶺の弟で交代寄合旗本となった小笠原長巨(ながなお)によって築かれた。徳川家康の命で武蔵国本庄から転封となり、中世の山城である伊豆木城の麓に陣屋を構えた。
陣屋は居間、書院を中心に土蔵、厩舎などがあった。陣屋入り口には物見櫓があり、陣屋門として太鼓門があった。太鼓門は現在、飯田市伝馬町の専照寺の山門となっている。
陣屋の南側を取り巻くように兄川が流れている。小笠原氏の築いた陣屋にて明治維新を迎えている。交代寄合は江戸城柳の間詰で、老中・若年寄の支配を受けたが、妻子は諸大名とは異なり在所で生活することが許された。
遺構
明治以降、建物が取り壊される中で書院(旧小笠原家書院)と玄関が現存している。陣屋址には旧陣屋門と物見櫓の石垣が残っている。
旧小笠原家書院
江戸時代初期の寛永年間ごろの懸造りによる武家書院。南の約3分の1が崖の上に迫り出した構造で、正面には、桁ゆき3.43m、梁間3.73mの唐破風造りの玄関があり、虹梁上に家紋の三階菱を装飾した蟇股が据え付けられており、屋根はこけら葺きである。書院の内部は桁ゆき14.4m、梁ゆき11.5mで、「田の字」型に4室に分けられ、北側を除く3方に側縁を巡らせている。用材は恵那山一帯の総ヒノキ造りである。展示品には室町時代の白輿や、太鼓門外に掛けられていた文政2年(1819年)の目安箱、伊豆木人形の頭などがある。
1872年に書院、玄関、室蔵一棟を残して解体された。1952年に国の重要文化財に指定され、1969年から翌年にかけて文化庁により半解体修復された。
併設の小笠原資料館は1999年に開館、設計はSANAAが手掛けている。
2024年02月09日
大法寺(だいほうじ)は、富山県高岡市にある日蓮宗の寺院
大法寺(だいほうじ)は、富山県高岡市にある日蓮宗の寺院。山号は、海秀山。旧本山は大本山本圀寺(六条門流)。潮師法縁。
歴史
享徳3年(1454年)、栄昌院日能(妙勝院日曉の弟子)が越中国開教の拠点として創建。
明治10年(1877年)の高岡大火で焼失後再建。
文化財
重要文化財
紙本著色一塔両尊像・紙本著色日蓮像・紙本著色鬼子母神十羅刹女像・絹本著色三十番神像(4幅一括指定)
以上の4幅の仏画は日蓮宗の本尊像・祖師像・護法神像である。いずれも長谷川等伯の作で、等伯が上洛する前、故郷の能登で長谷川信春と名乗っていた時の作品である。三十番神像は永禄9年(1566年)、他の3幅は永禄7年(1564年)の作。
一塔両尊像
日蓮像
鬼子母神十羅刹女像
三十番神像
旧末寺
日蓮宗は昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。
宝珠山義常教会(射水市八幡町)
本涌山法泉寺(射水市久々湊)
光永山日澄寺(射水市戸破)
所在地 富山県高岡市利屋町67
位置 北緯36度44分48.041秒 東経137度0分26.788秒
山号 海秀山
宗旨 日蓮宗
文化財 紙本著色一塔両尊像・紙本著色日蓮像・紙本著色鬼子母神十羅刹女像・絹本著色三十番神像(重要文化財)
歴史
享徳3年(1454年)、栄昌院日能(妙勝院日曉の弟子)が越中国開教の拠点として創建。
明治10年(1877年)の高岡大火で焼失後再建。
文化財
重要文化財
紙本著色一塔両尊像・紙本著色日蓮像・紙本著色鬼子母神十羅刹女像・絹本著色三十番神像(4幅一括指定)
以上の4幅の仏画は日蓮宗の本尊像・祖師像・護法神像である。いずれも長谷川等伯の作で、等伯が上洛する前、故郷の能登で長谷川信春と名乗っていた時の作品である。三十番神像は永禄9年(1566年)、他の3幅は永禄7年(1564年)の作。
一塔両尊像
日蓮像
鬼子母神十羅刹女像
三十番神像
旧末寺
日蓮宗は昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。
宝珠山義常教会(射水市八幡町)
本涌山法泉寺(射水市久々湊)
光永山日澄寺(射水市戸破)
所在地 富山県高岡市利屋町67
位置 北緯36度44分48.041秒 東経137度0分26.788秒
山号 海秀山
宗旨 日蓮宗
文化財 紙本著色一塔両尊像・紙本著色日蓮像・紙本著色鬼子母神十羅刹女像・絹本著色三十番神像(重要文化財)
2024年02月07日
岡本家住宅(おかもとけじゅうたく)は、栃木県宇都宮市下岡本町にある、日本の民家
岡本家住宅(おかもとけじゅうたく)は、栃木県宇都宮市下岡本町にある、日本の民家。岡本家は江戸時代に庄屋格組頭を務めた家系で、現存する主屋は18世紀後半頃の建築である。岡本家住宅(栃木県河内郡河内町) 主屋および岡本家住宅(栃木県河内郡河内町) 表門の名称で1968年(昭和43年)に日本国の重要文化財に指定されている。
建築
建物は私有で、岡本家が管理している。見学を希望する場合は、宇都宮市教育委員会の文化課へ問い合わせを要する。
家伝によると、岡本家は乙畑(現・矢板市乙畑)の地を古河公方に譲り、天正(1573年 - 1592年)の頃に下岡本へ移ってきたとされ、武士を出自とする最上層農民であった。岡本家は河内郷に3人いた組頭のうちの1人で、河内郷は新田開発により江戸時代初期に13村程度だったものが、末期には24村に増加した。このため、組頭でありながら、他村における庄屋並みの職務・職責を負っていたとされる。同じく栃木県にある入野家住宅(市貝町)とは距離が近く、間取りが似通っており、藩政期の村役格の住宅を知る上で貴重な建築の1つである。
主屋と表門は、1968年(昭和43年)4月25日に日本国の重要文化財に指定されている。また、うつのみや百景の1つ(108番)に選ばれている。
家伝薬
岡本家は享保年間(1716年 - 1736年)に延寿救命丸などの家伝薬の製造を開始し、江戸時代には下野国のみならず常陸国まで販路を開拓していた。延寿救命丸の製造の最盛期は文化文政期(1804年 - 1830年)頃で、退邪散・理中丸・全治膏など全20種の薬を造っていた。その後も家庭薬として需要があり、第二次世界大戦を機に取りやめるまで製造を続けた。
調合道具(薬さじ、薬研、乳鉢など)、薬用棒秤、看板、朱印、書籍・古文書、効能を記した紙など製薬に係る資料は「栃木県の民間医療史研究のための貴重な資料」として栃木県の有形民俗文化財に指定されている。文化財としての名称は岡本家家伝薬関係 遺品一式(おかもとけかでんやくかんけい いひんいっしき)で、1971年(昭和46年)5月14日にまず108点が指定され、1979年(昭和54年)8月28日に家伝薬広告版木など14点が追加指定された。
所在地 栃木県宇都宮市下岡本町1624-1
位置 北緯36度35分37.3秒 東経139度57分04.4秒
類型 農家
形式・構造 曲り家、寄棟造、茅葺き
延床面積 231 m2
建築年 18世紀後半
文化財 重要文化財(国建第1678号)
建築
建物は私有で、岡本家が管理している。見学を希望する場合は、宇都宮市教育委員会の文化課へ問い合わせを要する。
家伝によると、岡本家は乙畑(現・矢板市乙畑)の地を古河公方に譲り、天正(1573年 - 1592年)の頃に下岡本へ移ってきたとされ、武士を出自とする最上層農民であった。岡本家は河内郷に3人いた組頭のうちの1人で、河内郷は新田開発により江戸時代初期に13村程度だったものが、末期には24村に増加した。このため、組頭でありながら、他村における庄屋並みの職務・職責を負っていたとされる。同じく栃木県にある入野家住宅(市貝町)とは距離が近く、間取りが似通っており、藩政期の村役格の住宅を知る上で貴重な建築の1つである。
主屋と表門は、1968年(昭和43年)4月25日に日本国の重要文化財に指定されている。また、うつのみや百景の1つ(108番)に選ばれている。
家伝薬
岡本家は享保年間(1716年 - 1736年)に延寿救命丸などの家伝薬の製造を開始し、江戸時代には下野国のみならず常陸国まで販路を開拓していた。延寿救命丸の製造の最盛期は文化文政期(1804年 - 1830年)頃で、退邪散・理中丸・全治膏など全20種の薬を造っていた。その後も家庭薬として需要があり、第二次世界大戦を機に取りやめるまで製造を続けた。
調合道具(薬さじ、薬研、乳鉢など)、薬用棒秤、看板、朱印、書籍・古文書、効能を記した紙など製薬に係る資料は「栃木県の民間医療史研究のための貴重な資料」として栃木県の有形民俗文化財に指定されている。文化財としての名称は岡本家家伝薬関係 遺品一式(おかもとけかでんやくかんけい いひんいっしき)で、1971年(昭和46年)5月14日にまず108点が指定され、1979年(昭和54年)8月28日に家伝薬広告版木など14点が追加指定された。
所在地 栃木県宇都宮市下岡本町1624-1
位置 北緯36度35分37.3秒 東経139度57分04.4秒
類型 農家
形式・構造 曲り家、寄棟造、茅葺き
延床面積 231 m2
建築年 18世紀後半
文化財 重要文化財(国建第1678号)
2024年02月06日
切幡寺(きりはたじ)は徳島県阿波市市場町切幡にある高野山真言宗の寺院
切幡寺(きりはたじ)は徳島県阿波市市場町切幡にある高野山真言宗の寺院。得度山(とくどざん)灌頂院(かんじょういん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所第十番札所、阿波西国三十三観音霊場(東部)第28番札所。
本尊真言:おん ばさら たらま きりく
ご詠歌:欲心をただ一筋に切幡寺 後の世までの障(さわ)りとぞなる
納経印:当寺本尊、奥之院八祖大師
歴史
寺伝によれば、修行中の空海(弘法大師)が、着物がほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、娘は織りかけの布を惜しげもなく切りさいて差し出した。これに感激した空海が娘の願いを聞くと、父母の供養のため千手観音を彫ってほしいとのことであった。そこで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘はたちまち七色の光を放ち即身成仏して千手観音の姿になったという。
空海はこのことを嵯峨天皇に伝えたところ、勅願によって堂宇を建立、空海の彫った千手観音を南向きに、娘が即身成仏した千手観音を北向きに安置し本尊として開基したという。山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる。
往時は堂塔伽藍二十四坊を抱えていたが、天正年間(1573年 – 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失し、明治42年に再び火災によって大塔以外を焼失している[2]。その後に再建されたのが現在の伽藍である。
はたきり観音
文化財
重要文化財
大塔:桃山時代1607年、明治15年移築、本瓦葺、高さ24.168 m、昭和50年6月23日指定。
交通案内
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 徳島線 – 阿波川島駅下車 (6.3 km)、学駅下車 (6.5 km)
道路
一般道:徳島県道139号船戸切幡上板線 切幡古田 (0.6 km)
自動車道:土成IC (7.9 km)
大塔
所在地 徳島県阿波市市場町切幡129
位置 北緯34度6分27.9秒 東経134度18分15.4秒
山号 得度山
院号 灌頂院
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
本尊 千手観世音菩薩
創建年 (伝)弘仁年間(810年 – 824年)
開基 (伝)空海(弘法大師)
正式名 得度山灌頂院切幡寺
別称 幡切り観音
札所等 四国八十八箇所10番
阿波西国三十三観音霊場(東部)第28番
文化財 大塔(国の重要文化財)
本尊真言:おん ばさら たらま きりく
ご詠歌:欲心をただ一筋に切幡寺 後の世までの障(さわ)りとぞなる
納経印:当寺本尊、奥之院八祖大師
歴史
寺伝によれば、修行中の空海(弘法大師)が、着物がほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、娘は織りかけの布を惜しげもなく切りさいて差し出した。これに感激した空海が娘の願いを聞くと、父母の供養のため千手観音を彫ってほしいとのことであった。そこで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘はたちまち七色の光を放ち即身成仏して千手観音の姿になったという。
空海はこのことを嵯峨天皇に伝えたところ、勅願によって堂宇を建立、空海の彫った千手観音を南向きに、娘が即身成仏した千手観音を北向きに安置し本尊として開基したという。山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる。
往時は堂塔伽藍二十四坊を抱えていたが、天正年間(1573年 – 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失し、明治42年に再び火災によって大塔以外を焼失している[2]。その後に再建されたのが現在の伽藍である。
はたきり観音
文化財
重要文化財
大塔:桃山時代1607年、明治15年移築、本瓦葺、高さ24.168 m、昭和50年6月23日指定。
交通案内
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 徳島線 – 阿波川島駅下車 (6.3 km)、学駅下車 (6.5 km)
道路
一般道:徳島県道139号船戸切幡上板線 切幡古田 (0.6 km)
自動車道:土成IC (7.9 km)
大塔
所在地 徳島県阿波市市場町切幡129
位置 北緯34度6分27.9秒 東経134度18分15.4秒
山号 得度山
院号 灌頂院
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
本尊 千手観世音菩薩
創建年 (伝)弘仁年間(810年 – 824年)
開基 (伝)空海(弘法大師)
正式名 得度山灌頂院切幡寺
別称 幡切り観音
札所等 四国八十八箇所10番
阿波西国三十三観音霊場(東部)第28番
文化財 大塔(国の重要文化財)
2024年02月05日
熊谷家住宅(くまがいけじゅうたく)は島根県大田市にある民家建築
熊谷家住宅(くまがいけじゅうたく)は島根県大田市にある民家建築である。
概要
古記録によれば、熊谷家はもと毛利家の家臣であったと伝え、17世紀には銀山の経営にかかわっていた。18世紀には掛屋(代官所の公金出納を行う)と御用達(代官所御用商人)を兼ね、19世紀には年寄職(町役人)を務めた家柄である。江戸時代末期からは酒造業も営んだ。現存する屋敷構えは、寛政12年(1800年)の大森町の大火で焼失した後、再建に取りかかり、明治初期にかけて順次整備されたものである。
大森町の町並みの北端近く、銀山へ通じる道の東側に位置し、敷地の背後には銀山川が流れる。敷地の西端、道路に面して主屋が建つ。主屋の北側には道路に接して北道具蔵、その東に小蔵、衣裳蔵が建つ。さらに敷地の東側に東道具蔵、南側に米蔵・雑蔵が建つ。当家には嘉永3年(1850年)の家相図、明治5年(1872年)の指図が残り、その当時の屋敷構えを知る資料となっている。これらの資料から、主屋と米蔵・雑蔵は前述の寛政12年(1800年)の火災後、文化年間(1804年 - 1817年)の完成とみられ、北道具蔵、小蔵、東道具蔵はその後1850年までの完成、衣裳蔵は1872年までの完成とみられる。
主屋は石州瓦の桟瓦葺きに漆喰壁の建物で、北面入母屋造、南面切妻造、四方庇付き、一部二階建とする。平面規模は桁行18.8メートル、梁間14.5メートル。主体部は南側が通り土間、北側は居室を2列に並べ、庭に面して1間幅の畳廊下をめぐらす。主体部の正面(西面)南側には物置が突出、北面東端には廊下を介して風呂場・便所が附属する。背面(東面)は南端と北端に突出部があり、前者には座敷・台所・風呂場、後者には衣装蔵に接続する蔵前座敷を設ける。本住宅は大森町では最大の民家であり、伝来する家相図等から屋敷構えの整備の過程がわかる点で貴重である。
1998年(平成10年)に国の重要文化財に指定。世界遺産の「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成資産の一つである。
所在地 島根県大田市大森町ハ63番地
位置 北緯35度7分14.3秒 東経132度26分50.8秒
類型 商家
建築年 1801年〜1868年
文化財 国の重要文化財(1998年指定)
概要
古記録によれば、熊谷家はもと毛利家の家臣であったと伝え、17世紀には銀山の経営にかかわっていた。18世紀には掛屋(代官所の公金出納を行う)と御用達(代官所御用商人)を兼ね、19世紀には年寄職(町役人)を務めた家柄である。江戸時代末期からは酒造業も営んだ。現存する屋敷構えは、寛政12年(1800年)の大森町の大火で焼失した後、再建に取りかかり、明治初期にかけて順次整備されたものである。
大森町の町並みの北端近く、銀山へ通じる道の東側に位置し、敷地の背後には銀山川が流れる。敷地の西端、道路に面して主屋が建つ。主屋の北側には道路に接して北道具蔵、その東に小蔵、衣裳蔵が建つ。さらに敷地の東側に東道具蔵、南側に米蔵・雑蔵が建つ。当家には嘉永3年(1850年)の家相図、明治5年(1872年)の指図が残り、その当時の屋敷構えを知る資料となっている。これらの資料から、主屋と米蔵・雑蔵は前述の寛政12年(1800年)の火災後、文化年間(1804年 - 1817年)の完成とみられ、北道具蔵、小蔵、東道具蔵はその後1850年までの完成、衣裳蔵は1872年までの完成とみられる。
主屋は石州瓦の桟瓦葺きに漆喰壁の建物で、北面入母屋造、南面切妻造、四方庇付き、一部二階建とする。平面規模は桁行18.8メートル、梁間14.5メートル。主体部は南側が通り土間、北側は居室を2列に並べ、庭に面して1間幅の畳廊下をめぐらす。主体部の正面(西面)南側には物置が突出、北面東端には廊下を介して風呂場・便所が附属する。背面(東面)は南端と北端に突出部があり、前者には座敷・台所・風呂場、後者には衣装蔵に接続する蔵前座敷を設ける。本住宅は大森町では最大の民家であり、伝来する家相図等から屋敷構えの整備の過程がわかる点で貴重である。
1998年(平成10年)に国の重要文化財に指定。世界遺産の「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成資産の一つである。
所在地 島根県大田市大森町ハ63番地
位置 北緯35度7分14.3秒 東経132度26分50.8秒
類型 商家
建築年 1801年〜1868年
文化財 国の重要文化財(1998年指定)