曲り家(まがりや)は、伝統的家屋(民家)の建築様式のひとつである。曲家、曲屋、曲り屋、曲がり屋、曲り家、曲がり家などの表記も用いられる。
曲り家(岩手県遠野市・遠野ふるさと村)
定義と形態
広義には、長方形平面の直屋(すごや)に対して、L字形平面の家屋をいう。母屋と厩(馬屋)がL字形に一体化していることから、「曲り家」と呼ばれる。
こうした伝統的家屋は全国各地に分布しているが、「狭義」とされ、また最も広く知られているのが「南部曲り家」である。南部曲り家と他のL字形家屋との違いについては、突出部に厩を持つ点で共通し、かつ分布域が接触する「中門造」との対比で説明される。中門口(突出部の先端に設けられた入口)をもたないことが、決定的な違いである。
遠野地方における、典型的な曲り家の間取り例
外観の特徴
屋根は本来茅葺で、本屋(母屋)は寄棟、突出部(厩側)は入母屋もしくは寄棟である。本屋と突出部の向きには、右厩タイプ(向かって右側が突出部)と左厩タイプがあり、遠野盆地周辺では後者が多い。
内部間取りの特徴
家畜飼養空間、作業・収納空間、居住空間の3つからなる。遠野盆地周辺では、東側が台所で、南側に厩(うまや)が母屋の下手に接続して突出し、台所の竃から排出された暖気が厩に流れ込み、飼育されている馬を温める仕組みになっていることが多い。
南部曲り家の残存・継承
残存している南部曲り家には、継続的に居宅として使用されているものと、近隣に新しい居宅が建てられた後に物置として使用されてきたものが見られる。これらは、曲り家での生活に対する積極的な意識、あるいは所有者の相対的な経済的困窮によって残存してきた。それらの多くは新たな生活様式にある程度適応させた改造がなされているが、中には茅葺屋根を維持している例も見られる。
遠野市にある「千葉家住宅」および「旧菊池家住宅」(遠野伝承園に市内の小友町から移築)は、国の重要文化財に指定されている。
遠野市の「遠野ふるさと村」や、盛岡市の「盛岡手づくり村」などの観光施設にも、移設復元された南部曲り家がある。
2022年08月29日
2022年08月28日
愛知県西尾市にある曹洞宗の寺院・金蓮寺(こんれんじ)
金蓮寺(こんれんじ)は、愛知県西尾市にある曹洞宗の寺院。山号は青龍山。本尊は不動明王。弥陀堂は国宝。
金蓮寺本堂
歴史
この寺の創建年代等については不詳であるが、もとは真言宗寺院光福寺の子院のひとつであったものを、暦応3年(1340年)足利尊氏が現在の場所に移し、青蓮山金蓮寺と号したという。江戸時代に入ると、この地の領主で江戸幕府の旗本である吉良氏の帰依を得、寛政年間(1789年 - 1801年)曹洞宗に改められた。
弥陀堂
金蓮寺弥陀堂は源頼朝が三河守護安達盛長に建てさせた「三河七御堂」の一であるとの伝承があるが、現存する弥陀堂は頼朝の時代よりはやや下った鎌倉時代中期の建立である。堂は方三間(桁行3間、梁間3間)、寄棟造、檜皮葺。平面形式は中尊寺金色堂に代表される一間四面阿弥陀堂の系譜を引くものであるが、内陣には四天柱を立てず、中心よりやや後退した位置に来迎柱を立て、来迎壁を設け、その前に須弥壇がある。壇上には阿弥陀三尊像を安置する。方三間の主体部の前面一間通りと向かって右側面の後寄り2間分には孫庇を設け、これらの上の屋根は縋破風(すがるはふ)とする。建物周囲にはさらに落縁をめぐらす。前述の2か所の孫庇のうち、右側面の部分は小部屋とする。正面側の孫庇は室内に取り込まれず、吹き放しとするが、外側の落縁よりは一段高く床板を張っている。柱上の組物は舟肘木を用い、柱間装置は正面3間をすべて蔀(しとみ)、側面と背面は板壁または板扉とする。垂木は地垂木を繁垂木(しげだるき)とし、飛檐垂木(ひえんだるき)は間隔を空けた疎垂木(まばらだるき)とする。この堂は、平面は平安期の阿弥陀堂の形式を基礎にしつつ、外観は蔀や疎垂木などに住宅風の意匠が用いられた特徴的な建築で、東海地方有数の古建築として貴重である。
国宝・弥陀堂
文化財
国宝
弥陀堂
愛知県指定有形文化財
木造阿弥陀如来及び両脇侍像
西尾市指定文化財
写経大般若経
木造阿弥陀如来及び両脇侍像
所在地
愛知県西尾市吉良町饗庭七度ヶ入1
所在地 愛知県西尾市吉良町饗庭七度ヶ入1
位置 北緯34度48分33.72秒 東経137度4分22.26秒
山号 青龍山
宗派 曹洞宗
本尊 不動明王
創建年 不詳
開基 不詳
中興年 暦応3年(1340年)
中興 足利尊氏
別称 あいば不動
札所等 三河三十三観音27番
東海三十六不動尊20番
文化財 弥陀堂(国宝)
木造阿弥陀如来坐像(県文化財)
金蓮寺本堂
歴史
この寺の創建年代等については不詳であるが、もとは真言宗寺院光福寺の子院のひとつであったものを、暦応3年(1340年)足利尊氏が現在の場所に移し、青蓮山金蓮寺と号したという。江戸時代に入ると、この地の領主で江戸幕府の旗本である吉良氏の帰依を得、寛政年間(1789年 - 1801年)曹洞宗に改められた。
弥陀堂
金蓮寺弥陀堂は源頼朝が三河守護安達盛長に建てさせた「三河七御堂」の一であるとの伝承があるが、現存する弥陀堂は頼朝の時代よりはやや下った鎌倉時代中期の建立である。堂は方三間(桁行3間、梁間3間)、寄棟造、檜皮葺。平面形式は中尊寺金色堂に代表される一間四面阿弥陀堂の系譜を引くものであるが、内陣には四天柱を立てず、中心よりやや後退した位置に来迎柱を立て、来迎壁を設け、その前に須弥壇がある。壇上には阿弥陀三尊像を安置する。方三間の主体部の前面一間通りと向かって右側面の後寄り2間分には孫庇を設け、これらの上の屋根は縋破風(すがるはふ)とする。建物周囲にはさらに落縁をめぐらす。前述の2か所の孫庇のうち、右側面の部分は小部屋とする。正面側の孫庇は室内に取り込まれず、吹き放しとするが、外側の落縁よりは一段高く床板を張っている。柱上の組物は舟肘木を用い、柱間装置は正面3間をすべて蔀(しとみ)、側面と背面は板壁または板扉とする。垂木は地垂木を繁垂木(しげだるき)とし、飛檐垂木(ひえんだるき)は間隔を空けた疎垂木(まばらだるき)とする。この堂は、平面は平安期の阿弥陀堂の形式を基礎にしつつ、外観は蔀や疎垂木などに住宅風の意匠が用いられた特徴的な建築で、東海地方有数の古建築として貴重である。
国宝・弥陀堂
文化財
国宝
弥陀堂
愛知県指定有形文化財
木造阿弥陀如来及び両脇侍像
西尾市指定文化財
写経大般若経
木造阿弥陀如来及び両脇侍像
所在地
愛知県西尾市吉良町饗庭七度ヶ入1
所在地 愛知県西尾市吉良町饗庭七度ヶ入1
位置 北緯34度48分33.72秒 東経137度4分22.26秒
山号 青龍山
宗派 曹洞宗
本尊 不動明王
創建年 不詳
開基 不詳
中興年 暦応3年(1340年)
中興 足利尊氏
別称 あいば不動
札所等 三河三十三観音27番
東海三十六不動尊20番
文化財 弥陀堂(国宝)
木造阿弥陀如来坐像(県文化財)
2022年08月27日
青森県弘前市下白銀町にあった日本の城・弘前城(ひろさきじょう)
弘前城(ひろさきじょう)は、陸奥国鼻和郡(のち統合と外浜(青森)、西浜(十三湊)を編入で津軽郡)弘前(現・青森県弘前市下白銀町)にあった日本の城である。別名・鷹岡城、高岡城。江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し国の重要文化財に指定されている。また城跡は国の史跡に指定されている。江戸時代には津軽氏が居城し弘前藩の藩庁が置かれた。
弘前城天守
概要
江戸時代には弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。城は津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城である。創建当初の規模は東西612メートル、南北947メートル、総面積38万5200平方メートルに及んだ。現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、8棟の建築と現存12天守に数えられる内の天守1棟が現存する。現存建築はいずれも、国の重要文化財に指定されている。小説家の司馬遼太郎は紀行文集『街道をゆく - 北のまほろば』で、弘前城を「日本七名城の一つ」と紹介している。
歴史・沿革
安土桃山時代
1590年(天正18年) - 南部氏に臣従していた大浦為信は、小田原征伐の際に豊臣秀吉より南部氏に先駆けて4万5千石の所領安堵の朱印状を受ける。大浦を津軽と改姓。
1594年(文禄3年) - 為信、堀越城(弘前市堀越)を築き大浦城より移る。しかし、軍事に不向きであることを理由に新城の候補を鷹岡(現在の弘前城の地)に選定。
1600年(慶長5年) - 為信は関ヶ原の戦いで東軍に付き、徳川家康より2千石の加増を受け4万7千石の弘前藩が成立。
江戸時代
1603年(慶長8年) - 為信、鷹岡に築城を開始。
1604年(慶長9年) - 為信、京都にて客死し、築城は中断する。
1609年(慶長14年) - 2代信枚(信牧)、築城を再開。堀越城、大浦城の遺材を転用し急ピッチでの築城を行う。
1611年(慶長16年) - 1年1か月で鷹岡城がほぼ完成する。
1627年(寛永4年) - 落雷により、鷹岡城の天守で炎上し内部の火薬に引火して大爆発、5層6階の天守、本丸御殿、諸櫓を焼失。以後、200年近く天守のない時代が続いた。
1628年(寛永5年) - 鷹岡を信枚の帰依する天海大僧正が名付けた「弘前」に改称し、城名も弘前城となる。
1810年(文化7年) - 9代藩主津軽寧親が三層櫓を新築することを幕府に願い出て、本丸に現在見られる3層3階の御三階櫓(天守)が建てられた。
天守(本丸内側より)
文化財
重要文化財
弘前城
天守 附棟札2枚
二の丸辰巳櫓 附棟札1枚
二の丸未申櫓 附棟札1枚
二の丸丑寅櫓
二の丸南門
二の丸東門
三の丸追手門
北の郭北門(亀甲門)
弘前城三の丸東門
史跡
津軽氏城跡
弘前城跡
重要伝統的建造物群保存地区
仲町の武家屋敷群
二の丸南門(南内門)
北の郭北門(亀甲門)
三の丸東門
交通
JR奥羽本線・弘前駅(東北新幹線・新青森駅乗り換え)から土手町循環100円バスに乗り「市役所前」下車、徒歩3分
東北自動車道・大鰐弘前ICから約30分
別名 鷹岡城、高岡城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不詳5層(非現存・1610年築)
御三階櫓(複合式層塔型3層3階・1810年改)
独立式層塔型3層3階(現存)
築城主 津軽為信・信枚
築城年 1611年
主な改修者 津軽寧親
主な城主 津軽氏
廃城年 1871年
遺構 現存天守・櫓・門
石垣、土塁、堀
指定文化財 重要文化財
(天守・辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓・三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門・北の郭亀甲門)
国の史跡
再建造物 二の丸東門与力番所
位置 北緯40度36分28.93秒 東経140度27分49.7秒
弘前城天守
概要
江戸時代には弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。城は津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城である。創建当初の規模は東西612メートル、南北947メートル、総面積38万5200平方メートルに及んだ。現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、8棟の建築と現存12天守に数えられる内の天守1棟が現存する。現存建築はいずれも、国の重要文化財に指定されている。小説家の司馬遼太郎は紀行文集『街道をゆく - 北のまほろば』で、弘前城を「日本七名城の一つ」と紹介している。
歴史・沿革
安土桃山時代
1590年(天正18年) - 南部氏に臣従していた大浦為信は、小田原征伐の際に豊臣秀吉より南部氏に先駆けて4万5千石の所領安堵の朱印状を受ける。大浦を津軽と改姓。
1594年(文禄3年) - 為信、堀越城(弘前市堀越)を築き大浦城より移る。しかし、軍事に不向きであることを理由に新城の候補を鷹岡(現在の弘前城の地)に選定。
1600年(慶長5年) - 為信は関ヶ原の戦いで東軍に付き、徳川家康より2千石の加増を受け4万7千石の弘前藩が成立。
江戸時代
1603年(慶長8年) - 為信、鷹岡に築城を開始。
1604年(慶長9年) - 為信、京都にて客死し、築城は中断する。
1609年(慶長14年) - 2代信枚(信牧)、築城を再開。堀越城、大浦城の遺材を転用し急ピッチでの築城を行う。
1611年(慶長16年) - 1年1か月で鷹岡城がほぼ完成する。
1627年(寛永4年) - 落雷により、鷹岡城の天守で炎上し内部の火薬に引火して大爆発、5層6階の天守、本丸御殿、諸櫓を焼失。以後、200年近く天守のない時代が続いた。
1628年(寛永5年) - 鷹岡を信枚の帰依する天海大僧正が名付けた「弘前」に改称し、城名も弘前城となる。
1810年(文化7年) - 9代藩主津軽寧親が三層櫓を新築することを幕府に願い出て、本丸に現在見られる3層3階の御三階櫓(天守)が建てられた。
天守(本丸内側より)
文化財
重要文化財
弘前城
天守 附棟札2枚
二の丸辰巳櫓 附棟札1枚
二の丸未申櫓 附棟札1枚
二の丸丑寅櫓
二の丸南門
二の丸東門
三の丸追手門
北の郭北門(亀甲門)
弘前城三の丸東門
史跡
津軽氏城跡
弘前城跡
重要伝統的建造物群保存地区
仲町の武家屋敷群
二の丸南門(南内門)
北の郭北門(亀甲門)
三の丸東門
交通
JR奥羽本線・弘前駅(東北新幹線・新青森駅乗り換え)から土手町循環100円バスに乗り「市役所前」下車、徒歩3分
東北自動車道・大鰐弘前ICから約30分
別名 鷹岡城、高岡城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不詳5層(非現存・1610年築)
御三階櫓(複合式層塔型3層3階・1810年改)
独立式層塔型3層3階(現存)
築城主 津軽為信・信枚
築城年 1611年
主な改修者 津軽寧親
主な城主 津軽氏
廃城年 1871年
遺構 現存天守・櫓・門
石垣、土塁、堀
指定文化財 重要文化財
(天守・辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓・三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門・北の郭亀甲門)
国の史跡
再建造物 二の丸東門与力番所
位置 北緯40度36分28.93秒 東経140度27分49.7秒