臨江閣(りんこうかく)は、群馬県前橋市大手町にある、近代和風建築の迎賓施設。 本館、別館、茶室は国の重要文化財に指定されている。
正門と別館
概要
本館
1884年(明治17年)9月竣工。当時の群馬県令・楫取素彦(かとりもとひこ)の提言がきっかけとなり、前橋の企業や町民有志の協力と募金により、迎賓館として建てられた。建物名の「臨江」は「利根川に臨む」の意である。建物は、木造2階建て、入母屋造、桟瓦葺き。1階には「一の間」「次の間」「三の間」「控えの間」を設け、建物西側の突出部には「奥座敷」「次の間」がある。一の間は畳をはずせば能舞台として使用できる設えになっている。2階には「一の間(御座所)」「次の間」「控えの間」がある。
本館
茶室
京都の宮大工・今井源兵衛によって、本館より2か月遅れて1884年(明治17年)11月に完成した。木造平屋建て。東側に8畳の書院、西側に4畳半の茶室を設ける。書院部分は寄棟造、茶室部分は入母屋造でいずれも桟瓦葺きとする。
別館
1910年(明治43年)に、群馬県の主催で開催された一府十四県聯合共進会の貴賓館として建てられた。木造2階建て、入母屋造、桟瓦葺きの建築である。1階には和室5室と60畳大の洋室があり、2階は180畳大の大広間とする。延べ床面積は、約1,001.02m2。
2階の大広間に、創建当時に無かった舞台が設置されていたが、「平成の大修理」で撤去して創建当時の姿に戻すことになった。
大広間は詩人の萩原朔太郎の結婚式でも使われた。
築100年を過ぎたため、2016年(平成28年)3月より1年半近くをかけて耐震補強工事を含めた大規模な改修工事を実施し、2017年(平成29年)9月より一般公開を再開した。本来は2015年(平成27年)より実施予定であったが、NHK大河ドラマ『花燃ゆ』の放送に合わせて観光客を誘致するため、1年先送りにした。
別館
2022年09月20日
2022年09月19日
国の重要文化財に指定されている・熊本城(くまもとじょう)
熊本城(くまもとじょう)は、肥後国飽田郡熊本(現在の熊本県熊本市中央区)に築かれた安土桃山時代から江戸時代の日本の城。別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」。
加藤清正が中世城郭を取り込み改築した平山城で、加藤氏改易後は幕末まで熊本藩細川家の居城だった。明治時代には西南戦争の戦場となった。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失したが 宇土櫓を始めとする櫓・城門・塀が現存し、13棟(櫓11棟、門1棟、塀1棟)が国の重要文化財に指定されている。また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されている。
熊本城天守(2009年撮影)
概要
熊本市北区植木町の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城。現在の地名では中央区の本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。
中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在の本丸にあたる部分の築城を行った。 細川氏の時代になると城地の拡張と増築が盛んに行われ、西側に二の丸、三の丸が加わった。明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る(建物が失われる経緯は、同項の歴史。1889年(明治22年)の熊本地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、ほぼ江戸期の姿をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている(2012年時点で512,300.52平方メートル)。
天守は1960年に鉄筋コンクリートで外観復元され、内部は「熊本市立熊本博物館分館」となっている。2000年以降は門や櫓、御殿などが木造で復元された。
2016年4月の熊本地震の際に、多くの石垣が崩落したほか宇土櫓などの文化財建造物、大小天守などの復元建築が被災し、修復が進められている。
サクラの名所としても知られており、日本さくら名所100選に選定されている。
本丸御殿(復元)
西大手門(復元)
熊本地震
2016年(平成28年)4月14日21時26分以降発生している最大震度7の熊本地震の前震と本震(4月16日1時25分発生)など、相次ぐ揺れで被災した。
4月14日発生の地震では、石垣の一部が6箇所の崩落のほかに石垣石の落下が複数個所で確認、重要文化財の長塀が長さ100メートルにわたって倒壊。天守・櫓の屋根瓦や鯱も落下と報じた。
本震の4月16日未明の被害については、熊本城総合事務所は「余震のため状況確認ができていないが東十八間櫓と北十八間櫓が倒壊した模様」。その櫓の一部が隣にある熊本大神宮境内建物の屋根を突き破った。
2016年6月10日の熊本市議会で石垣の被害について報告があった。熊本城の全石垣約7万9000平方メートルのうち、50カ所の約2万3600平方メートル、517面で石垣の崩落、膨らみ、緩みがあった。そのうち、崩落は50カ所、229面におよんだ。建物は前震のあった4月14日の時点では重要文化財建造物10棟に被害が確認され、その内長塀は80メートルの倒壊、瓦・外壁落下など9棟であったが、本震のあった4月16日の時点で、倒壊2棟、一部倒壊3棟。他は屋根・壁破損など、重要文化財建造物での被害は13棟となった。 そのほかに、復元建造物の被害は20棟におよび、そのうち倒壊は5棟。他は建物下部の石垣崩壊や屋根・壁の破損などの被害が報告された。石垣の大きな崩壊の原因の一つとして、石垣の上に樹齢50-100年の大木が立っていたことを環境建築研究者の岡田好勝は指摘している。樹木は地上の部分の方が根よりも重く、枝の広がりもあって、根は揺れによるモーメントを根回りの土壌に逃がそうとする作用が働き、その反作用で根が埋まっている周辺の石垣に相当な圧力をかけたため崩落を助長したとする主張である。
文化庁の試算では石垣の撤去や積み直しなどの作業に伴って、1平方メートル当たり150万円かかると見込んでおり、総修復費用に約354億円を要するとした試算を明らかにした。今回の報告は石垣のみで、瓦が落下した天守や倒れた櫓・塀などはまだ被害の全容が分かっておらず、これらの修復費用の試算はされていないという。
熊本市の大西一史市長は2016年7月26日、天守の修復を3年で、また全体の修復を20年で終える目標を明らかにしている。天守閣の柱に使う鋼材は一般的なビルディングに用いられる物より薄く複雑な形状を求められるため、溶接などで前回の再建後に開発された新しい技術・工法が導入されている。この修理で内部にエレベータを設置することが決まった。
2021年1月29日付で長塀が、同年3月24日付で天守閣の復旧工事が完了し、今後櫓群の解体復旧・修復工事が行われる予定である。
地震後の熊本城の様子。手前の平左衛門丸石垣や大小天守の屋根瓦の一部が崩落、鯱も失われている。
左より小天守、宇土櫓、大天守
別名 千葉城(出田氏)、六実城、隈本城(鹿子木氏、菊池氏、城氏、佐々氏、加藤氏半国期)、銀杏城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 連結式望楼型3重6階地下1階(非現存・1600年築)
外観復元(RC造 1960年再)
築城主 出田秀信(千葉城)、鹿子木親員(隈本城)
築城年 1469年–1487年頃
主な改修者 加藤清正
主な城主 加藤氏、細川氏
廃城年 1874年
遺構 櫓・門・塀、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財:櫓11棟、門1棟、塀1棟
国の特別史跡:熊本城跡
再建造物 外観復元:大小天守、平櫓
木造復元:西大手門、数奇屋丸二階広間、南大手門、西出丸戌亥櫓、未申櫓、元太鼓櫓、飯田丸五階櫓、馬具櫓、本丸御殿大広間
位置 北緯32度48分21.7秒 東経130度42分21.23秒
加藤清正が中世城郭を取り込み改築した平山城で、加藤氏改易後は幕末まで熊本藩細川家の居城だった。明治時代には西南戦争の戦場となった。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失したが 宇土櫓を始めとする櫓・城門・塀が現存し、13棟(櫓11棟、門1棟、塀1棟)が国の重要文化財に指定されている。また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されている。
熊本城天守(2009年撮影)
概要
熊本市北区植木町の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城。現在の地名では中央区の本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。
中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在の本丸にあたる部分の築城を行った。 細川氏の時代になると城地の拡張と増築が盛んに行われ、西側に二の丸、三の丸が加わった。明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る(建物が失われる経緯は、同項の歴史。1889年(明治22年)の熊本地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、ほぼ江戸期の姿をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている(2012年時点で512,300.52平方メートル)。
天守は1960年に鉄筋コンクリートで外観復元され、内部は「熊本市立熊本博物館分館」となっている。2000年以降は門や櫓、御殿などが木造で復元された。
2016年4月の熊本地震の際に、多くの石垣が崩落したほか宇土櫓などの文化財建造物、大小天守などの復元建築が被災し、修復が進められている。
サクラの名所としても知られており、日本さくら名所100選に選定されている。
本丸御殿(復元)
西大手門(復元)
熊本地震
2016年(平成28年)4月14日21時26分以降発生している最大震度7の熊本地震の前震と本震(4月16日1時25分発生)など、相次ぐ揺れで被災した。
4月14日発生の地震では、石垣の一部が6箇所の崩落のほかに石垣石の落下が複数個所で確認、重要文化財の長塀が長さ100メートルにわたって倒壊。天守・櫓の屋根瓦や鯱も落下と報じた。
本震の4月16日未明の被害については、熊本城総合事務所は「余震のため状況確認ができていないが東十八間櫓と北十八間櫓が倒壊した模様」。その櫓の一部が隣にある熊本大神宮境内建物の屋根を突き破った。
2016年6月10日の熊本市議会で石垣の被害について報告があった。熊本城の全石垣約7万9000平方メートルのうち、50カ所の約2万3600平方メートル、517面で石垣の崩落、膨らみ、緩みがあった。そのうち、崩落は50カ所、229面におよんだ。建物は前震のあった4月14日の時点では重要文化財建造物10棟に被害が確認され、その内長塀は80メートルの倒壊、瓦・外壁落下など9棟であったが、本震のあった4月16日の時点で、倒壊2棟、一部倒壊3棟。他は屋根・壁破損など、重要文化財建造物での被害は13棟となった。 そのほかに、復元建造物の被害は20棟におよび、そのうち倒壊は5棟。他は建物下部の石垣崩壊や屋根・壁の破損などの被害が報告された。石垣の大きな崩壊の原因の一つとして、石垣の上に樹齢50-100年の大木が立っていたことを環境建築研究者の岡田好勝は指摘している。樹木は地上の部分の方が根よりも重く、枝の広がりもあって、根は揺れによるモーメントを根回りの土壌に逃がそうとする作用が働き、その反作用で根が埋まっている周辺の石垣に相当な圧力をかけたため崩落を助長したとする主張である。
文化庁の試算では石垣の撤去や積み直しなどの作業に伴って、1平方メートル当たり150万円かかると見込んでおり、総修復費用に約354億円を要するとした試算を明らかにした。今回の報告は石垣のみで、瓦が落下した天守や倒れた櫓・塀などはまだ被害の全容が分かっておらず、これらの修復費用の試算はされていないという。
熊本市の大西一史市長は2016年7月26日、天守の修復を3年で、また全体の修復を20年で終える目標を明らかにしている。天守閣の柱に使う鋼材は一般的なビルディングに用いられる物より薄く複雑な形状を求められるため、溶接などで前回の再建後に開発された新しい技術・工法が導入されている。この修理で内部にエレベータを設置することが決まった。
2021年1月29日付で長塀が、同年3月24日付で天守閣の復旧工事が完了し、今後櫓群の解体復旧・修復工事が行われる予定である。
地震後の熊本城の様子。手前の平左衛門丸石垣や大小天守の屋根瓦の一部が崩落、鯱も失われている。
左より小天守、宇土櫓、大天守
別名 千葉城(出田氏)、六実城、隈本城(鹿子木氏、菊池氏、城氏、佐々氏、加藤氏半国期)、銀杏城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 連結式望楼型3重6階地下1階(非現存・1600年築)
外観復元(RC造 1960年再)
築城主 出田秀信(千葉城)、鹿子木親員(隈本城)
築城年 1469年–1487年頃
主な改修者 加藤清正
主な城主 加藤氏、細川氏
廃城年 1874年
遺構 櫓・門・塀、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財:櫓11棟、門1棟、塀1棟
国の特別史跡:熊本城跡
再建造物 外観復元:大小天守、平櫓
木造復元:西大手門、数奇屋丸二階広間、南大手門、西出丸戌亥櫓、未申櫓、元太鼓櫓、飯田丸五階櫓、馬具櫓、本丸御殿大広間
位置 北緯32度48分21.7秒 東経130度42分21.23秒
2022年09月18日
地主神社(じしゅじんじゃ)は、神社や寺院が建立される際に、その土地の地主神を祀るために建立された神社
地主神社(じしゅじんじゃ)
・神社や寺院が建立される際に、その土地の地主神を祀るために建立された神社。神社の境内に末社として建てられている場合や、寺院に隣接して立地している場合がある。寺院に隣接している地主神社は、本来は隣接する寺院の一部(鎮守社)であったのが、明治の神仏分離で独立した経緯のあるものがほとんどである。なお、この場合は「じぬしじんじゃ」と読む所もある。
・京都市東山区にある神社。清水寺に隣接する。全国に数ある地主神社の中でも特に著名。
地主神社 京都市東山区
概要
清水寺の清水の舞台を出て直ぐ左手にある神社で、江戸時代までは清水寺の鎮守社で地主権現社といった。大国主を主祭神とし、縁結びの神さまとして若い女性やカップルに人気のスポットである。
歴史
社伝によれば、創建は日本建国以前の神代とされる。実際、境内の「恋占いの石」は原子物理学者ライル・ベンジャミン・ボースト(英語版)による科学的な年代測定で、縄文時代のものであることが判明している。
平安時代には嵯峨天皇、円融天皇、白河天皇が行幸した。天禄元年(970年)、円融天皇行幸の際、勅命により臨時祭が行われた。これが今日の当社例大祭「地主祭り」の起源である。
社殿は寛永10年(1633年)に徳川家光により再建されたものである。
明治に入り神仏分離令により清水寺から独立して社名を地主権現社から地主神社へと改めた。近代社格制度のもと郷社に列格した。
第二次世界大戦後は、京都周辺の旧民社を中心とする神社が加盟する神社本教に所属しており、1999年(平成11年)からは当社宮司が神社本教主管(代表)を務めている。
1994年(平成6年)には、歴史的経緯から清水寺の一部という形で世界遺産「古都京都の文化財」に登録された。
本殿(重要文化財)
祭神
主祭神 - 大国主命、素戔嗚命(父神)、奇稲田姫命(母神)、足摩乳命、手摩乳命(奇稲田姫命の父母神)
相殿 - 大田大神(芸能と長寿の神)、乙羽竜神(旅行・交通安全の神)、思兼大神(知恵と才能の神)
ただし「地主神社」という社名から、本来は当地の地主神を祀る神社であるとする説もある。
境内
本殿(重要文化財) - 寛永10年(1633年)に徳川家光により再建。
祓戸社 - 祭神:祓戸大神
恋占いの石 - 境内には10メートルほど離れてたつ2つの守護石「恋占いの石」があり、目をつぶって、その石から石に辿り着けば恋が叶うとされている。縄文時代の祭祀遺物である。
拝殿(重要文化財) - 寛永10年(1633年)に徳川家光により再建。天井には狩野元信による丸竜「八方にらみの竜」が描かれている。南面は懸造りとなっている。
撫で大国 - 撫でると御利益があるという大黒天。
大田大神
水かけ地蔵 - 水をかけて祈願すると御利益があるという。
おかげ明神 - 一願成就の守り神で女性の信仰を集める。
いのり杉 - 「のろい杉」ともいわれる。江戸時代に「丑の刻参り」に使われたという。五寸釘を打ち込んだ跡が残っている。
総門(重要文化財) - 閉じられている。
大国主命像
良縁大国 - 縁結びの神。
栗光稲荷社 - 商売繁盛の神。
社務所
拝殿(重要文化財、画像は北面、南面は懸造りになる)
交通アクセス
京阪バス、京都市営バス 清水道または五条坂下車。
京阪本線「清水五条駅」下車徒歩約22分、または「祇園四条駅」下車徒歩約25分
参拝時間
参拝時間9:00〜17:00
総門(重要文化財)
所在地 京都府京都市東山区清水1丁目317
位置 北緯34度59分42.2秒 東経135度47分5.9秒
主祭神 大国主命
素戔嗚命
奇稲田姫命
足摩乳命
手摩乳命など
創建 不詳
例祭 5月5日(地主祭り)
・神社や寺院が建立される際に、その土地の地主神を祀るために建立された神社。神社の境内に末社として建てられている場合や、寺院に隣接して立地している場合がある。寺院に隣接している地主神社は、本来は隣接する寺院の一部(鎮守社)であったのが、明治の神仏分離で独立した経緯のあるものがほとんどである。なお、この場合は「じぬしじんじゃ」と読む所もある。
・京都市東山区にある神社。清水寺に隣接する。全国に数ある地主神社の中でも特に著名。
地主神社 京都市東山区
概要
清水寺の清水の舞台を出て直ぐ左手にある神社で、江戸時代までは清水寺の鎮守社で地主権現社といった。大国主を主祭神とし、縁結びの神さまとして若い女性やカップルに人気のスポットである。
歴史
社伝によれば、創建は日本建国以前の神代とされる。実際、境内の「恋占いの石」は原子物理学者ライル・ベンジャミン・ボースト(英語版)による科学的な年代測定で、縄文時代のものであることが判明している。
平安時代には嵯峨天皇、円融天皇、白河天皇が行幸した。天禄元年(970年)、円融天皇行幸の際、勅命により臨時祭が行われた。これが今日の当社例大祭「地主祭り」の起源である。
社殿は寛永10年(1633年)に徳川家光により再建されたものである。
明治に入り神仏分離令により清水寺から独立して社名を地主権現社から地主神社へと改めた。近代社格制度のもと郷社に列格した。
第二次世界大戦後は、京都周辺の旧民社を中心とする神社が加盟する神社本教に所属しており、1999年(平成11年)からは当社宮司が神社本教主管(代表)を務めている。
1994年(平成6年)には、歴史的経緯から清水寺の一部という形で世界遺産「古都京都の文化財」に登録された。
本殿(重要文化財)
祭神
主祭神 - 大国主命、素戔嗚命(父神)、奇稲田姫命(母神)、足摩乳命、手摩乳命(奇稲田姫命の父母神)
相殿 - 大田大神(芸能と長寿の神)、乙羽竜神(旅行・交通安全の神)、思兼大神(知恵と才能の神)
ただし「地主神社」という社名から、本来は当地の地主神を祀る神社であるとする説もある。
境内
本殿(重要文化財) - 寛永10年(1633年)に徳川家光により再建。
祓戸社 - 祭神:祓戸大神
恋占いの石 - 境内には10メートルほど離れてたつ2つの守護石「恋占いの石」があり、目をつぶって、その石から石に辿り着けば恋が叶うとされている。縄文時代の祭祀遺物である。
拝殿(重要文化財) - 寛永10年(1633年)に徳川家光により再建。天井には狩野元信による丸竜「八方にらみの竜」が描かれている。南面は懸造りとなっている。
撫で大国 - 撫でると御利益があるという大黒天。
大田大神
水かけ地蔵 - 水をかけて祈願すると御利益があるという。
おかげ明神 - 一願成就の守り神で女性の信仰を集める。
いのり杉 - 「のろい杉」ともいわれる。江戸時代に「丑の刻参り」に使われたという。五寸釘を打ち込んだ跡が残っている。
総門(重要文化財) - 閉じられている。
大国主命像
良縁大国 - 縁結びの神。
栗光稲荷社 - 商売繁盛の神。
社務所
拝殿(重要文化財、画像は北面、南面は懸造りになる)
交通アクセス
京阪バス、京都市営バス 清水道または五条坂下車。
京阪本線「清水五条駅」下車徒歩約22分、または「祇園四条駅」下車徒歩約25分
参拝時間
参拝時間9:00〜17:00
総門(重要文化財)
所在地 京都府京都市東山区清水1丁目317
位置 北緯34度59分42.2秒 東経135度47分5.9秒
主祭神 大国主命
素戔嗚命
奇稲田姫命
足摩乳命
手摩乳命など
創建 不詳
例祭 5月5日(地主祭り)
2022年09月17日
下呂温泉合掌村(げろおんせんがっしょうむら)
下呂温泉合掌村(げろおんせんがっしょうむら)は、岐阜県下呂市森にある博物館類似施設(野外博物館)。下呂温泉でもっとも規模の大きい観光施設。飛騨地方の生活文化が体験できる。
下呂温泉合掌村
概要
下呂市の直営で、地方公営企業法(財務)を適用している。下呂温泉でもっとも規模の大きな観光施設である。
村内は「合掌の里」「歳時記の森」の2つのゾーンで構成されている。「合掌の里」には重要文化財「旧大戸家住宅」を中心に白川郷、五箇山から移築保存された合掌造り家屋10棟が点在し、飛騨地方の民具の展示などがされている。山手には下呂花見山「歳時記の森」がある。
村内には四季の山野草などが植えられ、飛騨の自然が感じられる。また、陶芸や陶器の絵付け・手びねり、和紙の絵漉きも体験できる。
村内の合掌造りの劇場、影絵昔話館「しらさぎ座」は、日本で唯一常設の影絵劇場。1996年(平成8年)春に1人で百体の人形を操る「竹原文楽」の終演によって、それに変わる下呂の文化・新しい観光資源、オンリーワンの観光資源を築こうと1人の市職員の発案と取組みにより下呂市・下呂温泉合掌村が企画した。横浜市に本社がある劇団かかし座が委託され、演目を制作し公演していた。
影絵昔話館「しらさぎ座」は、多くの観光客を魅了していたが、2017年(平成29年)に公演を終了した。
合掌の里
10棟の合掌家屋、円空館、休憩棟などが里山に点在しており、飛騨の生活文化が体験できる。
合掌造り家屋
旧大戸家住宅(重要文化財)
旧所在地は大野郡白川郷御母衣村字上洞(現・大野郡白川村御母衣)。天保4年(1833年)から弘化3年(1846年)まで13年の歳月をかけて造営されたと、棟札に書かれている。釘やカスガイ類をまったく使わず、荒縄やネソなどで木材を固くしばり、組み立てられている。間口21m、奥行き12.3m、高さ13mと合掌造りでは最大級の規模を誇る。なお、衆議院議員・平沢勝栄氏の生家でもある[1]。
旧伊並家
食堂 - 合掌茶屋として使用。
旧岩崎家
国の登録有形文化財 - 民俗資料館として使用。
江戸中期の建築で、本を伏せたような屋根の形である切妻造り茅葺。木造1階建てで屋根裏にも部屋がある。
富山県南砺市の五箇山から、1968年(昭和43年)に移築。白川郷の合掌造りは、屋根の三角部分が側面になる「平入り」であるが、この建物は三角部分が家の正面になる「妻入」で、五箇山の伝統的な合掌造りと言われている。
旧遠山家板倉(国の登録有形文化財)
1963年(昭和38年)に「旧遠山家住宅」(1971年(昭和46年)に重要文化財に指定)の倉を白川郷御母衣から移築。1810年に建てられた木造倉庫で、板で壁を二重にしているため板倉と呼ばれている。2階の床板と横木が1階の天井となっている「根太(ねだ)天井」で、養蚕農家の建築様式を伝えている。
旧大溝家
入場口、売店として使用など。
竹原文楽
昭和40年代に下呂町の下呂温泉合掌村で常設上演が始まった文楽。それまでは全国を巡回公演していた。100体の人形を一人で操るのが特徴。創作者、故洞奥一郎氏(下呂市宮地出身)が一代限りと後継者を作らず、現在は当時の資料が展示されている。記念館。
斐騨陶房
陶芸や陶器の絵付け、手びねりが体験できる体験工房。
漉倉
和紙で絵漉きが体験できる体験工房。
市倉
下呂地方の食が味わえる。岩魚やあまごの炭火焼きが有名。
その他
合掌の足湯
円空館
市内の神社、個人所有の円空仏30点余りを展示。
下呂花見山・歳時記の森
2010年(平成22年)夏に竣工。「旧ふるさとの杜」を全面リニューアルした施設で、下呂地方の文化を紹介している。この施設も前出の市職員の企画と取り組みにより、下呂地方の民家「益田造り」の古民家風の建物(萬古庵)を中心に、山桜、山モミジなどが植栽され下呂地方の里山を再現した施設となっている。春の桜、初夏の新緑、秋の紅葉が見どころ。
萬古庵
美しい自然の中、下呂温泉合掌村の「合掌の里」を眼下にながめながら、下呂の味が楽しめる。
営業時間・入場料
営業時間
営業時間:8時30分 - 17時00分
休館日:無休。
入場料
大人(高校生以上):800円
小中学生:400円
施設の料金
遊園施設:森の滑り台(175m)1回100円
影絵昔話館「しらさぎ座」観劇料:3歳以上、1回300円、観劇料は、合掌村入場者への特別低廉料金。
影絵昔話館は休館。
アクセス
岐阜県下呂市森2369番地
JR高山本線 下呂駅より約1.5km。
濃飛バス「下呂温泉病院行き」に乗車、「合掌の里」バス停下車。
下呂温泉合掌村
概要
下呂市の直営で、地方公営企業法(財務)を適用している。下呂温泉でもっとも規模の大きな観光施設である。
村内は「合掌の里」「歳時記の森」の2つのゾーンで構成されている。「合掌の里」には重要文化財「旧大戸家住宅」を中心に白川郷、五箇山から移築保存された合掌造り家屋10棟が点在し、飛騨地方の民具の展示などがされている。山手には下呂花見山「歳時記の森」がある。
村内には四季の山野草などが植えられ、飛騨の自然が感じられる。また、陶芸や陶器の絵付け・手びねり、和紙の絵漉きも体験できる。
村内の合掌造りの劇場、影絵昔話館「しらさぎ座」は、日本で唯一常設の影絵劇場。1996年(平成8年)春に1人で百体の人形を操る「竹原文楽」の終演によって、それに変わる下呂の文化・新しい観光資源、オンリーワンの観光資源を築こうと1人の市職員の発案と取組みにより下呂市・下呂温泉合掌村が企画した。横浜市に本社がある劇団かかし座が委託され、演目を制作し公演していた。
影絵昔話館「しらさぎ座」は、多くの観光客を魅了していたが、2017年(平成29年)に公演を終了した。
合掌の里
10棟の合掌家屋、円空館、休憩棟などが里山に点在しており、飛騨の生活文化が体験できる。
合掌造り家屋
旧大戸家住宅(重要文化財)
旧所在地は大野郡白川郷御母衣村字上洞(現・大野郡白川村御母衣)。天保4年(1833年)から弘化3年(1846年)まで13年の歳月をかけて造営されたと、棟札に書かれている。釘やカスガイ類をまったく使わず、荒縄やネソなどで木材を固くしばり、組み立てられている。間口21m、奥行き12.3m、高さ13mと合掌造りでは最大級の規模を誇る。なお、衆議院議員・平沢勝栄氏の生家でもある[1]。
旧伊並家
食堂 - 合掌茶屋として使用。
旧岩崎家
国の登録有形文化財 - 民俗資料館として使用。
江戸中期の建築で、本を伏せたような屋根の形である切妻造り茅葺。木造1階建てで屋根裏にも部屋がある。
富山県南砺市の五箇山から、1968年(昭和43年)に移築。白川郷の合掌造りは、屋根の三角部分が側面になる「平入り」であるが、この建物は三角部分が家の正面になる「妻入」で、五箇山の伝統的な合掌造りと言われている。
旧遠山家板倉(国の登録有形文化財)
1963年(昭和38年)に「旧遠山家住宅」(1971年(昭和46年)に重要文化財に指定)の倉を白川郷御母衣から移築。1810年に建てられた木造倉庫で、板で壁を二重にしているため板倉と呼ばれている。2階の床板と横木が1階の天井となっている「根太(ねだ)天井」で、養蚕農家の建築様式を伝えている。
旧大溝家
入場口、売店として使用など。
竹原文楽
昭和40年代に下呂町の下呂温泉合掌村で常設上演が始まった文楽。それまでは全国を巡回公演していた。100体の人形を一人で操るのが特徴。創作者、故洞奥一郎氏(下呂市宮地出身)が一代限りと後継者を作らず、現在は当時の資料が展示されている。記念館。
斐騨陶房
陶芸や陶器の絵付け、手びねりが体験できる体験工房。
漉倉
和紙で絵漉きが体験できる体験工房。
市倉
下呂地方の食が味わえる。岩魚やあまごの炭火焼きが有名。
その他
合掌の足湯
円空館
市内の神社、個人所有の円空仏30点余りを展示。
下呂花見山・歳時記の森
2010年(平成22年)夏に竣工。「旧ふるさとの杜」を全面リニューアルした施設で、下呂地方の文化を紹介している。この施設も前出の市職員の企画と取り組みにより、下呂地方の民家「益田造り」の古民家風の建物(萬古庵)を中心に、山桜、山モミジなどが植栽され下呂地方の里山を再現した施設となっている。春の桜、初夏の新緑、秋の紅葉が見どころ。
萬古庵
美しい自然の中、下呂温泉合掌村の「合掌の里」を眼下にながめながら、下呂の味が楽しめる。
営業時間・入場料
営業時間
営業時間:8時30分 - 17時00分
休館日:無休。
入場料
大人(高校生以上):800円
小中学生:400円
施設の料金
遊園施設:森の滑り台(175m)1回100円
影絵昔話館「しらさぎ座」観劇料:3歳以上、1回300円、観劇料は、合掌村入場者への特別低廉料金。
影絵昔話館は休館。
アクセス
岐阜県下呂市森2369番地
JR高山本線 下呂駅より約1.5km。
濃飛バス「下呂温泉病院行き」に乗車、「合掌の里」バス停下車。
2022年09月16日
国の重要文化財に指定・虹澗橋(こうかんきょう、こうかんばし)
虹澗橋(こうかんきょう、こうかんばし)は、大分県豊後大野市三重町菅生と臼杵市野津町大字西畑の間の大野川水系三重川に架かる石造アーチ橋。通称、柳井瀬橋。国の重要文化財に指定されている。また、日本百名橋にも選定されている。
概要
「虹澗橋」の「澗」[注釈 1]は谷川を意味し、「虹澗」とは谷川にかかる虹という意味である。
江戸時代に臼杵藩の領地であった三重と臼杵とを結ぶ街道に位置しており。橋が架けられるまでは「柳井瀬の渡り」と呼ばれ、人や物資の往来を妨げる最大の難所であった。このため、地元の豪商3名が私財を投じ、文政4年(1821年)正月に橋の建設が始められた。工事は困難を極め、3年半後の文政7年(1824年)6月にようやく竣工した。当時としては最大規模の石造橋であったといい、豪商は私財投入のために没落したという。
1988年(昭和63年)には上流に新虹澗橋が架けられたが、虹澗橋はその後も2003年(平成15年)まで自動車の通行する道路橋として使用されていた。現在は自動車の通行は禁止されているが、歩行者は通行可能である。
諸元
所在地:大分県豊後大野市三重町菅生
河川:大野川水系三重川
形式:1連石造アーチ橋
橋長:31.0m
径間(アーチの幅):25.1m
幅員:6.1m
着工:文政4年(1821年)1月
竣工:文政7年(1824年)6月
設計・施工:井沢織平(大野織平)(石工)
文化財指定:国の重要文化財(1999年12月1日指定)
概要
「虹澗橋」の「澗」[注釈 1]は谷川を意味し、「虹澗」とは谷川にかかる虹という意味である。
江戸時代に臼杵藩の領地であった三重と臼杵とを結ぶ街道に位置しており。橋が架けられるまでは「柳井瀬の渡り」と呼ばれ、人や物資の往来を妨げる最大の難所であった。このため、地元の豪商3名が私財を投じ、文政4年(1821年)正月に橋の建設が始められた。工事は困難を極め、3年半後の文政7年(1824年)6月にようやく竣工した。当時としては最大規模の石造橋であったといい、豪商は私財投入のために没落したという。
1988年(昭和63年)には上流に新虹澗橋が架けられたが、虹澗橋はその後も2003年(平成15年)まで自動車の通行する道路橋として使用されていた。現在は自動車の通行は禁止されているが、歩行者は通行可能である。
諸元
所在地:大分県豊後大野市三重町菅生
河川:大野川水系三重川
形式:1連石造アーチ橋
橋長:31.0m
径間(アーチの幅):25.1m
幅員:6.1m
着工:文政4年(1821年)1月
竣工:文政7年(1824年)6月
設計・施工:井沢織平(大野織平)(石工)
文化財指定:国の重要文化財(1999年12月1日指定)
2022年09月15日
愛媛県松山市にある真言宗豊山派の寺院・石手寺(いしてじ)
石手寺(いしてじ)は、愛媛県松山市にある真言宗豊山派の寺院。本尊は薬師如来。四国八十八箇所第51番札所。遍路の元祖とされる衛門三郎の再来伝説ゆかりの寺でもある。
初詣・厄除詣の参詣者数は県内随一であり、道後温泉から近いため、遍路の他にも、観光客で賑わうことが多く、2009年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において1つ星に選定された。
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
御詠歌:西方をよそとは見まじ安養(あんよう)の 寺に詣りて受くる十楽(じゅうらく)
納経印:本尊、奥之院石鉄寺、衛門三郎再生大師
境内中央
沿革
寺伝によれば、神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来を刻んで本尊として安置して開基したという。創建当時の寺名は安養寺、宗派は法相宗であったが、弘仁4年(813年)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改めたとされる。寛平4年(892年)領主・河野息利に生まれた長男・息方が当寺で祈祷を受けると握っていた手から「衛門三郎再生」と書かれた石が現れたという衛門三郎再来の伝説によって石手寺と改められた。
河野氏の庇護を受けて栄えた平安時代から室町時代に至る間が最盛期であり、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院であった。永禄9年(1566年)に長宗我部元親による兵火をうけ建築物の大半を失っているが、本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れている。
仁王門(国宝)
境内
山門(仁王門)【国宝】
本堂【重要文化財】 - 本尊・薬師如来坐像。当初は文殊菩薩が本尊、その後は、熊野三所権現を祀る熊野権現社となり現在は薬師堂。毎年、10月下旬に本堂の内拝がある(令和元年の場合10月21日から10月28日午前9時から午後3時半・200円、その年により変更有)。
大師堂 - 大師像を眼前で拝顔できる。かつては壁に正岡子規、夏目漱石ら多くの文化人の落書きが記されており、「落書堂」とも呼ばれていたが、壁は第二次大戦中に塗りなおされている。現在でも、白いボードが貼られていて落書きができる。
訶梨帝母天堂【重要文化財】 - 訶梨帝母尊(鬼子母神)を祀る堂。妊婦は堂周りの石を持ち帰り、無事に出産すると石を2つにして返すという風習がある。堂と云いながら祠である。
一切経堂 - 輪蔵と、中国南北朝時代の傳大士(ふだいし497年〜569年)を祀る。
護摩堂【重要文化財】 - 不動明王立像と二童子
弥勒堂 - 知足天の扁額があり、知足天は兜率天のことで弥勒菩薩がいるところ。
鐘楼(袴腰造)【重要文化財】- 重要文化財の鐘がぶら下がっていて住職しか撞けない。
三重塔【重要文化財】 - 周りで四国八十八箇所のお砂踏みができる。
本殿 - 嵯峨天皇より賜った空海自作の弘法大師坐像と云われる秘仏の小像が本尊。堂の前の香炉に線香を奉納した煙が絶えず名所である。2021年改修。その弘法大師像を50年ぶりに開帳予定しているが、日程は未定。
阿弥陀堂 - 阿弥陀仏を拝観できる。明治以前は札所本尊の薬師如来坐像を祀る本堂。
鐘楼(吹放し型) - 山門を入って左の鐘は自由に撞ける。
愛媛パゴダ - レンガ造りの大きな建物。ビルマの戦没者を祀る。
観音堂 - 鉄筋コンクリート造の懸造の土台に木造入母屋造。本尊観音菩薩。
釈迦堂
毘沙門天祠
絵馬堂 - 本堂と大師堂の間にあり
十二社権現の祠 - 絵馬堂の背後にあり
穴地獄の祠
水天堂(小堂) - 甕が一つ置かれており海の干満がわかるという。
弁財天の祠 - 小池の中にあり
マントラ洞窟 - 本堂左奥から入り大師堂の背後に出る、真直ぐ進むと山の裏側に出る。金剛界・胎蔵界のマントラを表現している。
中雀門 - 本坊の区域に入る門。
大講堂 - 文殊菩薩坐像と脇仏に不動明王立像と毘沙門天立像、脇に興教大師像。
宝物館 - 安養寺時代からの寺宝を展示する。衛門三郎の再来伝説の「石」も見ることができる。
仏陀研究館 - 新しい建物で仏陀の仏像が展示されている。
安養閣 - 東門から出た外にある。
大日曼荼羅石像群 - 境外道路脇に、東寺講堂の立体曼荼羅に模した石像群(大日如来と四仏、金剛波羅蜜と四菩薩、不動明王と四明王の合計15体)が2018年設置された。仏陀研究館の東に入口があり、真っ暗な洞窟を通過すると不動明王を中心とする明王室と大日如来を中心とする如来室が2つの計3室あり座禅や瞑想ができる。それを抜けると石造群のある外に出る(有料300円)。
お山四国登り口 - 本堂に向かって左に登り口がある。
ミニ四国八十八箇所 - 愛宕山(標高115m)の山頂を経て下ると43番まであり、44番から88番は巨大な西安大師(像高16m)が頂上に立つ東側の常光寺山(標高124m)を巡る。四十九日迄に白位牌と共に皆で参り供養する。
随求堂 - 大随求菩薩を祀る。5番の右にある
石手寺古墳第1号・第2号の二基 - 上記堂のさらに右にある。
愛宕社(祠) - 愛宕山の山頂は平で広く展望台になっていて愛宕権現を祀る祠がある。松山城や松山市街地が展望できる。
三重塔(重文)
奥の院しょうじょう寺 - 山の裏側にあり、マントラ塔(永代供養塔)や釈迦如来や木彫り五百羅漢がある。
句碑・歌碑・川柳碑 - 正岡子規「南無大師石手の寺よ稲の花」、前田伍健「鎌倉のむかしを今に寺の鐘」が露店が並ぶ仲見世の右に、宇田零雨「石手寺の松を拝みて年迎ふ」が左にある。種田山頭火「うれしい古ともかなしい古とも草しける」が地蔵院の中にあり、参道に戻り仁王門の右前に重松俊章「御佛の瞳は慈悲に輝きて 悩みと罪の子等に微笑む」がある。境内中央には松尾芭蕉「宇知与利氐波奈以礼佐久戻牟女津波几」で祭芭蕉翁冢 が三重塔の北斜面の樹木の中に、正岡子規「身の上や御鬮を引けば秋の風」が納経所に向かって左に、さらに入って宝物館入口右手前に尾崎行信「石据える手にきて蟻が喰ひさがる」、左の池の向こうに関谷嘶風「花はいさ鐘つかりけり石手寺」、がある。一つの石の前と側面に刻まれている与謝野晶子「伊予の秋石手の寺の香盤に海のいろして立つ煙かな」「石手寺や平和観音おはします香の煙は御山め久りて」が阿弥陀堂の左の鐘楼前にあり、愛媛パコタの横に藤井徳二郎「故郷の山に御霊よ帰りませ永久奈る平和を共に祈らむ」が、さらに西の出口へ向かう追悼エリアに篠原梵「葉櫻の中の無数の空さわぐ」、84句が書かれた愛媛平成連句の碑、富田狸通「一山の堂塔高き大夕焼」、有馬白陽「撞きす天し鐘の余韻乃桜可那」がある。なお、仲見世を出て右に門屋春風「麗らかや平和の碑塚とこしへに」と原田則人「見遙かす松山城や寺の秋」が、左に西村清雄「やま知古えて一人由希登主の手ニす加れる身ハ安介志」がある。
県道より、渡らずの橋と衛門三郎像の横を過ぎ、仲見世を行くと国宝仁王門に至る。くぐると、右に本殿・納経所、左右に鐘楼があって、その先に阿弥陀堂がある。正面奥に進んで一段高い位置に石段を上ると本堂が建つ。本堂の右に絵馬堂あり、その先に大師堂が並ぶ。本堂大師堂の背後にある山にはマントラ洞窟といわれる洞窟があり、本堂左後方に入口があり大師堂の裏に出口がある。大師堂右側には訶梨帝母天堂(祠)があり、石段を下りるとその右に三重塔が、左に一切経堂、護摩堂、弥勒堂が並ぶ。ここから左奥に入ると宝物館、大講堂がある。
石手寺の七不思議:渡ると足が腐るという渡らずの橋・不動明王の姿が浮かぶ不動石(仲見世の入口の右)・足腰の病に効く仁王門の大草鞋・病に効く香煙(茶道の前)・潮の干満が分かる水天堂の水瓶(現在は水は入ってない)・詞梨帝母天堂の子授かりの石・道後温泉の湯が沸く音が聞こえる湯音石(阿弥陀堂の前)・衛門三郎再来の玉の石(宝物館展示)・湧ヶ淵の大蛇の骨(宝物館展示)
宿坊:なし
駐車場:門前に大型バス用も含めて充分にあり。
本堂(重文)
交通案内
鉄道
伊予鉄道城南線(路面電車)- 道後温泉駅 下車 (1.3km)
バス
伊予鉄バス石手寺バス停(8、52系統線 )
道路
一般道:国道317号、愛媛県道187号六軒家石手線 石手寺前 (0.1km)
自動車道:松山自動車道松山IC (6.5km)
奥の院
石鉄寺(いしづちでら)
本尊は釈迦如来で、権現山山麓にある。昭和59年(1984年)開創。空海修行の地と伝えられる。入口付近では夏期にソーメン流しが催される。納経は当寺(石手寺)納経所で行っている。
住所:愛媛県伊予郡砥部町総津1548
所在地 愛媛県松山市石手2丁目9-21
位置 北緯33度50分52.3秒 東経132度47分47.3秒
山号 熊野山
院号 虚空蔵院
宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来
創建年 (伝)天平元年(729年)
開基 (伝)行基、聖武天皇(勅願)
正式名 熊野山 虚空蔵院 石手寺
札所等 四国八十八箇所第51番
文化財 二王門(国宝)
本堂・鐘楼・三重塔ほか(重要文化財)
初詣・厄除詣の参詣者数は県内随一であり、道後温泉から近いため、遍路の他にも、観光客で賑わうことが多く、2009年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において1つ星に選定された。
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
御詠歌:西方をよそとは見まじ安養(あんよう)の 寺に詣りて受くる十楽(じゅうらく)
納経印:本尊、奥之院石鉄寺、衛門三郎再生大師
境内中央
沿革
寺伝によれば、神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来を刻んで本尊として安置して開基したという。創建当時の寺名は安養寺、宗派は法相宗であったが、弘仁4年(813年)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改めたとされる。寛平4年(892年)領主・河野息利に生まれた長男・息方が当寺で祈祷を受けると握っていた手から「衛門三郎再生」と書かれた石が現れたという衛門三郎再来の伝説によって石手寺と改められた。
河野氏の庇護を受けて栄えた平安時代から室町時代に至る間が最盛期であり、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院であった。永禄9年(1566年)に長宗我部元親による兵火をうけ建築物の大半を失っているが、本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れている。
仁王門(国宝)
境内
山門(仁王門)【国宝】
本堂【重要文化財】 - 本尊・薬師如来坐像。当初は文殊菩薩が本尊、その後は、熊野三所権現を祀る熊野権現社となり現在は薬師堂。毎年、10月下旬に本堂の内拝がある(令和元年の場合10月21日から10月28日午前9時から午後3時半・200円、その年により変更有)。
大師堂 - 大師像を眼前で拝顔できる。かつては壁に正岡子規、夏目漱石ら多くの文化人の落書きが記されており、「落書堂」とも呼ばれていたが、壁は第二次大戦中に塗りなおされている。現在でも、白いボードが貼られていて落書きができる。
訶梨帝母天堂【重要文化財】 - 訶梨帝母尊(鬼子母神)を祀る堂。妊婦は堂周りの石を持ち帰り、無事に出産すると石を2つにして返すという風習がある。堂と云いながら祠である。
一切経堂 - 輪蔵と、中国南北朝時代の傳大士(ふだいし497年〜569年)を祀る。
護摩堂【重要文化財】 - 不動明王立像と二童子
弥勒堂 - 知足天の扁額があり、知足天は兜率天のことで弥勒菩薩がいるところ。
鐘楼(袴腰造)【重要文化財】- 重要文化財の鐘がぶら下がっていて住職しか撞けない。
三重塔【重要文化財】 - 周りで四国八十八箇所のお砂踏みができる。
本殿 - 嵯峨天皇より賜った空海自作の弘法大師坐像と云われる秘仏の小像が本尊。堂の前の香炉に線香を奉納した煙が絶えず名所である。2021年改修。その弘法大師像を50年ぶりに開帳予定しているが、日程は未定。
阿弥陀堂 - 阿弥陀仏を拝観できる。明治以前は札所本尊の薬師如来坐像を祀る本堂。
鐘楼(吹放し型) - 山門を入って左の鐘は自由に撞ける。
愛媛パゴダ - レンガ造りの大きな建物。ビルマの戦没者を祀る。
観音堂 - 鉄筋コンクリート造の懸造の土台に木造入母屋造。本尊観音菩薩。
釈迦堂
毘沙門天祠
絵馬堂 - 本堂と大師堂の間にあり
十二社権現の祠 - 絵馬堂の背後にあり
穴地獄の祠
水天堂(小堂) - 甕が一つ置かれており海の干満がわかるという。
弁財天の祠 - 小池の中にあり
マントラ洞窟 - 本堂左奥から入り大師堂の背後に出る、真直ぐ進むと山の裏側に出る。金剛界・胎蔵界のマントラを表現している。
中雀門 - 本坊の区域に入る門。
大講堂 - 文殊菩薩坐像と脇仏に不動明王立像と毘沙門天立像、脇に興教大師像。
宝物館 - 安養寺時代からの寺宝を展示する。衛門三郎の再来伝説の「石」も見ることができる。
仏陀研究館 - 新しい建物で仏陀の仏像が展示されている。
安養閣 - 東門から出た外にある。
大日曼荼羅石像群 - 境外道路脇に、東寺講堂の立体曼荼羅に模した石像群(大日如来と四仏、金剛波羅蜜と四菩薩、不動明王と四明王の合計15体)が2018年設置された。仏陀研究館の東に入口があり、真っ暗な洞窟を通過すると不動明王を中心とする明王室と大日如来を中心とする如来室が2つの計3室あり座禅や瞑想ができる。それを抜けると石造群のある外に出る(有料300円)。
お山四国登り口 - 本堂に向かって左に登り口がある。
ミニ四国八十八箇所 - 愛宕山(標高115m)の山頂を経て下ると43番まであり、44番から88番は巨大な西安大師(像高16m)が頂上に立つ東側の常光寺山(標高124m)を巡る。四十九日迄に白位牌と共に皆で参り供養する。
随求堂 - 大随求菩薩を祀る。5番の右にある
石手寺古墳第1号・第2号の二基 - 上記堂のさらに右にある。
愛宕社(祠) - 愛宕山の山頂は平で広く展望台になっていて愛宕権現を祀る祠がある。松山城や松山市街地が展望できる。
三重塔(重文)
奥の院しょうじょう寺 - 山の裏側にあり、マントラ塔(永代供養塔)や釈迦如来や木彫り五百羅漢がある。
句碑・歌碑・川柳碑 - 正岡子規「南無大師石手の寺よ稲の花」、前田伍健「鎌倉のむかしを今に寺の鐘」が露店が並ぶ仲見世の右に、宇田零雨「石手寺の松を拝みて年迎ふ」が左にある。種田山頭火「うれしい古ともかなしい古とも草しける」が地蔵院の中にあり、参道に戻り仁王門の右前に重松俊章「御佛の瞳は慈悲に輝きて 悩みと罪の子等に微笑む」がある。境内中央には松尾芭蕉「宇知与利氐波奈以礼佐久戻牟女津波几」で祭芭蕉翁冢 が三重塔の北斜面の樹木の中に、正岡子規「身の上や御鬮を引けば秋の風」が納経所に向かって左に、さらに入って宝物館入口右手前に尾崎行信「石据える手にきて蟻が喰ひさがる」、左の池の向こうに関谷嘶風「花はいさ鐘つかりけり石手寺」、がある。一つの石の前と側面に刻まれている与謝野晶子「伊予の秋石手の寺の香盤に海のいろして立つ煙かな」「石手寺や平和観音おはします香の煙は御山め久りて」が阿弥陀堂の左の鐘楼前にあり、愛媛パコタの横に藤井徳二郎「故郷の山に御霊よ帰りませ永久奈る平和を共に祈らむ」が、さらに西の出口へ向かう追悼エリアに篠原梵「葉櫻の中の無数の空さわぐ」、84句が書かれた愛媛平成連句の碑、富田狸通「一山の堂塔高き大夕焼」、有馬白陽「撞きす天し鐘の余韻乃桜可那」がある。なお、仲見世を出て右に門屋春風「麗らかや平和の碑塚とこしへに」と原田則人「見遙かす松山城や寺の秋」が、左に西村清雄「やま知古えて一人由希登主の手ニす加れる身ハ安介志」がある。
県道より、渡らずの橋と衛門三郎像の横を過ぎ、仲見世を行くと国宝仁王門に至る。くぐると、右に本殿・納経所、左右に鐘楼があって、その先に阿弥陀堂がある。正面奥に進んで一段高い位置に石段を上ると本堂が建つ。本堂の右に絵馬堂あり、その先に大師堂が並ぶ。本堂大師堂の背後にある山にはマントラ洞窟といわれる洞窟があり、本堂左後方に入口があり大師堂の裏に出口がある。大師堂右側には訶梨帝母天堂(祠)があり、石段を下りるとその右に三重塔が、左に一切経堂、護摩堂、弥勒堂が並ぶ。ここから左奥に入ると宝物館、大講堂がある。
石手寺の七不思議:渡ると足が腐るという渡らずの橋・不動明王の姿が浮かぶ不動石(仲見世の入口の右)・足腰の病に効く仁王門の大草鞋・病に効く香煙(茶道の前)・潮の干満が分かる水天堂の水瓶(現在は水は入ってない)・詞梨帝母天堂の子授かりの石・道後温泉の湯が沸く音が聞こえる湯音石(阿弥陀堂の前)・衛門三郎再来の玉の石(宝物館展示)・湧ヶ淵の大蛇の骨(宝物館展示)
宿坊:なし
駐車場:門前に大型バス用も含めて充分にあり。
本堂(重文)
交通案内
鉄道
伊予鉄道城南線(路面電車)- 道後温泉駅 下車 (1.3km)
バス
伊予鉄バス石手寺バス停(8、52系統線 )
道路
一般道:国道317号、愛媛県道187号六軒家石手線 石手寺前 (0.1km)
自動車道:松山自動車道松山IC (6.5km)
奥の院
石鉄寺(いしづちでら)
本尊は釈迦如来で、権現山山麓にある。昭和59年(1984年)開創。空海修行の地と伝えられる。入口付近では夏期にソーメン流しが催される。納経は当寺(石手寺)納経所で行っている。
住所:愛媛県伊予郡砥部町総津1548
所在地 愛媛県松山市石手2丁目9-21
位置 北緯33度50分52.3秒 東経132度47分47.3秒
山号 熊野山
院号 虚空蔵院
宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来
創建年 (伝)天平元年(729年)
開基 (伝)行基、聖武天皇(勅願)
正式名 熊野山 虚空蔵院 石手寺
札所等 四国八十八箇所第51番
文化財 二王門(国宝)
本堂・鐘楼・三重塔ほか(重要文化財)
2022年09月14日
国の重要文化財に指定された・岩手銀行赤レンガ館(いわてぎんこうあかレンガかん)
岩手銀行赤レンガ館(いわてぎんこうあかレンガかん)は、岩手県盛岡市中ノ橋通一丁目に所在する銀行建築である。1911年(明治44年)に盛岡銀行本店として完成。2012年まで100年余りにわたり銀行として使われたのち、2016年に多目的ホールおよび創建当時の館内の模様を展示する施設としてオープンした。
岩手銀行赤レンガ館。所在地は岩手県盛岡市。
歴史
1908年(明治41年)5月5日、盛岡市の中津川を渡る中ノ橋のたもとに、盛岡銀行本店を着工。約3年の工期ののち、1911年(明治44年)4月30日に竣工し、同年5月7日に開業した。1933年、盛岡銀行は営業免許の取り消しを受ける。1936年、岩手殖産銀行(1960年、岩手銀行に商号変更)が買い受け、同行の本店となる。1983年、岩手銀行は盛岡市中央通に本店ビルを新築。これまでの本店は中ノ橋支店となる。1994年12月27日、「岩手銀行(旧盛岡銀行)旧本店本館」の名称で、現役の銀行建築として初めて国の重要文化財に指定された(岩手銀行赤レンガ館として再オープン後も、重要文化財としての名称は変更されていない)。2012年8月3日、中ノ橋支店を隣接地に移転し、銀行としての営業を終了。約3年かけて内部の修復を行って、2016年7月17日に公開施設「岩手銀行赤レンガ館」として開館した。
建築
日本銀行本店などを手がけた辰野金吾と、盛岡出身の葛西萬司が設計を担当。辰野の作品の中では、東北地方で唯一現存する建物である。交差点の角地に建ち、東南隅に八角形の塔、南面の西寄りには四角形の塔を設け、東面北端には切妻屋根が突出するなど、立体感に富んだ構成とする。外壁は赤レンガに花崗岩の帯を回す。屋上にドームを載せる点、赤レンガに石材でアクセントを加える点などに辰野の作風が現れている。1階の営業室吹き抜けを囲むように、2階には回廊がめぐらされている。建材には約91万個の岩手県産煉瓦と、内装材には青森ヒバが使用されている。赤レンガの外観が特徴であるが、1936年に岩手殖産銀行本店になってから1958年までは白く塗装され、「白い明治館」と呼ばれていた。
岩手銀行赤レンガ館の館内は無料の「岩手銀行ゾーン」と有料の「盛岡銀行ゾーン」からなる。岩手銀行ゾーンは、営業室を改装した多目的ホールや、盛岡の産業・商業の歴史を紹介するライブラリー・ラウンジが設けられている。盛岡銀行ゾーンでは応接室や、開業当時から使われている金庫室などを公開。岩手県の金融史を紹介するコーナーや、建物の歴史や構造を映像で紹介するシアターもある。
交通アクセス
JR・IGRいわて銀河鉄道 盛岡駅 より
「盛岡バスセンター行」で、「盛岡バスセンター (ななっく前)」下車、徒歩1分
盛岡ICより車で10分
旧名称 盛岡銀行本店
岩手銀行本店
岩手銀行中ノ橋支店
旧用途 銀行
設計者 辰野金吾・葛西萬司(辰野・葛西建築設計事務所)
建築主 盛岡銀行
構造形式 煉瓦造
建築面積 693 m2 [1]
階数 地上3階
着工 1908年5月5日
竣工 1911年4月30日
開館開所 2016年7月17日
所在地 〒020-0871
岩手県盛岡市中ノ橋通一丁目2番20号
座標 北緯39度42分2.2秒 東経141度9分18.6秒
文化財 国の重要文化財
指定・登録等日 1994年12月27日
岩手銀行赤レンガ館。所在地は岩手県盛岡市。
歴史
1908年(明治41年)5月5日、盛岡市の中津川を渡る中ノ橋のたもとに、盛岡銀行本店を着工。約3年の工期ののち、1911年(明治44年)4月30日に竣工し、同年5月7日に開業した。1933年、盛岡銀行は営業免許の取り消しを受ける。1936年、岩手殖産銀行(1960年、岩手銀行に商号変更)が買い受け、同行の本店となる。1983年、岩手銀行は盛岡市中央通に本店ビルを新築。これまでの本店は中ノ橋支店となる。1994年12月27日、「岩手銀行(旧盛岡銀行)旧本店本館」の名称で、現役の銀行建築として初めて国の重要文化財に指定された(岩手銀行赤レンガ館として再オープン後も、重要文化財としての名称は変更されていない)。2012年8月3日、中ノ橋支店を隣接地に移転し、銀行としての営業を終了。約3年かけて内部の修復を行って、2016年7月17日に公開施設「岩手銀行赤レンガ館」として開館した。
建築
日本銀行本店などを手がけた辰野金吾と、盛岡出身の葛西萬司が設計を担当。辰野の作品の中では、東北地方で唯一現存する建物である。交差点の角地に建ち、東南隅に八角形の塔、南面の西寄りには四角形の塔を設け、東面北端には切妻屋根が突出するなど、立体感に富んだ構成とする。外壁は赤レンガに花崗岩の帯を回す。屋上にドームを載せる点、赤レンガに石材でアクセントを加える点などに辰野の作風が現れている。1階の営業室吹き抜けを囲むように、2階には回廊がめぐらされている。建材には約91万個の岩手県産煉瓦と、内装材には青森ヒバが使用されている。赤レンガの外観が特徴であるが、1936年に岩手殖産銀行本店になってから1958年までは白く塗装され、「白い明治館」と呼ばれていた。
岩手銀行赤レンガ館の館内は無料の「岩手銀行ゾーン」と有料の「盛岡銀行ゾーン」からなる。岩手銀行ゾーンは、営業室を改装した多目的ホールや、盛岡の産業・商業の歴史を紹介するライブラリー・ラウンジが設けられている。盛岡銀行ゾーンでは応接室や、開業当時から使われている金庫室などを公開。岩手県の金融史を紹介するコーナーや、建物の歴史や構造を映像で紹介するシアターもある。
交通アクセス
JR・IGRいわて銀河鉄道 盛岡駅 より
「盛岡バスセンター行」で、「盛岡バスセンター (ななっく前)」下車、徒歩1分
盛岡ICより車で10分
旧名称 盛岡銀行本店
岩手銀行本店
岩手銀行中ノ橋支店
旧用途 銀行
設計者 辰野金吾・葛西萬司(辰野・葛西建築設計事務所)
建築主 盛岡銀行
構造形式 煉瓦造
建築面積 693 m2 [1]
階数 地上3階
着工 1908年5月5日
竣工 1911年4月30日
開館開所 2016年7月17日
所在地 〒020-0871
岩手県盛岡市中ノ橋通一丁目2番20号
座標 北緯39度42分2.2秒 東経141度9分18.6秒
文化財 国の重要文化財
指定・登録等日 1994年12月27日
2022年09月12日
国の重要文化財・気多大社(けたたいしゃ、正式名:氣多大社)
気多大社(けたたいしゃ、正式名:氣多大社)は、石川県羽咋市寺家町にある神社。式内社(名神大社)、能登国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。旧称は「気多大神宮」。
拝殿(手前)と本殿(奥)(ともに国の重要文化財)
概要
能登半島の付け根、羽咋市北方に日本海に面して鎮座する。祭神の大己貴命は出雲から舟で能登に入り、国土を開拓したのち守護神としてこの地に鎮まったとされる。古くから北陸の大社として知られ、中世・近世には歴代の領主からも手厚い保護を受けた。
現在は本殿など5棟の社殿が国の重要文化財に指定されているほか、国の天然記念物の社叢「入らずの森」で知られる。
祭神
祭神は次の1柱。
大己貴命(おおなむちのみこと)
鳥居
歴史
創建
社伝(『気多神社縁起』)によれば、第8代孝元天皇の御代に祭神の大己貴命が出雲から300余神を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いたという。
また『気多社島廻縁起』では、気多大菩薩は孝元天皇の時に従者を率いて渡来した異国の王子とし、能登半島一帯を巡行して鬼神を追放したと記される。『気多社祭儀録』では、祭神は第10代崇神天皇の御代の勧請とし、神代からの鎮座とする説もあると記される。
一説として、孝元天皇の御代には七尾市に鎮座(現・気多本宮、位置)し、崇神天皇の御代に当地に遷座したとも伝えられる。
概史
奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が天平20年(748年)に参詣したときの歌が載っている(文献上初見)。
国史では、古くは『続日本紀』神護景雲2年(768年)の記事が見え、同記事では封戸20戸・田2町が支給されている。また神階に関しては、延暦3年(784年)の正三位から、天安3年(859年)に従一位勲一等までの叙位・叙勲の記事が載る。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では能登国羽咋郡に「気多神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。
中世以降は能登国一宮とされ、中世・近世の間は畠山氏・前田氏など歴代の領主からも手厚い保護を受けた。
明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列し、大正4年(1915年)に国幣大社に昇格した。第二次世界大戦後は神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定されていたが、後述のように平成22年(2010年)に神社本庁に属さない単立神社となった。
拝殿(国の重要文化財)
神門(国の重要文化財)
境内
社殿
主要社殿のうち本殿は、江戸時代の天明7年(1787年)の造営。三間社(桁行3間、梁行4間)の類例の少ない両流造で、檜皮葺である。拝殿は、江戸時代の承応2年(1653年)または承応3年(1654年)に大工・山上善右衛門による造営とされる。入母屋造妻入で、檜皮葺。神門は、安土桃山時代(社伝によれば天正12年(1584年))の造営。切妻造、四脚門で、檜皮葺。これら3棟はいずれも国の重要文化財に指定されている。
神庫は本殿と同じく、江戸時代の天明7年(1787年)の造営。方一間の校倉造檜皮葺。元は「宝蔵」と呼ばれていた。随身門は、境内南東の旧参道口に位置する(北緯36度55分26.32秒 東経136度46分8.58秒)。本殿と同じく、江戸時代の天明7年(1787年)の造営。三間一戸の八脚門、切妻造。いずれも石川県の有形文化財に指定されている。
現地情報
所在地
石川県羽咋市寺家町ク1
交通アクセス
バス
羽咋駅(JR西日本七尾線)から、北鉄能登バス(高浜、富来方面行き)で「一の宮」バス停下車(下車後徒歩約5分)。
車
のと里山海道 柳田ICから、志賀町方面へ車で約5分。
古くは一の鳥居前に北陸鉄道能登線の能登一ノ宮駅が存在し、気多大社までのアクセスを担っていた。
拝殿(手前)と本殿(奥)(ともに国の重要文化財)
概要
能登半島の付け根、羽咋市北方に日本海に面して鎮座する。祭神の大己貴命は出雲から舟で能登に入り、国土を開拓したのち守護神としてこの地に鎮まったとされる。古くから北陸の大社として知られ、中世・近世には歴代の領主からも手厚い保護を受けた。
現在は本殿など5棟の社殿が国の重要文化財に指定されているほか、国の天然記念物の社叢「入らずの森」で知られる。
祭神
祭神は次の1柱。
大己貴命(おおなむちのみこと)
鳥居
歴史
創建
社伝(『気多神社縁起』)によれば、第8代孝元天皇の御代に祭神の大己貴命が出雲から300余神を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いたという。
また『気多社島廻縁起』では、気多大菩薩は孝元天皇の時に従者を率いて渡来した異国の王子とし、能登半島一帯を巡行して鬼神を追放したと記される。『気多社祭儀録』では、祭神は第10代崇神天皇の御代の勧請とし、神代からの鎮座とする説もあると記される。
一説として、孝元天皇の御代には七尾市に鎮座(現・気多本宮、位置)し、崇神天皇の御代に当地に遷座したとも伝えられる。
概史
奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が天平20年(748年)に参詣したときの歌が載っている(文献上初見)。
国史では、古くは『続日本紀』神護景雲2年(768年)の記事が見え、同記事では封戸20戸・田2町が支給されている。また神階に関しては、延暦3年(784年)の正三位から、天安3年(859年)に従一位勲一等までの叙位・叙勲の記事が載る。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では能登国羽咋郡に「気多神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。
中世以降は能登国一宮とされ、中世・近世の間は畠山氏・前田氏など歴代の領主からも手厚い保護を受けた。
明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列し、大正4年(1915年)に国幣大社に昇格した。第二次世界大戦後は神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定されていたが、後述のように平成22年(2010年)に神社本庁に属さない単立神社となった。
拝殿(国の重要文化財)
神門(国の重要文化財)
境内
社殿
主要社殿のうち本殿は、江戸時代の天明7年(1787年)の造営。三間社(桁行3間、梁行4間)の類例の少ない両流造で、檜皮葺である。拝殿は、江戸時代の承応2年(1653年)または承応3年(1654年)に大工・山上善右衛門による造営とされる。入母屋造妻入で、檜皮葺。神門は、安土桃山時代(社伝によれば天正12年(1584年))の造営。切妻造、四脚門で、檜皮葺。これら3棟はいずれも国の重要文化財に指定されている。
神庫は本殿と同じく、江戸時代の天明7年(1787年)の造営。方一間の校倉造檜皮葺。元は「宝蔵」と呼ばれていた。随身門は、境内南東の旧参道口に位置する(北緯36度55分26.32秒 東経136度46分8.58秒)。本殿と同じく、江戸時代の天明7年(1787年)の造営。三間一戸の八脚門、切妻造。いずれも石川県の有形文化財に指定されている。
現地情報
所在地
石川県羽咋市寺家町ク1
交通アクセス
バス
羽咋駅(JR西日本七尾線)から、北鉄能登バス(高浜、富来方面行き)で「一の宮」バス停下車(下車後徒歩約5分)。
車
のと里山海道 柳田ICから、志賀町方面へ車で約5分。
古くは一の鳥居前に北陸鉄道能登線の能登一ノ宮駅が存在し、気多大社までのアクセスを担っていた。
2022年09月11日
日本100名城の第9番に選定されている・久保田城(くぼたじょう)
久保田城(くぼたじょう)は、羽後国(旧出羽国)秋田郡久保田、現在の秋田県秋田市千秋公園近辺にあった城郭。史跡指定はされていないが、「千秋公園(久保田城跡)」として秋田市指定名勝に指定されている。また日本100名城の第9番に選定されている。
久保田城 御隅櫓(復元)
概要
久保田藩主佐竹氏の居城である。矢留城、葛根城とも呼ばれている。江戸時代後期から明治時代の公式文書では「秋田城」と書かれることも多かったが、古代に出羽国府が置かれた秋田城とは所在地ともに別の城である。名勝としての指定名称は「千秋公園(久保田城跡)」であり、「久保田城」が使われている。
雄物川の支流である旭川の左岸、程野村窪田にある神明山(しんめいやま、標高40メートル)に築かれた平山城。石垣は基底部に僅かにあるのみでその上に土塁を盛られており(鉢巻土手)、天守も持たず塁上に「出し御書院」(だしおしょいん)または「御出書院」(おだししょいん)と呼ばれる櫓座敷を建ててその代わりとし、他に8棟の櫓を建て並べていた。石垣が無いのは幕府に遠慮したためと言われるが、佐竹氏の旧領常陸国を含む東国ではもともと石垣を用いない築城法が一般的であったため、石垣作りに精通した者が家中に居なかったという説もある(但し後に江戸城の修築を命じられた時、佐竹氏は石垣の普請も担当している)。いずれにせよ、山川沼沢を巧みに利用し防御を図っており、水堀や円郭式城郭など西国の様式も採り入れられている。なお、天守については寛永10年(1633年)の火災以前には「御三階櫓」があったという説があるが、この時期の城内を描いた絵図などは残されておらず、確証は得られていない。
1880年(明治13年)の大火で城内の建造物はほぼ焼失しており、市街再建の過程で堀の多くも埋め立てられ、城下の中通を中心に秋田県初期の官庁街へと変貌した。現在、久保田城本丸・二の丸一帯は千秋公園となり、三の丸にはあきた芸術劇場ミルハスや秋田市立中央図書館明徳館、秋田市文化創造館、平野政吉美術館、秋田県立循環器・脳脊髄センターなどが整備されている。秋田県知事公舎は三の丸御殿の跡地に建てられている。
城郭に関する建造物としては、前述の大火を逃れ、かつ解体も移築もされなかった御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)が現存し、市の有形文化財(建造物)に指定されている。また本丸新兵隅櫓(御隅櫓)、本丸表門が再建されている。移築された建造物としては、焼失を免れた裏門が楼門から平屋へと改修を受けた上で旭北寺町の鱗勝院に現存している。
本丸表門(復元)
現地情報
所在地
秋田県秋田市千秋公園1-39
交通アクセス
JR奥羽本線・羽越本線・秋田新幹線「秋田」駅から徒歩約10分
別名 矢留城、葛根城、秋田城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 佐竹義宣
築城年 1604年(慶長9年)
主な城主 佐竹氏
廃城年 1880年(明治13年)
遺構 土塁、堀、門、番所
指定文化財 秋田市指定名勝:千秋公園(久保田城跡)
秋田市指定有形文化財:御物頭御番所
再建造物 本丸新兵具隅櫓、本丸表門
位置 北緯39度43分24.53秒 東経140度7分23.67秒
久保田城 御隅櫓(復元)
概要
久保田藩主佐竹氏の居城である。矢留城、葛根城とも呼ばれている。江戸時代後期から明治時代の公式文書では「秋田城」と書かれることも多かったが、古代に出羽国府が置かれた秋田城とは所在地ともに別の城である。名勝としての指定名称は「千秋公園(久保田城跡)」であり、「久保田城」が使われている。
雄物川の支流である旭川の左岸、程野村窪田にある神明山(しんめいやま、標高40メートル)に築かれた平山城。石垣は基底部に僅かにあるのみでその上に土塁を盛られており(鉢巻土手)、天守も持たず塁上に「出し御書院」(だしおしょいん)または「御出書院」(おだししょいん)と呼ばれる櫓座敷を建ててその代わりとし、他に8棟の櫓を建て並べていた。石垣が無いのは幕府に遠慮したためと言われるが、佐竹氏の旧領常陸国を含む東国ではもともと石垣を用いない築城法が一般的であったため、石垣作りに精通した者が家中に居なかったという説もある(但し後に江戸城の修築を命じられた時、佐竹氏は石垣の普請も担当している)。いずれにせよ、山川沼沢を巧みに利用し防御を図っており、水堀や円郭式城郭など西国の様式も採り入れられている。なお、天守については寛永10年(1633年)の火災以前には「御三階櫓」があったという説があるが、この時期の城内を描いた絵図などは残されておらず、確証は得られていない。
1880年(明治13年)の大火で城内の建造物はほぼ焼失しており、市街再建の過程で堀の多くも埋め立てられ、城下の中通を中心に秋田県初期の官庁街へと変貌した。現在、久保田城本丸・二の丸一帯は千秋公園となり、三の丸にはあきた芸術劇場ミルハスや秋田市立中央図書館明徳館、秋田市文化創造館、平野政吉美術館、秋田県立循環器・脳脊髄センターなどが整備されている。秋田県知事公舎は三の丸御殿の跡地に建てられている。
城郭に関する建造物としては、前述の大火を逃れ、かつ解体も移築もされなかった御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)が現存し、市の有形文化財(建造物)に指定されている。また本丸新兵隅櫓(御隅櫓)、本丸表門が再建されている。移築された建造物としては、焼失を免れた裏門が楼門から平屋へと改修を受けた上で旭北寺町の鱗勝院に現存している。
本丸表門(復元)
現地情報
所在地
秋田県秋田市千秋公園1-39
交通アクセス
JR奥羽本線・羽越本線・秋田新幹線「秋田」駅から徒歩約10分
別名 矢留城、葛根城、秋田城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 佐竹義宣
築城年 1604年(慶長9年)
主な城主 佐竹氏
廃城年 1880年(明治13年)
遺構 土塁、堀、門、番所
指定文化財 秋田市指定名勝:千秋公園(久保田城跡)
秋田市指定有形文化財:御物頭御番所
再建造物 本丸新兵具隅櫓、本丸表門
位置 北緯39度43分24.53秒 東経140度7分23.67秒
2022年09月10日
青森県西津軽郡深浦町にある真言宗醍醐派の寺院・円覚寺
円覚寺(えんがくじ)は、青森県西津軽郡深浦町にある真言宗醍醐派の寺院。山号は春光山。本尊は十一面観音。津軽三十三ヶ所観音霊場の第十番札所である。
歴史
創建について『津軽一統志』には「平城帝の大同2年(807年)征夷大将軍坂上田村麿、観音堂を此地に建立し、厩戸皇子の巧妙作となる十一面観世音菩薩像を安置した」とある。 円覚寺の縁起には「清和天皇の貞観10年(868年)円覚法印は大和国の人にて、泰澄大徳の弟子、浄定の末弟なり。修験道を奉じ諸国の霊山を遍歴し、遂に此地に来り、田村麿創建するところの観音堂を再興し茲に草庵をたてて円覚寺と称す」とある。
平安時代、嘉応年中には鎮守府将軍藤原基衡が堂宇を再建したことが棟札などに記されている。
奉納された懸仏の裏に、「年武運長久 平継久」と墨書がある。
室町時代には、至徳2年(1385年)銘の鰐口。永正3年(1506年)には、葛西木庭袋伊予守頼清が堂宇を再建したことが棟札などに記されている。
江戸時代初期、笏谷石製の宝篋印塔 江戸時代には、津軽藩の祈祷寺院となり歴代藩主の庇護の元、堂宇の修復再建がされていた。 主な修復を挙げると、
寛永元年(1624年) 2代藩主津軽信牧が本尊台座、光背を彫刻寄進。
寛永 2年(1625年) 2代藩主津軽信牧が堂宇を再建。
明暦元年(1655年) 3代藩主津軽信義が堂宇を修復。
寛文 7年(1667年) 4代藩主津軽信政が堂宇を再建。本尊に彩色箔仏荘厳。
元禄13年(1700年) 4代藩主津軽信政が堂宇を再建。
享保13年(1728年) 5代藩主津軽信寿が堂宇を修復。
このような奉納物から、各時代において豪族の庇護があったことがうかがえる。
伽藍
本堂 - 大正9年(1920年)建立
金毘羅堂 - 天保7年(1836年)建立
薬師堂 - 弘化4年(1847年)建立
山門 - 大正9年(1920年)建立
文化財
重要文化財(国指定)
円覚寺薬師堂内厨子
重要有形民俗文化財(国指定)
円覚寺奉納海上信仰資料
鰐口
絹本著色聖宝僧正像
円覚寺宝篋印塔
円覚寺真言・修験聖教類及び文書
澗口観音としての信仰
江戸時代には、深浦湊は津軽藩の四浦の一つとなり、北前船交易の寄港地となった。その商人や船乗りの寄進も数多くあった。 境内に「竜灯杉」と呼ばれる巨木があり、日本海を航行する船の目印になったという。 澗口観音を日頃から信心すれば闇夜においては光を放って守護したといい、漁師達からは「助けの杉」と呼ばれていた。また、難破する船の絶えない日本海で大時化にあった時には、船頭水主たちが髷を切り一心に念ずれば梢から光を灯し海難から救ったという。
交通アクセス
JR東日本五能線深浦駅下車徒歩20分
所在地 青森県西津軽郡深浦町大字深浦字浜町275
位置 北緯40度38分32.1秒 東経139度55分22.3秒
山号 春光山(しゅんこうざん)
宗派 真言宗醍醐派
本尊 十一面観音
創建年 (伝)大同2年(807年)
開山 円覚法印
開基 (伝)坂上田村麻呂
別称 澗口観音
札所等 津軽三十三観音霊場第十番
津軽三十三観音霊場第九番朱印所
津軽弘法大師霊場十二番
北国八十八ヶ所霊場第六十番
文化財 薬師堂内厨子(国の重要文化財)
円覚寺奉納海上信仰資料(国の重要有形民俗文化財)
歴史
創建について『津軽一統志』には「平城帝の大同2年(807年)征夷大将軍坂上田村麿、観音堂を此地に建立し、厩戸皇子の巧妙作となる十一面観世音菩薩像を安置した」とある。 円覚寺の縁起には「清和天皇の貞観10年(868年)円覚法印は大和国の人にて、泰澄大徳の弟子、浄定の末弟なり。修験道を奉じ諸国の霊山を遍歴し、遂に此地に来り、田村麿創建するところの観音堂を再興し茲に草庵をたてて円覚寺と称す」とある。
平安時代、嘉応年中には鎮守府将軍藤原基衡が堂宇を再建したことが棟札などに記されている。
奉納された懸仏の裏に、「年武運長久 平継久」と墨書がある。
室町時代には、至徳2年(1385年)銘の鰐口。永正3年(1506年)には、葛西木庭袋伊予守頼清が堂宇を再建したことが棟札などに記されている。
江戸時代初期、笏谷石製の宝篋印塔 江戸時代には、津軽藩の祈祷寺院となり歴代藩主の庇護の元、堂宇の修復再建がされていた。 主な修復を挙げると、
寛永元年(1624年) 2代藩主津軽信牧が本尊台座、光背を彫刻寄進。
寛永 2年(1625年) 2代藩主津軽信牧が堂宇を再建。
明暦元年(1655年) 3代藩主津軽信義が堂宇を修復。
寛文 7年(1667年) 4代藩主津軽信政が堂宇を再建。本尊に彩色箔仏荘厳。
元禄13年(1700年) 4代藩主津軽信政が堂宇を再建。
享保13年(1728年) 5代藩主津軽信寿が堂宇を修復。
このような奉納物から、各時代において豪族の庇護があったことがうかがえる。
伽藍
本堂 - 大正9年(1920年)建立
金毘羅堂 - 天保7年(1836年)建立
薬師堂 - 弘化4年(1847年)建立
山門 - 大正9年(1920年)建立
文化財
重要文化財(国指定)
円覚寺薬師堂内厨子
重要有形民俗文化財(国指定)
円覚寺奉納海上信仰資料
鰐口
絹本著色聖宝僧正像
円覚寺宝篋印塔
円覚寺真言・修験聖教類及び文書
澗口観音としての信仰
江戸時代には、深浦湊は津軽藩の四浦の一つとなり、北前船交易の寄港地となった。その商人や船乗りの寄進も数多くあった。 境内に「竜灯杉」と呼ばれる巨木があり、日本海を航行する船の目印になったという。 澗口観音を日頃から信心すれば闇夜においては光を放って守護したといい、漁師達からは「助けの杉」と呼ばれていた。また、難破する船の絶えない日本海で大時化にあった時には、船頭水主たちが髷を切り一心に念ずれば梢から光を灯し海難から救ったという。
交通アクセス
JR東日本五能線深浦駅下車徒歩20分
所在地 青森県西津軽郡深浦町大字深浦字浜町275
位置 北緯40度38分32.1秒 東経139度55分22.3秒
山号 春光山(しゅんこうざん)
宗派 真言宗醍醐派
本尊 十一面観音
創建年 (伝)大同2年(807年)
開山 円覚法印
開基 (伝)坂上田村麻呂
別称 澗口観音
札所等 津軽三十三観音霊場第十番
津軽三十三観音霊場第九番朱印所
津軽弘法大師霊場十二番
北国八十八ヶ所霊場第六十番
文化財 薬師堂内厨子(国の重要文化財)
円覚寺奉納海上信仰資料(国の重要有形民俗文化財)