明石国行(あかしくにゆき)は、鎌倉時代に作られたとされる日本刀(太刀)である。日本の国宝に指定されており、東京都墨田区にある刀剣博物館が収蔵している。
概要
鎌倉時代後期、山城国来派の実質的な祖である刀工・国行によって作られた刀である。来派は山城国粟田口派から派生する形で誕生し、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて隆盛した一派であり、祖である国吉の作刀が存在せず国行が実質的な祖とされている。国行の作刀はほとんどが太刀であるが、その中でも本作は白眉であり身幅が広く当初の姿をよく残している。
明石国行の名前は、播磨国明石藩主である明石松平家に代々伝わっていたことに由来する。明石国行の来歴には不詳の点が多く、どのような経緯で明石松平家に伝来したかは明らかではない。俗説として鎌倉時代の北条家御内人・長崎為基が所持していた国行作の大太刀である「面影」が磨り上げで太刀となり、足利義明や池田輝政を経て明石松平家に伝来したという説があるが、明石国行には磨り上げの痕跡がないためこれは誤りである。
明治維新以降も明石松平家に伝来し、1937年(昭和12年)5月25日に子爵松平直頴の所有名義で、当時の国宝保存法に基づく旧国宝に指定された。その後、明石松平家を出て、出版社・ぎょうせいの社主であり、著明な刀剣コレクターでもあった藤澤乙安のコレクションに加えられた。文化財保護法施行後の1953年(昭和28年)3月31日には同法に基づく国宝(新国宝)に指定された。藤澤の没後、明石国行を含む同人のコレクションは公益財団法人日本美術刀剣保存協会に寄贈され、東京都墨田区にある刀剣博物館に収蔵されている。
作風
刀身
刃長は76.5センチメートル、反りは3.1センチメートル、元幅は3.03センチメートル。中反りが深く、切先(きっさき、刀の先端部分)はやや寸が詰まって身幅が広く造られており重ねも厚い。
刀身裏表に棒樋(ぼうひ)を彫る。棒樋は佩表(はきおもて)では茎(なかご、柄に収まる手に持つ部分)の半ばにある銘のすぐ上まで掻き流し、佩裏では茎尻まで掻き通している。刃区(はまち、茎と刃部分の境目)すぐ上から裏表の棒樋内には三鈷柄剣(さんこづかけん)が彫りこまれる珍しい造りとなっている。三鈷柄剣はインド密教の法具であり不動明王を示すものとされている。三鈷柄剣が彫り込まれた意図として煩悩を祓う仏剣をイメージしたものか、不動明王の憤怒と破邪の表出をイメージしたものかは明らかではない。
地鉄は板目肌が約(つ)み、地沸映り(じにえうつり)が立つ。刃文は直刃(すぐは)調の丁子乱れで、足・葉(よう)よく入る。佩表に「国行」の二字銘を切る。
指定情報
種別 国宝
名称 太刀〈銘国行/〉
基本情報
種類 太刀
時代 鎌倉時代
刀工 国行
刀派 来派
全長 96.8 cm
刃長 76.5 cm
反り 3.1 cm
先幅 2.06 cm
元幅 3.03 cm
重量 717.0 g
所蔵 刀剣博物館(東京都墨田区)
所有 公益財団法人日本美術刀剣保存協会
2022年10月04日
2022年10月01日
久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社
久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社である。江戸幕府を創始し、晩年を駿府(静岡市)で過ごした徳川家康が元和2年(1616年)に死去した後、遺命によってこの地に埋葬された。駿河湾に面した久能山の南斜面に設けられた表参道(1159段の曲がりくねった石段)を登った上に神社がある。
江戸時代には20年に一度、明治時代以降では50年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、近年では2006年(平成18年)に社殿の塗り替えが完了した。
2010年(平成22年)12月に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。2015年(平成27年)には鎮座400年を迎え、様々な催し物が企画、開催された。
静岡県静岡市駿河区の久能山東照宮の楼門
歴史
久能山(標高216m)は元々、北側にある日本平とともに太古の海底隆起によって形成された。長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。
推古天皇(592年- 628年)の頃、秦氏の末柄にあたる秦久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾(聖一国師)など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。
永禄11年(1568年)、駿河侵攻で駿府を制した武田信玄が久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地に久能城を築いた。しかし、甲州征伐による武田氏滅亡とともに駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。
家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と久能山の重要性を説いたといわれる。死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、元和3年(1617年)12月には江戸幕府第2代将軍徳川秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された。家康の遺命は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山の東照社(現・日光東照宮)もほぼ同時期に造営が始まっている。日光東照宮は第3代将軍徳川家光の代における「寛永の大造替」で、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった。同時に家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、薬師堂(現・日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、五重塔(後述の事情で現存せず)、楼門が増築された。
なお、駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領して久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家であった。
造営以来の多くの建造物が現存するが、寛永期に徳川家光が造営を命じた五重塔は、明治時代初期の神仏分離によって解体を余儀なくされた。
門前より臨む久能山。表参道からは1159段の石段を登り社殿に至る
祭神
徳川家康(東照大神・東照大権現)
(相殿)豊臣秀吉・織田信長
久能山東照宮にある徳川家康の手形
文化財
建造物
国宝
久能山東照宮 本殿、石の間、拝殿(1棟(附:安鎮法供養具11組、本殿釣燈籠4箇、拝殿釣燈籠2箇)
江戸時代初期の代表的権現造で元和3年(1617年)落成。寛永年間に檜皮葺から銅瓦葺きとなった。
本殿西側面
唐門
透塀(東門北側)
交通アクセス
日本平山頂西側にある日本平駅から日本平ロープウェイで約5分(日本平山頂には、公設・静岡鉄道私有のものを含め、一般車・観光バス向けの無料駐車場が多数用意され、ロープウェイ運行時間内は自由に利用できる)。
新静岡バスターミナル・静岡駅北口・東静岡駅南口からしずてつジャストライン・日本平線 42系統「日本平ロープウェイ」行き終点下車、上述の日本平ロープウェイに乗り換え(土休日に公共交通での訪問・拝観を希望する場合、しずてつジャストラインでは、この経路の利用を推奨している)
又は
静岡駅南口からしずてつジャストライン・石田街道線 14系統「久能山下」行き(運賃を通算する直行便の設定は限られている。ただし、途中の東大谷までは石田街道線に加え、静岡駅北口から美和大谷線も頻発、東大谷から約1時間おきに運行される久能山下行きに乗り換え可能。運賃は同停留所で区間ごとの打ち切り計算。石田街道線の久能山下行きダイヤは等時隔ではない。
清水駅前・新清水からしずてつジャストライン・山原梅蔭寺線 226・227系統「久能山下」行き(昼間でも2時間ないし3時間程度運行間隔が開く時間帯があるなど、運行本数は少ない)
双方とも終点「久能山下」下車、同バス停との間には1,159段の石段がある(健康な大人の足で、昇降には概ね15分から30分を要する)。ロープウェイの運行時刻は夏季と冬季で異なり(久能山東照宮の拝観時間に合わせた設定で冬季は早じまいする。)、またいずれのバス系統も、平日ダイヤと土休日ダイヤで大きく運行本数および時刻を異にするので、路線バスを利用して久能山東照宮へ訪問する場合には、関係各所への事前問い合わせ、あるいは提供している情報を用いてあらかじめ調査を行い、移動時間には余裕を持たせることが望ましい。
日本平ロープウェイは設備点検・機器更新等のため、閑散期に期間を予告して運休する場合がある。
所在地 静岡市駿河区根古屋390番地
位置 北緯34度57分53.47秒 東経138度28分3.33秒
主祭神 徳川家康(東照大権現)
社格等 別格官幣社
創建 元和2年12月(1617年1月)
本殿の様式 権現造
江戸時代には20年に一度、明治時代以降では50年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、近年では2006年(平成18年)に社殿の塗り替えが完了した。
2010年(平成22年)12月に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。2015年(平成27年)には鎮座400年を迎え、様々な催し物が企画、開催された。
静岡県静岡市駿河区の久能山東照宮の楼門
歴史
久能山(標高216m)は元々、北側にある日本平とともに太古の海底隆起によって形成された。長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。
推古天皇(592年- 628年)の頃、秦氏の末柄にあたる秦久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾(聖一国師)など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。
永禄11年(1568年)、駿河侵攻で駿府を制した武田信玄が久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地に久能城を築いた。しかし、甲州征伐による武田氏滅亡とともに駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。
家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と久能山の重要性を説いたといわれる。死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、元和3年(1617年)12月には江戸幕府第2代将軍徳川秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された。家康の遺命は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山の東照社(現・日光東照宮)もほぼ同時期に造営が始まっている。日光東照宮は第3代将軍徳川家光の代における「寛永の大造替」で、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった。同時に家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、薬師堂(現・日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、五重塔(後述の事情で現存せず)、楼門が増築された。
なお、駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領して久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家であった。
造営以来の多くの建造物が現存するが、寛永期に徳川家光が造営を命じた五重塔は、明治時代初期の神仏分離によって解体を余儀なくされた。
門前より臨む久能山。表参道からは1159段の石段を登り社殿に至る
祭神
徳川家康(東照大神・東照大権現)
(相殿)豊臣秀吉・織田信長
久能山東照宮にある徳川家康の手形
文化財
建造物
国宝
久能山東照宮 本殿、石の間、拝殿(1棟(附:安鎮法供養具11組、本殿釣燈籠4箇、拝殿釣燈籠2箇)
江戸時代初期の代表的権現造で元和3年(1617年)落成。寛永年間に檜皮葺から銅瓦葺きとなった。
本殿西側面
唐門
透塀(東門北側)
交通アクセス
日本平山頂西側にある日本平駅から日本平ロープウェイで約5分(日本平山頂には、公設・静岡鉄道私有のものを含め、一般車・観光バス向けの無料駐車場が多数用意され、ロープウェイ運行時間内は自由に利用できる)。
新静岡バスターミナル・静岡駅北口・東静岡駅南口からしずてつジャストライン・日本平線 42系統「日本平ロープウェイ」行き終点下車、上述の日本平ロープウェイに乗り換え(土休日に公共交通での訪問・拝観を希望する場合、しずてつジャストラインでは、この経路の利用を推奨している)
又は
静岡駅南口からしずてつジャストライン・石田街道線 14系統「久能山下」行き(運賃を通算する直行便の設定は限られている。ただし、途中の東大谷までは石田街道線に加え、静岡駅北口から美和大谷線も頻発、東大谷から約1時間おきに運行される久能山下行きに乗り換え可能。運賃は同停留所で区間ごとの打ち切り計算。石田街道線の久能山下行きダイヤは等時隔ではない。
清水駅前・新清水からしずてつジャストライン・山原梅蔭寺線 226・227系統「久能山下」行き(昼間でも2時間ないし3時間程度運行間隔が開く時間帯があるなど、運行本数は少ない)
双方とも終点「久能山下」下車、同バス停との間には1,159段の石段がある(健康な大人の足で、昇降には概ね15分から30分を要する)。ロープウェイの運行時刻は夏季と冬季で異なり(久能山東照宮の拝観時間に合わせた設定で冬季は早じまいする。)、またいずれのバス系統も、平日ダイヤと土休日ダイヤで大きく運行本数および時刻を異にするので、路線バスを利用して久能山東照宮へ訪問する場合には、関係各所への事前問い合わせ、あるいは提供している情報を用いてあらかじめ調査を行い、移動時間には余裕を持たせることが望ましい。
日本平ロープウェイは設備点検・機器更新等のため、閑散期に期間を予告して運休する場合がある。
所在地 静岡市駿河区根古屋390番地
位置 北緯34度57分53.47秒 東経138度28分3.33秒
主祭神 徳川家康(東照大権現)
社格等 別格官幣社
創建 元和2年12月(1617年1月)
本殿の様式 権現造
2022年09月30日
東寺真言宗の大本山の寺院・石山寺(いしやまでら)
石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺にある東寺真言宗の大本山の寺院。山号は石光山。本尊は如意輪観世音菩薩(如意輪観音)。開山は良弁。西国三十三所第13番札所。
2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観− 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。
本尊真言:おん ばだら はんどめい うん
ご詠歌:後の世を願うこころはかろくとも ほとけの誓いおもき石山
多宝塔 (国宝、日本三塔の一つ)
概要
当寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国の天然記念物の珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている(石山寺珪灰石は日本の地質百選に選定)。
『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。紅葉の名所としても知られ、秋にはライトアップが行われており、2015年(平成27年)に日本夜景遺産に認定された。また、洋画家の三谷祐幸によって寄付された関西美術院を所有する。
本堂 (国宝)
歴史
『石山寺縁起絵巻』によれば、聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まりとされている。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金(金メッキ)を施すために大量の黄金を必要としていた。そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野の金峯山に祈らせた。金峯山はその名の通り、「金の山」と信じられていたようである。そうしたところ、良弁の夢に吉野の金剛蔵王(蔵王権現)が現われ、こう告げた。「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるものである(だから大仏鍍金のために使うことはできない)。近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」。夢のお告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は、比良明神(≒白鬚明神)の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てた。そして程なく(実際にはその2年後に)陸奥国から黄金が産出され、元号を天平勝宝と改めた。こうして良弁の修法は霊験あらたかなること立証できたわけであるが、如意輪観音像がどうしたことか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創という。そもそも正倉院文書によれば、この石山の地は、東大寺を建立するために近江国の各所から伐採してきた木材を集めておく場所であったのが知れる。この地が東大寺や良弁と強い繋がりがあったのが分かる。
その他資料としては『元亨釈書』[4] や、後代であるが宝永2年(1705年)の白鬚大明神縁起絵巻がある。
その後、天平宝字5年(761年)から造石山寺所という役所のもとで堂宇の拡張、伽藍の整備が行われた。正倉院文書によれば、造東大寺司からも仏師などの職員が派遣されたことが知られ、石山寺の造営は国家的事業として進められていた。これには、淳仁天皇と孝謙上皇が造営した保良宮が石山寺の近くにあったことも関係しているといわれる。本尊の塑造如意輪観音像と脇侍の金剛蔵王像、執金剛神像は、天平宝字5年(761年)から翌年にかけて制作され、本尊の胎内に聖徳太子念持仏の6寸如意輪観音像を納めたという。こうして石山寺は華厳宗の寺院として寺観が整えられていった。
それ以降から平安時代前期にかけての寺史はあまりはっきりしていないが、寺伝によれば、初代の座主(ざす、「住職」とほぼ同義)に聖宝が就いて真言宗の寺院となっている。その後も観賢などの当時高名な僧が座主として入寺している。聖宝と観賢はいずれも醍醐寺関係の僧である。石山寺と醍醐寺は地理的にも近く、この頃から石山寺の密教化が進んだものと思われる。
石山寺の中興の祖といわれるのが、菅原道真の孫の第3世座主・淳祐内供(890年 - 953年)である。内供とは内供奉十禅師(ないくぶじゅうぜんじ)の略称で、天皇の傍にいて常に玉体を加持する僧の称号である。高僧でありながら諸職を固辞していた淳祐は、やがてこの内供と称されるようになった。「石山内供」「普賢院内供」とも呼ばれている。淳祐は体が不自由で、正式の坐法で坐ることができなかったことから学業に精励し、膨大な著述を残している。彼の自筆本は今も石山寺に多数残存し、「匂いの聖教(においのしょうぎょう)」と呼ばれ、一括して国宝に指定されている。このころ、石山詣が宮廷の官女の間で盛んとなり、『蜻蛉日記』や『更級日記』にも描写されている。
承暦2年(1078年)1月2日、落雷によって本堂が半焼し、本尊の塑造如意輪観音像も損壊したため、永長元年(1096年)に本堂(国宝)を再建し、新たな本尊として如意輪観音坐像(重要文化財)を祀る形となった。
東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされる。この頃にはだいたい現在見るような寺観が整ったと思われる。
戦国時代の元亀4年(1573年)2月に光浄院暹慶が室町幕府第15代将軍足利義昭の味方をして織田信長に背き、石山寺の南にあった石山城に立て籠もったが、すぐに柴田勝家の攻撃を受けて降伏している。この合戦によって石山寺のいくつかの堂舎が被害を受けている。その後、信長によって寺領5,000石が没収されてしまったが、信長の死後、豊臣秀吉によって文禄5年(1596年)にいくつかの寺領が返還されている。
慶長6年(1601年)には徳川家康によって寺領579石が認められている。
慶長年間(1596年 - 1615年)、淀殿によって石山寺の復興が行われ、慶長7年(1602年)には本堂の合の間と礼堂が改築されている。
石山寺は全山炎上するような兵火には遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している。
石山寺硅灰石 (国の天然記念物)
多宝塔と紅葉
東大門
文化財
木造如意輪観音坐像
当寺の本尊であり、重要文化財に指定されている。本堂奥の巨大な厨子に納められている秘仏である。33年に1度の開扉と天皇即位翌年の開扉以外は原則として公開されず、開扉は勅使により行われるため、石山寺では「日本唯一勅封観音」としている。像高約3メートル。如意輪観音像は6臂像(6本の手をもつ)が多いが、本像は2臂像で、岩盤の上に直接坐している。本堂の再建と同時期の平安時代後期の作と推定される。像内からは奈良時代の金銅仏4体、水晶製五輪塔などが発見され、これらは2003年、本像の附属として重文に追加指定されている。本像は以下の機会に開扉されている。
1991年4月10日から4月30日まで(明仁の第125代天皇即位に伴う即位吉例開扉)
2002年8月1日から12月16日まで(開基1,250年記念)
2009年3月1日から5月31日まで、および9月1日から12月16日まで(花山法皇一千年忌西国札所一斉開扉)
2016年3月18日から12月4日まで(33年ごとの開扉)
2020年3月18日から8月10日まで(徳仁の第126代天皇即位に伴う即位吉例開扉)
国宝
本堂
多宝塔 附:棟札 1枚
漢書 高帝紀下、列伝第四残巻 2巻(紙背金剛界念誦私記)
史記 巻第九十六、九十七残巻 1巻(紙背金剛界次第)
玉篇巻第廿七 後半(紙背如意輪陀羅尼経)
春秋経伝集解 巻第廿六残巻(しゅんじゅうけいでんしっかい)
春秋経伝集解 巻第廿九残巻(紙背金剛界儀軌)
釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)5帖
淳祐内供筆聖教(薫聖教)(しゅんにゅうないくひつしょうぎょう・においのしょうぎょう)73巻1帖(附:聖教目録1巻)
延暦交替式(紙背南天竺般若悉曇十八章)
越中国官倉納穀交替記残巻(紙背伝三昧耶戒私記)
周防国玖珂郡玖珂郷延喜八年戸籍残巻(紙背金剛界入曼荼羅受三昧耶戒行儀)
拝観情報
交通アクセス
京阪石山坂本線「石山寺駅」より徒歩10分
西日本旅客鉄道(JR西日本)琵琶湖線(東海道本線)「石山駅」より京阪バス「石山寺山門前」下車
甲賀市コミュニティバス「京阪石山寺」より徒歩10分
名神瀬田東IC・瀬田西ICより車5分 (駐車場:140台)
開門時間 - 8:00〜16:30
所在地 滋賀県大津市石山寺1丁目1-1
位置 北緯34度57分37.51秒 東経135度54分20.25秒
山号 石光山
宗派 東寺真言宗
寺格 大本山
本尊 如意輪観音
創建年 天平19年(747年)
開山 良弁
開基 聖武天皇(勅願)
正式名 石光山 石山寺
札所等 西国三十三所第13番
近江西国三十三観音霊場第3番
江州三十三観音第1番
びわ湖百八霊場第1番
神仏霊場巡拝の道第146番(滋賀第14番)
文化財 本堂、多宝塔、釈摩訶衍論ほか9件(国宝)
東大門、鐘楼ほか(重要文化財)
珪灰石(国の天然記念物)
2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観− 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。
本尊真言:おん ばだら はんどめい うん
ご詠歌:後の世を願うこころはかろくとも ほとけの誓いおもき石山
多宝塔 (国宝、日本三塔の一つ)
概要
当寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国の天然記念物の珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている(石山寺珪灰石は日本の地質百選に選定)。
『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。紅葉の名所としても知られ、秋にはライトアップが行われており、2015年(平成27年)に日本夜景遺産に認定された。また、洋画家の三谷祐幸によって寄付された関西美術院を所有する。
本堂 (国宝)
歴史
『石山寺縁起絵巻』によれば、聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まりとされている。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金(金メッキ)を施すために大量の黄金を必要としていた。そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野の金峯山に祈らせた。金峯山はその名の通り、「金の山」と信じられていたようである。そうしたところ、良弁の夢に吉野の金剛蔵王(蔵王権現)が現われ、こう告げた。「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるものである(だから大仏鍍金のために使うことはできない)。近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」。夢のお告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は、比良明神(≒白鬚明神)の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てた。そして程なく(実際にはその2年後に)陸奥国から黄金が産出され、元号を天平勝宝と改めた。こうして良弁の修法は霊験あらたかなること立証できたわけであるが、如意輪観音像がどうしたことか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創という。そもそも正倉院文書によれば、この石山の地は、東大寺を建立するために近江国の各所から伐採してきた木材を集めておく場所であったのが知れる。この地が東大寺や良弁と強い繋がりがあったのが分かる。
その他資料としては『元亨釈書』[4] や、後代であるが宝永2年(1705年)の白鬚大明神縁起絵巻がある。
その後、天平宝字5年(761年)から造石山寺所という役所のもとで堂宇の拡張、伽藍の整備が行われた。正倉院文書によれば、造東大寺司からも仏師などの職員が派遣されたことが知られ、石山寺の造営は国家的事業として進められていた。これには、淳仁天皇と孝謙上皇が造営した保良宮が石山寺の近くにあったことも関係しているといわれる。本尊の塑造如意輪観音像と脇侍の金剛蔵王像、執金剛神像は、天平宝字5年(761年)から翌年にかけて制作され、本尊の胎内に聖徳太子念持仏の6寸如意輪観音像を納めたという。こうして石山寺は華厳宗の寺院として寺観が整えられていった。
それ以降から平安時代前期にかけての寺史はあまりはっきりしていないが、寺伝によれば、初代の座主(ざす、「住職」とほぼ同義)に聖宝が就いて真言宗の寺院となっている。その後も観賢などの当時高名な僧が座主として入寺している。聖宝と観賢はいずれも醍醐寺関係の僧である。石山寺と醍醐寺は地理的にも近く、この頃から石山寺の密教化が進んだものと思われる。
石山寺の中興の祖といわれるのが、菅原道真の孫の第3世座主・淳祐内供(890年 - 953年)である。内供とは内供奉十禅師(ないくぶじゅうぜんじ)の略称で、天皇の傍にいて常に玉体を加持する僧の称号である。高僧でありながら諸職を固辞していた淳祐は、やがてこの内供と称されるようになった。「石山内供」「普賢院内供」とも呼ばれている。淳祐は体が不自由で、正式の坐法で坐ることができなかったことから学業に精励し、膨大な著述を残している。彼の自筆本は今も石山寺に多数残存し、「匂いの聖教(においのしょうぎょう)」と呼ばれ、一括して国宝に指定されている。このころ、石山詣が宮廷の官女の間で盛んとなり、『蜻蛉日記』や『更級日記』にも描写されている。
承暦2年(1078年)1月2日、落雷によって本堂が半焼し、本尊の塑造如意輪観音像も損壊したため、永長元年(1096年)に本堂(国宝)を再建し、新たな本尊として如意輪観音坐像(重要文化財)を祀る形となった。
東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされる。この頃にはだいたい現在見るような寺観が整ったと思われる。
戦国時代の元亀4年(1573年)2月に光浄院暹慶が室町幕府第15代将軍足利義昭の味方をして織田信長に背き、石山寺の南にあった石山城に立て籠もったが、すぐに柴田勝家の攻撃を受けて降伏している。この合戦によって石山寺のいくつかの堂舎が被害を受けている。その後、信長によって寺領5,000石が没収されてしまったが、信長の死後、豊臣秀吉によって文禄5年(1596年)にいくつかの寺領が返還されている。
慶長6年(1601年)には徳川家康によって寺領579石が認められている。
慶長年間(1596年 - 1615年)、淀殿によって石山寺の復興が行われ、慶長7年(1602年)には本堂の合の間と礼堂が改築されている。
石山寺は全山炎上するような兵火には遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している。
石山寺硅灰石 (国の天然記念物)
多宝塔と紅葉
東大門
文化財
木造如意輪観音坐像
当寺の本尊であり、重要文化財に指定されている。本堂奥の巨大な厨子に納められている秘仏である。33年に1度の開扉と天皇即位翌年の開扉以外は原則として公開されず、開扉は勅使により行われるため、石山寺では「日本唯一勅封観音」としている。像高約3メートル。如意輪観音像は6臂像(6本の手をもつ)が多いが、本像は2臂像で、岩盤の上に直接坐している。本堂の再建と同時期の平安時代後期の作と推定される。像内からは奈良時代の金銅仏4体、水晶製五輪塔などが発見され、これらは2003年、本像の附属として重文に追加指定されている。本像は以下の機会に開扉されている。
1991年4月10日から4月30日まで(明仁の第125代天皇即位に伴う即位吉例開扉)
2002年8月1日から12月16日まで(開基1,250年記念)
2009年3月1日から5月31日まで、および9月1日から12月16日まで(花山法皇一千年忌西国札所一斉開扉)
2016年3月18日から12月4日まで(33年ごとの開扉)
2020年3月18日から8月10日まで(徳仁の第126代天皇即位に伴う即位吉例開扉)
国宝
本堂
多宝塔 附:棟札 1枚
漢書 高帝紀下、列伝第四残巻 2巻(紙背金剛界念誦私記)
史記 巻第九十六、九十七残巻 1巻(紙背金剛界次第)
玉篇巻第廿七 後半(紙背如意輪陀羅尼経)
春秋経伝集解 巻第廿六残巻(しゅんじゅうけいでんしっかい)
春秋経伝集解 巻第廿九残巻(紙背金剛界儀軌)
釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)5帖
淳祐内供筆聖教(薫聖教)(しゅんにゅうないくひつしょうぎょう・においのしょうぎょう)73巻1帖(附:聖教目録1巻)
延暦交替式(紙背南天竺般若悉曇十八章)
越中国官倉納穀交替記残巻(紙背伝三昧耶戒私記)
周防国玖珂郡玖珂郷延喜八年戸籍残巻(紙背金剛界入曼荼羅受三昧耶戒行儀)
拝観情報
交通アクセス
京阪石山坂本線「石山寺駅」より徒歩10分
西日本旅客鉄道(JR西日本)琵琶湖線(東海道本線)「石山駅」より京阪バス「石山寺山門前」下車
甲賀市コミュニティバス「京阪石山寺」より徒歩10分
名神瀬田東IC・瀬田西ICより車5分 (駐車場:140台)
開門時間 - 8:00〜16:30
所在地 滋賀県大津市石山寺1丁目1-1
位置 北緯34度57分37.51秒 東経135度54分20.25秒
山号 石光山
宗派 東寺真言宗
寺格 大本山
本尊 如意輪観音
創建年 天平19年(747年)
開山 良弁
開基 聖武天皇(勅願)
正式名 石光山 石山寺
札所等 西国三十三所第13番
近江西国三十三観音霊場第3番
江州三十三観音第1番
びわ湖百八霊場第1番
神仏霊場巡拝の道第146番(滋賀第14番)
文化財 本堂、多宝塔、釈摩訶衍論ほか9件(国宝)
東大門、鐘楼ほか(重要文化財)
珪灰石(国の天然記念物)
2022年09月29日
国の重要文化財・多久聖廟(たくせいびょう)
多久聖廟(たくせいびょう)は、佐賀県多久市に設けられた孔子廟。1708年(宝永5年)竣工。
多久聖廟
概要
肥前多久邑主の多久茂文が教育振興を目的として建立を発願し、1699年(元禄12年)に学問所(後の東原庠舎)を建設した上でその講堂に孔子像を安置、さらに1708年(宝永5年)に椎原山の麓に拝殿が完成。落成後は恭安殿とよばれ、現在の聖廟がこれにあたる。1907年(明治40年)の改修工事で瓦葺きから銅板葺きになった。1921年(大正10年)3月3日、敷地を含め国の史跡に指定された。建物は1933年(昭和8年)1月23日、当時の国宝保存法に基づき国宝(いわゆる旧国宝)に指定され、1950年(昭和25年)8月29日、文化財保護法施行に伴い国の重要文化財となった。
孔子像
所在地
佐賀県多久市多久町1642番地
多久聖廟
概要
肥前多久邑主の多久茂文が教育振興を目的として建立を発願し、1699年(元禄12年)に学問所(後の東原庠舎)を建設した上でその講堂に孔子像を安置、さらに1708年(宝永5年)に椎原山の麓に拝殿が完成。落成後は恭安殿とよばれ、現在の聖廟がこれにあたる。1907年(明治40年)の改修工事で瓦葺きから銅板葺きになった。1921年(大正10年)3月3日、敷地を含め国の史跡に指定された。建物は1933年(昭和8年)1月23日、当時の国宝保存法に基づき国宝(いわゆる旧国宝)に指定され、1950年(昭和25年)8月29日、文化財保護法施行に伴い国の重要文化財となった。
孔子像
所在地
佐賀県多久市多久町1642番地
2022年09月28日
国鉄150形蒸気機関車
国鉄150形蒸気機関車
150形は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道院に所属した蒸気機関車である。
1872年(明治5年)、日本で最初の鉄道開業に際してイギリスから輸入された蒸気機関車5形式10両中の1形式で、1両のみが輸入された。1号機関車と呼ばれている。1871年(明治4年)、バルカン・ファウンドリー社 (Vulcan Foundry Co., Ltd.) 製(製造番号614)である。国の重要文化財に指定されている。
1号機関車(改装後)
構造
動輪直径は1,295mm (4フィート3インチ) 、車軸配置は2-4-0 (1B) で2気筒単式の飽和式タンク式蒸気機関車である。
弁装置は当時多かったスチーブンソン式、安全弁はサルター式となっている。
長年にわたる使用期間中、随所に改造が加えられており、製造時の形態からは相当な変化が生じている。当初かなりオープンな構造だった運転台には外覆が整備され、ボイラー位置も209mm (8 1/4in) 高くされた。運転台直前にあった蒸気ドームはボイラー中央部に移設され、元のドーム位置には汽笛が設けられている。この改造は、1884年(明治17年)7月から翌年6月にかけ、神戸工場で実施されている。後述の神戸地区への転用は、この改造を見越してのものであったと思われる。
運転・経歴
同時に発注された10両のうち、最も早く日本に到着した本機は1と付番され、1872年10月14日(新暦)の 横浜 - 新橋 間鉄道開業後は、客貨問わずに使用された。しかし、使用成績は思わしくなく、現場ではその改善に腐心したようである。1872年8月から1885年6月までの走行距離は104,641哩で、2 - 9(のちの160形、190形など)の半分弱、最も使用成績の良くなかったとされる10(のちの110形)の2倍程度であったという。
横浜 - 新橋 間で約8年間使用された後、1880年(明治13年)11月には東海道線神戸地区へ転用された。1885年には前述の大改造後、半田に送られ、中山道幹線の建設資材輸送用に使用された。1905年(明治38年)には、大阪地区で入換専用になっているのが確認されている。
本機の番号は、1907年(明治40年)の鉄道作業局の終わりまでは一貫して「1」であり、1894年の分類ではE形、1898年の鉄道作業局の分類ではA1形となった。1906年(明治39年)の鉄道国有法施行を受けて1909年に実施された鉄道院の車両称号規程では、150形 (150) と定められた。
本機は、1911年(明治44年)4月1日付けで島原鉄道の開業用に譲渡され、同社の1となって客貨牽引に用いられた。同社では、正面の煙室戸にアメリカ製機関車のようなクランプ金具(クリート)が取付けられ、蒸気ドーム覆いは、円筒形の不細工なものに交換された。ドームと汽笛の間には同じく鉄道院から払い下げを受けた元九州鉄道のクラウス製蒸気機関車から流用されたと思われるドイツ風の砂箱が設置され、オリジナルでは側水槽の前方と踏段の裏側にあった角形の砂箱は撤去されている。
昭和の初めごろ、元鉄道記者の青木槐三が貴重な1号機関車として当時の鉄道省への返還・保存のための運動を始めた。その甲斐あって、1930年(昭和5年)、600形656号機との交換で鉄道省に戻ることになった。島原鉄道ではまだ十分に活用できると考えていたために、このような交換となったのである。同年7月3日、本機は諫早駅で盛大な惜別式を行ない、『送国宝一号機関車』と書かれた幟を飾って鉄道省に引き渡された。その際、創業者で当時の社長・植木元太郎は、創業期に功績のあった機関車への感謝の念を込め『惜別感無量』と自筆揮毫したプレートを誂えて、側水槽に装着させた。このプレートは現在でも本機に装着されている。
1号機関車(原形)
保存
国鉄返還後大宮工場で整備され、工場内にあった「鉄道参考品陳列所」で仮展示されていたが、1936年(昭和11年)に東京・万世橋の交通博物館に移され、同館で静態保存された。一時期、5000形から取り外した蒸気ドーム覆いをつけていたこともあったが、現在は外されている。また、島原鉄道時代に取付けられた砂箱なども、取り外され原型に復している。塗色についても収蔵当初は黒色であったが、1971年(昭和46年)からは鉄道創業期を想定した緑地に黄色のライニングを施した塗色[1]となり、1984年 (昭和59年) になって再び黒色とされている。交通博物館閉館後は、2007年(平成19年)10月14日、さいたま市大宮区に開館した鉄道博物館に展示されている。現在の塗装については「明治30年頃の姿を再現した」と説明板に記載がある。
本機は1958年(昭和33年)に第1回の鉄道記念物に指定され、1997年(平成9年)4月18日には鉄道車両として初めて国の重要文化財(歴史資料)に指定された(重要文化財指定名称は「一号機関車」)。
また、絵本『きかんしゃ やえもん』(阿川弘之文・岡部冬彦画)は、この機関車をモチーフにした物語である(火の粉による火災に業を煮やした沿線住民が蒸機の廃止と気動機化を要求、スクラップにされるため工場へ向けて電気機関車に牽引されていた「やえもん」が交通博物館学芸員の目に留まり保存へ、というシンデレラ・ストーリー型の話)。
150形蒸気機関車(鉄道博物館)
基本情報
運用者 日本国鉄(工部省→鉄道院)
島原鉄道
製造所 バルカン・ファウンドリー
製造番号 614
製造年 1871年
製造数 1両
運用開始 1872年
引退 1930年
主要諸元
軸配置 2-4-0 (1B)
軌間 1,067 mm
全長 7,417 mm
全高 3,569 mm
運転整備重量 23.45 t
動輪上重量 17.58 t (運転整備時)
固定軸距 2,134 mm
動輪径 1,321 mm
軸重 9.09 t (第1動輪上)
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程) 305 mm × 457 mm
弁装置 スチーブンソン式基本型
ボイラー圧力 9.84 kg/cm2
火格子面積 0.81 m2
全伝熱面積 52.2 m2
燃料搭載量 0.51 t
水タンク容量 2.05 m3
制動装置 手ブレーキ、反圧ブレーキ
シリンダ引張力 2,690 kg (0.85P)
備考 改装後の(1909年形式図による)諸元を示す。
150形は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道院に所属した蒸気機関車である。
1872年(明治5年)、日本で最初の鉄道開業に際してイギリスから輸入された蒸気機関車5形式10両中の1形式で、1両のみが輸入された。1号機関車と呼ばれている。1871年(明治4年)、バルカン・ファウンドリー社 (Vulcan Foundry Co., Ltd.) 製(製造番号614)である。国の重要文化財に指定されている。
1号機関車(改装後)
構造
動輪直径は1,295mm (4フィート3インチ) 、車軸配置は2-4-0 (1B) で2気筒単式の飽和式タンク式蒸気機関車である。
弁装置は当時多かったスチーブンソン式、安全弁はサルター式となっている。
長年にわたる使用期間中、随所に改造が加えられており、製造時の形態からは相当な変化が生じている。当初かなりオープンな構造だった運転台には外覆が整備され、ボイラー位置も209mm (8 1/4in) 高くされた。運転台直前にあった蒸気ドームはボイラー中央部に移設され、元のドーム位置には汽笛が設けられている。この改造は、1884年(明治17年)7月から翌年6月にかけ、神戸工場で実施されている。後述の神戸地区への転用は、この改造を見越してのものであったと思われる。
運転・経歴
同時に発注された10両のうち、最も早く日本に到着した本機は1と付番され、1872年10月14日(新暦)の 横浜 - 新橋 間鉄道開業後は、客貨問わずに使用された。しかし、使用成績は思わしくなく、現場ではその改善に腐心したようである。1872年8月から1885年6月までの走行距離は104,641哩で、2 - 9(のちの160形、190形など)の半分弱、最も使用成績の良くなかったとされる10(のちの110形)の2倍程度であったという。
横浜 - 新橋 間で約8年間使用された後、1880年(明治13年)11月には東海道線神戸地区へ転用された。1885年には前述の大改造後、半田に送られ、中山道幹線の建設資材輸送用に使用された。1905年(明治38年)には、大阪地区で入換専用になっているのが確認されている。
本機の番号は、1907年(明治40年)の鉄道作業局の終わりまでは一貫して「1」であり、1894年の分類ではE形、1898年の鉄道作業局の分類ではA1形となった。1906年(明治39年)の鉄道国有法施行を受けて1909年に実施された鉄道院の車両称号規程では、150形 (150) と定められた。
本機は、1911年(明治44年)4月1日付けで島原鉄道の開業用に譲渡され、同社の1となって客貨牽引に用いられた。同社では、正面の煙室戸にアメリカ製機関車のようなクランプ金具(クリート)が取付けられ、蒸気ドーム覆いは、円筒形の不細工なものに交換された。ドームと汽笛の間には同じく鉄道院から払い下げを受けた元九州鉄道のクラウス製蒸気機関車から流用されたと思われるドイツ風の砂箱が設置され、オリジナルでは側水槽の前方と踏段の裏側にあった角形の砂箱は撤去されている。
昭和の初めごろ、元鉄道記者の青木槐三が貴重な1号機関車として当時の鉄道省への返還・保存のための運動を始めた。その甲斐あって、1930年(昭和5年)、600形656号機との交換で鉄道省に戻ることになった。島原鉄道ではまだ十分に活用できると考えていたために、このような交換となったのである。同年7月3日、本機は諫早駅で盛大な惜別式を行ない、『送国宝一号機関車』と書かれた幟を飾って鉄道省に引き渡された。その際、創業者で当時の社長・植木元太郎は、創業期に功績のあった機関車への感謝の念を込め『惜別感無量』と自筆揮毫したプレートを誂えて、側水槽に装着させた。このプレートは現在でも本機に装着されている。
1号機関車(原形)
保存
国鉄返還後大宮工場で整備され、工場内にあった「鉄道参考品陳列所」で仮展示されていたが、1936年(昭和11年)に東京・万世橋の交通博物館に移され、同館で静態保存された。一時期、5000形から取り外した蒸気ドーム覆いをつけていたこともあったが、現在は外されている。また、島原鉄道時代に取付けられた砂箱なども、取り外され原型に復している。塗色についても収蔵当初は黒色であったが、1971年(昭和46年)からは鉄道創業期を想定した緑地に黄色のライニングを施した塗色[1]となり、1984年 (昭和59年) になって再び黒色とされている。交通博物館閉館後は、2007年(平成19年)10月14日、さいたま市大宮区に開館した鉄道博物館に展示されている。現在の塗装については「明治30年頃の姿を再現した」と説明板に記載がある。
本機は1958年(昭和33年)に第1回の鉄道記念物に指定され、1997年(平成9年)4月18日には鉄道車両として初めて国の重要文化財(歴史資料)に指定された(重要文化財指定名称は「一号機関車」)。
また、絵本『きかんしゃ やえもん』(阿川弘之文・岡部冬彦画)は、この機関車をモチーフにした物語である(火の粉による火災に業を煮やした沿線住民が蒸機の廃止と気動機化を要求、スクラップにされるため工場へ向けて電気機関車に牽引されていた「やえもん」が交通博物館学芸員の目に留まり保存へ、というシンデレラ・ストーリー型の話)。
150形蒸気機関車(鉄道博物館)
基本情報
運用者 日本国鉄(工部省→鉄道院)
島原鉄道
製造所 バルカン・ファウンドリー
製造番号 614
製造年 1871年
製造数 1両
運用開始 1872年
引退 1930年
主要諸元
軸配置 2-4-0 (1B)
軌間 1,067 mm
全長 7,417 mm
全高 3,569 mm
運転整備重量 23.45 t
動輪上重量 17.58 t (運転整備時)
固定軸距 2,134 mm
動輪径 1,321 mm
軸重 9.09 t (第1動輪上)
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程) 305 mm × 457 mm
弁装置 スチーブンソン式基本型
ボイラー圧力 9.84 kg/cm2
火格子面積 0.81 m2
全伝熱面積 52.2 m2
燃料搭載量 0.51 t
水タンク容量 2.05 m3
制動装置 手ブレーキ、反圧ブレーキ
シリンダ引張力 2,690 kg (0.85P)
備考 改装後の(1909年形式図による)諸元を示す。
2022年09月25日
霧島神宮(きりしまじんぐう)は鹿児島県霧島市霧島田口にある神社
霧島神宮(きりしまじんぐう)は鹿児島県霧島市霧島田口にある神社。延喜式内社の論社であり、旧社格は官幣大社。
勅使殿・幣殿・拝殿
祭神
現在の祭神は次の7柱。
主祭神
天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊
相殿神
木花開姫尊
彦火火出見尊
豊玉姫尊
鵜鶿草葺不合尊
玉依姫尊
神倭磐余彦尊
歴史
欽明天皇の御代(6世紀)、慶胤(けいいん)上人という僧侶が高千穂峰と火常峰(御鉢)の間の「瀬多尾(せたお)(背門丘・瀬戸尾)」に社殿を造られたのが始まりとされ、一説に欽明天皇元年(540年)の創建ともいわれている。
高千穂峰が日本神話の天孫降臨の伝承地とされる事から、現在は日向三代にまつわる神々が祀られているが、元々は高千穂峰そのものを信仰の対象とする山岳信仰から始まった神社であると考えられる。
元の社地の瀬多尾は、火口に近い場所であったため社殿は噴火でたびたび炎上し、延暦7年(788年)7月の火常峰(御鉢)の噴火で焼失した。
その後天慶3年(940年)、あるいは村上天皇の御代の天暦4年(950年)に性空上人により瀬多尾越(現在の高千穂河原・古宮址)に再興されるが、ここもたびたび噴火の巻き添えで炎上し、文暦元年(1234年)の火常峰(御鉢)の大噴火により社殿、僧坊等がことごとく焼失したため、霧島市霧島田口の待世(霧島中学校の隣、霧島町グランドとの境)に「仮宮」を建てて、約250年間祭っていた。
文明16年(1484年)、島津忠昌の命により兼慶(けんけい)上人が再興したのが、現在の霧島神宮である。ただし、社殿はその後も幾度も炎上し、現在の社殿は正徳5年(1715年)、島津吉貴の奉納により再建した物である。
また一説には、文暦元年(1234年)の噴火で社殿を焼失した後、社殿を霧島山の東の長尾山(現在の東霧島神社の地)に移しその後、文明16年(1484年)、島津忠昌がこれを「東社」(霧島東御在所権現、現在の霧島東神社)と「西社」(西御在所霧島権現、現在の霧島神宮)の2社に分けたともいわれている。
またこれ以外にも、社殿を霧島山の東の長尾山に移した後、現在の霧島岑神社と霧島東神社の2社に分け、更に霧島東神社から霧島西神社(現在の霧島神宮)を分けたという説もある。
歴代島津氏の尊崇篤く、島津義久は、天正6年(1578年)耳川の戦いに臨む途中に参拝して鬮を引き、また九州北上にあたっても天正14年(1585年)6月に日向国惣先達職の面高善哉坊と重臣山田有信を、再び9月に吉田清存を、それぞれ遣わして鬮を引き侵攻方面を決めるなど、重要事の決定に際したびたび神慮を仰いでいる。
また、坂本龍馬が日本最初といわれる新婚旅行で霧島連峰を訪れたことが知られるが、その頃にはすでに山頂には天津日高彦火瓊瓊杵尊が突き刺したという天の逆鉾があった。
明治期の神仏分離令が発令されるまでは西御在所霧島権現と称し、本地堂は十一面観音。別当寺に華林寺を有する。霧島山を中心とした修験僧による霧島六所権現信仰の中心的役割を果たしていた。 近代社格制度のもと、1874年(明治7年)2月に官幣大社に列格された。
また、神木の杉は樹齢約800年と推定され、南九州の杉の祖先ともいわれている。
神木の杉
勅使殿(側面)
文化財
国宝
本殿・幣殿・拝殿 1棟(附 棟札2枚)(建造物) - 2022年(令和4年)2月9日指定[4]。
重要文化財
登廊下
勅使殿
(以下は「附」(つけたり)指定)
門守神社 2棟
神饌所 1棟
拝殿
所在地 鹿児島県霧島市霧島田口2608番地5号
位置 北緯31度51分32.2秒 東経130度52分18.7秒
主祭神 天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊
社格等 式内社(小)論社
旧官幣大社
別表神社
創建 伝欽明天皇朝(6世紀)
伝欽明天皇元年(540年)
本殿の様式 入母屋造
札所等 霧島六社権現
例祭 9月19日
勅使殿・幣殿・拝殿
祭神
現在の祭神は次の7柱。
主祭神
天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊
相殿神
木花開姫尊
彦火火出見尊
豊玉姫尊
鵜鶿草葺不合尊
玉依姫尊
神倭磐余彦尊
歴史
欽明天皇の御代(6世紀)、慶胤(けいいん)上人という僧侶が高千穂峰と火常峰(御鉢)の間の「瀬多尾(せたお)(背門丘・瀬戸尾)」に社殿を造られたのが始まりとされ、一説に欽明天皇元年(540年)の創建ともいわれている。
高千穂峰が日本神話の天孫降臨の伝承地とされる事から、現在は日向三代にまつわる神々が祀られているが、元々は高千穂峰そのものを信仰の対象とする山岳信仰から始まった神社であると考えられる。
元の社地の瀬多尾は、火口に近い場所であったため社殿は噴火でたびたび炎上し、延暦7年(788年)7月の火常峰(御鉢)の噴火で焼失した。
その後天慶3年(940年)、あるいは村上天皇の御代の天暦4年(950年)に性空上人により瀬多尾越(現在の高千穂河原・古宮址)に再興されるが、ここもたびたび噴火の巻き添えで炎上し、文暦元年(1234年)の火常峰(御鉢)の大噴火により社殿、僧坊等がことごとく焼失したため、霧島市霧島田口の待世(霧島中学校の隣、霧島町グランドとの境)に「仮宮」を建てて、約250年間祭っていた。
文明16年(1484年)、島津忠昌の命により兼慶(けんけい)上人が再興したのが、現在の霧島神宮である。ただし、社殿はその後も幾度も炎上し、現在の社殿は正徳5年(1715年)、島津吉貴の奉納により再建した物である。
また一説には、文暦元年(1234年)の噴火で社殿を焼失した後、社殿を霧島山の東の長尾山(現在の東霧島神社の地)に移しその後、文明16年(1484年)、島津忠昌がこれを「東社」(霧島東御在所権現、現在の霧島東神社)と「西社」(西御在所霧島権現、現在の霧島神宮)の2社に分けたともいわれている。
またこれ以外にも、社殿を霧島山の東の長尾山に移した後、現在の霧島岑神社と霧島東神社の2社に分け、更に霧島東神社から霧島西神社(現在の霧島神宮)を分けたという説もある。
歴代島津氏の尊崇篤く、島津義久は、天正6年(1578年)耳川の戦いに臨む途中に参拝して鬮を引き、また九州北上にあたっても天正14年(1585年)6月に日向国惣先達職の面高善哉坊と重臣山田有信を、再び9月に吉田清存を、それぞれ遣わして鬮を引き侵攻方面を決めるなど、重要事の決定に際したびたび神慮を仰いでいる。
また、坂本龍馬が日本最初といわれる新婚旅行で霧島連峰を訪れたことが知られるが、その頃にはすでに山頂には天津日高彦火瓊瓊杵尊が突き刺したという天の逆鉾があった。
明治期の神仏分離令が発令されるまでは西御在所霧島権現と称し、本地堂は十一面観音。別当寺に華林寺を有する。霧島山を中心とした修験僧による霧島六所権現信仰の中心的役割を果たしていた。 近代社格制度のもと、1874年(明治7年)2月に官幣大社に列格された。
また、神木の杉は樹齢約800年と推定され、南九州の杉の祖先ともいわれている。
神木の杉
勅使殿(側面)
文化財
国宝
本殿・幣殿・拝殿 1棟(附 棟札2枚)(建造物) - 2022年(令和4年)2月9日指定[4]。
重要文化財
登廊下
勅使殿
(以下は「附」(つけたり)指定)
門守神社 2棟
神饌所 1棟
拝殿
所在地 鹿児島県霧島市霧島田口2608番地5号
位置 北緯31度51分32.2秒 東経130度52分18.7秒
主祭神 天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊
社格等 式内社(小)論社
旧官幣大社
別表神社
創建 伝欽明天皇朝(6世紀)
伝欽明天皇元年(540年)
本殿の様式 入母屋造
札所等 霧島六社権現
例祭 9月19日
2022年09月24日
全国に約600ある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮・金刀比羅宮(ことひらぐう)
金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する単立神社である。明治初年の神仏分離以前は金毘羅大権現と称し、通称は「讃岐の金毘羅さん(さぬきのこんぴらさん)」で知られる。明治初年以降に神社になってからの当宮の通称は「金比羅さん」である。
御朱印:金刀比羅宮(本宮前神札授与所)・白峰宮・厳魂神社(奥宮)
本宮拝殿
概要
真言宗象頭山松尾寺の堂宇の一つとして神仏習合の金毘羅大権現を祀り、その別当として寺中の金光院が奉斎した。金毘羅大権現は隆盛し、本堂本尊十一面観音を凌駕し、後発の寺中であった金光院が全山を支配することとなる。目にあたる部分に寺院があり山容が象の頭に見えることから、また、釈迦が千人の弟子に説法をしたと云われるインドの伽耶山も象頭山と呼ばれ山容が似ていることから当山は象頭山と呼ばれた。明治初年に神仏分離・廃仏毀釈が実施されて、金毘羅権現の奉斎は廃止とし大物主を主祭神とする神社となり、神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部となった。全国に約600ある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮である。
当初はあらゆる分野の人々に信仰されていたが、19世紀中頃以降は特に海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の日本特別掃海隊(朝鮮戦争における海上保安庁の掃海)の殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。
長く続く参道の石段は奥社まで1368段ある。例大祭に合わせて毎年、石段を利用した「こんぴら石段マラソン」が開かれている。
金刀比羅宮の参道
祭神
大物主命
崇徳天皇
境内
象頭山の中腹に鎮座し、参道の石段は本宮まで785段(標高251m)、奥社まで登ると1368段(標高421m)になり、その真上にあたる琴平山頂上は標高524mである。。
本殿、南垣
交通
鉄道
琴平駅 徒歩20分
琴電琴平駅 徒歩15分
自動車
坂出インターチェンジから30分
善通寺インターチェンジから15分
境内は許可車両以外の乗り入れができないため、琴平町内の町営駐車場などを利用。
なお、かつては琴平参宮電鉄(1963年まで)・琴平急行電鉄(1944年まで)といった路線も琴平に発着しており、1930年〜1944年には4つの路線がひしめき合っていた。
所在地 香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1
位置 北緯34度11分2.41秒 東経133度48分34.33秒
主祭神 大物主神
(相殿)崇徳天皇
社格等 国幣中社
本殿の様式 大社関棟造
札所等 さぬき十五社13番
御朱印:金刀比羅宮(本宮前神札授与所)・白峰宮・厳魂神社(奥宮)
本宮拝殿
概要
真言宗象頭山松尾寺の堂宇の一つとして神仏習合の金毘羅大権現を祀り、その別当として寺中の金光院が奉斎した。金毘羅大権現は隆盛し、本堂本尊十一面観音を凌駕し、後発の寺中であった金光院が全山を支配することとなる。目にあたる部分に寺院があり山容が象の頭に見えることから、また、釈迦が千人の弟子に説法をしたと云われるインドの伽耶山も象頭山と呼ばれ山容が似ていることから当山は象頭山と呼ばれた。明治初年に神仏分離・廃仏毀釈が実施されて、金毘羅権現の奉斎は廃止とし大物主を主祭神とする神社となり、神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部となった。全国に約600ある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮である。
当初はあらゆる分野の人々に信仰されていたが、19世紀中頃以降は特に海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の日本特別掃海隊(朝鮮戦争における海上保安庁の掃海)の殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。
長く続く参道の石段は奥社まで1368段ある。例大祭に合わせて毎年、石段を利用した「こんぴら石段マラソン」が開かれている。
金刀比羅宮の参道
祭神
大物主命
崇徳天皇
境内
象頭山の中腹に鎮座し、参道の石段は本宮まで785段(標高251m)、奥社まで登ると1368段(標高421m)になり、その真上にあたる琴平山頂上は標高524mである。。
本殿、南垣
交通
鉄道
琴平駅 徒歩20分
琴電琴平駅 徒歩15分
自動車
坂出インターチェンジから30分
善通寺インターチェンジから15分
境内は許可車両以外の乗り入れができないため、琴平町内の町営駐車場などを利用。
なお、かつては琴平参宮電鉄(1963年まで)・琴平急行電鉄(1944年まで)といった路線も琴平に発着しており、1930年〜1944年には4つの路線がひしめき合っていた。
所在地 香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1
位置 北緯34度11分2.41秒 東経133度48分34.33秒
主祭神 大物主神
(相殿)崇徳天皇
社格等 国幣中社
本殿の様式 大社関棟造
札所等 さぬき十五社13番
2022年09月23日
世界遺産のひとつで沖縄県最大の破風墓・玉陵(たまうどぅん、玉御殿または霊御殿とも)
玉陵(たまうどぅん、玉御殿または霊御殿とも)は、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。所在地は沖縄県那覇市首里金城町。そもそもは第3代尚真王(在位1477年 - 1527年)が父、尚円王を葬るために建築したものである。世界遺産のひとつで沖縄県最大の破風墓。なお「玉陵」と名付く墓所はほかに「伊是名玉陵」、「山川の玉陵」がある。
概要
玉陵は中室、東室、西室の3つの建築物に分かれる。中室は葬儀の後、当時の琉球の葬制に基づき遺骸が骨になるまで放置し、数年後に骨を取り出して洗骨した。洗骨した後に遺骨を骨壺に収め、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。建造物の外は外庭、中庭に石壁で仕切られ、中庭には珊瑚の破片が敷き詰められている。
第二次世界大戦末期には、日本軍総司令部に近かった玉陵は首里城と共に集中砲撃の巻き添えに会い、東室・西室が破壊されるなど大きな被害を受けた。現在見られる大部分は第二次世界大戦後に復元されたものである。また第二次世界大戦で亡くなった旧制沖縄県立第一中学校(現・首里高等学校)の生徒を弔うための「一中健児の塔」などが近くに建立されている。
1992年に尚裕によって那覇市に寄贈された。
2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された他、全体が国の史跡、「玉陵」5棟(墓室3棟、石牆2棟)が国宝(建造物)、石彫獅子と玉陵碑が県の有形文化財(彫刻)に指定されている。
被葬者
玉陵内には被葬者としての資格を記した碑、いわゆる玉陵の碑文があり、それによると有資格者とは
尚真王
宇喜也嘉(尚円王の妃、尚真王の母)
聞得大君・音智殿茂金(尚真王の妹)
佐司笠按司・真鍋樽(尚真王の長女)
尚清王(尚真王の世子)
尚韶威・今帰仁王子朝典(尚真王の三男)
尚龍徳・越来王子朝福(尚真王の四男)
尚享仁・金武王子(尚真王の六男)
尚源道・豊見城王子(尚真王の七男)
の子孫だとされる。これは尚真王が生存中は守られていたであろうが、子の尚清王は即位ののち、すぐにこの碑文の内容に反し、廃嫡された兄:尚維衡・浦添王子朝満を玉陵に移葬している。また、各王子の子孫もここには葬られず、それぞれ各家で墓所をもっている。
例外を除き、基本的に被葬者は歴代王と王妃であると思って良い。第二尚氏・第二代国王 宣威は初代王(尚円王:金丸)の15歳年下の実弟であるにもかかわらず、玉陵には入れてもらえず、越来の地(現・沖縄市嘉間良3丁目、学校給食センター近く)にあるので、実質的に金丸とおぎやかの家族の墓であろう。
1931年、尚家20代当主尚典の夫人:祥子(野嵩按司加那志)の入棺の後、新たな被葬者はいない。
概要
玉陵は中室、東室、西室の3つの建築物に分かれる。中室は葬儀の後、当時の琉球の葬制に基づき遺骸が骨になるまで放置し、数年後に骨を取り出して洗骨した。洗骨した後に遺骨を骨壺に収め、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。建造物の外は外庭、中庭に石壁で仕切られ、中庭には珊瑚の破片が敷き詰められている。
第二次世界大戦末期には、日本軍総司令部に近かった玉陵は首里城と共に集中砲撃の巻き添えに会い、東室・西室が破壊されるなど大きな被害を受けた。現在見られる大部分は第二次世界大戦後に復元されたものである。また第二次世界大戦で亡くなった旧制沖縄県立第一中学校(現・首里高等学校)の生徒を弔うための「一中健児の塔」などが近くに建立されている。
1992年に尚裕によって那覇市に寄贈された。
2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された他、全体が国の史跡、「玉陵」5棟(墓室3棟、石牆2棟)が国宝(建造物)、石彫獅子と玉陵碑が県の有形文化財(彫刻)に指定されている。
被葬者
玉陵内には被葬者としての資格を記した碑、いわゆる玉陵の碑文があり、それによると有資格者とは
尚真王
宇喜也嘉(尚円王の妃、尚真王の母)
聞得大君・音智殿茂金(尚真王の妹)
佐司笠按司・真鍋樽(尚真王の長女)
尚清王(尚真王の世子)
尚韶威・今帰仁王子朝典(尚真王の三男)
尚龍徳・越来王子朝福(尚真王の四男)
尚享仁・金武王子(尚真王の六男)
尚源道・豊見城王子(尚真王の七男)
の子孫だとされる。これは尚真王が生存中は守られていたであろうが、子の尚清王は即位ののち、すぐにこの碑文の内容に反し、廃嫡された兄:尚維衡・浦添王子朝満を玉陵に移葬している。また、各王子の子孫もここには葬られず、それぞれ各家で墓所をもっている。
例外を除き、基本的に被葬者は歴代王と王妃であると思って良い。第二尚氏・第二代国王 宣威は初代王(尚円王:金丸)の15歳年下の実弟であるにもかかわらず、玉陵には入れてもらえず、越来の地(現・沖縄市嘉間良3丁目、学校給食センター近く)にあるので、実質的に金丸とおぎやかの家族の墓であろう。
1931年、尚家20代当主尚典の夫人:祥子(野嵩按司加那志)の入棺の後、新たな被葬者はいない。
2022年09月22日
閑谷学校(しずたにがっこう)は、「旧閑谷学校」として特別史跡に指定され、講堂は国宝
閑谷学校(しずたにがっこう)は、江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校。所在地は岡山県備前市閑谷。「旧閑谷学校」として特別史跡に指定され、講堂は国宝に指定されている。
閑谷学校講堂
概要
岡山藩主池田光政によって開設された日本最古の庶民学校である。藩士のための教育施設(藩校)「岡山学校」に続き、岡山藩立の学校として開かれた。建築は2期に分けて行われ、32年の月日を費やした。他に例をみない手間隙かけた質とスケールを誇り330余年の歴史をもっている。地方の指導者を育成するために武士のみならず庶民の子弟も教育した。また、広く門戸を開き他藩の子弟も学ぶことができた。就学年齢は8歳頃から20歳頃までであった。カリキュラムは1と6の付く日には講堂で儒教の講義があり、5と10の付く日は休日となっているなどであった。頼山陽などの著名人も来訪し、幕末には少年時代の大鳥圭介もここで学んだ。
岡山藩は学校領を設け藩財政より独立させ、学田[3]や学林を運営させた。これにより、もし転封や改易により藩主が交替となった場合においても学校が存続するよう工夫した。ここに岡山藩がこの学校をいかに重要視していたか、その一端が窺える。
建造物のうち、講堂が国宝に指定され、小斎・飲室・文庫・聖廟・閑谷神社・石塀など24棟が国の重要文化財に指定されている。また、旧閑谷学校は、周辺の津田永忠宅跡及び黄葉亭などを含め、国の特別史跡に指定されている。2本の巨大な楷(かい)の木や周辺のもみじが美しく、秋の紅葉名所でもある。
講堂の床には漆が塗ってあり、手の脂で漆が禿げてしまうため、 手で触ってはいけないと言われている。
旧閑谷学校聖廟 校門(鶴鳴門)
歴史
池田光政の設置命令
1666年10月、池田光政は津田永忠の案内で閑谷を訪問し、この地に学校を設置することを決め家臣の藤岡内助を普請奉行に命じた。1669年、池田光政は岡山城下の西中山下に岡山藩学校を設置した。続いて1670年(寛文10年)、池田光政は津田永忠に閑谷学校の建設を命じた。津田は閑谷に転居し建設が始まる。1674年までの4年間に、学房・飲室・講堂・聖堂などが完成したが、当時は茅葺きの質素な建物であった。1675年には、光政は領内に123か所設置していた手習所を閑谷学校に統合した。
昭和以降
1954年(昭和29年)、講堂などが特別史跡に指定される。1948年(昭和23年)、学制改革により岡山県閑谷中学校は県立岡山県閑谷高等学校となる。翌1949年には県立和気高等学校と統合され、同校の閑谷校舎となった。昭和39年4月、学校の統合と合理化のために閑谷校舎が閉鎖され、教育の場としての歴史に終止符が打たれる。校舎は明治時代の木造建築の特徴をよく反映した建築物であるので、岡山県青少年教育センター閑谷学校(社会教育施設)として昭和40年4月より転用される。岡山県青少年教育センター閑谷学校が平成3年7月に、他の場所に新築移転したのちは、本館が残されて閑谷学校資料館として利用される。2001年(平成13年)、閑谷学校資料館が登録有形文化財に登録される。
夜の講堂
講堂内部
指定文化財
特別史跡
旧閑谷学校(附 椿山、石門、津田永忠宅跡及び黄葉亭)
国宝
旧閑谷学校講堂(附 壁書1枚、丸瓦1枚)
重要文化財
旧閑谷学校
小斎
習芸斎及び飲室
文庫
公門(附 左右練塀2棟)
旧閑谷学校石塀(附 飲室門1棟)
旧閑谷学校聖廟
大成殿(附 聖龕1基 石橋1基)
東階・西階
中庭(ちゅうてい)[9]
外門
練塀
文庫
厨屋
繋牲石
石階
校門(鶴鳴門)(附 左右練塀2棟)
閑谷神社(旧閑谷学校芳烈祠)
本殿(芳烈祠)
幣殿(階)
拝殿(中庭)
中門(外門)
神庫(庫)
石階
練塀
繋牲石
閑谷学校関係資料4,041点(岡山県立博物館保管)
登録有形文化財
閑谷学校資料館
講堂の軒と楷の樹
交通アクセス
JR山陽本線吉永駅下車、タクシーで10分。
用途 歴史資料館
旧用途 藩校・学校・県教育施設
着工 1670年
開館開所 1673年
所在地 岡山県備前市
座標 北緯34度47分47.0秒 東経134度13分10.2秒
文化財 国宝(講堂)、重要文化財(聖廟・神社等)
指定・登録等日 1938年重要文化財(旧国宝)指定、1953年国宝指定、1954年特別史跡指定
閑谷学校講堂
概要
岡山藩主池田光政によって開設された日本最古の庶民学校である。藩士のための教育施設(藩校)「岡山学校」に続き、岡山藩立の学校として開かれた。建築は2期に分けて行われ、32年の月日を費やした。他に例をみない手間隙かけた質とスケールを誇り330余年の歴史をもっている。地方の指導者を育成するために武士のみならず庶民の子弟も教育した。また、広く門戸を開き他藩の子弟も学ぶことができた。就学年齢は8歳頃から20歳頃までであった。カリキュラムは1と6の付く日には講堂で儒教の講義があり、5と10の付く日は休日となっているなどであった。頼山陽などの著名人も来訪し、幕末には少年時代の大鳥圭介もここで学んだ。
岡山藩は学校領を設け藩財政より独立させ、学田[3]や学林を運営させた。これにより、もし転封や改易により藩主が交替となった場合においても学校が存続するよう工夫した。ここに岡山藩がこの学校をいかに重要視していたか、その一端が窺える。
建造物のうち、講堂が国宝に指定され、小斎・飲室・文庫・聖廟・閑谷神社・石塀など24棟が国の重要文化財に指定されている。また、旧閑谷学校は、周辺の津田永忠宅跡及び黄葉亭などを含め、国の特別史跡に指定されている。2本の巨大な楷(かい)の木や周辺のもみじが美しく、秋の紅葉名所でもある。
講堂の床には漆が塗ってあり、手の脂で漆が禿げてしまうため、 手で触ってはいけないと言われている。
旧閑谷学校聖廟 校門(鶴鳴門)
歴史
池田光政の設置命令
1666年10月、池田光政は津田永忠の案内で閑谷を訪問し、この地に学校を設置することを決め家臣の藤岡内助を普請奉行に命じた。1669年、池田光政は岡山城下の西中山下に岡山藩学校を設置した。続いて1670年(寛文10年)、池田光政は津田永忠に閑谷学校の建設を命じた。津田は閑谷に転居し建設が始まる。1674年までの4年間に、学房・飲室・講堂・聖堂などが完成したが、当時は茅葺きの質素な建物であった。1675年には、光政は領内に123か所設置していた手習所を閑谷学校に統合した。
昭和以降
1954年(昭和29年)、講堂などが特別史跡に指定される。1948年(昭和23年)、学制改革により岡山県閑谷中学校は県立岡山県閑谷高等学校となる。翌1949年には県立和気高等学校と統合され、同校の閑谷校舎となった。昭和39年4月、学校の統合と合理化のために閑谷校舎が閉鎖され、教育の場としての歴史に終止符が打たれる。校舎は明治時代の木造建築の特徴をよく反映した建築物であるので、岡山県青少年教育センター閑谷学校(社会教育施設)として昭和40年4月より転用される。岡山県青少年教育センター閑谷学校が平成3年7月に、他の場所に新築移転したのちは、本館が残されて閑谷学校資料館として利用される。2001年(平成13年)、閑谷学校資料館が登録有形文化財に登録される。
夜の講堂
講堂内部
指定文化財
特別史跡
旧閑谷学校(附 椿山、石門、津田永忠宅跡及び黄葉亭)
国宝
旧閑谷学校講堂(附 壁書1枚、丸瓦1枚)
重要文化財
旧閑谷学校
小斎
習芸斎及び飲室
文庫
公門(附 左右練塀2棟)
旧閑谷学校石塀(附 飲室門1棟)
旧閑谷学校聖廟
大成殿(附 聖龕1基 石橋1基)
東階・西階
中庭(ちゅうてい)[9]
外門
練塀
文庫
厨屋
繋牲石
石階
校門(鶴鳴門)(附 左右練塀2棟)
閑谷神社(旧閑谷学校芳烈祠)
本殿(芳烈祠)
幣殿(階)
拝殿(中庭)
中門(外門)
神庫(庫)
石階
練塀
繋牲石
閑谷学校関係資料4,041点(岡山県立博物館保管)
登録有形文化財
閑谷学校資料館
講堂の軒と楷の樹
交通アクセス
JR山陽本線吉永駅下車、タクシーで10分。
用途 歴史資料館
旧用途 藩校・学校・県教育施設
着工 1670年
開館開所 1673年
所在地 岡山県備前市
座標 北緯34度47分47.0秒 東経134度13分10.2秒
文化財 国宝(講堂)、重要文化財(聖廟・神社等)
指定・登録等日 1938年重要文化財(旧国宝)指定、1953年国宝指定、1954年特別史跡指定
2022年09月21日
本殿4棟は国宝に指定されている・住吉大社(すみよしたいしゃ)
住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社。式内社(名神大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の一つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある住吉神社の総本社である。住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社。式内社(名神大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の一つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある住吉神社の総本社である。本殿4棟は国宝に指定されている。。
住吉大社 本宮
概要
大阪市南部、上町台地基部西端において大阪湾の方角に西面して鎮座する。海の神である筒男三神と神功皇后を祭神とし、古くは古墳時代から外交上の要港の住吉津・難波津と関係して、航海の神・港の神として祀られた神社である。古代には遣唐使船にも祀られる国家的な航海守護の神や禊祓の神として、平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めたほか、江戸時代には広く庶民からも崇敬された。摂津国の一宮として大阪で代表的な神社であるのみならず、旧官幣大社として全国でも代表的な神社の一つである。
社殿は、本殿4棟が「住吉造」と称される古代日本の建築様式で国宝に指定されているほか、幣殿・石舞台・高蔵など多くの建物が国の重要文化財に指定されている。神宝としては、数少ない古代文書の一つである『住吉大社神代記』は国の重要文化財に指定され、木造舞楽面など多数が重要文化財・大阪府指定文化財に指定されている。また伝統的な神事を多く残すことでも知られ、特に御田植神事は全国でも代表的なものとして国の重要無形民俗文化財に指定、夏越大祓神事は大阪府選択無形民俗文化財に選択されている。
境内入り口
社名
社名は、『延喜式』神名帳には「住吉坐神社」と見えるほか、古代の史料上には「住吉神社」「住吉社」などと見える。また『住吉大社神代記』には「住吉大社」「住吉大明神大社」などとも記されている。中世には主に「住吉大神宮」と見える。明治維新後には社号を「住吉神社」と定めていたが、戦後の昭和21年(1946年)に『住吉大社神代記』の記述にならって社号を「住吉大社」に改め現在に至っている。
「住吉」の読みは、現在は「スミヨシ」だが、元々は「スミノエ(スミエ)」だった。例えば奈良時代以前に成立した『万葉集』には「住吉」のほか「住江」「墨江」「清江」「須美乃江」という表記も見えるが、平安時代に成立した『和名抄』にはすでに「須三與之」と記されている。本居宣長の『古事記伝』以来の通説では、元々の「スミノエ」に「住江」「墨江」「清江」「住吉」等の表記があてられた中で「住吉」が一般化し、それが音に転じて平安時代頃から「スミヨシ」の呼称が一般化したと解されている[4](類例に日吉大社<ヒエ→ヒヨシ>)。ただし過渡期の平安時代には両者の使い分けも見られ、歌枕としての扱いでは、「スミノエ」は江を指し「スミヨシ」は社・浦・里・浜を指すと歌学書にはある。
元々の読みである「スミノエ」の語義について、『摂津国風土記』逸文では、筑紫からお連れした住吉神がこの地に住むと言ったため、神功皇后が「真住吉住吉国(まさに住み吉き住吉国)」と讃称したことに由来とする地名起源説話を載せている。一方で歴史考証学上では、「清らかな入り江(=澄み江)」を原義とする説が有力視されている。実際に住吉大社南側の細江川(細井川)旧河口部には入り江があったと見られ、古代にその地に整備された住吉津(墨江津)は難波津とともに外交上の要港として機能し、住吉大社の成立や発展に深く関わったと考えられている。
本殿(国宝)画像は第二本宮。「住吉造」と称される古代日本の建築様式。
祭神
現在の祭神は次の4柱で、4本宮に1柱ずつを祀る。
第一本宮:底筒男命(そこつつのおのみこと)
第二本宮:中筒男命(なかつつのおのみこと)
第三本宮:表筒男命(うわつつのおのみこと)
第四本宮:神功皇后(じんぐうこうごう) - 名は「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」。第14代仲哀天皇皇后。
特に底筒男命・中筒男命・表筒男命の3柱は「住吉大神(すみよしのおおかみ)」と総称され、「住江大神(すみのえのおおかみ)」・「墨江三前の大神(すみのえのみまえのおおかみ)」とも別称される。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳[原 2]での祭神の記載は4座。『住吉大社神代記』(平安時代前期頃か)でも祭神を4座とするが、第一宮を表筒男、第二宮を中筒男、第三宮を底筒男、第四宮を姫神宮(気息帯長足姫皇后宮)としており現在とは順序が異同する。
幣殿(重要文化財)画像は第一本宮。桁行は五間。
文化財
国宝
住吉大社本殿 4棟(附 瑞垣及び門)(建造物)
4棟とも江戸時代後期、文化7年(1810年)の造営。
明治35年(1902年)4月17日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定、昭和25年(1950年)の文化財保護法施行により国の重要文化財に指定、昭和28年(1953年)11月14日に国宝に指定。
現地情報
所在地
大阪府大阪市住吉区住吉2-9-89
交通アクセス
鉄道
阪堺電気軌道(阪堺電車)
阪堺線 住吉鳥居前停留場(徒歩すぐ)
阪堺線・上町線 住吉停留場(徒歩4分)
南海電気鉄道(南海電車)
南海本線 住吉大社駅(徒歩3分)
高野線 住吉東駅(徒歩5分)
車
駐車場:有り
住吉大社 本宮
概要
大阪市南部、上町台地基部西端において大阪湾の方角に西面して鎮座する。海の神である筒男三神と神功皇后を祭神とし、古くは古墳時代から外交上の要港の住吉津・難波津と関係して、航海の神・港の神として祀られた神社である。古代には遣唐使船にも祀られる国家的な航海守護の神や禊祓の神として、平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めたほか、江戸時代には広く庶民からも崇敬された。摂津国の一宮として大阪で代表的な神社であるのみならず、旧官幣大社として全国でも代表的な神社の一つである。
社殿は、本殿4棟が「住吉造」と称される古代日本の建築様式で国宝に指定されているほか、幣殿・石舞台・高蔵など多くの建物が国の重要文化財に指定されている。神宝としては、数少ない古代文書の一つである『住吉大社神代記』は国の重要文化財に指定され、木造舞楽面など多数が重要文化財・大阪府指定文化財に指定されている。また伝統的な神事を多く残すことでも知られ、特に御田植神事は全国でも代表的なものとして国の重要無形民俗文化財に指定、夏越大祓神事は大阪府選択無形民俗文化財に選択されている。
境内入り口
社名
社名は、『延喜式』神名帳には「住吉坐神社」と見えるほか、古代の史料上には「住吉神社」「住吉社」などと見える。また『住吉大社神代記』には「住吉大社」「住吉大明神大社」などとも記されている。中世には主に「住吉大神宮」と見える。明治維新後には社号を「住吉神社」と定めていたが、戦後の昭和21年(1946年)に『住吉大社神代記』の記述にならって社号を「住吉大社」に改め現在に至っている。
「住吉」の読みは、現在は「スミヨシ」だが、元々は「スミノエ(スミエ)」だった。例えば奈良時代以前に成立した『万葉集』には「住吉」のほか「住江」「墨江」「清江」「須美乃江」という表記も見えるが、平安時代に成立した『和名抄』にはすでに「須三與之」と記されている。本居宣長の『古事記伝』以来の通説では、元々の「スミノエ」に「住江」「墨江」「清江」「住吉」等の表記があてられた中で「住吉」が一般化し、それが音に転じて平安時代頃から「スミヨシ」の呼称が一般化したと解されている[4](類例に日吉大社<ヒエ→ヒヨシ>)。ただし過渡期の平安時代には両者の使い分けも見られ、歌枕としての扱いでは、「スミノエ」は江を指し「スミヨシ」は社・浦・里・浜を指すと歌学書にはある。
元々の読みである「スミノエ」の語義について、『摂津国風土記』逸文では、筑紫からお連れした住吉神がこの地に住むと言ったため、神功皇后が「真住吉住吉国(まさに住み吉き住吉国)」と讃称したことに由来とする地名起源説話を載せている。一方で歴史考証学上では、「清らかな入り江(=澄み江)」を原義とする説が有力視されている。実際に住吉大社南側の細江川(細井川)旧河口部には入り江があったと見られ、古代にその地に整備された住吉津(墨江津)は難波津とともに外交上の要港として機能し、住吉大社の成立や発展に深く関わったと考えられている。
本殿(国宝)画像は第二本宮。「住吉造」と称される古代日本の建築様式。
祭神
現在の祭神は次の4柱で、4本宮に1柱ずつを祀る。
第一本宮:底筒男命(そこつつのおのみこと)
第二本宮:中筒男命(なかつつのおのみこと)
第三本宮:表筒男命(うわつつのおのみこと)
第四本宮:神功皇后(じんぐうこうごう) - 名は「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」。第14代仲哀天皇皇后。
特に底筒男命・中筒男命・表筒男命の3柱は「住吉大神(すみよしのおおかみ)」と総称され、「住江大神(すみのえのおおかみ)」・「墨江三前の大神(すみのえのみまえのおおかみ)」とも別称される。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳[原 2]での祭神の記載は4座。『住吉大社神代記』(平安時代前期頃か)でも祭神を4座とするが、第一宮を表筒男、第二宮を中筒男、第三宮を底筒男、第四宮を姫神宮(気息帯長足姫皇后宮)としており現在とは順序が異同する。
幣殿(重要文化財)画像は第一本宮。桁行は五間。
文化財
国宝
住吉大社本殿 4棟(附 瑞垣及び門)(建造物)
4棟とも江戸時代後期、文化7年(1810年)の造営。
明治35年(1902年)4月17日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定、昭和25年(1950年)の文化財保護法施行により国の重要文化財に指定、昭和28年(1953年)11月14日に国宝に指定。
現地情報
所在地
大阪府大阪市住吉区住吉2-9-89
交通アクセス
鉄道
阪堺電気軌道(阪堺電車)
阪堺線 住吉鳥居前停留場(徒歩すぐ)
阪堺線・上町線 住吉停留場(徒歩4分)
南海電気鉄道(南海電車)
南海本線 住吉大社駅(徒歩3分)
高野線 住吉東駅(徒歩5分)
車
駐車場:有り