閑谷学校(しずたにがっこう)は、江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校。所在地は岡山県備前市閑谷。「旧閑谷学校」として特別史跡に指定され、講堂は国宝に指定されている。
閑谷学校講堂
概要
岡山藩主池田光政によって開設された日本最古の庶民学校である。藩士のための教育施設(藩校)「岡山学校」に続き、岡山藩立の学校として開かれた。建築は2期に分けて行われ、32年の月日を費やした。他に例をみない手間隙かけた質とスケールを誇り330余年の歴史をもっている。地方の指導者を育成するために武士のみならず庶民の子弟も教育した。また、広く門戸を開き他藩の子弟も学ぶことができた。就学年齢は8歳頃から20歳頃までであった。カリキュラムは1と6の付く日には講堂で儒教の講義があり、5と10の付く日は休日となっているなどであった。頼山陽などの著名人も来訪し、幕末には少年時代の大鳥圭介もここで学んだ。
岡山藩は学校領を設け藩財政より独立させ、学田[3]や学林を運営させた。これにより、もし転封や改易により藩主が交替となった場合においても学校が存続するよう工夫した。ここに岡山藩がこの学校をいかに重要視していたか、その一端が窺える。
建造物のうち、講堂が国宝に指定され、小斎・飲室・文庫・聖廟・閑谷神社・石塀など24棟が国の重要文化財に指定されている。また、旧閑谷学校は、周辺の津田永忠宅跡及び黄葉亭などを含め、国の特別史跡に指定されている。2本の巨大な楷(かい)の木や周辺のもみじが美しく、秋の紅葉名所でもある。
講堂の床には漆が塗ってあり、手の脂で漆が禿げてしまうため、 手で触ってはいけないと言われている。
旧閑谷学校聖廟 校門(鶴鳴門)
歴史
池田光政の設置命令
1666年10月、池田光政は津田永忠の案内で閑谷を訪問し、この地に学校を設置することを決め家臣の藤岡内助を普請奉行に命じた。1669年、池田光政は岡山城下の西中山下に岡山藩学校を設置した。続いて1670年(寛文10年)、池田光政は津田永忠に閑谷学校の建設を命じた。津田は閑谷に転居し建設が始まる。1674年までの4年間に、学房・飲室・講堂・聖堂などが完成したが、当時は茅葺きの質素な建物であった。1675年には、光政は領内に123か所設置していた手習所を閑谷学校に統合した。
昭和以降
1954年(昭和29年)、講堂などが特別史跡に指定される。1948年(昭和23年)、学制改革により岡山県閑谷中学校は県立岡山県閑谷高等学校となる。翌1949年には県立和気高等学校と統合され、同校の閑谷校舎となった。昭和39年4月、学校の統合と合理化のために閑谷校舎が閉鎖され、教育の場としての歴史に終止符が打たれる。校舎は明治時代の木造建築の特徴をよく反映した建築物であるので、岡山県青少年教育センター閑谷学校(社会教育施設)として昭和40年4月より転用される。岡山県青少年教育センター閑谷学校が平成3年7月に、他の場所に新築移転したのちは、本館が残されて閑谷学校資料館として利用される。2001年(平成13年)、閑谷学校資料館が登録有形文化財に登録される。
夜の講堂
講堂内部
指定文化財
特別史跡
旧閑谷学校(附 椿山、石門、津田永忠宅跡及び黄葉亭)
国宝
旧閑谷学校講堂(附 壁書1枚、丸瓦1枚)
重要文化財
旧閑谷学校
小斎
習芸斎及び飲室
文庫
公門(附 左右練塀2棟)
旧閑谷学校石塀(附 飲室門1棟)
旧閑谷学校聖廟
大成殿(附 聖龕1基 石橋1基)
東階・西階
中庭(ちゅうてい)[9]
外門
練塀
文庫
厨屋
繋牲石
石階
校門(鶴鳴門)(附 左右練塀2棟)
閑谷神社(旧閑谷学校芳烈祠)
本殿(芳烈祠)
幣殿(階)
拝殿(中庭)
中門(外門)
神庫(庫)
石階
練塀
繋牲石
閑谷学校関係資料4,041点(岡山県立博物館保管)
登録有形文化財
閑谷学校資料館
講堂の軒と楷の樹
交通アクセス
JR山陽本線吉永駅下車、タクシーで10分。
用途 歴史資料館
旧用途 藩校・学校・県教育施設
着工 1670年
開館開所 1673年
所在地 岡山県備前市
座標 北緯34度47分47.0秒 東経134度13分10.2秒
文化財 国宝(講堂)、重要文化財(聖廟・神社等)
指定・登録等日 1938年重要文化財(旧国宝)指定、1953年国宝指定、1954年特別史跡指定
2022年09月22日
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