旧矢掛本陣石井家(きゅうやかげほんじんいしいけ)は、岡山県小田郡矢掛町にある旧西国街道矢掛宿の本陣である。
旧矢掛本陣石井家
概要
旧矢掛本陣石井家は、岡山県小田郡矢掛町矢掛に所在する。
石井家は1620年(元和6年)に現在地に移り、1635年(寛永12年)の参勤交代の制定に伴い、四郎兵衛喜昌のときに本陣職を命じられた。
本陣、脇本陣の両方が重要文化財に指定されているのは全国で唯一矢掛町のみである。 元禄期ごろには、山陽道では数少ない五街道と対等の輸送施設を備える規模であり、鹿児島藩主島津氏、萩藩主毛利氏などが定宿とし、天璋院篤姫が宿泊したという記録もある。
1969年(昭和44年)6月に国の重要文化財に指定された。
御成門
歴史
矢掛宿は山陽道尼崎から18番目の駅宿である[8]。町は宿場町・在郷町として大いに栄えたのである。矢掛宿の成立は、概略以下の通りである。
1600年(慶長5年)小堀新助は、関ケ原の戦功により旧領に加え備中において(小田・中村・江良・西三成)1万石を得、備中松山城の守護・備中国奉行を勤めた。新助は1604年(慶長9年)死去。息子、政一(遠州)は父の遺領1万2460石余を相続するとともに備中国奉行として統治した。1617年(元和3年)河内国奉行に転出する(備中の所領は1619年(元和5年)1月近江国に移し小室に藩を置いた)が、矢掛村の中心集落である「古市」が大火にあう。遠州の書状に「やかけ火事、不残焼候由」とみえている。
遠州の後任の松山城主は、池田長幸(6万5千石)で矢掛近辺11カ所村も支配したが矢掛村は庭瀬戸川領、1619年(元和5年)から池田領となる。池田長幸は、山陽道の宿場を成立させるため矢掛村の山側を流れていた美山川の河道を村の西側に流し小田川・星田川と合流させ自然堤防を活用、古市方面へ屋敷地を造成した。石井家も1620年(元和6年)に古市より移住した。(23軒)
池田氏は矢掛村を陸分と町分に分け夫々に村(町)役人を置き支配した。1641年(寛永18年)に二代長常の死により無嗣絶家以後、幕府領となり宿場の整備が進んだ。(1642年〜1692年・1698年(寛永15年〜元禄5年・元禄11年))。1694年〜1697年(元禄7年〜10年)は庭瀬松平領。 1699年(元禄12年)から庭瀬板倉藩領となり、明治の廃藩まで宿場町として存続した。
石井家は1669年(寛文9年)酒造業を始め、1680年(延宝8年)町庄屋となり1708年(宝永5年)小田郡の大庄屋となった。その間宿場の整備と共に本陣職を務めた。本陣職は1635年(寛永12年)についたが、1698年(元禄11年)青山播磨守・目付別所孫右衛門が福山城受取のため8月11日(往路)、8月16日(復路)宿泊の記録がみえる。また1694年(元禄7年)周防徳山毛利飛騨守・肥前佐賀松本丹後守が宿泊している。参勤交代としての大名宿泊は1838年(元文3年)阿部伊勢守である。以後、1750年ごろから幕末まで大名が年間14件、幕府御用関係が8件ぐらいの休泊利用があった。
矢掛本陣 酒店の店土間入り口
矢掛本陣 主屋 中土間から主人の間と二階
店・居住用
主屋
桁行19.938メートル、梁間9.015メートル
建て替えは1855年(安政2年)に着手し、建築後昭和期まで度々改造が行われた。主屋は店棟・台所棟・居室棟で構成されている。
本陣用
中心は座敷棟であり、1832年(天保3年)に建て替えられたものである。門・玄関・座敷・風呂・便所で構成されている。
広さとしては、ほぼ130坪で、敷地面積の13%程である。
酒造用
米蔵は土蔵造りで幕末頃の建物である。(1848年〜1854年)。酒蔵の中央部の7間半は安永頃(1772年〜1781年)のもので、柱は栗材である。2階は杜氏等酒造関係の使用人が起居した。絞り場は、明治初年頃酒造南部分とともに建設された。
所在地
岡山県小田郡矢掛町矢掛3079
交通アクセス
車の場合
鴨方ICから約20分 玉島ICから約25分 笠岡ICから約30分
鉄道の場合
井原鉄道井原線矢掛駅から徒歩10分
利用情報
開館時間
午前9時〜午後5時(11月〜2月は4時)
休館日
月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)
入館料
一般人: 500円
団体(20名以上): 400円
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