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2022年09月09日

岡崎信用金庫資料館(おかざきしんようきんこしりょうかん)

岡崎信用金庫資料館(おかざきしんようきんこしりょうかん)は、愛知県岡崎市伝馬通にある資料館。

1917年(大正6年)に岡崎銀行本店として建てられ、戦後の1950年(昭和25年)から1976年(昭和51年)まで岡崎商工会議所会館として使用された後、1982年(昭和57年)に岡崎信用金庫資料館が開館した。

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岡崎信用金庫資料館

歴史
岡崎銀行
1890年(明治23年)に設立されていた岡崎銀行(1945年(昭和20年)に東海銀行と合併。現三菱UFJ銀行)は、1917年(大正6年)4月に伝馬通りに本店を移転。鈴木禎次に設計を依頼し、本店として建設されたのがこの建物である[2][3]。辰野金吾を師とする鈴木は名古屋を拠点とした建築家であり、鶴舞公園の奏楽堂や噴水塔など、東海地方で数多くの建築物を手掛けていた。赤煉瓦と御影石を組み合わせた重厚なルネサンス様式の建物である。

岡崎商工会議所会館
1945年(昭和20年)7月、太平洋戦争の岡崎空襲で岡崎市街地は廃墟と化し、岡崎銀行本店も外側を残して焼失した。1950年(昭和25年)には岡崎商工会議所が建物を買い取って改修し、同年10月には商工会議所会館として地域経済の拠点的な施設となった。

岡崎信用金庫資料館
1976年(昭和51年)11月、岡崎商工会議所は明大寺町に商工会議所会館を新築して移転した。商工会議所会館の旧館は取り壊される寸前だったが、岡崎信用金庫の服部敏郎会長は岡崎市民の声を受けて、土地と建物を商工会議所から買い取った。金融・経済関係主体の資料館として整備することとし、建物の内側を厚さ3センチの鉄筋コンクリートで補強するなどして改修した。

1982年(昭和57年)11月2日、岡崎信用金庫資料館として開館した。資料館の開館は岡崎信用金庫の創立55周年記念事業である。開館時の館長は柴田経三[3]。同年11月には日本建築学会によって日本の近代建築の中から「全国の建物2000棟」に選ばれている。

1990年(平成2年)、岡崎市の「岡崎市都市景観環境賞」を受賞。2008年(平成20年)には国の登録有形文化財に登録された。2017年(平成29年)10月31日、岡崎市の景観重要建造物に指定された。

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建築
ルネサンス様式を主体としており、外観には御影石と煉瓦が組み合わされている。地上2階建て一部3階建てであり、東側には尖塔屋根が、西側にはネオ・ルネサンス式の箱型屋根がある。

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旧名称 岡崎銀行本店、岡崎商工会議所会館
用途 資料館
旧用途 銀行・商工会議所
設計者 鈴木禎次
構造形式 鉄筋コンクリート造、スレート葺
建築面積 302 m2
延床面積 578 m2
階数 地上2階一部3階建
開館開所 1917年(大正6年)
改築 1950年(昭和25年)、1982年(昭和57年)
所在地 〒444-0038
愛知県岡崎市伝馬通1-58
座標 北緯34度57分28.53秒 東経137度10分4.59秒
文化財 登録有形文化財
指定・登録等日 2008年(平成20年)3月7日
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2022年09月08日

福山(現・北海道松前町松城)にあった日本の城・松前城(まつまえじょう)

松前城(まつまえじょう)は、西蝦夷地(渡島国津軽郡、のち福島郡の一部を編入で松前郡)福山(現・北海道松前町松城)にあった日本の城(平山城)。江戸時代、公式には福山城(ふくやまじょう)と記されたが、当時から備後福山城との混同を避けるため松前城とも呼ばれていた。

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外観復元された松前城天守

概略
江戸時代末期に海防強化のため松前藩が江戸幕府に命じられ、居城であった福山館を拡張する形で築城し、1855年(安政元年)に完成した。石田城と並び日本における最後期、かつ、北海道内で唯一つの日本式城郭である。

箱館戦争では、明治元年11月5日(1868年12月18日)に土方歳三が率いる旧幕府軍に攻め落とされたが、翌年、新政府軍が奪回した。明治維新後、天守などを除く城の大半が取り壊されたが、天守は国宝保存法に基づく国宝に指定された。しかし1949年(昭和24年)6月5日に類焼により焼失。そのため、創建当時から現存する建築物は切妻造の本丸御門と本丸表御殿玄関(北海道有形文化財)および旧寺町御門(現在の阿吽寺山門)のみである。今も残る曲輪・石垣などを含めた城跡が国の史跡に指定されている。

現在は松前城とその周辺の寺町や観光施設の松前藩屋敷を含む広いエリアが松前公園として整備されている。公園にはマツマエハヤザキやベニユタカなど松前町発祥の貴重な松前系品種を含む250種1万本の桜が植えられていて日本さくら名所100選に選定されており、2か月にわたり花見ができる全国屈指の桜の名所となっている。

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歴史
福山館
前身の福山館は、松前慶広の代に、松前氏が居城としていた大館(徳山館)より福山へ移城した際、1600年(慶長5年)から1606年(慶長11年)にかけて建設された。福山館は堀や石垣があり、本丸のほか二ノ丸、北ノ丸、櫓が築かれていたが、松前氏が無城待遇だったことから、正式に城とは呼ばれなかった。

築城
江戸幕府は異国船到来の増加を受けた海防強化のため、松前藩主となったばかりの松前崇広に1849年(嘉永2年)7月10日、新たに築城を命じた。

築城の縄張りは、日本三大兵学者と呼ばれた長沼流の市川一学に依頼された。一学は高崎藩主松平輝聴の家臣であったが、松前藩は礼を尽くして協力を得ることとなった。一学は息子の市川十郎とともに松前に渡り、藩内を調査し、箱館の北にある庄司山から大川付近が最適地であるとして意見具申した。しかし藩側は、松前が交易の中心かつ父祖伝来の土地であること、なにより新規築城移転に要する多額の費用を捻出することは難しいため、現在の福山館を拡大し、海岸には砲台を設置すべきとした。市川十郎は箱館移転と福山館拡張の二案を幕府に提出し、幕府の採決により福山館拡張で決定した。

松前広当が総奉行に、配下として新井田備寿、蠣崎広明、下国定季らが任じられ、1850年(嘉永3年)7月以降に福山館の撤去と縄張りを開始。石材には城北東部から採れる緑色凝灰岩を中心に、重要部分には兵庫の本御影石などが用いられた。総工事費は約15万両と概算されるが、築城の最大の課題は費用捻出であり、これに苦心した藩は沖ノ口口銭の引き上げや家臣俸禄の一割献上、御用商人からの献金、町民からの献金や労働力提供が行われた。特に御用商人の中には櫓一基分もの巨費を献金した者もいた。1852年(嘉永5年)8月に築城総奉行の松前広当が死去したため、下国崇教が総奉行となった。

1855年(安政元年)9月末に工事は完成し、10月24日に幕府目付堀利煕による検分が行われ、松前福山城と呼ばれることとなった。同月末には町人や商人、領内各村のそれぞれ有力者や多額の献金者が集められ、完成の祝宴が行われた。

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文化財
本丸御門
1941年(昭和16年)、国宝保存法に基づく国宝(旧国宝)に指定(1950年(昭和25年)の文化財保護法施行後は国の重要文化財となる)。

本丸表御殿玄関
本丸御門、天守とともに残存していた旧表御殿は、1875年開校の松城小学校校舎として利用されたが、1900年の新校舎建設に伴って取り壊された。しかし、玄関のみは新校舎に取り付けられて引き続き利用されることとなった。1982年、校舎新築に伴って玄関部分は曳家して城内に保存されることとなった。

1983年(昭和38年)7月26日、北海道の有形文化財に指定。

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立地・交通
所在地
北海道松前郡松前町字松城144
アクセス
北海道新幹線、道南いさりび鉄道線・木古内駅から函館バス「松城」下車、徒歩約10分

別名 福山城
城郭構造 平山城
天守構造 独立式層塔型3重3階(1855年(安政元年)築 非現存)
(1960年RC造外観復元)
築城主 松前崇広
築城年 安政元年(1855年)
主な城主 松前氏
廃城年 1874年
遺構 本丸御門、御殿玄関、石垣、土塁

指定文化財 国の重要文化財(本丸御門)
国の史跡
北海道有形文化財(御殿玄関)
再建造物 天守
位置 北緯41度25分49.17秒 東経140度6分30.96秒
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2022年09月07日

長野県の中信地方から南信地方にかけて分布する民家・本棟造(ほんむねづくり)

本棟造(ほんむねづくり)は、長野県の中信地方から南信地方にかけて分布する民家の形式である。切妻造り妻入り、ゆるい勾配の屋根、雀おどしと呼ばれる棟飾り、正方形の間取りなどが特徴。重要文化財にも指定されている堀内家住宅や馬場家住宅などが有名。

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馬場家住宅(長野県松本市)

定義
厳密な定義は存在しないが、太田博太郎は本棟造りの特徴を以下のように説明している。

切り妻造り妻入りである。
緩い勾配の板屋根である。
梁間が大きく、平面全体の形は正方形に近い。
間取りは一方を通り土間とし、ユカ上は2列6室以上になる。したがって真ん中に真っ暗な部屋が出来る。
しかし、地元の人々は雀おどし(雀踊りとも)と呼ばれる飾りがついていなかったり、規模の小さかったりするものは、上記の条件を満たしていても本棟造りと認識しない場合が多いようである。

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郷原宿下問屋(塩尻市)

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塩尻短歌館(塩尻市)

歴史
整った形の本棟造りで最も古いものは長野県塩尻市片丘にある嶋ア家住宅で、享保年間(1716年 - 1736年)の建築である。また、本棟造り系統の民家としては古いものは長野県安曇野市穂高有明にある曽根原家住宅で、17世紀中頃のものと考えられている。

現在見られるような正面外観を持った本棟造りが作られるようになったのは、江戸時代末から明治初頭であると考えられている。明治末以降はあまり作られなくなるが、第二次世界大戦後になって再び作られるようになり現在に至る。なお、戦後建てられた本棟造を新本棟造りなどと呼んで古いものと区別する場合がある。

また、編年的な傾向として、新しい本棟造りは古いものに比べ屋根の傾斜が急である場合が多い。これは二階の使用目的の変化が影響していると考えられている。
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2022年09月06日

国の重要文化財に指定されている・旧函館区公会堂(きゅうはこだてくこうかいどう)

旧函館区公会堂(きゅうはこだてくこうかいどう)は、北海道函館市元町にある歴史的建造物。明治時代に建設されたコロニアルスタイルの西洋館で、国の重要文化財に指定されている。

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旧函館区公会堂

概要
明治40年(1907年)の大火により、町会所が焼失し、新たな集会所の建設の計画が持ち上がった際、初代相馬哲平が50,000円の寄付を申し出て、明治43年(1910年)工費58,000円余りで完成した。新たな町会所の他、商業会議所事務所、ホテル営業も構想にあったが実現しなかった。

北海道特有の木造2階建ての擬洋風建築、アメリカのコロニアル風洋館で札幌の豊平館と並んで、明治期の洋風建築として注目される。左右対称のポーチを持ち、回廊で結ぶ中央にベランダを配し、左右のポーチにもベランダを持つ。屋根は桟瓦葺きで屋根窓を持つ。外観は青灰色と黄色に彩られており、ポーチの袖妻には唐草模様を配し、玄関や回廊を支えるコリント式の円柱の柱頭に洋風の装飾が配され、当時の日本人職人の洋風建築技法の習得意欲がうかがわれる。1階には大食堂や球戯室、2階には大広間がある。付属棟は木造平屋建であり、渡廊下でつながっている。本館の延べ床面積は1,761.308平方メートル(533.73坪)、付属棟は138.815平方メートル(42.06坪)である。

工事を請け負ったのは村木甚三郎。

明治44年(1911年)、大正天皇が皇太子時代に来函、宿舎となった。また、大正11年(1922年)昭和天皇が摂政宮のときにも休憩している。昭和26年(1951年)3月から昭和31年(1956年)までは函館地方海難審判庁が置かれ、洞爺丸事故の海難審判の会場ともなった[2]。昭和55年(1980年)から一度目の解体修理復元が行われ、昭和57年(1982年)当初の姿に戻った。昭和49年(1974年)に本館と附属棟の2棟が国の重要文化財に指定された。

平成30年(2018年)10月1日から令和3年(2021年)4月25日まで、二度目の耐震補強を含む大規模な保存修理工事を実施し、令和3年(2021年)4月26日リニューアルオープンした。

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完成 1910年
開館 1910年9月20日
延床面積 1,900.123m2
運営 名美興業株式会社
所在地 〒040-0054
北海道函館市元町11-13
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2022年09月05日

世界遺産(文化遺産)に登録された・法隆寺(ほうりゅうじ)

法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある聖徳宗の総本山の寺院。山号はなし。本尊は釈迦如来。斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺としても知られる。

法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートル。西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群である。

法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年(平成5年)に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。

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法隆寺 金堂

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銅造薬師如来像(金堂)

歴史
法隆寺がある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて大和国(現・奈良県)と河内国(現・大阪府南部)とを結ぶ交通の要衝であった。付近には藤ノ木古墳を始めとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたことをうかがわせる。

『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。

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銅造釈迦三尊像(金堂)

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木造四天王像のうち増長天(金堂)

近代以降
1878年(明治11年) 300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。これがいわゆる「法隆寺献納宝物」で、第二次世界大戦後は大部分が東京国立博物館の所蔵となり、ごく一部が皇室御物および宮内庁保管となっている。
1882年(明治15年) 法相宗に転じる。
1884年(明治17年) フェノロサ、岡倉覚三(天心)らにより法隆寺の宝物調査が行われ、夢殿の救世観音像がこの時数百年ぶりに開扉されたという(異説もある)。
1903年(明治36年) 佐伯定胤が管主となり、廃仏毀釈で衰微していた唯識の教えを復興する。
1934年(昭和9年) 「昭和の大修理」が開始。
1939年(昭和14年) 「若草伽藍」発掘。
1944年(昭和19年) 太平洋戦争下の爆撃から守るため、解体していた部材を安堵村(現・安堵町)などに疎開させる。
1947年(昭和22年) 復元中に天井板部材に建築当時の落書きがあることを発見。
1949年(昭和24年) 金堂壁画を火災で焼損。
1950年(昭和25年) 法相宗を離脱し、聖徳宗を開く。
1985年(昭和60年) 昭和の大修理完成。
1993年(平成5年)12月9日 ユネスコの世界遺産に登録。
2013年(平成25年)12月9日、大規模自然災害時には寺を緊急避難場所に開放する協定を斑鳩町と締結した。境内の南大門前広場や聖徳会館を避難場所として提供する。
2015年(平成27年)11月11日、1949年の火災で焼失した金堂壁画について、文化庁などと共同で総合的な科学調査を実施すると発表。

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五重塔

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『迫力ある金剛力士像に護られる『法隆寺 中門』

交通アクセス
JR大和路線法隆寺駅下車。徒歩で20分。または奈良交通バス(72系統)で、法隆寺駅バス停→法隆寺参道バス停徒歩3分。
JR・近鉄王寺駅下車。奈良交通バス(62・63・92系統)で王寺駅北口→法隆寺前バス停徒歩3分。
近鉄橿原線筒井駅下車。奈良交通バス(63・92系統)で筒井駅バス停→法隆寺前バス停徒歩3分。
近鉄橿原線近鉄郡山駅下車。奈良交通バス(50・51・52・97・98系統)で近鉄郡山駅バス停→法隆寺前バス停徒歩3分。
奈良交通バス奈良・西の京・斑鳩回遊ライン(97系統)春日大社本殿 - 近鉄奈良駅 - JR奈良駅-薬師寺東口 - 近鉄郡山駅 - 法起寺前 → 法隆寺前バス停徒歩3分。春日大社や奈良駅等から(へ)乗り換えずに行くことができる。ただし、本数が少なく、最終バスの時間が早いので注意。

拝観
西院伽藍(金堂、五重塔、大講堂)、大宝蔵院(百済観音堂を含む)、東院伽藍(夢殿)の3か所は有料で拝観可。
拝観券は、西院伽藍・大宝蔵院・東院伽藍の3箇所共通券が大人1500円。西院伽藍入口でのみ発券。
東院伽藍だけで300円。
東院伽藍の半券を西院伽藍入口で提示した場合のみ、西院伽藍と大宝蔵院の2箇所共通券1200円で発券。2箇所共通券の単独発売はしない。
西円堂・聖霊院等は無料で拝観可。その他の諸堂および子院は原則として非公開。ただし、下記の諸堂は期日を限って公開。

上御堂 11月1日 - 3日開扉。西院伽藍の拝観券が必要。
地蔵堂 8月24日昼の地蔵会で開扉。
護摩堂 毎月28日の月例護摩で開扉。
聖霊院 外陣にはいつも無料で上がれるが、本尊聖徳太子像などの諸仏は秘仏で、開扉は3月22日 - 24日のお会式と3月21日夕刻の逮夜法要のみ。ただし、内陣で本尊を拝観できるのは逮夜法要時のみ。
舎利殿・絵殿 1月1日 - 3日舎利講で開扉。東院伽藍の拝観券が必要。
伝法堂 7月24日夕刻の東院地蔵会で開扉。東院伽藍の拝観券が必要。
律学院 3月22・23日のお会式と8月14・15日に開扉。

所在地 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
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2022年09月04日

伎芸天像と国宝の本堂で知られる・秋篠寺(あきしのでら)

秋篠寺(あきしのでら)は、奈良県奈良市秋篠町にある単立の寺院。山号はなし。本尊は薬師如来。伎芸天像と国宝の本堂で知られる。

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本堂(国宝)

歴史
寺は奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置する。奈良時代の法相宗の僧・善珠の創建とされ、地元の豪族秋篠氏の氏寺ともいわれているが、創建の正確な時期や事情はわかっていない。

宝亀7年(776年)、光仁天皇の勅願により善珠が創建したともいうが、これは鎌倉時代の文書に見えるものである。文献上の初見は『続日本紀』に宝亀11年(780年)、光仁天皇が秋篠寺に食封(じきふ)一百戸を施入したとあるもので、この年以前の創建であることがわかる(食封とは、一定地域の戸(世帯)から上がる租庸調を給与や寺院の維持費等として支給するもの)。創建時は法相宗の寺院であった。『日本後紀』によれば、延暦25年(806年)に崩御した桓武天皇の五七忌が秋篠寺で行われたことが見え、皇室とも関連の深い寺院であったことがわかる。

秋篠寺は平安時代になると真言宗寺院となり、平安後期からは寺領を増大させて南に位置する西大寺との間にたびたび寺領をめぐる争論があったことが、西大寺側に残る史料からわかる。

保延元年(1135年)には火災により講堂以外の主要伽藍を焼失した。現存する本堂(国宝)は、旧講堂の位置に建つが創建当時のものではなく、鎌倉時代の再建である。

文禄4年(1595年)、豊臣秀吉によって寺領100石が安堵される。

明治時代以降は浄土宗に宗旨を変更していたが、現在は単立寺院となっている。

南門の外にはかつての鎮守社・八所御霊神社があり、早良親王など八柱を祀る。

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奈良時代の秋篠寺の模型(奈良市役所所蔵平城京1/1000模型の一部)

境内
現在、主な入口は東門になっているが、本来の正門は南門である。南門と本堂の間には、雑木林や苔庭の中に金堂、東西両塔の跡があり、それぞれ礎石が残っている。

本堂(国宝) - 鎌倉時代の建立で、講堂の跡地に建てられた。当時の和様仏堂の代表作の1つである。桁行(正面)5間、梁間(側面)4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する用語)。屋根は寄棟造、本瓦葺き。堂の周囲には縁などを設けず、内部は床を張らずに土間とする。正面の柱間5間は中央3間を格子戸、左右両端の間を連子窓とする。全体に保守的で簡素な構成で、鎌倉時代の再建でありながら奈良時代建築を思わせる様式を示す建物である。和様建築では柱上部の頭貫(かしらぬき)以外には貫を用いず長押を使用するのが原則だが、この建物では内法長押(うちのりなげし)の下に内法貫を使用し、内部の繋虹梁(つなぎこうりょう)も身舎(もや)側では柱に差し込むなどの新技法が使われている[注 1]。なお、建物内部の柱にも風蝕痕が残ることなどから、建立当初は建物前面の左右5間・奥行1間分を、壁や建具を入れない吹き放しとしていたと推定される。堂内には本尊薬師三尊像(重要文化財)を中心に、十二神将像、地蔵菩薩立像(重要文化財)、帝釈天立像(重要文化財)、伎芸天立像(重要文化財)などを安置する。
鐘楼
大元堂 - 本堂西側。秘仏の大元帥明王像を安置する。
開山堂
霊堂
十三重石塔
金堂跡 - 礎石が残る。苔庭となっている。
十三社
香水閣 - 本堂東側、東門近くにある井戸「香水井」である。平安時代の初め、僧常暁が当時の閼伽井の水面に映る大元帥明王像を感得したという故地である。
東門
庫裏
東塔跡 - 三重塔の跡。基壇や礎石がよく残っている。
西塔跡 - 苔庭の中にある。
南門(正門)
善珠の墓 - 境内東の飛び地にある。

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秋篠寺南門

文化財
国宝
本堂
重要文化財
木造伝・伎芸天立像 - 像高206.0センチメートル。本堂仏壇の向かって左端に立つ。瞑想的な表情と優雅な身のこなしで多くの人を魅了してきた像である。全体が同時期に製作されたものではなく、頭部は奈良時代に脱活乾漆法で、体部は鎌倉時代に木造で作られているが、像全体としては違和感なく調和している。「伎芸天」として伝わることから「木造伝伎芸天立像(頭部乾漆造)」として重要文化財に登録されている。「伎芸天」の彫像の古例は日本では本像以外に知られていない。なお、体部は運慶の作とする説もある。秋篠寺には、頭部を奈良時代の脱活乾漆造、体部を鎌倉時代の木造とする像が本像を含め4体ある。
木造薬師如来及両脇侍像 - 本堂の本尊である。中尊の薬師如来が素木仕上げであるのに対し、脇侍の日光菩薩・月光菩薩像は彩色仕上げで作風も異なり、本来の一具ではない。中尊薬師如来像は蓮華座ではなく古風な裳懸座に坐す。制作年代については、室町時代頃の復古作とされている。両脇侍像は平安時代後期の作とみられ、像容から、もとは梵天・帝釈天像として造られた可能性がある。
木造帝釈天立像 - 頭部は奈良時代の脱活乾漆造、体部は鎌倉時代の木造。本堂に安置。
木造梵天立像 - 頭部は奈良時代の脱活乾漆造、体部は鎌倉時代の木造。奈良国立博物館に寄託。
木造伝・救脱菩薩立像 - 頭部は奈良時代の脱活乾漆造、体部は鎌倉時代の木造。奈良国立博物館に寄託。
木造地蔵菩薩立像 - 平安時代。本堂に安置。(1909年(明治42年)重文指定)
木造地蔵菩薩立像 - 平安時代。京都国立博物館に寄託。(1906年(明治39年)重文指定)
木造十一面観音立像 - 平安時代。東京国立博物館に寄託。
脱活乾漆像残欠(乾漆断片8片、心木2躯分) - 奈良時代。奈良国立博物館に寄託。
木造大元帥明王立像 - 鎌倉時代。本堂西側の大元堂に安置。大元帥明王の彫像として稀有の作。6本の手をもち、体じゅうに蛇が巻き付いた忿怒像で、秋篠寺が真言密教寺院であった時代の作である。秘仏で5月5日の護摩法要と6月6日の結縁開扉の時に開扉されるが、一般の拝観が可能なのは6月6日のみである。
奈良県指定有形文化財
鰐口 1口
奈良市指定有形文化財
絹本著色愛染明王像 1幅 - 奈良国立博物館に寄託。
絹本著色大元帥明王像 1幅
奈良市指定有形民俗文化財
馬図絵馬 断片7点

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秋篠寺東門

アクセス
近鉄大和西大寺駅下車。奈良交通バス72号系統押熊行きに乗車の上、「秋篠寺」バス停下車。
近鉄平城駅下車。東に0.8キロ(徒歩約12分)。

所在地 奈良県奈良市秋篠町757
位置 北緯34度42分11.38秒 東経135度46分32.32秒
山号 なし
宗派 単立
本尊 薬師如来(重要文化財)
創建年 伝・宝亀7年(776年)
開山 伝・善珠
開基 光仁天皇(勅願)
文化財 本堂(国宝)
木造伝・伎芸天立像、木造地蔵菩薩立像、木造大元帥明王立像ほか(重要文化財)
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2022年09月02日

昭和7年(1932年)3月25日に国の史跡・名勝に指定・山寺(やまでら)

立石寺(りっしゃくじ)は、山形県山形市にある天台宗の仏教寺院。山寺(やまでら)の通称で知られ、古くは「りゅうしゃくじ」と称した。詳しくは宝珠山阿所川院立石寺(ほうじゅさんあそかわいんりっしゃくじ)と称する。本尊は薬師如来。

古来、悪縁切り寺として信仰を集めている。蔵王国定公園(第2種特別地域)に指定されていて、円仁が開山した四寺(他は中尊寺・毛越寺、瑞巌寺)を巡る「四寺廻廊」を構成しているほか、若松寺と慈恩寺を含めて巡る出羽名刹三寺まいりを構成する。

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根本中堂(本堂)

歴史
創建
寺伝では貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされている。

当寺の創建が平安時代初期(9世紀)に遡ることと、円仁との関係が深い寺院であることは確かであるが、創建の正確な時期や事情については諸説あり、草創の時期は貞観2年よりもさらに遡るものと推定される。立石寺文書のうち『立石寺記録』は、「開山」を円仁、「開祖」を安慧(あんね)と位置づけており、子院の安養院は心能が、千手院と山王院は実玄が開いたとされている。安慧は円仁の跡を継いで天台座主となった僧であり、心能と実玄は円仁の東国巡錫に同行した弟子である。安慧は承和11年(844年)から嘉承2年(849年)まで出羽国の講師の任にあり、東国に天台宗を広める役割を果たしたことから、立石寺の実質的な創立者は安慧であるとする説もある。また、円仁が実際に東国巡錫したのは天長6年(829年)から9年(832年)のこととされ、この際、弟子の心能と実玄をこの地に留め置いて立石寺の開創にあたらせたとの解釈もある。立石寺には貞観2年(860年)12月の日付を持つ『円仁置文写』が伝わるが、この文書は必ずしも寺の創建年次を示すものではなく、この文書自体が後世の仮託とする説もある。貞観2年(860年)には、円仁は当時としては高齢の60歳代で、しかも天台座主の高位にあった。従って、この時期に円仁が実際に現代の山形県に出向いて立石寺を建立したということは、年齢と地位の両面から、文字通りの史実とは考えがたく、円仁の意を受けた安慧らによって9世紀半ば頃から徐々に寺観が整えられたとみるのが穏当である。 なお、根本中堂に安置されている木造毘沙門天立像は近年の調査によって9世紀頃の作であることが判明しており、円仁とみられる頭部のみの木彫像と同様、立石寺創建期の一例に加えられる。また、胸甲の上で甲締めの結び目を表していることや細い腰帯の下に幅広の腰帯を着けるなど珍しい甲制となっているが、これらは東北地方の神将形の作例にしか見られないもので、平安時代には同種の作例がある寺院との間に繋がりがあったことを示唆させる特徴を持つ点でも注目に値する。

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根本中堂内部

円仁の入定窟
円仁(慈覚大師)の遺骸を安置すると伝える入定窟(にゅうじょうくつ)がある。史実としては、円仁は貞観6年(864年)、比叡山で没しており、立石寺に実際に遺骸が移されたという確証はないが、入定窟の上に立てられた天養元年(1144年)の『如法経所碑』が現存し、そこには「大師の護持を仰いで法華経を埋納する」という趣旨のことが書かれていて、この時代(12世紀)、既に円仁がこの地で入定しているとする伝承が成立していたことがわかる。昭和23年(1948年)から翌年にかけて入定窟の学術調査が実施され、金箔押しの木棺と人骨5体分、円仁像と思われる頭部のみの木彫像などが発見された。この木彫像の頭部については、目鼻立ちなどの特色から円仁像であることは認められ、作風から9世紀頃の制作であるとされる。

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仁王門と彌陀洞

中世以降
鎌倉時代には幕府の保護と統制を受け、関東御祈祷所となり寺は栄えた。本尊薬師如来坐像は元久2年(1205年)に修理されており、この時に本堂の修造が完了して十二神将像を造立した。後に兵火により伽藍を焼失し、13世紀中頃には幕府の政策により禅宗に改宗となった。延文元年(正平11年・1356年)、源氏の斯波兼頼が羽州探題として山形に入部した後、兼頼により再建され天台宗に戻った。

文明14年(1482年)、雪舟等楊が訪れ写生している。

大永元年(1521年)、寺は天童頼長[※ 2]の兵火を受けて一山焼失した。永正17年(1520年)、頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦うが、この際、立石寺が伊達側に加勢したために頼長の怒りを買い、翌年焼き討ちを受けたものである。なお、現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。焼き討ちの際には、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消失した。天文12年(1543年)、天台僧の円海は春還芳公尼 (後述)からの助成を受けて延暦寺に登拝、再度分燈を受けた。元亀2年(1571年)に延暦寺が焼き討ちされ法燈が消失すると、その再建時には立石寺から延暦寺へと逆に分燈された。

山形城主であった最上家(斯波兼頼を祖とする)と関係が深く、同家の庇護を受けていた。最上義守の母・春還芳公尼(しゅんげんほうこうに)は荒廃した堂宇の再興に努め、その孫(最上義守の子)にあたる最上義光(よしあき)も立石寺を保護した。義光の時代の分限帳によれば、寺領1,300石が与えられている。最上氏が山寺を崇敬し保護するという関係は、最上氏が改易される元和2年(1622年)まで続いていった。

最上家改易後は庇護者を失うものの、この頃から広く信者を募り広域的な信仰の広がりを見せ、全盛期の江戸時代初期には2800石の朱印地・僧房100寺・僧侶300余人を有したという。

元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が旅の途中で訪れ、その時のことが『おくのほそ道』に書かれている。当地では名句「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」を詠んでおり、参道に句碑と「せみ塚」がある。

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立石寺納経堂

文化財
重要文化財
・立石寺中堂(根本中堂)(建造物、明治41年(1908年)4月23日指定)
正平年間(1346年から1370年)の再建と伝え、慶長13年(1608年)の大修理を含め数度の修理を受けているが、現在は慶長13年の姿を保っている。公開。
・天養元年如法経所碑(考古資料、大正4年(1915年)3月26日指定)
天養元年(1144年)8月18日に、真語僧入阿らが妙法蓮華経1部8巻を書写して、霊崛のほとりに納めた旨が記されている。非公開。
・立石寺三重小塔(建造物、昭和27年(1952年)7月19日指定)
塔頭華蔵院境内の右側の岩壁に南面して掘られた岩屋の内にある、高さ2.5mの木造小塔。相輪に永正16年(1519年)の銘があることから、その頃に造立されたものと思われる。公開。
・木造薬師如来坐像(彫刻、昭和44年(1966年)6月11日指定)
膝部裏から元久2年(1205年)の修理銘が発見され、平安時代の作とされる[15]。桂の一木造。秘仏、非公開。
・木造慈覚大師頭部 1箇・木棺 1合(附:木造五輪塔、元和四年木札、貞享四年木札)(彫刻、平成18年(2006年)6月9日指定)
平安時代前期の製作と推定される。非公開。

国の名勝・史跡
山寺(昭和7年(1932年)3月25日に国の史跡・名勝に指定)

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仁王門

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奥之院と大仏殿

交通アクセス
JR仙山線・山寺駅より徒歩7分 立石寺登山口
山形自動車道・山形北ICより約10km
駐車場150台(有料)
入山料300円(令和2年(2020年)時点)
石段は1015段ある。

寺の東にある千手院観音と、かつて山伏の修行場であった垂水遺跡を経由する山道もあり、「裏山寺」「峯の浦」と称されている。

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山寺駅よりの眺め

所在地 山形県山形市大字山寺4456-1
位置 北緯38度18分45.2秒 東経140度26分14.6秒
山号 宝珠山
院号 阿所川院
宗派 天台宗
寺格 関東祈祷所
本尊 薬師如来
創建年 伝・貞観2年(860年)
開山 伝・円仁
正式名 寶珠山阿所川院立石寺
別称 山寺
札所等 四寺廻廊
最上三十三観音霊場第2番(千手院)
文化財 根本中堂、木造薬師如来坐像、天養元年如法経所碑、三重小塔、木造慈覚大師頭部 1箇・木棺 1合(重要文化財)
山寺(国の名勝・史跡)
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2022年09月01日

鎌倉時代の禅宗様建築で国宝・功山寺(こうざんじ)

功山寺(こうざんじ)は、山口県下関市長府にある曹洞宗の寺。長府毛利家の菩提寺。山号は金山(きんざん)。中国三十三観音霊場第十九番札所、山陽花の寺二十四か寺第九番。

仏殿は、善福院釈迦堂とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。

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仏殿 (国宝)

禅宗様(ぜんしゅうよう)は、日本の伝統的な建築様式の一つ。唐様とも言う。

鎌倉時代初期から禅宗寺院で取り入れられ始め、武士の帰依を受けたことで13世紀後半から盛んになった様式で、当時の中国建築の直写が目指された。従来の寺院建築様式である和様、また鎌倉時代初期にもたらされた大仏様に対する言葉。大仏様とは共通する部分も多く、あわせて鎌倉新様式または宋様式と総称される。

概要
飛鳥・天平時代に中国から伝えられた建築様式は、平安時代を通じて日本化し、柱を細く、天井を低めにした穏やかな空間が好まれるようになった。平安時代以降、日本化した建築様式を和様と呼ぶ。

平安時代後期になると、平清盛の大輪田泊対外開港など中国(宋)との交易が活発になったことで、再び中国の建築様式が伝えられた。まず入ってきたのは東大寺再興の際に用いられた様式で、大仏様と呼ぶ。

その後、禅僧が活発に往来し、中国の寺院建築様式が伝えられた。これは禅宗寺院の仏堂に多く用いられ、禅宗様と呼ぶ。

歴史
嘉暦2年(1327年)、虚庵玄寂を開山として臨済宗の長福寺として創建された。開基は北条時仲と推定されている。なお、仏殿の建立は上記創建年より早い元応2年(1320年)である。正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の勅願寺となり、建武3年(1336年)には足利尊氏から寺領が寄進されるなど、朝野の尊崇を得て栄えた。

室町時代には大内氏の庇護を得、文明8年(1476年)には大内政弘によって復興された。弘治3年(1557年)、周防大内氏最後の当主大内義長が境内で自害した後、寺は一時衰退する。

慶長7年(1602年)、長府藩主毛利秀元が金岡用兼を招聘し、曹洞宗の笑山寺として再興した。慶安3年(1650年)、秀元の没後、功山寺に改名された。

幕末の文久3年(1863年)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在。高杉晋作は当寺で挙兵した(回天義挙)。

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総門

文化財
国宝
仏殿 - 柱の墨書により元応2年(1320年)の建立と判明する。入母屋造、檜皮葺き。一重裳階(もこし)付き。方三間の身舎の周囲に裳階をめぐらした形になる。堂内には本尊千手観音坐像を安置する。典型的な禅宗様仏殿で、鎌倉時代にさかのぼり、建立年代の明らかなものとして貴重である。
県指定文化財
地蔵菩薩半跏像 - 延命地蔵とも
楊柳観音画像 - 高麗王朝期
市指定文化財
山門 - 安永2年(1773年)
経蔵 - 輪蔵とも。寛政11年(1799年)
書院 - 七卿潜居の間。実際に滞在したのは5卿
韋駄天像 - 鎌倉時代末期
千手観音菩薩坐像 - 鎌倉時代末期
二十八部衆像 -
金岡用兼画像 - 室町時代中期
毛利秀元画像 - 江戸時代初期
大洞覚仙画像 - 江戸時代、狩野陽信作

交通アクセス
JR山陽本線長府駅から車で15分
サンデンバス城下町長府バス停から徒歩5分

所在地 山口県下関市長府川端1丁目2-3
位置 北緯33度59分45.2秒 東経130度58分54.9秒
山号 金山
宗派 曹洞宗
本尊 千手観音菩薩
創建年 嘉暦2年(1327年)
開基 虚庵玄寂
別称 長福寺(旧称)
札所等 中国三十三観音霊場19番
山陽花の寺9番
文化財 仏殿(国宝)
地蔵菩薩半跏像(県指定)他
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2022年08月31日

ユネスコの世界遺産(世界文化遺産)・二条城(にじょうじょう)

二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある日本の平城であり近代においては離宮であった。正式名称は元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)である。

京都市街の中にある平城で、後述する足利氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏によるものがあるが、現存するものは徳川氏によるものである。

また、二条城では徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀や、徳川慶喜の大政奉還が行われた、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。

城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに平成6年(1994年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録された。

後の近代において、離宮時代には皇太子時代の大正天皇が10回滞在され、大正天皇の即位の儀式である即位礼の饗宴場として使用された場所となった。よって、皇室とも深くゆかりのある離宮でもあった[1][2]。

その後、昭和14年(1939年)京都市に恩賜され現在に至る。

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唐門越しに二の丸御殿を望む

元離宮二条城の歴史・沿革
江戸時代の二条城
創建
幕府は二条城と称したが、朝廷側はこれを二条亭と呼んだ。

慶長6年(1601年)5月:関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、町屋の立ち退きを開始、12月に西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った(天下普請)。造営総奉行に京都所司代板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁に中井正清が任じられた。
慶長7年(1602年)5月:御殿・天守の造営に着工。天守は廃城となった大和国の郡山城から移されたものという。
慶長8年(1603年)3月:落成。但し、天守は慶長11年(1606年)に完成。
慶長8年(1603年)2月12日:家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月12日に竣工間もない二条城に入城、同月25日、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、27日に二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。この将軍就任の手順は2年後の慶長10年(1605年)に家康の息子の2代将軍秀忠が、元和9年(1623年)に孫の3代将軍家光が踏襲するが、曾孫の4代将軍家綱以降は行われなくなった。
慶長16年(1611年):二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において家康と豊臣秀頼の会見(二条城会見)が行われる。
慶長19年(1614年):大坂冬の陣が勃発。二条城は大御所(家康)の本営となり、伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から大坂へ駒を進めた。
元和元年(1615年):大坂夏の陣においては二条城に火をかけ、混乱の中で家康を暗殺しようとした陰謀が明らかとなり、徳川方についていた古田織部の家臣木村宗喜が捕縛された。このため織部は切腹、家財没収となる事件もあった。
元和5年(1619年):秀忠は娘・和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。この時の縄張(基本設計)は秀忠自らが藤堂高虎と共に行った(秀忠は2つの案から一方を最終選定しただけだが、将軍自らの縄張りであると高虎に持ち上げられたのだった)。
元和6年(1620年)6月18日:徳川和子は二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。
行幸
寛永元年(1624年):徳川家光が将軍、秀忠が大御所となった翌寛永元年から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった。城域は西に拡張され、そこに新たな本丸が築かれることになり、天守も新本丸に新たに建てることになった。以前に郡山城から移されたという初代天守は淀城に再び移されると、新たな2代目天守として廃城となった伏見城の天守が移築された。作事奉行には小堀政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じられる。尾張藩や紀伊藩などの親藩・譜代の19家が石垣普請を担当した。
寛永3年(1626年):行幸は寛永3年9月6日(1626年10月25日)から5日間に渡っておこなわれ、その間舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は上皇となった後水尾院の御所に移築、その他多くの建物が解体撤去された。
寛永11年(1634年)7月:秀忠死後、家光が30万7千の兵を引き連れ上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。
その230年の間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。寛延3年(1750年)には落雷により天守を焼失。さらに京の町を焼き払った天明8年(1788年)の大火の際には、飛び火が原因で本丸御殿、隅櫓などが焼失した。破損部分に関しては修理が行われたが、失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。

寛永2年(1625年):二条城には、将軍不在の間の管理と警衛のために二条城代と二条在番が設置された。
元禄12年(1699年):二条城代が廃止され、その職務は二条在番が担当することとなった。
文久2年(1862年)閏8月:交代制の二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。なお、朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は二条城の北に邸を構えそこで政務を執っていたため、将軍不在の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。

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庭園側から見た二の丸御殿(左から大広間、式台、遠侍)

幕末
万延元年(1860年):京都地震が発生し、御殿や各御門、櫓などが傾くなど、大きな被害を受けた[13]。
文久2年(1862年):14代将軍徳川家茂の上洛にそなえ、荒れ果てていた二条城の改修が行われる。二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた。
文久3年(1863年)3月:家茂は朝廷の要請に応えて上洛をする。
慶応元年(1865年):家茂は再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移る。しかしここで病に倒れ、翌慶応2年(1866年)夏に死去する。
慶応2年(1866年):幕閣によって次の将軍は一橋慶喜と決定されるが、慶喜は就任を拒絶。幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、ようやく12月に二条城において15代将軍拝命の宣旨を受ける。

慶応3年(1867年)9月:慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移す。10月には大政奉還、将軍職返上、12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される。この時二条城には旗本を中心とする徳川氏直属の兵約5000、会津藩士約3000、桑名藩士約1500が集結しており、朝廷を操る薩摩藩の挑発に対し激昂していた。軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ向かう。二条城は若年寄永井尚志と水戸藩士約200名が守備のため残った。しかし命令系統の混乱から別に二条城守備の命を受けた新選組が到着し、水戸藩士との間で押し問答になる。この件は永井の機転で、新選組が伏見奉行の守備に回ることで解決した。

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頓田丹陵筆『大政奉還』(聖徳記念絵画館蔵)(奥の人物は徳川慶喜、場所は二の丸御殿黒書院)

国宝・二の丸御殿
二の丸の中心的建造物である国宝・二の丸御殿は、東大手門から入って正面の西方に建つ。御殿は築地塀で囲まれていて、正門である唐門は塀の南側にある。それをくぐると正面に二の丸御殿の玄関にあたる「車寄」(くるまよせ)が見える。二の丸御殿は手前から順に「遠侍」(とおざむらい)、「式台」(しきだい)、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院」(くろしょいん)、「白書院」(しろしょいん)と呼ばれる6つの建物が雁行に並び、廊下で接続され一体となっている。又、当初柱の銅版は金箔押しであって、現在現存している物より遥かに華やかなものであった。大広間の西側、黒書院の南側に日本庭園がある。遠侍の北側には「台所」と配膳をするための「御清所」と呼ばれる建物がある。現在、檜皮葺となっている唐破風車寄の屋根は、明治修理により瓦葺きから檜皮葺となったものである。

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二の丸御殿の右側から「車寄(右手前)」・「遠侍」と「式台」

文化財
世界遺産
古都京都の文化財を構成する17の遺産の1つとして、世界遺産に平成6年(1994年)12月に登録された。

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二の丸庭園から二の丸御殿黒書院を望む

現地情報
所在地 - 京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
交通
地下鉄 - 京都市営地下鉄東西線二条城前駅徒歩1分。
バス - 京都市営バス 9・12・50・67・101・111号系統「二条城前」バス停下車すぐ。京都市営バス 15号系統・京都バス 61・62・63・64系統「堀川御池」バス停下車徒歩2分。京都市営バス 10・93・202・204号系統「堀川丸太町」バス停下車徒歩6分。
入城料 - 一般800円(二の丸御殿を観覧する場合は別途500円必要)、中高生 400円、小学生 300円
二条城障壁画展示収蔵館の入館料 - 小学生以上100円(別途入城料が必要)
※令和4年6月に二条城・世界遺産・元離宮二条城公式サイトで入城料改定された[42]。
開城時間 - 8時45分-16時(閉城17時)
二の丸御殿観覧時間 - 8時45分-16時
展示・収蔵館開館時間 - 9時-16時45分(受付は16時30分まで)
休城日 - 年末12月29日-12月31日
二の丸御殿休殿日 - 毎年12月・1月・7月・8月の毎週火曜日、1月1日-1月3日、12月26日-12月28日(当該日が休日の場合、その翌日を休城日とする)

別名 旧二条離宮
恩賜元離宮二条城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 複合式望楼型5重5階(1603年移築)
複合式層塔型5重5階(1628年移築)(非現存)
築城主 徳川家康
築城年 1603年
主な城主 徳川氏(江戸期)
皇室(明治17年ー昭和14年)
廃城年 1873年(明治6年)
廃城令により存城処分を受ける。
遺構 御殿・櫓・門・番所・土蔵
石垣・堀・庭園
指定文化財 国宝(二の丸御殿6棟)
国の重要文化財(建造物22棟、二の丸御殿障壁画1016面)
国史跡、特別名勝(二の丸庭園)
世界遺産(古都京都の文化財)
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2022年08月30日

山口県岩国市の錦川に架橋された・錦帯橋(きんたいきょう)

錦帯橋(きんたいきょう)は、山口県岩国市の錦川に架橋された、5連の木造アーチ橋である。

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錦帯橋

概要
日本三名橋や日本三大奇橋に数えられており、名勝に指定されている。藩政期史料には「大橋」と表記されることが多く、また「凌雲橋(りょううんばし)」「五竜橋(ごりゅうばし)」「帯雲橋(たいうんばし)」「算盤橋(そろばんばし)」などとも呼ばれていた。「錦帯橋」という美名は、完成後に定着した説が有力とされている。文書による初出は宇都宮遯庵の記述した文書内である。

5連のアーチからなるこの橋は、全長193.3メートル、幅員5.0メートルで、主要構造部は継手や仕口といった組木の技術によって、釘は1本も使わずに造られている。 石積の橋脚に5連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、世界的に見ても珍しい木造アーチ橋として知られる。 また美しいアーチ形状は、木だけでなく、鉄(鋼)の有効活用がなされて初めて実現したものである。杭州の西湖にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て、1673年に創建された。西湖の錦帯橋とは2004年に姉妹橋となっている。現在、そのほとりには、錦帯橋友好の石碑が建立されている。

桜の名所として、吉香公園と共に日本さくら名所100選に選定されている。

錦帯橋01.jpg
錦帯橋の全景

歴史
創建時
錦帯橋は1673年(延宝元年)に、岩国藩主吉川広嘉によって建造されたものである。

初代岩国領主の吉川広家が岩国城を築城して以来、岩国城と錦川を挟んだ対岸にある城下町をつなぐ橋は数回架けられているが、錦川の洪水により流失していた。

3代領主の広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手する。橋脚をなくせば流失を避けられるとのアイデアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋の調査を命じた。しかし、川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200メートルもあるため、同様の刎橋(はねばし)とするのは困難であった。

広嘉がある日、かき餅を焼いていたところ、弓なりに反ったかき餅を見て橋の形のヒントを得たという。また、明の帰化僧である独立性易から、杭州の西湖には島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知り、これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至ったともいわれている。アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである。

延宝元年(1673年)6月8日に基礎の鍬入れが始められ、児玉九郎右衛門の設計により、石で積み上げられた橋脚を川の堤防に2個、中間に4個の計6個築き、その上から片持ちの梁をせり出した木造の5連橋を架けた[7]。広嘉は近くに住居を構えて自ら架橋工事の監督を行い、扇子を開いてアーチ橋の湾曲の形を決定したという。同年10月、錦帯橋は完成し、地元で家内睦まじいことで評判の農家清兵衛の一家12人による渡り初めが行われた。しかし、翌年の延宝2年(1674年)、洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまったので、同年、家来に石垣の研究をさせて橋台の敷石を強化し再建した。この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保った。

なお、橋は藩が管理し、藩内では掛け替え・補修の費用のために武士・農民など身分階級を問わず「橋出米」という税が徴収されていた。ただし当時、橋を渡れるのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになるのは明治に入ってからであった。

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葛飾北斎の錦帯橋

Kintai_bridge.jpg
岩国城と錦帯橋

近代以降
明治時代になり橋を管理していた岩国藩が消滅すると、1895年に地元有志による「錦帯橋保存会」が設立され、掛け替え資金の募集を行うようになる。

1922年3月、史蹟名勝天然紀念物保存法により名勝の指定を受ける。

1950年(昭和25年)9月14日、折からのキジア台風により第四橋の橋脚から崩壊し、錦帯橋はほぼ完全に流失してしまう。276年間流されなかった錦帯橋が流失した原因としては、直前までの第二次世界大戦下で橋の補修が疎かになっていたことや、戦時中の燃料不足の中でマツの精油(松根油)を採取するためなどで上流域の森林伐採が進み、保水力が落ちていたこと、進駐してきたアメリカ軍が前年に岩国基地滑走路を拡張した際に錦帯橋付近から大量のバラス(砂利)を採取したことで河床の落差が急に大きくなっていたことなどの要因が指摘されてもいる。

翌1951年から復旧工事が始まり、1953年(昭和28年)に再建が完了。コンクリート製での再建案もあったが、市民の求めで木製で再建された。

2001年(平成13年)より2004年(平成16年)に26億円をかけて、約50年ぶりに橋体部分の架け替え工事が行われた。工事は各年の晩秋から早春の、錦川の水量が減る時期に施工された。

2005年(平成17年)9月6日から翌7日にかけて九州北部・山陰沖を通過した台風14号により、第一橋の橋脚2基が流失した。後に約4000万円かけて復旧工事が行われ今に至る。

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修理工事中の錦帯橋(2004年2月)

特徴
構造
川幅約200メートルの河川内に4つの橋脚を持つ5連の木造橋で、中央3連がアーチ橋、両端が桁橋構造を持つ反橋となっている。長さはアーチ橋が35.1メートル、桁橋は34.8メートル。

アーチ橋の構造は、左右の橋脚を起点に橋桁の1番桁から11番桁まで順次勾配を緩めながら先に突き出るように重ねていき、9番桁鼻間に大棟木(おおむなぎ)、10番桁鼻間に小棟木を入れる。

こうした構造形式は世界的にも珍しく、ユネスコの世界遺産に登録されている橋梁の中にも、類似の構造をもった木造橋は見られない。

2005年の台風被害の際は、桁橋の橋脚の一部が流失したにもかかわらず橋体には被害がなかった。橋脚に衝撃を受けた場合、接続部のホゾ構造が橋本体に損傷を与えずに抜ける構造になっていたためである。

なお、近年、錦帯橋のアーチ形状は、カテナリー曲線(懸垂線)である可能性を複数の研究者が指摘している。

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錦帯橋の裏側

材質
現在の橋体に使われている木材はアカマツ、ヒノキ、ケヤキ、クリ、カシ、ヒバで、木材の特性により使い分けられている。平成の架け替えの際は全国から約7年かけて木材が集められ、100%国産材で造られた。なお、桁橋の橋杭には本来のマツに代え、腐りにくい青森県産のヒバが初めて使われた。

一方、橋脚の石垣や河床の石畳は創建後に造り替えられた記録はなく、昭和の再建の際も崩壊した石材を集めて造り直された。このため、錦帯橋で唯一、創建時の部材が残っている箇所と言われている。ただし石垣の内部には、昭和の再建の際にコンクリートが打ち込まれている。

技術の継承
錦帯橋は、創建時から現代までの修復記録が藩政の史料などでほぼ完全に残り、歴代の大工棟梁の人物名も全て分かっている。

記録によると、江戸期にはアーチ橋(第二、第三、第四橋)は約20年ごと、桁橋(第一、第五橋)は約40年ごとに架け替えられ、橋板や高欄は約15年ごとに取り替えられてきた。現代までに行われた架け替え工事の回数は、第一橋10回、第二橋14回、第三橋14回、第四橋16回、第五橋9回である。橋自体は50年以上持つにもかかわらずこうした手法が採られたのは、大工技術の継承の意味合いが大きかったと推測されている。

現存する絵図面は、2回目の架け替えとなる1699年(元禄12年)のものが最古。そのほかにも12枚が残る。これらの架け替え記録から、架け替えのたびに改良が加えられ、1796年(寛政8年)の改良で現在の形状が定まったことがわかっている。以後210年間、形状や意匠の変更はされていない。

平成の架け替えの際は、こうした古図をもとに当時の技術の再現をめざすため、設計や測量は全て尺貫法で行われた。釘もステンレス製などは一切使わず、手打ちしたたたら鉄の和釘が使われた。

江戸後期には架け替えに必要な用材を確保するため、計画的な植林がされていた記録が残っている。現代においても、岩国市は将来にわたって架け替え材の自給をめざす「錦帯橋用材備蓄林200年構想」を打ち出して植林活動を実施している。

入橋料
1966年以降は、観光客から「入橋料」を徴収し、掛け替え・管理の財源に充てられるようになった。「通行料」ではなく、往復同額である。

料金所の営業時間は8時から17時まで(夏期は19時まで)で、それ以外の時間帯では、夜間料金箱に料金を入れて渡るようになっている。

渡橋自体は、24時間可能である(夜間ライトアップは22時まで)。

アクセス
鉄道
路線バスは、いわくにバスと防長交通の2事業者によって運行される。各路線とも「錦帯橋」停留所下車、徒歩1分である。

山陽新幹線   新岩国駅
  いわくにバス  運行系統:21・22・26
  防長交通    運行系統:12
    所要時間:約15分

山陽本線    岩国駅
  いわくにバス  運行系統:11・14・21・22・23・34 ほか
  防長交通    運行系統:100
   所要時間:約20分
 南岩国駅
  いわくにバス 運行系統:30
   所要時間:約30分
岩徳線    西岩国駅
  いわくにバス  運行系統:16・51
※駅発着の本数は少ないが、東錦見(ひがしにしみ)停留所に行くと本数が増える(同停留所まで徒歩約5分、そこからバスで約10分)。
  所要時間:約10分
 川西駅
  徒歩約20分
   ※川西駅にはバスは乗り入れない。
高速バス  広島バスセンター
  いわくにバス  「錦帯ブルーライナー」
    所要時間:約60分
自動車  中国自動車道
  岩国ICから約10分。
国道2号
  立石交差点(国道189号の終点)から約10分。

Illuminated_Kintai_Bridge.jpg
夜の錦帯橋

国 日本
所在地 山口県岩国市
交差物件 錦川
建設 1673年(初代落成。その後、流失や復元工事有り)
座標 北緯34度10分03.86秒 東経132度10分41.43秒
構造諸元
形式 5径間木造アーチ橋
全長 193.3 m
幅 5.0 m
posted by Kazu at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 山口県
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