宗像大社(むなかたたいしゃ)は福岡県宗像市に在る神社。式内社(名神大社)、八神郡の一つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社であり、『日本書紀』では、一書に曰くとして「道主貴」と称される。玄界灘に浮かぶ沖ノ島を神域とし、沖ノ島で出土した古代祭祀の奉献品の多くは国宝に指定されている。裏伊勢とも称される。
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして2017年(平成29年)に世界文化遺産登録されている。
宗像大社 社殿
祭神
3社にそれぞれ以下の神を祀り、宗像三女神(宗像大神)と総称する。
沖津宮(おきつぐう) : 田心姫神
中津宮(なかつぐう) : 湍津姫神
辺津宮(へつぐう) : 市杵島姫神
社殿
宗像大社辺津宮
本殿(第一宮、イチキシマヒメを御祭神とする。宗像氏貞の建立で、大島に在する中津宮の本殿を参考したといわれる。重文)
拝殿(切妻屋根、宗像宮の額がかかる。小早川隆景の建立。重文)
第二宮(沖津宮分社、タゴリヒメを御祭神とする。)
第三宮(中津宮分社、タギツヒメを御祭神とする。)
高宮祭場(邊津宮に於ける古代祭祀遺構、下高宮祭祀遺跡を保護し真上に新たに整備。現在も春と秋の大祭他、庭上祭祀が行われている。)
祈願殿(平成の大造営で新たに建築された。榊を中心に植え、岩を沖ノ島に見立てた庭が作庭され、窓口では各種祈願を受け付ける。)
儀式殿(結婚式など催事専用の殿舎。以前東京の靖国神社にあったものを移築。)
清明殿(宗像大社の巫女らが舞などを披露する殿舎。)
勅使館(天皇や皇族、その勅使らが奉幣に来社の際、滞在する殿舎。)
神門(大正期に再建。)
握舎(拝殿と神門を結ぶ参道上に新しく設けられた屋根、覆い。現在「神門」が拝殿正面になり、拝殿及び本殿ともに横からしか見えない。)
祓舎(祓戸神を四方に祀る。)
手水舎(柄杓がなく直接水を受ける。)
大鳥居(麻生太吉の寄進。)
末社(江戸時代初期の建立、神郡宗像にあった神社群を時の福岡藩主、黒田光之がまとめ寄進したもので、本殿の外周りに121社ほどある。)
蛭子社
松尾社
宗像祖霊社
宗像護国神社
神宝館(下記記載の国宝等を展示収蔵している。)
宗像大社中津宮
本殿(宗像氏貞の建立。屋根の千木は陰陽道の影響がみられる。昔の吉田神道では宗像神社を特別な神社とみていた影響とも言われる。現在の辺津宮本殿よりも歴史は古くモデルとされたとする説もある。)
拝殿(切妻屋根、福岡藩主黒田氏の再建。)
奥宮御嶽神社(中津宮に於ける古代祭祀遺構、多数の勾玉や鉄刀が出土。現在も祭事が行われている。)
織女社、牽牛社(天の川を挟んで建てられた石の祠形式の社。中津宮は日本の七夕伝説発祥の地ともいう。)
宗像大社沖津宮
社殿(三宮の社殿では一番小さく、屋根が巨岩にめり込むように建てられている。)
禊場、沖津宮社務所など
沖津宮遙拝所
遥拝殿 (彼方に御神体島の沖ノ島及び沖津宮を拝する銅板葺き破風付きの社殿。福岡藩主黒田氏の寄進。)
鳥居、他
文化財
国宝
福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品・伝福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品 一括
玄界灘に浮かぶ絶海の孤島・沖ノ島の20数箇所の祭祀遺跡から発掘された一括遺物。1954年から1971年に至る第1次〜第3次の発掘調査で出土したもので、時代的には古墳時代から平安時代(4世紀〜10世紀)にわたる。中国・朝鮮半島製品を含む、各種の銅鏡、金銅(銅に金メッキ)製の馬具類のほか、土師器、三彩陶器、滑石製品、玉類、刀剣類などが出土品の主なものである。出土品中にはペルシャ・サーサーン朝製と見られるガラス椀の破片などもある。考古学、美術史、宗教史、古代史など、さまざまな分野の研究に資するところの多い、学術的にきわめて貴重な資料である。3次にわたる発掘調査の結果は『沖ノ島』『続沖ノ島』『宗像沖ノ島』という報告書の形で刊行されている。これら出土品は宗像大社の神宝館で公開されている。1962年に第1次・第2次発掘調査出土品が国宝に指定され、2003年には第3次発掘調査出土品が追加指定されている。約8万点に及ぶ一括遺物の国宝としては、数量の上で日本一である。
交通
辺津宮
鹿児島本線・東郷駅から西鉄バス神湊波止場方面に乗車。所要時間10分。
中津宮・沖津宮遥拝所
神湊漁港(宗像市玄海町 東郷駅から西鉄バスで20分)より大島港まで宗像市営渡船で15分、市営フェリーで25分、港よりタクシーまたは徒歩約30分の山道、時間帯によっては少ないが島内コミュニティバスが日に何本かある。
又、レンタサイクル(電動アシスト)500円/日を借りる手もある。
鹿児島本線赤間駅からバスを利用する方法もガイドブックで紹介されているが、赤間駅からは一日数本しか出ておらず、またその全てが東郷駅を経由するので、バスを使う場合は東郷駅を利用した方が良い。ちなみに両駅とも快速は停車する。特急は要確認。(2014年6月現在)
所在地 福岡県宗像市田島2331(辺津宮)
福岡県宗像市大島1811(中津宮)
福岡県宗像市大島沖之島(沖津宮)
位置 北緯33度49分51秒 東経130度30分51秒
主祭神 田心姫神(沖津宮)
湍津姫神(中津宮)
市杵島姫神(辺津宮)
神体 御霊代は
青玉(沖津宮)
紫玉(中津宮)
八咫鏡(邊津宮)
社格等 式内社(名神大)
旧官幣大社
別表神社
創建 不詳(有史以前)
本殿の様式 五間社流造
別名 道主貴(みちぬしのむち)
例祭 春季大祭 4月1日 - 4月3日
秋季大祭(田島放生会)10月1日 - 3日
2022年10月16日
2022年10月15日
国宝が眠る安産の神様・常宮神社(じょうぐうじんじゃ)
常宮神社(じょうぐうじんじゃ)は、福井県敦賀市常宮にある神社。式内社論社で、旧社格は県社。神紋は「十六弁八重菊」「巴」「桐」。
古くは氣比神宮(越前国一宮)の奥宮・摂社であった。
社名
常宮神社は古くは「常宮(つねのみや)」「常宮御前」「常宮大権現」とも称された[2]。この「常宮」とは、神功皇后の神託の「つねに宮居し波風静かなる哉楽しや」にちなむという[3]。古くは「つね(の)みや」と訓読みされたが、中近世から「じょうぐう」と音読みされるようになり、明治元年(1868年)に現在の社名・読みに定められた。
また、平安時代中期の『日本文徳天皇実録』や『延喜式』神名帳に見える「天八百万比盗_社(天八百萬比盗_社:あめのよろずひめじんじゃ)」は古代の常宮神社を指す社名とされる(異説もある)。
そのほか、常宮神社は氣比神宮と深い関係にあったため、古くは「本宮・摂社」「口宮・奥宮」「ひもろぎの宮・鏡の宮」「上社・下社」などと一対でも称されていた。
祭神
祭神は次の7柱。
本殿(本宮)
天八百萬比当ス(あめのやおよろずひめのみこと) - 通称「常宮大神」。
神功皇后(じんぐうこうごう) - 仲哀天皇皇后。
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) - 第14代天皇。
本殿周囲4社
東殿宮:日本武命(やまとたけるのみこと)
総社宮:応神天皇(おうじんてんのう) - 第15代天皇。
平殿宮:玉姫命(たまひめのみこと、玉妃命) - 神功皇后の妹。
西殿宮:武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)
社伝では天八百萬比当スは養蚕の神として上古より鎮座したということから、天八百萬比当スは在地の神であると考えられている。他の6柱は神功皇后の出征伝説に基づいた大宝3年(703年)の合祀と伝えられるが、これは当時の八幡信仰の広がりに伴った合祀であると推測されている。主祭神が伊奢沙別命(氣比神宮主祭神)ではなく天八百萬比当スであること以外は、これらの祭神は氣比神宮と同じである。常宮神は気比神と関係が深いとされており、氣比神宮から参詣を受ける総参祭(例祭)は、一説には伊奢沙別命が天八百萬比当スを訪れる神事であるともいう。
本殿の祭神については、享保3年(1718年)の『常宮本紀』や明細帳では上記のように3座である旨が記載されている。しかし、別説として『気比宮社記』(氣比神宮の古記録)では祭神を2座とし、主神は神功皇后であって「天八百萬比当ス」はその別名であるとし、仲哀天皇を相殿に祀るとしている。
神功皇后は常宮で腹帯を付けて筑紫で応神天皇を出産したという故事から、常宮神社は安産の神として信仰されている。また、神功皇后が三韓征伐に際して海路の無事を祈願したとの故事から、航海や漁業の守護神としても信仰される。
本殿・拝所 (いずれも福井県指定有形文化財)
文化財
国宝
朝鮮鐘(ちょうせんしょう)(工芸品)
総高112.0センチメートル、口径66.7センチメートルの大型梵鐘で、胴部に天女像を陽鋳する。和鐘とは様式を異にした朝鮮鐘で、統一新羅時代の作である。「太和七年三月日菁州蓮池寺鍾成」云々の銘があるが、「太和(大和)7年」は唐の年号で西暦833年にあたり、この鐘は統一新羅時代に鋳造された新羅鐘の数少ない遺品の1つに数えられる。社伝では文禄の役で朝鮮から持ち帰ったものであるといい、慶長2年(1597年)に豊臣秀吉が神功皇后の三韓征伐に因み、大谷吉継を使者として常宮神社に奉納したという。ただし、倭寇によってもたらされたとの説もある。明治33年4月7日に当時の古社寺保存法に基づき国宝に指定、昭和27年11月22日に文化財保護法に基づき国宝に指定。
福井県指定文化財
有形文化財
本殿・拝所・中門(以上3棟)(建造物) - 昭和57年4月23日に本殿を指定、平成21年3月31日に拝所・中門を追加指定。
朝鮮鐘(国宝)
現地情報
所在地
福井県敦賀市常宮13-16
交通アクセス
西日本旅客鉄道(JR西日本)北陸本線・小浜線 敦賀駅から
福鉄バス(常宮線立石行)で「常宮」バス停下車 (乗車時間約22分、下車後徒歩すぐ)
位置 北緯35度41分25.36秒 東経136度1分46.63秒
主祭神 天八百萬比当ス
社格等 式内社(小)論社
旧県社
氣比神宮元奥宮・摂社
創建 不詳
本殿の様式 三間社流造
例祭 7月22日(総参祭)
古くは氣比神宮(越前国一宮)の奥宮・摂社であった。
社名
常宮神社は古くは「常宮(つねのみや)」「常宮御前」「常宮大権現」とも称された[2]。この「常宮」とは、神功皇后の神託の「つねに宮居し波風静かなる哉楽しや」にちなむという[3]。古くは「つね(の)みや」と訓読みされたが、中近世から「じょうぐう」と音読みされるようになり、明治元年(1868年)に現在の社名・読みに定められた。
また、平安時代中期の『日本文徳天皇実録』や『延喜式』神名帳に見える「天八百万比盗_社(天八百萬比盗_社:あめのよろずひめじんじゃ)」は古代の常宮神社を指す社名とされる(異説もある)。
そのほか、常宮神社は氣比神宮と深い関係にあったため、古くは「本宮・摂社」「口宮・奥宮」「ひもろぎの宮・鏡の宮」「上社・下社」などと一対でも称されていた。
祭神
祭神は次の7柱。
本殿(本宮)
天八百萬比当ス(あめのやおよろずひめのみこと) - 通称「常宮大神」。
神功皇后(じんぐうこうごう) - 仲哀天皇皇后。
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) - 第14代天皇。
本殿周囲4社
東殿宮:日本武命(やまとたけるのみこと)
総社宮:応神天皇(おうじんてんのう) - 第15代天皇。
平殿宮:玉姫命(たまひめのみこと、玉妃命) - 神功皇后の妹。
西殿宮:武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)
社伝では天八百萬比当スは養蚕の神として上古より鎮座したということから、天八百萬比当スは在地の神であると考えられている。他の6柱は神功皇后の出征伝説に基づいた大宝3年(703年)の合祀と伝えられるが、これは当時の八幡信仰の広がりに伴った合祀であると推測されている。主祭神が伊奢沙別命(氣比神宮主祭神)ではなく天八百萬比当スであること以外は、これらの祭神は氣比神宮と同じである。常宮神は気比神と関係が深いとされており、氣比神宮から参詣を受ける総参祭(例祭)は、一説には伊奢沙別命が天八百萬比当スを訪れる神事であるともいう。
本殿の祭神については、享保3年(1718年)の『常宮本紀』や明細帳では上記のように3座である旨が記載されている。しかし、別説として『気比宮社記』(氣比神宮の古記録)では祭神を2座とし、主神は神功皇后であって「天八百萬比当ス」はその別名であるとし、仲哀天皇を相殿に祀るとしている。
神功皇后は常宮で腹帯を付けて筑紫で応神天皇を出産したという故事から、常宮神社は安産の神として信仰されている。また、神功皇后が三韓征伐に際して海路の無事を祈願したとの故事から、航海や漁業の守護神としても信仰される。
本殿・拝所 (いずれも福井県指定有形文化財)
文化財
国宝
朝鮮鐘(ちょうせんしょう)(工芸品)
総高112.0センチメートル、口径66.7センチメートルの大型梵鐘で、胴部に天女像を陽鋳する。和鐘とは様式を異にした朝鮮鐘で、統一新羅時代の作である。「太和七年三月日菁州蓮池寺鍾成」云々の銘があるが、「太和(大和)7年」は唐の年号で西暦833年にあたり、この鐘は統一新羅時代に鋳造された新羅鐘の数少ない遺品の1つに数えられる。社伝では文禄の役で朝鮮から持ち帰ったものであるといい、慶長2年(1597年)に豊臣秀吉が神功皇后の三韓征伐に因み、大谷吉継を使者として常宮神社に奉納したという。ただし、倭寇によってもたらされたとの説もある。明治33年4月7日に当時の古社寺保存法に基づき国宝に指定、昭和27年11月22日に文化財保護法に基づき国宝に指定。
福井県指定文化財
有形文化財
本殿・拝所・中門(以上3棟)(建造物) - 昭和57年4月23日に本殿を指定、平成21年3月31日に拝所・中門を追加指定。
朝鮮鐘(国宝)
現地情報
所在地
福井県敦賀市常宮13-16
交通アクセス
西日本旅客鉄道(JR西日本)北陸本線・小浜線 敦賀駅から
福鉄バス(常宮線立石行)で「常宮」バス停下車 (乗車時間約22分、下車後徒歩すぐ)
位置 北緯35度41分25.36秒 東経136度1分46.63秒
主祭神 天八百萬比当ス
社格等 式内社(小)論社
旧県社
氣比神宮元奥宮・摂社
創建 不詳
本殿の様式 三間社流造
例祭 7月22日(総参祭)
2022年10月14日
鎌倉時代に作られたとされる日本刀(短刀)日本の国宝・会津新藤五(あいづしんとうご)
会津新藤五(あいづしんとうご)は、鎌倉時代に作られたとされる日本刀(短刀)。日本の国宝に指定されており、広島県福山市のふくやま美術館が所蔵する。文化財名称は短刀〈銘国光(名物会津新藤五)/〉。
概要
鎌倉時代に相州鎌倉にて活躍していた新藤五国光によって作られた短刀である。新藤五国光は京都粟田口派の粟田口国綱の子というのが通説であり、備前三郎国宗の指導を受けて大成した人物とされている。ただし、出生については異説もあり、国綱の孫とも備前三郎国宗の子ともされている。また、指導についても国綱と備前三郎国宗両方に師事したという異説がある。これらの異説に対して、京都国立博物館主任研究員である末兼俊彦は、国綱も国宗も鎌倉に招かれて当地で活動していたとされることから、血縁関係はともかくとして国光が両者から技術的な手ほどきを受けた可能性は十分高いと述べている。国光は生まれも鎌倉であり、鎌倉鍛冶として日本刀の五ケ伝の一つである相州伝の開祖と言われている。特に短刀の作刀を得意としており、その出来の良さは古今通して粟田口吉光と双璧をなすといわれている。
会津新藤五の名前の由来は、安土桃山時代に会津を領していた蒲生氏郷が所持していたことに由来する。江戸時代中期、徳川8代将軍徳川吉宗が本阿弥家に命じて編纂させた名刀の目録である『享保名物帳』によると、氏郷の孫である忠郷の代まで蒲生家に伝わっていたが、忠郷の代で家臣である森川半弥に伝わったとされている。その後、森川から前田利常が金百枚でこれを買い求め、さらに1702年(元禄15年)4月には、徳川5代将軍である徳川綱吉が前田邸に来訪した(御成)際に郷義弘の刀とともに献上され、一方前田家には正宗作の刀、吉光作の刀を下賜されたとされている。鞘書には「智幻院様御指之内」とあることから、1707年(宝永4年)に生まれた6代将軍徳川家宣の子である家千代の御七夜に贈られた守刀であったことが知られる。
その後は徳川将軍家に伝来しており、明治維新後も伝来していた。1933年(昭和8年)1月23日には、徳川家達公爵名義にて国宝保存法に基づく国宝(旧国宝)に指定される。太平洋戦争終戦前に徳川将軍家からを出て中島飛行機(現在のSUBARU)の2代目社長である中島喜代一へと所有が移る。その後、所有者が度々変わり東京都の愛刀家で知られていた青山孝吉が所持しており、1951年(昭和26年)6月9日には文化財保護法に基づく国宝(新国宝)に指定された。1970年には日本美術刀剣保存協会の管理下となっている。その後も所有者が転々としていたが、直近では食品容器の製造・販売等を手掛ける株式会社エフピコの創業者である小松安弘が所持していた。これは、2002年(平成14年)、エフピコの競合会社が会社更生法の申請をされたため、エフピコがスポンサーとして会社を引受けたところ、その会社には巣鴨にある日本刀装具美術館も含まれていた。本作もその美術館に収蔵されていたものであり、コレクションの散逸を防ぐために小松が自身の資産として引き受けたものである。2007年(平成19年)からは福山市の観光振興に役立てるためとふくやま美術館へ寄託していたが、小松の逝去に伴い2018年(平成30年)11月に小松の遺志を継いだ妻の啓子が小松安弘コレクションとして全14口(国宝7口、重要文化財6口、特別重要刀剣1口)を福山市へ寄贈したため、ふくやま美術館の収蔵物となった。
会津新藤五
指定情報
種別 国宝
名称 短刀〈銘国光(名物会津新藤五)/〉
基本情報
種類 短刀
時代 鎌倉時代
刀工 新藤五国光
全長 36.3cm
刃長 25.5cm
反り 内反り
先幅 1.37cm
元幅 2.48cm
重量 169.5g
所蔵 ふくやま美術館(広島県福山市)
所有 福山市
概要
鎌倉時代に相州鎌倉にて活躍していた新藤五国光によって作られた短刀である。新藤五国光は京都粟田口派の粟田口国綱の子というのが通説であり、備前三郎国宗の指導を受けて大成した人物とされている。ただし、出生については異説もあり、国綱の孫とも備前三郎国宗の子ともされている。また、指導についても国綱と備前三郎国宗両方に師事したという異説がある。これらの異説に対して、京都国立博物館主任研究員である末兼俊彦は、国綱も国宗も鎌倉に招かれて当地で活動していたとされることから、血縁関係はともかくとして国光が両者から技術的な手ほどきを受けた可能性は十分高いと述べている。国光は生まれも鎌倉であり、鎌倉鍛冶として日本刀の五ケ伝の一つである相州伝の開祖と言われている。特に短刀の作刀を得意としており、その出来の良さは古今通して粟田口吉光と双璧をなすといわれている。
会津新藤五の名前の由来は、安土桃山時代に会津を領していた蒲生氏郷が所持していたことに由来する。江戸時代中期、徳川8代将軍徳川吉宗が本阿弥家に命じて編纂させた名刀の目録である『享保名物帳』によると、氏郷の孫である忠郷の代まで蒲生家に伝わっていたが、忠郷の代で家臣である森川半弥に伝わったとされている。その後、森川から前田利常が金百枚でこれを買い求め、さらに1702年(元禄15年)4月には、徳川5代将軍である徳川綱吉が前田邸に来訪した(御成)際に郷義弘の刀とともに献上され、一方前田家には正宗作の刀、吉光作の刀を下賜されたとされている。鞘書には「智幻院様御指之内」とあることから、1707年(宝永4年)に生まれた6代将軍徳川家宣の子である家千代の御七夜に贈られた守刀であったことが知られる。
その後は徳川将軍家に伝来しており、明治維新後も伝来していた。1933年(昭和8年)1月23日には、徳川家達公爵名義にて国宝保存法に基づく国宝(旧国宝)に指定される。太平洋戦争終戦前に徳川将軍家からを出て中島飛行機(現在のSUBARU)の2代目社長である中島喜代一へと所有が移る。その後、所有者が度々変わり東京都の愛刀家で知られていた青山孝吉が所持しており、1951年(昭和26年)6月9日には文化財保護法に基づく国宝(新国宝)に指定された。1970年には日本美術刀剣保存協会の管理下となっている。その後も所有者が転々としていたが、直近では食品容器の製造・販売等を手掛ける株式会社エフピコの創業者である小松安弘が所持していた。これは、2002年(平成14年)、エフピコの競合会社が会社更生法の申請をされたため、エフピコがスポンサーとして会社を引受けたところ、その会社には巣鴨にある日本刀装具美術館も含まれていた。本作もその美術館に収蔵されていたものであり、コレクションの散逸を防ぐために小松が自身の資産として引き受けたものである。2007年(平成19年)からは福山市の観光振興に役立てるためとふくやま美術館へ寄託していたが、小松の逝去に伴い2018年(平成30年)11月に小松の遺志を継いだ妻の啓子が小松安弘コレクションとして全14口(国宝7口、重要文化財6口、特別重要刀剣1口)を福山市へ寄贈したため、ふくやま美術館の収蔵物となった。
会津新藤五
指定情報
種別 国宝
名称 短刀〈銘国光(名物会津新藤五)/〉
基本情報
種類 短刀
時代 鎌倉時代
刀工 新藤五国光
全長 36.3cm
刃長 25.5cm
反り 内反り
先幅 1.37cm
元幅 2.48cm
重量 169.5g
所蔵 ふくやま美術館(広島県福山市)
所有 福山市
2022年10月13日
ユネスコの世界遺産(文化遺産)リストにも登録・姫路城(ひめじじょう)
姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県姫路市にある日本の城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている。また、ユネスコの世界遺産(文化遺産)リストにも登録され、日本100名城[12]などに選定されている。別名は白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。
天守(連立天守群、国宝)
名称の由来と別名
姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。『播磨国風土記』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる。姫山は桜が多く咲いたことから「桜木山」、転じて「鷺山(さぎやま)」とも言った。天守のある丘が姫山、西の丸のある丘が鷺山とすることもある。
橋本政次『姫路城の話』では、別名「白鷺城(はくろじょう)」の由来として、推論も含め、以下の4説が挙げられている。
姫路城が「鷺山」に置かれているところから。
白漆喰で塗られた城壁の美しさから。
ゴイサギなど白鷺と総称される鳥が多く住んでいたから。
黒い壁から「烏城(うじょう)」「金烏城(きんうじょう)」とも呼ばれる岡山城との対比から。
白鷺城は「はくろじょう」の他に「しらさぎじょう」とも読まれることがあり、村田英雄の歌曲に『白鷺(しらさぎ)の城』というものもある。これに対し、前出の橋本は漢学的な名称であることから、「しらさぎじょう」という読みを退け、「はくろじょう」を正しい読みとしている。現在は、『日本歴史大事典』(小学館)、『もういちど読む山川日本史』(山川出版社)のように「しらさぎじょう」の読みしか掲載していないもの、『日本史事典』三訂版(旺文社)、『ビジュアルワイド 日本名城百選』(小学館)のようにどちらかを正しいとせずに「はくろじょう」「しらさぎじょう」を併記しているものなども見られる。姫路市内では市立の白鷺(はくろ)小中学校のように学校名に使用されたり、小中学校の校歌でも「白鷺城」または「白鷺」という言葉が使われていることが多い。戦前の姫路市内の尋常小学校で歌われていた『姫路市郷土唱歌』の歌詞にも「白鷺城」や「池田輝政(三左衛門)」などが使われている。
はの門。天守へ至る「上道」途中に建つ櫓門
世界遺産登録・文化財指定
世界遺産
日本の世界遺産条約締約は1992年(平成4年)のことであり、姫路城はその年の10月1日に正式推薦された。世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は推薦に先立つ同年9月と、推薦後の1993年(平成5年)4月と8月に現地調査を行なった(なお、これとは別に後述するオーセンティシティの評価のため、ICOMOS事務総長が同年5月に視察した)。その結果を踏まえ、同年10月に「登録」が勧告された。そこで評価されたのは、
木造建築物として、白漆喰の城壁を持つ優れた美と実用的機能を兼ね備えていること。
明治以前の封建制度の象徴であること。
日本の木造城郭建造物として最高のものであること。
といった点であった。そして、同年12月の第17回世界遺産委員会(カルタヘナ)で、「法隆寺地域の仏教建造物」とともに日本初の世界文化遺産として正式登録された。
資産としての登録地域は、中曲輪より内側となっており、その範囲は特別史跡指定地域と重なっている[63]。さらにその周囲が緩衝地域(バッファーゾーン)に指定されている。従来、緩衝地域の規制は緩やかなものであったが、1993年に中壕通り都市景観形成地区(都市景観条例による)が指定され、2008年には資産部分を含め、姫路城周辺風景形成地域の指定が行われた。2012年の第36回世界遺産委員会に際して、登録範囲の明確化が行われた。
桜の季節の姫路城
国宝
以下の5件8棟が1951年(昭和26年)6月9日に文化財保護法に基づき国宝に指定されている。
大天守(だいてんしゅ)
東小天守(ひがしこてんしゅ)
西小天守(にしこてんしゅ)
乾小天守(いぬいこてんしゅ)
イ・ロ・ハ・ニの渡櫓 4棟(附指定:台所1棟)
上記の天守と渡櫓計8棟は、1931年(昭和6年)1月19日、国宝保存法に基づき、当時の国宝(旧国宝、文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定され、同12月14日には渡櫓、門、塀等74棟も国宝(旧国宝)に指定された。その後、1950年(昭和25年)8月29日の文化財保護法施行に伴い「旧国宝」は「重要文化財」とみなされることとなった(文化財保護法附則第3条)。1951年(昭和26年)6月9日付けで、文化財保護法および国宝及び重要文化財指定基準(昭和26年5月10日文化財保護委員会告示第2号)に基づき、上記の大天守以下の5件(8棟)が改めて国宝(新国宝)に指定された。
現地情報
姫路城の運営業務の経費節減、来城者のおもてなしを強化することを目的として、観光客への案内や改札業務等は民間企業に委託されている。2017年から乃村工藝社が請け負っており、2018年3月以降は近畿日本ツーリスト(KNT)関西が受託者となっている。
所在地 - 姫路市本町68番地
ライトアップ - 毎日、日没から午前0時まで点灯している。季節や様々なイベントにより色が変わることもある。
スタンプ - 日本100名城のスタンプは管理事務所横の見学室に設置している。
御城印 - 有料区域内の売店で販売している。
交通アクセス
西日本旅客鉄道(JR西日本):山陽新幹線・山陽本線・姫新線・播但線 姫路駅 姫路城口 (北口) より徒歩約20分。
山陽電気鉄道:本線 山陽姫路駅より徒歩約15分。
神姫バス「姫路城大手門前」下車すぐ。12 - 2月は土日・祝祭日、3 - 11月は毎日、平日は30分に1本、土日・祝祭日は15分に1本神姫バスにより「姫路城ループバス」も運転される。
有料公営駐車場が城周辺に5箇所合わせて約1,600台分、駅周辺に5箇所合わせて約1,100台分、有料公営駐輪場が駅から城の区域に3箇所合わせて自転車約2,900台分、単車約600台分ある。
開城時間・料金
開城時間
通常:9時 - 16時(17時閉城)、夏季:9時 - 17時(18時閉城)※コロナ対策として2020年以降の開城時間は変更されている。
休城日:12月29日、12月30日
料金
大人:1,000円、子供(小学生から高校生):300円、団体(30人以上):一律2割引。
播磨地域8市8町在住の4歳から中学3年生に配布されるどんぐりカード、姫路市に住民票がある65歳以上に配布される高齢者福祉優待カードを提示すれば無料となる。
障害者手帳所持者は、本人と介助者1名が無料となる。車いす利用の場合は、本人と介助者3名までが無料となる。ミライロIDも利用可能。
平成の修理完了後の2015年3月27日から入城料が改定された。改定前は大人600円、子供(5歳から中学生)200円だった、団体は30人以上1割引、100人以上2割引、300人以上3割引だった。平成の修理工事期間中(2010年4月12日から2015年3月末)は大人400円、小人100円に減額され、修理見学施設に入るには大人200円・子供100円の追加料金が必要であった。
2015年7月の1か月間、平成の修理が完成したことを祝って、姫路市民は運転免許証や健康保険証など住所と名前が確認できるものを提示することで入城料が無料となった。
割引共通券(姫路城と好古園)も販売されている。
2016年(平成28年)2月1日からクレジットカードでの入城券購入が可能となった。対応するのはVisaとマスターカード。2020年2月からは、券売機が6か国語(日本語、英語、中国語(繁体字・簡体字)、韓国語、フランス語)対応となり(音声ガイダンス付き)、2020年8月からは、各種電子マネーも利用可能。
天守(連立天守群、国宝)
名称の由来と別名
姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。『播磨国風土記』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる。姫山は桜が多く咲いたことから「桜木山」、転じて「鷺山(さぎやま)」とも言った。天守のある丘が姫山、西の丸のある丘が鷺山とすることもある。
橋本政次『姫路城の話』では、別名「白鷺城(はくろじょう)」の由来として、推論も含め、以下の4説が挙げられている。
姫路城が「鷺山」に置かれているところから。
白漆喰で塗られた城壁の美しさから。
ゴイサギなど白鷺と総称される鳥が多く住んでいたから。
黒い壁から「烏城(うじょう)」「金烏城(きんうじょう)」とも呼ばれる岡山城との対比から。
白鷺城は「はくろじょう」の他に「しらさぎじょう」とも読まれることがあり、村田英雄の歌曲に『白鷺(しらさぎ)の城』というものもある。これに対し、前出の橋本は漢学的な名称であることから、「しらさぎじょう」という読みを退け、「はくろじょう」を正しい読みとしている。現在は、『日本歴史大事典』(小学館)、『もういちど読む山川日本史』(山川出版社)のように「しらさぎじょう」の読みしか掲載していないもの、『日本史事典』三訂版(旺文社)、『ビジュアルワイド 日本名城百選』(小学館)のようにどちらかを正しいとせずに「はくろじょう」「しらさぎじょう」を併記しているものなども見られる。姫路市内では市立の白鷺(はくろ)小中学校のように学校名に使用されたり、小中学校の校歌でも「白鷺城」または「白鷺」という言葉が使われていることが多い。戦前の姫路市内の尋常小学校で歌われていた『姫路市郷土唱歌』の歌詞にも「白鷺城」や「池田輝政(三左衛門)」などが使われている。
はの門。天守へ至る「上道」途中に建つ櫓門
世界遺産登録・文化財指定
世界遺産
日本の世界遺産条約締約は1992年(平成4年)のことであり、姫路城はその年の10月1日に正式推薦された。世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は推薦に先立つ同年9月と、推薦後の1993年(平成5年)4月と8月に現地調査を行なった(なお、これとは別に後述するオーセンティシティの評価のため、ICOMOS事務総長が同年5月に視察した)。その結果を踏まえ、同年10月に「登録」が勧告された。そこで評価されたのは、
木造建築物として、白漆喰の城壁を持つ優れた美と実用的機能を兼ね備えていること。
明治以前の封建制度の象徴であること。
日本の木造城郭建造物として最高のものであること。
といった点であった。そして、同年12月の第17回世界遺産委員会(カルタヘナ)で、「法隆寺地域の仏教建造物」とともに日本初の世界文化遺産として正式登録された。
資産としての登録地域は、中曲輪より内側となっており、その範囲は特別史跡指定地域と重なっている[63]。さらにその周囲が緩衝地域(バッファーゾーン)に指定されている。従来、緩衝地域の規制は緩やかなものであったが、1993年に中壕通り都市景観形成地区(都市景観条例による)が指定され、2008年には資産部分を含め、姫路城周辺風景形成地域の指定が行われた。2012年の第36回世界遺産委員会に際して、登録範囲の明確化が行われた。
桜の季節の姫路城
国宝
以下の5件8棟が1951年(昭和26年)6月9日に文化財保護法に基づき国宝に指定されている。
大天守(だいてんしゅ)
東小天守(ひがしこてんしゅ)
西小天守(にしこてんしゅ)
乾小天守(いぬいこてんしゅ)
イ・ロ・ハ・ニの渡櫓 4棟(附指定:台所1棟)
上記の天守と渡櫓計8棟は、1931年(昭和6年)1月19日、国宝保存法に基づき、当時の国宝(旧国宝、文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定され、同12月14日には渡櫓、門、塀等74棟も国宝(旧国宝)に指定された。その後、1950年(昭和25年)8月29日の文化財保護法施行に伴い「旧国宝」は「重要文化財」とみなされることとなった(文化財保護法附則第3条)。1951年(昭和26年)6月9日付けで、文化財保護法および国宝及び重要文化財指定基準(昭和26年5月10日文化財保護委員会告示第2号)に基づき、上記の大天守以下の5件(8棟)が改めて国宝(新国宝)に指定された。
現地情報
姫路城の運営業務の経費節減、来城者のおもてなしを強化することを目的として、観光客への案内や改札業務等は民間企業に委託されている。2017年から乃村工藝社が請け負っており、2018年3月以降は近畿日本ツーリスト(KNT)関西が受託者となっている。
所在地 - 姫路市本町68番地
ライトアップ - 毎日、日没から午前0時まで点灯している。季節や様々なイベントにより色が変わることもある。
スタンプ - 日本100名城のスタンプは管理事務所横の見学室に設置している。
御城印 - 有料区域内の売店で販売している。
交通アクセス
西日本旅客鉄道(JR西日本):山陽新幹線・山陽本線・姫新線・播但線 姫路駅 姫路城口 (北口) より徒歩約20分。
山陽電気鉄道:本線 山陽姫路駅より徒歩約15分。
神姫バス「姫路城大手門前」下車すぐ。12 - 2月は土日・祝祭日、3 - 11月は毎日、平日は30分に1本、土日・祝祭日は15分に1本神姫バスにより「姫路城ループバス」も運転される。
有料公営駐車場が城周辺に5箇所合わせて約1,600台分、駅周辺に5箇所合わせて約1,100台分、有料公営駐輪場が駅から城の区域に3箇所合わせて自転車約2,900台分、単車約600台分ある。
開城時間・料金
開城時間
通常:9時 - 16時(17時閉城)、夏季:9時 - 17時(18時閉城)※コロナ対策として2020年以降の開城時間は変更されている。
休城日:12月29日、12月30日
料金
大人:1,000円、子供(小学生から高校生):300円、団体(30人以上):一律2割引。
播磨地域8市8町在住の4歳から中学3年生に配布されるどんぐりカード、姫路市に住民票がある65歳以上に配布される高齢者福祉優待カードを提示すれば無料となる。
障害者手帳所持者は、本人と介助者1名が無料となる。車いす利用の場合は、本人と介助者3名までが無料となる。ミライロIDも利用可能。
平成の修理完了後の2015年3月27日から入城料が改定された。改定前は大人600円、子供(5歳から中学生)200円だった、団体は30人以上1割引、100人以上2割引、300人以上3割引だった。平成の修理工事期間中(2010年4月12日から2015年3月末)は大人400円、小人100円に減額され、修理見学施設に入るには大人200円・子供100円の追加料金が必要であった。
2015年7月の1か月間、平成の修理が完成したことを祝って、姫路市民は運転免許証や健康保険証など住所と名前が確認できるものを提示することで入城料が無料となった。
割引共通券(姫路城と好古園)も販売されている。
2016年(平成28年)2月1日からクレジットカードでの入城券購入が可能となった。対応するのはVisaとマスターカード。2020年2月からは、券売機が6か国語(日本語、英語、中国語(繁体字・簡体字)、韓国語、フランス語)対応となり(音声ガイダンス付き)、2020年8月からは、各種電子マネーも利用可能。
2022年10月12日
縄文時代と中世の遺構が重層する複合遺跡・笹山遺跡(ささやまいせき)
笹山遺跡(ささやまいせき)は、新潟県十日町市中条乙3081番地ほかにある、縄文時代と中世の遺構が重層する複合遺跡である。縄文時代の火焔型土器が出土した代表的遺跡のひとつで、十日町市の史跡に指定されている。現在、遺跡には市営陸上競技場、笹山野球場、笹山縄文館などが建設されているが、未発掘の範囲を中心にして遺跡広場として利用されており、復元竪穴住居跡2軒が設置されている。
笹山遺跡から出土した火焔型土器。国宝に指定
文化財指定
復元された火焔型土器の数は信濃川流域の同種の遺跡の中では最も多いといわれている。出土品のうち、縄文時代の土器・土製品・石器・石製品など928点は1992年(平成4年)6月22日付で一括して国の重要文化財に指定され、1999年(平成11年)6月7日付で国宝に指定された。国宝指定名称は「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」で、深鉢形土器57点のほか、土器・土製品72点、石器・石製品791点、ベンガラ塊8点が国宝の附(つけたり)指定となっている。深鉢形土器57点のうちには火焔型土器(鶏頭冠型土器)14点と王冠型土器3点を含む。縄文時代の土器として国宝に指定されている資料としては唯一で、新潟県唯一の国宝である(2016年現在)。指定物件はすべて十日町市博物館に保管されている。
国宝・新潟県十日町市笹山遺跡出土土器群
国宝指定物件の明細
新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器
深鉢形土器57点
火焔型土器14、王冠型土器3、その他40
以下は附(つけたり)指定
土器12点
浅鉢形土器5、小形土器7
土偶34点
土製品26点
土製耳飾20、土製円盤3、土製三角壔(さんかくとう)3
石器777点
石斧409、石鏃28、石槍13、石錐4、石匙2、磨石・敲石・凹石(すりいし、たたきいし、くぼみいし)268、石皿27、砥石6、石錘1、三脚石器6、板状石器3、剥片石器10
石製品14点
石製垂飾3、石棒7、軽石製浮子1、石製三角壔1、穿孔石製品2
ベンガラ塊8点
所在地 新潟県十日町市
座標 北緯37度09分31.2秒 東経138度46分49.5秒
歴史
時代 縄文時代、中世
笹山遺跡から出土した火焔型土器。国宝に指定
文化財指定
復元された火焔型土器の数は信濃川流域の同種の遺跡の中では最も多いといわれている。出土品のうち、縄文時代の土器・土製品・石器・石製品など928点は1992年(平成4年)6月22日付で一括して国の重要文化財に指定され、1999年(平成11年)6月7日付で国宝に指定された。国宝指定名称は「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」で、深鉢形土器57点のほか、土器・土製品72点、石器・石製品791点、ベンガラ塊8点が国宝の附(つけたり)指定となっている。深鉢形土器57点のうちには火焔型土器(鶏頭冠型土器)14点と王冠型土器3点を含む。縄文時代の土器として国宝に指定されている資料としては唯一で、新潟県唯一の国宝である(2016年現在)。指定物件はすべて十日町市博物館に保管されている。
国宝・新潟県十日町市笹山遺跡出土土器群
国宝指定物件の明細
新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器
深鉢形土器57点
火焔型土器14、王冠型土器3、その他40
以下は附(つけたり)指定
土器12点
浅鉢形土器5、小形土器7
土偶34点
土製品26点
土製耳飾20、土製円盤3、土製三角壔(さんかくとう)3
石器777点
石斧409、石鏃28、石槍13、石錐4、石匙2、磨石・敲石・凹石(すりいし、たたきいし、くぼみいし)268、石皿27、砥石6、石錘1、三脚石器6、板状石器3、剥片石器10
石製品14点
石製垂飾3、石棒7、軽石製浮子1、石製三角壔1、穿孔石製品2
ベンガラ塊8点
所在地 新潟県十日町市
座標 北緯37度09分31.2秒 東経138度46分49.5秒
歴史
時代 縄文時代、中世
2022年10月11日
「銅造盧舎那仏坐像」として国宝に指定・東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)
東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に東大寺大仏、奈良の大仏として知られる。
聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。後世に複数回焼損したため、現存する大部分が再建であり、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。「銅造盧舎那仏坐像」として国宝に指定されている。
東大寺盧舎那仏像
概要
東大寺大仏は、聖武天皇により天平15年(743年)に造像が発願された。実際の造像は天平17年(745年)から準備が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が実施された。 のべ260万人が工事に関わったとされ、関西大学の宮本勝浩教授らが平安時代の『東大寺要録』を元に行った試算によると、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると約4657億円と算出された。
大仏は当初、奈良ではなく、紫香楽宮の近くの甲賀寺(今の滋賀県甲賀市)に造られる計画であった。しかし、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために造立計画は中止され、都が平城京へ戻るとともに、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始された。制作に携わった技術者のうち、大仏師として国中連公麻呂(国公麻呂とも)、鋳師として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)らの名が伝わっている。天平勝宝4年の開眼供養会には、聖武太上天皇(既に譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那が担当した。
焼損と復興
大仏には、完成後数十年にして亀裂や傾きが生じ、斉衡2年(855年)の地震で被災し、首が落下した。真如法親王(高岳親王)が東大寺大仏司検校に任じられ、造東大寺所に属していた斎部文山らの活躍によりほどなく修理され、貞観3年(861年)朝廷が大法会を開催して大仏の修理落成供養を行っている。
その後大仏および大仏殿は、平安時代末期と戦国時代に兵火で焼損、焼失している。
聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。後世に複数回焼損したため、現存する大部分が再建であり、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。「銅造盧舎那仏坐像」として国宝に指定されている。
東大寺盧舎那仏像
概要
東大寺大仏は、聖武天皇により天平15年(743年)に造像が発願された。実際の造像は天平17年(745年)から準備が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が実施された。 のべ260万人が工事に関わったとされ、関西大学の宮本勝浩教授らが平安時代の『東大寺要録』を元に行った試算によると、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると約4657億円と算出された。
大仏は当初、奈良ではなく、紫香楽宮の近くの甲賀寺(今の滋賀県甲賀市)に造られる計画であった。しかし、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために造立計画は中止され、都が平城京へ戻るとともに、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始された。制作に携わった技術者のうち、大仏師として国中連公麻呂(国公麻呂とも)、鋳師として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)らの名が伝わっている。天平勝宝4年の開眼供養会には、聖武太上天皇(既に譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那が担当した。
焼損と復興
大仏には、完成後数十年にして亀裂や傾きが生じ、斉衡2年(855年)の地震で被災し、首が落下した。真如法親王(高岳親王)が東大寺大仏司検校に任じられ、造東大寺所に属していた斎部文山らの活躍によりほどなく修理され、貞観3年(861年)朝廷が大法会を開催して大仏の修理落成供養を行っている。
その後大仏および大仏殿は、平安時代末期と戦国時代に兵火で焼損、焼失している。
2022年10月10日
国宝の八角三重塔があり、また長野県で最古の禅寺・安楽寺(あんらくじ)
安楽寺(あんらくじ)は長野県上田市別所温泉にある曹洞宗の寺院。山号を崇福山と称する。院号は護国院。開山は樵谷惟仙(しょうこくいせん)。本尊は釈迦如来。国宝の八角三重塔があること、また長野県で最古の禅寺であることで知られる。
八角三重塔(国宝)
八角三重塔
境内奥の山腹に建つ。昭和27年(1952年)3月29日に松本城とともに、長野県内の建造物として最初の国宝指定を受ける。
日本に現存する近世以前の八角塔としては唯一のものである。(八角塔は京都法勝寺、奈良西大寺などに存在したが、戦乱などで失われた。)
全高(頂上から礎石上端まで)18.75メートル。構造形式は八角三重塔婆、初重裳階(もこし)付、こけら葺である。(四重塔にも見えるが一番下の屋根はひさしに相当する裳階(もこし)である。)この塔は日本に現存する唯一の八角塔であるとともに、全体が禅宗様で造られた仏塔としても稀有の存在である。組物(軒の出を支える構造材)を柱の上だけでなく柱間にも密に配する点(詰組)、軒裏の垂木を平行線状でなく放射状に配する点(扇垂木)、柱の根元に礎盤を置く点、頭貫(かしらぬき、柱頭を貫通してつなぐ水平材)の端に木鼻(彫り物)を施す点など、細部に至るまで禅宗様で造られている。内部の天井の形式や八角の仏壇も他に類を見ないものである。内部には禅宗寺院には珍しく大日如来像が安置されている。
この塔の建立年代は、従来、漠然と鎌倉時代末〜室町時代始め頃と考えられていたが、平成16年(2004年)奈良文化財研究所埋蔵文化財センター古環境研究室による年輪年代調査の結果、この三重塔の部材には正應2年(1289年)に伐採した木材が初重内部の蝦虹梁に使われていることが判明した。このことから当塔は13世紀末(1290年代)に建築されたものと考えられ、元応2年(1320年)建築の功山寺仏殿を凌ぐ日本最古の禅宗様建築である可能性が高くなった。
平成23年(2011年)11月に、屋根の葺き替えは60年ぶり、頭頂部金具の修理は100年ぶりとなる大規模な修復工事が行われた。
文化財
国宝
八角三重塔
重要文化財
木造惟仙和尚坐像
木造恵仁和尚坐像
重要文化財の2点は、安楽寺開山と2世住職の頂相彫刻である。いずれも嘉暦4年(1329年)の作。本堂裏にあるコンクリート造の傳芳堂に安置されている。
拝観について
3 - 10月 8:00 - 17:00、11 - 2月 8:00 - 16:00
拝観料 300円
所在地 長野県上田市別所温泉2361
位置 北緯36度21分08秒 東経138度09分12秒
山号 崇福山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦如来
創建年 不詳
開基 不詳
文化財 八角三重塔(国宝)
木造惟仙和尚坐像、木造恵仁和尚坐像(重要文化財)
八角三重塔(国宝)
八角三重塔
境内奥の山腹に建つ。昭和27年(1952年)3月29日に松本城とともに、長野県内の建造物として最初の国宝指定を受ける。
日本に現存する近世以前の八角塔としては唯一のものである。(八角塔は京都法勝寺、奈良西大寺などに存在したが、戦乱などで失われた。)
全高(頂上から礎石上端まで)18.75メートル。構造形式は八角三重塔婆、初重裳階(もこし)付、こけら葺である。(四重塔にも見えるが一番下の屋根はひさしに相当する裳階(もこし)である。)この塔は日本に現存する唯一の八角塔であるとともに、全体が禅宗様で造られた仏塔としても稀有の存在である。組物(軒の出を支える構造材)を柱の上だけでなく柱間にも密に配する点(詰組)、軒裏の垂木を平行線状でなく放射状に配する点(扇垂木)、柱の根元に礎盤を置く点、頭貫(かしらぬき、柱頭を貫通してつなぐ水平材)の端に木鼻(彫り物)を施す点など、細部に至るまで禅宗様で造られている。内部の天井の形式や八角の仏壇も他に類を見ないものである。内部には禅宗寺院には珍しく大日如来像が安置されている。
この塔の建立年代は、従来、漠然と鎌倉時代末〜室町時代始め頃と考えられていたが、平成16年(2004年)奈良文化財研究所埋蔵文化財センター古環境研究室による年輪年代調査の結果、この三重塔の部材には正應2年(1289年)に伐採した木材が初重内部の蝦虹梁に使われていることが判明した。このことから当塔は13世紀末(1290年代)に建築されたものと考えられ、元応2年(1320年)建築の功山寺仏殿を凌ぐ日本最古の禅宗様建築である可能性が高くなった。
平成23年(2011年)11月に、屋根の葺き替えは60年ぶり、頭頂部金具の修理は100年ぶりとなる大規模な修復工事が行われた。
文化財
国宝
八角三重塔
重要文化財
木造惟仙和尚坐像
木造恵仁和尚坐像
重要文化財の2点は、安楽寺開山と2世住職の頂相彫刻である。いずれも嘉暦4年(1329年)の作。本堂裏にあるコンクリート造の傳芳堂に安置されている。
拝観について
3 - 10月 8:00 - 17:00、11 - 2月 8:00 - 16:00
拝観料 300円
所在地 長野県上田市別所温泉2361
位置 北緯36度21分08秒 東経138度09分12秒
山号 崇福山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦如来
創建年 不詳
開基 不詳
文化財 八角三重塔(国宝)
木造惟仙和尚坐像、木造恵仁和尚坐像(重要文化財)
2022年10月07日
豊乗寺(ぶじょうじ)は鳥取県八頭郡智頭町にある高野山真言宗の密教寺院
豊乗寺(ぶじょうじ)は鳥取県八頭郡智頭町にある高野山真言宗の密教寺院。山号は宇谷山。本尊は阿弥陀如来。平安時代の嘉祥年間(845年〜851年)、空海の法弟である真雅による開基と伝えられる。
かつて6つの僧坊を含む大伽藍を有していたが天正年間の兵火によって全て失われた。現在の本堂(阿弥陀堂、1685年築)や茅葺きの大師堂などは江戸時代中期の建築である。 平安仏画の代表作の1つである国宝「絹本著色普賢菩薩像」など多くの文化財を有する寺として知られている。
普賢菩薩像(国宝)
文化財
国宝
絹本著色普賢菩薩像 平安時代後期(東京国立博物館に寄託)
重要文化財(国指定)
絹本著色楊柳観音像(東京国立博物館に寄託)
木造毘沙門天立像
鳥取県指定文化財
大師堂 - 保護文化財、天明2年(1782年)築、草葺
山門 - 保護文化財、延享元年(1744年)築
「豊乗寺の大杉」 - 天然記念物
智頭町指定文化財
「豊乗寺の仏画」:絹本著色十二天像(鳥取県立博物館寄託)、紙本版彩色十二天像、絹本著色不動明王像、絹本著色愛染明王像、絹本著色釈迦三尊十羅刹女図、絹本著色真言八祖像
交通アクセス
智頭急行 またはJR 因美線、 智頭駅 から智頭町民すぎっ子バス波多・宇波行きで10分、豊乗寺前下車すぐ(但し、2006年1月1日より土曜は2往復のみ、休日は全便運休となったため、注意が必要。)。
所在地 〒689-1463 鳥取県八頭郡智頭町新見73
山号 宇谷山
宗派 高野山真言宗
本尊 無量寿如来
創建年 嘉祥年間(845年〜851年)
開基 真雅
文化財 絹本著色普賢菩薩像(国宝)、木造毘沙門天立像(国の重要文化財)ほか
かつて6つの僧坊を含む大伽藍を有していたが天正年間の兵火によって全て失われた。現在の本堂(阿弥陀堂、1685年築)や茅葺きの大師堂などは江戸時代中期の建築である。 平安仏画の代表作の1つである国宝「絹本著色普賢菩薩像」など多くの文化財を有する寺として知られている。
普賢菩薩像(国宝)
文化財
国宝
絹本著色普賢菩薩像 平安時代後期(東京国立博物館に寄託)
重要文化財(国指定)
絹本著色楊柳観音像(東京国立博物館に寄託)
木造毘沙門天立像
鳥取県指定文化財
大師堂 - 保護文化財、天明2年(1782年)築、草葺
山門 - 保護文化財、延享元年(1744年)築
「豊乗寺の大杉」 - 天然記念物
智頭町指定文化財
「豊乗寺の仏画」:絹本著色十二天像(鳥取県立博物館寄託)、紙本版彩色十二天像、絹本著色不動明王像、絹本著色愛染明王像、絹本著色釈迦三尊十羅刹女図、絹本著色真言八祖像
交通アクセス
智頭急行 またはJR 因美線、 智頭駅 から智頭町民すぎっ子バス波多・宇波行きで10分、豊乗寺前下車すぐ(但し、2006年1月1日より土曜は2往復のみ、休日は全便運休となったため、注意が必要。)。
所在地 〒689-1463 鳥取県八頭郡智頭町新見73
山号 宇谷山
宗派 高野山真言宗
本尊 無量寿如来
創建年 嘉祥年間(845年〜851年)
開基 真雅
文化財 絹本著色普賢菩薩像(国宝)、木造毘沙門天立像(国の重要文化財)ほか
2022年10月06日
国宝に指定されている那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ、なすこくぞうひ)
那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ、なすこくぞうひ)は、栃木県大田原市湯津上にある飛鳥時代の石碑。国宝に指定されている。書道史の上から、日本三古碑の1つとされる。
那須国造碑(笠石神社)
概要
碑身と笠石は花崗岩である。19字×8行=152字の碑文が刻まれている。
永昌元年(689年)、那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提の事績を息子の意志麻呂らが顕彰するために、700年に建立されたものである。「永昌」という元号は唐のものであるが、日本の元号は686年に天武天皇の崩御により701年の大宝まで停止されていたため、唐の元号を使用したと考えられている。
延宝4年(1676年)、僧侶・円順により発見され、その報を受けて(那須郡に領地を有していた)水戸藩主の徳川光圀が笠石神社を創建して碑の保護を命じた。さらに碑文に記された那須直葦提、意志麻呂父子の墓と推定した上侍塚古墳と下侍塚古墳の発掘調査と史跡整備を家臣の佐々宗淳に命じている。碑は表面を下にして埋もれていたため、碑文が風化することなく保存されたと推定される。なお考古学的には、上侍塚古墳と下侍塚古墳はいずれも5世紀の築造と推定されており碑の年代(7世紀)よりずっと前のものになる。
現在、笠石神社の神体として祀られ崇敬されている。
那須国造碑(本体)のある笠石神社
那須国造碑(複製) 大田原市なす風土記の丘湯津上資料館展示
那須国造碑拓本(複製) 大田原市なす風土記の丘湯津上資料館展示
銘文
原文
■は外字であり、()内は釈文である。
永昌元年■(己)丑四月飛鳥浄御■(原)大■■■■(宮那須国)造
追大壹■■■(那須直)韋提評■(督)被賜■(歳)次■(庚)子年■(正)月
二壬子日辰■■(節殄)故意斯麻■■(呂等)立■(碑)銘偲云尓
仰惟■(殞)公廣■■■■(氏尊胤国)家棟■(梁)一世之中重被■(貳)
■(照)一命之期連見再甦■(砕)骨挑髄■(豈)報前恩是以
曾子之家无有■(嬌)子仲■(尼)之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神■■(照乾)六月童子意香
助■(坤)作■(徒)之大合言■(喩)字故無翼長飛无根更固
永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貳
照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以
曾子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香
助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固
碑文の拓本
書き下し文
永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原大宮に、那須国造で追大壹の那須直韋提は、評督を賜はれり。
歳は庚子に次る年の正月二壬子の日辰節に殄れり。故に意斯麻呂ら、碑銘を立て、偲びて尓か云ふ。
仰ぎ惟るに殞公は、廣氏の尊胤にして、国家の棟梁なり。一世之中に重ねて貳照せられ
一命之期に連ねて再甦せらる。砕骨挑髄するも、豈に前恩に報いん。是を以て
曾子の家に嬌子有ること无く、仲尼の門に罵者有ること无し。行孝の子は
其の語を改めず、銘夏尭心、澄神照乾。六月童子、意香
助坤。作徒之大、合言喩字。故に、翼無くして長飛し、根无くして更に固まんと。
訳文
永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原朝に、那須国造で追大壹の那須直韋提は、那須評督に任じられた。
歳は庚子に次る年の正月二壬子の日辰節に亡くなった。そこで意斯麻呂ら、碑銘を立て、故人を偲んで以下のように云う。
仰ぎ惟るに故人は、那須國造一族の嫡承継主で、朝廷の片腕でもあった。一世之中に重ねて貳照せられ
一命之期に連ねて再甦せらる。斯様な一族の中興の英主の恩に、どうやっても報いたい。
そこで儒教の教えに従って、父親への孝心をあらわすべく、
また仏神の御教えも受けて、ここに一文を草す。故人の遺志が長く広く、地に根付かんことを。
那須国造碑(笠石神社)
概要
碑身と笠石は花崗岩である。19字×8行=152字の碑文が刻まれている。
永昌元年(689年)、那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提の事績を息子の意志麻呂らが顕彰するために、700年に建立されたものである。「永昌」という元号は唐のものであるが、日本の元号は686年に天武天皇の崩御により701年の大宝まで停止されていたため、唐の元号を使用したと考えられている。
延宝4年(1676年)、僧侶・円順により発見され、その報を受けて(那須郡に領地を有していた)水戸藩主の徳川光圀が笠石神社を創建して碑の保護を命じた。さらに碑文に記された那須直葦提、意志麻呂父子の墓と推定した上侍塚古墳と下侍塚古墳の発掘調査と史跡整備を家臣の佐々宗淳に命じている。碑は表面を下にして埋もれていたため、碑文が風化することなく保存されたと推定される。なお考古学的には、上侍塚古墳と下侍塚古墳はいずれも5世紀の築造と推定されており碑の年代(7世紀)よりずっと前のものになる。
現在、笠石神社の神体として祀られ崇敬されている。
那須国造碑(本体)のある笠石神社
那須国造碑(複製) 大田原市なす風土記の丘湯津上資料館展示
那須国造碑拓本(複製) 大田原市なす風土記の丘湯津上資料館展示
銘文
原文
■は外字であり、()内は釈文である。
永昌元年■(己)丑四月飛鳥浄御■(原)大■■■■(宮那須国)造
追大壹■■■(那須直)韋提評■(督)被賜■(歳)次■(庚)子年■(正)月
二壬子日辰■■(節殄)故意斯麻■■(呂等)立■(碑)銘偲云尓
仰惟■(殞)公廣■■■■(氏尊胤国)家棟■(梁)一世之中重被■(貳)
■(照)一命之期連見再甦■(砕)骨挑髄■(豈)報前恩是以
曾子之家无有■(嬌)子仲■(尼)之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神■■(照乾)六月童子意香
助■(坤)作■(徒)之大合言■(喩)字故無翼長飛无根更固
永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貳
照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以
曾子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香
助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固
碑文の拓本
書き下し文
永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原大宮に、那須国造で追大壹の那須直韋提は、評督を賜はれり。
歳は庚子に次る年の正月二壬子の日辰節に殄れり。故に意斯麻呂ら、碑銘を立て、偲びて尓か云ふ。
仰ぎ惟るに殞公は、廣氏の尊胤にして、国家の棟梁なり。一世之中に重ねて貳照せられ
一命之期に連ねて再甦せらる。砕骨挑髄するも、豈に前恩に報いん。是を以て
曾子の家に嬌子有ること无く、仲尼の門に罵者有ること无し。行孝の子は
其の語を改めず、銘夏尭心、澄神照乾。六月童子、意香
助坤。作徒之大、合言喩字。故に、翼無くして長飛し、根无くして更に固まんと。
訳文
永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原朝に、那須国造で追大壹の那須直韋提は、那須評督に任じられた。
歳は庚子に次る年の正月二壬子の日辰節に亡くなった。そこで意斯麻呂ら、碑銘を立て、故人を偲んで以下のように云う。
仰ぎ惟るに故人は、那須國造一族の嫡承継主で、朝廷の片腕でもあった。一世之中に重ねて貳照せられ
一命之期に連ねて再甦せらる。斯様な一族の中興の英主の恩に、どうやっても報いたい。
そこで儒教の教えに従って、父親への孝心をあらわすべく、
また仏神の御教えも受けて、ここに一文を草す。故人の遺志が長く広く、地に根付かんことを。
2022年10月05日
一宮神社(いちのみやじんじゃ)は、徳島県徳島市一宮町にある神社
一宮神社(いちのみやじんじゃ)は、徳島県徳島市一宮町にある神社。式内大社・阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ。旧社格は県社。とくしま市民遺産選定。
正面
概要
大宜都比売命・天石門別八倉比売命を祭神とする。
鎮座地は徳島市の西部で、周辺は「一宮町」という地名になっており、東方にある山の頂上にはかつて小笠原氏の「一宮城」という城があった。元々は上一宮大粟神社(名西郡神山町)が阿波国一宮であったが、参拝に不便であるため平安時代後期に国府の近くに分祠が作られ、こちらが一宮となったと伝えられる。
その後、一宮城が隣にあったため、戦国時代の天正の陣で主戦場となり、当社を含め辺り一帯焼け野原になったが、江戸時代初期に阿波三代目藩主蜂須賀光隆によりいち早く復興し、1653年に遍路に来た澄禅は著書に「拝殿は左右三間、殿閣は結構なり」と書かれるほどになっていた。
神社の前には道路を挟んで四国八十八箇所十三番札所の大日寺があり、明治初年の神仏分離以前は当社が札所で、大日寺が別当寺であり、納経所として機能していた。なお、当社においても「一宮大明神 本地佛十一面観音 大宮司」と納経していた形跡もある。そして、明治初期の神仏分離以降は、当社の本地十一面観音像は大日寺の本堂へ本尊として遷座し、札所も移され、別当関係は解消した。
鳥居
太鼓橋(大正三年)
文化財
重要文化財(国指定)
本殿 附棟札九枚- 寛永7年(1630年)建立。三間社流造、正面千鳥破風付、銅板葺。向拝は一間、唐破風造で要所の彫刻に極彩色をほどこしている。平成5.4.20指定
拝殿
本殿(重要文化財)
現地情報
所在地
徳島県徳島市一宮町西丁237
位置 北緯34度2分16.1秒 東経134度27分45.5秒
主祭神 大宜都比売命
天石門別八倉比売命
社格等 式内社(大)論社
阿波国一宮論社
旧県社
本殿の様式 流造
例祭 10月18日
正面
概要
大宜都比売命・天石門別八倉比売命を祭神とする。
鎮座地は徳島市の西部で、周辺は「一宮町」という地名になっており、東方にある山の頂上にはかつて小笠原氏の「一宮城」という城があった。元々は上一宮大粟神社(名西郡神山町)が阿波国一宮であったが、参拝に不便であるため平安時代後期に国府の近くに分祠が作られ、こちらが一宮となったと伝えられる。
その後、一宮城が隣にあったため、戦国時代の天正の陣で主戦場となり、当社を含め辺り一帯焼け野原になったが、江戸時代初期に阿波三代目藩主蜂須賀光隆によりいち早く復興し、1653年に遍路に来た澄禅は著書に「拝殿は左右三間、殿閣は結構なり」と書かれるほどになっていた。
神社の前には道路を挟んで四国八十八箇所十三番札所の大日寺があり、明治初年の神仏分離以前は当社が札所で、大日寺が別当寺であり、納経所として機能していた。なお、当社においても「一宮大明神 本地佛十一面観音 大宮司」と納経していた形跡もある。そして、明治初期の神仏分離以降は、当社の本地十一面観音像は大日寺の本堂へ本尊として遷座し、札所も移され、別当関係は解消した。
鳥居
太鼓橋(大正三年)
文化財
重要文化財(国指定)
本殿 附棟札九枚- 寛永7年(1630年)建立。三間社流造、正面千鳥破風付、銅板葺。向拝は一間、唐破風造で要所の彫刻に極彩色をほどこしている。平成5.4.20指定
拝殿
本殿(重要文化財)
現地情報
所在地
徳島県徳島市一宮町西丁237
位置 北緯34度2分16.1秒 東経134度27分45.5秒
主祭神 大宜都比売命
天石門別八倉比売命
社格等 式内社(大)論社
阿波国一宮論社
旧県社
本殿の様式 流造
例祭 10月18日