常宮神社(じょうぐうじんじゃ)は、福井県敦賀市常宮にある神社。式内社論社で、旧社格は県社。神紋は「十六弁八重菊」「巴」「桐」。
古くは氣比神宮(越前国一宮)の奥宮・摂社であった。
社名
常宮神社は古くは「常宮(つねのみや)」「常宮御前」「常宮大権現」とも称された[2]。この「常宮」とは、神功皇后の神託の「つねに宮居し波風静かなる哉楽しや」にちなむという[3]。古くは「つね(の)みや」と訓読みされたが、中近世から「じょうぐう」と音読みされるようになり、明治元年(1868年)に現在の社名・読みに定められた。
また、平安時代中期の『日本文徳天皇実録』や『延喜式』神名帳に見える「天八百万比盗_社(天八百萬比盗_社:あめのよろずひめじんじゃ)」は古代の常宮神社を指す社名とされる(異説もある)。
そのほか、常宮神社は氣比神宮と深い関係にあったため、古くは「本宮・摂社」「口宮・奥宮」「ひもろぎの宮・鏡の宮」「上社・下社」などと一対でも称されていた。
祭神
祭神は次の7柱。
本殿(本宮)
天八百萬比当ス(あめのやおよろずひめのみこと) - 通称「常宮大神」。
神功皇后(じんぐうこうごう) - 仲哀天皇皇后。
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) - 第14代天皇。
本殿周囲4社
東殿宮:日本武命(やまとたけるのみこと)
総社宮:応神天皇(おうじんてんのう) - 第15代天皇。
平殿宮:玉姫命(たまひめのみこと、玉妃命) - 神功皇后の妹。
西殿宮:武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)
社伝では天八百萬比当スは養蚕の神として上古より鎮座したということから、天八百萬比当スは在地の神であると考えられている。他の6柱は神功皇后の出征伝説に基づいた大宝3年(703年)の合祀と伝えられるが、これは当時の八幡信仰の広がりに伴った合祀であると推測されている。主祭神が伊奢沙別命(氣比神宮主祭神)ではなく天八百萬比当スであること以外は、これらの祭神は氣比神宮と同じである。常宮神は気比神と関係が深いとされており、氣比神宮から参詣を受ける総参祭(例祭)は、一説には伊奢沙別命が天八百萬比当スを訪れる神事であるともいう。
本殿の祭神については、享保3年(1718年)の『常宮本紀』や明細帳では上記のように3座である旨が記載されている。しかし、別説として『気比宮社記』(氣比神宮の古記録)では祭神を2座とし、主神は神功皇后であって「天八百萬比当ス」はその別名であるとし、仲哀天皇を相殿に祀るとしている。
神功皇后は常宮で腹帯を付けて筑紫で応神天皇を出産したという故事から、常宮神社は安産の神として信仰されている。また、神功皇后が三韓征伐に際して海路の無事を祈願したとの故事から、航海や漁業の守護神としても信仰される。
本殿・拝所 (いずれも福井県指定有形文化財)
文化財
国宝
朝鮮鐘(ちょうせんしょう)(工芸品)
総高112.0センチメートル、口径66.7センチメートルの大型梵鐘で、胴部に天女像を陽鋳する。和鐘とは様式を異にした朝鮮鐘で、統一新羅時代の作である。「太和七年三月日菁州蓮池寺鍾成」云々の銘があるが、「太和(大和)7年」は唐の年号で西暦833年にあたり、この鐘は統一新羅時代に鋳造された新羅鐘の数少ない遺品の1つに数えられる。社伝では文禄の役で朝鮮から持ち帰ったものであるといい、慶長2年(1597年)に豊臣秀吉が神功皇后の三韓征伐に因み、大谷吉継を使者として常宮神社に奉納したという。ただし、倭寇によってもたらされたとの説もある。明治33年4月7日に当時の古社寺保存法に基づき国宝に指定、昭和27年11月22日に文化財保護法に基づき国宝に指定。
福井県指定文化財
有形文化財
本殿・拝所・中門(以上3棟)(建造物) - 昭和57年4月23日に本殿を指定、平成21年3月31日に拝所・中門を追加指定。
朝鮮鐘(国宝)
現地情報
所在地
福井県敦賀市常宮13-16
交通アクセス
西日本旅客鉄道(JR西日本)北陸本線・小浜線 敦賀駅から
福鉄バス(常宮線立石行)で「常宮」バス停下車 (乗車時間約22分、下車後徒歩すぐ)
位置 北緯35度41分25.36秒 東経136度1分46.63秒
主祭神 天八百萬比当ス
社格等 式内社(小)論社
旧県社
氣比神宮元奥宮・摂社
創建 不詳
本殿の様式 三間社流造
例祭 7月22日(総参祭)
2022年10月15日
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