大虫神社(おおむしじんじゃ)は、福井県越前市大虫町にある神社である。式内社(名神大)で、旧社格は県社。
天津日高彦火火出見命を祭神とする。
歴史
社伝によれば、崇神天皇7年、南越地方を平定・開拓した天津日高彦火火出見命の霊を鬼ヶ嶽の山頂に祀ったのに始まると伝える。垂仁天皇の時代にイナゴが大発生したが、当社に祈願した所たちまちイナゴは退散した。天皇はこれを喜び、当社を大虫神社と称し、山頂から現在地に遷座したという。
国史での初見は、『続日本紀』宝亀11年(780年)12月14日条の、越前国丹生郡大虫神ほかに従五位下の神階を授けるという記述である。天徳3年(959年)には最高位の正一位まで昇った。延喜式神名帳には「越前国丹生郡 大虫神社」と記載され、越前国で2社だけの名神大社に列している。
天正4年(1576年)、柴田勝家によって社殿が焼かれたが、神体・神宝は鬼ヶ嶽山頂に移され無事であった。その後、豊臣秀吉によって再建された。天正11年(1583年)、式内社の小虫神社・雨夜神社・雷神社を当社に合祀した。ただし、後二者については比定社がほかにもある。
現在の宮司は岡野吉則氏であり、伝承の時代を含めると同氏が100代目の宮司となる。創建より社家である岡野家が宮司を勤めるとされるが、信頼できる文献などで確認される範疇でも、遅くとも南北朝時代以降は岡野家が代々宮司を勤めてきたことが確認される。 その後の戦国時代は朝倉氏側に組みしていたことから、柴田勝家による兵火で社殿が焼かれ、一部の岡野家の者が柴田側に処刑されるに及んだが、その後も引き続き岡野家が宮司を勤め今日に至っている。 後に元豊臣秀吉配下であった大名の仲介により、同家の次男以下数名の者が、播州赤穂藩に取り立てられ武士として江戸期に及んだ。 江戸期より今日まで歌舞伎や文楽などで史実創作おりまぜた作品として演じられる【忠臣蔵】に47士の一人として登場する実在の岡野金右衛門父子は、その縁戚で同じく47士の一人である大高源五と共に、この社家から出た者の子孫である。
尚、平成時代終盤に至り、岡野家以外の者が実務上の宮司を勤めているが、諸般のやむなき事情が想定されるものの、本来的な宮司であるはずの岡野氏並びに縁戚の者により宮司の代替者になり得た経緯説明を求めてもなんら回答を得られておらず、現在も岡野氏が正当な宮司であるとの認識にある。
社後に岩石をまつる
祭事
8月15日には、松明を手に鬼ヶ嶽を登る「鬼ヶ嶽火祭り」が行われる。
所在地 福井県越前市大虫町21-28
位置 北緯35度54分3.23秒 東経136度7分35.71秒
主祭神 天津日高彦火火出見命
社格等 式内社(名神大)
旧県社
創建 崇神天皇7年
本殿の様式 流造
例祭 10月10日
主な神事 鬼ヶ嶽火祭り
2023年12月01日
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