千代金丸(ちよがねまる)は、16世紀に作られたとされる日本刀(太刀)である。日本の国宝に指定されており、沖縄県那覇市にある那覇市歴史博物館所蔵。琉球国王尚家に伝来した三振りの宝剣の一つ。文化財指定名称は、「金装宝剣拵 刀身無銘(号 千代金丸)」。
千代金丸の複製品(今帰仁村歴史文化センター蔵)
概要
伝来は「千代金丸宝刀ノ由来」によれば、尚巴志により攻め滅ぼされた北山王攀安知の所持した宝刀で、城を守りきれなかったことに怒って、守護の霊石を切りつけ、更にこの刀で自害しようとしたが、主の命を守る霊力が込められた刀であり、死にきれず、重間(志慶間)川に投げ捨ててから命を絶った。これを伊平屋の住人が拾い上げて中山王に献上したという。
尚家当主尚裕より平成7年(1995年)、平成8年(1996年)に同家伝承文化財が沖縄県那覇市に寄贈され、平成14年(2002年)に三振りとも「琉球王家尚家伝来品」の一つとして重要文化財に指定された。更に平成18年(2006年)、歴史文書類を加えて「琉球国王尚家関係資料」として国宝に指定された。後述の伝承があるが、刀身は三振りとも本土製の日本刀である。国宝としての指定は前述の通り、尚家に伝承された文化財全ての価値を総合したものであり、単体での評価ではない。
作風
刀身
刃長(はちょう、刃部分の長さ)は71.3センチメートル。刀身は平造りで庵棟、やや細身で先反り強くつく。地金は板目肌流れる。刃文は広直刃調、小互の目交じり、足葉入る。帽子は直ぐに先尖りごころに反り、長く焼き上げる。彫物は表裏に五本の細樋。無銘であるが、16世紀の作かという推定もある。
外装
拵えの全長は92.1センチ。古代の頭椎大刀のような形の金製兜金が付いた柄で、「大世」[3]の銘が刻まれている。鍔は赤銅地で木瓜型の板鍔、四方に四花型と猪の目形の透かしを入れ、鍍金毛彫り菊文を散らす。鞘は黄金色に輝く華麗なものである。柄は日本の長剣にしては珍しく片手用(かろうじて拳2つ分の幅がある程度)で、琉球独自の拵えである。ただし、太刀は本来が馬上での使用を考慮した片手打ち(片手用)であったことも考慮が必要である。
2022年11月06日
2022年11月05日
日本100名城の一つ。現存天守12城の一つ・松山城(まつやまじょう)
松山城(まつやまじょう)は、岡山県高梁市内山下にあった日本の城(山城)である。別名、高梁城(たかはしじょう)。愛媛県松山市にある松山城を初め、各地の同名の城との混同を避けるために、一般的には「備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)」と呼ぶことが多い。日本100名城の一つ。現存天守12城の一つでもあり、この中で唯一の山城である。臥牛山山頂(標高487m)から南稜線にかけて遺構が残っており、そのうち一つである小松山城跡に現存天守(標高430m)がある。
概要
城のある臥牛山(松山)は4つの峰からなり、小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。海抜約430mの臥牛山小松山山頂の本丸へは、麓の城下町から約1,500m、1時間ほどの道のりがある。この城は戦に備えて建設された「詰の城」であり通常はあまり使われていなかったと思われる。
江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓の城下町に「御根小屋」と呼ばれる藩主の御殿と家来の武家屋敷群を構え、そこで藩の政務を行った。現在、御根小屋の跡地は岡山県立高梁高等学校となっている。
備中(岡山県西部)は小藩に細分化され、倉敷のような幕府の直轄地もあったので備中松山藩の石高は6万石ほどであった。
城跡が国の史跡に指定され、江戸時代に建造された天守、二重櫓、土塀の一部が重要文化財に指定されている。そのほかに石垣、復元された櫓、門、土塀が現存する。日本三大山城の一つとされる。
雲海
竹田城(兵庫県)のように時期や条件などが合えば雲海に浮かぶ姿が見られ、その姿は天空の城と称される。本丸とは離れた位置にある雲海展望台(雲海に浮かぶ備中松山城を望む展望台)から見ることができる。
時期:9月下旬から4月上旬の早朝、特に10月下旬から12月上旬は可能性が高い。12月から2月末までは積雪になる事もあるので注意。時間は明け方から午前8時頃まで。
条件:風がなく、よく晴れて、寒暖差(前日の日中と当日朝の気温差)が大きい事[10][8]。現地の濃霧注意報などを参考にする事。
雲海展望台から望む松山城(2021年11月)
交通アクセス
本丸
標高87mのところに松山城登山口バス停、標高196mに城見橋公園駐車場(110台、駐車無料)、標高291mにふいご峠駐車場(14台、駐車無料)がある。
土日祝日及び観光シーズンの平日は、城見橋公園(城まちステーション)⇔ふいご峠の間をシャトルバスが運行しており、同区間において自家用車は通行禁止となる。そのため、自家用車は城見橋公園で駐車後、シャトルバスに乗り換えてふいご峠まで行くことになる。シャトルバス運行期間外は自家用車でふいご峠まで行くことができる。
徒歩での天守までの所要時間は、ふいご峠からは約20分、城見橋公園からは約40分、松山城登山口バス停からは約50分、備中高梁駅からは約90分。
自家用車
岡山自動車道 賀陽ICより車で約30分(城見橋公園駐車場まで)。
土日祝日及び観光シーズンの平日には、城見橋公園(城まちステーション) - ふいご峠間でシャトルバス(往復500円、約15分間隔、約5分)が運行される。ふいご峠下車後徒歩約20分。
観光乗合タクシー
JR西日本備中高梁駅西口より
備中松山城観光乗合タクシー : 前日17:00までに高梁市観光案内所(高梁市複合施設2階)へ要予約。年中無休で1日往復4便運行する。ふいご峠まで約10分。(片道1人800円)、ふいご峠下車後徒歩約20分。
路線バス
JR西日本備中高梁駅西口の高梁市複合施設1階 高梁バスセンター発
備北バス : 高梁市内循環で約10分、松山城登山口下車(片道170円)。登山道を徒歩50分。
別名 高梁城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 複合式望楼型2重2階(天和元年(1681年)改)
築城主 秋庭三郎重信
築城年 1240年
主な改修者 三村元親、水谷勝宗
主な城主 三村氏、水谷氏、板倉氏
廃城年 明治7年(1874年)
遺構 現存天守・櫓・塀、石垣、土塁
指定文化財 重要文化財(天守、二重櫓、土塀)
国の史跡
再建造物 櫓・門・塀
位置 北緯34度48分32.68秒 東経133度37分20.29秒
概要
城のある臥牛山(松山)は4つの峰からなり、小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。海抜約430mの臥牛山小松山山頂の本丸へは、麓の城下町から約1,500m、1時間ほどの道のりがある。この城は戦に備えて建設された「詰の城」であり通常はあまり使われていなかったと思われる。
江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓の城下町に「御根小屋」と呼ばれる藩主の御殿と家来の武家屋敷群を構え、そこで藩の政務を行った。現在、御根小屋の跡地は岡山県立高梁高等学校となっている。
備中(岡山県西部)は小藩に細分化され、倉敷のような幕府の直轄地もあったので備中松山藩の石高は6万石ほどであった。
城跡が国の史跡に指定され、江戸時代に建造された天守、二重櫓、土塀の一部が重要文化財に指定されている。そのほかに石垣、復元された櫓、門、土塀が現存する。日本三大山城の一つとされる。
雲海
竹田城(兵庫県)のように時期や条件などが合えば雲海に浮かぶ姿が見られ、その姿は天空の城と称される。本丸とは離れた位置にある雲海展望台(雲海に浮かぶ備中松山城を望む展望台)から見ることができる。
時期:9月下旬から4月上旬の早朝、特に10月下旬から12月上旬は可能性が高い。12月から2月末までは積雪になる事もあるので注意。時間は明け方から午前8時頃まで。
条件:風がなく、よく晴れて、寒暖差(前日の日中と当日朝の気温差)が大きい事[10][8]。現地の濃霧注意報などを参考にする事。
雲海展望台から望む松山城(2021年11月)
交通アクセス
本丸
標高87mのところに松山城登山口バス停、標高196mに城見橋公園駐車場(110台、駐車無料)、標高291mにふいご峠駐車場(14台、駐車無料)がある。
土日祝日及び観光シーズンの平日は、城見橋公園(城まちステーション)⇔ふいご峠の間をシャトルバスが運行しており、同区間において自家用車は通行禁止となる。そのため、自家用車は城見橋公園で駐車後、シャトルバスに乗り換えてふいご峠まで行くことになる。シャトルバス運行期間外は自家用車でふいご峠まで行くことができる。
徒歩での天守までの所要時間は、ふいご峠からは約20分、城見橋公園からは約40分、松山城登山口バス停からは約50分、備中高梁駅からは約90分。
自家用車
岡山自動車道 賀陽ICより車で約30分(城見橋公園駐車場まで)。
土日祝日及び観光シーズンの平日には、城見橋公園(城まちステーション) - ふいご峠間でシャトルバス(往復500円、約15分間隔、約5分)が運行される。ふいご峠下車後徒歩約20分。
観光乗合タクシー
JR西日本備中高梁駅西口より
備中松山城観光乗合タクシー : 前日17:00までに高梁市観光案内所(高梁市複合施設2階)へ要予約。年中無休で1日往復4便運行する。ふいご峠まで約10分。(片道1人800円)、ふいご峠下車後徒歩約20分。
路線バス
JR西日本備中高梁駅西口の高梁市複合施設1階 高梁バスセンター発
備北バス : 高梁市内循環で約10分、松山城登山口下車(片道170円)。登山道を徒歩50分。
別名 高梁城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 複合式望楼型2重2階(天和元年(1681年)改)
築城主 秋庭三郎重信
築城年 1240年
主な改修者 三村元親、水谷勝宗
主な城主 三村氏、水谷氏、板倉氏
廃城年 明治7年(1874年)
遺構 現存天守・櫓・塀、石垣、土塁
指定文化財 重要文化財(天守、二重櫓、土塀)
国の史跡
再建造物 櫓・門・塀
位置 北緯34度48分32.68秒 東経133度37分20.29秒
2022年11月04日
観心寺(かんしんじ)は、大阪府河内長野市寺元にある高野山真言宗の遺跡本山の寺院
観心寺(かんしんじ)は、大阪府河内長野市寺元にある高野山真言宗の遺跡本山の寺院。山号は檜尾山。本尊は如意輪観音。新西国三十三箇所客番札所。大阪みどりの百選に選定されている。また日本遺産『中世に出逢えるまち 〜千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫〜』の構成文化財のひとつでもある。
金堂(国宝)
境内
金堂(国宝)
南北朝時代、正平年間(1346年 - 1370年)の建立。桁行七間、梁間七間、入母屋造、本瓦葺き。和様と禅宗様の要素が混淆した折衷様仏堂の代表例である。朱塗の柱に白い漆喰壁の外観は和様の要素であるが、扉は禅宗様の桟唐戸を用いる。堂正面は七間のうち中央五間を桟唐戸、両端の各一間を和様の連子窓とする。和様では頭貫(かしらぬき)以外の貫(柱を貫通する水平材)を用いず、長押(柱の外側から打ち付ける水平材)を多用するが、この堂では頭貫以外に飛貫(ひぬき)、足固貫を用いている。堂内は手前二間通りを外陣とする。その奥は中央の五間×四間を内陣、その両脇一間通りを脇陣、背後の梁間一間分を後陣とする。内陣はその奥の三間×一間を内々陣として須弥壇(しゅみだん)を構え、厨子内に本尊如意輪観音像を安置する。須弥壇の手前左右には曼荼羅壁を設け、それぞれに両界曼荼羅を描く。
文化財
当寺には多くの文化財があり、仏像などは寺内の霊宝館に多数展示されている。また境内が国の史跡に指定されている。
木造如意輪観音坐像
国宝。観心寺の本尊で、金堂内陣の厨子内に安置される。秘仏で、毎年4月17・18日の2日間のみ開扉される。平安時代前期・9世紀の作。像高108.8cm。六臂(手が6本)の密教彫像。長らく秘仏であったため、保存がよく、表面の彩色や文様もよく残っている。右脚を立て膝とし、6本の手のち、右第一手は頬に当てて思惟相とし、第二手は胸前で如意宝珠を捧持し、第三手は垂下して数珠を持つ。左の第一手はまっすぐ下方に伸ばし、第二手は掌を正面に向けて胸の高さで蓮茎を持ち、第三手は伸ばした指先で法輪を支える。カヤ材の一木造で、頭・体の主要部を一材から木取りしたうえで、左膝外側部、各腕などに別材を矧ぎ付けている。各腕は臂釧(ひせん、上腕部に巻いた装飾)のあたりで矧いでいるとみられる。国宝指定名称は「木造」となっているが、乾漆技法が併用されており、各所に木屎漆(こくそうるし、麦漆に木粉などを混ぜたもの)を厚く盛り上げて、肌の柔らかい感触を表現しており、密教彫像特有の神秘性と官能性を表出する。面相部や、左肩から右腰に掛かる条帛(じょうはく)、下半身にまとった裳などの衣文は乾漆技法で成形されている。条帛、裳、台座の蓮弁などには繧繝彩色と截金を用いた造像当初の彩色が残っている。特に裳の装飾は文様帯を4段に分けて地色や文様を違えた入念なものである。頭上の宝冠は木製透彫で、造像当初のものではないが、平安時代後期の作とみられる。
国宝
金堂 附:棟札(1枚)
木造如意輪観音坐像 - 解説は前出。
観心寺縁起資財帳
国の史跡
観心寺境内
大阪府指定有形文化財
観心寺(建造物)6棟
大門
鎮守社拝殿 附:棟札(1枚)
御影堂(大師堂)
本願堂(開山堂)
槙本院中門
槙本院持仏堂
所在地
〒586-0053 大阪府河内長野市寺元475
交通アクセス
南海高野線および近鉄長野線 河内長野駅3番乗り場から南海バス小深線「金剛山ロープウェイ前行き(408,411系統)」,小吹台団地線「小吹台行き(410系統)」のいずれかに乗車し、「観心寺」バス停下車すぐ
金堂(国宝)
境内
金堂(国宝)
南北朝時代、正平年間(1346年 - 1370年)の建立。桁行七間、梁間七間、入母屋造、本瓦葺き。和様と禅宗様の要素が混淆した折衷様仏堂の代表例である。朱塗の柱に白い漆喰壁の外観は和様の要素であるが、扉は禅宗様の桟唐戸を用いる。堂正面は七間のうち中央五間を桟唐戸、両端の各一間を和様の連子窓とする。和様では頭貫(かしらぬき)以外の貫(柱を貫通する水平材)を用いず、長押(柱の外側から打ち付ける水平材)を多用するが、この堂では頭貫以外に飛貫(ひぬき)、足固貫を用いている。堂内は手前二間通りを外陣とする。その奥は中央の五間×四間を内陣、その両脇一間通りを脇陣、背後の梁間一間分を後陣とする。内陣はその奥の三間×一間を内々陣として須弥壇(しゅみだん)を構え、厨子内に本尊如意輪観音像を安置する。須弥壇の手前左右には曼荼羅壁を設け、それぞれに両界曼荼羅を描く。
文化財
当寺には多くの文化財があり、仏像などは寺内の霊宝館に多数展示されている。また境内が国の史跡に指定されている。
木造如意輪観音坐像
国宝。観心寺の本尊で、金堂内陣の厨子内に安置される。秘仏で、毎年4月17・18日の2日間のみ開扉される。平安時代前期・9世紀の作。像高108.8cm。六臂(手が6本)の密教彫像。長らく秘仏であったため、保存がよく、表面の彩色や文様もよく残っている。右脚を立て膝とし、6本の手のち、右第一手は頬に当てて思惟相とし、第二手は胸前で如意宝珠を捧持し、第三手は垂下して数珠を持つ。左の第一手はまっすぐ下方に伸ばし、第二手は掌を正面に向けて胸の高さで蓮茎を持ち、第三手は伸ばした指先で法輪を支える。カヤ材の一木造で、頭・体の主要部を一材から木取りしたうえで、左膝外側部、各腕などに別材を矧ぎ付けている。各腕は臂釧(ひせん、上腕部に巻いた装飾)のあたりで矧いでいるとみられる。国宝指定名称は「木造」となっているが、乾漆技法が併用されており、各所に木屎漆(こくそうるし、麦漆に木粉などを混ぜたもの)を厚く盛り上げて、肌の柔らかい感触を表現しており、密教彫像特有の神秘性と官能性を表出する。面相部や、左肩から右腰に掛かる条帛(じょうはく)、下半身にまとった裳などの衣文は乾漆技法で成形されている。条帛、裳、台座の蓮弁などには繧繝彩色と截金を用いた造像当初の彩色が残っている。特に裳の装飾は文様帯を4段に分けて地色や文様を違えた入念なものである。頭上の宝冠は木製透彫で、造像当初のものではないが、平安時代後期の作とみられる。
国宝
金堂 附:棟札(1枚)
木造如意輪観音坐像 - 解説は前出。
観心寺縁起資財帳
国の史跡
観心寺境内
大阪府指定有形文化財
観心寺(建造物)6棟
大門
鎮守社拝殿 附:棟札(1枚)
御影堂(大師堂)
本願堂(開山堂)
槙本院中門
槙本院持仏堂
所在地
〒586-0053 大阪府河内長野市寺元475
交通アクセス
南海高野線および近鉄長野線 河内長野駅3番乗り場から南海バス小深線「金剛山ロープウェイ前行き(408,411系統)」,小吹台団地線「小吹台行き(410系統)」のいずれかに乗車し、「観心寺」バス停下車すぐ
2022年11月03日
全国に約44,000社ある八幡宮の総本社・宇佐神宮(うさじんぐう)
宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社。式内社(名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)と共に日本三大八幡宮の一つ。古代においては伊勢神宮と共に二所宗廟として扱われた。八幡宇佐宮または八幡大菩薩宇佐宮などと呼ばれた。また神仏分離以前は神宮寺の弥勒寺(後述)と一体のものとして、正式には宇佐八幡宮弥勒寺と称していた。
現在でも通称として宇佐八幡とも呼ばれる。
概要
大分県北部、国東半島付け根に立つ御許山(標高647m)山麓に鎮座する。本殿は小高い丘陵の小椋山(亀山)山頂に鎮座する上宮とその山麓に鎮座する下宮とからなり、その周りに社殿が広がっている。境内は国の史跡に指定され、本殿3棟は国宝に指定されている。
八幡宮の総本社であり古くから皇室の崇敬を受けているほか、称徳天皇時代の宇佐八幡宮神託事件でも知られる。参拝は一般と異なり、二拝四拍手一拝を作法としている。
祭神
主祭神は以下の3柱。
上宮
一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) - 誉田別尊(応神天皇)とする
二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) - 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)とする
三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) - 別名として息長足姫命とも
下宮
一之神殿[8][9] 大神比義命(おおがのひぎのみこと)+八幡大神(大神祖神社として)
二之神殿 比賣大神(ひめおおかみ)
三之神殿 神功皇后(じんぐうこうごう)
下宮は嵯峨天皇の弘仁年間(810〜824年)に朝廷より造宮使が遣わされ、上宮のご分神をお鎮祭し創祀されました。 古くは御炊殿(おいどの)ともいわれ、神前にお供えする御饌(食事)を炊く竈殿(現下見や授与所)があり、農業・漁業をはじめとする一般産業の発展充実を御守りになる神様であります。上宮と同様に歴代の皇室をはじめ、国民の崇敬篤く、特に宇佐地方では「下宮参らにゃ片参り」と称されて親しまれております。また、一之神殿には、八幡大神を顕しになった大神比義命の霊を祀る大神祖神社が相殿として奉斎されております。
主神は、一之御殿に祀られている八幡大神の応神天皇であるが、ただ実際に宇佐神宮の本殿で主神の位置である中央に配置されているのは比売大神であり、なぜそうなっているのかは謎とされている。
文化財
当宮の建築様式は八幡造と呼ばれ、本殿は国宝に指定されている。また、宝物館には国宝・孔雀文磬(くじゃくもんけい)ほか多数の文化財を収めている。
国宝
本殿 (第一殿から第三殿に至る3棟)
孔雀文磬 (くじゃくもん けい) - 個人所有(宇佐神宮が文化財保護法に基づく管理団体に指定されている。鎌倉時代、承元3年(1209年)銘。宇佐神宮の神宮寺の弥勒寺に伝来したもの。
重要文化財(国指定)
木造神像5躯(若宮神体)
大鷦鷯命(おおさざきのみこと)坐像
大葉枝皇子(おおばえのみこ)坐像
小葉枝皇子(こばえのみこ)坐像
雌鳥皇女(めどりのみこ)坐像
隼総別皇子(はやぶさわけのみこ)坐像(若宮鎮座)
銅鐘(朝鮮鐘) - 天復四年(904年)云々の左文銘あり。日本にある朝鮮鐘の中では2番目に古い
白鞘入剣(しらさやいり けん) - 長さ93.5cm、両鎬造り。正平13年(1358年)懐良親王が征西大将軍として活躍している際に、武運長久を祈願して奉納した剣
豊前国宇佐宮絵図
宇佐神宮造営図 3幅
宇佐宮神領大鏡 - 個人所有(宇佐神宮が文化財保護法に基づく管理団体に指定されている)
出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
史跡(国指定)
宇佐神宮境内
天然記念物(国指定)
宇佐神宮社叢
現地情報
所在地
大分県宇佐市南宇佐2859
上宮参拝時間
4月から9月:5時30分から21時
10月から3月:6時から21時
祈祷の受付は9時から16時
交通アクセス
バス
宇佐駅(JR九州日豊本線)から、大交北部バス「四日市」「中津」行き乗車、「宇佐八幡」バス停下車 (乗車時間約10分)
車
宇佐別府道路 宇佐ICから、国道10号経由で約15分
全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)と共に日本三大八幡宮の一つ。古代においては伊勢神宮と共に二所宗廟として扱われた。八幡宇佐宮または八幡大菩薩宇佐宮などと呼ばれた。また神仏分離以前は神宮寺の弥勒寺(後述)と一体のものとして、正式には宇佐八幡宮弥勒寺と称していた。
現在でも通称として宇佐八幡とも呼ばれる。
概要
大分県北部、国東半島付け根に立つ御許山(標高647m)山麓に鎮座する。本殿は小高い丘陵の小椋山(亀山)山頂に鎮座する上宮とその山麓に鎮座する下宮とからなり、その周りに社殿が広がっている。境内は国の史跡に指定され、本殿3棟は国宝に指定されている。
八幡宮の総本社であり古くから皇室の崇敬を受けているほか、称徳天皇時代の宇佐八幡宮神託事件でも知られる。参拝は一般と異なり、二拝四拍手一拝を作法としている。
祭神
主祭神は以下の3柱。
上宮
一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) - 誉田別尊(応神天皇)とする
二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) - 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)とする
三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) - 別名として息長足姫命とも
下宮
一之神殿[8][9] 大神比義命(おおがのひぎのみこと)+八幡大神(大神祖神社として)
二之神殿 比賣大神(ひめおおかみ)
三之神殿 神功皇后(じんぐうこうごう)
下宮は嵯峨天皇の弘仁年間(810〜824年)に朝廷より造宮使が遣わされ、上宮のご分神をお鎮祭し創祀されました。 古くは御炊殿(おいどの)ともいわれ、神前にお供えする御饌(食事)を炊く竈殿(現下見や授与所)があり、農業・漁業をはじめとする一般産業の発展充実を御守りになる神様であります。上宮と同様に歴代の皇室をはじめ、国民の崇敬篤く、特に宇佐地方では「下宮参らにゃ片参り」と称されて親しまれております。また、一之神殿には、八幡大神を顕しになった大神比義命の霊を祀る大神祖神社が相殿として奉斎されております。
主神は、一之御殿に祀られている八幡大神の応神天皇であるが、ただ実際に宇佐神宮の本殿で主神の位置である中央に配置されているのは比売大神であり、なぜそうなっているのかは謎とされている。
文化財
当宮の建築様式は八幡造と呼ばれ、本殿は国宝に指定されている。また、宝物館には国宝・孔雀文磬(くじゃくもんけい)ほか多数の文化財を収めている。
国宝
本殿 (第一殿から第三殿に至る3棟)
孔雀文磬 (くじゃくもん けい) - 個人所有(宇佐神宮が文化財保護法に基づく管理団体に指定されている。鎌倉時代、承元3年(1209年)銘。宇佐神宮の神宮寺の弥勒寺に伝来したもの。
重要文化財(国指定)
木造神像5躯(若宮神体)
大鷦鷯命(おおさざきのみこと)坐像
大葉枝皇子(おおばえのみこ)坐像
小葉枝皇子(こばえのみこ)坐像
雌鳥皇女(めどりのみこ)坐像
隼総別皇子(はやぶさわけのみこ)坐像(若宮鎮座)
銅鐘(朝鮮鐘) - 天復四年(904年)云々の左文銘あり。日本にある朝鮮鐘の中では2番目に古い
白鞘入剣(しらさやいり けん) - 長さ93.5cm、両鎬造り。正平13年(1358年)懐良親王が征西大将軍として活躍している際に、武運長久を祈願して奉納した剣
豊前国宇佐宮絵図
宇佐神宮造営図 3幅
宇佐宮神領大鏡 - 個人所有(宇佐神宮が文化財保護法に基づく管理団体に指定されている)
出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
史跡(国指定)
宇佐神宮境内
天然記念物(国指定)
宇佐神宮社叢
現地情報
所在地
大分県宇佐市南宇佐2859
上宮参拝時間
4月から9月:5時30分から21時
10月から3月:6時から21時
祈祷の受付は9時から16時
交通アクセス
バス
宇佐駅(JR九州日豊本線)から、大交北部バス「四日市」「中津」行き乗車、「宇佐八幡」バス停下車 (乗車時間約10分)
車
宇佐別府道路 宇佐ICから、国道10号経由で約15分
2022年11月02日
全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社・大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。
概要
瀬戸内海に浮かぶ大三島西岸、神体山とする鷲ヶ頭山(標高436.5メートル)西麓に鎮座する。古くは大三島南東部に位置した。
三島神社や大山祇神社の総本社であり、山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた。大山積神を祀る代表的な神社ということもあり、山神社の総本社とされることもある。
境内には国の天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」がある。また、源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・国の重要文化財の指定をうけた日本の武具類の約8割がこの神社に集まっており、甲冑の保存は全国一である。社殿・武具等の文化財として国宝8件、国の重要文化財76件(2014年現在)を有し、これらは紫陽殿と国宝館に収納・一般公開されている。さらに、昭和天皇の「御採集船」として活躍した「葉山丸」と、四国の海に生息する魚介類や全国の鉱石、鉱物を展示した大三島海事博物館(葉山丸記念館)が併設されている。
近代においても、日本の初代総理大臣の伊藤博文、旧帝国海軍連合艦隊司令長官の山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの参拝があった。現在でも、海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝がある。
祭神
祭神は次の1柱。
大山積神(おおやまづみのかみ、おおやまつみのかみ)
別名として「和多志大神(わたしのおおかみ)」とも、「三島大明神」とも。伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子で、磐長姫命と木花開耶姫命(瓊瓊杵尊の妃)の父。
元は山の神であるが、大山祇神社が瀬戸内海の要所に位置することなどから、大山祇神社では海の神としての性格も強い。
大山祇神社では社名「大山祇」と祭神名「大山積」とは異なる表記が用いられているが、かつては社名も「大山積」と表記されている。
境内
一の鳥居 - 瀬戸内海に面して建てられている(北緯34度14分53.08秒 東経132度59分42.84秒)。「日本総鎮守 大山積大明神」の額は、重要文化財指定の木造扁額(伝藤原佐理筆)の写しになる。本社境内入り口に建てられている二の鳥居も額は同じ。昭和8年建立。
二の鳥居と社号標 - 道路から境内への入口
総門 - 2010年4月14日奉祝。二層構え総檜造り銅板葺き高さ12mで、両脇に随身像(像高2.5m)が立つ。元亨2年(1322年)に焼失してから688年ぶりに復元。
乎千命御手植の楠 - 現在は、息を止めて正面より右回りに3周すると願いが叶う、また、一緒に写真を撮ると長生きできるとの信仰がある。
神門 - 寛文元年(1661年)松山藩主松平定長からの寄進で、素木造の屋根は切妻造檜皮葺であったが、老朽化のため355年ぶりに建て替えられ、2016年12月4日竣工式が行われた。今まではいなかった随身像が両脇に鎮座し随神門となった。なお、元の神門は高梁市川面町の大山祇神社へ平成29年に移築され屋根は銅板に葺き替えられた。
「隼人の舞」の金色のブロンズ像 - 神門を入って左の回廊にある。2010年11月3日除幕。中村晋也の製作。
拝殿【重要文化財】
元亨2年(1322年)の兵火での焼失を受け、室町時代の応永34年(1427年)の再建によるもの。慶長7年(1602年)に大修理が実施されている。素木造で屋根は切妻造檜皮葺。正面中央に一間の向拝を設ける。
本殿【重要文化財】
拝殿と同じく応永34年(1427年)に再建されたもの。三間社流造、檜皮葺。
神門
本殿(重要文化財)と神水の井戸
文化財
大山祇神社の文化財には、日本刀、甲冑、弓箭具などの武器武具類の多いことが特色である。これらの多くは三島水軍の河野一族からの奉納品である。特に甲冑は日本の国宝・重要文化財指定品の4割が当神社にある。これらは紫陽殿および国宝館で一般公開されている。
出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
伝河野通信奉納の紺糸威鎧(兜、大袖付)(国宝)
伝源義経奉納の赤糸威鎧(大袖付)(国宝)
禽獣葡萄鏡(国宝)
現地情報
所在地
愛媛県今治市大三島町宮浦3327番地
付属施設
紫陽殿・国宝館
国宝・重要文化財含め、奉納された鎧・兜・刀剣類を展示。
海事博物館
昭和天皇の採集船である葉山丸を中心に、瀬戸内の動植物や全国の鉱山から奉納された鉱石を展示。
開館時間 8:30-17:00。料金 各館共通で大人1000円。
交通アクセス
バス
瀬戸内運輸・瀬戸内海交通バスで「大山祗神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
今治駅や松山市駅(瀬戸内運輸特急便の一部のみ)などを結ぶ瀬戸内運輸特急便・瀬戸内海交通急行便のほか、瀬戸内海交通の路線バス(宮浦港と出走を結ぶ路線)が停車する。
車
しまなみ海道(西瀬戸自動車道) 大三島IC - 西へ約4km。
東京から列車、バスで行く場合(一例)
@東京駅〜福山駅(広島県福山市):東海道・山陽新幹線
A福山駅〜大三島バスストップ:高速バス
B大三島バスストップ〜大山祗神社前:路線バスあるいはタクシー
全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。
概要
瀬戸内海に浮かぶ大三島西岸、神体山とする鷲ヶ頭山(標高436.5メートル)西麓に鎮座する。古くは大三島南東部に位置した。
三島神社や大山祇神社の総本社であり、山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた。大山積神を祀る代表的な神社ということもあり、山神社の総本社とされることもある。
境内には国の天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」がある。また、源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・国の重要文化財の指定をうけた日本の武具類の約8割がこの神社に集まっており、甲冑の保存は全国一である。社殿・武具等の文化財として国宝8件、国の重要文化財76件(2014年現在)を有し、これらは紫陽殿と国宝館に収納・一般公開されている。さらに、昭和天皇の「御採集船」として活躍した「葉山丸」と、四国の海に生息する魚介類や全国の鉱石、鉱物を展示した大三島海事博物館(葉山丸記念館)が併設されている。
近代においても、日本の初代総理大臣の伊藤博文、旧帝国海軍連合艦隊司令長官の山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの参拝があった。現在でも、海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝がある。
祭神
祭神は次の1柱。
大山積神(おおやまづみのかみ、おおやまつみのかみ)
別名として「和多志大神(わたしのおおかみ)」とも、「三島大明神」とも。伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子で、磐長姫命と木花開耶姫命(瓊瓊杵尊の妃)の父。
元は山の神であるが、大山祇神社が瀬戸内海の要所に位置することなどから、大山祇神社では海の神としての性格も強い。
大山祇神社では社名「大山祇」と祭神名「大山積」とは異なる表記が用いられているが、かつては社名も「大山積」と表記されている。
境内
一の鳥居 - 瀬戸内海に面して建てられている(北緯34度14分53.08秒 東経132度59分42.84秒)。「日本総鎮守 大山積大明神」の額は、重要文化財指定の木造扁額(伝藤原佐理筆)の写しになる。本社境内入り口に建てられている二の鳥居も額は同じ。昭和8年建立。
二の鳥居と社号標 - 道路から境内への入口
総門 - 2010年4月14日奉祝。二層構え総檜造り銅板葺き高さ12mで、両脇に随身像(像高2.5m)が立つ。元亨2年(1322年)に焼失してから688年ぶりに復元。
乎千命御手植の楠 - 現在は、息を止めて正面より右回りに3周すると願いが叶う、また、一緒に写真を撮ると長生きできるとの信仰がある。
神門 - 寛文元年(1661年)松山藩主松平定長からの寄進で、素木造の屋根は切妻造檜皮葺であったが、老朽化のため355年ぶりに建て替えられ、2016年12月4日竣工式が行われた。今まではいなかった随身像が両脇に鎮座し随神門となった。なお、元の神門は高梁市川面町の大山祇神社へ平成29年に移築され屋根は銅板に葺き替えられた。
「隼人の舞」の金色のブロンズ像 - 神門を入って左の回廊にある。2010年11月3日除幕。中村晋也の製作。
拝殿【重要文化財】
元亨2年(1322年)の兵火での焼失を受け、室町時代の応永34年(1427年)の再建によるもの。慶長7年(1602年)に大修理が実施されている。素木造で屋根は切妻造檜皮葺。正面中央に一間の向拝を設ける。
本殿【重要文化財】
拝殿と同じく応永34年(1427年)に再建されたもの。三間社流造、檜皮葺。
神門
本殿(重要文化財)と神水の井戸
文化財
大山祇神社の文化財には、日本刀、甲冑、弓箭具などの武器武具類の多いことが特色である。これらの多くは三島水軍の河野一族からの奉納品である。特に甲冑は日本の国宝・重要文化財指定品の4割が当神社にある。これらは紫陽殿および国宝館で一般公開されている。
出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
伝河野通信奉納の紺糸威鎧(兜、大袖付)(国宝)
伝源義経奉納の赤糸威鎧(大袖付)(国宝)
禽獣葡萄鏡(国宝)
現地情報
所在地
愛媛県今治市大三島町宮浦3327番地
付属施設
紫陽殿・国宝館
国宝・重要文化財含め、奉納された鎧・兜・刀剣類を展示。
海事博物館
昭和天皇の採集船である葉山丸を中心に、瀬戸内の動植物や全国の鉱山から奉納された鉱石を展示。
開館時間 8:30-17:00。料金 各館共通で大人1000円。
交通アクセス
バス
瀬戸内運輸・瀬戸内海交通バスで「大山祗神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
今治駅や松山市駅(瀬戸内運輸特急便の一部のみ)などを結ぶ瀬戸内運輸特急便・瀬戸内海交通急行便のほか、瀬戸内海交通の路線バス(宮浦港と出走を結ぶ路線)が停車する。
車
しまなみ海道(西瀬戸自動車道) 大三島IC - 西へ約4km。
東京から列車、バスで行く場合(一例)
@東京駅〜福山駅(広島県福山市):東海道・山陽新幹線
A福山駅〜大三島バスストップ:高速バス
B大三島バスストップ〜大山祗神社前:路線バスあるいはタクシー
2022年11月01日
江戸時代の建築物。重要文化財に指定・伊藤家住宅(いとうけじゅうたく)
伊藤家住宅(いとうけじゅうたく)は、岩手県花巻市東和町に所在する江戸時代の建築物。重要文化財に指定されている。
概要
1600年(慶長5年)には伊藤氏の先祖は当地に居住していたと伝わる。建築年代については明確な資料はないが18世紀前半と推定される。建物は南面し、主屋部に小規模な馬屋を突出している。建物のある田瀬ダムの南覚間沢の山間部は、旧仙台藩領江刺郡との藩境に接した盛岡藩領最南端部にあたり、直家と曲り家の混在する地域である。1976年(昭和51年)2月3日、重要文化財に指定され、1977年から翌年にかけて補修工事が行われた。1979年の解体工事の際、明治以降に馬屋を増設し、曲り家に改造したことが判明したため、建造当時の直家に復元された。
建築
桁行13.7m、梁間8.7m、寄棟造、茅葺、南北面土庇付。南面突出部桁行5.6m、梁間4.8m。
交通アクセス
釜石線土沢駅よりタクシーで40分
釜石自動車道江刺田瀬インターチェンジより車で15分
用途 住宅
管理運営 ふるさと歴史資料館
所在地 〒028-0123
岩手県花巻市東和町田瀬第1地割170番地
座標 北緯39度17分11.4秒 東経141度18分47.8秒
文化財 重要文化財
指定・登録等日 1976年2月3日
概要
1600年(慶長5年)には伊藤氏の先祖は当地に居住していたと伝わる。建築年代については明確な資料はないが18世紀前半と推定される。建物は南面し、主屋部に小規模な馬屋を突出している。建物のある田瀬ダムの南覚間沢の山間部は、旧仙台藩領江刺郡との藩境に接した盛岡藩領最南端部にあたり、直家と曲り家の混在する地域である。1976年(昭和51年)2月3日、重要文化財に指定され、1977年から翌年にかけて補修工事が行われた。1979年の解体工事の際、明治以降に馬屋を増設し、曲り家に改造したことが判明したため、建造当時の直家に復元された。
建築
桁行13.7m、梁間8.7m、寄棟造、茅葺、南北面土庇付。南面突出部桁行5.6m、梁間4.8m。
交通アクセス
釜石線土沢駅よりタクシーで40分
釜石自動車道江刺田瀬インターチェンジより車で15分
用途 住宅
管理運営 ふるさと歴史資料館
所在地 〒028-0123
岩手県花巻市東和町田瀬第1地割170番地
座標 北緯39度17分11.4秒 東経141度18分47.8秒
文化財 重要文化財
指定・登録等日 1976年2月3日
2022年10月31日
鹿島神宮(かしまじんぐう、鹿嶋神宮)は、茨城県鹿嶋市宮中にある神社
鹿島神宮(かしまじんぐう、鹿嶋神宮)は、茨城県鹿嶋市宮中にある神社。式内社(名神大社)、常陸国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある鹿島神社の総本社。千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。
拝殿(国の重要文化財)
社名
神宮は常陸国鹿島郡の地に鎮座するが、その地名「カシマ」は、『常陸国風土記』では「香島」と記載される。風土記の中で、「香島郡」の名称は「香島の天の大神」(鹿島神宮を指す)に基づくと説明されている。「カシマ」を「鹿島」と記した初見は養老7年(723年)であり、8世紀初頭には「香島」から「鹿島」に改称されたと見られている。この変化の理由は史書からは明らかでないが、神宮側では神使の鹿に由来すると説明する。この「カシマ」の由来には諸説がある。主な説は次の通り。
「神の住所」すなわち「カスミ」とする説
建借間命(たけかしまのみこと)から「カシマ」を取ったとする説
建借間命(建借馬命)は、『先代旧事本紀』国造本紀に初代仲国造(那珂国造)として、また『常陸国風土記』に記述が見える人物。
「船を止める杭を打つ場所」を意味する「カシシマ」とする説
『肥前国風土記』に「杵島(きしま)」の由来として見える記述に基づくもの。
なお、神宮では現在社名に「島」の字を用いているが、自治体の茨城県鹿嶋市は佐賀県鹿島市との区別のため「嶋」の字が使用される。
祭神
江戸時代の鯰絵。上が要石を祀る鹿島神宮、下が剣をもち大鯰を抑える武甕槌神。
祭神は次の1柱。
武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ/たけみかづちのおおかみ)
『古事記』では「建御雷神」、『日本書紀』では「武甕槌神」と表記される。
別名を「建布都神(たけふつのかみ)」や「豊布都神(とよふつのかみ)」。
境内
神宮の鎮座する地は「三笠山(みかさやま)」と称される。この境内は日本の歴史上重要な遺跡であるとして、国の史跡に指定されている(摂社坂戸神社境内、摂社沼尾神社境内、鹿島郡家跡も包括)。
境内の広さは約70ヘクタールである。このうち約40ヘクタールは鬱蒼とした樹叢で、「鹿島神宮樹叢」として茨城県指定天然記念物に指定されている。樹叢には約800種の植物が生育しており、神宮の長い歴史を象徴するように巨木が多く、茨城県内では随一の常緑照葉樹林になる。
文化財
国宝
直刀・黒漆平文大刀拵(ちょくとう・くろうるしひょうもんたちごしらえ) (附 刀唐櫃)(工芸品)
通称「韴霊剣」。昭和30年6月22日指定。
重要文化財(国指定)
本殿、石の間、拝殿、幣殿 4棟(附 棟札2枚)(建造物) - 本殿は明治34年3月27日指定、他3棟は明治44年4月17日指定。
摂社奥宮本殿(附 棟札1枚)(建造物) - 明治34年3月27日指定。
楼門(建造物) - 昭和41年6月11日指定。
仮殿(建造物) - 昭和51年5月20日指定。
梅竹蒔絵鞍(附 四手蒔絵居木一双)(工芸品)
鎌倉時代の作で、蒔絵の和鞍の中で最古のものである。社伝では『吾妻鏡』建久2年(1191年)の記事にある源頼朝寄進の軍陣鞍とするが、通常の軍陣鞍とは様式が異なっており、祭事に使用したものと推測されている。昭和34年6月27日指定。
国の史跡
鹿島神宮境内 附 郡家跡 - 指定対象は次の4か所。昭和61年8月4日指定、平成元年・11年・13年・17年・20年に追加指定。
鹿島神宮境内
摂社坂戸神社境内
摂社沼尾神社境内
鹿島郡家跡
現地情報
所在地
茨城県鹿嶋市宮中2306-1
付属施設
宝物館 - 開館時間:午前9時から午後4時。直刀(国宝)等の宝物を展示。
交通アクセス
鉄道
東日本旅客鉄道(JR東日本)鹿島線「鹿島神宮駅」(徒歩10分) - 鹿島臨海鉄道大洗鹿島線も乗り入れ。
高速バス
都心方面(東京駅・羽田空港・東京テレポート駅)から、高速バス「鹿島神宮」バス停下車(徒歩7分)。(次のバス停である「鹿島神宮駅」との混同に注意が必要)
車
東京・千葉方面からは、東関東自動車道 潮来ICから、国道51号を鹿嶋方面へ約20分。
銚子・神栖方面からは、国道124号を経由、水戸方面からは、国道51号をそれぞれ経由。
駐車場:鹿島神宮第1・第2駐車場(有料)のほか、市営駐車場(有料)が鹿島神宮駅周辺に点在。
全国にある鹿島神社の総本社。千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。
拝殿(国の重要文化財)
社名
神宮は常陸国鹿島郡の地に鎮座するが、その地名「カシマ」は、『常陸国風土記』では「香島」と記載される。風土記の中で、「香島郡」の名称は「香島の天の大神」(鹿島神宮を指す)に基づくと説明されている。「カシマ」を「鹿島」と記した初見は養老7年(723年)であり、8世紀初頭には「香島」から「鹿島」に改称されたと見られている。この変化の理由は史書からは明らかでないが、神宮側では神使の鹿に由来すると説明する。この「カシマ」の由来には諸説がある。主な説は次の通り。
「神の住所」すなわち「カスミ」とする説
建借間命(たけかしまのみこと)から「カシマ」を取ったとする説
建借間命(建借馬命)は、『先代旧事本紀』国造本紀に初代仲国造(那珂国造)として、また『常陸国風土記』に記述が見える人物。
「船を止める杭を打つ場所」を意味する「カシシマ」とする説
『肥前国風土記』に「杵島(きしま)」の由来として見える記述に基づくもの。
なお、神宮では現在社名に「島」の字を用いているが、自治体の茨城県鹿嶋市は佐賀県鹿島市との区別のため「嶋」の字が使用される。
祭神
江戸時代の鯰絵。上が要石を祀る鹿島神宮、下が剣をもち大鯰を抑える武甕槌神。
祭神は次の1柱。
武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ/たけみかづちのおおかみ)
『古事記』では「建御雷神」、『日本書紀』では「武甕槌神」と表記される。
別名を「建布都神(たけふつのかみ)」や「豊布都神(とよふつのかみ)」。
境内
神宮の鎮座する地は「三笠山(みかさやま)」と称される。この境内は日本の歴史上重要な遺跡であるとして、国の史跡に指定されている(摂社坂戸神社境内、摂社沼尾神社境内、鹿島郡家跡も包括)。
境内の広さは約70ヘクタールである。このうち約40ヘクタールは鬱蒼とした樹叢で、「鹿島神宮樹叢」として茨城県指定天然記念物に指定されている。樹叢には約800種の植物が生育しており、神宮の長い歴史を象徴するように巨木が多く、茨城県内では随一の常緑照葉樹林になる。
文化財
国宝
直刀・黒漆平文大刀拵(ちょくとう・くろうるしひょうもんたちごしらえ) (附 刀唐櫃)(工芸品)
通称「韴霊剣」。昭和30年6月22日指定。
重要文化財(国指定)
本殿、石の間、拝殿、幣殿 4棟(附 棟札2枚)(建造物) - 本殿は明治34年3月27日指定、他3棟は明治44年4月17日指定。
摂社奥宮本殿(附 棟札1枚)(建造物) - 明治34年3月27日指定。
楼門(建造物) - 昭和41年6月11日指定。
仮殿(建造物) - 昭和51年5月20日指定。
梅竹蒔絵鞍(附 四手蒔絵居木一双)(工芸品)
鎌倉時代の作で、蒔絵の和鞍の中で最古のものである。社伝では『吾妻鏡』建久2年(1191年)の記事にある源頼朝寄進の軍陣鞍とするが、通常の軍陣鞍とは様式が異なっており、祭事に使用したものと推測されている。昭和34年6月27日指定。
国の史跡
鹿島神宮境内 附 郡家跡 - 指定対象は次の4か所。昭和61年8月4日指定、平成元年・11年・13年・17年・20年に追加指定。
鹿島神宮境内
摂社坂戸神社境内
摂社沼尾神社境内
鹿島郡家跡
現地情報
所在地
茨城県鹿嶋市宮中2306-1
付属施設
宝物館 - 開館時間:午前9時から午後4時。直刀(国宝)等の宝物を展示。
交通アクセス
鉄道
東日本旅客鉄道(JR東日本)鹿島線「鹿島神宮駅」(徒歩10分) - 鹿島臨海鉄道大洗鹿島線も乗り入れ。
高速バス
都心方面(東京駅・羽田空港・東京テレポート駅)から、高速バス「鹿島神宮」バス停下車(徒歩7分)。(次のバス停である「鹿島神宮駅」との混同に注意が必要)
車
東京・千葉方面からは、東関東自動車道 潮来ICから、国道51号を鹿嶋方面へ約20分。
銚子・神栖方面からは、国道124号を経由、水戸方面からは、国道51号をそれぞれ経由。
駐車場:鹿島神宮第1・第2駐車場(有料)のほか、市営駐車場(有料)が鹿島神宮駅周辺に点在。
2022年10月30日
尾崎神社(おざきじんじゃ)は、石川県金沢市にある神社
尾崎神社(おざきじんじゃ)は、石川県金沢市にある神社。天照大神、東照大権現、加賀藩三代藩主前田利常を祀る。朱塗りの社殿には徳川家康の紋が散りばめられ、金沢城の江戸、北陸の日光と呼ばれ崇められた。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。別名を金沢東照宮という。
尾崎神社
歴史
寛永20年(1643年)に加賀藩四代藩主前田光高が金沢城北の丸に東照三所大権現社として建立する。1874年(明治7年)、神仏分離により尾崎神社と改称する。
1878年(明治11年)、金沢城が陸軍省用地となり、現在地に移築された。
祭神
主祭神 - 天照大神、東照大権現、前田利常
境内
本殿
中門
幣殿
拝殿
神門
豊受稲荷社
裏門
文化財
重要文化財
本殿- 江戸時代初期、寛永20年(1643年)建立、三間社流造 本瓦型銅板葺、大工木原木工允
中門 - 江戸時代初期、寛永20年(1643年)建立、平唐門 本瓦型銅板葺、大工木原木工允
透塀 - 江戸時代初期、寛永20年(1643年)建立、桟瓦葺、大工木原木工允
拝殿及び幣殿[5] - 江戸時代初期、寛永20年(1643年)建立、入母屋造 平入 向拝一間 本瓦型銅板葺、大工木原木工允
附棟札3枚
所在地
〒920-0937 石川県金沢市丸の内5-5
交通アクセス
JR北陸本線 金沢駅東口下車 北陸鉄道バス 南町もしくは武蔵ヶ辻バス停下車
尾崎神社
歴史
寛永20年(1643年)に加賀藩四代藩主前田光高が金沢城北の丸に東照三所大権現社として建立する。1874年(明治7年)、神仏分離により尾崎神社と改称する。
1878年(明治11年)、金沢城が陸軍省用地となり、現在地に移築された。
祭神
主祭神 - 天照大神、東照大権現、前田利常
境内
本殿
中門
幣殿
拝殿
神門
豊受稲荷社
裏門
文化財
重要文化財
本殿- 江戸時代初期、寛永20年(1643年)建立、三間社流造 本瓦型銅板葺、大工木原木工允
中門 - 江戸時代初期、寛永20年(1643年)建立、平唐門 本瓦型銅板葺、大工木原木工允
透塀 - 江戸時代初期、寛永20年(1643年)建立、桟瓦葺、大工木原木工允
拝殿及び幣殿[5] - 江戸時代初期、寛永20年(1643年)建立、入母屋造 平入 向拝一間 本瓦型銅板葺、大工木原木工允
附棟札3枚
所在地
〒920-0937 石川県金沢市丸の内5-5
交通アクセス
JR北陸本線 金沢駅東口下車 北陸鉄道バス 南町もしくは武蔵ヶ辻バス停下車
2022年10月29日
水神社(すいじんじゃ)は、秋田県大仙市にある神社
水神社(すいじんじゃ)は、秋田県大仙市にある神社。
祭事
1月16日:初お篭り
4月上旬:春まつり
7月上旬:虫まつり
8月17日:例祭
11月23日:秋まつり
12月16日:末まつり
歴史
1677年(延宝5年):線刻千手観音等鏡像が発見され、これを祀るため水神社が建立される。
1938年(昭和13年):線刻千手観音等鏡像が旧・国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される。
1953年(昭和28年):線刻千手観音等鏡像が文化財保護法に基づく国宝に指定される。
文化財
線刻千手観音等鏡像
現在秋田県唯一の国宝であり水神社の神体であるこの鏡は、もともとこの神社に奉納されるために作られたのではなく、工事中に偶然発見されたものである。1677年(延宝5年)玉川から窪堰川まで水路(下堰)を引いている途中、野中村三采女谷地(みむねやち)の地中1.5mから古鏡が発見され藩主の佐竹義処に差し出したところ、堰神として祀るようにと言われた。そのためこの水路を掘っていた草g理左エ門が水神社を創建し奉納した。1938年(昭和13年)7月4日、「瑞花蝶鳥八稜鏡(ずいかちょうちょうはちりょうきょう)」の名称で旧国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定され、1953年(昭和28年)11月14日には「線刻千手観音等鏡像(せんこくせんじゅかんのんとうきょうぞう)」の名称で文化財保護法に基づく国宝の指定を受けた。その後11月14日は発見地中仙町の町の記念日となった。
「鏡像」とは、金属製の鏡の表面に仏・菩薩などの像を線刻等で表したものである。本作品の鏡の直径は13.5cm、厚さ7mm、重さ520gの白銅製。鏡面には細い線で仏像が彫られている。鏡面中央には蓮台に立った十一面千手観音像を表し、左右に眷属8体、向かって右下に婆藪仙人(ばすせんにん)、左下に功徳天が配されている。鏡背は中央につまみがありそれを囲むように蝶、鳥、さらにその外側に宝相華が表されている。鏡背の模様の上には「仏師僧 崇紀 大趣具主延暦僧仁祐 女具主藤源安女子」の線刻銘がある。作風や銘文から、鏡自体は平安時代初期、線刻は平安時代後期(11世紀)の制作と推定される。銘文中の「仏師僧崇紀」(鏡面の線刻を行った僧)については不詳。「具主」は「旦主」すなわち施主の意であり、「延暦僧仁祐」は、11世紀半ばに延暦寺で活動した同名の学僧に比定される。「藤源安女子」は「源安の娘」の意であり、源安(みなもとのやすし)は源綱(渡辺綱)の孫にあたる武士である。
線刻千手観音像等鏡像を見られるのは年に一度の例祭の中で公開される僅か一時間ほどであるが、レプリカは中仙市民会館に常時展示されている。現物は本殿に保管されていたが、環境が悪かったため2007年11月16日本殿奥に新たに建造された専用の保管庫に移された。
国宝・線刻千手観音等鏡像
水神社の杉
水神社の鎮守の森は1679年(延宝7年)に植えられたスギ等で構成されており、そのうち4本のスギが大仙市の天然記念物に指定されている。
交通
JR 田沢湖線 羽後長野駅(最寄り駅)
秋田県道306号豊岡長野線 - 秋田県道11号角館六郷線約5km
駐車場有り
所在地 秋田県大仙市豊川字観音堂57番
位置 北緯39度33分1秒 東経140度35分14秒
主祭神 水波能売命
本殿の様式 入母屋流造
例祭 8月17日
祭事
1月16日:初お篭り
4月上旬:春まつり
7月上旬:虫まつり
8月17日:例祭
11月23日:秋まつり
12月16日:末まつり
歴史
1677年(延宝5年):線刻千手観音等鏡像が発見され、これを祀るため水神社が建立される。
1938年(昭和13年):線刻千手観音等鏡像が旧・国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される。
1953年(昭和28年):線刻千手観音等鏡像が文化財保護法に基づく国宝に指定される。
文化財
線刻千手観音等鏡像
現在秋田県唯一の国宝であり水神社の神体であるこの鏡は、もともとこの神社に奉納されるために作られたのではなく、工事中に偶然発見されたものである。1677年(延宝5年)玉川から窪堰川まで水路(下堰)を引いている途中、野中村三采女谷地(みむねやち)の地中1.5mから古鏡が発見され藩主の佐竹義処に差し出したところ、堰神として祀るようにと言われた。そのためこの水路を掘っていた草g理左エ門が水神社を創建し奉納した。1938年(昭和13年)7月4日、「瑞花蝶鳥八稜鏡(ずいかちょうちょうはちりょうきょう)」の名称で旧国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定され、1953年(昭和28年)11月14日には「線刻千手観音等鏡像(せんこくせんじゅかんのんとうきょうぞう)」の名称で文化財保護法に基づく国宝の指定を受けた。その後11月14日は発見地中仙町の町の記念日となった。
「鏡像」とは、金属製の鏡の表面に仏・菩薩などの像を線刻等で表したものである。本作品の鏡の直径は13.5cm、厚さ7mm、重さ520gの白銅製。鏡面には細い線で仏像が彫られている。鏡面中央には蓮台に立った十一面千手観音像を表し、左右に眷属8体、向かって右下に婆藪仙人(ばすせんにん)、左下に功徳天が配されている。鏡背は中央につまみがありそれを囲むように蝶、鳥、さらにその外側に宝相華が表されている。鏡背の模様の上には「仏師僧 崇紀 大趣具主延暦僧仁祐 女具主藤源安女子」の線刻銘がある。作風や銘文から、鏡自体は平安時代初期、線刻は平安時代後期(11世紀)の制作と推定される。銘文中の「仏師僧崇紀」(鏡面の線刻を行った僧)については不詳。「具主」は「旦主」すなわち施主の意であり、「延暦僧仁祐」は、11世紀半ばに延暦寺で活動した同名の学僧に比定される。「藤源安女子」は「源安の娘」の意であり、源安(みなもとのやすし)は源綱(渡辺綱)の孫にあたる武士である。
線刻千手観音像等鏡像を見られるのは年に一度の例祭の中で公開される僅か一時間ほどであるが、レプリカは中仙市民会館に常時展示されている。現物は本殿に保管されていたが、環境が悪かったため2007年11月16日本殿奥に新たに建造された専用の保管庫に移された。
国宝・線刻千手観音等鏡像
水神社の杉
水神社の鎮守の森は1679年(延宝7年)に植えられたスギ等で構成されており、そのうち4本のスギが大仙市の天然記念物に指定されている。
交通
JR 田沢湖線 羽後長野駅(最寄り駅)
秋田県道306号豊岡長野線 - 秋田県道11号角館六郷線約5km
駐車場有り
所在地 秋田県大仙市豊川字観音堂57番
位置 北緯39度33分1秒 東経140度35分14秒
主祭神 水波能売命
本殿の様式 入母屋流造
例祭 8月17日
2022年10月28日
国の重要文化財に指定されている・石場家住宅(いしばけじゅうたく)
石場家住宅(いしばけじゅうたく)は、青森県弘前市亀甲町にある商家にして歴史的建造物。国の重要文化財に指定されている。
概要
石場家は江戸時代、弘前藩出入りの商家であり、主に藁製品を取り扱っていたが、時代と共に扱う物も変遷し、今は酒と煙草の販売を行いながらも、連綿と家名を守り続けている。石場家の由来ははっきりしないが、菩提寺に元禄期の墓碑が残っていることから、少なくとも18世紀初頭から続く家柄であろう。当主は代々「清兵衛」を名乗った。
石場家住宅は度々改築が行われたが、最初の建築は18世紀前半であり、主屋は初め他所にあった物を19世紀初頭、現在地(弘前城北部の亀甲門前)に移築したと推定されている。
石場家住宅は、1973年(昭和48年)2月23日に国の重要文化財に指定された。現在も住居として使われているが、内部を見学することが出来る。
構造
敷地は正面37.9m、奥行き39.6m。
桁行18.1m、梁間18.2m、一部は二階建てとなっている。
屋根は南面が入母屋造、北面、東面突出部、北面突出部が切妻造、出入り口は妻入り。
東面突出部 桁行5.7m、梁間8.3m。
北面突出部 桁行2.8m、梁間9.2m。
主屋は角地にあり南面と西面が通りに面しており、津軽地方独特の「こみせ」(雨や雪をしのぐ、木造のアーケード)がある。
所在地
〒036-8332 青森県弘前市亀甲町88
アクセス
JR弘前駅より弘南バス浜の町方面行きに乗車、「亀の甲門前」にて下車徒歩1分。
概要
石場家は江戸時代、弘前藩出入りの商家であり、主に藁製品を取り扱っていたが、時代と共に扱う物も変遷し、今は酒と煙草の販売を行いながらも、連綿と家名を守り続けている。石場家の由来ははっきりしないが、菩提寺に元禄期の墓碑が残っていることから、少なくとも18世紀初頭から続く家柄であろう。当主は代々「清兵衛」を名乗った。
石場家住宅は度々改築が行われたが、最初の建築は18世紀前半であり、主屋は初め他所にあった物を19世紀初頭、現在地(弘前城北部の亀甲門前)に移築したと推定されている。
石場家住宅は、1973年(昭和48年)2月23日に国の重要文化財に指定された。現在も住居として使われているが、内部を見学することが出来る。
構造
敷地は正面37.9m、奥行き39.6m。
桁行18.1m、梁間18.2m、一部は二階建てとなっている。
屋根は南面が入母屋造、北面、東面突出部、北面突出部が切妻造、出入り口は妻入り。
東面突出部 桁行5.7m、梁間8.3m。
北面突出部 桁行2.8m、梁間9.2m。
主屋は角地にあり南面と西面が通りに面しており、津軽地方独特の「こみせ」(雨や雪をしのぐ、木造のアーケード)がある。
所在地
〒036-8332 青森県弘前市亀甲町88
アクセス
JR弘前駅より弘南バス浜の町方面行きに乗車、「亀の甲門前」にて下車徒歩1分。