旧高取家住宅(きゅうたかとりけじゅうたく)は、佐賀県唐津市にある伝統的建築物。
概要
「肥前の炭鉱王」として知られる高取伊好が1904年に自宅として建築したもので、その後昭和初期にかけて増築され現在の規模になった。
敷地は面積が約2300坪で唐津湾に面しており、建物は居室棟と大広間棟の2つからなっている。和風建築ながら洋間を持ち、また大理石のマントルピースやアールヌーボー調のシャンデリアを取り入れるなど、明治期の邸宅に特徴的な和風建築に洋風の要素を取り入れたつくりとなっている。また、大広間棟には能舞台や茶室が設けられており、座敷に仕組まれた能舞台は唯一の現存例なのではないかと言われている。杉戸絵や欄間などの意匠も特筆すべき点の1つで、このうち72枚ある杉戸絵については京都四条派の水野香圃が半年ほど滞在して制作したものとされている。その他、玄関が来賓用・主人用・家族用と3つ存在するなどの特徴もある。
1991年の台風により損傷し、当時の高取家当主は解体の意向を示していたが、唐津市内にある旅館の女将らが中心となって保存運動を展開。これにより多くの専門家らが当邸宅を訪れるようになり注目を浴びた。その後、1997年に当邸宅が高取家から唐津市に寄贈され、翌1998年に国の重要文化財に指定。2001年より文化庁の指導の下で保存・修復工事を行い、昭和初期の姿に再現。2007年より「旧高取邸」として一般公開されている。
なお、旧高取家住宅(旧高取邸)の南側には高取伊好が娘婿夫婦のために建てた舞鶴荘がある。
利用情報
所在地
佐賀県唐津市北城内5-40
入館料
一般510円、高校生250円
開館時間
9時30分 - 17時00分
休館日
毎週月曜日(祝日の場合は開館、直後の平日を休館)・年末年始(12月29日〜1月3日)
交通アクセス
JR九州唐津線唐津駅下車、徒歩15分(約1.2km)。
博多バスターミナルより昭和バス「からつ号」に乗車し、唐津大手口バスセンター下車、徒歩8分(約650m)。
マイカーの場合、西九州自動車道唐津インターチェンジから北西(唐津市街方面)へ向かい約15分(約7.3km)。
駐車場あり
竣工 1904年
座標 北緯33度27分15.8秒 東経129度58分19.5秒
文化財 国の重要文化財
2022年11月16日
2022年11月15日
出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)は埼玉県入間郡毛呂山町に鎮座する神社
出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)は埼玉県入間郡毛呂山町に鎮座する神社。旧社格は郷社。式内小社「出雲伊波比神社」の論社の1つ。
埼玉県内で唯一流鏑馬が毎年奉納される。
拝殿
歴史
創建について、社伝(『臥龍山宮伝記』)では、景行天皇53年に日本武尊が天皇より下賜された鉾を奉納して大己貴命を祀ったのち、成務天皇の代に武蔵国造がアメノホヒを合祀して出雲伊波比神としたとされる。
奈良時代の宝亀3年(772年)に官幣社として幣帛を受けた記録が太政官符にある。
平安時代の延喜式神名帳では入間郡鎮座5社の筆頭とされた。
現在の社殿は、大永7年(1527年)の焼失翌年に再建されたものである。
本殿
文化財
重要文化財(国指定)
本殿(附:棟札2枚) - 一間社流造、銅板葺、大永8年(1528年)建立
手水舎
流鏑馬
当社の流鏑馬は康平6年(1063年)に源義家が奉納したものが発祥とされる。2010年代現在では春秋の2回開催されるが、春は7歳未満の男児が騎乗して1度だけ矢を射る儀式(願的)をおこなうものである。本格的な騎射(夕的)が実施されるのは秋の本祭りで、こちらは15歳程度の少年が騎乗し、3頭の馬(祭礼区ごとに1頭)による3回の騎射がおこなわれる。
開催日時(本祭り):毎年11月3日(文化の日)
朝的 午前9時ごろから10時30分ごろまで
夕的 午後2時30分から5時ごろ
所在地
〒350-0465 埼玉県入間郡毛呂山町岩井西5丁目17-1
交通アクセス
JR東日本八高線毛呂駅から徒歩5分
東武越生線東毛呂駅から徒歩10分
関越自動車道鶴ヶ島インターチェンジまたは首都圏中央連絡自動車道圏央鶴ヶ島インターチェンジより車で約15分
位置 北緯35度56分32.7秒 東経139度18分40.7秒
主祭神 大己貴命
天穂日命
社格等 郷社
創建 景行天皇53年
本殿の様式 一間社流造
例祭 11月3日
主な神事 出雲伊波比神社のやぶさめ
埼玉県内で唯一流鏑馬が毎年奉納される。
拝殿
歴史
創建について、社伝(『臥龍山宮伝記』)では、景行天皇53年に日本武尊が天皇より下賜された鉾を奉納して大己貴命を祀ったのち、成務天皇の代に武蔵国造がアメノホヒを合祀して出雲伊波比神としたとされる。
奈良時代の宝亀3年(772年)に官幣社として幣帛を受けた記録が太政官符にある。
平安時代の延喜式神名帳では入間郡鎮座5社の筆頭とされた。
現在の社殿は、大永7年(1527年)の焼失翌年に再建されたものである。
本殿
文化財
重要文化財(国指定)
本殿(附:棟札2枚) - 一間社流造、銅板葺、大永8年(1528年)建立
手水舎
流鏑馬
当社の流鏑馬は康平6年(1063年)に源義家が奉納したものが発祥とされる。2010年代現在では春秋の2回開催されるが、春は7歳未満の男児が騎乗して1度だけ矢を射る儀式(願的)をおこなうものである。本格的な騎射(夕的)が実施されるのは秋の本祭りで、こちらは15歳程度の少年が騎乗し、3頭の馬(祭礼区ごとに1頭)による3回の騎射がおこなわれる。
開催日時(本祭り):毎年11月3日(文化の日)
朝的 午前9時ごろから10時30分ごろまで
夕的 午後2時30分から5時ごろ
所在地
〒350-0465 埼玉県入間郡毛呂山町岩井西5丁目17-1
交通アクセス
JR東日本八高線毛呂駅から徒歩5分
東武越生線東毛呂駅から徒歩10分
関越自動車道鶴ヶ島インターチェンジまたは首都圏中央連絡自動車道圏央鶴ヶ島インターチェンジより車で約15分
位置 北緯35度56分32.7秒 東経139度18分40.7秒
主祭神 大己貴命
天穂日命
社格等 郷社
創建 景行天皇53年
本殿の様式 一間社流造
例祭 11月3日
主な神事 出雲伊波比神社のやぶさめ
2022年11月14日
小村神社(おむらじんじゃ)は、高知県高岡郡日高村下分にある神社
小村神社(おむらじんじゃ)は、高知県高岡郡日高村下分にある神社。国史見在社、土佐国二宮で、旧社格は県社。
小村神社 拝殿
祭神
祭神は次の1柱。
国常立命(くにとこたちのみこと)
国宝の金銅荘環頭大刀を神体とし、『南路志』にも「神体剣」と見える。中世における本地仏は大日如来であった。
鳥居
境内
現在の社殿は、江戸時代中期の宝永2年(1705年)の造営。本殿・幣殿・拝殿から成る複合社殿である。本殿は流造銅板葺で、この本殿前に接続する幣殿・拝殿は平面に「十」字形を成し、屋根は同じく銅板葺である。これらは拝殿を頭としたトンボ(蜻蛉)が飛び出す形を表すとされ、「出蜻蛉(でとんぼ)」形式と称される。これらの社殿は日高村指定有形文化財に指定されている[1]。このような出蜻蛉式社殿の類例としては、他に若宮八幡宮(高知市長浜)社殿が知られる。
本殿背後には、「燈明杉」と称されるボタンスギ(牡丹杉)が生育する。伝承では樹齢1,000年といわれ、樹高25メートル、胸高直径270センチメートルを測る巨木である。下枝部の葉は一般的な杉型であるが、上枝部の葉は牡丹杉型を示す珍しい特徴を有している。当地の伝説では、宝永2年(1705年)の仁淀川洪水や、安政元年(1854年)の安政南海地震、日露戦争などの異変に際して梢に霊火が点灯したといい、「燈明杉」の名はこれに由来する。このボタンスギは日高村指定天然記念物に指定されている。
本殿と燈明杉
社殿全景
文化財
国宝
金銅荘環頭大刀拵・大刀身(工芸品)
「こんどうそうかんとうたちごしらえ・たちのみ」。古墳時代末期(飛鳥時代)の7世紀前半に作られた、直刀(反りのない片刃の刀)とその外装である(装飾付大刀)。柄(つか)と鞘は金銅(銅に鍍金)の板で包み(金銅荘)、柄の先端部に「環頭」と称される金銅製透彫の装飾を付す。各所の寸法は次の通り。
総長118.8cm、柄頭長7.4cm、柄長19.4cm、鞘長92.1cm、刀身の刃長68.3cm、茎(なかご)長さ11.2cm[注 1]
柄頭(つかがしら)は、金銅板金で形成した環の内側に、同じく金銅板金に透彫で双竜文を表す。柄と鞘は木地に金銅張り。柄は責金(せめがね)で2区に分け、片方にはX字状文、もう片方には連続山形文をそれぞれ点線打込みで表す。鞘は足金物と責金で4区に分け、鞘口と鞘尻は無文、これらに挟まれた中央部は、佩表(はきおもて)に並列連珠文を打出し、佩裏は柄と同様の山形文とする。
刀身は正倉院の大刀に見られるような切刃造の直刀である。この種の上古刀の現存品はほとんどが古墳等からの出土品であるが、本品は伝世品である点で貴重であり、日本刀剣史上重要な作品とされる。
なお、平安時代以降に製作された反りのある日本刀を「太刀」と称するのに対し、それ以前の直刀は「大刀」(読みはどちらも「たち」)と表記して区別することが慣例となっている。
この大刀が小村神社で祀られるようになった確かな由来は不明であるが、『南路志』に「神体剣」と見えるように古来神体として本殿奥深くに祀られていた。1955年(昭和30年)の国の調査で詳細が判明し、1956年(昭和31年)6月28日に国の重要文化財に、1958年(昭和33年)2月8日に国宝に指定された。
現在、実物は他の宝物とともに11月15日の秋季大祭時にのみ公開される。2014年(平成26年)には大刀の複製品が作製され、日高村役場内に展示されている。
金銅荘環頭大刀拵・大刀身(複製)原品は国宝。村の駅ひだか展示。
重要文化財(国指定)
木造菩薩面 2面(彫刻)
小村神社に古くから伝わる、平安時代後期作の2面の菩薩面。1面の大きさは縦36.0センチメートル・横21.0センチメートル、もう1面は縦36.0センチメートル・横21.2センチメートル。いずれもクスノキ材の一木造で、表面に彩色が施されている。頬の豊かさや優しげな相好など、平安後期の特色を備えた行道面の優品とされる。1957年(昭和32年)2月19日指定。
高知県指定文化財
保護有形文化財
小村神社の蓬莱鏡 2面(工芸品)
南北朝時代の康安2年(1362年)作の2面の銅鏡。2面とも日本で作られた和鏡で、1面は縦15.7センチメートル・横10.2センチメートルの長方形の方鏡、もう1面は直径19センチメートルの円鏡。いずれも蓬莱模様が描かれ、特に方鏡は康安2年8月17日藤原重利奉納の旨の銘を有する。この2面を合わせて神鏡としたと見られる。1991年(平成3年)3月26日指定。
小村神社の仁治・貞和の棟札(歴史資料)
鎌倉時代の仁治元年(1240年)、並びに南北朝時代の貞和3年(1347年)の造替時の棟札。それぞれ木材の調達地や願主・番匠の名など、造替の経緯が記されている。2000年(平成12年)3月28日指定。
現地情報
所在地
高知県高岡郡日高村下分1794
交通アクセス
鉄道:四国旅客鉄道(JR四国)土讃線 小村神社前駅 - 北へ約200メートル。
小村神社 拝殿
祭神
祭神は次の1柱。
国常立命(くにとこたちのみこと)
国宝の金銅荘環頭大刀を神体とし、『南路志』にも「神体剣」と見える。中世における本地仏は大日如来であった。
鳥居
境内
現在の社殿は、江戸時代中期の宝永2年(1705年)の造営。本殿・幣殿・拝殿から成る複合社殿である。本殿は流造銅板葺で、この本殿前に接続する幣殿・拝殿は平面に「十」字形を成し、屋根は同じく銅板葺である。これらは拝殿を頭としたトンボ(蜻蛉)が飛び出す形を表すとされ、「出蜻蛉(でとんぼ)」形式と称される。これらの社殿は日高村指定有形文化財に指定されている[1]。このような出蜻蛉式社殿の類例としては、他に若宮八幡宮(高知市長浜)社殿が知られる。
本殿背後には、「燈明杉」と称されるボタンスギ(牡丹杉)が生育する。伝承では樹齢1,000年といわれ、樹高25メートル、胸高直径270センチメートルを測る巨木である。下枝部の葉は一般的な杉型であるが、上枝部の葉は牡丹杉型を示す珍しい特徴を有している。当地の伝説では、宝永2年(1705年)の仁淀川洪水や、安政元年(1854年)の安政南海地震、日露戦争などの異変に際して梢に霊火が点灯したといい、「燈明杉」の名はこれに由来する。このボタンスギは日高村指定天然記念物に指定されている。
本殿と燈明杉
社殿全景
文化財
国宝
金銅荘環頭大刀拵・大刀身(工芸品)
「こんどうそうかんとうたちごしらえ・たちのみ」。古墳時代末期(飛鳥時代)の7世紀前半に作られた、直刀(反りのない片刃の刀)とその外装である(装飾付大刀)。柄(つか)と鞘は金銅(銅に鍍金)の板で包み(金銅荘)、柄の先端部に「環頭」と称される金銅製透彫の装飾を付す。各所の寸法は次の通り。
総長118.8cm、柄頭長7.4cm、柄長19.4cm、鞘長92.1cm、刀身の刃長68.3cm、茎(なかご)長さ11.2cm[注 1]
柄頭(つかがしら)は、金銅板金で形成した環の内側に、同じく金銅板金に透彫で双竜文を表す。柄と鞘は木地に金銅張り。柄は責金(せめがね)で2区に分け、片方にはX字状文、もう片方には連続山形文をそれぞれ点線打込みで表す。鞘は足金物と責金で4区に分け、鞘口と鞘尻は無文、これらに挟まれた中央部は、佩表(はきおもて)に並列連珠文を打出し、佩裏は柄と同様の山形文とする。
刀身は正倉院の大刀に見られるような切刃造の直刀である。この種の上古刀の現存品はほとんどが古墳等からの出土品であるが、本品は伝世品である点で貴重であり、日本刀剣史上重要な作品とされる。
なお、平安時代以降に製作された反りのある日本刀を「太刀」と称するのに対し、それ以前の直刀は「大刀」(読みはどちらも「たち」)と表記して区別することが慣例となっている。
この大刀が小村神社で祀られるようになった確かな由来は不明であるが、『南路志』に「神体剣」と見えるように古来神体として本殿奥深くに祀られていた。1955年(昭和30年)の国の調査で詳細が判明し、1956年(昭和31年)6月28日に国の重要文化財に、1958年(昭和33年)2月8日に国宝に指定された。
現在、実物は他の宝物とともに11月15日の秋季大祭時にのみ公開される。2014年(平成26年)には大刀の複製品が作製され、日高村役場内に展示されている。
金銅荘環頭大刀拵・大刀身(複製)原品は国宝。村の駅ひだか展示。
重要文化財(国指定)
木造菩薩面 2面(彫刻)
小村神社に古くから伝わる、平安時代後期作の2面の菩薩面。1面の大きさは縦36.0センチメートル・横21.0センチメートル、もう1面は縦36.0センチメートル・横21.2センチメートル。いずれもクスノキ材の一木造で、表面に彩色が施されている。頬の豊かさや優しげな相好など、平安後期の特色を備えた行道面の優品とされる。1957年(昭和32年)2月19日指定。
高知県指定文化財
保護有形文化財
小村神社の蓬莱鏡 2面(工芸品)
南北朝時代の康安2年(1362年)作の2面の銅鏡。2面とも日本で作られた和鏡で、1面は縦15.7センチメートル・横10.2センチメートルの長方形の方鏡、もう1面は直径19センチメートルの円鏡。いずれも蓬莱模様が描かれ、特に方鏡は康安2年8月17日藤原重利奉納の旨の銘を有する。この2面を合わせて神鏡としたと見られる。1991年(平成3年)3月26日指定。
小村神社の仁治・貞和の棟札(歴史資料)
鎌倉時代の仁治元年(1240年)、並びに南北朝時代の貞和3年(1347年)の造替時の棟札。それぞれ木材の調達地や願主・番匠の名など、造替の経緯が記されている。2000年(平成12年)3月28日指定。
現地情報
所在地
高知県高岡郡日高村下分1794
交通アクセス
鉄道:四国旅客鉄道(JR四国)土讃線 小村神社前駅 - 北へ約200メートル。
2022年11月13日
世界遺産・富岡製糸場(とみおかせいしじょう、Tomioka Silk Mill)
富岡製糸場(とみおかせいしじょう、Tomioka Silk Mill)は、群馬県富岡市に設立された日本初の本格的な機械製糸の工場である。1872年(明治5年)の開業当時の繰糸所、繭倉庫などが現存している。日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも大きく貢献した工場であり、敷地を含む全体が国の史跡に、初期の建造物群が国宝および重要文化財に指定されている。また、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、2014年(平成26年)6月21日の第38回世界遺産委員会(ドーハ)で正式登録された。
時期によって「富岡製糸場」(1872年、明治4年から)、「富岡製糸所」(1876年、明治9年から)、「原富岡製糸所」(1902年、明治35年から)、「株式会社富岡製糸所」(1938年、昭和13年から)、「片倉富岡製糸所」(1939年、昭和14年から)、「片倉工業株式会社富岡工場」(1946年、昭和21年から[注釈 2])とたびたび名称を変更している。史跡、国宝、重要文化財としての名称は「旧富岡製糸場」、世界遺産暫定リスト記載物件構成資産としての名称は「富岡製糸場」である。
概要
日本は江戸時代末期に開国した際、生糸が主要な輸出品となっていたが、粗製濫造の横行によって国際的評価を落としていた。そのため、官営の器械製糸工場建設が計画されるようになる。
富岡製糸場は1872年(明治5年)にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場であり、器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていた。そこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献した。
1893年(明治26年)に三井家に払い下げられ、1902年(明治35年)に原合名会社、1939年(昭和14年)に片倉製糸紡績会社(現片倉工業)と経営母体は変わったが、1987年(昭和62年間)に操業を停止するまで、第二次世界大戦中も含め、一貫して製糸工場として機能した。
第二次世界大戦時のアメリカ軍空襲の被害を受けずに済んだ上、操業停止後も片倉工業が保存に尽力したことなどもあって、繰糸所を始めとする開業当初の木骨レンガ造の建造物群が良好な状態で現代まで残っている。2005年(平成17年)に敷地全体が国の史跡に、2006年(平成18年)に初期の主要建造物(建築物7棟、貯水槽1基、排水溝1所)が重要文化財の指定を受け、2007年(平成19年)には他の蚕業文化財とともに「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産の暫定リストに記載された。2014年(平成26年)6月に世界遺産登録の可否が審議され、同年6月21日に日本の近代化遺産で初の世界遺産リスト登録物件となった。
国宝・重要文化財
2006年(平成18年)に建築物7棟、貯水槽(鉄水溜)1基、排水溝(下水竇及び外竇)1所が「旧富岡製糸場」の名称で一括して重要文化財に指定された。また、重要文化財「旧富岡製糸場」の一部(繰糸所、東・西置繭所の3棟)が2014年に国宝に指定されている。
用途 見学施設
旧用途 製糸工場
設計者 エドモン・オーギュスト・バスチャン(主要部分)
管理運営 富岡市
敷地面積 55,391.42 m2
着工 1871年(明治4年)3月
竣工 1872年(明治5年)7月(主要部分)
開館開所 1872年11月4日(明治5年10月4日)
所在地 〒370-2316
群馬県富岡市富岡1番地1
座標 北緯36度15分19秒 東経138度53分16秒
文化財 史跡 / 国宝/世界遺産
指定・登録等日 2005年(平成17年)7月14日 / 2014(平成26年)年12月10日
備考
近代化産業遺産
世界遺産記載物件構成資産
時期によって「富岡製糸場」(1872年、明治4年から)、「富岡製糸所」(1876年、明治9年から)、「原富岡製糸所」(1902年、明治35年から)、「株式会社富岡製糸所」(1938年、昭和13年から)、「片倉富岡製糸所」(1939年、昭和14年から)、「片倉工業株式会社富岡工場」(1946年、昭和21年から[注釈 2])とたびたび名称を変更している。史跡、国宝、重要文化財としての名称は「旧富岡製糸場」、世界遺産暫定リスト記載物件構成資産としての名称は「富岡製糸場」である。
概要
日本は江戸時代末期に開国した際、生糸が主要な輸出品となっていたが、粗製濫造の横行によって国際的評価を落としていた。そのため、官営の器械製糸工場建設が計画されるようになる。
富岡製糸場は1872年(明治5年)にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場であり、器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていた。そこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献した。
1893年(明治26年)に三井家に払い下げられ、1902年(明治35年)に原合名会社、1939年(昭和14年)に片倉製糸紡績会社(現片倉工業)と経営母体は変わったが、1987年(昭和62年間)に操業を停止するまで、第二次世界大戦中も含め、一貫して製糸工場として機能した。
第二次世界大戦時のアメリカ軍空襲の被害を受けずに済んだ上、操業停止後も片倉工業が保存に尽力したことなどもあって、繰糸所を始めとする開業当初の木骨レンガ造の建造物群が良好な状態で現代まで残っている。2005年(平成17年)に敷地全体が国の史跡に、2006年(平成18年)に初期の主要建造物(建築物7棟、貯水槽1基、排水溝1所)が重要文化財の指定を受け、2007年(平成19年)には他の蚕業文化財とともに「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産の暫定リストに記載された。2014年(平成26年)6月に世界遺産登録の可否が審議され、同年6月21日に日本の近代化遺産で初の世界遺産リスト登録物件となった。
国宝・重要文化財
2006年(平成18年)に建築物7棟、貯水槽(鉄水溜)1基、排水溝(下水竇及び外竇)1所が「旧富岡製糸場」の名称で一括して重要文化財に指定された。また、重要文化財「旧富岡製糸場」の一部(繰糸所、東・西置繭所の3棟)が2014年に国宝に指定されている。
用途 見学施設
旧用途 製糸工場
設計者 エドモン・オーギュスト・バスチャン(主要部分)
管理運営 富岡市
敷地面積 55,391.42 m2
着工 1871年(明治4年)3月
竣工 1872年(明治5年)7月(主要部分)
開館開所 1872年11月4日(明治5年10月4日)
所在地 〒370-2316
群馬県富岡市富岡1番地1
座標 北緯36度15分19秒 東経138度53分16秒
文化財 史跡 / 国宝/世界遺産
指定・登録等日 2005年(平成17年)7月14日 / 2014(平成26年)年12月10日
備考
近代化産業遺産
世界遺産記載物件構成資産
2022年11月12日
阿蘇神社(あそ じんじゃ)は、日本の九州中央部、熊本県阿蘇市にある神社
阿蘇神社(あそ じんじゃ)は、日本の九州中央部、熊本県阿蘇市にある神社。古くは「阿蘓神社」とも記した(銘板が現存する)。
式内社(名神大社1社、小社1社)、肥後国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国に約450社ある「阿蘇神社」の総本社である。古代からの有力氏族である阿蘇氏が大宮司を務め、現在も末裔である阿蘇治隆が大宮司を務める。
阿蘇神社 拝殿
概要
熊本県北東、阿蘇山の北麓に鎮座する。全国的にも珍しい横参道で、参道の南には阿蘇火口、北には国造神社が位置していると言われている[1]。中世の戦国期に肥後中部で勢力を誇示していた阿蘇氏と縁の深い神社である。
祭神
以下の12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称される。
一の神殿(左手、いずれも男神)
一宮:健磐龍命(阿蘇都彦命)- 神武天皇の孫。たけいわたつのみこと。
三宮:國龍神 (吉見神・彦八井神)- 二宮の父、神武天皇の子。くにたつのかみ。
五宮:彦御子神 (阿蘇惟人)- 一宮の孫。阿蘇大宮司家につながる。ひこみこのかみ。
七宮:新彦神 - 三宮の子。にいひこのかみ。
九宮:若彦神 - 七宮の子。阿蘇神社社家につながる。わかひこのかみ。
二の神殿(右手、いずれも女神)
二宮:阿蘇都比当ス - 一宮の妃。三宮の娘。あそつひめのみこと。
四宮:比東芬q神 - 三宮の妃。ひめみこのかみ。
六宮:若比盗_ - 五宮の妃。わかひめのかみ。
八宮:新比盗_ - 七宮の娘。にいひめのかみ。
十宮:彌比盗_ - 七宮の妃。やひめのかみ。
諸神殿(最奥、いずれも男神)
十一宮:速瓶玉神 (國造神)- 一宮の子。国造本紀によれば、初代阿蘇国造に任命された。はやみかたまのみこと。
十二宮:金凝神 - 一宮の叔父。綏靖天皇を指す。皇統につながる[4]。かなこりのかみ。
その他
全国式内社祭神 3132座
文化財
重要文化財(国指定)
阿蘇神社 6棟(建造物) - 2007年(平成19年)6月18日指定。
一の神殿(附 棟札2枚1組) - 江戸時代末期、天保11年(1840年)造営。
二の神殿 - 江戸時代末期、天保13年(1842年)造営。
三の神殿 - 江戸時代末期、天保14年(1843年)造営。
楼門 - 江戸時代末期、嘉永2年(1849年)造営。
神幸門 - 江戸時代末期、嘉永元年(1848年)造営。
還御門 - 江戸時代末期、嘉永元年(1848年)造営。
牡丹造短刀(工芸品) - 1906年(明治39年)指定。第二次世界大戦後、連合軍によって接収された。以後の所在は不明。
太刀 銘 長光(工芸品) - 1909年(明治42年)指定。同上。
重要無形民俗文化財(国指定)
阿蘇の農耕祭事 - 1982年(昭和57年)1月14日指定。
選択無形民俗文化財(国選択)
阿蘇の御田植 - 1970年(昭和45年)6月8日選択。
現地情報
所在地
熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1
交通アクセス
鉄道:九州旅客鉄道(JR九州)豊肥本線 宮地駅 (徒歩約15分)
式内社(名神大社1社、小社1社)、肥後国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国に約450社ある「阿蘇神社」の総本社である。古代からの有力氏族である阿蘇氏が大宮司を務め、現在も末裔である阿蘇治隆が大宮司を務める。
阿蘇神社 拝殿
概要
熊本県北東、阿蘇山の北麓に鎮座する。全国的にも珍しい横参道で、参道の南には阿蘇火口、北には国造神社が位置していると言われている[1]。中世の戦国期に肥後中部で勢力を誇示していた阿蘇氏と縁の深い神社である。
祭神
以下の12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称される。
一の神殿(左手、いずれも男神)
一宮:健磐龍命(阿蘇都彦命)- 神武天皇の孫。たけいわたつのみこと。
三宮:國龍神 (吉見神・彦八井神)- 二宮の父、神武天皇の子。くにたつのかみ。
五宮:彦御子神 (阿蘇惟人)- 一宮の孫。阿蘇大宮司家につながる。ひこみこのかみ。
七宮:新彦神 - 三宮の子。にいひこのかみ。
九宮:若彦神 - 七宮の子。阿蘇神社社家につながる。わかひこのかみ。
二の神殿(右手、いずれも女神)
二宮:阿蘇都比当ス - 一宮の妃。三宮の娘。あそつひめのみこと。
四宮:比東芬q神 - 三宮の妃。ひめみこのかみ。
六宮:若比盗_ - 五宮の妃。わかひめのかみ。
八宮:新比盗_ - 七宮の娘。にいひめのかみ。
十宮:彌比盗_ - 七宮の妃。やひめのかみ。
諸神殿(最奥、いずれも男神)
十一宮:速瓶玉神 (國造神)- 一宮の子。国造本紀によれば、初代阿蘇国造に任命された。はやみかたまのみこと。
十二宮:金凝神 - 一宮の叔父。綏靖天皇を指す。皇統につながる[4]。かなこりのかみ。
その他
全国式内社祭神 3132座
文化財
重要文化財(国指定)
阿蘇神社 6棟(建造物) - 2007年(平成19年)6月18日指定。
一の神殿(附 棟札2枚1組) - 江戸時代末期、天保11年(1840年)造営。
二の神殿 - 江戸時代末期、天保13年(1842年)造営。
三の神殿 - 江戸時代末期、天保14年(1843年)造営。
楼門 - 江戸時代末期、嘉永2年(1849年)造営。
神幸門 - 江戸時代末期、嘉永元年(1848年)造営。
還御門 - 江戸時代末期、嘉永元年(1848年)造営。
牡丹造短刀(工芸品) - 1906年(明治39年)指定。第二次世界大戦後、連合軍によって接収された。以後の所在は不明。
太刀 銘 長光(工芸品) - 1909年(明治42年)指定。同上。
重要無形民俗文化財(国指定)
阿蘇の農耕祭事 - 1982年(昭和57年)1月14日指定。
選択無形民俗文化財(国選択)
阿蘇の御田植 - 1970年(昭和45年)6月8日選択。
現地情報
所在地
熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1
交通アクセス
鉄道:九州旅客鉄道(JR九州)豊肥本線 宮地駅 (徒歩約15分)
2022年11月11日
東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある真言宗の総本山の寺院
東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある真言宗の総本山の寺院。山号は八幡山。本尊は薬師如来。真言宗の根本道場であり、教王護国寺(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。寺紋は雲形紋(東寺雲)。食堂(本尊・十一面観音)は洛陽三十三所観音霊場第23番札所。
東寺は、平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。明治維新まで、東寺の長官である4人の東寺長者は真言宗の最高位であり、中でも長者の筆頭である東寺一長者は律令制における仏教界の首座である法務も兼任する慣例だった。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。1934年(昭和9年)に国の史跡に指定、1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」の構成資産として世界遺産に登録された。
東寺(京都)
歴史
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。
南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)、藤原伊勢人が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの延暦15年(796年)を創建の年としている。それから二十数年後の弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を下賜され、真言密教の根本道場としたと弘法大師二十五箇条遺告(御遺告)に記されている。この時から東寺は国家鎮護の官寺であるととも真言密教の根本道場となった。
東寺は平安時代後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。
中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年(1486年)に発生した土一揆のために金堂や講堂、南大門などの主要堂塔のほとんどが焼失したが、延徳3年(1491年)には講堂が再建されている。
天正19年(1591年)、豊臣秀吉により2,030石の知行が認められている。また、金堂は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進により、片桐且元を奉行として再建されている。五重塔は寛永21年(1644年)に徳川家光によって再建が行われた。
1895年(明治28年)には、豊臣秀頼が慶長6年(1601年)に建てた三十三間堂の西大門を、東寺の南大門(重要文化財)として移築している。
何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。
なお、東寺の執行は代々に渡って空海の母方の叔父である阿刀大足の子孫が、弘仁14年(823年)から1871年(明治4年)まで務めた。
金堂(国宝)
金堂
国宝。東寺の中心堂宇で諸堂塔のうちもっとも早く建設が始められ、東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)までには完成していたと推定される。当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆で焼失し、その後1世紀近く再建されなかった。現存の建物は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進により、片桐且元を奉行として再建されたもの。入母屋造本瓦葺きで、外観からは二重に見えるが一重裳階(もこし)付きである。建築様式は和様と大仏様(天竺様)が併用され、貫や挿肘木を多用して高い天井を支える点に大仏様の特色が見られる。内部は広大な空間の中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。
なお金堂は、豊臣秀吉の造立した方広寺初代大仏殿(京の大仏)を模したものとの伝承がある。秀吉の造立した方広寺大仏殿を描いた絵図資料として、慶長11年(1606年)作とされる狩野内膳の『豊国祭礼図屏風』があるが、それに描かれた大仏殿の外観と東寺金堂の外観が極めて類似している。金堂には大仏殿のように、堂外から内部に安置されている仏像の御顔を拝顔できるようにする観相窓が設けられているが、それの高さは、安置されている薬師如来の御顔の高さと合っていないので、窓を開けても如来の光背しか見えず、観相窓としては無用の代物になってしまっているという 。ただし明かり取り窓としては機能しているという 。これは本来この建物のデザインは、大仏を安置するために意匠されたもので、丈六の薬師如来像を安置するために意匠されたものではない(東寺のために意匠されたものではない)ためとされている。
金堂の修理工事では、金堂の棟札が確認された。それには豊臣秀頼の寄進によることや片桐且元を奉行として造立工事がなされたことが記されていた。また方広寺の鐘銘に類似した「国家太平 臣民快楽」の文言の記載があった。方広寺の鐘銘では「国家安康 君臣豊楽」と刻字され、それが家康の諱を分断して呪詛し、豊臣を君主とする意図があると徳川方に解釈され、方広寺鐘銘事件に発展してしまったことは周知の通りである。
金堂本尊・薬師如来坐像
金堂本尊・薬師如来坐像
木造薬師如来および両脇侍像(重要文化財) - 像高は中尊(薬師如来)が288センチメートル、左脇侍(向かって右)の日光菩薩が290センチメートル、右脇侍(向かって左)の月光菩薩が289センチメートル。中尊が座す裳懸座の腰回りに12体の十二神将像が立つ。三尊像は寄木造、漆箔仕上げ、玉眼(眼の部分に水晶を嵌め込む)。台座に付属する十二神将像は寄木造、彩色、玉眼。中尊の像内納入の木札、十二神将像の像内銘や納入品、及び、東寺長者を務めた義演の日記である『義演准后日記』の記載などから、この三尊像は慶長7年から同9年(1602年 - 1604年)にかけて、七条大仏師康正が康理、康猶、康英らとともに制作したことがわかる。中尊の台座を蓮華座でなく裳懸座とする点、中尊が左手に薬壺(やくこ)を持たない点などは古い要素で、本像が平安時代前期の当初像の形制にならって制作されたことを窺わせる(薬師如来の像は、左手に薬壺を捧持する形が一般的だが、奈良・薬師寺金堂薬師如来像(奈良時代)のような古像は薬壺を持っていない)。
アクセス
東寺駅(近鉄京都線)徒歩10分。
京都駅八条口から徒歩15分。
バス
京都駅前バス停から
B3乗り場から京都市営バス208号系統水族館西大路駅行きで東寺南門前下車
C4乗り場から京都市営バス42号系統洛西口駅前行きで東寺東門前下車(1時間に1本程度)
C4乗り場から京都市営バス16号系統南区総合庁舎方面行きで東寺西門前下車(1時間に2本程度)
C4乗り場から京都市営バス19号系統横大路車庫行きで東寺南門前下車(1時間に1本程度)
京都駅八条口から
F1乗り場から京都市営バス71号系統・特71号系統松尾橋行きで東寺東門前下車(日中は1時間に2本程度)
F1乗り場から京都まちづくり交通研究所(京都市営バスが受託運行)「東寺・梅小路エクスプレス」で東寺東門前下車(土曜・休日のみ運行・1時間に4本程度)
G1乗り場から京都市営バス16号系統南区総合庁舎方面行きで東寺西門前下車(1時間に2本程度)
G1乗り場から京都市営バス19号系統横大路車庫行きで東寺南門前下車(1時間に1本程度)
H6番乗り場から京阪バス26号経路京阪淀駅行きで東寺南門下車(1日2往復のみ)
大宮駅(阪急京都本線)前「四条大宮」バス停から
3乗り場から京都市営バス18号系統久我石原町行きで東寺東門前下車(1時間に2本程度)
3乗り場から京都市営バス特18号系統久世橋東詰行きで東寺東門前下車(1時間に1本程度・平日は1時間に1〜2本)
3乗り場から京都市営バス71号・特71号系統京都駅八条口行きで東寺東門前下車(日中は1時間に2本程度)
3乗り場から京都市営バス207号系統東寺・東福寺方面行きで東寺東門前下車(10分前後おき)
淀駅(京阪本線)前バス停から
京阪バス26号経路京都駅八条口行きで東寺南門下車(1日2往復のみ)
所在地 京都府京都市南区九条町1
東寺は、平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。明治維新まで、東寺の長官である4人の東寺長者は真言宗の最高位であり、中でも長者の筆頭である東寺一長者は律令制における仏教界の首座である法務も兼任する慣例だった。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。1934年(昭和9年)に国の史跡に指定、1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」の構成資産として世界遺産に登録された。
東寺(京都)
歴史
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。
南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)、藤原伊勢人が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの延暦15年(796年)を創建の年としている。それから二十数年後の弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を下賜され、真言密教の根本道場としたと弘法大師二十五箇条遺告(御遺告)に記されている。この時から東寺は国家鎮護の官寺であるととも真言密教の根本道場となった。
東寺は平安時代後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。
中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年(1486年)に発生した土一揆のために金堂や講堂、南大門などの主要堂塔のほとんどが焼失したが、延徳3年(1491年)には講堂が再建されている。
天正19年(1591年)、豊臣秀吉により2,030石の知行が認められている。また、金堂は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進により、片桐且元を奉行として再建されている。五重塔は寛永21年(1644年)に徳川家光によって再建が行われた。
1895年(明治28年)には、豊臣秀頼が慶長6年(1601年)に建てた三十三間堂の西大門を、東寺の南大門(重要文化財)として移築している。
何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。
なお、東寺の執行は代々に渡って空海の母方の叔父である阿刀大足の子孫が、弘仁14年(823年)から1871年(明治4年)まで務めた。
金堂(国宝)
金堂
国宝。東寺の中心堂宇で諸堂塔のうちもっとも早く建設が始められ、東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)までには完成していたと推定される。当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆で焼失し、その後1世紀近く再建されなかった。現存の建物は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進により、片桐且元を奉行として再建されたもの。入母屋造本瓦葺きで、外観からは二重に見えるが一重裳階(もこし)付きである。建築様式は和様と大仏様(天竺様)が併用され、貫や挿肘木を多用して高い天井を支える点に大仏様の特色が見られる。内部は広大な空間の中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。
なお金堂は、豊臣秀吉の造立した方広寺初代大仏殿(京の大仏)を模したものとの伝承がある。秀吉の造立した方広寺大仏殿を描いた絵図資料として、慶長11年(1606年)作とされる狩野内膳の『豊国祭礼図屏風』があるが、それに描かれた大仏殿の外観と東寺金堂の外観が極めて類似している。金堂には大仏殿のように、堂外から内部に安置されている仏像の御顔を拝顔できるようにする観相窓が設けられているが、それの高さは、安置されている薬師如来の御顔の高さと合っていないので、窓を開けても如来の光背しか見えず、観相窓としては無用の代物になってしまっているという 。ただし明かり取り窓としては機能しているという 。これは本来この建物のデザインは、大仏を安置するために意匠されたもので、丈六の薬師如来像を安置するために意匠されたものではない(東寺のために意匠されたものではない)ためとされている。
金堂の修理工事では、金堂の棟札が確認された。それには豊臣秀頼の寄進によることや片桐且元を奉行として造立工事がなされたことが記されていた。また方広寺の鐘銘に類似した「国家太平 臣民快楽」の文言の記載があった。方広寺の鐘銘では「国家安康 君臣豊楽」と刻字され、それが家康の諱を分断して呪詛し、豊臣を君主とする意図があると徳川方に解釈され、方広寺鐘銘事件に発展してしまったことは周知の通りである。
金堂本尊・薬師如来坐像
金堂本尊・薬師如来坐像
木造薬師如来および両脇侍像(重要文化財) - 像高は中尊(薬師如来)が288センチメートル、左脇侍(向かって右)の日光菩薩が290センチメートル、右脇侍(向かって左)の月光菩薩が289センチメートル。中尊が座す裳懸座の腰回りに12体の十二神将像が立つ。三尊像は寄木造、漆箔仕上げ、玉眼(眼の部分に水晶を嵌め込む)。台座に付属する十二神将像は寄木造、彩色、玉眼。中尊の像内納入の木札、十二神将像の像内銘や納入品、及び、東寺長者を務めた義演の日記である『義演准后日記』の記載などから、この三尊像は慶長7年から同9年(1602年 - 1604年)にかけて、七条大仏師康正が康理、康猶、康英らとともに制作したことがわかる。中尊の台座を蓮華座でなく裳懸座とする点、中尊が左手に薬壺(やくこ)を持たない点などは古い要素で、本像が平安時代前期の当初像の形制にならって制作されたことを窺わせる(薬師如来の像は、左手に薬壺を捧持する形が一般的だが、奈良・薬師寺金堂薬師如来像(奈良時代)のような古像は薬壺を持っていない)。
アクセス
東寺駅(近鉄京都線)徒歩10分。
京都駅八条口から徒歩15分。
バス
京都駅前バス停から
B3乗り場から京都市営バス208号系統水族館西大路駅行きで東寺南門前下車
C4乗り場から京都市営バス42号系統洛西口駅前行きで東寺東門前下車(1時間に1本程度)
C4乗り場から京都市営バス16号系統南区総合庁舎方面行きで東寺西門前下車(1時間に2本程度)
C4乗り場から京都市営バス19号系統横大路車庫行きで東寺南門前下車(1時間に1本程度)
京都駅八条口から
F1乗り場から京都市営バス71号系統・特71号系統松尾橋行きで東寺東門前下車(日中は1時間に2本程度)
F1乗り場から京都まちづくり交通研究所(京都市営バスが受託運行)「東寺・梅小路エクスプレス」で東寺東門前下車(土曜・休日のみ運行・1時間に4本程度)
G1乗り場から京都市営バス16号系統南区総合庁舎方面行きで東寺西門前下車(1時間に2本程度)
G1乗り場から京都市営バス19号系統横大路車庫行きで東寺南門前下車(1時間に1本程度)
H6番乗り場から京阪バス26号経路京阪淀駅行きで東寺南門下車(1日2往復のみ)
大宮駅(阪急京都本線)前「四条大宮」バス停から
3乗り場から京都市営バス18号系統久我石原町行きで東寺東門前下車(1時間に2本程度)
3乗り場から京都市営バス特18号系統久世橋東詰行きで東寺東門前下車(1時間に1本程度・平日は1時間に1〜2本)
3乗り場から京都市営バス71号・特71号系統京都駅八条口行きで東寺東門前下車(日中は1時間に2本程度)
3乗り場から京都市営バス207号系統東寺・東福寺方面行きで東寺東門前下車(10分前後おき)
淀駅(京阪本線)前バス停から
京阪バス26号経路京都駅八条口行きで東寺南門下車(1日2往復のみ)
所在地 京都府京都市南区九条町1
タグ:世界遺産・東寺(とうじ)
2022年11月10日
安国寺(あんこくじ)は、岐阜県高山市にある臨済宗妙心寺派の寺院
安国寺(あんこくじ)は、岐阜県高山市にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は太平山。本尊は釈迦牟尼仏(釈迦如来)。飛騨三十三観音霊場11番札所。経蔵は国宝に指定されている。同じく経蔵が2016年に日本遺産「飛騨匠の技・こころ / 国府盆地の中世社寺建築群」の一つとして認定された。
飛騨安国寺 山門 飛騨国府 飛騨高山
歴史
足利尊氏・直義が日本各地に建立した安国寺の1つ。当寺は貞和3年(1347年)、瑞巌和尚によって創建された。
最盛期には七堂伽藍と9の塔頭を有する大刹であったが、戦国時代、高山に拠点を持つ上杉派の三木氏と、国分寺に拠点を持つ武田派の広瀬氏との抗争に巻き込まれ、天正年間(1532年〜1555年)と永禄年間(1558年〜1570年)の二度に渡って兵火を被り、経蔵、開山堂、および鎮守社の熊野神社以外の堂宇が焼失。現在見られる本堂は江戸時代初期の寛永元年(1624年)、飛騨高山藩第三代藩主の金森重頼により再建されたもの。
文化財
国宝
安国寺経蔵 - 応永15年(1408年)の建築。入母屋造、杮葺。柱間正面・側面とも1間の身舎(もや)の周囲に裳階(もこし)を付した禅宗様建築。身舎の柱間は外見からは正側面とも3間に見えるが、内側の2本は柱ではなく束(つか)である。建物内部に入ると4本の独立柱が立ち、方一間の身舎の周囲に裳階をめぐらした構造であることがわかる。禅宗様建築では、組物を密に並べ(詰組)、垂木は扇垂木とする例が多いが、本建物では組物の数が少なく、垂木も平行垂木で疎らに配されており、全体に簡素な意匠になる。内部には輪蔵(回転式の経蔵)がある。制作年代の明らかな輪蔵として日本最古であり貴重。明治42年(1909年)に旧古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定され、昭和38年(1963年)に現行法である文化財保護法の規定に基づき国宝に指定された。
経蔵(国宝)
重要文化財
塑造瑞巌和尚坐像(頭部木造)(開山堂安置) - 明徳3年(1392年)の作。塑造は日本では奈良時代に盛行した技法で、中世には珍しい。ただし、本像の頭部は木造である。昭和37年、国重文に指定。
附:木造須弥壇
附:像内納入経(紙本墨書華厳経賢行願品、紙本墨書金剛経、紙本墨書法華経普門品および般若心経)
熊野神社本殿 - 安国寺境内の裏手にある熊野神社は、安国寺の鎮守社として室町時代末期に瑞巌和尚が勧請し創建されたものと伝えられる。その本殿は三間社流見棚造りで屋根は杮(こけら)葺き。この種の建物としては特異な形式のもので、飛騨の神社建築のルーツを知る上にも貴重。昭和54年、国重文に指定。
岐阜県指定重要文化財
木造本尊釈迦牟尼仏 脇侍文殊普賢両菩薩像- 延文2年(1356年)の作。
一切経並春日版大般若経
塑造瑞巌和尚坐像が安置される開山堂
所在地
岐阜県高山市国府町西門前474
交通
高山本線飛騨国府駅より約5km
中部縦貫自動車道・高山ICより道程約14km
飛騨安国寺 山門 飛騨国府 飛騨高山
歴史
足利尊氏・直義が日本各地に建立した安国寺の1つ。当寺は貞和3年(1347年)、瑞巌和尚によって創建された。
最盛期には七堂伽藍と9の塔頭を有する大刹であったが、戦国時代、高山に拠点を持つ上杉派の三木氏と、国分寺に拠点を持つ武田派の広瀬氏との抗争に巻き込まれ、天正年間(1532年〜1555年)と永禄年間(1558年〜1570年)の二度に渡って兵火を被り、経蔵、開山堂、および鎮守社の熊野神社以外の堂宇が焼失。現在見られる本堂は江戸時代初期の寛永元年(1624年)、飛騨高山藩第三代藩主の金森重頼により再建されたもの。
文化財
国宝
安国寺経蔵 - 応永15年(1408年)の建築。入母屋造、杮葺。柱間正面・側面とも1間の身舎(もや)の周囲に裳階(もこし)を付した禅宗様建築。身舎の柱間は外見からは正側面とも3間に見えるが、内側の2本は柱ではなく束(つか)である。建物内部に入ると4本の独立柱が立ち、方一間の身舎の周囲に裳階をめぐらした構造であることがわかる。禅宗様建築では、組物を密に並べ(詰組)、垂木は扇垂木とする例が多いが、本建物では組物の数が少なく、垂木も平行垂木で疎らに配されており、全体に簡素な意匠になる。内部には輪蔵(回転式の経蔵)がある。制作年代の明らかな輪蔵として日本最古であり貴重。明治42年(1909年)に旧古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定され、昭和38年(1963年)に現行法である文化財保護法の規定に基づき国宝に指定された。
経蔵(国宝)
重要文化財
塑造瑞巌和尚坐像(頭部木造)(開山堂安置) - 明徳3年(1392年)の作。塑造は日本では奈良時代に盛行した技法で、中世には珍しい。ただし、本像の頭部は木造である。昭和37年、国重文に指定。
附:木造須弥壇
附:像内納入経(紙本墨書華厳経賢行願品、紙本墨書金剛経、紙本墨書法華経普門品および般若心経)
熊野神社本殿 - 安国寺境内の裏手にある熊野神社は、安国寺の鎮守社として室町時代末期に瑞巌和尚が勧請し創建されたものと伝えられる。その本殿は三間社流見棚造りで屋根は杮(こけら)葺き。この種の建物としては特異な形式のもので、飛騨の神社建築のルーツを知る上にも貴重。昭和54年、国重文に指定。
岐阜県指定重要文化財
木造本尊釈迦牟尼仏 脇侍文殊普賢両菩薩像- 延文2年(1356年)の作。
一切経並春日版大般若経
塑造瑞巌和尚坐像が安置される開山堂
所在地
岐阜県高山市国府町西門前474
交通
高山本線飛騨国府駅より約5km
中部縦貫自動車道・高山ICより道程約14km
2022年11月09日
境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定・建長寺(けんちょうじ)
建長寺(けんちょうじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山。正式には巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)と号する。
鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩。開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。鎌倉五山の第一位。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定。
境内
歴史
創建
建長寺は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼により創建された禅宗寺院で、建長5年(1253年)に落慶供養が営まれている。開山(初代住職)は南宋からの渡来僧・蘭渓道隆(大覚禅師)であった。当時の日本は、承久の乱(1221年)を経て北条氏の権力基盤が安定していた。京都にある朝廷の全国支配力は弱まり、政治的には鎌倉が事実上、日本の首府となっていた時代であった。北条時頼は熱心な仏教信者であり、禅宗に深く帰依していた。
蘭渓道隆像(国宝)
総門
天明3年(1783年)の建立。1940年に京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)から移築されたものである。総門に掲げられた「巨福山」の額は建長寺10世住持で書の名手である渡来僧・一山一寧の筆と伝える。「巨」字の第3画目の下に、余分な「点」が書き加えられているが、この点があることによって字に安定感が出ているとされる。
総門
山門(三門)
安永4年(1775年)の上棟で、2005年に重要文化財に指定されている。「三門」とも表記する(重要文化財指定名称は「建長寺山門」)。
三間一戸の二重門で、上層屋根はこけら葺き形銅板葺きとする。棟梁は建長寺大工の河内長兵衛である。下層はすべて吹き放しで、扉は設けていない。禅宗様建築は一般に木柄の細いのを特色とするが、この門は柱などの各種部材が太く豪快であるのが特色である。門の中心に位置する2本の柱からは前後左右に虹梁(こうりょう)を架け、虹梁上に大瓶束(たいへいづか)を立てて鏡天井を支える。上層の正面中央には唐破風を設け、ここに「建長興国禅寺」の扁額を掛ける。上層内部には宝冠釈迦如来像を中心に十六羅漢像、五百羅漢像(銅造)などを安置する(上層は非公開)。関東大震災では上層の屋根が破損したが、これは本来、こけら葺き用に造られていた小屋組に江戸時代末期に重い銅板を葺いたことが原因であり、門の主要部材の被害は軽微であった。
建長寺山門
仏殿
重要文化財。 寄棟造で単層裳階が付く。
芝(東京都港区)の増上寺にあった、徳川秀忠夫人崇源院の霊屋(たまや)を建て替えに際し、譲渡されたもので、正保4年(1647年)に建長寺に移築されている。
もともと霊廟建築として造られたものであるので、屋根や天井などの形式が一般的な禅宗の仏殿とは異なっている。すなわち、屋根は入母屋造でなく寄棟造である。また、天井は禅宗仏殿では平板な「鏡天井」とし、龍などの絵を描くことが多いが、この仏殿の天井は和様の格天井(ごうてんじょう)である。
堂内には本尊の地蔵菩薩坐像(室町時代の作、像高2.4メートル)、もとこの地にあった心平寺の旧本尊地蔵菩薩坐像、千体地蔵菩薩立像、千手観音坐像、伽藍神像などを安置する。堂前にあるビャクシン(白槙、和名イブキ)の古木7本は開山蘭渓道隆手植えと伝えるもので、樹齢約750年といわれる。
建長寺仏殿の内部
法堂
禅宗以外の寺院の「講堂」に相当する建物。入母屋造、方三間、裳階(もこし)付き、銅板葺き。文化11年(1814年)の上棟、文政8年(1825年)の竣工である。棟梁は建長寺大工の河内久右衛門。内部には身舎・裳階の境に柱が立つのみで間仕切りはない。床は瓦の四半敷きとする。堂内中央奥に高さ2メートルを超える法座を設け、その奥に本尊千手観音坐像を安置する。なお、天井の雲龍図は、鏡天井に直接描かれたものではなく、別に制作された絵を掲げたものである。鎌倉最大級の木造建築で2005年に重要文化財に指定された[7][6]。
天井画は小泉淳作筆の雲龍図。2005年愛知万博に陳列されたパキスタンのラホールにあるラホール中央博物館(英語版)所蔵の釈迦苦行像のレプリカが愛知万博終了後にパキスタンより寄贈され、安置された。
法堂
交通
横須賀線(JR東日本)北鎌倉駅下車徒歩20分、江ノ島電鉄(江ノ電バス)3分「建長寺」下車徒歩すぐ
横須賀線・江ノ島電鉄鎌倉駅下車徒歩30分、江ノ島電鉄(江ノ電バス)5分「建長寺」下車徒歩すぐ
バスは渋滞が多い。
境内にはハイキングコースがつながっており、鎌倉市内の瑞泉寺方面や、さらに横浜市の円海山方面まで行くことができる。
所在地 神奈川県鎌倉市山ノ内8
位置 北緯35度19分54.44秒 東経139度33分19.25秒
山号 巨福山(こふくさん)
宗派 臨済宗建長寺派
寺格 大本山
鎌倉五山第一位
本尊 地蔵菩薩
創建年 建長5年(1253年)
開山 蘭渓道隆
開基 北条時頼
正式名 巨福山建長興國禪寺
別称 巨福山建長禪寺
建長僧堂
札所等 鎌倉二十四地蔵9番 - 11番
鎌倉三十三観音霊場28番
文化財 絹本淡彩蘭渓道隆像・大覚禅師墨蹟法語規則・梵鐘(国宝)
山門・法堂・絹本著色釈迦三尊像ほか(重要文化財)
鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩。開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。鎌倉五山の第一位。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定。
境内
歴史
創建
建長寺は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼により創建された禅宗寺院で、建長5年(1253年)に落慶供養が営まれている。開山(初代住職)は南宋からの渡来僧・蘭渓道隆(大覚禅師)であった。当時の日本は、承久の乱(1221年)を経て北条氏の権力基盤が安定していた。京都にある朝廷の全国支配力は弱まり、政治的には鎌倉が事実上、日本の首府となっていた時代であった。北条時頼は熱心な仏教信者であり、禅宗に深く帰依していた。
蘭渓道隆像(国宝)
総門
天明3年(1783年)の建立。1940年に京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)から移築されたものである。総門に掲げられた「巨福山」の額は建長寺10世住持で書の名手である渡来僧・一山一寧の筆と伝える。「巨」字の第3画目の下に、余分な「点」が書き加えられているが、この点があることによって字に安定感が出ているとされる。
総門
山門(三門)
安永4年(1775年)の上棟で、2005年に重要文化財に指定されている。「三門」とも表記する(重要文化財指定名称は「建長寺山門」)。
三間一戸の二重門で、上層屋根はこけら葺き形銅板葺きとする。棟梁は建長寺大工の河内長兵衛である。下層はすべて吹き放しで、扉は設けていない。禅宗様建築は一般に木柄の細いのを特色とするが、この門は柱などの各種部材が太く豪快であるのが特色である。門の中心に位置する2本の柱からは前後左右に虹梁(こうりょう)を架け、虹梁上に大瓶束(たいへいづか)を立てて鏡天井を支える。上層の正面中央には唐破風を設け、ここに「建長興国禅寺」の扁額を掛ける。上層内部には宝冠釈迦如来像を中心に十六羅漢像、五百羅漢像(銅造)などを安置する(上層は非公開)。関東大震災では上層の屋根が破損したが、これは本来、こけら葺き用に造られていた小屋組に江戸時代末期に重い銅板を葺いたことが原因であり、門の主要部材の被害は軽微であった。
建長寺山門
仏殿
重要文化財。 寄棟造で単層裳階が付く。
芝(東京都港区)の増上寺にあった、徳川秀忠夫人崇源院の霊屋(たまや)を建て替えに際し、譲渡されたもので、正保4年(1647年)に建長寺に移築されている。
もともと霊廟建築として造られたものであるので、屋根や天井などの形式が一般的な禅宗の仏殿とは異なっている。すなわち、屋根は入母屋造でなく寄棟造である。また、天井は禅宗仏殿では平板な「鏡天井」とし、龍などの絵を描くことが多いが、この仏殿の天井は和様の格天井(ごうてんじょう)である。
堂内には本尊の地蔵菩薩坐像(室町時代の作、像高2.4メートル)、もとこの地にあった心平寺の旧本尊地蔵菩薩坐像、千体地蔵菩薩立像、千手観音坐像、伽藍神像などを安置する。堂前にあるビャクシン(白槙、和名イブキ)の古木7本は開山蘭渓道隆手植えと伝えるもので、樹齢約750年といわれる。
建長寺仏殿の内部
法堂
禅宗以外の寺院の「講堂」に相当する建物。入母屋造、方三間、裳階(もこし)付き、銅板葺き。文化11年(1814年)の上棟、文政8年(1825年)の竣工である。棟梁は建長寺大工の河内久右衛門。内部には身舎・裳階の境に柱が立つのみで間仕切りはない。床は瓦の四半敷きとする。堂内中央奥に高さ2メートルを超える法座を設け、その奥に本尊千手観音坐像を安置する。なお、天井の雲龍図は、鏡天井に直接描かれたものではなく、別に制作された絵を掲げたものである。鎌倉最大級の木造建築で2005年に重要文化財に指定された[7][6]。
天井画は小泉淳作筆の雲龍図。2005年愛知万博に陳列されたパキスタンのラホールにあるラホール中央博物館(英語版)所蔵の釈迦苦行像のレプリカが愛知万博終了後にパキスタンより寄贈され、安置された。
法堂
交通
横須賀線(JR東日本)北鎌倉駅下車徒歩20分、江ノ島電鉄(江ノ電バス)3分「建長寺」下車徒歩すぐ
横須賀線・江ノ島電鉄鎌倉駅下車徒歩30分、江ノ島電鉄(江ノ電バス)5分「建長寺」下車徒歩すぐ
バスは渋滞が多い。
境内にはハイキングコースがつながっており、鎌倉市内の瑞泉寺方面や、さらに横浜市の円海山方面まで行くことができる。
所在地 神奈川県鎌倉市山ノ内8
位置 北緯35度19分54.44秒 東経139度33分19.25秒
山号 巨福山(こふくさん)
宗派 臨済宗建長寺派
寺格 大本山
鎌倉五山第一位
本尊 地蔵菩薩
創建年 建長5年(1253年)
開山 蘭渓道隆
開基 北条時頼
正式名 巨福山建長興國禪寺
別称 巨福山建長禪寺
建長僧堂
札所等 鎌倉二十四地蔵9番 - 11番
鎌倉三十三観音霊場28番
文化財 絹本淡彩蘭渓道隆像・大覚禅師墨蹟法語規則・梵鐘(国宝)
山門・法堂・絹本著色釈迦三尊像ほか(重要文化財)
2022年11月08日
江戸時代の武士住居遺構。国の重要文化財・祁答院家住宅(けどういんけじゅうたく)
祁答院家住宅(けどういんけじゅうたく)は鹿児島県伊佐市大口里にある江戸時代の武士住居遺構。国の重要文化財。
祁答院家住宅
概要
祁答院氏は中世から続く薩摩国有力国人の一人であったが、江戸時代には島津氏の配下となり大口に移住した。『祁答院氏系図』によると承応5年(1653年)頃建てられたとされるが、現在の建物は18世紀前半頃に建てられたと考えられている。郷士住宅として貴重な遺例であり、昭和50年(1975年)に重要文化財に指定された。
住居は客間である「おもて」と日常の間である「なかえ」「うすにわ」から構成されている。
現在も住居として使われているため、見学には予約が必要である。
所在地 鹿児島県伊佐市大口里1855
位置 北緯32度3分25.3秒 東経130度36分54.7秒
類型 武家屋敷(郷士住宅)
形式・構造 木造、寄棟、茅葺
延床面積 桁行11.8m、梁間9.2m
建築年 江戸時代中期(18世紀前半頃)
文化財 国の重要文化財
祁答院家住宅
概要
祁答院氏は中世から続く薩摩国有力国人の一人であったが、江戸時代には島津氏の配下となり大口に移住した。『祁答院氏系図』によると承応5年(1653年)頃建てられたとされるが、現在の建物は18世紀前半頃に建てられたと考えられている。郷士住宅として貴重な遺例であり、昭和50年(1975年)に重要文化財に指定された。
住居は客間である「おもて」と日常の間である「なかえ」「うすにわ」から構成されている。
現在も住居として使われているため、見学には予約が必要である。
所在地 鹿児島県伊佐市大口里1855
位置 北緯32度3分25.3秒 東経130度36分54.7秒
類型 武家屋敷(郷士住宅)
形式・構造 木造、寄棟、茅葺
延床面積 桁行11.8m、梁間9.2m
建築年 江戸時代中期(18世紀前半頃)
文化財 国の重要文化財
2022年11月07日
国宝の社殿を持つ神社・神谷神社(かんだにじんじゃ)
神谷神社(かんだにじんじゃ)は、香川県坂出市にある神社。式内社で、旧社格は郷社。
本殿(国宝)
概要
坂出市東部、五色台の一峰・白峰山の麓に鎮座する。「神谷」と呼ばれる谷間に位置し、境内の北方を神谷川が流れる。
本殿は造営年代が明らかな流造社殿の中では最古のもので、国宝に指定されている。国宝の社殿を持つ神社ではあるが、境内は比較的小さい。そのほか、重要文化財の木造随身立像などの神宝を現在に伝えている。
祭神
主祭神
火結命 (ほむすびのみこと)
奥津彦命 (おくつひこのみこと)
奥津姫命 (おくつひめのみこと)
相殿神
春日四神
経津主神 (ふつぬしのかみ)
武甕槌神 (たけみかづちのかみ)
天児屋命 (あめのこやねのみこと)
姫大神 (ひめおおかみ)
境内
本殿は、鎌倉時代初期の建保7年(1219年)に荘官の刑部正長により旧本殿より再建された三間社流れ造りの社殿である。建造年の明らかな神社建築としては日本最古であり、国宝に指定されている。
また、社殿裏手約50mの地には、「影向石」と呼ばれる巨岩が立つ。当地では古代に磐座として祭祀が行われていたという。
文化財
国宝
本殿 - 昭和30年(1955年)2月2日指定。
重要文化財(国指定)
木造随身立像 2躯
阿・吽一対の立像。鎌倉時代初期の作品とされる。昭和41年(1966年)6月11日指定。
坂出市指定有形文化財
神社法楽連歌(書跡)
明応2年(1493年)2月に神社前で興行された百韻連歌。鳥ノ子紙半折四枚に記載されたもの。昭和33年2月21日指定。
舞楽面 2面(工芸品)
抜頭・還城楽の二面。昭和36年11月3日指定。
写経大般若波羅蜜多経 600巻(典籍)
享徳4年(1455年)、文明13年(1481年)の銘がある。昭和42年1月10日指定。
現地情報
所在地
香川県坂出市神谷町621
交通アクセス
坂出駅(JR四国予讃線)から、琴参バス(王越行き)で「高屋南」バス停下車(所要約15分、下車後徒歩20分)
本殿(国宝)
概要
坂出市東部、五色台の一峰・白峰山の麓に鎮座する。「神谷」と呼ばれる谷間に位置し、境内の北方を神谷川が流れる。
本殿は造営年代が明らかな流造社殿の中では最古のもので、国宝に指定されている。国宝の社殿を持つ神社ではあるが、境内は比較的小さい。そのほか、重要文化財の木造随身立像などの神宝を現在に伝えている。
祭神
主祭神
火結命 (ほむすびのみこと)
奥津彦命 (おくつひこのみこと)
奥津姫命 (おくつひめのみこと)
相殿神
春日四神
経津主神 (ふつぬしのかみ)
武甕槌神 (たけみかづちのかみ)
天児屋命 (あめのこやねのみこと)
姫大神 (ひめおおかみ)
境内
本殿は、鎌倉時代初期の建保7年(1219年)に荘官の刑部正長により旧本殿より再建された三間社流れ造りの社殿である。建造年の明らかな神社建築としては日本最古であり、国宝に指定されている。
また、社殿裏手約50mの地には、「影向石」と呼ばれる巨岩が立つ。当地では古代に磐座として祭祀が行われていたという。
文化財
国宝
本殿 - 昭和30年(1955年)2月2日指定。
重要文化財(国指定)
木造随身立像 2躯
阿・吽一対の立像。鎌倉時代初期の作品とされる。昭和41年(1966年)6月11日指定。
坂出市指定有形文化財
神社法楽連歌(書跡)
明応2年(1493年)2月に神社前で興行された百韻連歌。鳥ノ子紙半折四枚に記載されたもの。昭和33年2月21日指定。
舞楽面 2面(工芸品)
抜頭・還城楽の二面。昭和36年11月3日指定。
写経大般若波羅蜜多経 600巻(典籍)
享徳4年(1455年)、文明13年(1481年)の銘がある。昭和42年1月10日指定。
現地情報
所在地
香川県坂出市神谷町621
交通アクセス
坂出駅(JR四国予讃線)から、琴参バス(王越行き)で「高屋南」バス停下車(所要約15分、下車後徒歩20分)