大浦天主堂(おおうら てんしゅどう)は、長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂である。江戸時代幕末の開国後、1864年(元治元年)に竣工した。日本に現存するキリスト教建築物としては最古である。正式名は日本二十六聖殉教者聖堂。その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会で、殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている。
1953年(昭和28年)、国宝に指定された。また、2007年(平成19年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まり、2018年(平成30年)に登録が決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する文化財の1つである。2016年(平成28年)に日本初の小バシリカに指定された。
信仰の場であるとともに観光地でもあり、拝観は有料である。大人600円、2018年4月1日からは「キリシタン博物館」開設に伴い1000円となる。
観光客の増加に伴い、1975年(昭和50年)に、天主堂に登る石段横の隣接地にカトリック大浦教会が建てられ、毎日のミサは大浦教会で行われている。
ただ、特定日に限って当教会でミサが行われている。
信徒の発見と大浦天主堂
建立まもない天主堂は「フランス寺」と呼ばれ、美しさと物珍しさから付近の住民たちが多数見物に訪れていた。プティジャン神父には「今でも何処かでカトリック教徒が密かに信仰を伝えているのではないか」という僅かな期待があった。
1865年3月17日(元治2年2月12日)、浦上(長崎市)の住民十数名が天主堂を訪れた。そのうちの40〜50歳くらいの女性がひとり、祈っていたプティジャンに近づき、「私どもは神父様と同じ心であります」(宗旨が同じです)と囁き、自分たちがカトリック教徒であることを告白した (この女性の名は、イザベリナ杉本百合だったと言われている)。彼らは聖母像があること、神父が独身であることから間違いなくカトリックの教会であると確信し、自分たちが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる隠れキリシタンである事実を話し、プティジャン神父を喜ばせた。
その後、プティジャン神父は密かに浦上や五島などに布教を兼ねて訪れ、隠れた信者の発見に努めた。浦上だけでなく長崎周辺の各地で多くのカトリック教徒が秘密裏に信仰を守り続けていたことがわかった。この「信徒発見」のニュースはやがて当時の教皇ピオ9世のもとにもたらされた。教皇は感激して、これを「東洋の奇跡」と呼んだという。この日は現在カトリック教会では任意の記念日(祝日)となっている。
交通
長崎電気軌道5号系統 「大浦天主堂」電停下車 徒歩5分
長崎バス「松ヶ枝国際ターミナル」バス停(2022年10月1日「グラバー園入口」から停留所名称変更[13])下車 徒歩5分
坂道を上った後、券売所からさらに石段を上ることになる。駐車場はない。
用途 教会
着工 1862年
竣工 1864年
開館開所 1865年2月19日
改築 1875-1879年
所在地 長崎県長崎市南山手町5-3
座標 北緯32度44分3.0秒 東経129度52分12.5秒
文化財 国宝
指定・登録等日 1933年1月23日:旧国宝(現行法の重要文化財に相当)指定
1953年3月31日:国宝(文化財保護法)指定
2022年11月26日
2022年11月25日
富山県唯一の国宝・瑞龍寺(ずいりゅうじ)
瑞龍寺(ずいりゅうじ)は、富山県高岡市にある曹洞宗の仏教寺院。山号は高岡山。本尊は釈迦如来。開基は前田藩前田家3代目当主前田利常、開山は広山恕陽。高岡城を築城してこの地で亡くなった前田家2代目当主、前田利長を弔うために建立された。仏殿、法堂、山門の3棟が近世禅宗様建築の代表作として、1997年(平成9年)に国宝に指定されている。これは富山県下における初の国宝指定であり、2020年(令和2年)11月現在も富山県唯一の国宝である。2015年(平成27年)4月24日、「加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡−人、技、心−」の構成文化財として日本遺産にも認定される。
歴史
前田藩2代藩主前田利長(1562年 - 1614年)が、織田信長・信忠らの追善のため、1594年(文禄3年)金沢に創建した宝円寺(後に法円寺と改称)が瑞龍寺の前身である。利長は1605年(慶長10年)、44歳で家督を異母弟の利常(1594年 - 1658年)に譲り、自らは隠居した。利長には実子がなかったため、30歳以上年下の異母弟で、当時まだ少年であった利常を養嗣子としたのである。隠居後の利長は金沢から富山に移転するが、富山城の炎上を機に高岡に移り、ここに新たに高岡城を築いた。前述の法円寺は、利長死去の前年である1613年(慶長18年)、高岡に移された。
前田利長は1614年(慶長19年)没し、後を継いだ3代藩主前田利常は、法円寺を利長の菩提寺とし、利長の法名瑞龍院に因んで寺名を瑞龍院と改めた(後、さらに瑞龍寺に改称)。
伽藍
総門
重要文化財。正保年間に竣工。正面幅三間の薬医門形式。
山門
国宝。現在の門は1820年(文政3年)に竣工したものである。高さは約18mで寺院内で最も高い。1645年(正保2年)竣工した山門は万治年間に場所を移して建てかえられたが、1746年(延享3年)の火災で焼失した。長らく仮の門が建てられていたが、焼失した門と同様の古式な禅宗様式で再建された。
二重門(2階建てで、上層と下層の境にも軒の出をつくるもの)で、屋根は入母屋造、杮(こけら)葺き。二重門では下層の屋根を上層よりも大きくつくることが多いが、この門では上層と下層の屋根の出があまり変わらない。これは積雪時に上層屋根から落下した雪が下層屋根に当たるのを防ぐためといわれる。
下層左右には金剛力士(仁王)像、上層内部(楼上)には宝冠釈迦如来と十六羅漢像を安置する。なお楼上は一般公開していないが、宝物展などが開催された際に公開されることがある。
山門
仏殿
国宝。棟札により1659年(万治2年)の竣工とわかる。
入母屋造、一重裳階(もこし)付きの総欅造りで、屋根は当初杮(こけら)葺きであったが、現状は総重量約47トンの鉛瓦葺きとする。鉛製の瓦を用いる理由は、俗説では非常時に鉄砲の弾にするためともいうが、実際は冬季の積雪対策のためだという。内部を土間床とし、天井の構造材を見せて装飾としている点、組物(柱上にあり、軒や天井を支える構造材)を密に配する点などは禅宗様建築の特色であり、柱、扉、窓などの細部様式も典型的な禅宗様になる。
本尊の釈迦如来と、普賢菩薩、文殊菩薩の釈迦三尊像のほか、達磨座像、跋駄羅尊者像を安置する。釈迦三尊像の上部天井には、前田家の家臣、長連頼(ちょうづらより)九郎左衛門より1658年(明暦4年)に寄進されたといわれる天蓋が架かる
仏殿
法堂
国宝。墨書から1655年(明暦元年)の建立とわかる。
総桧造りの入母屋造、銅板葺き。内部を土間床とする仏殿に対し、法堂は畳敷きで、横2列、縦3列の6部屋を配する方丈形式の間取りで建坪186坪である。手前の3部屋の前面には広縁(板間)があり、その前面は左右に細長い土間廊下とする。こうした平面形式は曹洞宗建築の特色を示す。二代藩主前田利長の位牌を建物中央奥に安置する。
かつて同寺にあった七間浄頭(東司)に祭られていた烏瑟沙摩明王立像を安置する。
法堂
文化財
国宝
瑞龍寺 3棟
仏殿
法堂
山門
重要文化財
瑞龍寺 7棟
総門
禅堂
大茶堂
高廊下
北回廊(大庫裏と鐘楼付属)
南東回廊
南西回廊
紙本墨書後陽成院宸翰御消息
拝観
拝観時間 9:00 - 16:30
拝観料 500円
年に何回かライトアップが行われ、夜間拝観が行われる。
年始には無料開放される。
アクセス
寺は北陸新幹線・JR城端線の新高岡駅とあいの風とやま鉄道(2015年3月13日までは北陸本線)・JR氷見線・JR城端線の高岡駅に挟まれる場所に位置する。寺のすぐ西側を城端線が通るが寺の近くに駅はなく、新高岡駅または高岡駅からのアクセスとなる。
北陸新幹線・JR城端線新高岡駅より
徒歩:15分
バス:1・2番のりばより加越能バス高岡駅方面行きに乗車、「瑞龍寺口」バス停で下車、徒歩5分
あいの風とやま鉄道・JR氷見線・JR城端線高岡駅より
徒歩:10分
バス:南口1番のりばより加越能バス新高岡駅方面行きに乗車、「瑞龍寺口」バス停で下車、徒歩5分
金沢駅より
高速バス:高岡行きに乗車、「瑞龍寺口」バス停で下車、徒歩5分
所在地 富山県高岡市関本町35
歴史
前田藩2代藩主前田利長(1562年 - 1614年)が、織田信長・信忠らの追善のため、1594年(文禄3年)金沢に創建した宝円寺(後に法円寺と改称)が瑞龍寺の前身である。利長は1605年(慶長10年)、44歳で家督を異母弟の利常(1594年 - 1658年)に譲り、自らは隠居した。利長には実子がなかったため、30歳以上年下の異母弟で、当時まだ少年であった利常を養嗣子としたのである。隠居後の利長は金沢から富山に移転するが、富山城の炎上を機に高岡に移り、ここに新たに高岡城を築いた。前述の法円寺は、利長死去の前年である1613年(慶長18年)、高岡に移された。
前田利長は1614年(慶長19年)没し、後を継いだ3代藩主前田利常は、法円寺を利長の菩提寺とし、利長の法名瑞龍院に因んで寺名を瑞龍院と改めた(後、さらに瑞龍寺に改称)。
伽藍
総門
重要文化財。正保年間に竣工。正面幅三間の薬医門形式。
山門
国宝。現在の門は1820年(文政3年)に竣工したものである。高さは約18mで寺院内で最も高い。1645年(正保2年)竣工した山門は万治年間に場所を移して建てかえられたが、1746年(延享3年)の火災で焼失した。長らく仮の門が建てられていたが、焼失した門と同様の古式な禅宗様式で再建された。
二重門(2階建てで、上層と下層の境にも軒の出をつくるもの)で、屋根は入母屋造、杮(こけら)葺き。二重門では下層の屋根を上層よりも大きくつくることが多いが、この門では上層と下層の屋根の出があまり変わらない。これは積雪時に上層屋根から落下した雪が下層屋根に当たるのを防ぐためといわれる。
下層左右には金剛力士(仁王)像、上層内部(楼上)には宝冠釈迦如来と十六羅漢像を安置する。なお楼上は一般公開していないが、宝物展などが開催された際に公開されることがある。
山門
仏殿
国宝。棟札により1659年(万治2年)の竣工とわかる。
入母屋造、一重裳階(もこし)付きの総欅造りで、屋根は当初杮(こけら)葺きであったが、現状は総重量約47トンの鉛瓦葺きとする。鉛製の瓦を用いる理由は、俗説では非常時に鉄砲の弾にするためともいうが、実際は冬季の積雪対策のためだという。内部を土間床とし、天井の構造材を見せて装飾としている点、組物(柱上にあり、軒や天井を支える構造材)を密に配する点などは禅宗様建築の特色であり、柱、扉、窓などの細部様式も典型的な禅宗様になる。
本尊の釈迦如来と、普賢菩薩、文殊菩薩の釈迦三尊像のほか、達磨座像、跋駄羅尊者像を安置する。釈迦三尊像の上部天井には、前田家の家臣、長連頼(ちょうづらより)九郎左衛門より1658年(明暦4年)に寄進されたといわれる天蓋が架かる
仏殿
法堂
国宝。墨書から1655年(明暦元年)の建立とわかる。
総桧造りの入母屋造、銅板葺き。内部を土間床とする仏殿に対し、法堂は畳敷きで、横2列、縦3列の6部屋を配する方丈形式の間取りで建坪186坪である。手前の3部屋の前面には広縁(板間)があり、その前面は左右に細長い土間廊下とする。こうした平面形式は曹洞宗建築の特色を示す。二代藩主前田利長の位牌を建物中央奥に安置する。
かつて同寺にあった七間浄頭(東司)に祭られていた烏瑟沙摩明王立像を安置する。
法堂
文化財
国宝
瑞龍寺 3棟
仏殿
法堂
山門
重要文化財
瑞龍寺 7棟
総門
禅堂
大茶堂
高廊下
北回廊(大庫裏と鐘楼付属)
南東回廊
南西回廊
紙本墨書後陽成院宸翰御消息
拝観
拝観時間 9:00 - 16:30
拝観料 500円
年に何回かライトアップが行われ、夜間拝観が行われる。
年始には無料開放される。
アクセス
寺は北陸新幹線・JR城端線の新高岡駅とあいの風とやま鉄道(2015年3月13日までは北陸本線)・JR氷見線・JR城端線の高岡駅に挟まれる場所に位置する。寺のすぐ西側を城端線が通るが寺の近くに駅はなく、新高岡駅または高岡駅からのアクセスとなる。
北陸新幹線・JR城端線新高岡駅より
徒歩:15分
バス:1・2番のりばより加越能バス高岡駅方面行きに乗車、「瑞龍寺口」バス停で下車、徒歩5分
あいの風とやま鉄道・JR氷見線・JR城端線高岡駅より
徒歩:10分
バス:南口1番のりばより加越能バス新高岡駅方面行きに乗車、「瑞龍寺口」バス停で下車、徒歩5分
金沢駅より
高速バス:高岡行きに乗車、「瑞龍寺口」バス停で下車、徒歩5分
所在地 富山県高岡市関本町35
2022年11月24日
倭文神社(しとりじんじゃ/しずりじんじゃ)は、鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内にある神社
倭文神社(しとりじんじゃ/しずりじんじゃ)は、鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内にある神社。式内社、伯耆国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。境内にある経塚は国の史跡に指定され、出土品は国宝に指定されている。
祭神
主祭神
建葉槌命
配神
下照姫命
建御名方命
天稚彦命
事代主命
少彦名命
味耜高彦根命
歴史
機織に携わった氏族である倭文氏が祖神の建葉槌命を祀ったのが起源とされている。ただし、社伝には下照姫命に関するものが多く、大正時代までは下照姫命が主祭神であると考えられていた。社伝によれば、出雲から渡った下照姫命が現在の湯梨浜町宇野に着船し、御冠山に登って現在地に鎮まったという。着船したと伝えられる場所には、下照姫命が化粧を直したという「化粧水」や、腰を掛けたという「お腰掛岩」などが残っている。これについて、『式内社調査報告』では、元々は織物の神である建葉槌命を祀っていたのが、当地で織物が作られなくなったことにより建葉槌命の存在が忘れられ、共に祀られていた下照姫命だけが残ったと記している。
境内の塚が下照姫命の墓であると考えられていたが、大正4年(1915年)の発掘により経塚であることが判明した。その出土品の銘文から、当社が平安時代後期には伯耆国一宮であったことがわかった。このときの出土品である観音菩薩立像などは「伯耆一宮経塚出土品」の名称で、一括して国宝に指定されている。
戦国時代、当地を治めた武将に社領を没収され荒廃したが、天文23年(1554年)に尼子氏が社殿を再建した。また、地元の国人・南条氏からも寄進を受けた。その後当地を治めた池田氏も崇敬し、鳥取藩主の祈願所となった。昭和14年(1939年)、国幣小社に列格し、第二次世界大戦後は別表神社となった。
かつて主祭神であった下照姫命が女神であることから、安産に霊験があるとされる。本殿の後には、かつて「乳神」と呼ばれる神木があったが、現在は倒壊している。参道沿いには「安産岩」と呼ばれる岩がある。昔、毎回難産に苦しんでいた女性が願かけをし、その満願の日の夢に下照姫命が姿を現し、参詣の帰途、この岩の所で簡単に出産したため安産岩と呼ばれるようになったと伝えられる。この岩を削って飲むと霊験があるとされる。
文化財
国宝
伯耆一宮経塚出土品 一括
内訳は下記。大正4年(1915年)、社殿の南南東180メートルほどのところにある経塚(経典を後世に遺すため埋納した塚)から出土した一括遺物。銅経筒は径20センチ、高さ42.5センチで、円筒形の筒身に宝珠鈕付き、屋根形の蓋を付す。筒身には15行236字の銘文が線刻され、康和5年(1103年)に京尊という僧が埋納したものであることがわかる。出土品のうち、金銅観音菩薩立像は奈良時代にさかのぼる作品である。出土品一括は東京国立博物館に寄託。
1920年(大正9年)4月15日、当時の古社寺保存法に基づく旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定。1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定。
銅経筒 1口 康和五年十月三日伯耆一宮辰巳岳上奉埋納在銘
金銅観音菩薩立像 1躯
銅造千手観音菩薩立像 1躯
銅板線刻弥勒立像 1面
銅鏡 2面
桧扇残片 一括
短刀刀子残闕 一括
瑠璃玉 一括
銅銭 2枚
漆器残片 一括
国の史跡
伯耆一宮経塚 - 1935年(昭和10年)12月24日指定。
伯耆一宮経塚出土品(国宝)東京国立博物館展示。
現地情報
所在地
鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内754
交通アクセス
鉄道:西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線 松崎駅 (徒歩約35分)
祭神
主祭神
建葉槌命
配神
下照姫命
建御名方命
天稚彦命
事代主命
少彦名命
味耜高彦根命
歴史
機織に携わった氏族である倭文氏が祖神の建葉槌命を祀ったのが起源とされている。ただし、社伝には下照姫命に関するものが多く、大正時代までは下照姫命が主祭神であると考えられていた。社伝によれば、出雲から渡った下照姫命が現在の湯梨浜町宇野に着船し、御冠山に登って現在地に鎮まったという。着船したと伝えられる場所には、下照姫命が化粧を直したという「化粧水」や、腰を掛けたという「お腰掛岩」などが残っている。これについて、『式内社調査報告』では、元々は織物の神である建葉槌命を祀っていたのが、当地で織物が作られなくなったことにより建葉槌命の存在が忘れられ、共に祀られていた下照姫命だけが残ったと記している。
境内の塚が下照姫命の墓であると考えられていたが、大正4年(1915年)の発掘により経塚であることが判明した。その出土品の銘文から、当社が平安時代後期には伯耆国一宮であったことがわかった。このときの出土品である観音菩薩立像などは「伯耆一宮経塚出土品」の名称で、一括して国宝に指定されている。
戦国時代、当地を治めた武将に社領を没収され荒廃したが、天文23年(1554年)に尼子氏が社殿を再建した。また、地元の国人・南条氏からも寄進を受けた。その後当地を治めた池田氏も崇敬し、鳥取藩主の祈願所となった。昭和14年(1939年)、国幣小社に列格し、第二次世界大戦後は別表神社となった。
かつて主祭神であった下照姫命が女神であることから、安産に霊験があるとされる。本殿の後には、かつて「乳神」と呼ばれる神木があったが、現在は倒壊している。参道沿いには「安産岩」と呼ばれる岩がある。昔、毎回難産に苦しんでいた女性が願かけをし、その満願の日の夢に下照姫命が姿を現し、参詣の帰途、この岩の所で簡単に出産したため安産岩と呼ばれるようになったと伝えられる。この岩を削って飲むと霊験があるとされる。
文化財
国宝
伯耆一宮経塚出土品 一括
内訳は下記。大正4年(1915年)、社殿の南南東180メートルほどのところにある経塚(経典を後世に遺すため埋納した塚)から出土した一括遺物。銅経筒は径20センチ、高さ42.5センチで、円筒形の筒身に宝珠鈕付き、屋根形の蓋を付す。筒身には15行236字の銘文が線刻され、康和5年(1103年)に京尊という僧が埋納したものであることがわかる。出土品のうち、金銅観音菩薩立像は奈良時代にさかのぼる作品である。出土品一括は東京国立博物館に寄託。
1920年(大正9年)4月15日、当時の古社寺保存法に基づく旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定。1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定。
銅経筒 1口 康和五年十月三日伯耆一宮辰巳岳上奉埋納在銘
金銅観音菩薩立像 1躯
銅造千手観音菩薩立像 1躯
銅板線刻弥勒立像 1面
銅鏡 2面
桧扇残片 一括
短刀刀子残闕 一括
瑠璃玉 一括
銅銭 2枚
漆器残片 一括
国の史跡
伯耆一宮経塚 - 1935年(昭和10年)12月24日指定。
伯耆一宮経塚出土品(国宝)東京国立博物館展示。
現地情報
所在地
鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内754
交通アクセス
鉄道:西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線 松崎駅 (徒歩約35分)
2022年11月23日
ユネスコ世界文化遺産に登録されている・日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)
日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を主祭神として祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。また久能山東照宮・上野東照宮と共に三大東照宮の一つに数えられる。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、東照宮の公式サイトがホームページに「日光東照宮」と掲げており、他の東照宮との区別のために「日光東照宮」とも呼ばれる。
隣接する仏教寺院の輪王寺は、勝道による日光山開山を奈良時代の天平神護2年(766年)とする。その後、関東地方の霊場として尊崇を集め、鎌倉幕府創始者の源頼朝からも寄進を受けた。頼朝は、母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて、東国の宗教的権威となっていた。こうした歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。
輪王寺、日光二荒山神社を含めた二社一寺は、「日光の社寺」としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。JR日光駅、東武日光駅にかけて門前町が形成され、参拝者や外国人を含む観光客が多く訪れる。
歴史
江戸時代の元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡市)で死去した。遺命によって遺骸は直ちに駿河国の久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮の完成を見たが、翌・元和3年(1617年)に二代将軍秀忠が天海僧正に命じ下野国日光に改葬されることとなった。
日光では同年4月(4月)に社殿が完成し(作事奉行は藤堂高虎が務めた)、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、家康死去の一周忌にあたる4月17日に遷座祭が行われた。なお、改葬の際、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争となり、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。
文化財
建造物
国宝(8棟)
以下の5件8棟の建造物が国宝に指定されている。
本殿、石の間及び拝殿(1棟)(附 銅箱入供養具9箇、旧妻戸2枚、箱入大工道具一具)
正面及び背面唐門 2棟
東西透塀 2棟
陽明門 1棟(附 旧天井板2枚)
東西回廊 2棟(附 潜門)
重要文化財(34棟)
美術工芸品
国宝
太刀 銘助真(附:打刀拵)(日光助真)
太刀 銘国宗(附:糸巻太刀拵)
太刀 銘助真(日光助真) ※東京国立博物館にて展示。
世界遺産等
世界遺産:文化遺産「日光の社寺」
国の史跡「日光山内」
交通アクセス
鉄道
TN 東武日光線・東武日光駅、JR日光線・日光駅
駅から東武バス日光の中禅寺温泉・湯元温泉方面、奥細尾行きおよび「世界遺産めぐり循環バス」を利用し、西参道下車。
関東自動車の一般路線バス・JR宇都宮駅 - 東武駅前〜日光駅前(JR・東武)〜日光東照宮行きに乗車、終点で下車となる。
日光駅の各2停留所は、駅前に乗り入れず、駅そばの国道119号上のバス停からの利用となる。東武バス日光・関東自動車も「totra」や「Suica」など交通系ICカードが利用可能。
わたらせ渓谷鉄道通洞駅・足尾駅・間藤駅から日光市営バス足尾JR日光駅線「JR日光駅行き」に乗車、日光総合会館前下車。1日6往復運行されている。
定期観光バス
鬼怒川温泉駅発・東武日光駅発(東武バス日光)
東京駅発(はとバス・東武バスセントラル)
自動車でのアクセス
日光宇都宮道路「日光インターチェンジ」より15分
一般道路:国道119号 - 国道120号
観光シーズンには日光市中心部の混雑緩和を図るため、日光霧降スケートセンターや清滝インターチェンジ近隣に臨時駐車場を設置して、路線バスや臨時シャトルバスによるパークアンドライドが行われることがある。
駐車場:有り
所在地 栃木県日光市山内2301
位置 北緯36度45分29.03秒 東経139度35分56.25秒
主祭神 徳川家康公
(相殿)豊臣秀吉公・源頼朝卿
社格等 別格官幣社
創建 元和3年(1617年)
本殿の様式 権現造
例祭 5月17日・18日
隣接する仏教寺院の輪王寺は、勝道による日光山開山を奈良時代の天平神護2年(766年)とする。その後、関東地方の霊場として尊崇を集め、鎌倉幕府創始者の源頼朝からも寄進を受けた。頼朝は、母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて、東国の宗教的権威となっていた。こうした歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。
輪王寺、日光二荒山神社を含めた二社一寺は、「日光の社寺」としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。JR日光駅、東武日光駅にかけて門前町が形成され、参拝者や外国人を含む観光客が多く訪れる。
歴史
江戸時代の元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡市)で死去した。遺命によって遺骸は直ちに駿河国の久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮の完成を見たが、翌・元和3年(1617年)に二代将軍秀忠が天海僧正に命じ下野国日光に改葬されることとなった。
日光では同年4月(4月)に社殿が完成し(作事奉行は藤堂高虎が務めた)、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、家康死去の一周忌にあたる4月17日に遷座祭が行われた。なお、改葬の際、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争となり、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。
文化財
建造物
国宝(8棟)
以下の5件8棟の建造物が国宝に指定されている。
本殿、石の間及び拝殿(1棟)(附 銅箱入供養具9箇、旧妻戸2枚、箱入大工道具一具)
正面及び背面唐門 2棟
東西透塀 2棟
陽明門 1棟(附 旧天井板2枚)
東西回廊 2棟(附 潜門)
重要文化財(34棟)
美術工芸品
国宝
太刀 銘助真(附:打刀拵)(日光助真)
太刀 銘国宗(附:糸巻太刀拵)
太刀 銘助真(日光助真) ※東京国立博物館にて展示。
世界遺産等
世界遺産:文化遺産「日光の社寺」
国の史跡「日光山内」
交通アクセス
鉄道
TN 東武日光線・東武日光駅、JR日光線・日光駅
駅から東武バス日光の中禅寺温泉・湯元温泉方面、奥細尾行きおよび「世界遺産めぐり循環バス」を利用し、西参道下車。
関東自動車の一般路線バス・JR宇都宮駅 - 東武駅前〜日光駅前(JR・東武)〜日光東照宮行きに乗車、終点で下車となる。
日光駅の各2停留所は、駅前に乗り入れず、駅そばの国道119号上のバス停からの利用となる。東武バス日光・関東自動車も「totra」や「Suica」など交通系ICカードが利用可能。
わたらせ渓谷鉄道通洞駅・足尾駅・間藤駅から日光市営バス足尾JR日光駅線「JR日光駅行き」に乗車、日光総合会館前下車。1日6往復運行されている。
定期観光バス
鬼怒川温泉駅発・東武日光駅発(東武バス日光)
東京駅発(はとバス・東武バスセントラル)
自動車でのアクセス
日光宇都宮道路「日光インターチェンジ」より15分
一般道路:国道119号 - 国道120号
観光シーズンには日光市中心部の混雑緩和を図るため、日光霧降スケートセンターや清滝インターチェンジ近隣に臨時駐車場を設置して、路線バスや臨時シャトルバスによるパークアンドライドが行われることがある。
駐車場:有り
所在地 栃木県日光市山内2301
位置 北緯36度45分29.03秒 東経139度35分56.25秒
主祭神 徳川家康公
(相殿)豊臣秀吉公・源頼朝卿
社格等 別格官幣社
創建 元和3年(1617年)
本殿の様式 権現造
例祭 5月17日・18日
2022年11月22日
極楽寺(ごくらくじ)は徳島県鳴門市にある高野山真言宗の寺院
極楽寺(ごくらくじ)は徳島県鳴門市にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所第2番札所。日照山(にっしょうざん)無量寿院(むりょうじゅいん)と号する。本尊は阿弥陀如来。2015年4月24日、「四国遍路」-回遊型巡礼路と独自の巡礼文化- の構成文化財として、日本遺産に認定されている。当札所以降88番札所まで同文につき、この日本遺産に関する記述を省略する。
本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん
ご詠歌:極楽の弥陀(みだ)の浄土へ行きたくば 南無阿弥陀仏口(くち)ぐせにせよ
極楽寺の仁王門
歴史
寺伝によれば、奈良時代(710年 - 784年)、行基の開基という。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地での21日間(三七日)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたといい、この阿弥陀如来の後光は遠く鳴門まで達し、魚が採れなくなったため、困った漁民たちが本堂の前に山を築いて光をさえぎったということから「日照山」と号するとされる。
また、空海がその阿弥陀経を読誦した際、難産だった難波の女性が空海の加持により無事安産し、そのお礼にと木造大師像を寄進したのが大師堂の本尊である。そして、明治時代に同じく大阪住吉の女性が安産祈願をし、お告げにより四国遍路に出て無事男の子を出産したお礼にと修行大師像を寄進したのが、大師堂の向かって左前に立つ安産修行大師像である。これらのことから、当寺では子授け・安産の寺として随時祈祷祈願を受け付けていて、安産お守り・腹帯を授けている。
なお、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失し、万治2年(1659年)に徳島藩主蜂須賀光隆によって再建されている。
本尊と同体の石仏
文化財
重要文化財
木造阿弥陀如来坐像 - 秘仏本尊、漆箔・古色、像高84.0cm、鎌倉時代作、1911年(明治44年)8月9日指定。
徳島県指定有形文化財
絹本著色両界曼陀羅図 - 縦157cm横107cm、1973年(昭和48年)1月12日指定。
鳴門市指定天然記念物
大杉(長命杉) - 幹周4.65m、樹高15m、1967年(昭和42年)11月9日指定。
石段下の両脇には一対の狛犬
本堂
交通案内
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 高徳線 - 阿波川端駅下車 (1.1km)、板東駅下車 (1.5km)
バス
徳島バス 鳴門大麻線「二番札所前」下車 (0.1km)
道路
一般道:徳島県道12号鳴門池田線 極楽寺前 (0.1km)
自動車道:高松自動車道 板野IC (2.3km)、徳島自動車道藍住IC (5.1km)
所在地 徳島県鳴門市大麻町桧字ダンノ上12番地
位置 北緯34度9分20.34秒 東経134度29分25.25秒
山号 日照山
院号 無量寿院
宗派 高野山真言宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・弘仁年間(810年 - 824年)
開山 伝・行基
正式名 日照山 無量寿院 極楽寺
札所等 四国八十八箇所第2番
阿波西国三十三観音霊場東部第21番
阿波北嶺薬師霊場第11番
文化財 阿弥陀如来像(重要文化財)
本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん
ご詠歌:極楽の弥陀(みだ)の浄土へ行きたくば 南無阿弥陀仏口(くち)ぐせにせよ
極楽寺の仁王門
歴史
寺伝によれば、奈良時代(710年 - 784年)、行基の開基という。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地での21日間(三七日)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたといい、この阿弥陀如来の後光は遠く鳴門まで達し、魚が採れなくなったため、困った漁民たちが本堂の前に山を築いて光をさえぎったということから「日照山」と号するとされる。
また、空海がその阿弥陀経を読誦した際、難産だった難波の女性が空海の加持により無事安産し、そのお礼にと木造大師像を寄進したのが大師堂の本尊である。そして、明治時代に同じく大阪住吉の女性が安産祈願をし、お告げにより四国遍路に出て無事男の子を出産したお礼にと修行大師像を寄進したのが、大師堂の向かって左前に立つ安産修行大師像である。これらのことから、当寺では子授け・安産の寺として随時祈祷祈願を受け付けていて、安産お守り・腹帯を授けている。
なお、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失し、万治2年(1659年)に徳島藩主蜂須賀光隆によって再建されている。
本尊と同体の石仏
文化財
重要文化財
木造阿弥陀如来坐像 - 秘仏本尊、漆箔・古色、像高84.0cm、鎌倉時代作、1911年(明治44年)8月9日指定。
徳島県指定有形文化財
絹本著色両界曼陀羅図 - 縦157cm横107cm、1973年(昭和48年)1月12日指定。
鳴門市指定天然記念物
大杉(長命杉) - 幹周4.65m、樹高15m、1967年(昭和42年)11月9日指定。
石段下の両脇には一対の狛犬
本堂
交通案内
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 高徳線 - 阿波川端駅下車 (1.1km)、板東駅下車 (1.5km)
バス
徳島バス 鳴門大麻線「二番札所前」下車 (0.1km)
道路
一般道:徳島県道12号鳴門池田線 極楽寺前 (0.1km)
自動車道:高松自動車道 板野IC (2.3km)、徳島自動車道藍住IC (5.1km)
所在地 徳島県鳴門市大麻町桧字ダンノ上12番地
位置 北緯34度9分20.34秒 東経134度29分25.25秒
山号 日照山
院号 無量寿院
宗派 高野山真言宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・弘仁年間(810年 - 824年)
開山 伝・行基
正式名 日照山 無量寿院 極楽寺
札所等 四国八十八箇所第2番
阿波西国三十三観音霊場東部第21番
阿波北嶺薬師霊場第11番
文化財 阿弥陀如来像(重要文化財)
2022年11月21日
正福寺(しょうふくじ)は、東京都東村山市にある臨済宗建長寺派の禅宗寺院
正福寺(しょうふくじ)は、東京都東村山市にある臨済宗建長寺派の禅宗寺院。山号は金剛山。本尊は千手千眼観音。
地蔵堂・国宝建造物
歴史
創建年代については不詳であるが、鎌倉時代中期に鎌倉の建長寺僧石渓心月の開山により創建されたと伝えられ、開基については執権北条時頼とする説と北条時宗とする説がある。
室町時代の応永14年(1407年)建立とされる地蔵堂は、建造物として国宝の指定を受けている。
文化財
国宝
正福寺地蔵堂 - 1952年3月29日国宝指定
禅宗様仏殿の代表作の一つ。尾垂木の墨書から室町時代の応永14年(1407年)の建立と知られる。同時代の建築である鎌倉の円覚寺舎利殿と規模・形式が近似している。内部には本尊地蔵菩薩像のほか、多数の地蔵菩薩の小像が安置されている。
入母屋造、杮葺、一重裳階(もこし)付き。正面、側面ともに3間の身舎(もや)の周囲に1間の裳階が付いた形式で、平面はほぼ正方形である。入母屋造の屋根の端部が反り上がった外観は禅宗様特有のものである。内部は土間で、間仕切りのない一体の空間とし、天井は裳階部分は垂木をそのまま見せ、内陣中央は鏡天井とする。礎盤上に柱を立て、柱間にも組物を置いて詰組とする点、花頭窓・桟唐戸・貫を多用する点など、構造・意匠ともに禅宗様の特色が顕著に見られる。
茅葺であったが1933年(昭和8年)の解体修理に際して建築当初の柿葺に戻された。国立歴史民俗博物館には断面模型がある。
鎌倉街道沿いにあり、外部は常時見学可能、年一回の地蔵祭には内部も公開される。
市有形文化財
山門
市有形民俗文化財
貞和の板碑
都内最大級の板碑。現在のシチズングランドの前を通る小河川、前川の橋桁に使われていた。近隣の徳蔵寺には同様に板碑が保存されている。
所在地 東京都東村山市野口町
四丁目6番1号
位置 北緯35度45分53.2秒 東経139度27分34.1秒
山号 金剛山
宗派 臨済宗建長寺派
本尊 千手千眼観音
創建年 伝・鎌倉時代中期、弘安元年(1278)
開山 石渓心月
開基 伝・北条時頼[1]または北条時宗
札所等 狭山三十三観音霊場第13番札所
文化財 地蔵堂(国宝)
貞和の板碑(市文化財)
地蔵堂・国宝建造物
歴史
創建年代については不詳であるが、鎌倉時代中期に鎌倉の建長寺僧石渓心月の開山により創建されたと伝えられ、開基については執権北条時頼とする説と北条時宗とする説がある。
室町時代の応永14年(1407年)建立とされる地蔵堂は、建造物として国宝の指定を受けている。
文化財
国宝
正福寺地蔵堂 - 1952年3月29日国宝指定
禅宗様仏殿の代表作の一つ。尾垂木の墨書から室町時代の応永14年(1407年)の建立と知られる。同時代の建築である鎌倉の円覚寺舎利殿と規模・形式が近似している。内部には本尊地蔵菩薩像のほか、多数の地蔵菩薩の小像が安置されている。
入母屋造、杮葺、一重裳階(もこし)付き。正面、側面ともに3間の身舎(もや)の周囲に1間の裳階が付いた形式で、平面はほぼ正方形である。入母屋造の屋根の端部が反り上がった外観は禅宗様特有のものである。内部は土間で、間仕切りのない一体の空間とし、天井は裳階部分は垂木をそのまま見せ、内陣中央は鏡天井とする。礎盤上に柱を立て、柱間にも組物を置いて詰組とする点、花頭窓・桟唐戸・貫を多用する点など、構造・意匠ともに禅宗様の特色が顕著に見られる。
茅葺であったが1933年(昭和8年)の解体修理に際して建築当初の柿葺に戻された。国立歴史民俗博物館には断面模型がある。
鎌倉街道沿いにあり、外部は常時見学可能、年一回の地蔵祭には内部も公開される。
市有形文化財
山門
市有形民俗文化財
貞和の板碑
都内最大級の板碑。現在のシチズングランドの前を通る小河川、前川の橋桁に使われていた。近隣の徳蔵寺には同様に板碑が保存されている。
所在地 東京都東村山市野口町
四丁目6番1号
位置 北緯35度45分53.2秒 東経139度27分34.1秒
山号 金剛山
宗派 臨済宗建長寺派
本尊 千手千眼観音
創建年 伝・鎌倉時代中期、弘安元年(1278)
開山 石渓心月
開基 伝・北条時頼[1]または北条時宗
札所等 狭山三十三観音霊場第13番札所
文化財 地蔵堂(国宝)
貞和の板碑(市文化財)
2022年11月20日
全国にある香取神社の総本社・香取神宮(かとりじんぐう)
香取神宮(かとりじんぐう)は、千葉県香取市香取にある神社。式内社(名神大社)、下総国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。
拝殿
概要
千葉県北東部、利根川下流右岸の「亀甲山(かめがせやま)」と称される丘陵上に鎮座する。日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する経津主神(フツヌシ)を祭神とすることで知られる、全国でも有数の古社である。
古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神の一社として崇敬された。その神威は中世から武家の世となって以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道分野からの信仰が篤い神社である。
文化財としては、中国唐代の海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)が国宝に指定されている。建造物では江戸時代の本殿・楼門、美術工芸品では平安時代の鏡、中世の古瀬戸狛犬が国の重要文化財に指定されており、その他にも多くの文化財を現代に伝えている。
本殿(国の重要文化財)
祭神
祭神は次の1柱。
経津主大神(ふつぬしのおおかみ)
別名を伊波比主神/斎主神(いわいぬしのかみ)、斎之大人(いはひのうし)。
歴史
創建
社伝では、初代神武天皇18年の創建と伝える。黎明期に関しては明らかでないが、古くは『常陸国風土記』(8世紀初頭成立)にすでに「香取神子之社」として分祠の記載が見え、それ以前の鎮座は確実とされる。
また、古代に香取神宮は鹿島神宮とともに大和朝廷による東国支配の拠点として機能したとされるため、朝廷が拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説がある。これに対して、その前から原形となる祭祀が存在したとする説もある。
二の鳥居
境内
神宮の鎮座する丘は、中央が低く周囲が高いという形状から「亀甲山(かめがせやま)」と称されている。
神宮境内は神域とされ手付かずの自然が残されているため、多数のスギの巨木や、イヌマキ・モミ・クロマツの大木が生育している。高木層のみでなく亜高木層・低木層・林床にも多数の草木が生育しており、スギの老令林としては県内でも有数なものであるとして、千葉県指定天然記念物に指定されている。
社殿
現在の主な社殿は、江戸時代の元禄13年(1700年)、江戸幕府5代将軍の徳川綱吉の命により造営されたものである。この時に本殿・拝殿・楼門が整えられたが、うち拝殿は昭和11年(1936年)から昭和15年(1940年)の大修築に伴って改築がなされ、現在は祈祷殿として使用されている。この昭和の大修築では、幣殿・神饌所も造営された。主要社殿の形式は、大修築前後とも本殿・幣殿・拝殿が連なった権現造である。上記のうち本殿・楼門は国の重要文化財に、旧拝殿(祈祷殿)は千葉県指定文化財に指定されており、現拝殿は国の登録有形文化財に登録されている。
楼門(国の重要文化財)
文化財
国宝
海獣葡萄鏡 1面(工芸品)
直径29.6cm、縁の高さ2cm、重量537.5g、白銅製。中国・唐時代の作。
鏡背は葡萄唐草の地文様の上に獅子のほかさまざまな鳥・獣・虫を表す。鏡名の「海獣」は、鏡背中心部の鈕(つまみ)に表された狻猊(さんげい)を指す。狻猊は中国の伝説上の生物である。正倉院の南倉には本鏡と瓜二つの銅鏡があり、香取神宮鏡は正倉院の鏡と全く同一の鋳型から造った同笵鏡ではないが、両者は関係があると推定される。香取神宮に伝来した経緯は未詳。宝物館内に展示。昭和28年3月31日指定。
重要文化財(国指定)
本殿(附 棟札1枚、銘札1枚、海老錠3箇)・楼門(計2棟)(建造物)
本殿は昭和52年6月27日指定、昭和58年12月26日に楼門を追加指定。
古瀬戸黄釉狛犬 1対(工芸品)
阿吽一対の古瀬戸の狛犬。陶製。阿形(あぎょう)像の高さは17.6cm、吽形(うんぎょう)像は17.9cm。技法・作風から、鎌倉時代後期または室町時代初期の作と見られている。宝物館内に展示。昭和28年3月31日指定。なお阿形像は昭和51年7月1日発売の250円普通切手の意匠になっている。
双竜鏡 1面(工芸品)
直径20.5cm、縁の高さ5mm(蒲鉾形)、白銅製。平安時代の久安5年(1149年)の銘があり、鏡背文様を有する在銘の和鏡としては最古の例である。鏡背文様の様式は一般的な和鏡とは異なり、中国の宋あるいは朝鮮の高麗鏡に影響を受けたものと見られる。宝物館内に展示。昭和28年11月14日指定。
香取大禰宜家文書 15巻7冊(381通)(古文書)
大禰宜を世襲した香取家に伝わる古文書。平安時代後期から江戸時代までの文書381通からなる[18]。関東の神社文書としては代表的な遺品とされる。個人所有。昭和60年6月6日指定。
登録有形文化財(国登録)
香雲閣(建造物) - 平成12年2月15日登録。
拝殿・幣殿・神饌所(以上1棟)(建造物) - 平成13年4月24日登録。
現地情報
所在地
千葉県香取市香取1697
付属施設
宝物館 - 開館時間:午前9時から午後4時。海獣葡萄鏡(国宝)等の宝物を展示。
交通アクセス
鉄道
香取駅 - JR東日本(成田線・鹿島線)
徒歩:津宮参道を約30分
正月3が日にはシャトルバスが運行される。
佐原駅 - JR東日本成田線
徒歩:表参道を約50分
バス
千葉交通バス(香取神宮・上里経由小見川駅行) - 毎日運行。
香取市シャトルバス(佐原区循環バス(周遊ルート)) - 土・日・祝日のみ、往復10便。
タクシー:約10分
レンタサイクル:約20分 - 佐原駅前ほかで貸し出し。
高速バス
京成バス・千葉交通 利根ライナー号(佐原ルート、小見川・佐原ルート、小見川ルート)
東京駅八重洲口前(東京建物ビル隣り)発・大栄停留所を経由する。
佐原ルート:「佐原駅北口」、「香取市役所前」バス停下車
小見川・佐原ルート:「佐原駅北口」、「香取市役所前」、「佐原香取(佐原香取IC)」バス停下車
小見川ルート:「佐原香取(佐原香取IC)」バス停下車
関鉄グリーンバス あそう号(東京駅発)
「香取神宮」バス停下車
車
東関東自動車道 佐原香取ICから約1km
駐車場:無料駐車場(400台)と私営有料駐車場
関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。
拝殿
概要
千葉県北東部、利根川下流右岸の「亀甲山(かめがせやま)」と称される丘陵上に鎮座する。日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する経津主神(フツヌシ)を祭神とすることで知られる、全国でも有数の古社である。
古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神の一社として崇敬された。その神威は中世から武家の世となって以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道分野からの信仰が篤い神社である。
文化財としては、中国唐代の海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)が国宝に指定されている。建造物では江戸時代の本殿・楼門、美術工芸品では平安時代の鏡、中世の古瀬戸狛犬が国の重要文化財に指定されており、その他にも多くの文化財を現代に伝えている。
本殿(国の重要文化財)
祭神
祭神は次の1柱。
経津主大神(ふつぬしのおおかみ)
別名を伊波比主神/斎主神(いわいぬしのかみ)、斎之大人(いはひのうし)。
歴史
創建
社伝では、初代神武天皇18年の創建と伝える。黎明期に関しては明らかでないが、古くは『常陸国風土記』(8世紀初頭成立)にすでに「香取神子之社」として分祠の記載が見え、それ以前の鎮座は確実とされる。
また、古代に香取神宮は鹿島神宮とともに大和朝廷による東国支配の拠点として機能したとされるため、朝廷が拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説がある。これに対して、その前から原形となる祭祀が存在したとする説もある。
二の鳥居
境内
神宮の鎮座する丘は、中央が低く周囲が高いという形状から「亀甲山(かめがせやま)」と称されている。
神宮境内は神域とされ手付かずの自然が残されているため、多数のスギの巨木や、イヌマキ・モミ・クロマツの大木が生育している。高木層のみでなく亜高木層・低木層・林床にも多数の草木が生育しており、スギの老令林としては県内でも有数なものであるとして、千葉県指定天然記念物に指定されている。
社殿
現在の主な社殿は、江戸時代の元禄13年(1700年)、江戸幕府5代将軍の徳川綱吉の命により造営されたものである。この時に本殿・拝殿・楼門が整えられたが、うち拝殿は昭和11年(1936年)から昭和15年(1940年)の大修築に伴って改築がなされ、現在は祈祷殿として使用されている。この昭和の大修築では、幣殿・神饌所も造営された。主要社殿の形式は、大修築前後とも本殿・幣殿・拝殿が連なった権現造である。上記のうち本殿・楼門は国の重要文化財に、旧拝殿(祈祷殿)は千葉県指定文化財に指定されており、現拝殿は国の登録有形文化財に登録されている。
楼門(国の重要文化財)
文化財
国宝
海獣葡萄鏡 1面(工芸品)
直径29.6cm、縁の高さ2cm、重量537.5g、白銅製。中国・唐時代の作。
鏡背は葡萄唐草の地文様の上に獅子のほかさまざまな鳥・獣・虫を表す。鏡名の「海獣」は、鏡背中心部の鈕(つまみ)に表された狻猊(さんげい)を指す。狻猊は中国の伝説上の生物である。正倉院の南倉には本鏡と瓜二つの銅鏡があり、香取神宮鏡は正倉院の鏡と全く同一の鋳型から造った同笵鏡ではないが、両者は関係があると推定される。香取神宮に伝来した経緯は未詳。宝物館内に展示。昭和28年3月31日指定。
重要文化財(国指定)
本殿(附 棟札1枚、銘札1枚、海老錠3箇)・楼門(計2棟)(建造物)
本殿は昭和52年6月27日指定、昭和58年12月26日に楼門を追加指定。
古瀬戸黄釉狛犬 1対(工芸品)
阿吽一対の古瀬戸の狛犬。陶製。阿形(あぎょう)像の高さは17.6cm、吽形(うんぎょう)像は17.9cm。技法・作風から、鎌倉時代後期または室町時代初期の作と見られている。宝物館内に展示。昭和28年3月31日指定。なお阿形像は昭和51年7月1日発売の250円普通切手の意匠になっている。
双竜鏡 1面(工芸品)
直径20.5cm、縁の高さ5mm(蒲鉾形)、白銅製。平安時代の久安5年(1149年)の銘があり、鏡背文様を有する在銘の和鏡としては最古の例である。鏡背文様の様式は一般的な和鏡とは異なり、中国の宋あるいは朝鮮の高麗鏡に影響を受けたものと見られる。宝物館内に展示。昭和28年11月14日指定。
香取大禰宜家文書 15巻7冊(381通)(古文書)
大禰宜を世襲した香取家に伝わる古文書。平安時代後期から江戸時代までの文書381通からなる[18]。関東の神社文書としては代表的な遺品とされる。個人所有。昭和60年6月6日指定。
登録有形文化財(国登録)
香雲閣(建造物) - 平成12年2月15日登録。
拝殿・幣殿・神饌所(以上1棟)(建造物) - 平成13年4月24日登録。
現地情報
所在地
千葉県香取市香取1697
付属施設
宝物館 - 開館時間:午前9時から午後4時。海獣葡萄鏡(国宝)等の宝物を展示。
交通アクセス
鉄道
香取駅 - JR東日本(成田線・鹿島線)
徒歩:津宮参道を約30分
正月3が日にはシャトルバスが運行される。
佐原駅 - JR東日本成田線
徒歩:表参道を約50分
バス
千葉交通バス(香取神宮・上里経由小見川駅行) - 毎日運行。
香取市シャトルバス(佐原区循環バス(周遊ルート)) - 土・日・祝日のみ、往復10便。
タクシー:約10分
レンタサイクル:約20分 - 佐原駅前ほかで貸し出し。
高速バス
京成バス・千葉交通 利根ライナー号(佐原ルート、小見川・佐原ルート、小見川ルート)
東京駅八重洲口前(東京建物ビル隣り)発・大栄停留所を経由する。
佐原ルート:「佐原駅北口」、「香取市役所前」バス停下車
小見川・佐原ルート:「佐原駅北口」、「香取市役所前」、「佐原香取(佐原香取IC)」バス停下車
小見川ルート:「佐原香取(佐原香取IC)」バス停下車
関鉄グリーンバス あそう号(東京駅発)
「香取神宮」バス停下車
車
東関東自動車道 佐原香取ICから約1km
駐車場:無料駐車場(400台)と私営有料駐車場
2022年11月19日
出雲大社(いずもおおやしろ/いずもたいしゃ)
出雲大社(いずもおおやしろ/いずもたいしゃ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は大国主大神。式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社。神社本庁の別表神社。宗教法人出雲大社教の宗祠。
二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。
歴史
出雲大社はいわゆる国譲りの事情のもとで創建された。867年(貞観9年)には正二位に叙せられ熊野大社とは別に出雲国一宮と称せられるようになった。中世には12郷7浦を領したが、豊臣秀吉により減じられ5郷2浦となった。1871年(明治4年)に官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった。
祭神
大国主大神
祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。ただし『出雲国風土記』ではこの名ではなく大穴持命または所造天下大神大穴持命となっている。
1142年(康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈(たいか)、国中第一之霊神」と記された。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、全ての神が出雲に出向くわけではない。
そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神として現れるほどに、全国的な信仰を集めるようになった。
文化財
国宝
出雲大社本殿(附 内殿1基、棟礼1枚)(建造物) - 江戸時代、1744年(延享元年)の造営。1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財(当時の特別保護建造物)に指定。1952年(昭和27年)3月29日に文化財保護法に基づく国宝に指定。
秋野鹿蒔絵手箱 1合(工芸品) - 鎌倉時代初期の作。1952年(昭和27年)3月29日指定。
本殿(国宝)
社殿群を北東より望む。高い建物は本殿。手前の切妻造社殿は向かって左が摂社神魂伊能知比売神社本殿、右が摂社大神大后神社本殿
重要文化財(国指定)
出雲大社 21棟1基(建造物) - 2004年(平成16年)7月6日指定。次の社殿21棟および鳥居1基を一括指定。
楼門
神饌所 2棟
玉垣
摂社大神大后(おおかみおおきさき)神社本殿
摂社神魂御子(かみむすびみこ)神社本殿
摂社神魂伊能知比売(かみむすびいのちひめ)神社本殿
摂社門神社本殿 2棟
八足門(やつあしもん) - 蛙股の「瑞獣」や流麗な「流水文」などの彫刻は左甚五郎の作と伝えられる。
観祭楼及び廻廊
西廻廊
瑞垣
摂社素鵞(そが)社本殿
摂社氏社本殿 2棟
末社釜社本殿
末社十九社本殿 2棟
宝庫
会所
銅鳥居 -1666年(寛文6年)の長州藩第3代藩主毛利綱広の寄進。
赤絲威肩白鎧(兜・大袖付)(工芸品) - 室町時代、応仁・文明頃の作。1953年(昭和28年)3月31日指定。
太刀 銘光忠(附 糸巻太刀拵) - 鎌倉時代中期の作、豊臣秀頼の寄進。1909年(明治42年)9月21日指定。
紙本墨書後醍醐天皇宸翰宝剣代綸旨(三月十七日)(古文書) - 鎌倉時代、1333年(元弘3年)か。1935年(昭和10年)4月30日指定。
紙本墨書後醍醐天皇王道再興綸旨(元弘三年三月十四日)(古文書) - 鎌倉時代、1333年(元弘3年)。1935年(昭和10年)4月30日指定。
紙本墨書宝治二年遷宮儀式注進状(建長元年六月)(古文書) - 鎌倉時代、1249年(宝治2年)。1935年(昭和10年)4月30日指定。
銅戈1口、硬玉勾玉1顆 神魂伊能知奴志神社境内出土(考古資料) - 弥生時代。1953年(昭和28年)2月14日指定。
島根県出雲大社境内遺跡(旧本殿跡)出土品(柱根6点、礎板1点、鉄製品38点(手斧、釘、鎹など)、土器25点)(考古資料) - 2010年(平成22年)6月29日指定。
交通
最寄駅:一畑電車大社線・出雲大社前駅
西日本旅客鉄道(JR西日本)出雲市駅から一畑バス出雲大社連絡所行または日御碕行
2017年(平成29年)4月時点で最寄りの停留所には正門南側にある「正門前」(JR出雲市駅からの運賃は大人500円)とその1つ先の神楽殿西側にある「出雲大社連絡所」(JR出雲市駅からの運賃は大人520円)がある。標準所要時間はゆめタウン出雲前経由便がJR出雲市駅から出雲大社連絡所バス停まで約36分、イオンモール出雲前経由便が約27分。島根ワイナリー経由便を除く全ての便が大鳥居の下をバスが通過する。
一畑電車・電鉄出雲市駅から出雲大社前駅まで川跡駅乗換で24分(運賃は大人490円)。休日は一部直通便もあり。
2012年(平成24年)4月1日から、一畑バスと中国JRバスの運行する夜行高速バス「スサノオ号」が東京駅、渋谷から出雲大社までの運行を開始した。
かつては徒歩15分の位置にJR大社駅が存在していたが、1990年(平成2年)のJR大社線廃止により廃駅となった。(ただし、ホームや駅の掲示など全て当時のまま残されている。)
所在地 島根県出雲市大社町杵築東195
位置 北緯35度24分07.4秒 東経132度41分07.6秒
主祭神 大国主大神
社格等 式内社(名神大)
出雲国一宮
旧官幣大社
勅祭社
別表神社
創建 神代とされる
本殿の様式 大社造
別名 杵築大社
札所等 出雲國神仏霊場1番
例祭 5月14日 - 16日
主な神事 神在祭など
二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。
歴史
出雲大社はいわゆる国譲りの事情のもとで創建された。867年(貞観9年)には正二位に叙せられ熊野大社とは別に出雲国一宮と称せられるようになった。中世には12郷7浦を領したが、豊臣秀吉により減じられ5郷2浦となった。1871年(明治4年)に官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった。
祭神
大国主大神
祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。ただし『出雲国風土記』ではこの名ではなく大穴持命または所造天下大神大穴持命となっている。
1142年(康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈(たいか)、国中第一之霊神」と記された。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、全ての神が出雲に出向くわけではない。
そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神として現れるほどに、全国的な信仰を集めるようになった。
文化財
国宝
出雲大社本殿(附 内殿1基、棟礼1枚)(建造物) - 江戸時代、1744年(延享元年)の造営。1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財(当時の特別保護建造物)に指定。1952年(昭和27年)3月29日に文化財保護法に基づく国宝に指定。
秋野鹿蒔絵手箱 1合(工芸品) - 鎌倉時代初期の作。1952年(昭和27年)3月29日指定。
本殿(国宝)
社殿群を北東より望む。高い建物は本殿。手前の切妻造社殿は向かって左が摂社神魂伊能知比売神社本殿、右が摂社大神大后神社本殿
重要文化財(国指定)
出雲大社 21棟1基(建造物) - 2004年(平成16年)7月6日指定。次の社殿21棟および鳥居1基を一括指定。
楼門
神饌所 2棟
玉垣
摂社大神大后(おおかみおおきさき)神社本殿
摂社神魂御子(かみむすびみこ)神社本殿
摂社神魂伊能知比売(かみむすびいのちひめ)神社本殿
摂社門神社本殿 2棟
八足門(やつあしもん) - 蛙股の「瑞獣」や流麗な「流水文」などの彫刻は左甚五郎の作と伝えられる。
観祭楼及び廻廊
西廻廊
瑞垣
摂社素鵞(そが)社本殿
摂社氏社本殿 2棟
末社釜社本殿
末社十九社本殿 2棟
宝庫
会所
銅鳥居 -1666年(寛文6年)の長州藩第3代藩主毛利綱広の寄進。
赤絲威肩白鎧(兜・大袖付)(工芸品) - 室町時代、応仁・文明頃の作。1953年(昭和28年)3月31日指定。
太刀 銘光忠(附 糸巻太刀拵) - 鎌倉時代中期の作、豊臣秀頼の寄進。1909年(明治42年)9月21日指定。
紙本墨書後醍醐天皇宸翰宝剣代綸旨(三月十七日)(古文書) - 鎌倉時代、1333年(元弘3年)か。1935年(昭和10年)4月30日指定。
紙本墨書後醍醐天皇王道再興綸旨(元弘三年三月十四日)(古文書) - 鎌倉時代、1333年(元弘3年)。1935年(昭和10年)4月30日指定。
紙本墨書宝治二年遷宮儀式注進状(建長元年六月)(古文書) - 鎌倉時代、1249年(宝治2年)。1935年(昭和10年)4月30日指定。
銅戈1口、硬玉勾玉1顆 神魂伊能知奴志神社境内出土(考古資料) - 弥生時代。1953年(昭和28年)2月14日指定。
島根県出雲大社境内遺跡(旧本殿跡)出土品(柱根6点、礎板1点、鉄製品38点(手斧、釘、鎹など)、土器25点)(考古資料) - 2010年(平成22年)6月29日指定。
交通
最寄駅:一畑電車大社線・出雲大社前駅
西日本旅客鉄道(JR西日本)出雲市駅から一畑バス出雲大社連絡所行または日御碕行
2017年(平成29年)4月時点で最寄りの停留所には正門南側にある「正門前」(JR出雲市駅からの運賃は大人500円)とその1つ先の神楽殿西側にある「出雲大社連絡所」(JR出雲市駅からの運賃は大人520円)がある。標準所要時間はゆめタウン出雲前経由便がJR出雲市駅から出雲大社連絡所バス停まで約36分、イオンモール出雲前経由便が約27分。島根ワイナリー経由便を除く全ての便が大鳥居の下をバスが通過する。
一畑電車・電鉄出雲市駅から出雲大社前駅まで川跡駅乗換で24分(運賃は大人490円)。休日は一部直通便もあり。
2012年(平成24年)4月1日から、一畑バスと中国JRバスの運行する夜行高速バス「スサノオ号」が東京駅、渋谷から出雲大社までの運行を開始した。
かつては徒歩15分の位置にJR大社駅が存在していたが、1990年(平成2年)のJR大社線廃止により廃駅となった。(ただし、ホームや駅の掲示など全て当時のまま残されている。)
所在地 島根県出雲市大社町杵築東195
位置 北緯35度24分07.4秒 東経132度41分07.6秒
主祭神 大国主大神
社格等 式内社(名神大)
出雲国一宮
旧官幣大社
勅祭社
別表神社
創建 神代とされる
本殿の様式 大社造
別名 杵築大社
札所等 出雲國神仏霊場1番
例祭 5月14日 - 16日
主な神事 神在祭など
2022年11月18日
国の史跡に指定されている願成就院(がんじょうじゅいん)
願成就院(がんじょうじゅいん)は、静岡県伊豆の国市寺家にある、高野山真言宗の寺院。山号は天守君山。国宝の仏師運慶の阿弥陀如来坐像など5躯を所有する。境内はかつて壮大な伽藍を誇った願成就院跡として国の史跡に指定されている。
願成就院大御堂(静岡県伊豆の国市)
歴史
『吾妻鏡』によると、文治5年(1189年)に北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したという。ただし、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、奥州征伐の戦勝祈願のためというよりは、北条氏の氏寺として創建されたものと考えられている。
『吾妻鏡』には、嘉禎2年(1236年)までの間、願成就院の仏堂、塔などの伽藍造営に関する記事が散見され、北条時政とその子義時、孫の泰時の代にかけて次々に伽藍は拡大したことがわかる。現境内の北方、住宅地を挟んで500メートルほど離れた位置に礎石などの遺構が確認されており、同遺構と現境内の間には苑池の跡も見出された。全盛期には巨大な池とその中の小島を橋でつなぎ、多くの堂宇や塔がそびえ立つ、藤原時代様式の壮大な伽藍を誇る伊豆屈指の大寺院として栄華を誇った。
しかし延徳3年(1491年)に北条早雲 (伊勢宗瑞)による動乱で願成就院はほぼ全焼し、僅かに再建された堂宇も後年の豊臣秀吉の小田原征伐の際に再び全焼、本尊を始めとする仏像数躯は僧侶らの手によって運び出され焼失は免れたが多くの寺宝は灰燼に帰し、願成就院は事実上壊滅した。
しかし江戸時代に後北条氏の末裔、北条氏貞が再建し、現在の遺構はほぼその当時のものである。現存する茅葺の本堂は、棟札から寛政元年(1789年)の建立とわかる。昭和30年代には本堂横に大御堂が建立された。現在は小さな境内であるが、裏山一帯は往時の願成就院の敷地であった。
本堂
境内
山門
本堂
大御堂
鐘楼
六地蔵
北条時政の供養墓
足利茶々丸の墓
文化財
国宝
運慶作の仏像 5躯 附 五輪塔形木札 4枚。
2013年(平成25年)6月19日付けで、仏像5躯(大御堂安置)が国宝に一括指定されている。仏像の胎内から銘札が発見され、施主が北条時政で文治2年(1186年)制作と判明。
木造阿弥陀如来坐像 運慶作 1躯
鎌倉時代、運慶作。像高142cm。胸前に両手を挙げる説法印の阿弥陀如来像である。前時代の平安後期に盛んに造られた定朝様(じょうちょうよう)の阿弥陀如来像と比べて堂々とした体格と彫りの深い衣文が特色である。たび重なる戦火等によって傷つき、破損箇所も多いが、寺僧らの尽力によって今日まで現存している。「吾妻鏡」に運慶が阿弥陀如来像を造像した旨の記述があり、現存する眷属の不動明王ニ童子像と毘沙門天像が、像内納入品等から運慶の真作であると確認されていること等から、阿弥陀如来像も運慶の作とされている。
木造不動明王二童子立像 運慶作 3躯
像高は不動像が136.8cm、制吒迦童子(せいたかどうじ)像が81.8cm、矜羯羅童子(こんがらどうじ)像が77.9cmである。本尊阿弥陀如来の眷属(脇侍)として安置されている。不動明王像と毘沙門天像(後出)の胎内に納められていた塔婆形銘札(めいさつ)には、「文治2年(1186)5月3日、北条時政の発願により運慶が造り始めた」という趣旨の記載がある。この銘札は、江戸時代の修理の際に取り出されていたもので、この銘札と願成就院の諸仏とを結びつけることには慎重な意見も多かった。しかし、神奈川県・浄楽寺にある運慶作の不動明王、毘沙門天像の胎内からも同様の銘札が発見されたこと、さらには願成就院の二童子像の胎内からも新たに銘札が発見されたことから、願成就院の阿弥陀如来像・不動明王二童子像・毘沙門天像は運慶の真作であると認められるようになった。30歳代の運慶の真作と呼べる作品は非常に少ないが、この不動明王ニ童子像はその時期の作品である。中尊の不動明王像は肉付きのよい逞しい体つきが特色である。平安時代中期以降の不動明王像は、安然の「不動十九観」に基づき、片目で天、片目で地を睨み(天地眼)、口から2本突き出した牙は片方が上向き、もう片方が下向きとなる(牙上下出相)左右非対称の面相で表現されることが多いが、この不動明王像は両目とも真正面を見据え、牙は2本とも下向きとなる、左右対称の面相となっている。目は水晶に瞳を描いてはめ込んだ「玉眼」と呼ばれる技法で制作されており、爛々とした輝きを持つ。戦火を免れ現在に残る。
木造毘沙門天立像 運慶作 1躯
本尊阿弥陀如来の眷属(脇侍)として安置されている。不動明王ニ童子像と同様、胎内に納められていた運慶の名のある塔婆形名札が保存されており、運慶の真作であることが確認されている。鎧をまとい邪鬼を踏みつけて立つ一般的な毘沙門天像のスタイルであるが、不動明王像と同様に体格が堂々とした武道家のような重量感溢れるものであり、厚い胸板と引き締まった腹、しっかりと筋肉のついた腰によって、鎧を着込んだ姿にも関わらず躍動感に溢れている。眼も玉眼を使用して生き生きとした表現が取られている。胎内の塔婆形名札には不動明王ニ童子と同じ日付で造像開始されたことが記載されており、数多くの戦火を逃れて現在に残る。
附 五輪塔形木札 4枚
大札2枚と、小札2枚があり、大札2枚が不動明王と毘沙門天像に、小札2枚が制吒迦童子と矜羯羅童子に納められていた。それぞれに梵字で、五大種子、梵字宝篋印陀羅尼及文治二年五月、巧師勾当運慶、檀越平時政、執筆南無観音等の記がある。
国の史跡
願成就院跡 - 指定年月日:1973年(昭和48年)2月14日。
実測調査で北側が池跡と確認され、1970年(昭和45年)の発掘調査で、『吾妻鏡』記載の南塔跡、南新御堂跡、その他を確認、また出土品などから、この地が北条時政・義時・泰時3代で完成した浄土系伽藍の願成就院跡であることを確定されている。
アクセス
伊豆箱根鉄道韮山駅下車、徒歩15分、タクシー5分
所在地:静岡県伊豆の国市寺家83-1
拝観:10:00〜16:00 火・水曜休
所在地 静岡県伊豆の国市寺家83-1
位置 北緯35度2分44.43秒 東経138度56分23.65秒
山号 天守君山
宗派 高野山真言宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 文治5年(1189年 )
開基 北条時政
正式名 天守君山願成就院
札所等 中伊豆三十三観音18番
文化財 阿弥陀如来坐像、不動明王二童子立像・毘沙門天立像(国宝)
地蔵菩薩坐像(重要美術品)
国の史跡
願成就院大御堂(静岡県伊豆の国市)
歴史
『吾妻鏡』によると、文治5年(1189年)に北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したという。ただし、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、奥州征伐の戦勝祈願のためというよりは、北条氏の氏寺として創建されたものと考えられている。
『吾妻鏡』には、嘉禎2年(1236年)までの間、願成就院の仏堂、塔などの伽藍造営に関する記事が散見され、北条時政とその子義時、孫の泰時の代にかけて次々に伽藍は拡大したことがわかる。現境内の北方、住宅地を挟んで500メートルほど離れた位置に礎石などの遺構が確認されており、同遺構と現境内の間には苑池の跡も見出された。全盛期には巨大な池とその中の小島を橋でつなぎ、多くの堂宇や塔がそびえ立つ、藤原時代様式の壮大な伽藍を誇る伊豆屈指の大寺院として栄華を誇った。
しかし延徳3年(1491年)に北条早雲 (伊勢宗瑞)による動乱で願成就院はほぼ全焼し、僅かに再建された堂宇も後年の豊臣秀吉の小田原征伐の際に再び全焼、本尊を始めとする仏像数躯は僧侶らの手によって運び出され焼失は免れたが多くの寺宝は灰燼に帰し、願成就院は事実上壊滅した。
しかし江戸時代に後北条氏の末裔、北条氏貞が再建し、現在の遺構はほぼその当時のものである。現存する茅葺の本堂は、棟札から寛政元年(1789年)の建立とわかる。昭和30年代には本堂横に大御堂が建立された。現在は小さな境内であるが、裏山一帯は往時の願成就院の敷地であった。
本堂
境内
山門
本堂
大御堂
鐘楼
六地蔵
北条時政の供養墓
足利茶々丸の墓
文化財
国宝
運慶作の仏像 5躯 附 五輪塔形木札 4枚。
2013年(平成25年)6月19日付けで、仏像5躯(大御堂安置)が国宝に一括指定されている。仏像の胎内から銘札が発見され、施主が北条時政で文治2年(1186年)制作と判明。
木造阿弥陀如来坐像 運慶作 1躯
鎌倉時代、運慶作。像高142cm。胸前に両手を挙げる説法印の阿弥陀如来像である。前時代の平安後期に盛んに造られた定朝様(じょうちょうよう)の阿弥陀如来像と比べて堂々とした体格と彫りの深い衣文が特色である。たび重なる戦火等によって傷つき、破損箇所も多いが、寺僧らの尽力によって今日まで現存している。「吾妻鏡」に運慶が阿弥陀如来像を造像した旨の記述があり、現存する眷属の不動明王ニ童子像と毘沙門天像が、像内納入品等から運慶の真作であると確認されていること等から、阿弥陀如来像も運慶の作とされている。
木造不動明王二童子立像 運慶作 3躯
像高は不動像が136.8cm、制吒迦童子(せいたかどうじ)像が81.8cm、矜羯羅童子(こんがらどうじ)像が77.9cmである。本尊阿弥陀如来の眷属(脇侍)として安置されている。不動明王像と毘沙門天像(後出)の胎内に納められていた塔婆形銘札(めいさつ)には、「文治2年(1186)5月3日、北条時政の発願により運慶が造り始めた」という趣旨の記載がある。この銘札は、江戸時代の修理の際に取り出されていたもので、この銘札と願成就院の諸仏とを結びつけることには慎重な意見も多かった。しかし、神奈川県・浄楽寺にある運慶作の不動明王、毘沙門天像の胎内からも同様の銘札が発見されたこと、さらには願成就院の二童子像の胎内からも新たに銘札が発見されたことから、願成就院の阿弥陀如来像・不動明王二童子像・毘沙門天像は運慶の真作であると認められるようになった。30歳代の運慶の真作と呼べる作品は非常に少ないが、この不動明王ニ童子像はその時期の作品である。中尊の不動明王像は肉付きのよい逞しい体つきが特色である。平安時代中期以降の不動明王像は、安然の「不動十九観」に基づき、片目で天、片目で地を睨み(天地眼)、口から2本突き出した牙は片方が上向き、もう片方が下向きとなる(牙上下出相)左右非対称の面相で表現されることが多いが、この不動明王像は両目とも真正面を見据え、牙は2本とも下向きとなる、左右対称の面相となっている。目は水晶に瞳を描いてはめ込んだ「玉眼」と呼ばれる技法で制作されており、爛々とした輝きを持つ。戦火を免れ現在に残る。
木造毘沙門天立像 運慶作 1躯
本尊阿弥陀如来の眷属(脇侍)として安置されている。不動明王ニ童子像と同様、胎内に納められていた運慶の名のある塔婆形名札が保存されており、運慶の真作であることが確認されている。鎧をまとい邪鬼を踏みつけて立つ一般的な毘沙門天像のスタイルであるが、不動明王像と同様に体格が堂々とした武道家のような重量感溢れるものであり、厚い胸板と引き締まった腹、しっかりと筋肉のついた腰によって、鎧を着込んだ姿にも関わらず躍動感に溢れている。眼も玉眼を使用して生き生きとした表現が取られている。胎内の塔婆形名札には不動明王ニ童子と同じ日付で造像開始されたことが記載されており、数多くの戦火を逃れて現在に残る。
附 五輪塔形木札 4枚
大札2枚と、小札2枚があり、大札2枚が不動明王と毘沙門天像に、小札2枚が制吒迦童子と矜羯羅童子に納められていた。それぞれに梵字で、五大種子、梵字宝篋印陀羅尼及文治二年五月、巧師勾当運慶、檀越平時政、執筆南無観音等の記がある。
国の史跡
願成就院跡 - 指定年月日:1973年(昭和48年)2月14日。
実測調査で北側が池跡と確認され、1970年(昭和45年)の発掘調査で、『吾妻鏡』記載の南塔跡、南新御堂跡、その他を確認、また出土品などから、この地が北条時政・義時・泰時3代で完成した浄土系伽藍の願成就院跡であることを確定されている。
アクセス
伊豆箱根鉄道韮山駅下車、徒歩15分、タクシー5分
所在地:静岡県伊豆の国市寺家83-1
拝観:10:00〜16:00 火・水曜休
所在地 静岡県伊豆の国市寺家83-1
位置 北緯35度2分44.43秒 東経138度56分23.65秒
山号 天守君山
宗派 高野山真言宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 文治5年(1189年 )
開基 北条時政
正式名 天守君山願成就院
札所等 中伊豆三十三観音18番
文化財 阿弥陀如来坐像、不動明王二童子立像・毘沙門天立像(国宝)
地蔵菩薩坐像(重要美術品)
国の史跡
2022年11月17日
延暦寺根本中堂(えんりゃくじこんぽんちゅうどう)は、比叡山延暦寺の総本堂
延暦寺根本中堂(えんりゃくじこんぽんちゅうどう)は、比叡山延暦寺の総本堂である。
延暦寺根本中堂
概要
伝教大師最澄が延暦4年(785年)比叡山上に草庵を結び、3年後の延暦7年(788年)現在の根本中堂の場所に小堂を創建したのが始まりとされ、草庵はのちに一乗止観院と呼ばれた。本尊は最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられており(秘仏)、その宝前に灯明をかかげて以来最澄のともした灯火は1200年間一度も消えることなく輝き続けているので、「不滅の法灯」と呼ばれる(焼き討ち後の再建時には立石寺から分灯を受けた)。中堂という呼称の由来は、最澄創建の三堂(薬師堂・文殊堂・経蔵)の中心に位置することから薬師堂を中堂と呼ぶようになり、この三堂は後に一つの伽藍にまとめられ、中堂という名前が残ったとされる。比叡山延暦寺の中心であることから根本中堂といい、比叡山では東塔という区域の中心的建築物である。
沿革
根本中堂は何度も火事や戦禍によって焼失している。永享7年(1435年)には、将軍足利義教が山門使節を処刑したことに抗議して、山徒24人が根本中堂に立て籠もって火をつけ集団自決する事件が起きた。嘉吉3年(1443年)頃までには復興する。
嘉吉3年(1443年)には南朝復興を目指す後南朝や日野家などが京都の御所から三種の神器の一部を奪う禁闕の変が起こると、一味が根本中堂に立て篭もり、朝廷から追討令がでた事により幕軍や山徒により討たれる事件も発生した。
更に明応8年(1499年)7月には細川政元と延暦寺が対立した為、政元の家臣赤沢朝経と波々伯部宗量によって焼き討ちされた。永正15年(1518年)4月4日に復興。
現在の根本中堂は、元亀2年(1571年)9月、織田信長による焼き討ちの後、慈眼大師天海の進言により徳川三代将軍家光の命によって、寛永11年(1634年)より8年の歳月をかけて再建されたもの(完成は寛永19年〈1641年〉)である。
1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定された。
2015年から根本中堂および重要文化財指定の回廊の大改修が行われており、大改修は1955年に完成した「昭和の修理」以来で7回目で完成予定は2025年度であるが、工事中も拝観は可能である。修復の様子が間近で見られる「修学ステージ」が完成し、2018年8月から利用できるようになった。
構造
総欅造。桁行11間(37.57m)、梁間6間(23.63m)、軒高約9.78m、棟高24.46m、屋根は一重、入母屋造。
南側に中庭が配置される寝殿造となっており、その中庭に日本中の神々を勧請する竹台がある。堂内は外陣・中陣・内陣に分かれ、本尊を安置している内陣は中陣や外陣より3mも低い石敷きの土間となっており、内陣は僧侶が読経・修法する場所であることから別名「修業の谷間」といわれる。内陣の本尊・不滅の法灯と中陣の参詣者の高さが同じという珍しい構造になっており、これを天台造または中堂造と呼ばれ、天台仏堂の特色を示している。中陣の天井は「百花の図」といわれ、二百に及ぶ草花が極彩色で描かれている。柱は76本あり、諸国の大名が寄進したことから「大名柱」と呼ばれる。中陣中央には玉座があり、その上に昭和天皇宸筆の「伝教」と書かれた額が掲げられている。
延暦寺根本中堂
概要
伝教大師最澄が延暦4年(785年)比叡山上に草庵を結び、3年後の延暦7年(788年)現在の根本中堂の場所に小堂を創建したのが始まりとされ、草庵はのちに一乗止観院と呼ばれた。本尊は最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられており(秘仏)、その宝前に灯明をかかげて以来最澄のともした灯火は1200年間一度も消えることなく輝き続けているので、「不滅の法灯」と呼ばれる(焼き討ち後の再建時には立石寺から分灯を受けた)。中堂という呼称の由来は、最澄創建の三堂(薬師堂・文殊堂・経蔵)の中心に位置することから薬師堂を中堂と呼ぶようになり、この三堂は後に一つの伽藍にまとめられ、中堂という名前が残ったとされる。比叡山延暦寺の中心であることから根本中堂といい、比叡山では東塔という区域の中心的建築物である。
沿革
根本中堂は何度も火事や戦禍によって焼失している。永享7年(1435年)には、将軍足利義教が山門使節を処刑したことに抗議して、山徒24人が根本中堂に立て籠もって火をつけ集団自決する事件が起きた。嘉吉3年(1443年)頃までには復興する。
嘉吉3年(1443年)には南朝復興を目指す後南朝や日野家などが京都の御所から三種の神器の一部を奪う禁闕の変が起こると、一味が根本中堂に立て篭もり、朝廷から追討令がでた事により幕軍や山徒により討たれる事件も発生した。
更に明応8年(1499年)7月には細川政元と延暦寺が対立した為、政元の家臣赤沢朝経と波々伯部宗量によって焼き討ちされた。永正15年(1518年)4月4日に復興。
現在の根本中堂は、元亀2年(1571年)9月、織田信長による焼き討ちの後、慈眼大師天海の進言により徳川三代将軍家光の命によって、寛永11年(1634年)より8年の歳月をかけて再建されたもの(完成は寛永19年〈1641年〉)である。
1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定された。
2015年から根本中堂および重要文化財指定の回廊の大改修が行われており、大改修は1955年に完成した「昭和の修理」以来で7回目で完成予定は2025年度であるが、工事中も拝観は可能である。修復の様子が間近で見られる「修学ステージ」が完成し、2018年8月から利用できるようになった。
構造
総欅造。桁行11間(37.57m)、梁間6間(23.63m)、軒高約9.78m、棟高24.46m、屋根は一重、入母屋造。
南側に中庭が配置される寝殿造となっており、その中庭に日本中の神々を勧請する竹台がある。堂内は外陣・中陣・内陣に分かれ、本尊を安置している内陣は中陣や外陣より3mも低い石敷きの土間となっており、内陣は僧侶が読経・修法する場所であることから別名「修業の谷間」といわれる。内陣の本尊・不滅の法灯と中陣の参詣者の高さが同じという珍しい構造になっており、これを天台造または中堂造と呼ばれ、天台仏堂の特色を示している。中陣の天井は「百花の図」といわれ、二百に及ぶ草花が極彩色で描かれている。柱は76本あり、諸国の大名が寄進したことから「大名柱」と呼ばれる。中陣中央には玉座があり、その上に昭和天皇宸筆の「伝教」と書かれた額が掲げられている。