白山比盗_社(しらやまひめじんじゃ)は、石川県白山市三宮町にある神社。式内社、加賀国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に2,000社以上ある白山神社の総本社である。通称として「白山(しらやま)さん」「白山権現」「加賀一の宮」「白山本宮」とも。神紋は「三子持亀甲瓜花」。
概要
石川県・岐阜県の県境に立つ白山(標高2,702m)の山麓に鎮座し、白山を神体山として祀る神社である。
元は、手取川の畔にある現在の古宮公園の場所に鎮座していたが、室町時代に火災で焼失し、現社地に遷座した。また白山山頂の御前峰には奥宮も鎮座し、山麓の社殿はこれに対して「下白山」または「白山本宮」と呼ばれていた。
境内には国宝の刀剣(銘 吉光)のほか、重要文化財が多数伝えられている。
祭神
主祭神は以下の3柱。
白山比淘蜷_ - 菊理媛神(くくりひめのかみ)と同一神とされる。
伊邪那岐尊
伊弉冉尊
境内
本宮(下白山)
白山御前峰山頂にある奥宮に対し、山麓にあることから下白山、白山本宮、里宮と呼ばれる。
建造物
主要社殿は、本殿・幣拝殿・直会殿・外拝殿・遊神殿からなる。本殿は大規模な三間社流造で、正面に庇の間と向拝を付ける。屋根銅板葺。明和5年から7年(1768年-1770年)にかけて造替されたものと推定され、県の有形文化財に指定されている。
直会殿は、大正9年(1920年)の造営の旧幣殿。外拝殿は切妻造銅板葺で、大正9年(1920年)の造営の旧拝殿である。昭和57年(1982年)の増改築で内部に拝殿が造営され、外拝殿となった。
鶴来駅より約2.5km南に位置する一の鳥居は、昭和11年(1936年)の造営。古くは当社には鳥居がなく、「白山七不思議」の1つとも言われていた。
文化財
国宝
剣(銘 吉光、通称 白山吉光)(工芸品) - 昭和27年3月29日指定
重要文化財(国指定)
絹本著色白山三社神像(絵画) - 平成15年5月29日指定。
木造狛犬 1対(彫刻) - 大正13年8月16日指定。
木造獅子狛犬 1対(彫刻) - 平成元年6月12日指定。
太刀(銘 長光)(工芸品) - 明治42年9月21日指定。
黒漆螺鈿鞍(工芸品) - 明治33年4月7日指定。
沈金彫手箱(工芸品) - 大正14年4月24日指定。
白山縁起(書跡・典籍) - 明治33年4月7日指定。
神皇正統記(書跡・典籍) - 大正5年5月24日指定。
三宮古記(古文書) - 明治33年4月7日指定。
白山宮荘厳講中記録(古文書) - 大正5年5月24日指定。
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
剣(銘 吉光、国宝)
現地情報
所在地
石川県白山市三宮町ニ105-1
交通アクセス
最寄駅:北陸鉄道石川線 鶴来駅から
徒歩:約25分
バス:北鉄白山バス(白峰、瀬女、上野行き)・コミュニティバスめぐーる(つるぎ病院ルート)で「一の宮」バス停下車すぐ、めぐーる(白山ルート)で「三宮町」バス停下車すぐ
レンタサイクル:約10分(駅正面の鶴来支所でレンタル可能)
JR西日本北陸本線 金沢駅から
バス:北鉄白山バス(白峰、上野行き)で「一の宮」バス停下車すぐ)
JR西日本北陸本線 松任駅から
バス:北鉄白山バス(白峰行き)で「一の宮」バス停下車すぐ
2022年12月16日
2022年12月15日
善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立仏教寺院
善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立仏教寺院。住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。本尊は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来で、絶対秘仏である(開帳は前立本尊で行う)。本尊の善光寺如来は由緒ある像として権威の象徴とも見なされ、戦国時代には大名がこぞって自領(本拠地)に善光寺如来を遷座させ、各地を転々とした。豊臣秀吉は慶長伏見地震で損壊した方広寺大仏(京の大仏)に代わる新たな本尊として、善光寺如来を方広寺大仏殿に遷座させていたが、死の間際に如来を善光寺へ返還した。それ以降善光寺如来は、他所へ遷座させられることなく今日に至っている。
概要
山号は「定額山」(じょうがくさん)で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている(浄土宗では大本山善光寺大本願の法主)。令和4年(2022年)6月時点の「善光寺貫主」(「大勧進貫主」)は前大勧進副住職の栢木寛照[4]、「善光寺上人」(「大本願上人」)は鷹司家出身の121世鷹司誓玉である。
古えより、「四門四額」(しもんしがく)と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を「北空山雲上寺」(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を「不捨山浄土寺」(ふしゃさんじょうどじ)と称する。
特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済[5]が挙げられる。
本堂
現在の本堂は宝永4年(1707年)竣工。設計は甲良宗賀(幕府大棟梁甲良氏3代)が担当した。本尊の阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)を安置する。昭和28年(1953年)、国宝に指定された。二階建のように見えるが、建築形式的には一重裳階付(いちじゅうもこしつき)である。屋根は檜皮葺で、屋根形式は撞木造(しゅもくづくり)という特異なものである。これは入母屋造の屋根を丁字形に組み合わせたもので、堂の手前の部分は南北棟、奥の部分は東西棟になり、上方から見ると大棟の線が丁字状になっている。平面構成は正面5間、側面14間の身舎(もや)の周囲に幅1間の裳階を巡らした形になり、裳階部分を含めた平面規模は正面7間、側面16間となる(以上の説明文中の「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す)。間口24メートル、奥行54メートル、棟高26メートルで、一般的な日本の仏殿と比べて間口に比して奥行が長い。建物南正面の奥行1間分は壁や扉を設けない「吹き抜けの間」とし、その先の奥行4間分が外陣、その次の奥行5間分が内陣、建物のもっとも奥が内々陣となる。内々陣は西(向かって左)に秘仏本尊の阿弥陀三尊像を安置する瑠璃壇があり、その前に常燈明(不滅の法燈)がある。東(向かって右)は開山像を安置する「御三卿の間」である。「御三卿の間」には開山の本田善光と妻の弥生御前、子の善佐の像を安置する。この他、外陣に閻魔王像、内陣に地蔵菩薩像と弥勒菩薩像などを安置する。国宝の附(つけたり)指定となっている厨子は「御三卿の間」にあるもので、寄棟造、本瓦形板葺きとする。
文化財
国宝
本堂(附:厨子1基) -
重要文化財
三門(山門)
寛延3年(1750年)に完成した。平成19年(2007年)に修復工事がなされ、大正から昭和にかけての修理で檜皮葺きになっていた屋根が、創建当初の栩葺きに改められた。栩葺き(とちぶき)とはサワラの板材で屋根を葺く方式である。平成の修復を記念して、平成20年(2008年)4月24日から11月30日まで三門内部の特別公開が行なわれた。内部には、四国八十八箇所の各寺院の本尊の代像が安置されている。また、江戸時代から昭和に至るまでの参拝者による落書きが多数残されている。落書きのうち、江戸時代のものは2階に昇った正面にある「江戸 と組よね」や3階(仏間)の北西側の壁面にある嘉永年号のものなどである。
経蔵
金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)
絹本著色阿弥陀聖衆来迎図 1幅(大本願所有)
善光寺造営図(大勧進所有)8幅[12]享禄4年(1531年)4月
源氏物語事書(大勧進所有)
登録有形文化財
鐘楼 - 嘉永6年(1853年)建、大正15年(1926年)改修
仁王門 - 大正7年(1918年)建、昭和52年(1977年)改修
交通
長野駅を出ると善光寺表参道(中央通り)という一本道が通っており、緩やかな坂道となっている。
長野駅(JR・しなの鉄道・長野電鉄)
善光寺口1番バス乗り場よりアルピコ交通の路線バス
「善光寺」方面行きに乗り、「善光寺大門」バス停下車。
長野電鉄長野線 善光寺下駅下車、徒歩約10分。
東京新宿を結ぶ高速バス長野線の一部便は「善光寺大門」バス停を発着する。
所在地 長野県長野市元善町491
概要
山号は「定額山」(じょうがくさん)で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている(浄土宗では大本山善光寺大本願の法主)。令和4年(2022年)6月時点の「善光寺貫主」(「大勧進貫主」)は前大勧進副住職の栢木寛照[4]、「善光寺上人」(「大本願上人」)は鷹司家出身の121世鷹司誓玉である。
古えより、「四門四額」(しもんしがく)と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を「北空山雲上寺」(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を「不捨山浄土寺」(ふしゃさんじょうどじ)と称する。
特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済[5]が挙げられる。
本堂
現在の本堂は宝永4年(1707年)竣工。設計は甲良宗賀(幕府大棟梁甲良氏3代)が担当した。本尊の阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)を安置する。昭和28年(1953年)、国宝に指定された。二階建のように見えるが、建築形式的には一重裳階付(いちじゅうもこしつき)である。屋根は檜皮葺で、屋根形式は撞木造(しゅもくづくり)という特異なものである。これは入母屋造の屋根を丁字形に組み合わせたもので、堂の手前の部分は南北棟、奥の部分は東西棟になり、上方から見ると大棟の線が丁字状になっている。平面構成は正面5間、側面14間の身舎(もや)の周囲に幅1間の裳階を巡らした形になり、裳階部分を含めた平面規模は正面7間、側面16間となる(以上の説明文中の「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す)。間口24メートル、奥行54メートル、棟高26メートルで、一般的な日本の仏殿と比べて間口に比して奥行が長い。建物南正面の奥行1間分は壁や扉を設けない「吹き抜けの間」とし、その先の奥行4間分が外陣、その次の奥行5間分が内陣、建物のもっとも奥が内々陣となる。内々陣は西(向かって左)に秘仏本尊の阿弥陀三尊像を安置する瑠璃壇があり、その前に常燈明(不滅の法燈)がある。東(向かって右)は開山像を安置する「御三卿の間」である。「御三卿の間」には開山の本田善光と妻の弥生御前、子の善佐の像を安置する。この他、外陣に閻魔王像、内陣に地蔵菩薩像と弥勒菩薩像などを安置する。国宝の附(つけたり)指定となっている厨子は「御三卿の間」にあるもので、寄棟造、本瓦形板葺きとする。
文化財
国宝
本堂(附:厨子1基) -
重要文化財
三門(山門)
寛延3年(1750年)に完成した。平成19年(2007年)に修復工事がなされ、大正から昭和にかけての修理で檜皮葺きになっていた屋根が、創建当初の栩葺きに改められた。栩葺き(とちぶき)とはサワラの板材で屋根を葺く方式である。平成の修復を記念して、平成20年(2008年)4月24日から11月30日まで三門内部の特別公開が行なわれた。内部には、四国八十八箇所の各寺院の本尊の代像が安置されている。また、江戸時代から昭和に至るまでの参拝者による落書きが多数残されている。落書きのうち、江戸時代のものは2階に昇った正面にある「江戸 と組よね」や3階(仏間)の北西側の壁面にある嘉永年号のものなどである。
経蔵
金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)
絹本著色阿弥陀聖衆来迎図 1幅(大本願所有)
善光寺造営図(大勧進所有)8幅[12]享禄4年(1531年)4月
源氏物語事書(大勧進所有)
登録有形文化財
鐘楼 - 嘉永6年(1853年)建、大正15年(1926年)改修
仁王門 - 大正7年(1918年)建、昭和52年(1977年)改修
交通
長野駅を出ると善光寺表参道(中央通り)という一本道が通っており、緩やかな坂道となっている。
長野駅(JR・しなの鉄道・長野電鉄)
善光寺口1番バス乗り場よりアルピコ交通の路線バス
「善光寺」方面行きに乗り、「善光寺大門」バス停下車。
長野電鉄長野線 善光寺下駅下車、徒歩約10分。
東京新宿を結ぶ高速バス長野線の一部便は「善光寺大門」バス停を発着する。
所在地 長野県長野市元善町491
2022年12月14日
勝興寺(しょうこうじ)は、富山県高岡市伏木古国府にある浄土真宗本願寺派の寺院
勝興寺(しょうこうじ)は、富山県高岡市伏木古国府にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は雲龍山。本尊は阿弥陀如来。国宝2棟・重要文化財10棟の建造物を含む多くの文化財を有することで知られる。地元の人からは「ふるこはん」の愛称で親しまれている。2015年(平成27年)4月24日、「加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡−人、技、心−」の構成文化財として日本遺産に認定される。
歴史
勝興寺の起こりは1471年(文明3年)、蓮如が越中砺波郡蟹谷庄土山(南砺市土山)に創建した土山御坊で、蓮如の四男蓮誓が置かれた。その後1494年(明応3年)に蟹谷庄高木場(南砺市高窪)へ移転。火災による焼失後、1517年(永正14年)、佐渡にあった順徳天皇御願寺勝興寺(殊勝誓願興行寺)を再興、寺号を相続して「勝興寺」 と称した。1519年(永正16年)には安養寺村(小矢部市末友)に移転、蓮誓の次男実玄が安養寺城を建てた。
勝興寺は戦国時代、瑞泉寺と並んで越中一向一揆の中心勢力として猛威を振るったが、1581年(天正9年)、5代顕幸の時に石黒成綱に焼き討ちされた。1584年(天正12年)、佐々成政が古国府城の土地を越中一向一揆に寄進、顕幸が移ったこの地が現在の勝興寺である。
佐々成政が富山の役で敗退した後も、前田藩前田家の庇護を受けて境内が整備された。第10代前田藩主の前田治脩は、藩主を継ぐ以前の若年期に一時出家しており、ここで得度している。
かつては報恩講の際に御示談(僧侶と門徒が教義や信心について議論・質疑応答を行うこと)が熱心に行われていたが、布教使の質の低下に伴い廃止されると、参詣者も減少の一途を辿った。報恩講の際に灯される大蝋燭は名物として現在も受け継がれている。
境内
敷地は土塁・空濠で囲まれており、越中の国府跡という伝承がある。境内は東を正面とし、総門、唐門を入った敷地南寄りに大規模な本堂が建ち、北寄りには大広間、書院、台所など寺僧の居住・接客用の建物群が軒を列ねる。近世建立の堂舎群がまとまって残り、近世寺院の景観を残す点に価値が認められる。
建造物は、本堂と唐門の2棟が1988年(昭和63年)に国の重要文化財に指定、総門ほか10棟が1995年(平成7年)に追加指定され、本堂と大広間及び式台の2棟が2022年(令和4年)に国宝に指定された。
本堂
1795年(寛政7年)建立。間口39.3m、奥行き37.4m、高さ23.5mの大型の仏堂で、国宝・重要文化財の建造物の中で、本堂では全国8番目の規模を誇る。屋根は亜鉛合板葺きである。元々は鉛葺きの屋根だったものが明治時代に瓦葺きになったが、1998年から2004年まで行われた本堂の大修復で、環境に配慮し鉛葺きに色合い、光沢が近い亜鉛合板葺きとなった。
総門
1840年(天保11年)建立。高さ8.7m、桁行5.5m、梁間3.1mの高麗門。重要文化財指定の高麗門としては最大級の門である。
唐門
1769年(明和6年)建立。前後の軒に唐破風が付く間口6mの門。1893年(明治26年)京都・興正寺より2艘の北前船を利用し移建。2014年(平成26年)まで行われた修復で、銅板葺きから檜皮(ひわだ)葺きに復元された。
鼓堂
1733年(享保18年)建立。総門をくぐった正面、掘割に面して建つ2層の入母屋造りの建物で、城郭の櫓(やぐら)に似た外観をもつ。2階には時を告げる太鼓が保存されている。長年使用されず傷んでいたが、建築物の平成の大修理に合わせ、2021年(令和3年)3月末までに住民有志によって修理された。
経堂
1805年(文化2年)建立。
宝蔵
江戸時代末期建立。
御霊屋
1810年(文化7年)建立。
式台門
1775年(安永4年)建立。
大広間及び式台
1692年(元禄5年)建立。現存する建築物で最も古い。
台所
1863年(文久3年)建立。
書院及び奥書院
1671年(寛文11年)建立。奥書院の壁やふすまには金箔が張られており「金の間」と呼ばれる。
御内仏
1688年(天保元年)建立。
文化財
国宝
勝興寺 2棟(建造物) - 解説は既出。2022年(令和4年)12月12日指定。
本堂
大広間及び式台
重要文化財
勝興寺 10棟(建造物) - 解説は既出。1988年(昭和63年)に本堂・唐門が指定、1995年(平成7年)に総門ほか10棟が追加指定、2022年(令和4年)に本堂・大広間及び式台の2棟が国宝に指定。
総門
唐門
鼓堂
経堂
宝蔵
御霊屋
式台門
台所
書院及び奥書院
御内仏
紙本金地著色洛中洛外図六曲一双
勝興寺本。高岡市美術館寄託。筆者は狩野孝信及びその周辺の絵師か。
所在地 富山県高岡市伏木古国府17-1
位置 北緯36度47分32秒 東経137度03分10秒
山号 雲龍山
宗旨 浄土真宗
宗派 本願寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 1471年(文明3年)
開基 蓮如
別称 ふるこはん
文化財 本堂、大広間及び式台(国宝)
総門、唐門、鼓堂ほか10棟、紙本金地著色洛中洛外図(重要文化財)
歴史
勝興寺の起こりは1471年(文明3年)、蓮如が越中砺波郡蟹谷庄土山(南砺市土山)に創建した土山御坊で、蓮如の四男蓮誓が置かれた。その後1494年(明応3年)に蟹谷庄高木場(南砺市高窪)へ移転。火災による焼失後、1517年(永正14年)、佐渡にあった順徳天皇御願寺勝興寺(殊勝誓願興行寺)を再興、寺号を相続して「勝興寺」 と称した。1519年(永正16年)には安養寺村(小矢部市末友)に移転、蓮誓の次男実玄が安養寺城を建てた。
勝興寺は戦国時代、瑞泉寺と並んで越中一向一揆の中心勢力として猛威を振るったが、1581年(天正9年)、5代顕幸の時に石黒成綱に焼き討ちされた。1584年(天正12年)、佐々成政が古国府城の土地を越中一向一揆に寄進、顕幸が移ったこの地が現在の勝興寺である。
佐々成政が富山の役で敗退した後も、前田藩前田家の庇護を受けて境内が整備された。第10代前田藩主の前田治脩は、藩主を継ぐ以前の若年期に一時出家しており、ここで得度している。
かつては報恩講の際に御示談(僧侶と門徒が教義や信心について議論・質疑応答を行うこと)が熱心に行われていたが、布教使の質の低下に伴い廃止されると、参詣者も減少の一途を辿った。報恩講の際に灯される大蝋燭は名物として現在も受け継がれている。
境内
敷地は土塁・空濠で囲まれており、越中の国府跡という伝承がある。境内は東を正面とし、総門、唐門を入った敷地南寄りに大規模な本堂が建ち、北寄りには大広間、書院、台所など寺僧の居住・接客用の建物群が軒を列ねる。近世建立の堂舎群がまとまって残り、近世寺院の景観を残す点に価値が認められる。
建造物は、本堂と唐門の2棟が1988年(昭和63年)に国の重要文化財に指定、総門ほか10棟が1995年(平成7年)に追加指定され、本堂と大広間及び式台の2棟が2022年(令和4年)に国宝に指定された。
本堂
1795年(寛政7年)建立。間口39.3m、奥行き37.4m、高さ23.5mの大型の仏堂で、国宝・重要文化財の建造物の中で、本堂では全国8番目の規模を誇る。屋根は亜鉛合板葺きである。元々は鉛葺きの屋根だったものが明治時代に瓦葺きになったが、1998年から2004年まで行われた本堂の大修復で、環境に配慮し鉛葺きに色合い、光沢が近い亜鉛合板葺きとなった。
総門
1840年(天保11年)建立。高さ8.7m、桁行5.5m、梁間3.1mの高麗門。重要文化財指定の高麗門としては最大級の門である。
唐門
1769年(明和6年)建立。前後の軒に唐破風が付く間口6mの門。1893年(明治26年)京都・興正寺より2艘の北前船を利用し移建。2014年(平成26年)まで行われた修復で、銅板葺きから檜皮(ひわだ)葺きに復元された。
鼓堂
1733年(享保18年)建立。総門をくぐった正面、掘割に面して建つ2層の入母屋造りの建物で、城郭の櫓(やぐら)に似た外観をもつ。2階には時を告げる太鼓が保存されている。長年使用されず傷んでいたが、建築物の平成の大修理に合わせ、2021年(令和3年)3月末までに住民有志によって修理された。
経堂
1805年(文化2年)建立。
宝蔵
江戸時代末期建立。
御霊屋
1810年(文化7年)建立。
式台門
1775年(安永4年)建立。
大広間及び式台
1692年(元禄5年)建立。現存する建築物で最も古い。
台所
1863年(文久3年)建立。
書院及び奥書院
1671年(寛文11年)建立。奥書院の壁やふすまには金箔が張られており「金の間」と呼ばれる。
御内仏
1688年(天保元年)建立。
文化財
国宝
勝興寺 2棟(建造物) - 解説は既出。2022年(令和4年)12月12日指定。
本堂
大広間及び式台
重要文化財
勝興寺 10棟(建造物) - 解説は既出。1988年(昭和63年)に本堂・唐門が指定、1995年(平成7年)に総門ほか10棟が追加指定、2022年(令和4年)に本堂・大広間及び式台の2棟が国宝に指定。
総門
唐門
鼓堂
経堂
宝蔵
御霊屋
式台門
台所
書院及び奥書院
御内仏
紙本金地著色洛中洛外図六曲一双
勝興寺本。高岡市美術館寄託。筆者は狩野孝信及びその周辺の絵師か。
所在地 富山県高岡市伏木古国府17-1
位置 北緯36度47分32秒 東経137度03分10秒
山号 雲龍山
宗旨 浄土真宗
宗派 本願寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 1471年(文明3年)
開基 蓮如
別称 ふるこはん
文化財 本堂、大広間及び式台(国宝)
総門、唐門、鼓堂ほか10棟、紙本金地著色洛中洛外図(重要文化財)
2022年12月13日
浅草寺(せんそうじ)は、東京都台東区浅草二丁目にある都内最古の寺
浅草寺(せんそうじ)は、東京都台東区浅草二丁目にある都内最古の寺で、正式には金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)と号する。聖観世音菩薩を本尊とすることから、浅草観音(あさくさかんのん)として知られている。山号は金龍山。
元は天台宗に属していたが、昭和25年(1950年)に独立して聖観音宗の本山となった。都内では、坂東三十三箇所観音霊場唯一の札所(13番)、また江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。全国有数の観光地であるため、正月の初詣では毎年多数の参拝客が訪れ、参拝客数は常に全国トップ10に収まっている。
歴史
創建 - 平安時代
『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の創建の由来は以下のとおりである。 飛鳥時代の推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも 、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。その後大化元年(645年)、勝海という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像と伝わるが、公開されることのない秘仏のためその実体は明らかでない。平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらを機に浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。
境内
雷門
表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後は仮設の門が時折建てられていたが、昭和35年(1960年)に常設の門が鉄筋コンクリート造で再建された。実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したものである。門内には松下電器産業(現パナソニック)寄贈の大提灯がある。三社祭の時(神輿が通れないので)と台風到来の時だけ提灯が畳まれる。
風神雷神像は頭部のみが古く、体部は慶応元年(1865年)の火災で焼失後、明治7年(1874年)に補作。昭和35年(1960年)の門再建時に補修と彩色が加えられている。門の背面の間には、「金龍・天龍」の像を安置する。西の金龍(女神)は仏師・菅原安男、東の天龍(男神)は彫刻家・平櫛田中の作で、昭和53年(1978年)に奉納されたものである。
本堂
本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。再建にあたっては、建設資金を捻出するために瓢簞池の敷地(2400坪)が江東楽天地などに売り払われた。
外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。内陣中央には本尊の聖観音像(絶対秘仏)を安置する八棟(やつむね)造りの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある。宮殿内部は上段の間と下段の間に分かれ、上段の間には秘仏本尊を安置する厨子を納め、下段の間には前立(まえだち)本尊の観音像(伝・円仁作)安置する。下段の間にはこのほか徳川家康、徳川家光、公遵法親王(中御門天皇第二皇子、天台座主)がそれぞれ奉納した観音像が安置されている。
五重塔
天慶5年(942年)平公雅が塔を建立したと伝わる。この塔は三重塔であったといわれ、『江戸図屏風』にも描かれている。焼失を繰り返したのち慶安元年(1648年)に五重塔として建立され、本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが昭和20年(1945年)の東京大空襲では焼失した。現在の塔は本堂の西側、寛永8年(1631年)に焼失した三重塔の跡伝承地付近に場所を移して、昭和48年(1973年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。基壇内部には永代供養のための位牌を納めた霊牌殿などがあり、塔の最上層にはスリランカ・アヌラーダプラのイスルムニヤ寺院から請来した仏舎利を安置している。なお、再建以前の塔は東側にあった。その位置(交番前辺り)には「塔」と刻まれた標石が埋め込まれていたが、平成21年(2009年)、新たに「旧五重塔跡」と記された石碑が設置された。周辺には木が植えられ、憩いの場となっている。江戸四塔、江戸六塔の一つに数えられる。
文化財
国宝
法華経(開結共)10巻 - 昭和26年(1951年)指定。平安時代の11世紀頃の装飾経。別名「浅草寺経」。金銀泥で装飾した「装飾経」の代表作で『法華経』8巻に開結経の『無量義経』『観普賢経』を含む全10巻が完存し表紙、軸、巻き紐まで含めて制作当初のままに残されている。東京国立博物館に寄託。
重要文化財
二天門
浅草寺伝法院 6棟
客殿 附:扁額1面
玄関
大書院 附:襖8本、下地桟8組
小書院
新書院
台所
大蔵経(元版)5428巻 - 中国・元時代(明治初期、鶴岡八幡宮より伝来)
名勝(国指定)
伝法院庭園
その他、江戸時代の絵馬が多数保存されており、中には谷文晁、菊池容斎、鈴木其一、歌川国芳、狩野一信、柴田是真のような著名絵師の作品もある。
交通
G 東京メトロ銀座線・A 都営地下鉄浅草線・東武線 東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)浅草駅より徒歩5分
Tsukuba Express mark.svg つくばエクスプレス浅草駅より徒歩10分
都営バスS-1、上23、草24、草39、東42乙、草43、草64系統の浅草雷門バス停より徒歩3分
都営バス都08、東42甲系統の東武浅草駅バス停より徒歩5分
都営バス草41、上46、草63系統の浅草一丁目バス停より徒歩8分
京成バス・京成タウンバス有01、新小59系統の浅草雷門バス停より徒歩3分
東武バスセントラルスカイツリーシャトルの浅草雷門バス停より徒歩3分
所在地 東京都台東区浅草二丁目3番1号
元は天台宗に属していたが、昭和25年(1950年)に独立して聖観音宗の本山となった。都内では、坂東三十三箇所観音霊場唯一の札所(13番)、また江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。全国有数の観光地であるため、正月の初詣では毎年多数の参拝客が訪れ、参拝客数は常に全国トップ10に収まっている。
歴史
創建 - 平安時代
『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の創建の由来は以下のとおりである。 飛鳥時代の推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも 、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。その後大化元年(645年)、勝海という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像と伝わるが、公開されることのない秘仏のためその実体は明らかでない。平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらを機に浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。
境内
雷門
表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後は仮設の門が時折建てられていたが、昭和35年(1960年)に常設の門が鉄筋コンクリート造で再建された。実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したものである。門内には松下電器産業(現パナソニック)寄贈の大提灯がある。三社祭の時(神輿が通れないので)と台風到来の時だけ提灯が畳まれる。
風神雷神像は頭部のみが古く、体部は慶応元年(1865年)の火災で焼失後、明治7年(1874年)に補作。昭和35年(1960年)の門再建時に補修と彩色が加えられている。門の背面の間には、「金龍・天龍」の像を安置する。西の金龍(女神)は仏師・菅原安男、東の天龍(男神)は彫刻家・平櫛田中の作で、昭和53年(1978年)に奉納されたものである。
本堂
本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。再建にあたっては、建設資金を捻出するために瓢簞池の敷地(2400坪)が江東楽天地などに売り払われた。
外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。内陣中央には本尊の聖観音像(絶対秘仏)を安置する八棟(やつむね)造りの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある。宮殿内部は上段の間と下段の間に分かれ、上段の間には秘仏本尊を安置する厨子を納め、下段の間には前立(まえだち)本尊の観音像(伝・円仁作)安置する。下段の間にはこのほか徳川家康、徳川家光、公遵法親王(中御門天皇第二皇子、天台座主)がそれぞれ奉納した観音像が安置されている。
五重塔
天慶5年(942年)平公雅が塔を建立したと伝わる。この塔は三重塔であったといわれ、『江戸図屏風』にも描かれている。焼失を繰り返したのち慶安元年(1648年)に五重塔として建立され、本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが昭和20年(1945年)の東京大空襲では焼失した。現在の塔は本堂の西側、寛永8年(1631年)に焼失した三重塔の跡伝承地付近に場所を移して、昭和48年(1973年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。基壇内部には永代供養のための位牌を納めた霊牌殿などがあり、塔の最上層にはスリランカ・アヌラーダプラのイスルムニヤ寺院から請来した仏舎利を安置している。なお、再建以前の塔は東側にあった。その位置(交番前辺り)には「塔」と刻まれた標石が埋め込まれていたが、平成21年(2009年)、新たに「旧五重塔跡」と記された石碑が設置された。周辺には木が植えられ、憩いの場となっている。江戸四塔、江戸六塔の一つに数えられる。
文化財
国宝
法華経(開結共)10巻 - 昭和26年(1951年)指定。平安時代の11世紀頃の装飾経。別名「浅草寺経」。金銀泥で装飾した「装飾経」の代表作で『法華経』8巻に開結経の『無量義経』『観普賢経』を含む全10巻が完存し表紙、軸、巻き紐まで含めて制作当初のままに残されている。東京国立博物館に寄託。
重要文化財
二天門
浅草寺伝法院 6棟
客殿 附:扁額1面
玄関
大書院 附:襖8本、下地桟8組
小書院
新書院
台所
大蔵経(元版)5428巻 - 中国・元時代(明治初期、鶴岡八幡宮より伝来)
名勝(国指定)
伝法院庭園
その他、江戸時代の絵馬が多数保存されており、中には谷文晁、菊池容斎、鈴木其一、歌川国芳、狩野一信、柴田是真のような著名絵師の作品もある。
交通
G 東京メトロ銀座線・A 都営地下鉄浅草線・東武線 東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)浅草駅より徒歩5分
Tsukuba Express mark.svg つくばエクスプレス浅草駅より徒歩10分
都営バスS-1、上23、草24、草39、東42乙、草43、草64系統の浅草雷門バス停より徒歩3分
都営バス都08、東42甲系統の東武浅草駅バス停より徒歩5分
都営バス草41、上46、草63系統の浅草一丁目バス停より徒歩8分
京成バス・京成タウンバス有01、新小59系統の浅草雷門バス停より徒歩3分
東武バスセントラルスカイツリーシャトルの浅草雷門バス停より徒歩3分
所在地 東京都台東区浅草二丁目3番1号
2022年12月12日
神魂神社(かもすじんじゃ)は、島根県松江市大庭町にある神社
神魂神社(かもすじんじゃ)は、島根県松江市大庭町にある神社である。旧社格は県社で、意宇六社の一社。本殿は現存する日本最古の大社造りで国宝。地元では「神魂さん」、「大庭の大宮さん」と呼ばれ、大庭大宮、神納神社の別名もある。
本殿(国宝)
概要・歴史
社伝によれば、出雲国造の大祖・天穂日命がこの地に天降って創建したと伝わるが、『延喜式神名帳』、国史や『出雲国風土記』に当社が出現しないが、その理由として、出雲国造家が、自らの祖神を大庭にあった邸内で私的に祀り祭祀を行ったていた、または邸内に祀っていた社が起源であった可能性が強く、そのため文献に記載がなかったと考えられ、やがて現在地に勧請され、近隣住民の信仰を集める形となったと考えられている。文献における初見は承元2年(1208年)の鎌倉将軍家下文であり、実際の創建は平安時代中期頃とみられている。
神魂神社のある大庭(おおば)は、出雲の国分寺、国府に近く古代出雲の政治、交通、経済の中心地であり、天穂日命の子孫の出雲国造が住んだと伝わり、出雲国造は出雲大社の宮司家となるが、出雲国造として25代まで当社に奉仕していた。延暦17年(798年)以降、郡司兼務を禁じられ、大庭に別邸を残したまま、現・出雲大社のある杵築(きつき)に居を移すが、出雲国造家の代替わりのときに行われる「神火相続式(おひちぎしき)」、「古伝新嘗祭」の祭祀は、明治初年まで当社に参向して行われており、また大庭の別邸も明治初年まで神魂神社の社頭近くに存在していた。
祭神
主祭神
伊弉冊大神
配祀神
伊弉諾大神
祭神については、神魂神社神主を世襲で努めた秋上家の文書によると、中世末期から近世初期ごろに、上記の祭神とすることが多く、それ以前の祭神は不明である。時代が下って寛文年間ごろの新嘗会祝詞には、熊野大神・大己貴命などの神名が見えるが、当社の創始が出雲国造家の私的祭祀や邸内の社と考えられ、出雲国造家と関わりの深い熊野大社や出雲大社に深く関わる祭神であったからと考えられる。また社名から、出雲氏族の一つの神魂命が元の祭神であったとも考えられている。
本殿の彩色鮮やかな扉絵(日の扉)
境内
一の鳥居
二の鳥居
本殿 - 国宝(後述)
拝殿
本殿(国宝)
本殿は国宝に指定され、心御柱古材に「正平元年丙戌十一月日」の墨書銘がある。柱古材は、正平元年(1346年)の柱と考えられるが、社殿は落雷により消失したため、現在の社殿は天正11年(1583年)に古式に則って再建されたものである。室町時代の造営形態を引き継ぐ神魂神社本殿は、出雲大社よりも古い形式の大社造りをよく保存し、出雲国(島根県東半部)にのみ分布する大社造のなかの最古の遺構である。
出雲大社本殿に類似するが、規模は小さく広さは約5.5 メートル四方、切妻造り、妻入りの東向き、正面の右側に階段があり、内部は畳敷き。屋根は栃拭き、3本の鰹木と「女千木」と呼ばれる内削ぎの千木が乗る。本殿内の梁や柱は丹塗で、鏡天井に八雲、中央の梁に竜と雲が描かれ、8ケ所の壁面に、狩野山楽、土佐光起による彩色豊かな絵が描かれ、正面入り口の本殿向かって左の扉は「月の扉」、右の扉は「日の扉」とよばれ、それぞれ満月と太陽が昇る舞楽の図が扉内側に描かれている。扉は祭礼の日に開けられるため、舞楽の図を見ることができる。本殿外壁は丹塗がされていないが、内部に丹塗が残ることから、かつて外壁にも丹塗が施されていたと考えられている。
入口の階段は出雲大社と同様に正面に向かって右にあるが、殿内の中心に建つ心御柱(しんのみはしら)と脇の板壁および神座の位置と向きは、出雲大社とは反対になっており、大社造には男造(おづくり)・女造(めづくり)と呼ばれる二つの内部構造があり、出雲大社は男造、神魂神社は女造となる。
文化財
国宝
建造物
神魂神社本殿 附:内殿 1基、心御柱古材 1箇 - 1952年(昭和27年)3月29日指定。
重要文化財
建造物
神魂神社末社貴布祢稲荷両神社本殿 - 1952年(昭和27年)3月29日指定。
天正11年(1356年)建立、二間社流造、こけら葺。
交通
JR松江駅から市バスかんべの里(神魂神社)行きで25分。終点下車。
JR松江駅から一畑バス八雲行きで18分、風土記の丘入口下車徒歩10分
JR松江駅からタクシーで15分
本神社を起点とする島根県道248号神魂神社線が国道432号まで伸びている。
所在地 島根県松江市大庭町563
本殿(国宝)
概要・歴史
社伝によれば、出雲国造の大祖・天穂日命がこの地に天降って創建したと伝わるが、『延喜式神名帳』、国史や『出雲国風土記』に当社が出現しないが、その理由として、出雲国造家が、自らの祖神を大庭にあった邸内で私的に祀り祭祀を行ったていた、または邸内に祀っていた社が起源であった可能性が強く、そのため文献に記載がなかったと考えられ、やがて現在地に勧請され、近隣住民の信仰を集める形となったと考えられている。文献における初見は承元2年(1208年)の鎌倉将軍家下文であり、実際の創建は平安時代中期頃とみられている。
神魂神社のある大庭(おおば)は、出雲の国分寺、国府に近く古代出雲の政治、交通、経済の中心地であり、天穂日命の子孫の出雲国造が住んだと伝わり、出雲国造は出雲大社の宮司家となるが、出雲国造として25代まで当社に奉仕していた。延暦17年(798年)以降、郡司兼務を禁じられ、大庭に別邸を残したまま、現・出雲大社のある杵築(きつき)に居を移すが、出雲国造家の代替わりのときに行われる「神火相続式(おひちぎしき)」、「古伝新嘗祭」の祭祀は、明治初年まで当社に参向して行われており、また大庭の別邸も明治初年まで神魂神社の社頭近くに存在していた。
祭神
主祭神
伊弉冊大神
配祀神
伊弉諾大神
祭神については、神魂神社神主を世襲で努めた秋上家の文書によると、中世末期から近世初期ごろに、上記の祭神とすることが多く、それ以前の祭神は不明である。時代が下って寛文年間ごろの新嘗会祝詞には、熊野大神・大己貴命などの神名が見えるが、当社の創始が出雲国造家の私的祭祀や邸内の社と考えられ、出雲国造家と関わりの深い熊野大社や出雲大社に深く関わる祭神であったからと考えられる。また社名から、出雲氏族の一つの神魂命が元の祭神であったとも考えられている。
本殿の彩色鮮やかな扉絵(日の扉)
境内
一の鳥居
二の鳥居
本殿 - 国宝(後述)
拝殿
本殿(国宝)
本殿は国宝に指定され、心御柱古材に「正平元年丙戌十一月日」の墨書銘がある。柱古材は、正平元年(1346年)の柱と考えられるが、社殿は落雷により消失したため、現在の社殿は天正11年(1583年)に古式に則って再建されたものである。室町時代の造営形態を引き継ぐ神魂神社本殿は、出雲大社よりも古い形式の大社造りをよく保存し、出雲国(島根県東半部)にのみ分布する大社造のなかの最古の遺構である。
出雲大社本殿に類似するが、規模は小さく広さは約5.5 メートル四方、切妻造り、妻入りの東向き、正面の右側に階段があり、内部は畳敷き。屋根は栃拭き、3本の鰹木と「女千木」と呼ばれる内削ぎの千木が乗る。本殿内の梁や柱は丹塗で、鏡天井に八雲、中央の梁に竜と雲が描かれ、8ケ所の壁面に、狩野山楽、土佐光起による彩色豊かな絵が描かれ、正面入り口の本殿向かって左の扉は「月の扉」、右の扉は「日の扉」とよばれ、それぞれ満月と太陽が昇る舞楽の図が扉内側に描かれている。扉は祭礼の日に開けられるため、舞楽の図を見ることができる。本殿外壁は丹塗がされていないが、内部に丹塗が残ることから、かつて外壁にも丹塗が施されていたと考えられている。
入口の階段は出雲大社と同様に正面に向かって右にあるが、殿内の中心に建つ心御柱(しんのみはしら)と脇の板壁および神座の位置と向きは、出雲大社とは反対になっており、大社造には男造(おづくり)・女造(めづくり)と呼ばれる二つの内部構造があり、出雲大社は男造、神魂神社は女造となる。
文化財
国宝
建造物
神魂神社本殿 附:内殿 1基、心御柱古材 1箇 - 1952年(昭和27年)3月29日指定。
重要文化財
建造物
神魂神社末社貴布祢稲荷両神社本殿 - 1952年(昭和27年)3月29日指定。
天正11年(1356年)建立、二間社流造、こけら葺。
交通
JR松江駅から市バスかんべの里(神魂神社)行きで25分。終点下車。
JR松江駅から一畑バス八雲行きで18分、風土記の丘入口下車徒歩10分
JR松江駅からタクシーで15分
本神社を起点とする島根県道248号神魂神社線が国道432号まで伸びている。
所在地 島根県松江市大庭町563
2022年12月11日
崇福寺(そうふくじ)は、長崎県長崎市にある黄檗宗の寺院
崇福寺(そうふくじ)は、長崎県長崎市にある黄檗宗の寺院。大雄宝殿と第一峰門は国宝建築である。興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数えられる。長崎に4つある唐寺の一つ。
歴史・概要
寛永6年(1629年) 長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が、福州から超然を招聘して創建。中国様式の寺院としては日本最古のものである。福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や支那寺と称せられた。
文化財
重要文化財
三門 - 1849年建立、桁行三間、梁間二間、二重門、入母屋造、本瓦葺、左右脇門付
鐘鼓楼 - 1728年建立、桁行三間、梁間二間、二重、入母屋造、本瓦葺
護法堂(天王殿、関帝堂、韋駄殿、観音堂) - 1731年建立、桁行三間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺。中央に観音、向かって右に関帝、左に韋駄天を祀るため、観音堂、関帝堂、韋駄殿、天王殿の称がある。
媽姐門 - 1666年建立、三間三戸八脚門、入母屋造、桟瓦葺
絹本著色仏涅槃図 呉彬筆 明・万暦38年(1610年)
大雄宝殿(国宝)
崇福寺媽姐門(重文)
所在地 長崎県長崎市鍛冶屋町
位置 北緯32度44分32.1秒 東経129度53分1.2秒
山号 聖寿山
宗派 黄檗宗
創建年 寛永6年(1629年)
開基 超然
文化財 大雄宝殿・第一峰門(国宝)
三門・鐘鼓楼・護法堂・媽姐門他(重文)
歴史・概要
寛永6年(1629年) 長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が、福州から超然を招聘して創建。中国様式の寺院としては日本最古のものである。福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や支那寺と称せられた。
文化財
重要文化財
三門 - 1849年建立、桁行三間、梁間二間、二重門、入母屋造、本瓦葺、左右脇門付
鐘鼓楼 - 1728年建立、桁行三間、梁間二間、二重、入母屋造、本瓦葺
護法堂(天王殿、関帝堂、韋駄殿、観音堂) - 1731年建立、桁行三間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺。中央に観音、向かって右に関帝、左に韋駄天を祀るため、観音堂、関帝堂、韋駄殿、天王殿の称がある。
媽姐門 - 1666年建立、三間三戸八脚門、入母屋造、桟瓦葺
絹本著色仏涅槃図 呉彬筆 明・万暦38年(1610年)
大雄宝殿(国宝)
崇福寺媽姐門(重文)
所在地 長崎県長崎市鍛冶屋町
位置 北緯32度44分32.1秒 東経129度53分1.2秒
山号 聖寿山
宗派 黄檗宗
創建年 寛永6年(1629年)
開基 超然
文化財 大雄宝殿・第一峰門(国宝)
三門・鐘鼓楼・護法堂・媽姐門他(重文)
2022年12月10日
歓喜院(かんぎいん)は、埼玉県熊谷市妻沼(めぬま)にある高野山真言宗の仏教寺院
歓喜院(かんぎいん)は、埼玉県熊谷市妻沼(めぬま)にある高野山真言宗の仏教寺院である。日本三大聖天の一つとされる。一般的には山号に地名を冠した「妻沼聖天山(めぬましょうでんざん)」と呼称され、公式でも主にその名で案内される。 また、「埼玉日光」(国宝に指定される前は「埼玉の小日光」)とも称されている。参拝客や地元住民からは「(妻沼の)聖天様」などと呼ばれている。
歴史
寺伝では治承3年(1179年)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。その後、建久8年(1197年)、良応僧都(斎藤別当実盛の次男である実長)が聖天宮の別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観音を本尊としたという。
鎌倉幕府初代将軍の源頼朝が参拝したほかにも、中世には忍(おし)城主の庇護を受け、近世初頭には徳川家康によって再興されたが、寛文10年(1670年)の妻沼の大火で焼失した。現存する聖天堂(本殿)は、享保から宝暦年間(18世紀半ば)にかけて再建されたものである。
平成15年(2003年)から平成23年(2011年)まで本殿の修復工事が行われ、平成22年(2010年)1月18日に本体工事の竣功式を、平成23年(2011年)6月1日に竣功奉告法会を執行し、同日から一般公開が始まっている。平成24年(2012年)7月9日に聖天堂(本殿)は国宝に指定された(埼玉県内における国宝建築物としては初めての指定)。
境内
本殿(聖天堂)
平成15年(2003年)から平成23年(2011年)までの修復工事により創建当初の極彩色の彫刻が蘇った。総工費は13億5千万円。9億6千万円が国と県と市の補助金、3億5千万円が信徒の寄付である。
奥殿の拝観には700円の入場料が必要(拝殿への通常の参拝には拝観料不要)。
大師堂
関東八十八箇所第88番結願所。
仁王門
万治元年(1658年)創立、明治24年台風により倒壊し、明治27年に再建された。
中門
護摩堂
実盛公像
齋藤別当実盛の像、平成8年(1996年)に建立。
貴惣門
境内入口の門。
お祭り広場
平和の塔
軍荼利明王像
天満宮
五社神社
三宝荒神社
本坊本堂
善光寺三尊板碑(県指定有形文化財)
文化財
国宝
聖天堂(本殿)
拝殿・中殿(相の間)・奥殿からなる廟型式権現造(日光東照宮などに見られる、複数棟を一体とした建築形式)の建物である。大工棟梁は妻沼の名工林兵庫正清で幕府作事方棟梁の平内政信の子孫に当たり、子の正信の代まで享保20年(1735年)から宝暦10年(1760年)にわたる二十数年をかけて再建されたものである。奥殿は入母屋造、桁行3間・梁間3間、正面向拝付き、中殿は両下造(りょうさげづくり)、桁行3間・梁間1間、拝殿は入母屋造、桁行5間・梁間3間で、これらを接続して1棟とし、屋根はすべて瓦棒銅板葺きとする。
奥殿は内外ともに彫刻、漆塗、彩色、金具等を華麗にほどす装飾性の高い建築である。奥殿向拝南面羽目板の「鷲と猿」の彫刻は伝説的な彫刻職人の左甚五郎作とも伝承されるが実際の彫刻棟梁は石原吟八郎(吟八)と関口文治郎である。奥殿は柱、長押などの部材に地紋彫をほどこし、内法下の大羽目板には七福神、縁下には唐子遊びを題材とした彩色彫刻をほどこす。彫刻にはそれぞれ中国の故事にちなむ主題が見られ、唐破風下に「三聖吸酸」及び「司馬温公の瓶割り」など、拝殿正面唐破風下には「琴棋書画」がある。2003年から2010年にかけて屋根葺き替えと彩色修理を中心とする修理が実施され、当初の彩色がよみがえった。2012年、国宝に指定。
重要文化財(国指定)
貴惣門 - 境内正面入口に位置する高さ18mの銅板葺きの八脚門。屋根を上下二重とし、下重は前後に2つの切妻屋根を架け、側面から見ると3つの破風をもつ特異な形式の門。持国天、多聞天の像を左右に配置している。妻沼の林正道により、嘉永4年竣工、安政2年(1855年)頃の完成。
錫杖頭(しゃくじょうとう) - 聖天堂の秘仏本尊。建久8年(1197年)の銘があり、中心に歓喜天と二童子の像を鋳出す。錫杖とは、地蔵菩薩などが手に持つ杖のことで、杖の頭部に仏像を表すことがある。
交通
車
県道341号太田熊谷線沿い。また、本殿と本坊の間には、県道59号羽生妻沼線が通っており、「縁結び通り」(当院は縁結びの御利益があるとされていることから)と呼ばれる。
周辺に専用駐車場がある(公式サイトや現地の案内等を参照のこと)
なお、太田熊谷線-貴惣門間の参道に面した駐車スペース及び、本殿裏手の第6駐車場は参拝客使用不可。
ちなみに、年始や春・秋大祭時などは混雑する為、熊谷市では南方にある市営めぬま観光駐車場に駐車し、散策しながら参拝することを勧めている。
バス
朝日バス:熊谷駅北口6番のりば - [KM61]太田駅行・[KM63]西小泉駅行・[KM64]妻沼聖天前行[9]にて、「妻沼聖天前」停留所下車。※ 22時以降の深夜帯は3番のりば発(上記の行先+[KM62]西矢島行も利用可能)
ゆうゆうバス(コミュニティバス):グライダー号(熊谷駅南口 - 妻沼行政センター)・グライダーワゴン(妻沼循環)、「妻沼聖天前」停留所または「聖天山南入口」停留所下車。
所在地 埼玉県熊谷市妻沼1627
歴史
寺伝では治承3年(1179年)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。その後、建久8年(1197年)、良応僧都(斎藤別当実盛の次男である実長)が聖天宮の別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観音を本尊としたという。
鎌倉幕府初代将軍の源頼朝が参拝したほかにも、中世には忍(おし)城主の庇護を受け、近世初頭には徳川家康によって再興されたが、寛文10年(1670年)の妻沼の大火で焼失した。現存する聖天堂(本殿)は、享保から宝暦年間(18世紀半ば)にかけて再建されたものである。
平成15年(2003年)から平成23年(2011年)まで本殿の修復工事が行われ、平成22年(2010年)1月18日に本体工事の竣功式を、平成23年(2011年)6月1日に竣功奉告法会を執行し、同日から一般公開が始まっている。平成24年(2012年)7月9日に聖天堂(本殿)は国宝に指定された(埼玉県内における国宝建築物としては初めての指定)。
境内
本殿(聖天堂)
平成15年(2003年)から平成23年(2011年)までの修復工事により創建当初の極彩色の彫刻が蘇った。総工費は13億5千万円。9億6千万円が国と県と市の補助金、3億5千万円が信徒の寄付である。
奥殿の拝観には700円の入場料が必要(拝殿への通常の参拝には拝観料不要)。
大師堂
関東八十八箇所第88番結願所。
仁王門
万治元年(1658年)創立、明治24年台風により倒壊し、明治27年に再建された。
中門
護摩堂
実盛公像
齋藤別当実盛の像、平成8年(1996年)に建立。
貴惣門
境内入口の門。
お祭り広場
平和の塔
軍荼利明王像
天満宮
五社神社
三宝荒神社
本坊本堂
善光寺三尊板碑(県指定有形文化財)
文化財
国宝
聖天堂(本殿)
拝殿・中殿(相の間)・奥殿からなる廟型式権現造(日光東照宮などに見られる、複数棟を一体とした建築形式)の建物である。大工棟梁は妻沼の名工林兵庫正清で幕府作事方棟梁の平内政信の子孫に当たり、子の正信の代まで享保20年(1735年)から宝暦10年(1760年)にわたる二十数年をかけて再建されたものである。奥殿は入母屋造、桁行3間・梁間3間、正面向拝付き、中殿は両下造(りょうさげづくり)、桁行3間・梁間1間、拝殿は入母屋造、桁行5間・梁間3間で、これらを接続して1棟とし、屋根はすべて瓦棒銅板葺きとする。
奥殿は内外ともに彫刻、漆塗、彩色、金具等を華麗にほどす装飾性の高い建築である。奥殿向拝南面羽目板の「鷲と猿」の彫刻は伝説的な彫刻職人の左甚五郎作とも伝承されるが実際の彫刻棟梁は石原吟八郎(吟八)と関口文治郎である。奥殿は柱、長押などの部材に地紋彫をほどこし、内法下の大羽目板には七福神、縁下には唐子遊びを題材とした彩色彫刻をほどこす。彫刻にはそれぞれ中国の故事にちなむ主題が見られ、唐破風下に「三聖吸酸」及び「司馬温公の瓶割り」など、拝殿正面唐破風下には「琴棋書画」がある。2003年から2010年にかけて屋根葺き替えと彩色修理を中心とする修理が実施され、当初の彩色がよみがえった。2012年、国宝に指定。
重要文化財(国指定)
貴惣門 - 境内正面入口に位置する高さ18mの銅板葺きの八脚門。屋根を上下二重とし、下重は前後に2つの切妻屋根を架け、側面から見ると3つの破風をもつ特異な形式の門。持国天、多聞天の像を左右に配置している。妻沼の林正道により、嘉永4年竣工、安政2年(1855年)頃の完成。
錫杖頭(しゃくじょうとう) - 聖天堂の秘仏本尊。建久8年(1197年)の銘があり、中心に歓喜天と二童子の像を鋳出す。錫杖とは、地蔵菩薩などが手に持つ杖のことで、杖の頭部に仏像を表すことがある。
交通
車
県道341号太田熊谷線沿い。また、本殿と本坊の間には、県道59号羽生妻沼線が通っており、「縁結び通り」(当院は縁結びの御利益があるとされていることから)と呼ばれる。
周辺に専用駐車場がある(公式サイトや現地の案内等を参照のこと)
なお、太田熊谷線-貴惣門間の参道に面した駐車スペース及び、本殿裏手の第6駐車場は参拝客使用不可。
ちなみに、年始や春・秋大祭時などは混雑する為、熊谷市では南方にある市営めぬま観光駐車場に駐車し、散策しながら参拝することを勧めている。
バス
朝日バス:熊谷駅北口6番のりば - [KM61]太田駅行・[KM63]西小泉駅行・[KM64]妻沼聖天前行[9]にて、「妻沼聖天前」停留所下車。※ 22時以降の深夜帯は3番のりば発(上記の行先+[KM62]西矢島行も利用可能)
ゆうゆうバス(コミュニティバス):グライダー号(熊谷駅南口 - 妻沼行政センター)・グライダーワゴン(妻沼循環)、「妻沼聖天前」停留所または「聖天山南入口」停留所下車。
所在地 埼玉県熊谷市妻沼1627
2022年12月09日
彌彦神社(やひこじんじゃ)は、新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にある神社
彌彦神社(やひこじんじゃ)は、新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にある神社。式内社(名神大社)、越後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
概要
「彌彦」は歴史的には「伊夜比古・伊夜日子・伊夜彦」などとも表記され「いやひこ」と読んでいたが、現在は「やひこ」と言い習わされている。
越後平野西部の弥彦山(標高634m)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る神社である。
『万葉集』にも歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。宝物館には日本有数の大太刀(長大な日本刀)である「志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)」や、源義家や源義経、上杉謙信(輝虎)などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている。
宮中同様に鎮魂祭を行うとして、石上神宮・物部神社と共に有名である。なお、当社の鎮魂祭は宮中で行われる11月22日でなく、4月1日と11月1日の年2回行われる。二年参りや初詣、秋の菊まつりは特に賑わう。
分社が北海道から山陰地方まで少なくとも47ヵ所に点在する。越後発祥の武士・山内氏が所領の会津地方(現・福島県西部)に勧請したり、移住者や新潟県で産する石油関連企業が県外で創建したりして広がった。
祭神
天香山命 (あめのかごやまのみこと)
「天香語山命」とも表記。地名から「伊夜日古大神(伊夜比古大神、伊夜彦大神)」などとも称される。
弥彦山頂にある御神廟(奥の宮)が神廟にあたるとされる。
なお祭神に関しては、大屋彦命・大彦命とする説もある。
歴史
概史
創建年代は不詳。祭神の天香山命は、『古事記』に「高倉下」として登場する(ただし古事記において天香山命と高倉下が同一とする記述はない)。社伝によれば、命は越後国開拓の詔により越後国の野積の浜(現・長岡市)に上陸し、地元民に漁撈や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えたとされる。このため、越後国を造った神として弥彦山に祀られ「伊夜比古神」として崇敬された。このほか、彌彦の大神は、神武天皇即位の大典の際に自ら神歌楽(かがらく)を奉奏したとされる。ただし、尾張国造家の祖神である天香山命が越後に祀られるのは不自然なため、本来の祭神は北陸の国造家高橋氏祖神の大彦命ではないかとする説もある。
境内
本社(山麓)
社殿は明治45年(1912年)に焼失し、大正5年(1916年)に現在地に移って再建された。拝殿の背後に弥彦山を仰ぐ。
本殿 - 三間社流造。
幣殿
拝殿
万葉道]
国の登録有形文化財
いずれも大正5年建造で、平成10年に登録。
本殿
幣殿
拝殿
石廊下
瑞垣・裏門
神饌所
伺候所
祝詞舎
一之鳥居
制札台
石橋
絵馬殿
手水舎
神符授与所
二之鳥居
神木石柵
鼓楼
舞殿
楽舎
参集殿(旧拝観所)
斎館(旧勅使館)
狛犬
摂社乙子神社
摂社今山神社
摂社草薙神社
現地情報
新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898
交通アクセス
本社まで
鉄道:弥彦線(JR東日本)弥彦駅より徒歩約15分。
バス:にしかん観光周遊ぐる〜んバス(巻駅・弥彦駅発着) 「彌彦神社前」バス停より徒歩すぐ。※ 土曜・日曜を中心に運行。
本社から御神廟(弥彦山頂)まで
徒歩:約90分(山道)
弥彦山ロープウェイ:山麓駅(本社から徒歩約10分、送迎バスあり)から山頂駅へ、下車後徒歩約10分。
車
駐車場:本社付近、弥彦山頂(弥彦スカイライン利用)にそれぞれ有り。
概要
「彌彦」は歴史的には「伊夜比古・伊夜日子・伊夜彦」などとも表記され「いやひこ」と読んでいたが、現在は「やひこ」と言い習わされている。
越後平野西部の弥彦山(標高634m)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る神社である。
『万葉集』にも歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。宝物館には日本有数の大太刀(長大な日本刀)である「志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)」や、源義家や源義経、上杉謙信(輝虎)などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている。
宮中同様に鎮魂祭を行うとして、石上神宮・物部神社と共に有名である。なお、当社の鎮魂祭は宮中で行われる11月22日でなく、4月1日と11月1日の年2回行われる。二年参りや初詣、秋の菊まつりは特に賑わう。
分社が北海道から山陰地方まで少なくとも47ヵ所に点在する。越後発祥の武士・山内氏が所領の会津地方(現・福島県西部)に勧請したり、移住者や新潟県で産する石油関連企業が県外で創建したりして広がった。
祭神
天香山命 (あめのかごやまのみこと)
「天香語山命」とも表記。地名から「伊夜日古大神(伊夜比古大神、伊夜彦大神)」などとも称される。
弥彦山頂にある御神廟(奥の宮)が神廟にあたるとされる。
なお祭神に関しては、大屋彦命・大彦命とする説もある。
歴史
概史
創建年代は不詳。祭神の天香山命は、『古事記』に「高倉下」として登場する(ただし古事記において天香山命と高倉下が同一とする記述はない)。社伝によれば、命は越後国開拓の詔により越後国の野積の浜(現・長岡市)に上陸し、地元民に漁撈や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えたとされる。このため、越後国を造った神として弥彦山に祀られ「伊夜比古神」として崇敬された。このほか、彌彦の大神は、神武天皇即位の大典の際に自ら神歌楽(かがらく)を奉奏したとされる。ただし、尾張国造家の祖神である天香山命が越後に祀られるのは不自然なため、本来の祭神は北陸の国造家高橋氏祖神の大彦命ではないかとする説もある。
境内
本社(山麓)
社殿は明治45年(1912年)に焼失し、大正5年(1916年)に現在地に移って再建された。拝殿の背後に弥彦山を仰ぐ。
本殿 - 三間社流造。
幣殿
拝殿
万葉道]
国の登録有形文化財
いずれも大正5年建造で、平成10年に登録。
本殿
幣殿
拝殿
石廊下
瑞垣・裏門
神饌所
伺候所
祝詞舎
一之鳥居
制札台
石橋
絵馬殿
手水舎
神符授与所
二之鳥居
神木石柵
鼓楼
舞殿
楽舎
参集殿(旧拝観所)
斎館(旧勅使館)
狛犬
摂社乙子神社
摂社今山神社
摂社草薙神社
現地情報
新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898
交通アクセス
本社まで
鉄道:弥彦線(JR東日本)弥彦駅より徒歩約15分。
バス:にしかん観光周遊ぐる〜んバス(巻駅・弥彦駅発着) 「彌彦神社前」バス停より徒歩すぐ。※ 土曜・日曜を中心に運行。
本社から御神廟(弥彦山頂)まで
徒歩:約90分(山道)
弥彦山ロープウェイ:山麓駅(本社から徒歩約10分、送迎バスあり)から山頂駅へ、下車後徒歩約10分。
車
駐車場:本社付近、弥彦山頂(弥彦スカイライン利用)にそれぞれ有り。
2022年12月08日
劔神社(つるぎじんじゃ)は、福井県丹生郡越前町織田にある神社
劔神社(つるぎじんじゃ)は、福井県丹生郡越前町織田にある神社。式内社、越前国二宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。別名を「織田明神(おたみょうじん)」とも。
劔神社 (越前町) 拝殿
祭神
素盞嗚尊を主祭神とし、気比大神・忍熊王を配祀する。
歴史
創建
社伝によれば、御神体となっている剣は垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命が作らせた神剣で、神功皇后摂政の時代に仲哀天皇皇子の忍熊王が譲り受け、忍熊王が高志国(越国)の賊徒討伐にあたり無事平定した。のち、伊部郷座ヶ岳に祀られていた素盞嗚尊の神霊を伊部臣が現在地に勧請し、この神剣を御霊代とし祀ったことに始まると伝えられる。忍熊王はその後もこの地を開拓したことから、開拓の祖神として父である仲哀天皇(気比大神)とともに配祀されたと伝える。
文化財
国宝
梵鐘 銘劔御子寺鐘神護景雲四年九月十一日(工芸品)
奈良時代の作。「劔御子寺鐘/神護景雲四/年九月十一日」(神護景雲4年は770年)の銘がある梵鐘で、奈良時代の在銘鐘として貴重なものである。道鏡が失脚した際に神馬とともに奉納されたとの伝承がある。越前町織田文化歴史館に寄託。1902年(明治35年)4月17日に当時の古社寺保存法に基づき国宝に指定、1956年(昭和31年)6月28日に文化財保護法に基づき国宝に指定。
重要文化財
絹本著色八相涅槃図(附 紙本墨書涅槃講式(断簡)1巻)(絵画)
鎌倉時代中期の作。奈良国立博物館に寄託。1914年(大正3年)4月17日指定。
本殿(福井県指定文化財)
所在地 福井県丹生郡越前町織田113-1
位置 北緯35度57分28.22秒 東経136度3分19.42秒
主祭神 素盞嗚尊
社格等 式内社(小)
越前国二宮
旧国幣小社
別表神社
創建 (伝)第14代仲哀天皇年間
本殿の様式 八棟造(織田造)
別名 織田明神
例祭 10月9日
劔神社 (越前町) 拝殿
祭神
素盞嗚尊を主祭神とし、気比大神・忍熊王を配祀する。
歴史
創建
社伝によれば、御神体となっている剣は垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命が作らせた神剣で、神功皇后摂政の時代に仲哀天皇皇子の忍熊王が譲り受け、忍熊王が高志国(越国)の賊徒討伐にあたり無事平定した。のち、伊部郷座ヶ岳に祀られていた素盞嗚尊の神霊を伊部臣が現在地に勧請し、この神剣を御霊代とし祀ったことに始まると伝えられる。忍熊王はその後もこの地を開拓したことから、開拓の祖神として父である仲哀天皇(気比大神)とともに配祀されたと伝える。
文化財
国宝
梵鐘 銘劔御子寺鐘神護景雲四年九月十一日(工芸品)
奈良時代の作。「劔御子寺鐘/神護景雲四/年九月十一日」(神護景雲4年は770年)の銘がある梵鐘で、奈良時代の在銘鐘として貴重なものである。道鏡が失脚した際に神馬とともに奉納されたとの伝承がある。越前町織田文化歴史館に寄託。1902年(明治35年)4月17日に当時の古社寺保存法に基づき国宝に指定、1956年(昭和31年)6月28日に文化財保護法に基づき国宝に指定。
重要文化財
絹本著色八相涅槃図(附 紙本墨書涅槃講式(断簡)1巻)(絵画)
鎌倉時代中期の作。奈良国立博物館に寄託。1914年(大正3年)4月17日指定。
本殿(福井県指定文化財)
所在地 福井県丹生郡越前町織田113-1
位置 北緯35度57分28.22秒 東経136度3分19.42秒
主祭神 素盞嗚尊
社格等 式内社(小)
越前国二宮
旧国幣小社
別表神社
創建 (伝)第14代仲哀天皇年間
本殿の様式 八棟造(織田造)
別名 織田明神
例祭 10月9日
2022年12月07日
円覚寺(えんがくじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院
円覚寺(えんがくじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院。正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ 山号: 瑞鹿山)と号する。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。
鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
JR北鎌倉駅の駅前に円覚寺の総門がある。境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、毎週土曜日・日曜日には、一般の人も参加できる土日坐禅会が実施されている。かつて夏目漱石や島崎藤村、三木清もここに参禅したことが知られる。
歴史
鎌倉幕府8代執権北条時宗(1251年 - 1284年)は、国家鎮護のためと文永の役の戦没者の菩提を弔うため、円覚寺創建を発願した。寺は弘安4年(1281年)から建立が始められ、翌弘安5年(1282年)に無学祖元(仏光国師)を開山(初代住持)に迎えて開堂供養が行われた。時宗は当時鎌倉にいた中国出身の高僧蘭渓道隆(建長寺初代住職)を師として禅の修行に励んでいたが、その蘭渓が弘安元年(1278年)7月に没してしまったため、時宗は代わりとなる高僧を捜すべく、建長寺の僧2名を宋に派遣した。これに応じて弘安2年(1279年)に来日したのが無学祖元である。鎌倉にはすでに時宗の父・北条時頼が創建した禅寺の建長寺が存在していたが、官寺的性格の強い同寺に対し、当初の円覚寺は北条氏の私寺であった[3]。また、円覚寺の創建については、中国に帰国しようとしていた無学祖元を引き止めようとしたという事情もあったと言われる。
伽藍
創建当時は総門・三門(山門)・仏殿・法堂(はっとう)・方丈が一直線に並ぶ典型的な禅宗様伽藍配置であった。永禄6年(1563年)の大火で古い建物は失われた(舎利殿は他所からの移築)。法堂は再建されていない。
舎利殿(国宝)
神奈川県唯一の国宝建造物で、境内の奥に位置する塔頭・正続院の中にある。「塔頭」とは禅寺などで、歴代住持の墓塔を守るために作られた付属寺院のことを指し、正続院は開山無学祖元を祀る重要な塔頭である。舎利殿は入母屋造、杮(こけら)葺き。一見2階建に見えるが一重裳階付きである。堂内中央には源実朝が南宋から請来したと伝える仏舎利(釈尊の遺骨)を安置した厨子があり、その左右に地蔵菩薩像と観音菩薩像が立つ。この建物は、組物(屋根の出を支える構造材)を密に配した形式(「詰組」という)、軒裏の垂木を平行でなく扇形に配する形式(扇垂木という)、柱・梁などの形状、花頭窓(上部がアーチ状にカーブした窓)や桟唐戸(さんからど、縦横に桟をはめた扉)の使用など、典型的な禅宗様の特徴を持つ。かつては鎌倉時代の建築と考えられてきたが、規模・形式が近似する正福寺地蔵堂が室町時代の応永14年(1407年)の建立とされたことから、同じ頃(15世紀前半)の建築と考えられている。また、鎌倉市西御門にあった尼寺太平寺(廃寺)の仏殿を移築したものと推定されている。鎌倉時代建立の善福院釈迦堂(国宝、和歌山県海南市)や功山寺仏殿(国宝、山口県下関市)とともに、禅宗様建築を代表するものと評価されている。通常は非公開で、正月3が日と11月3日前後に外観のみが公開される。なお神奈川県立歴史博物館に内部の当寸復元模型があり、上記の建築意匠を間近に確認することができる。
円覚寺舎利殿(国宝)
国の史跡
円覚寺境内 - 指定年月日:1967年(昭和42年)4月24日。
国の史跡・名勝
円覚寺庭園 - 指定年月日:1932年(昭和7年)7月23日- 指定範囲は白鷺池付近と妙香池付近の2か所。
アクセス
横須賀線(JR東日本)北鎌倉駅下車すぐ(駅改札を出たところが境内)
所在地 神奈川県鎌倉市山ノ内409
位置 北緯35度20分15.73秒 東経139度32分50.99秒
山号 瑞鹿山(ずいろくさん)
宗旨 臨済宗
宗派 円覚寺派
寺格 大本山
鎌倉五山二位
本尊 宝冠釈迦如来
創建年 弘安5年(1282年)
開山 無学祖元
開基 北条時宗
正式名 瑞鹿山円覚興聖禅寺
札所等 鎌倉観音霊場第三十三番
鎌倉地蔵霊場十四番
東国花の寺百ヶ寺 鎌倉11番
文化財 舎利殿、梵鐘(国宝)
絹本著色五百羅漢像33幅、絹本著色被帽地蔵菩薩像ほか(重文)
鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
JR北鎌倉駅の駅前に円覚寺の総門がある。境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、毎週土曜日・日曜日には、一般の人も参加できる土日坐禅会が実施されている。かつて夏目漱石や島崎藤村、三木清もここに参禅したことが知られる。
歴史
鎌倉幕府8代執権北条時宗(1251年 - 1284年)は、国家鎮護のためと文永の役の戦没者の菩提を弔うため、円覚寺創建を発願した。寺は弘安4年(1281年)から建立が始められ、翌弘安5年(1282年)に無学祖元(仏光国師)を開山(初代住持)に迎えて開堂供養が行われた。時宗は当時鎌倉にいた中国出身の高僧蘭渓道隆(建長寺初代住職)を師として禅の修行に励んでいたが、その蘭渓が弘安元年(1278年)7月に没してしまったため、時宗は代わりとなる高僧を捜すべく、建長寺の僧2名を宋に派遣した。これに応じて弘安2年(1279年)に来日したのが無学祖元である。鎌倉にはすでに時宗の父・北条時頼が創建した禅寺の建長寺が存在していたが、官寺的性格の強い同寺に対し、当初の円覚寺は北条氏の私寺であった[3]。また、円覚寺の創建については、中国に帰国しようとしていた無学祖元を引き止めようとしたという事情もあったと言われる。
伽藍
創建当時は総門・三門(山門)・仏殿・法堂(はっとう)・方丈が一直線に並ぶ典型的な禅宗様伽藍配置であった。永禄6年(1563年)の大火で古い建物は失われた(舎利殿は他所からの移築)。法堂は再建されていない。
舎利殿(国宝)
神奈川県唯一の国宝建造物で、境内の奥に位置する塔頭・正続院の中にある。「塔頭」とは禅寺などで、歴代住持の墓塔を守るために作られた付属寺院のことを指し、正続院は開山無学祖元を祀る重要な塔頭である。舎利殿は入母屋造、杮(こけら)葺き。一見2階建に見えるが一重裳階付きである。堂内中央には源実朝が南宋から請来したと伝える仏舎利(釈尊の遺骨)を安置した厨子があり、その左右に地蔵菩薩像と観音菩薩像が立つ。この建物は、組物(屋根の出を支える構造材)を密に配した形式(「詰組」という)、軒裏の垂木を平行でなく扇形に配する形式(扇垂木という)、柱・梁などの形状、花頭窓(上部がアーチ状にカーブした窓)や桟唐戸(さんからど、縦横に桟をはめた扉)の使用など、典型的な禅宗様の特徴を持つ。かつては鎌倉時代の建築と考えられてきたが、規模・形式が近似する正福寺地蔵堂が室町時代の応永14年(1407年)の建立とされたことから、同じ頃(15世紀前半)の建築と考えられている。また、鎌倉市西御門にあった尼寺太平寺(廃寺)の仏殿を移築したものと推定されている。鎌倉時代建立の善福院釈迦堂(国宝、和歌山県海南市)や功山寺仏殿(国宝、山口県下関市)とともに、禅宗様建築を代表するものと評価されている。通常は非公開で、正月3が日と11月3日前後に外観のみが公開される。なお神奈川県立歴史博物館に内部の当寸復元模型があり、上記の建築意匠を間近に確認することができる。
円覚寺舎利殿(国宝)
国の史跡
円覚寺境内 - 指定年月日:1967年(昭和42年)4月24日。
国の史跡・名勝
円覚寺庭園 - 指定年月日:1932年(昭和7年)7月23日- 指定範囲は白鷺池付近と妙香池付近の2か所。
アクセス
横須賀線(JR東日本)北鎌倉駅下車すぐ(駅改札を出たところが境内)
所在地 神奈川県鎌倉市山ノ内409
位置 北緯35度20分15.73秒 東経139度32分50.99秒
山号 瑞鹿山(ずいろくさん)
宗旨 臨済宗
宗派 円覚寺派
寺格 大本山
鎌倉五山二位
本尊 宝冠釈迦如来
創建年 弘安5年(1282年)
開山 無学祖元
開基 北条時宗
正式名 瑞鹿山円覚興聖禅寺
札所等 鎌倉観音霊場第三十三番
鎌倉地蔵霊場十四番
東国花の寺百ヶ寺 鎌倉11番
文化財 舎利殿、梵鐘(国宝)
絹本著色五百羅漢像33幅、絹本著色被帽地蔵菩薩像ほか(重文)