照国神社(てるくにじんじゃ)は、鹿児島県鹿児島市照国町にある神社。旧社格は別格官幣社。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。
照国神社の鳥居
祭神
照國大明神(島津斉彬公)を祀る。祭神は薩摩藩第11代藩主の島津斉彬。
沿革
祭神は島津家28代当主で安政5年(1858年)7月に50歳で急逝するが、文久2年(1862年)に祭神の遺志を継いだ弟久光と甥忠義が鹿児島城内西域の南泉院郭内に祭神を祀る社地を選定し、翌3年5月11日に孝明天皇の勅命による「照國大明神」の神号授与を受けて祠を造営したのが創祀で、翌元治元年(1864年)に改めて東照宮が建っていた地に社殿を造営し、照國神社と称した。
明治6年(1873年)に県社に列し、同15年(1882年)には別格官幣社に昇格。明治維新における祭神の功績と薩摩藩の役割が考慮されたと考えられる。現在は、妙円寺詣りの出発地でもある。
拝殿
祭祀
照国神社の島津斉彬像
六月灯(旧暦6月16日) ※「六月灯」自体は鹿児島県下のほとんどの寺社で行われるが、照国神社のものが最大規模。
境内
祭神の銅像が建ち、また弟久光や甥忠義の銅像もある。
照国神社の島津斉彬像
所蔵文化財
島津斉彬関連書簡など(併設の宝物館に展示)
太刀 銘国宗(国宝)
鎌倉時代の備前国の刀工・三郎国宗の代表作。昭和2年(1927年)、島津家から神社に寄進されたものである。同年、古社寺保存法に基づく国宝(文化財保護法における重要文化財に相当)に指定されたが、第二次世界大戦終戦後GHQに没収され、長らく所在不明となっていた。その後アメリカ合衆国で競売にかけられて転売され、愛刀家のウォルター・コンプトンの所蔵となっていたが、昭和38年(1963年)にコンプトンの厚意により無償で神社に返還された。翌昭和39年(1964年)には文化財保護法に基づく国宝に指定されている。太刀はその後東京国立博物館に寄託されていたが、平成5年(1993年)からは鹿児島県歴史資料センター黎明館に寄託・展示されている。
刃長81.4センチ、反り2.6センチ。身幅広く、腰反りで踏ん張りがあり、猪首切先となる、鎌倉時代中期の典型的な太刀姿である。地鉄は小板目、刃文は匂出来(においでき)の丁子乱れを主体とし、乱れ映りが立つ。茎(なかご)は先を磨(す)り上げる。茎の鎺元(はばきもと)、棟寄りに「國宗」二字銘がある。
交通
鹿児島中央駅または鹿児島駅から鹿児島市電2系統または、路線バスでいづろ通または朝日通下車、徒歩。
国道3号、国道10号、国道225号の照国神社前交差点より徒歩1分。
鹿児島県道24号鹿児島東市来線、鹿児島県道25号鹿児島蒲生線の照国町交差点から徒歩3分。
所在地 鹿児島県鹿児島市照国町19-35
位置 北緯31度35分41.3秒 東経130度33分0.3秒
主祭神 照國大明神(島津斉彬公)
社格等 旧別格官幣社、別表神社
創建 元治元年(1864年)
本殿の様式 一間社流造
例祭 10月28日
主な神事 六月灯(旧暦6月16日)
2023年01月05日
2023年01月04日
鶴林寺(かくりんじ)は、兵庫県加古川市にある天台宗の寺院
鶴林寺(かくりんじ)は、兵庫県加古川市にある天台宗の寺院。山号は刀田山(とたさん)。本尊は薬師如来。加古川市街地のすぐ外側(市役所と明姫幹線の間)に位置する。近畿地方に数多くある聖徳太子開基伝承をもつ寺院の1つで、太子建立七大寺の一つともいうが、創建の詳しい事情は不明である。平安時代建築の太子堂をはじめ多くの文化財を有し「西の法隆寺」とも称されている播磨地方有数の古寺である。宝物館は新西国三十三箇所第27番札所で本尊は聖観音(あいたた観音)である。
本堂(国宝)
歴史
伝承では創建は崇峻天皇2年(589年)にさかのぼり、聖徳太子が当時物部守屋に迫害されて播磨の地にいた高麗僧・恵便(えべん)のために秦河勝に命じて建立させたという。養老2年(718年)身人部春則(むとべのはるのり/みとべのはるのり)なる人物が七堂伽藍を整備したというが、伝承の域を出ない。
ただし、推古天皇14年(606年)、聖徳太子が法華経を講義し、その功で天皇から播磨国の水田百町を得たことは史実とされ、聖徳太子と播磨には何らかの関連があったとみられている。創建時は四天王寺聖霊院という寺号であったものを、天永3年(1112年)に鳥羽天皇によって勅願所に定められたのを期に「鶴林寺」と改めたという。
鶴林寺には飛鳥時代後期(白鳳期)の銅造聖観音像「あいたた観音」があり、本堂本尊の薬師三尊像は平安時代前期・10世紀にさかのぼる古像である。
本堂
本堂細部 扉は桟唐戸。組物は肘木を前方に2段持ち出した「二手先」とし、組物間に置く中備(なかぞなえ)は蟇股(かえるまた)と双斗(ふたつと)を組み合わせたものである。
国宝。堂内の宮殿(くうでん、厨子)の棟札(むなふだ)銘から応永4年(1397年)の建築とわかる。入母屋造、本瓦葺き。桁行(正面)7間、梁間(側面)6間(「間」は長さの単位ではなく柱間の数を意味する)。和様に禅宗様を加味した折衷様建築の代表作で、桟唐戸(縦横に桟を組んだ扉)を多用する点が特色である。内部の宮殿には秘仏の薬師三尊像と二天像(各重要文化財)を安置する。
太子堂
太子堂
国宝。屋根板の鎌倉時代の墨書から天永3年(1112年)の建築と分かる。兵庫県では現存最古の建築物である。本堂の手前右方に建つ。堂内に壁画の聖徳太子像があることから太子堂と呼ばれているが、元来は「法華堂」と称された堂で、本堂手前左方に建つ常行堂と対をなしている(「法華堂」「常行堂」という同形の堂を並べて建てるのは天台宗特有の伽藍配置で、延暦寺、日光の輪王寺などに例がある)。屋根は宝形造(四角錐形の屋根)、檜皮葺き。桁行(正面)、梁間(側面)とも3間の主屋の前面に梁間1間の孫庇(礼堂)を付した形式になり、側面から見ると、主屋と孫庇の境で軒先の線が折れ曲がる「縋破風」(すがるはふ)の形になる。堂内には本尊釈迦三尊像(重文)を安置する。
建築とともに、堂内の壁画も平安時代絵画の稀少な遺品として重要である。東側壁面に描かれた聖徳太子像は、中世から厨子で覆われ、秘仏扱いとされている(1977年に重要文化財に指定されたが、写真は公開されていない)。来迎壁(本尊背後の壁)の表裏には九品来迎図と仏涅槃図が描かれているが、黒ずんでいて肉眼では図柄を確認できず、赤外線写真で全貌が確認された。
文化財
国宝
本堂 附:宮殿棟札 2枚
太子堂
重要文化財
建造物
常行堂
鐘楼
行者堂
護摩堂
鐘楼
所在地・見学情報
〒6750031 兵庫県加古川市加古川町北在家424
開門時間 - 9:00〜16:30
入山料 - 大人500円、子供(小中学生)200円
宝物館拝観料 - 大人500円、子供(小中学生)200円
ひょうごっ子ココロンカード対象施設。
入山・宝物館拝観セット券 - 大人800円(加古川市民700円)、子供(小中学生)500円
休憩所 - 鶴林寺カフェ(不定休)
交通アクセス
JR加古川駅 からかこバス・別府ルートで8分、「鶴林寺」下車、徒歩すぐ
JR加古川駅 からかこバス・東加古川ルートおよび神姫バス・21系統安田東ファミールハイツ行きで7分、「北在家東口」下車、徒歩5分
どちらも1時間あたり1 - 2本程度運行されている。
山陽電鉄本線尾上の松駅下車、徒歩15分
かつては国鉄高砂線鶴林寺駅が至近距離に立地していたが、1984年に廃止された。
本堂(国宝)
歴史
伝承では創建は崇峻天皇2年(589年)にさかのぼり、聖徳太子が当時物部守屋に迫害されて播磨の地にいた高麗僧・恵便(えべん)のために秦河勝に命じて建立させたという。養老2年(718年)身人部春則(むとべのはるのり/みとべのはるのり)なる人物が七堂伽藍を整備したというが、伝承の域を出ない。
ただし、推古天皇14年(606年)、聖徳太子が法華経を講義し、その功で天皇から播磨国の水田百町を得たことは史実とされ、聖徳太子と播磨には何らかの関連があったとみられている。創建時は四天王寺聖霊院という寺号であったものを、天永3年(1112年)に鳥羽天皇によって勅願所に定められたのを期に「鶴林寺」と改めたという。
鶴林寺には飛鳥時代後期(白鳳期)の銅造聖観音像「あいたた観音」があり、本堂本尊の薬師三尊像は平安時代前期・10世紀にさかのぼる古像である。
本堂
本堂細部 扉は桟唐戸。組物は肘木を前方に2段持ち出した「二手先」とし、組物間に置く中備(なかぞなえ)は蟇股(かえるまた)と双斗(ふたつと)を組み合わせたものである。
国宝。堂内の宮殿(くうでん、厨子)の棟札(むなふだ)銘から応永4年(1397年)の建築とわかる。入母屋造、本瓦葺き。桁行(正面)7間、梁間(側面)6間(「間」は長さの単位ではなく柱間の数を意味する)。和様に禅宗様を加味した折衷様建築の代表作で、桟唐戸(縦横に桟を組んだ扉)を多用する点が特色である。内部の宮殿には秘仏の薬師三尊像と二天像(各重要文化財)を安置する。
太子堂
太子堂
国宝。屋根板の鎌倉時代の墨書から天永3年(1112年)の建築と分かる。兵庫県では現存最古の建築物である。本堂の手前右方に建つ。堂内に壁画の聖徳太子像があることから太子堂と呼ばれているが、元来は「法華堂」と称された堂で、本堂手前左方に建つ常行堂と対をなしている(「法華堂」「常行堂」という同形の堂を並べて建てるのは天台宗特有の伽藍配置で、延暦寺、日光の輪王寺などに例がある)。屋根は宝形造(四角錐形の屋根)、檜皮葺き。桁行(正面)、梁間(側面)とも3間の主屋の前面に梁間1間の孫庇(礼堂)を付した形式になり、側面から見ると、主屋と孫庇の境で軒先の線が折れ曲がる「縋破風」(すがるはふ)の形になる。堂内には本尊釈迦三尊像(重文)を安置する。
建築とともに、堂内の壁画も平安時代絵画の稀少な遺品として重要である。東側壁面に描かれた聖徳太子像は、中世から厨子で覆われ、秘仏扱いとされている(1977年に重要文化財に指定されたが、写真は公開されていない)。来迎壁(本尊背後の壁)の表裏には九品来迎図と仏涅槃図が描かれているが、黒ずんでいて肉眼では図柄を確認できず、赤外線写真で全貌が確認された。
文化財
国宝
本堂 附:宮殿棟札 2枚
太子堂
重要文化財
建造物
常行堂
鐘楼
行者堂
護摩堂
鐘楼
所在地・見学情報
〒6750031 兵庫県加古川市加古川町北在家424
開門時間 - 9:00〜16:30
入山料 - 大人500円、子供(小中学生)200円
宝物館拝観料 - 大人500円、子供(小中学生)200円
ひょうごっ子ココロンカード対象施設。
入山・宝物館拝観セット券 - 大人800円(加古川市民700円)、子供(小中学生)500円
休憩所 - 鶴林寺カフェ(不定休)
交通アクセス
JR加古川駅 からかこバス・別府ルートで8分、「鶴林寺」下車、徒歩すぐ
JR加古川駅 からかこバス・東加古川ルートおよび神姫バス・21系統安田東ファミールハイツ行きで7分、「北在家東口」下車、徒歩5分
どちらも1時間あたり1 - 2本程度運行されている。
山陽電鉄本線尾上の松駅下車、徒歩15分
かつては国鉄高砂線鶴林寺駅が至近距離に立地していたが、1984年に廃止された。
2023年01月03日
向上寺(こうじょうじ)は、広島県尾道市にある曹洞宗の寺院
向上寺(こうじょうじ)は、広島県尾道市にある曹洞宗の寺院。山号は潮音山。本尊は釈迦如来。中国三十三観音霊場第十一番。
国宝・三重塔
歴史
この寺は、1403年(応永10年)生口守平の開基、愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。1432年(永享4年)には生口氏所縁と推察される信元と信昌を造塔本願檀那として三重塔(国宝)が建立されている。1444年(文安元年)向上寺は仏通寺とともに将軍・足利義政により将軍祈願所となる。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年(慶長14年)関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。寺請制度の江戸時代はその制度下にあった家が少なく、末寺の支援と近在の商人による寄進で成り立っていたが、明治以降再建本堂の焼失、各堂宇の解体が進み、昭和中ごろの真宗寺院旧材流用の仮本堂の解体後は、山門・鐘堂・庫裡にとどまり創建時代から残る建物は国宝の三重塔のみであったが、2010年(平成22年)に本堂が再建された。
本尊
聖観世音菩薩座像、旧来は秘仏であったが、本堂再建に伴い公開された。様式は宝冠如来像であり、本来は宝冠釈迦如来として祀られていたものとおもわれる。江戸期に蓮華座などが修繕された際にはすでに観世音菩薩として信仰の対象であった。
文化財
国宝
三重塔 1432年(永享4年)建立、建立年が明確で特色ある手法による禅宗寺院の塔建築として特筆されることにより推薦・指定を受けた。
広島県指定重要文化財
銅鐘 1555年(天文24年)鋳造、生口隆平の銘があり1599年(慶長4年)建立の鐘堂に再掲の追銘がある。
所在地 広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田57
位置 北緯34度18分23.6秒 東経133度5分12.6秒
山号 潮音山
宗派 曹洞宗
寺格 格地
本尊 観世音菩薩
創建年 1403年(応永10年)
開山 愚中周及
開基 生口守平
札所等 中国三十三観音11番
文化財 三重塔(国宝)
銅鐘(県重要文化財)
国宝・三重塔
歴史
この寺は、1403年(応永10年)生口守平の開基、愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。1432年(永享4年)には生口氏所縁と推察される信元と信昌を造塔本願檀那として三重塔(国宝)が建立されている。1444年(文安元年)向上寺は仏通寺とともに将軍・足利義政により将軍祈願所となる。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年(慶長14年)関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。寺請制度の江戸時代はその制度下にあった家が少なく、末寺の支援と近在の商人による寄進で成り立っていたが、明治以降再建本堂の焼失、各堂宇の解体が進み、昭和中ごろの真宗寺院旧材流用の仮本堂の解体後は、山門・鐘堂・庫裡にとどまり創建時代から残る建物は国宝の三重塔のみであったが、2010年(平成22年)に本堂が再建された。
本尊
聖観世音菩薩座像、旧来は秘仏であったが、本堂再建に伴い公開された。様式は宝冠如来像であり、本来は宝冠釈迦如来として祀られていたものとおもわれる。江戸期に蓮華座などが修繕された際にはすでに観世音菩薩として信仰の対象であった。
文化財
国宝
三重塔 1432年(永享4年)建立、建立年が明確で特色ある手法による禅宗寺院の塔建築として特筆されることにより推薦・指定を受けた。
広島県指定重要文化財
銅鐘 1555年(天文24年)鋳造、生口隆平の銘があり1599年(慶長4年)建立の鐘堂に再掲の追銘がある。
所在地 広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田57
位置 北緯34度18分23.6秒 東経133度5分12.6秒
山号 潮音山
宗派 曹洞宗
寺格 格地
本尊 観世音菩薩
創建年 1403年(応永10年)
開山 愚中周及
開基 生口守平
札所等 中国三十三観音11番
文化財 三重塔(国宝)
銅鐘(県重要文化財)
2023年01月02日
善通寺(ぜんつうじ)は、香川県善通寺市にある寺院
善通寺(ぜんつうじ)は、香川県善通寺市にある寺院。真言宗善通寺派総本山。屏風浦五岳山誕生院と号する。本尊は薬師如来。四国八十八箇所霊場の第七十五番、真言宗十八本山一番札所。和歌山県の高野山、京都府の東寺と共に弘法大師三大霊場に数えられる。
平安時代初頭の807年に真言宗開祖空海の父である佐伯田公を開基として創建された。広大な境内は創建地である東院(伽藍)と、空海生誕地とされる西院(誕生院)に分かれている。
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:我すまば よもきえはてじ善通寺 ふかきちかいの 法(のり)のともしび
納経印:当寺本尊、真言宗18本山(弘法大師)、讃岐三十三観音(礼参本山)、七ヶ所参り(布袋尊)、仙遊寺(延命地蔵)、四国八十八箇所「満願」の証
善通寺 東院伽藍
歴史
空海(弘法大師)は讃岐国、現在の善通寺市の出身である。『多度郡屏風浦善通寺之記』によれば、善通寺は空海の父で地元の豪族であった佐伯田公(さえきの たぎみ、諱:善通(よしみち))から土地の寄進を受け、大同2年(807年)に建立し始め、弘仁4年(813年)に落成したという。空海の入唐中の師であった恵果が住していた長安の青龍寺を模して建立したといわれ、創建当初は、金堂・大塔・講堂など15の堂宇であったという。寺号の善通寺は、父の名前である佐伯善通から採られ、山号の五岳山は、香色山(こうじきざん)・筆山(ひつざん)・我拝師山(がはいしざん)・中山(ちゅうざん)・火上山(かじょうざん)の5つの山の麓(ふもと)にあることから命名された。
金堂(重要文化財)
特別公開日の五重塔。2層目まで拝観できる。
文化財
国宝
金銅錫杖頭(こんどう しゃくじょうとう) - 長さ55cm、空海が唐から持ちかえったものとされる。昭和56年6月9日指定
一字一仏法華経序品(いちじいちぶつほけきょうじょほん - 平安時代(11世紀)。縦29.4cm、横2124.2cm。縦横に線を引いて方眼を作り、1マスごとに経文1字もしくは1仏を配して、経文と仏坐像の行を交互に並べた珍しい装飾経。1字が1仏に対応し敬虔さを感じさせるが、書が古様で格調高いのに対し、絵は素朴で自由闊達に描かれている。昭和28年11月14日指定
交通アクセス
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 土讃線 - 善通寺駅 (1.4km)
道路
一般道:香川県道48号善通寺詫間線 四国こどもとおとなの医療センター (0.5km)
自動車道:高松自動車道 善通寺IC (4.2km)
所在地 香川県善通寺市善通寺町三丁目3番1号
位置 北緯34度13分30.4秒 東経133度46分26.9秒
山号 屏風浦五岳山
宗派 真言宗善通寺派
寺格 総本山
本尊 薬師如来
創建年 (伝)大同2年(807年)
開基 佐伯善通
正式名 屏風浦五岳山 誕生院 善通寺
札所等 四国八十八箇所75番
真言宗十八本山1番
讃岐三十三観音礼参本山
文化財 金銅錫杖頭・一字一仏法華経序品(国宝)
金堂、五重塔ほか(重要文化財)
平安時代初頭の807年に真言宗開祖空海の父である佐伯田公を開基として創建された。広大な境内は創建地である東院(伽藍)と、空海生誕地とされる西院(誕生院)に分かれている。
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:我すまば よもきえはてじ善通寺 ふかきちかいの 法(のり)のともしび
納経印:当寺本尊、真言宗18本山(弘法大師)、讃岐三十三観音(礼参本山)、七ヶ所参り(布袋尊)、仙遊寺(延命地蔵)、四国八十八箇所「満願」の証
善通寺 東院伽藍
歴史
空海(弘法大師)は讃岐国、現在の善通寺市の出身である。『多度郡屏風浦善通寺之記』によれば、善通寺は空海の父で地元の豪族であった佐伯田公(さえきの たぎみ、諱:善通(よしみち))から土地の寄進を受け、大同2年(807年)に建立し始め、弘仁4年(813年)に落成したという。空海の入唐中の師であった恵果が住していた長安の青龍寺を模して建立したといわれ、創建当初は、金堂・大塔・講堂など15の堂宇であったという。寺号の善通寺は、父の名前である佐伯善通から採られ、山号の五岳山は、香色山(こうじきざん)・筆山(ひつざん)・我拝師山(がはいしざん)・中山(ちゅうざん)・火上山(かじょうざん)の5つの山の麓(ふもと)にあることから命名された。
金堂(重要文化財)
特別公開日の五重塔。2層目まで拝観できる。
文化財
国宝
金銅錫杖頭(こんどう しゃくじょうとう) - 長さ55cm、空海が唐から持ちかえったものとされる。昭和56年6月9日指定
一字一仏法華経序品(いちじいちぶつほけきょうじょほん - 平安時代(11世紀)。縦29.4cm、横2124.2cm。縦横に線を引いて方眼を作り、1マスごとに経文1字もしくは1仏を配して、経文と仏坐像の行を交互に並べた珍しい装飾経。1字が1仏に対応し敬虔さを感じさせるが、書が古様で格調高いのに対し、絵は素朴で自由闊達に描かれている。昭和28年11月14日指定
交通アクセス
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 土讃線 - 善通寺駅 (1.4km)
道路
一般道:香川県道48号善通寺詫間線 四国こどもとおとなの医療センター (0.5km)
自動車道:高松自動車道 善通寺IC (4.2km)
所在地 香川県善通寺市善通寺町三丁目3番1号
位置 北緯34度13分30.4秒 東経133度46分26.9秒
山号 屏風浦五岳山
宗派 真言宗善通寺派
寺格 総本山
本尊 薬師如来
創建年 (伝)大同2年(807年)
開基 佐伯善通
正式名 屏風浦五岳山 誕生院 善通寺
札所等 四国八十八箇所75番
真言宗十八本山1番
讃岐三十三観音礼参本山
文化財 金銅錫杖頭・一字一仏法華経序品(国宝)
金堂、五重塔ほか(重要文化財)
2023年01月01日
伊江御殿墓(いえうどぅんばか)は、沖縄県那覇市首里石嶺町にある、琉球王族・伊江御殿の歴代墓
伊江御殿墓(いえうどぅんばか)は、沖縄県那覇市首里石嶺町にある、琉球王族・伊江御殿の歴代墓である。墓様式は沖縄地方特有の亀甲墓(カーミナクーバカ)で、かつ1687年に建造された県内最古の亀甲墓の一つである。1999年12月1日に国の重要文化財に指定された。
伊江御殿墓
概要
伊江御殿は、第二尚氏王統第4代尚清王の第7王子・伊江王子朝義を元祖とする御殿(うどぅん、王家分家)である。「向姓家譜(伊江家)」によれば、4世朝敷のときに西原間切石嶺村(現在の首里石嶺町)に5反8畝23歩(約5,828平方メートル)の「墳地」(墓地)を拝領し、1687(康煕26)年、5世朝嘉が父の遺志を継いで「墳墓」(墓本体)を完成させた。
伊江家の伝承によれば、この墓はタイロウに風水を見てもらって造営されたという。タイロウとは曾得魯(そうとくろ、TSENG-TE-LU)のことで、沖縄ではチャンタールーと呼ばれていた。明清交替期に福州から琉球へ亡命してきた中国人で、那覇の泉崎に居住し、漢学を教える傍ら、風水を見たりして暮らしていたらしく、その名は程順則の「廟学紀略」にも記されている。
墓本体は幅約11m、奥行きが約17m、面積が約140平方メートルで、周辺の樹木が生い茂る現在の墓域は2,266平方メートルある。墓本体は斜面を切り開いて造られた墓室とその前面の袖垣によって囲まれた墓庭からなる。墓庭は墓室よりのサンミデー(三昧台)と手前よりのナー(庭)に分かれる。墓本体の大きさは、後年造られる他の御殿墓と比べると小さいが、ヒンプン(屏風)を欠く以外は、ヤジョーマーイ(屋形まわり)、ウーシ(臼)、クー(甲)など、近世の亀甲墓の要素をすべて備えている。
墓室正面のマユ(眉)と呼ばれる屋根部と墓室入口の間が後年の亀甲墓に比べると狭く、初期の亀甲墓の特徴を示している。主要部は漆喰塗りで化粧され、墓室内部はマチと呼ばれるアーチ式の石組みになっていると言われる。造墓年の古い亀甲墓としては護佐丸の墓(1686年)も知られているが、文献によっては伊江御殿墓を最古としている。
沖縄戦で一部破壊され、切石の代わりに戦後コンクリートブロックやセメントで一部補修された部分はあるものの、全体的には保存状態は良好である。初期の亀甲墓であること、被葬者の身分(王族)の高さ、保存状態の良好さ等から、その価値は高く、亀甲墓の様式の変遷や発展史を考える上で重要な墓であるといえる。1999年、国の重要文化財に指定された。
庭部と墓室
屋根部:マユ(眉)、クー(甲)、ウーシ(臼)
伊江御殿墓
概要
伊江御殿は、第二尚氏王統第4代尚清王の第7王子・伊江王子朝義を元祖とする御殿(うどぅん、王家分家)である。「向姓家譜(伊江家)」によれば、4世朝敷のときに西原間切石嶺村(現在の首里石嶺町)に5反8畝23歩(約5,828平方メートル)の「墳地」(墓地)を拝領し、1687(康煕26)年、5世朝嘉が父の遺志を継いで「墳墓」(墓本体)を完成させた。
伊江家の伝承によれば、この墓はタイロウに風水を見てもらって造営されたという。タイロウとは曾得魯(そうとくろ、TSENG-TE-LU)のことで、沖縄ではチャンタールーと呼ばれていた。明清交替期に福州から琉球へ亡命してきた中国人で、那覇の泉崎に居住し、漢学を教える傍ら、風水を見たりして暮らしていたらしく、その名は程順則の「廟学紀略」にも記されている。
墓本体は幅約11m、奥行きが約17m、面積が約140平方メートルで、周辺の樹木が生い茂る現在の墓域は2,266平方メートルある。墓本体は斜面を切り開いて造られた墓室とその前面の袖垣によって囲まれた墓庭からなる。墓庭は墓室よりのサンミデー(三昧台)と手前よりのナー(庭)に分かれる。墓本体の大きさは、後年造られる他の御殿墓と比べると小さいが、ヒンプン(屏風)を欠く以外は、ヤジョーマーイ(屋形まわり)、ウーシ(臼)、クー(甲)など、近世の亀甲墓の要素をすべて備えている。
墓室正面のマユ(眉)と呼ばれる屋根部と墓室入口の間が後年の亀甲墓に比べると狭く、初期の亀甲墓の特徴を示している。主要部は漆喰塗りで化粧され、墓室内部はマチと呼ばれるアーチ式の石組みになっていると言われる。造墓年の古い亀甲墓としては護佐丸の墓(1686年)も知られているが、文献によっては伊江御殿墓を最古としている。
沖縄戦で一部破壊され、切石の代わりに戦後コンクリートブロックやセメントで一部補修された部分はあるものの、全体的には保存状態は良好である。初期の亀甲墓であること、被葬者の身分(王族)の高さ、保存状態の良好さ等から、その価値は高く、亀甲墓の様式の変遷や発展史を考える上で重要な墓であるといえる。1999年、国の重要文化財に指定された。
庭部と墓室
屋根部:マユ(眉)、クー(甲)、ウーシ(臼)
2022年12月31日
誓願寺(せいがんじ)は、福岡県福岡市西区にある真言宗御室派の寺院
誓願寺(せいがんじ)は、福岡県福岡市西区にある真言宗御室派の寺院。山号は登志山。本尊は阿弥陀如来。
歴史
この寺は、1175年(安元元年)寛智によって開創され、治承年間(1177年〜1180年)明菴栄西がこの寺の開堂のための法会を行っている。
文化財
国宝
誓願寺盂蘭盆縁起 栄西筆(附:誓願寺建立縁起)
重要文化財
孔雀文沈金経箱 延祐二年製造の銘あり
法華経(開結共)・理趣経・法華経 12巻
銭弘俶八万四千塔
国宝「誓願寺盂蘭盆縁起」
所在地 福岡県福岡市西区今津851
位置 北緯33度36分25.4秒 東経130度15分50.1秒
山号 登志山
宗派 真言宗御室派
本尊 阿弥陀如来
創建年 安元元年(1175年)
開山 寛智
歴史
この寺は、1175年(安元元年)寛智によって開創され、治承年間(1177年〜1180年)明菴栄西がこの寺の開堂のための法会を行っている。
文化財
国宝
誓願寺盂蘭盆縁起 栄西筆(附:誓願寺建立縁起)
重要文化財
孔雀文沈金経箱 延祐二年製造の銘あり
法華経(開結共)・理趣経・法華経 12巻
銭弘俶八万四千塔
国宝「誓願寺盂蘭盆縁起」
所在地 福岡県福岡市西区今津851
位置 北緯33度36分25.4秒 東経130度15分50.1秒
山号 登志山
宗派 真言宗御室派
本尊 阿弥陀如来
創建年 安元元年(1175年)
開山 寛智
2022年12月30日
龍興寺(りゅうこうじ)は福島県大沼郡会津美里町にある天台宗の寺院
龍興寺(りゅうこうじ)は福島県大沼郡会津美里町にある天台宗の寺院。山号は道樹山。
歴史
848年(嘉承元年)慈覚大師円仁の開山と伝えられている。徳川家康のブレーンとして権勢をふるった天海大僧正が得度した寺ともいわれており、境内には天海の両親のものと思われる墓も存在している。しかし、天海と龍興寺、かつ当時の会津領主・蘆名氏を結びつける史料は存在していない。そのため、天海が当地の出身で龍興寺ゆかりの僧であるという話は伝説の域をでていない。
文化財
寺には現在、国宝・一字蓮台法華経開結や福島県指定重要文化財・絹本著色両界曼陀羅などの文化財が保存されている。一字蓮台法華経開結は、法華経に経文の一文字を一仏と見立てて蓮台の上に乗せるように書写した装飾経である。もともと10巻あったといわれているが第6巻が欠けており、9巻のみが現存する。平安時代後期の作と推定され、1952年(昭和27年)に国宝に指定された。
国宝「一字蓮台法華経」
アクセス
JR只見線会津高田駅より徒歩20分
所在地 福島県大沼郡会津美里町字龍興寺北
位置 北緯37度27分51.8秒 東経139度50分21.1秒
山号 道樹山
宗派 天台宗
創建年 848年(嘉承元年)
開山 慈覚大師円仁
札所等 会津三十三観音番外
歴史
848年(嘉承元年)慈覚大師円仁の開山と伝えられている。徳川家康のブレーンとして権勢をふるった天海大僧正が得度した寺ともいわれており、境内には天海の両親のものと思われる墓も存在している。しかし、天海と龍興寺、かつ当時の会津領主・蘆名氏を結びつける史料は存在していない。そのため、天海が当地の出身で龍興寺ゆかりの僧であるという話は伝説の域をでていない。
文化財
寺には現在、国宝・一字蓮台法華経開結や福島県指定重要文化財・絹本著色両界曼陀羅などの文化財が保存されている。一字蓮台法華経開結は、法華経に経文の一文字を一仏と見立てて蓮台の上に乗せるように書写した装飾経である。もともと10巻あったといわれているが第6巻が欠けており、9巻のみが現存する。平安時代後期の作と推定され、1952年(昭和27年)に国宝に指定された。
国宝「一字蓮台法華経」
アクセス
JR只見線会津高田駅より徒歩20分
所在地 福島県大沼郡会津美里町字龍興寺北
位置 北緯37度27分51.8秒 東経139度50分21.1秒
山号 道樹山
宗派 天台宗
創建年 848年(嘉承元年)
開山 慈覚大師円仁
札所等 会津三十三観音番外
2022年12月29日
専修寺(せんじゅじ)は、三重県津市一身田町にある真宗高田派の本山の寺院
専修寺(せんじゅじ)は、三重県津市一身田町にある真宗高田派の本山の寺院。山号は高田山。本尊は「証拠の如来」と呼ばれる阿弥陀如来。本山専修寺、一身田専修寺と呼ばれている。
如来堂(国宝)
歴史
伊勢国の門徒の要請もあり、また、新たな布教の拠点とする為に専修寺第10世真慧が文明年間(1469年 - 1487年)に無量寿院として創建する。文明10年(1478年)には朝廷の尊崇を得て、「この寺を皇室の御祈願所にする」との後土御門天皇綸旨(専修寺文書第29号)を得ることに成功している。
下野国高田の本寺が大永6年(1526年)に兵火によって焼失し、また教団が応真派と真智派に分かれて争い、無量寿院住持の応真が第11世となったことから次第にここが教団の中枢となり、やがて本山専修寺と呼ばれるようになった。数多くある親鸞の真筆類もここへ移され、親鸞の肖像をはじめ、直弟子などの書写聖教など貴重な収蔵品を多数保持している。
江戸時代の正保2年(1645年)1月、大火で全山全焼してしまう。しかし、万治元年(1658年)に津藩第2代藩主藤堂高次から土地の寄進を受け、寛文6年(1666年)から御影堂の再建に着手、延宝7年(1679年)に完成した。その際、他の浄土真宗の本山寺院である西本願寺や東本願寺、佛光寺のように主な堂を東面させて建てるのではなく、門徒の意見通りにこれまで通りの南面形式での再建となった。それは、東からの伊勢湾の風が強かったこと、境内地が東西の横長に広がっていたこと、南側に幹線道路があるからなどが理由となっている。
浄土真宗最大宗派の東西本願寺に匹敵する広大な境内を持ち、周囲は寺内町を形成している。
2018年(平成30年)にはドラマ「MAGI天正遣欧少年使節」のロケが行われた。境内の建物でロケが行われたのは、長い歴史の中でも初めてである。2020年公開の映画「浅田家!」でも、専修寺でロケが行われた[7]。
御影堂(国宝)
文化財
国宝
御影堂 附:宮殿(くうでん) 1基・旧獅子口 1組
如来堂 附:宮殿(くうでん)1基・如来堂御建立録 1冊・御本山阿弥陀堂御上棟儀式御餝物 1枚
西方指南抄 6冊 親鸞筆 附:覚信等直門弟写本 6冊
三帖和讃 親鸞筆 3冊
重要文化財
建造物
専修寺 11棟
山門
唐門
通天橋 附:棟札
御廟拝堂
御廟唐門及び透塀 附:骨堂
鐘楼
茶所(進納所)
太鼓門
大玄関
対面所 附:棟札
賜春館
山門
唐門
所在地 三重県津市一身田町2819
位置 北緯34度45分43.42秒 東経136度30分12.8秒
山号 高田山
宗派 真宗高田派
寺格 本山
本尊 阿弥陀如来(証拠の如来)
創建年 文明年間(1469年 - 1487年)
開山 真慧
別称 本山専修寺、一身田専修寺
文化財 如来堂、御影堂、西方指南抄、三帖和讃(国宝)
木造阿弥陀如来立像など(重要文化財)
如来堂(国宝)
歴史
伊勢国の門徒の要請もあり、また、新たな布教の拠点とする為に専修寺第10世真慧が文明年間(1469年 - 1487年)に無量寿院として創建する。文明10年(1478年)には朝廷の尊崇を得て、「この寺を皇室の御祈願所にする」との後土御門天皇綸旨(専修寺文書第29号)を得ることに成功している。
下野国高田の本寺が大永6年(1526年)に兵火によって焼失し、また教団が応真派と真智派に分かれて争い、無量寿院住持の応真が第11世となったことから次第にここが教団の中枢となり、やがて本山専修寺と呼ばれるようになった。数多くある親鸞の真筆類もここへ移され、親鸞の肖像をはじめ、直弟子などの書写聖教など貴重な収蔵品を多数保持している。
江戸時代の正保2年(1645年)1月、大火で全山全焼してしまう。しかし、万治元年(1658年)に津藩第2代藩主藤堂高次から土地の寄進を受け、寛文6年(1666年)から御影堂の再建に着手、延宝7年(1679年)に完成した。その際、他の浄土真宗の本山寺院である西本願寺や東本願寺、佛光寺のように主な堂を東面させて建てるのではなく、門徒の意見通りにこれまで通りの南面形式での再建となった。それは、東からの伊勢湾の風が強かったこと、境内地が東西の横長に広がっていたこと、南側に幹線道路があるからなどが理由となっている。
浄土真宗最大宗派の東西本願寺に匹敵する広大な境内を持ち、周囲は寺内町を形成している。
2018年(平成30年)にはドラマ「MAGI天正遣欧少年使節」のロケが行われた。境内の建物でロケが行われたのは、長い歴史の中でも初めてである。2020年公開の映画「浅田家!」でも、専修寺でロケが行われた[7]。
御影堂(国宝)
文化財
国宝
御影堂 附:宮殿(くうでん) 1基・旧獅子口 1組
如来堂 附:宮殿(くうでん)1基・如来堂御建立録 1冊・御本山阿弥陀堂御上棟儀式御餝物 1枚
西方指南抄 6冊 親鸞筆 附:覚信等直門弟写本 6冊
三帖和讃 親鸞筆 3冊
重要文化財
建造物
専修寺 11棟
山門
唐門
通天橋 附:棟札
御廟拝堂
御廟唐門及び透塀 附:骨堂
鐘楼
茶所(進納所)
太鼓門
大玄関
対面所 附:棟札
賜春館
山門
唐門
所在地 三重県津市一身田町2819
位置 北緯34度45分43.42秒 東経136度30分12.8秒
山号 高田山
宗派 真宗高田派
寺格 本山
本尊 阿弥陀如来(証拠の如来)
創建年 文明年間(1469年 - 1487年)
開山 真慧
別称 本山専修寺、一身田専修寺
文化財 如来堂、御影堂、西方指南抄、三帖和讃(国宝)
木造阿弥陀如来立像など(重要文化財)
2022年12月28日
円通院(えんつういん。旧字体:圓通院)は、宮城県宮城郡松島町(日本三景・松島)にある臨済宗妙心寺派の寺院
円通院(えんつういん。旧字体:圓通院)は、宮城県宮城郡松島町(日本三景・松島)にある臨済宗妙心寺派の寺院である。本尊は聖観世音菩薩。瑞巌寺の南側に隣接してある。通称「バラ寺」「薔薇寺」。
概要
19歳で早世した伊達光宗の菩提寺であり、光宗の霊廟である三慧殿が「圓通院霊屋」の名で国の重要文化財に指定されている。光宗は仙台藩第2代藩主・伊達忠宗の次男であり、仙台藩祖・伊達政宗からみると孫にあたる。
三慧殿の厨子には、慶長遣欧使節を率いた支倉常長が西洋から持ち帰ったバラと、フィレンツェを象徴する水仙が描かれている。この厨子のバラをヒントに天野明道住職が、「白華峰西洋の庭」(6,000m2)にバラを植えて一般の観覧に供したため、「薔薇寺」の異名でも呼ばれるようになった。ただし、バラは開花時期が限られるため、院内を覆うコケの方が印象深い。
そのほか、数珠作り体験と、庭園のライトアップで知られる。境内には「縁結び観音」もある。
文化財
重要文化財(国指定)
圓通院霊屋 附厨子1基、棟札1枚
町指定有形文化財
大悲亭(本堂)
山門
木造聖観音坐像(本尊)
アクセス
JR仙石線・松島海岸駅から徒歩5分、JR東北本線・松島駅から徒歩20分。
所在地 宮城県宮城郡松島町松島字町内67
位置 北緯38度22分16.8秒 東経141度3分34.8秒
宗旨 臨済宗妙心寺派
本尊 聖観世音菩薩
創建年 正保4年(1647年)
開山 洞水(瑞巌寺第100世和尚)
開基 伊達忠宗
別称 バラ寺、薔薇寺
札所等 三陸三十三観音霊場・第1番札所
文化財 圓通院霊屋 附厨子1基・棟札1枚
概要
19歳で早世した伊達光宗の菩提寺であり、光宗の霊廟である三慧殿が「圓通院霊屋」の名で国の重要文化財に指定されている。光宗は仙台藩第2代藩主・伊達忠宗の次男であり、仙台藩祖・伊達政宗からみると孫にあたる。
三慧殿の厨子には、慶長遣欧使節を率いた支倉常長が西洋から持ち帰ったバラと、フィレンツェを象徴する水仙が描かれている。この厨子のバラをヒントに天野明道住職が、「白華峰西洋の庭」(6,000m2)にバラを植えて一般の観覧に供したため、「薔薇寺」の異名でも呼ばれるようになった。ただし、バラは開花時期が限られるため、院内を覆うコケの方が印象深い。
そのほか、数珠作り体験と、庭園のライトアップで知られる。境内には「縁結び観音」もある。
文化財
重要文化財(国指定)
圓通院霊屋 附厨子1基、棟札1枚
町指定有形文化財
大悲亭(本堂)
山門
木造聖観音坐像(本尊)
アクセス
JR仙石線・松島海岸駅から徒歩5分、JR東北本線・松島駅から徒歩20分。
所在地 宮城県宮城郡松島町松島字町内67
位置 北緯38度22分16.8秒 東経141度3分34.8秒
宗旨 臨済宗妙心寺派
本尊 聖観世音菩薩
創建年 正保4年(1647年)
開山 洞水(瑞巌寺第100世和尚)
開基 伊達忠宗
別称 バラ寺、薔薇寺
札所等 三陸三十三観音霊場・第1番札所
文化財 圓通院霊屋 附厨子1基・棟札1枚
2022年12月27日
巨田神社(こたじんじゃ)は、宮崎県宮崎市佐土原町にある神社
巨田神社(こたじんじゃ)は、宮崎県宮崎市佐土原町にある神社。古名は巨田八幡宮で旧社格は郷社。本殿が国の重要文化財。
巨田神社本殿 国指定重要文化財(昭和53年指定)
祭神
誉田別命(応神天皇)、大帯姫命(神功皇后)と、上筒男神、中筒男神、底筒男神の住吉三神を祀る。当初は天太玉命を祀っていたという。
歴史
天長8年(831年)9月15日に飛箟原に白羽の矢1対が飛来したためそこに祠を建てたのが創祀と伝えるが不詳。 初め天太玉命を祀っていたが、寛治7年(1093年)当地周辺に大分県の宇佐神宮の荘園である田島荘が設けられたのにともない、その分霊を勧請し、爾来巨田八幡宮と称されたが、古田宮と記される記録も残る。
中世には伊東氏の支配下にあり、またこの頃に巨田八幡宮の供僧と蓮光寺院主を兼任した例が見られる事から、蓮光寺は巨田八幡宮の別当寺だったと考えられている。文安5年(1448年)に時の領主、佐土原祐賀(伊東祐堯の弟)によって再興され、永正5年(1508年)にも都於郡城主の伊東尹祐によって再興されている。
社殿
文安5年11月8日に本殿が建立され、その際の棟札には、大檀那として佐土原祐賀の名が記されている。永正5年に修造が行なわれ、現本殿は天文16年(1547年)の建立、その後文禄5年(1596年)に島津豊久、慶長18年(1613年)に佐土原藩主の同忠興によってそれぞれ修造が行なわれている。現本殿は三間社流造栃葺(当初は板葺)、木部は朱色に塗られており、南九州では数少ない室町時代中期の建造物で地方的崩れも見られず[3]、昭和53年(1978年)に国の重要文化財(建造物)に指定された。
貞享3年(1686年)に摂社今宮社、享保12年(1727年)に摂社若宮社が本殿の左右に建立されたが、ともに一間社の流見世棚造鉄板葺で、昭和58年(1983年)に宮崎県の有形文化財に指定されている。
文化財
重要文化財
本殿(附 棟札22枚) - 室町時代中期(1448年)の建立。三間社流造、とち葺。三間社流造の本殿で、地方的なくずれがない。建立年代が明らかであり、南九州における数少い中世神社建築の遺構として重要である。棟札が多数残されているのも貴重である。昭和53年(1978年)5月31日指定。
宮崎県文化財
摂社若宮社・今宮社 - 昭和58年1月21日指定。
所在地 宮崎県宮崎市佐土原町上田島10732-1
位置 北緯32度03分28.1秒 東経131度24分13.4秒
主祭神 誉田別命
大帯姫命
住吉三神
社格等 旧郷社
創建 伝天長8年(831年)
本殿の様式 三間社流造栃葺
別名 巨田八幡宮
例祭 11月15日
巨田神社本殿 国指定重要文化財(昭和53年指定)
祭神
誉田別命(応神天皇)、大帯姫命(神功皇后)と、上筒男神、中筒男神、底筒男神の住吉三神を祀る。当初は天太玉命を祀っていたという。
歴史
天長8年(831年)9月15日に飛箟原に白羽の矢1対が飛来したためそこに祠を建てたのが創祀と伝えるが不詳。 初め天太玉命を祀っていたが、寛治7年(1093年)当地周辺に大分県の宇佐神宮の荘園である田島荘が設けられたのにともない、その分霊を勧請し、爾来巨田八幡宮と称されたが、古田宮と記される記録も残る。
中世には伊東氏の支配下にあり、またこの頃に巨田八幡宮の供僧と蓮光寺院主を兼任した例が見られる事から、蓮光寺は巨田八幡宮の別当寺だったと考えられている。文安5年(1448年)に時の領主、佐土原祐賀(伊東祐堯の弟)によって再興され、永正5年(1508年)にも都於郡城主の伊東尹祐によって再興されている。
社殿
文安5年11月8日に本殿が建立され、その際の棟札には、大檀那として佐土原祐賀の名が記されている。永正5年に修造が行なわれ、現本殿は天文16年(1547年)の建立、その後文禄5年(1596年)に島津豊久、慶長18年(1613年)に佐土原藩主の同忠興によってそれぞれ修造が行なわれている。現本殿は三間社流造栃葺(当初は板葺)、木部は朱色に塗られており、南九州では数少ない室町時代中期の建造物で地方的崩れも見られず[3]、昭和53年(1978年)に国の重要文化財(建造物)に指定された。
貞享3年(1686年)に摂社今宮社、享保12年(1727年)に摂社若宮社が本殿の左右に建立されたが、ともに一間社の流見世棚造鉄板葺で、昭和58年(1983年)に宮崎県の有形文化財に指定されている。
文化財
重要文化財
本殿(附 棟札22枚) - 室町時代中期(1448年)の建立。三間社流造、とち葺。三間社流造の本殿で、地方的なくずれがない。建立年代が明らかであり、南九州における数少い中世神社建築の遺構として重要である。棟札が多数残されているのも貴重である。昭和53年(1978年)5月31日指定。
宮崎県文化財
摂社若宮社・今宮社 - 昭和58年1月21日指定。
所在地 宮崎県宮崎市佐土原町上田島10732-1
位置 北緯32度03分28.1秒 東経131度24分13.4秒
主祭神 誉田別命
大帯姫命
住吉三神
社格等 旧郷社
創建 伝天長8年(831年)
本殿の様式 三間社流造栃葺
別名 巨田八幡宮
例祭 11月15日