羽黒山五重塔(はぐろさんごじゅうのとう)は山形県鶴岡市羽黒町手向(とうげ)の羽黒山にある室町時代建立の五重塔。
概要
山形県にある山岳修験の道場である月山、湯殿山、羽黒山を合わせて出羽三山という。このうち羽黒山には三山の神を祀る三神合祭殿があり、そこへ至る参道の途中、木立の中にこの五重塔が建つ。近くには樹齢1000年、樹の周囲10mの巨杉「爺杉」がある。 東北地方では最古の塔といわれ、昭和41年(1966年)に国宝に指定された。塔の所有者は出羽三山神社(月山神社出羽神社湯殿山神社)である。
平安時代中期の承平年間(931年 - 938年)平将門の創建と伝えられているが定かではない。現存する塔は、『羽黒山旧記』によれば応安5年(1372年)に羽黒山の別当職大宝寺政氏が再建したと伝えられる。慶長13年(1608年)には山形藩主最上義光(もがみよしあき)が修理を行ったことが棟札の写しからわかる。この棟札写しによれば、五重塔は応安2年(1369年)に立柱し、永和3年(1377年)に屋上の相輪を上げたという。
塔は総高約29.2メートル、塔身高(相輪を除く)は22.2メートル。屋根は杮(こけら)葺き、様式は純和様で、塔身には彩色等を施さない素木の塔である。
明治時代の神仏分離により、神仏習合の形態だった羽黒山は出羽神社(いではじんじゃ)となり、山内の寺院や僧坊はほとんど廃され、取り壊されたが、五重塔は取り壊されずに残された数少ない仏教式建築の1つである。江戸時代は五重塔の周囲には多くの建造物があったという。
近世までは塔内に聖観音、軍荼利明王、妙見菩薩を安置していたが、神仏分離以後は大国主命を祭神として祀り、出羽三山神社の末社「千憑社(ちよりしゃ)」となっている。
所在地
山形県鶴岡市羽黒町手向 羽黒山境内
交通
鶴岡駅よりバス40分、徒歩10分
主祭神 大国主命
社格等 出羽神社末社
別名 羽黒山五重塔
2022年12月25日
向嶽寺(こうがくじ)は、山梨県甲州市にある禅寺で臨済宗向嶽寺派の大本山
向嶽寺(こうがくじ)は、山梨県甲州市にある禅寺で臨済宗向嶽寺派の大本山。山号は塩山。本尊は釈迦如来。
非公開寺院のため建物内部や庭園は原則的に拝観不可である。
歴史
甲斐国では鎌倉時代に臨済宗が広がるが、向嶽寺は南北朝時代の1378年(永和4年)に、晩年の抜隊得勝(ばっすいとくしょう)が塩山高森(甲州市塩山竹森)に建てた草庵に始まる。抜隊は相模国を拠点に活動を行っていたが、かねてから甲斐への移住を希望していたという。
同所の不便のため弟子の宝珠寺(山梨市の)の住持・松嶺昌秀(しゅうれいしょうしゅう)が周旋し、1380年(康暦2年)正月20日に甲斐国守護武田信成から寄進された塩ノ山へ移り、向嶽庵と号した。信成は絵図を作成して寺領を確定し、本尊の釈迦如来像を寄進したという。また、抜隊の死後に供養を行っている。「嶽」は富士山を意味し、抜隊がかつて霊夢を見たことに因む。
南朝方との関わりが深く、後亀山天皇の勅願寺となったという。武田氏の保護もあり多くの塔頭・末寺を有した。
文化財
国宝
絹本著色達磨図 - 昭和28年11月24日指定
鎌倉時代(13世紀)の達磨図。絹本着色[2]。寸法は縦108.2センチメートル、横60.6センチメートル。向嶽寺所蔵となった経緯は不明。現在は東京国立博物館に寄託。当時、宋からもたらされた水墨画・道釈画の技法により描かれたもので、日本最古級の達磨像であるだけでなく、日本水墨画史の冒頭に位置する貴重な作品と評されている。
達磨が体は正面、顔はわずかに左(向かって右)に向ける[2]。朱衣をまとい岩の上で座禅を組む姿が描かれており、鋭い目に豊かな髭、口元は緩く結ばれ歯を見せているなど、達磨の異国風の風貌が精緻に表現されている。耳輪部分には金泥が使用されている。背景は省略されており、礼拝画としての性格が強いと指摘される。画面上部には蘭渓道隆による賛文がある。蘭渓道隆は寛元4年(1246年)に来日すると鎌倉・建仁寺の開山に迎えられており、文永年間に甲斐へ流されている。本図は「朗然居士」に対しておくられており、これは文永5年(1268年)に執権となった北条時宗であると考えられている。
絹本著色達磨図(部分)
重要文化財(国指定)
向嶽寺中門 - 昭和46年6月22日指定
室町中期の四脚門。切妻造、檜皮葺。外門後方に位置し、左右には土塀(県指定文化財)を延ばしている。近世、近代の火災で諸堂を焼失した向嶽寺における唯一の中世建築。石積壇上に立ち、親柱の前後に各2本の副柱が立てられた大型の四脚門。禅宗様の建築で、特に親柱と副柱の上部を結ぶ梁に鎌倉に類例の多い湾曲した海老虹梁を用いている。築造年代を示す墨書はなく文献史料にも見られないが、装飾の様式から室町中期のものと考えられている。
中門(重要文化財)
所在地
山梨県甲州市塩山上於曽2026
非公開寺院のため建物内部や庭園は原則的に拝観不可である。
歴史
甲斐国では鎌倉時代に臨済宗が広がるが、向嶽寺は南北朝時代の1378年(永和4年)に、晩年の抜隊得勝(ばっすいとくしょう)が塩山高森(甲州市塩山竹森)に建てた草庵に始まる。抜隊は相模国を拠点に活動を行っていたが、かねてから甲斐への移住を希望していたという。
同所の不便のため弟子の宝珠寺(山梨市の)の住持・松嶺昌秀(しゅうれいしょうしゅう)が周旋し、1380年(康暦2年)正月20日に甲斐国守護武田信成から寄進された塩ノ山へ移り、向嶽庵と号した。信成は絵図を作成して寺領を確定し、本尊の釈迦如来像を寄進したという。また、抜隊の死後に供養を行っている。「嶽」は富士山を意味し、抜隊がかつて霊夢を見たことに因む。
南朝方との関わりが深く、後亀山天皇の勅願寺となったという。武田氏の保護もあり多くの塔頭・末寺を有した。
文化財
国宝
絹本著色達磨図 - 昭和28年11月24日指定
鎌倉時代(13世紀)の達磨図。絹本着色[2]。寸法は縦108.2センチメートル、横60.6センチメートル。向嶽寺所蔵となった経緯は不明。現在は東京国立博物館に寄託。当時、宋からもたらされた水墨画・道釈画の技法により描かれたもので、日本最古級の達磨像であるだけでなく、日本水墨画史の冒頭に位置する貴重な作品と評されている。
達磨が体は正面、顔はわずかに左(向かって右)に向ける[2]。朱衣をまとい岩の上で座禅を組む姿が描かれており、鋭い目に豊かな髭、口元は緩く結ばれ歯を見せているなど、達磨の異国風の風貌が精緻に表現されている。耳輪部分には金泥が使用されている。背景は省略されており、礼拝画としての性格が強いと指摘される。画面上部には蘭渓道隆による賛文がある。蘭渓道隆は寛元4年(1246年)に来日すると鎌倉・建仁寺の開山に迎えられており、文永年間に甲斐へ流されている。本図は「朗然居士」に対しておくられており、これは文永5年(1268年)に執権となった北条時宗であると考えられている。
絹本著色達磨図(部分)
重要文化財(国指定)
向嶽寺中門 - 昭和46年6月22日指定
室町中期の四脚門。切妻造、檜皮葺。外門後方に位置し、左右には土塀(県指定文化財)を延ばしている。近世、近代の火災で諸堂を焼失した向嶽寺における唯一の中世建築。石積壇上に立ち、親柱の前後に各2本の副柱が立てられた大型の四脚門。禅宗様の建築で、特に親柱と副柱の上部を結ぶ梁に鎌倉に類例の多い湾曲した海老虹梁を用いている。築造年代を示す墨書はなく文献史料にも見られないが、装飾の様式から室町中期のものと考えられている。
中門(重要文化財)
所在地
山梨県甲州市塩山上於曽2026
2022年12月24日
金剛三昧院(こんごうさんまいいん)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗の別格本山の寺院
金剛三昧院(こんごうさんまいいん)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗の別格本山の寺院、宿坊。本尊は愛染明王。仏塔古寺十八尊第11番霊場。西国愛染十七霊場第17番霊場。
ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素。
多宝塔(国宝)
歴史
建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建された。開山供養には栄西も招かれ、開山第一世となった。
承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰された。
貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うために大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などを建立した。鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院であったため、高野山の中心的寺院の役割を担った。
嘉禎4年(1238年)、足利義氏が北条政子の十三回忌にあたり、金剛三昧院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して政子の遺骨を納めた。
初代長老が退耕行勇であったことでも分かるように、当院は金剛峯寺とは別個の密・禅・律の三宗兼学の禅宗寺院として経営されていた。しばらくすると浄土教も取り入れるようになった。
客殿及び台所(重要文化財)
文化財
国宝
多宝塔
重要文化財
経蔵
客殿及び台所
四所明神社本殿
木造十一面千手観音立像 - 本堂安置、平安時代後期。
木造五智如来坐像 5躯 - 多宝塔安置、鎌倉時代。
木造不動明王立像(帆不動) - 平安時代後期。
絹本著色愛染明王像
金地著色梅花雉子図 14面 - 大広間襖絵、伝・小栗宗丹筆。
梵鐘
刀 銘繁慶 2口
高野版板木 486枚
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』所有者別総合目録・名称総索引・統計資料(毎日新聞社、2000年)による。
本堂
所在地
〒648-0211 和歌山県伊都郡高野町高野山425
交通アクセス
南海鋼索線高野山駅→南海りんかんバス『千手院橋』下車 徒歩8分
ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素。
多宝塔(国宝)
歴史
建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建された。開山供養には栄西も招かれ、開山第一世となった。
承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰された。
貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うために大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などを建立した。鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院であったため、高野山の中心的寺院の役割を担った。
嘉禎4年(1238年)、足利義氏が北条政子の十三回忌にあたり、金剛三昧院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して政子の遺骨を納めた。
初代長老が退耕行勇であったことでも分かるように、当院は金剛峯寺とは別個の密・禅・律の三宗兼学の禅宗寺院として経営されていた。しばらくすると浄土教も取り入れるようになった。
客殿及び台所(重要文化財)
文化財
国宝
多宝塔
重要文化財
経蔵
客殿及び台所
四所明神社本殿
木造十一面千手観音立像 - 本堂安置、平安時代後期。
木造五智如来坐像 5躯 - 多宝塔安置、鎌倉時代。
木造不動明王立像(帆不動) - 平安時代後期。
絹本著色愛染明王像
金地著色梅花雉子図 14面 - 大広間襖絵、伝・小栗宗丹筆。
梵鐘
刀 銘繁慶 2口
高野版板木 486枚
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』所有者別総合目録・名称総索引・統計資料(毎日新聞社、2000年)による。
本堂
所在地
〒648-0211 和歌山県伊都郡高野町高野山425
交通アクセス
南海鋼索線高野山駅→南海りんかんバス『千手院橋』下車 徒歩8分
2022年12月23日
吉備津神社(きびつじんじゃ)は、岡山県岡山市北区吉備津にある神社
吉備津神社(きびつじんじゃ)は、岡山県岡山市北区吉備津にある神社。式内社(名神大社)、備中国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
「吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)」とも称したが、現在は「吉備津神社」が正式名である。
本殿(国宝)
概要
岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備中山(標高175メートル)の北西麓に北面して鎮座する。吉備中山は古来神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座する。当社と吉備津彦神社とも、主祭神に、当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、命の一族を配祀する。
本来は吉備国の総鎮守であったが、吉備国の三国への分割により備中国の一宮とされ、分霊が備前国・備後国の一宮(備前:吉備津彦神社、備後:吉備津神社)となったとされる。この事から備中の吉備津神社は「吉備総鎮守」「三備一宮」を名乗る。
足利義満造営とされる本殿は全国唯一の比翼入母屋造(吉備津造)で、拝殿とともに国宝に指定。また社殿3棟が国の重要文化財に指定されるほか、特殊神事の鳴釜神事が有名である。
当地出身の政治家犬養毅は、犬養家遠祖の犬飼健命が大吉備津彦命の随神であるとして、吉備津神社を崇敬したという。神池の畔に犬養毅の銅像が建てられ、吉備津神社の社号標も同人の揮毫になる。
祭神
祭神は次の9柱。
主祭神
大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)
第7代孝霊天皇の第三皇子で、元の名を「彦五十狭芹彦命(ひこいせさりひこのみこと、五十狭芹彦命)」。崇神天皇10年、四道将軍の1人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命と吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族の吉備臣になったとされる。
相殿神
御友別命(みともわけのみことのみこと) - 大吉備津彦命の子孫。
仲彦命(なかつひこのみこと) - 大吉備津彦命の子孫。
千々速比売命(ちちはやひめのみこと) - 大吉備津彦命の姉。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと) - 大吉備津彦命の姉。
日子刺肩別命(ひこさすかたわけのみこと) - 大吉備津彦命の兄。
倭迹迹日稚屋媛命(やまとととひわかやひめのみこと) - 大吉備津彦命の妹。
彦寤間命(ひこさめまのみこと) - 大吉備津彦命の弟。
若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと) - 大吉備津彦命の弟。
古くは「吉備津五所大明神」として、正宮と他の4社の5社で1つの神社を成した(他4社の祭神は後述の「摂末社」。
境内
本殿及び拝殿
現存する本殿・拝殿は、室町時代の明徳元年(1390年)、後光厳天皇の命を受けた室町幕府3代将軍の足利義満が造営を開始し、応永32年(1425年)に遷座した。比翼入母屋造の本殿の手前に切妻造、平入りの拝殿が接続する。比翼入母屋造とは、入母屋造の屋根を前後に2つ並べた屋根形式で、「吉備津造」ともいう。
本殿の大きさは、出雲大社本殿、八坂神社本殿に匹敵するもので、随所に仏教建築の影響がみられる。地面より一段高く、漆喰塗の土壇(亀腹)の上に建ち、平面は桁行正面五間、背面七間、梁間八間で、屋根は檜皮葺とする。内部は中央に閉鎖的な内々陣とその手前の内陣があり、その周囲を一段低い中陣とし、中陣の手前はさらに一段低い朱の壇(あけのだん)とし、これらの周囲にさらに低い外陣が一周する。このように、外側から内側へ向けて徐々に床高を高くする特異な構造である。壁面上半には神社には珍しい連子窓をめぐらす。挿肘木、皿斗、虹梁の形状など、神社本殿に大仏様(だいぶつよう)を応用した唯一の例とされる。
拝殿は本殿と同時に造営され、桁行(側面)三間、梁間(正面)一間妻入りで、正面は切妻造、背面は本殿に接続。正面と側面には裳階(もこし)を設ける。屋根は本殿と同じく檜皮葺だが、裳階は本瓦葺きとする。これら本殿・拝殿は、合わせて1棟として国宝に指定されている。
現地情報
所在地
岡山県岡山市北区吉備津931
交通アクセス
鉄道
西日本旅客鉄道(JR西日本)吉備線 吉備津駅 (徒歩10分)
バス
備北バス(東総社経由「地頭」行き)で、「吉備津神社参道口」バス停下車 (下車後徒歩2分)
「吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)」とも称したが、現在は「吉備津神社」が正式名である。
本殿(国宝)
概要
岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備中山(標高175メートル)の北西麓に北面して鎮座する。吉備中山は古来神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座する。当社と吉備津彦神社とも、主祭神に、当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、命の一族を配祀する。
本来は吉備国の総鎮守であったが、吉備国の三国への分割により備中国の一宮とされ、分霊が備前国・備後国の一宮(備前:吉備津彦神社、備後:吉備津神社)となったとされる。この事から備中の吉備津神社は「吉備総鎮守」「三備一宮」を名乗る。
足利義満造営とされる本殿は全国唯一の比翼入母屋造(吉備津造)で、拝殿とともに国宝に指定。また社殿3棟が国の重要文化財に指定されるほか、特殊神事の鳴釜神事が有名である。
当地出身の政治家犬養毅は、犬養家遠祖の犬飼健命が大吉備津彦命の随神であるとして、吉備津神社を崇敬したという。神池の畔に犬養毅の銅像が建てられ、吉備津神社の社号標も同人の揮毫になる。
祭神
祭神は次の9柱。
主祭神
大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)
第7代孝霊天皇の第三皇子で、元の名を「彦五十狭芹彦命(ひこいせさりひこのみこと、五十狭芹彦命)」。崇神天皇10年、四道将軍の1人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命と吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族の吉備臣になったとされる。
相殿神
御友別命(みともわけのみことのみこと) - 大吉備津彦命の子孫。
仲彦命(なかつひこのみこと) - 大吉備津彦命の子孫。
千々速比売命(ちちはやひめのみこと) - 大吉備津彦命の姉。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと) - 大吉備津彦命の姉。
日子刺肩別命(ひこさすかたわけのみこと) - 大吉備津彦命の兄。
倭迹迹日稚屋媛命(やまとととひわかやひめのみこと) - 大吉備津彦命の妹。
彦寤間命(ひこさめまのみこと) - 大吉備津彦命の弟。
若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと) - 大吉備津彦命の弟。
古くは「吉備津五所大明神」として、正宮と他の4社の5社で1つの神社を成した(他4社の祭神は後述の「摂末社」。
境内
本殿及び拝殿
現存する本殿・拝殿は、室町時代の明徳元年(1390年)、後光厳天皇の命を受けた室町幕府3代将軍の足利義満が造営を開始し、応永32年(1425年)に遷座した。比翼入母屋造の本殿の手前に切妻造、平入りの拝殿が接続する。比翼入母屋造とは、入母屋造の屋根を前後に2つ並べた屋根形式で、「吉備津造」ともいう。
本殿の大きさは、出雲大社本殿、八坂神社本殿に匹敵するもので、随所に仏教建築の影響がみられる。地面より一段高く、漆喰塗の土壇(亀腹)の上に建ち、平面は桁行正面五間、背面七間、梁間八間で、屋根は檜皮葺とする。内部は中央に閉鎖的な内々陣とその手前の内陣があり、その周囲を一段低い中陣とし、中陣の手前はさらに一段低い朱の壇(あけのだん)とし、これらの周囲にさらに低い外陣が一周する。このように、外側から内側へ向けて徐々に床高を高くする特異な構造である。壁面上半には神社には珍しい連子窓をめぐらす。挿肘木、皿斗、虹梁の形状など、神社本殿に大仏様(だいぶつよう)を応用した唯一の例とされる。
拝殿は本殿と同時に造営され、桁行(側面)三間、梁間(正面)一間妻入りで、正面は切妻造、背面は本殿に接続。正面と側面には裳階(もこし)を設ける。屋根は本殿と同じく檜皮葺だが、裳階は本瓦葺きとする。これら本殿・拝殿は、合わせて1棟として国宝に指定されている。
現地情報
所在地
岡山県岡山市北区吉備津931
交通アクセス
鉄道
西日本旅客鉄道(JR西日本)吉備線 吉備津駅 (徒歩10分)
バス
備北バス(東総社経由「地頭」行き)で、「吉備津神社参道口」バス停下車 (下車後徒歩2分)
2022年12月22日
孝恩寺(こうおんじ)は、大阪府貝塚市木積(こつみ)にある浄土宗の寺院
孝恩寺(こうおんじ)は、大阪府貝塚市木積(こつみ)にある浄土宗の寺院。山号は慈眼山。本尊は阿弥陀如来。「木積の釘無堂」と呼ばれる観音堂(国宝)が有名である。
観音堂(国宝)
歴史
国宝に指定されている観音堂は、もとは「観音寺」と称し、孝恩寺とは別個の寺院であった。旧・観音寺は「和泉名所図会」のような近世の文献には「木積観音」(こつみかんのん)とあり、奈良時代の神亀3年(726年)、行基による開基と伝える古寺である。行基は現在の大阪府堺市の出身で、奈良時代に架橋、灌漑などの社会事業を行い、民衆の支持を受けていた僧で、東大寺大仏の造立にも寄与している。行基の開創伝承をもつ寺は奈良県西部から大阪府南部にかけて多数存在し、観音寺もその1つで、「行基建立四十九院」の一つとされている。付近の地名を「木積」というが、これは行基が多数の寺院を建立するにあたり、山から切り出してきた材木の集積場であったことに由来する地名であるという。
平安時代初頭までに七堂伽藍が揃っていたが、室町時代に山名氏や大内氏らの戦火に巻き込まれ大半の建物が焼失する。
安土桃山時代には観音寺は根来寺の傘下にあったがために、天正13年(1585年)、羽柴秀吉による紀州征伐で観音堂以外のほぼ全ての建物を焼失した。この際に、仏像を薬師池に沈めて消失を免れた、という逸話は地元の人間には有名な話である。
唯一兵火を逃れ現存する観音堂は「木積の釘無堂」と呼ばれ、鎌倉時代の密教建築様式を伝える貴重な文化財として国宝の指定を受けている。なお「釘無堂」とは建築に際し釘を使用していないとの意味であるが、伝統工法の木組みを用いた社寺建築では、構造部分に釘を使用しないのは必ずしもこの堂に限ったことではない。
1889年(明治22年)に観音寺は観音堂を残して廃寺となった。1903年(明治36年)、観音堂が特別保護建造物(後の「重要文化財」)に指定された際は、寺院名を冠さず単に「観音堂」として指定された。その後、1914年(大正3年)、観音堂は孝恩寺に合併されることとなり、旧境内地は孝恩寺となった。観音堂はその本堂となって21世紀に至っている。孝恩寺は阿弥陀如来を本尊とする浄土宗寺院であるが、その由来、草創年月などは不明である。
境内
観音堂(国宝) - 鎌倉時代後期の再建。桁行5間、梁間5間、一重寄棟造、屋根は珍しい行基葺となっている。連子窓、平行垂木など和様の意匠を基調とするが、長押の代わりに足固貫、内法貫などの貫(柱を貫通する水平材)を多用する点、正面扉を桟唐戸とする点などには禅宗様の要素がある。内部の外陣に架け渡した虹梁は断面円形の大仏様のものを用いている。大阪府下最古の木造建築物である。
納骨堂
宝物殿 - 仏像など国の重要文化財19件を所蔵・展示している。
庫裏
鐘楼
山門
文化財
国宝
観音堂
重要文化財
木造阿弥陀如来坐像 - 平安時代、漆箔、像高138.8cm 下記の十一面観音像2躯とともに「阿弥陀三尊」として安置されている。
木造十一面観音立像(伝・観音菩薩像) - 平安時代、像高179.5cm
木造十一面観音立像(伝・勢至菩薩像) - 平安時代、像高167.5cm
木造阿弥陀如来立像 - 平安時代、彩色、像高141.0cm
木造釈迦如来坐像 - 平安時代、彩色、像高89.0cm
木造薬師如来立像 - 平安時代、彩色、像高158.4cm
木造十一面観音立像 - 平安時代、像高156.8cm
木造聖観音立像 2躯 - 平安時代、彩色、像高161.7cm及び166.2cm
木造弥勒菩薩坐像 - 平安時代、彩色、像高86.7cm 印相からみて、本来、阿弥陀如来像として造立されたものと思われる。
木造文殊菩薩立像 - 平安時代、彩色、像高169.0cm
木造普賢菩薩立像 - 平安時代、彩色、像高167.5cm
木造地蔵菩薩立像 - 平安時代、彩色漆箔 像高136.4cm
木造虚空蔵菩薩立像 - 平安時代、彩色 像高169.0cm 大阪市立美術館に寄託。
木造帝釈天立像 - 平安時代、彩色、像高171.0cm
木造多聞天立像 - 平安時代、彩色、像高169.2cm
木造弁才天立像 - 平安時代、彩色、像高117.6cm
木造難陀竜王立像 - 平安時代、彩色、像高164.4cm
木造跋難陀竜王立像 - 平安時代、彩色、像高173.4cm
板絵着色天部像 - 平安時代
【大阪・孝恩寺/弥勒菩薩坐像(平安)】
交通アクセス
水間鉄道水間線 水間観音駅から水鉄バス「蕎原」行きで5分、「釘無堂」下車、徒歩すぐ
所在地 大阪府貝塚市木積798
位置 北緯34度23分49.56秒 東経135度23分40.27秒
山号 慈眼山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来(重要文化財)
創建年 伝・神亀3年(726年)
開山 伝・行基
別称 釘無堂
札所等 和泉西国三十三箇所第25番
阪和西国三十三ヶ所観音霊場第17番
文化財 観音堂(国宝)
木造釈迦如来坐像、木造薬師如来立像、木造十一面観音立像ほか(重要文化財)
観音堂(国宝)
歴史
国宝に指定されている観音堂は、もとは「観音寺」と称し、孝恩寺とは別個の寺院であった。旧・観音寺は「和泉名所図会」のような近世の文献には「木積観音」(こつみかんのん)とあり、奈良時代の神亀3年(726年)、行基による開基と伝える古寺である。行基は現在の大阪府堺市の出身で、奈良時代に架橋、灌漑などの社会事業を行い、民衆の支持を受けていた僧で、東大寺大仏の造立にも寄与している。行基の開創伝承をもつ寺は奈良県西部から大阪府南部にかけて多数存在し、観音寺もその1つで、「行基建立四十九院」の一つとされている。付近の地名を「木積」というが、これは行基が多数の寺院を建立するにあたり、山から切り出してきた材木の集積場であったことに由来する地名であるという。
平安時代初頭までに七堂伽藍が揃っていたが、室町時代に山名氏や大内氏らの戦火に巻き込まれ大半の建物が焼失する。
安土桃山時代には観音寺は根来寺の傘下にあったがために、天正13年(1585年)、羽柴秀吉による紀州征伐で観音堂以外のほぼ全ての建物を焼失した。この際に、仏像を薬師池に沈めて消失を免れた、という逸話は地元の人間には有名な話である。
唯一兵火を逃れ現存する観音堂は「木積の釘無堂」と呼ばれ、鎌倉時代の密教建築様式を伝える貴重な文化財として国宝の指定を受けている。なお「釘無堂」とは建築に際し釘を使用していないとの意味であるが、伝統工法の木組みを用いた社寺建築では、構造部分に釘を使用しないのは必ずしもこの堂に限ったことではない。
1889年(明治22年)に観音寺は観音堂を残して廃寺となった。1903年(明治36年)、観音堂が特別保護建造物(後の「重要文化財」)に指定された際は、寺院名を冠さず単に「観音堂」として指定された。その後、1914年(大正3年)、観音堂は孝恩寺に合併されることとなり、旧境内地は孝恩寺となった。観音堂はその本堂となって21世紀に至っている。孝恩寺は阿弥陀如来を本尊とする浄土宗寺院であるが、その由来、草創年月などは不明である。
境内
観音堂(国宝) - 鎌倉時代後期の再建。桁行5間、梁間5間、一重寄棟造、屋根は珍しい行基葺となっている。連子窓、平行垂木など和様の意匠を基調とするが、長押の代わりに足固貫、内法貫などの貫(柱を貫通する水平材)を多用する点、正面扉を桟唐戸とする点などには禅宗様の要素がある。内部の外陣に架け渡した虹梁は断面円形の大仏様のものを用いている。大阪府下最古の木造建築物である。
納骨堂
宝物殿 - 仏像など国の重要文化財19件を所蔵・展示している。
庫裏
鐘楼
山門
文化財
国宝
観音堂
重要文化財
木造阿弥陀如来坐像 - 平安時代、漆箔、像高138.8cm 下記の十一面観音像2躯とともに「阿弥陀三尊」として安置されている。
木造十一面観音立像(伝・観音菩薩像) - 平安時代、像高179.5cm
木造十一面観音立像(伝・勢至菩薩像) - 平安時代、像高167.5cm
木造阿弥陀如来立像 - 平安時代、彩色、像高141.0cm
木造釈迦如来坐像 - 平安時代、彩色、像高89.0cm
木造薬師如来立像 - 平安時代、彩色、像高158.4cm
木造十一面観音立像 - 平安時代、像高156.8cm
木造聖観音立像 2躯 - 平安時代、彩色、像高161.7cm及び166.2cm
木造弥勒菩薩坐像 - 平安時代、彩色、像高86.7cm 印相からみて、本来、阿弥陀如来像として造立されたものと思われる。
木造文殊菩薩立像 - 平安時代、彩色、像高169.0cm
木造普賢菩薩立像 - 平安時代、彩色、像高167.5cm
木造地蔵菩薩立像 - 平安時代、彩色漆箔 像高136.4cm
木造虚空蔵菩薩立像 - 平安時代、彩色 像高169.0cm 大阪市立美術館に寄託。
木造帝釈天立像 - 平安時代、彩色、像高171.0cm
木造多聞天立像 - 平安時代、彩色、像高169.2cm
木造弁才天立像 - 平安時代、彩色、像高117.6cm
木造難陀竜王立像 - 平安時代、彩色、像高164.4cm
木造跋難陀竜王立像 - 平安時代、彩色、像高173.4cm
板絵着色天部像 - 平安時代
【大阪・孝恩寺/弥勒菩薩坐像(平安)】
交通アクセス
水間鉄道水間線 水間観音駅から水鉄バス「蕎原」行きで5分、「釘無堂」下車、徒歩すぐ
所在地 大阪府貝塚市木積798
位置 北緯34度23分49.56秒 東経135度23分40.27秒
山号 慈眼山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来(重要文化財)
創建年 伝・神亀3年(726年)
開山 伝・行基
別称 釘無堂
札所等 和泉西国三十三箇所第25番
阪和西国三十三ヶ所観音霊場第17番
文化財 観音堂(国宝)
木造釈迦如来坐像、木造薬師如来立像、木造十一面観音立像ほか(重要文化財)
2022年12月21日
臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)は、大分県臼杵市にある磨崖仏
臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)は、大分県臼杵市にある磨崖仏。一般には臼杵石仏(うすきせきぶつ)の名で知られている。臼杵八ヶ所霊場第一番札所。
1952年(昭和27年)に国の特別史跡に指定され、1995年(平成7年)には、磨崖仏として日本初、彫刻として九州初の国宝に指定された。臼杵磨崖仏は全4群61躯で構成され、そのうち59躯が国宝に指定されている。
歴史
磨崖仏造営の時期や事情を証する史料は一切残っていない。地元に伝わる「真名野長者伝説(炭焼き小五郎伝説)」では、この磨崖仏は亡くなった娘の菩提を弔うために長者が彫らせたとされており、用明天皇が登場することから、この伝説の舞台は6世紀後半と考えられる。しかし、実際の磨崖仏は、仏像の様式などから大部分は平安時代後期、一部は鎌倉時代の作と推定されている。
その後、磨崖仏は山岳仏教の衰退と共に忘れ去られ、1000年の風雨に曝され続けることとなった。元々阿蘇山からの火砕流が溶結した凝灰岩に掘られた石仏は脆く、また参拝者によって自然にできた道が大雨の際は川に変わり石仏を削り取った。現在、多くの石仏の下半身が切り取られたように無くなっているのはそのためである。
劣悪な環境の中で仏頭の多くが剥落した。中でも、最も有名な古園石仏群の大日如来像の仏頭は、1993年(平成5年)に保存修復が完了するまでの間、仏体下の台座に置かれたままであった。修復にあたっては、元の姿に戻すべきという意見と、臼杵のシンボルともなっている像の姿を大きく変えることを憂慮する意見との間で激しい論争が起きたが、仏頭の元の位置への修復が国宝指定の条件として文部省(当時)から提示されたため、最終的に元の位置へ復元されることとなった。臼杵駅のプラットホームにある仏頭のレプリカは修復前に作られたもので、仏頭が足下に置かれていた時期の状態をよく表している。一方、駅前にはこの像が彫られた当初の姿を復元したレプリカが設置されている。仏頭が再び体とつながったことで、参拝すると首がつながる、会社でリストラ(解雇)されないという俗説が生まれた。
なお、V字型の谷になっていた周辺の地形は、保存修復工事の際に、石仏が彫られていない方の壁が切り崩されて麓の里まで水を止めるものがなくなった上、石仏の周囲には排水設備が導入されたため、現在は石仏の下に水流ができるということは無くなった。しかし、岩陰の湿潤した条件では苔が繁殖しているため、その対策が行われている。
磨崖仏の概要
磨崖仏は4か所に分かれて所在し、それぞれ古園石仏群、山王山石仏群、ホキ石仏第一群(堂ヶ迫石仏とも)、ホキ石仏第二群と称される。いずれも溶結凝灰岩の岩壁に高肉彫とし、像表面には彩色を施している。磨崖仏の造立年代を示す史料は皆無であるが、作風から大部分の像は平安時代後期の作、ホキ石仏第一群の向かって右側の第三龕・第四龕は鎌倉時代に追刻されたものと推定されている。
文化財
これらの石仏は1995年(平成7年)に「臼杵磨崖仏」の名称で彫刻部門の国宝に指定された。1995年時点の指定員数は本指定が27躯、附(つけたり)指定が32躯、計59躯であった。その後、2017年度に古園石仏の向かって右側にある金剛力士像2躯が国宝に追加指定された。
アクセス
鉄道・バス
JR九州日豊本線上臼杵駅下車、南西4.5km。駅から北へ300mの臼杵平清水郵便局付近にある大分バス土橋(どばし)バス停から三重、または大分県庁行きで約10分、臼杵石仏下車。毎時1本程度の頻度。
JR九州日豊本線臼杵駅下車。大分バス臼杵駅バス停から三重行きで、臼杵石仏下車。なお、大分県庁行きは経由しない(臼杵駅近隣では城北バス停、臼杵市役所バス停などを経由)。
JR九州大分駅下車。大分バス大分駅前4番のりばから臼杵行きで、臼杵石仏下車。
飛行機・空港バス - 大分空港から、大分交通佐臼ライナーで、臼杵インター停留所下車、南西約2.8km、徒歩約35分。国道502号上西寄りの大分バス白馬渓バス停からバスの利用も可能。
自動車 - 東九州自動車道臼杵インターチェンジより国道502号経由、南西約3.3km。
自転車 - 臼杵駅観光案内所のレンタサイクル(無料)を利用。片道約6.6km。
1952年(昭和27年)に国の特別史跡に指定され、1995年(平成7年)には、磨崖仏として日本初、彫刻として九州初の国宝に指定された。臼杵磨崖仏は全4群61躯で構成され、そのうち59躯が国宝に指定されている。
歴史
磨崖仏造営の時期や事情を証する史料は一切残っていない。地元に伝わる「真名野長者伝説(炭焼き小五郎伝説)」では、この磨崖仏は亡くなった娘の菩提を弔うために長者が彫らせたとされており、用明天皇が登場することから、この伝説の舞台は6世紀後半と考えられる。しかし、実際の磨崖仏は、仏像の様式などから大部分は平安時代後期、一部は鎌倉時代の作と推定されている。
その後、磨崖仏は山岳仏教の衰退と共に忘れ去られ、1000年の風雨に曝され続けることとなった。元々阿蘇山からの火砕流が溶結した凝灰岩に掘られた石仏は脆く、また参拝者によって自然にできた道が大雨の際は川に変わり石仏を削り取った。現在、多くの石仏の下半身が切り取られたように無くなっているのはそのためである。
劣悪な環境の中で仏頭の多くが剥落した。中でも、最も有名な古園石仏群の大日如来像の仏頭は、1993年(平成5年)に保存修復が完了するまでの間、仏体下の台座に置かれたままであった。修復にあたっては、元の姿に戻すべきという意見と、臼杵のシンボルともなっている像の姿を大きく変えることを憂慮する意見との間で激しい論争が起きたが、仏頭の元の位置への修復が国宝指定の条件として文部省(当時)から提示されたため、最終的に元の位置へ復元されることとなった。臼杵駅のプラットホームにある仏頭のレプリカは修復前に作られたもので、仏頭が足下に置かれていた時期の状態をよく表している。一方、駅前にはこの像が彫られた当初の姿を復元したレプリカが設置されている。仏頭が再び体とつながったことで、参拝すると首がつながる、会社でリストラ(解雇)されないという俗説が生まれた。
なお、V字型の谷になっていた周辺の地形は、保存修復工事の際に、石仏が彫られていない方の壁が切り崩されて麓の里まで水を止めるものがなくなった上、石仏の周囲には排水設備が導入されたため、現在は石仏の下に水流ができるということは無くなった。しかし、岩陰の湿潤した条件では苔が繁殖しているため、その対策が行われている。
磨崖仏の概要
磨崖仏は4か所に分かれて所在し、それぞれ古園石仏群、山王山石仏群、ホキ石仏第一群(堂ヶ迫石仏とも)、ホキ石仏第二群と称される。いずれも溶結凝灰岩の岩壁に高肉彫とし、像表面には彩色を施している。磨崖仏の造立年代を示す史料は皆無であるが、作風から大部分の像は平安時代後期の作、ホキ石仏第一群の向かって右側の第三龕・第四龕は鎌倉時代に追刻されたものと推定されている。
文化財
これらの石仏は1995年(平成7年)に「臼杵磨崖仏」の名称で彫刻部門の国宝に指定された。1995年時点の指定員数は本指定が27躯、附(つけたり)指定が32躯、計59躯であった。その後、2017年度に古園石仏の向かって右側にある金剛力士像2躯が国宝に追加指定された。
アクセス
鉄道・バス
JR九州日豊本線上臼杵駅下車、南西4.5km。駅から北へ300mの臼杵平清水郵便局付近にある大分バス土橋(どばし)バス停から三重、または大分県庁行きで約10分、臼杵石仏下車。毎時1本程度の頻度。
JR九州日豊本線臼杵駅下車。大分バス臼杵駅バス停から三重行きで、臼杵石仏下車。なお、大分県庁行きは経由しない(臼杵駅近隣では城北バス停、臼杵市役所バス停などを経由)。
JR九州大分駅下車。大分バス大分駅前4番のりばから臼杵行きで、臼杵石仏下車。
飛行機・空港バス - 大分空港から、大分交通佐臼ライナーで、臼杵インター停留所下車、南西約2.8km、徒歩約35分。国道502号上西寄りの大分バス白馬渓バス停からバスの利用も可能。
自動車 - 東九州自動車道臼杵インターチェンジより国道502号経由、南西約3.3km。
自転車 - 臼杵駅観光案内所のレンタサイクル(無料)を利用。片道約6.6km。
2022年12月20日
太山寺(たいさんじ)は、愛媛県松山市にある真言宗智山派の寺院
太山寺(たいさんじ)は、愛媛県松山市にある真言宗智山派の寺院。山号は瀧雲山。院号は護持院。本尊は十一面観音。四国八十八箇所霊場の第52番札所。伊予十三仏霊場の第3番札所。
本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:太山へのぼれば汗のいでけれど 後の世思へば何の苦もなし
納経印:当寺本尊、奥之院経ヶ森
本堂(国宝)
歴史
太山寺の草創については、以下のような「一夜建立の御堂」伝説が伝えられている。飛鳥時代の用明2年(586年)、豊後国臼杵の真野の長者という者が難波に船で向かう途中、高浜の沖で大嵐に遭遇した。長者が平素から信仰する観音に念じると山頂から光が差し嵐が静まり無事着岸した。その光の差した頂上に行ってみると一寸八分の十一面観音を祀った小さな草堂(現在の奥の院)があった。長者は感謝し一宇建立の大願を起する。早速、豊後に引き返し工匠を集め木組みを整え、1日で高浜の港に着き夜を徹して、一夜にして建立したということである。
その後、天平11年(739年)聖武天皇の勅願により行基によって本尊の十一面観音が安置され、孝謙天皇(聖武天皇の娘)が天平勝宝元年(749年)に十一面観音を勅納し七堂伽藍を現在の地に整えたと伝えられている。なお、現本尊像(重要文化財)は平安時代後期の作である。また、本堂の奥中央の厨子内に安置される十一面観音像(文化財指定なし)が孝謙天皇奉納像であると伝える。
現存の本堂(国宝)は三代目で嘉元3年(1305年)伊予国守護河野氏によって再建され、近世には松山城主加藤氏の庇護を受けて栄えた。
文化財
国宝
本堂 - 鎌倉時代
堂内から発見された墨書により嘉元3年(1305年)の建立と判明する。桁行7間 (16.38m)、梁間9間 (20.91m)、屋根は入母屋造本瓦葺きで木造建築としては県下最大である。柱はすべて円柱で、正面の柱間をすべて蔀(しとみ)とするなど、建築様式は和様を基調とするが、虹梁(こうりょう)の形状など細部に大仏様(天竺様)を取り入れている。堂内手前の参詣者が立ち入る部分は板敷きとする。その奥は柱間5間×5間分の床を一段高く造り、手前を畳敷きの外陣(げじん)、奥を土間の内陣とする。内陣には横長の宮殿(くうでん、厨子)を置き、7躯の十一面観音立像(秘仏)を安置する。宮殿のある内陣を土間とするのは延暦寺根本中堂など天台宗系仏堂にみられる手法である。明治37年(1904年)8月29日重要文化財(当時の特別保護建造物)に、昭和31年(1956年)6月28日国宝に指定された。宮殿の7躯の十一面観音立像と堂内最奥に祀られている十一面観音立像(舟形光背を有する)は、平成26年(2014年)10月18日から26日まで、50年ぶりに、宮殿の背後に祀られている五智如来や多くの仏像と共に公開された。
宮殿の両脇には二十八部衆像10体ずつを安置する。二十八部衆のうち2体は失われ、残りの6体は阿弥陀如来像(江戸時代)の周囲に安置されている。
交通
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 予讃線 - 伊予和気駅 下車 (2.5km)
バス
高浜線三津駅より伊予鉄バス 三津ループ線に乗車「太山寺」下車 (0.5km)
道路
一般道:愛媛県道183号辰巳伊予和気停車場線 一の門 (0.8km)
所在地 愛媛県松山市太山寺町1730
位置 北緯33度53分6.3秒 東経132度42分53.9秒
山号 瀧雲山
院号 護持院
宗旨 新義真言宗
宗派 真言宗智山派
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 (伝)用明天皇2年(587年)
開基 (伝)真野長者
正式名 瀧雲山 護持院 太山寺
札所等 四国八十八箇所第52番
伊予十三仏霊場第3番
文化財 本堂(国宝)
仁王門・木造十一面観音立像1躯・木造十一面観音立像6躯(重要文化財)
算額(松山市有形民俗文化財)
本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:太山へのぼれば汗のいでけれど 後の世思へば何の苦もなし
納経印:当寺本尊、奥之院経ヶ森
本堂(国宝)
歴史
太山寺の草創については、以下のような「一夜建立の御堂」伝説が伝えられている。飛鳥時代の用明2年(586年)、豊後国臼杵の真野の長者という者が難波に船で向かう途中、高浜の沖で大嵐に遭遇した。長者が平素から信仰する観音に念じると山頂から光が差し嵐が静まり無事着岸した。その光の差した頂上に行ってみると一寸八分の十一面観音を祀った小さな草堂(現在の奥の院)があった。長者は感謝し一宇建立の大願を起する。早速、豊後に引き返し工匠を集め木組みを整え、1日で高浜の港に着き夜を徹して、一夜にして建立したということである。
その後、天平11年(739年)聖武天皇の勅願により行基によって本尊の十一面観音が安置され、孝謙天皇(聖武天皇の娘)が天平勝宝元年(749年)に十一面観音を勅納し七堂伽藍を現在の地に整えたと伝えられている。なお、現本尊像(重要文化財)は平安時代後期の作である。また、本堂の奥中央の厨子内に安置される十一面観音像(文化財指定なし)が孝謙天皇奉納像であると伝える。
現存の本堂(国宝)は三代目で嘉元3年(1305年)伊予国守護河野氏によって再建され、近世には松山城主加藤氏の庇護を受けて栄えた。
文化財
国宝
本堂 - 鎌倉時代
堂内から発見された墨書により嘉元3年(1305年)の建立と判明する。桁行7間 (16.38m)、梁間9間 (20.91m)、屋根は入母屋造本瓦葺きで木造建築としては県下最大である。柱はすべて円柱で、正面の柱間をすべて蔀(しとみ)とするなど、建築様式は和様を基調とするが、虹梁(こうりょう)の形状など細部に大仏様(天竺様)を取り入れている。堂内手前の参詣者が立ち入る部分は板敷きとする。その奥は柱間5間×5間分の床を一段高く造り、手前を畳敷きの外陣(げじん)、奥を土間の内陣とする。内陣には横長の宮殿(くうでん、厨子)を置き、7躯の十一面観音立像(秘仏)を安置する。宮殿のある内陣を土間とするのは延暦寺根本中堂など天台宗系仏堂にみられる手法である。明治37年(1904年)8月29日重要文化財(当時の特別保護建造物)に、昭和31年(1956年)6月28日国宝に指定された。宮殿の7躯の十一面観音立像と堂内最奥に祀られている十一面観音立像(舟形光背を有する)は、平成26年(2014年)10月18日から26日まで、50年ぶりに、宮殿の背後に祀られている五智如来や多くの仏像と共に公開された。
宮殿の両脇には二十八部衆像10体ずつを安置する。二十八部衆のうち2体は失われ、残りの6体は阿弥陀如来像(江戸時代)の周囲に安置されている。
交通
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 予讃線 - 伊予和気駅 下車 (2.5km)
バス
高浜線三津駅より伊予鉄バス 三津ループ線に乗車「太山寺」下車 (0.5km)
道路
一般道:愛媛県道183号辰巳伊予和気停車場線 一の門 (0.8km)
所在地 愛媛県松山市太山寺町1730
位置 北緯33度53分6.3秒 東経132度42分53.9秒
山号 瀧雲山
院号 護持院
宗旨 新義真言宗
宗派 真言宗智山派
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 (伝)用明天皇2年(587年)
開基 (伝)真野長者
正式名 瀧雲山 護持院 太山寺
札所等 四国八十八箇所第52番
伊予十三仏霊場第3番
文化財 本堂(国宝)
仁王門・木造十一面観音立像1躯・木造十一面観音立像6躯(重要文化財)
算額(松山市有形民俗文化財)
2022年12月19日
泉坂下遺跡(いずみさかしたいせき)は、茨城県常陸大宮市泉にある弥生時代の遺跡
泉坂下遺跡(いずみさかしたいせき)は、茨城県常陸大宮市泉にある弥生時代の遺跡。2017年(平成29年)10月13日、国の史跡に指定された。また、出土品は同年9月15日に、国の重要文化財に指定されており、常陸大宮市歴史民俗資料館に保管されている。
概要
市域の東端付近を流れる久慈川とその支流玉川との合流点から北西に約3km、那珂台地から東に下った久慈川右岸の低位段丘上に立地している。
遺跡は、2006年(平成18年)の鈴木素行による学術目的調査によって確認された再葬墓遺跡である。再葬墓とは、土葬や風葬などによっていったん遺骸を処理し遺骨を土器等に入れて再び埋葬する葬法で、主に東日本の弥生時代中期中葉までに認められる墓制である。
この時の調査では7基の再葬墓を検出し、もっとも注目されたのは、1号墓坑から検出された4個体の土器のうちの1点が非常に大きな人面付壺形土器だったことである。
常陸大宮市教育委員会では、この遺跡の重要性に鑑み、2012年(平成24年)度から遺跡の範囲、内容を確認するための発掘調査を実施してきた。その結果、再葬墓30基を確認し、1基あたりの埋納土器は1個のものが7基、複数のものが23基で、最も多いのは15個に達し、確認できている土器は153個に及ぶ。このほか、16基の土坑が検出された。
墓域は大きく東西の2群に分かれていた。東群では24基の再葬墓が概ね、長辺20m、短辺15mの範囲に収まり、埋納土器が1個だけのものは4基、複数のものが20基で、再葬墓同士が近接して設けられて密集している。西群は、長辺20m、短辺10mの範囲に埋納土器が1個だけのものが3基、複数のものが3基の合計6基で構成され、分布密度は低い。これらはいずれも弥生時代中期前葉に属しているが、東西での分布の密集度に違いがあることが明らかとなった。
また、16基の土坑については、一次葬のためのものという観点から調査が進められた。土坑内から人骨の出土はなく、土壌のリン酸・カルシウム等の分析が行われたものの、人骨の存在を示す結果は出なかったが、一次葬のためのものである可能性が考えられている。
出土した土器のなかで、注目されるのは人面付壺形土器である。器高77.7cm、口径14cmで、この種の土器のなかでは最大であり、口縁部から頸部にかけて、人面の造作は著しく立体的で、特に顎の部分を大きく張り出している点を特徴とする優品である、赤色顔料が右眼下や右顎に部分的に認められることから、人面部は赤彩されていたと考えられる。
出土した土器153点のうち壺が145点である。取り上げた52点のうち、人面付壺形土器を含めて32点の器面の内外に炭化物の付着があり、煮沸痕が認められる。このほか、副葬品として、1基から滑石製の玉が6点出土している。
なお、他の再葬墓遺跡でも認められるものと同様に、当遺跡でも縄文時代後・晩期の遺物が非常に多く出土しており、特に晩期中葉の遺物が密である。
これまでの再葬墓は偶発的に発見されることや後世の削平を受けて遺存状況が良好でない例がみられる中、泉坂下遺跡は、弥生時代中期前葉の再葬墓遺跡として、遺構の残存状況は極めて良好で、墓域の全貌が判明した事例として貴重であり、現地に未調査の土器が多数遺存している。しかも、東西の2群に分かれ、再葬墓の密集度に違いがあることは、再葬墓が営まれた原理を知る事例を提供し、さらには、人面付壺形土器を発掘調査し、その出土状況が分かった。このように、本遺跡は弥生時代中期の東日本で特徴的に認められる再葬墓遺跡の様相を知ることができるという点で重要である。
概要
市域の東端付近を流れる久慈川とその支流玉川との合流点から北西に約3km、那珂台地から東に下った久慈川右岸の低位段丘上に立地している。
遺跡は、2006年(平成18年)の鈴木素行による学術目的調査によって確認された再葬墓遺跡である。再葬墓とは、土葬や風葬などによっていったん遺骸を処理し遺骨を土器等に入れて再び埋葬する葬法で、主に東日本の弥生時代中期中葉までに認められる墓制である。
この時の調査では7基の再葬墓を検出し、もっとも注目されたのは、1号墓坑から検出された4個体の土器のうちの1点が非常に大きな人面付壺形土器だったことである。
常陸大宮市教育委員会では、この遺跡の重要性に鑑み、2012年(平成24年)度から遺跡の範囲、内容を確認するための発掘調査を実施してきた。その結果、再葬墓30基を確認し、1基あたりの埋納土器は1個のものが7基、複数のものが23基で、最も多いのは15個に達し、確認できている土器は153個に及ぶ。このほか、16基の土坑が検出された。
墓域は大きく東西の2群に分かれていた。東群では24基の再葬墓が概ね、長辺20m、短辺15mの範囲に収まり、埋納土器が1個だけのものは4基、複数のものが20基で、再葬墓同士が近接して設けられて密集している。西群は、長辺20m、短辺10mの範囲に埋納土器が1個だけのものが3基、複数のものが3基の合計6基で構成され、分布密度は低い。これらはいずれも弥生時代中期前葉に属しているが、東西での分布の密集度に違いがあることが明らかとなった。
また、16基の土坑については、一次葬のためのものという観点から調査が進められた。土坑内から人骨の出土はなく、土壌のリン酸・カルシウム等の分析が行われたものの、人骨の存在を示す結果は出なかったが、一次葬のためのものである可能性が考えられている。
出土した土器のなかで、注目されるのは人面付壺形土器である。器高77.7cm、口径14cmで、この種の土器のなかでは最大であり、口縁部から頸部にかけて、人面の造作は著しく立体的で、特に顎の部分を大きく張り出している点を特徴とする優品である、赤色顔料が右眼下や右顎に部分的に認められることから、人面部は赤彩されていたと考えられる。
出土した土器153点のうち壺が145点である。取り上げた52点のうち、人面付壺形土器を含めて32点の器面の内外に炭化物の付着があり、煮沸痕が認められる。このほか、副葬品として、1基から滑石製の玉が6点出土している。
なお、他の再葬墓遺跡でも認められるものと同様に、当遺跡でも縄文時代後・晩期の遺物が非常に多く出土しており、特に晩期中葉の遺物が密である。
これまでの再葬墓は偶発的に発見されることや後世の削平を受けて遺存状況が良好でない例がみられる中、泉坂下遺跡は、弥生時代中期前葉の再葬墓遺跡として、遺構の残存状況は極めて良好で、墓域の全貌が判明した事例として貴重であり、現地に未調査の土器が多数遺存している。しかも、東西の2群に分かれ、再葬墓の密集度に違いがあることは、再葬墓が営まれた原理を知る事例を提供し、さらには、人面付壺形土器を発掘調査し、その出土状況が分かった。このように、本遺跡は弥生時代中期の東日本で特徴的に認められる再葬墓遺跡の様相を知ることができるという点で重要である。
2022年12月18日
石岡第一発電所(いしおかだいいちはつでんしょ)は茨城県北茨城市にある水力発電所
石岡第一発電所(いしおかだいいちはつでんしょ)は茨城県北茨城市にある水力発電所である。1911年(明治44年)に発電を開始し、2016年現在も東京発電の管理下で稼働している。茨城県内で稼働中の水力発電所としては中里発電所(1908年発電開始)に次ぐ歴史を持ち、施設全体が日本国の重要文化財に指定されている。
発電所仕様
本設備
石岡第一発電所は1911年(明治44年)8月に竣工した水力発電所である。本発電所は茨城県北茨城市に位置し、二級河川である大北川水系の本流から取水し発電している。この大北川本流は総長22.2キロメートル、流域面積195.5平方キロメートルの河川であり、茨城県北茨城市の磯原市街東端に河口がある。大北川水系では、石岡第一発電所の他に石岡第二発電所・横川発電所が本流沿いに、花園川発電所が支流沿いに設けられている。
本発電所は、取水堰堤・沈砂池・水路橋・水槽・調圧水槽・発電機室・変圧器室といった施設から構成される。取水堰堤から取り入れられた水は、総延長約3,500メートルの水路を通り石岡第一発電所へ到達する。水路は導水路と水圧鉄管から成り、導水路の部分が2,892メートル、水圧鉄管の部分が568メートルの長さとなる。導水路は隧道と開渠から成り、主要部の平均幅は2.1メートルで、高さも2.1メートルである。水圧鉄管は管径が1.6メートルで、石岡第一発電所の竣工当初は継ぎ目無しの溶接鉄管が使われていた[6]。石岡第一発電所での発電後は放水され、これが下流にある石岡第二発電所にて再利用される。
石岡第一発電所の発電設備は、同期発電機1台と出力5,540キロワット横軸フランシス水車から成る。本発電所の竣工当初は、発電設備は二組の発電機と水車から構成されていた。一組目はゼネラル・エレクトリック(GE)製の1,000キロワット発電機とエッシャーウイス製の横軸フランシス水車で、二組目も同じくGE製の3,000キロワット発電機とエッシャーウイス製の横軸フランシス水車であった。
2009年5月22日時点での石岡第一発電所の諸元は下記の通り。
河川名:大北川水系大北川
発電形式:水路式
発電方式:流込み式
最大出力:5,500キロワット
常時出力:1,100キロワット
最大使用水量:3.90立方メートル毎秒
有効落差:161.10メートル
流域面積:87.9平方キロメートル
水車:横軸フランシス水車 出力5,540キロワット1台
発電機:同期発電機1台
所有者:東京発電
国家管理・東京電力時代
日立電力による運営後、石岡第一発電所は電力国家管理に伴い関東配電株式会社の所有となった。1941年(昭和16年)9月6日、配電統制令により関東配電株式会社設立命令が発せられた。日立電力は「関東配電となるべき会社」に指定され、全資産をあげて関東配電に統合することとなった。1942年(昭和17年)3月30日に創立総会が開かれた後、4月1日に関東配電株式会社が設立された。
第二次世界大戦後には電気事業再編令が公布され、石岡第一発電所は東京電力の所有となった[39]。東京電力に所有されていた間、石岡第一発電所は出力増加改修や周波数変更が行われた。1957年(昭和32年)5月18日には水圧鉄管が取り替えられ、出力が4,000キロワットから4,600キロワットまで増加した。1968年(昭和43年)11月3日には、鉄筋コンクリート製の逆サイフォン管が銅製の物に置き換えられ、出力が4,600キロワットから4,800キロワットまで増加した。また、石岡第一発電所ではそれまで交流60ヘルツが使用されてきたが、東京電力が茨城県内に残していた60ヘルツ地区を50ヘルツに切り替える方針を受けて、1961年(昭和36年)6月には50ヘルツ用発電所に改められた。しかし、なお残った60ヘルツ地域が電力不足に陥る度に、需要の波動調整用となる再改造を石岡第一発電所は受けた。
国 日本
所在地 北茨城市
座標 北緯36度46分39秒 東経140度40分46秒
現況 運転中
運転開始 1911年(明治44年)10月
事業主体 東京発電
開発者 久原鉱業
発電所仕様
本設備
石岡第一発電所は1911年(明治44年)8月に竣工した水力発電所である。本発電所は茨城県北茨城市に位置し、二級河川である大北川水系の本流から取水し発電している。この大北川本流は総長22.2キロメートル、流域面積195.5平方キロメートルの河川であり、茨城県北茨城市の磯原市街東端に河口がある。大北川水系では、石岡第一発電所の他に石岡第二発電所・横川発電所が本流沿いに、花園川発電所が支流沿いに設けられている。
本発電所は、取水堰堤・沈砂池・水路橋・水槽・調圧水槽・発電機室・変圧器室といった施設から構成される。取水堰堤から取り入れられた水は、総延長約3,500メートルの水路を通り石岡第一発電所へ到達する。水路は導水路と水圧鉄管から成り、導水路の部分が2,892メートル、水圧鉄管の部分が568メートルの長さとなる。導水路は隧道と開渠から成り、主要部の平均幅は2.1メートルで、高さも2.1メートルである。水圧鉄管は管径が1.6メートルで、石岡第一発電所の竣工当初は継ぎ目無しの溶接鉄管が使われていた[6]。石岡第一発電所での発電後は放水され、これが下流にある石岡第二発電所にて再利用される。
石岡第一発電所の発電設備は、同期発電機1台と出力5,540キロワット横軸フランシス水車から成る。本発電所の竣工当初は、発電設備は二組の発電機と水車から構成されていた。一組目はゼネラル・エレクトリック(GE)製の1,000キロワット発電機とエッシャーウイス製の横軸フランシス水車で、二組目も同じくGE製の3,000キロワット発電機とエッシャーウイス製の横軸フランシス水車であった。
2009年5月22日時点での石岡第一発電所の諸元は下記の通り。
河川名:大北川水系大北川
発電形式:水路式
発電方式:流込み式
最大出力:5,500キロワット
常時出力:1,100キロワット
最大使用水量:3.90立方メートル毎秒
有効落差:161.10メートル
流域面積:87.9平方キロメートル
水車:横軸フランシス水車 出力5,540キロワット1台
発電機:同期発電機1台
所有者:東京発電
国家管理・東京電力時代
日立電力による運営後、石岡第一発電所は電力国家管理に伴い関東配電株式会社の所有となった。1941年(昭和16年)9月6日、配電統制令により関東配電株式会社設立命令が発せられた。日立電力は「関東配電となるべき会社」に指定され、全資産をあげて関東配電に統合することとなった。1942年(昭和17年)3月30日に創立総会が開かれた後、4月1日に関東配電株式会社が設立された。
第二次世界大戦後には電気事業再編令が公布され、石岡第一発電所は東京電力の所有となった[39]。東京電力に所有されていた間、石岡第一発電所は出力増加改修や周波数変更が行われた。1957年(昭和32年)5月18日には水圧鉄管が取り替えられ、出力が4,000キロワットから4,600キロワットまで増加した。1968年(昭和43年)11月3日には、鉄筋コンクリート製の逆サイフォン管が銅製の物に置き換えられ、出力が4,600キロワットから4,800キロワットまで増加した。また、石岡第一発電所ではそれまで交流60ヘルツが使用されてきたが、東京電力が茨城県内に残していた60ヘルツ地区を50ヘルツに切り替える方針を受けて、1961年(昭和36年)6月には50ヘルツ用発電所に改められた。しかし、なお残った60ヘルツ地域が電力不足に陥る度に、需要の波動調整用となる再改造を石岡第一発電所は受けた。
国 日本
所在地 北茨城市
座標 北緯36度46分39秒 東経140度40分46秒
現況 運転中
運転開始 1911年(明治44年)10月
事業主体 東京発電
開発者 久原鉱業
2022年12月17日
赤神神社(あかがみじんじゃ)は、秋田県男鹿市にある神社
赤神神社(あかがみじんじゃ)は、秋田県男鹿市にある神社である。一般には赤神神社五社堂として知られる。五社堂5棟は国の重要文化財(建造物)に指定されている。旧社格は郷社。
歴史
72年(景行天皇2年)(80年(景行天皇10年)とも81年(景行天皇11年)ともいう)、赤神と称した漢の孝武帝が天から降りてきたという伝説がある。一方、縁起によると、860年(貞観2年)、慈覚大師円仁が当地に来て赤神山日積寺永禅院(永禅坊とも)を創建したのに始まり、1216年(建保4年)、比叡山の山王七社を勧請して造営されたが、うち2社が廃れたため五社堂となったとする。
中世を通じて橘氏、安東氏の崇敬を受け、近世にはいると佐竹氏により領内12社のうちに選ばれ、篤く信仰された。現在見られる五社堂は1710年(宝永7年)建立とされている。明治以降、従来の神仏習合から神社として独立し、1998年(平成10年)から2002年(平成14年)まで大修理が行われた。
祭神
瓊瓊杵尊とする文献があるが、神社の公式サイトでは赤神山大神としている。また、円空作十一面観音も祀られている。
伝説
なまはげ
なまはげは、当地に来訪した武帝が連れてきた鬼であったとする伝説がある。鬼の乱暴を止めるために村人が申し出た「一晩に千段の石段を作れるならば娘を差し出す、出来なければ山に帰ること」という賭けを承諾した鬼たちが、999段まで作り終えたところで、村人の一人が鶏の鳴き真似をして乱暴を止めさせたと言われている。
赤神と黒神
竜飛岬の黒神と当地の赤神が、十和田湖の女神を巡って争い、赤神が負けたが、同情した女神は赤神を選んだという伝説がある。
文化財
重要文化財
赤神神社五社堂 5棟
正面入母屋造、背面切妻造の社殿が5棟、横一列に並ぶ。向かって右から三の宮堂、客人権現堂(まろうどごんげんどう)、赤神権現堂(中央堂)、八王子堂、十禅師堂と称する。1710年(宝永7年)の建立である。
赤神神社五社堂(中央堂)内厨子
赤神権現堂内に安置する厨子で、堂より古く室町時代後期のものである。
所在地 秋田県男鹿市船川港本山門前字祓川35
位置 北緯39度52分14.4秒 東経139度45分03.3秒
主祭神 天津彦火瓊瓊杵之命
社格等 郷社
創建 伝72年(景行天皇2年)
例祭 7月15日
歴史
72年(景行天皇2年)(80年(景行天皇10年)とも81年(景行天皇11年)ともいう)、赤神と称した漢の孝武帝が天から降りてきたという伝説がある。一方、縁起によると、860年(貞観2年)、慈覚大師円仁が当地に来て赤神山日積寺永禅院(永禅坊とも)を創建したのに始まり、1216年(建保4年)、比叡山の山王七社を勧請して造営されたが、うち2社が廃れたため五社堂となったとする。
中世を通じて橘氏、安東氏の崇敬を受け、近世にはいると佐竹氏により領内12社のうちに選ばれ、篤く信仰された。現在見られる五社堂は1710年(宝永7年)建立とされている。明治以降、従来の神仏習合から神社として独立し、1998年(平成10年)から2002年(平成14年)まで大修理が行われた。
祭神
瓊瓊杵尊とする文献があるが、神社の公式サイトでは赤神山大神としている。また、円空作十一面観音も祀られている。
伝説
なまはげ
なまはげは、当地に来訪した武帝が連れてきた鬼であったとする伝説がある。鬼の乱暴を止めるために村人が申し出た「一晩に千段の石段を作れるならば娘を差し出す、出来なければ山に帰ること」という賭けを承諾した鬼たちが、999段まで作り終えたところで、村人の一人が鶏の鳴き真似をして乱暴を止めさせたと言われている。
赤神と黒神
竜飛岬の黒神と当地の赤神が、十和田湖の女神を巡って争い、赤神が負けたが、同情した女神は赤神を選んだという伝説がある。
文化財
重要文化財
赤神神社五社堂 5棟
正面入母屋造、背面切妻造の社殿が5棟、横一列に並ぶ。向かって右から三の宮堂、客人権現堂(まろうどごんげんどう)、赤神権現堂(中央堂)、八王子堂、十禅師堂と称する。1710年(宝永7年)の建立である。
赤神神社五社堂(中央堂)内厨子
赤神権現堂内に安置する厨子で、堂より古く室町時代後期のものである。
所在地 秋田県男鹿市船川港本山門前字祓川35
位置 北緯39度52分14.4秒 東経139度45分03.3秒
主祭神 天津彦火瓊瓊杵之命
社格等 郷社
創建 伝72年(景行天皇2年)
例祭 7月15日