吉備津神社(きびつじんじゃ)は、岡山県岡山市北区吉備津にある神社。式内社(名神大社)、備中国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
「吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)」とも称したが、現在は「吉備津神社」が正式名である。
本殿(国宝)
概要
岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備中山(標高175メートル)の北西麓に北面して鎮座する。吉備中山は古来神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座する。当社と吉備津彦神社とも、主祭神に、当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、命の一族を配祀する。
本来は吉備国の総鎮守であったが、吉備国の三国への分割により備中国の一宮とされ、分霊が備前国・備後国の一宮(備前:吉備津彦神社、備後:吉備津神社)となったとされる。この事から備中の吉備津神社は「吉備総鎮守」「三備一宮」を名乗る。
足利義満造営とされる本殿は全国唯一の比翼入母屋造(吉備津造)で、拝殿とともに国宝に指定。また社殿3棟が国の重要文化財に指定されるほか、特殊神事の鳴釜神事が有名である。
当地出身の政治家犬養毅は、犬養家遠祖の犬飼健命が大吉備津彦命の随神であるとして、吉備津神社を崇敬したという。神池の畔に犬養毅の銅像が建てられ、吉備津神社の社号標も同人の揮毫になる。
祭神
祭神は次の9柱。
主祭神
大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)
第7代孝霊天皇の第三皇子で、元の名を「彦五十狭芹彦命(ひこいせさりひこのみこと、五十狭芹彦命)」。崇神天皇10年、四道将軍の1人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命と吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族の吉備臣になったとされる。
相殿神
御友別命(みともわけのみことのみこと) - 大吉備津彦命の子孫。
仲彦命(なかつひこのみこと) - 大吉備津彦命の子孫。
千々速比売命(ちちはやひめのみこと) - 大吉備津彦命の姉。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと) - 大吉備津彦命の姉。
日子刺肩別命(ひこさすかたわけのみこと) - 大吉備津彦命の兄。
倭迹迹日稚屋媛命(やまとととひわかやひめのみこと) - 大吉備津彦命の妹。
彦寤間命(ひこさめまのみこと) - 大吉備津彦命の弟。
若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと) - 大吉備津彦命の弟。
古くは「吉備津五所大明神」として、正宮と他の4社の5社で1つの神社を成した(他4社の祭神は後述の「摂末社」。
境内
本殿及び拝殿
現存する本殿・拝殿は、室町時代の明徳元年(1390年)、後光厳天皇の命を受けた室町幕府3代将軍の足利義満が造営を開始し、応永32年(1425年)に遷座した。比翼入母屋造の本殿の手前に切妻造、平入りの拝殿が接続する。比翼入母屋造とは、入母屋造の屋根を前後に2つ並べた屋根形式で、「吉備津造」ともいう。
本殿の大きさは、出雲大社本殿、八坂神社本殿に匹敵するもので、随所に仏教建築の影響がみられる。地面より一段高く、漆喰塗の土壇(亀腹)の上に建ち、平面は桁行正面五間、背面七間、梁間八間で、屋根は檜皮葺とする。内部は中央に閉鎖的な内々陣とその手前の内陣があり、その周囲を一段低い中陣とし、中陣の手前はさらに一段低い朱の壇(あけのだん)とし、これらの周囲にさらに低い外陣が一周する。このように、外側から内側へ向けて徐々に床高を高くする特異な構造である。壁面上半には神社には珍しい連子窓をめぐらす。挿肘木、皿斗、虹梁の形状など、神社本殿に大仏様(だいぶつよう)を応用した唯一の例とされる。
拝殿は本殿と同時に造営され、桁行(側面)三間、梁間(正面)一間妻入りで、正面は切妻造、背面は本殿に接続。正面と側面には裳階(もこし)を設ける。屋根は本殿と同じく檜皮葺だが、裳階は本瓦葺きとする。これら本殿・拝殿は、合わせて1棟として国宝に指定されている。
現地情報
所在地
岡山県岡山市北区吉備津931
交通アクセス
鉄道
西日本旅客鉄道(JR西日本)吉備線 吉備津駅 (徒歩10分)
バス
備北バス(東総社経由「地頭」行き)で、「吉備津神社参道口」バス停下車 (下車後徒歩2分)
2022年12月23日
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