一乗寺(いちじょうじ)は、兵庫県加西市にある天台宗の寺院である。山号は法華山。本尊は聖観音菩薩。西国三十三所第26番札所。国宝の三重塔は平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本では屈指の古塔である。境内は、春は桜、秋は紅葉の名所として知られる。中世には山内に真言律宗の有力律院も併設されており、宗祖の興正菩薩が播磨国での布教活動の拠点とした他、真言律宗出身の真言僧で後醍醐天皇の腹心だった文観房弘真が仏門に入った地でもある。
本尊真言:おん あろりきゃ そわか
ご詠歌:春は花夏は橘秋は菊 いつも妙(たえ)なる法(のり)の華山(はなやま)
歴史
一乗寺を開山したとされる法道仙人は、天竺(インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物である。『元亨釈書』等の記述によれば、法道はインドに住んでいたが、紫の雲に乗って中国、百済を経て日本へ飛来し、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に八葉蓮華(8枚の花弁を持つハスの花)の形をした霊山を見出したので、そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したという。法道は神通力で鉢を飛ばし、米などの供物を得ていたため、「空鉢仙人」と呼ばれていた。法道の評判は都へも広まり、白雉元年(650年)、時の帝であった孝徳天皇の勅命により法道に建てさせたのが一乗寺であるという。
法道仙人が開基したとの伝承を有する寺院は兵庫県東部地域に集中しており、「インドから紫雲に乗って飛来」云々の真偽は別としても、こうした伝承の元になり、地域の信仰の中心となった人物が実在した可能性は否定できない。一乗寺には7世紀から8世紀にさかのぼる金銅仏6躯が存在し(うち3躯は重要文化財)、付近には奈良時代にさかのぼる廃寺跡、石仏などが存在することからも、この地域一帯が早くから仏教文化の栄えた地であることは確かである。
国宝に指定されている三重塔
境内
山間に位置する境内は長い石段が続き、数段に分けて整地されている。バス通りに面した境内入口には山門はなく、正面に石造笠塔婆(兵庫県指定文化財)が立つ。その左方には宝物館(平素は非公開)と本坊の地蔵院がある。右方は公園風に整備され、太子堂、放生池、やや奥まった場所に見子大明神の社がある。
境内入口から最初の石段を上った狭い平地の左手に常行堂があり、次の石段を上ると左手に国宝の三重塔、右手に法輪堂(経蔵)がある。三重塔の直上、さらに階段を上った位置に懸崖造の本堂が建つ。このため、本堂の縁に立つと三重塔を見下ろすことができる。本堂裏手には鎮守社の護法堂、妙見堂、弁天堂(以上重要文化財)、行者堂があり、本堂からさらに200メートルほど登った所に、法道仙人を祀る奥の院開山堂が建つ。
弁天堂(左)と妙見堂(ともに重要文化財)
護法堂(重要文化財)
文化財
国宝
三重塔
絹本著色聖徳太子及び天台高僧像 10幅 - 平安時代、11世紀後半頃の作。各図とも縦125.6〜131.6 cm、横74.7〜75.8 cm。龍樹、善無畏(以上インド)、慧文、慧思(南嶽大師)、智(天台大師)、灌頂、湛然(以上中国)、最澄、円仁(以上日本)の高僧像に聖徳太子像を加えて10幅としたもの。聖徳太子は天台宗で重視する法華経の信奉者であったことに加え、慧思(南嶽大師)の生まれ変わりとする伝承があることから加えられたものとみられる。ただし、元々10幅構成だったのか、更に多数幅だったのが失われて現状のように成ったのかは判然としない。各像とも人物が画面一杯に大きく表され、着衣などに暖色系を中心とした彩色が鮮やかで、立像・坐像、正面向き・斜め向き、横向きなど、変化に富む点が特色である。着衣の文様は彩色のみで表され、持物などに金銀を裏箔で使い截金を一切用いないのは古様である。部分的に補絹・補筆・補彩がされているものの、平安時代に作られたことを考えれば普通で、むしろよく当初の状態を保っており、しかも10幅がまとまって残っているのは極めて貴重である。慧文像と灌頂像の画中短冊形にそれぞれ「法華寺 第三」「法華寺 第六」と記されていることから、平安時代後期には法華寺すなわち現在の一乗寺に制作当初から伝来した可能性が高い。善無畏像と慧文像は東京国立博物館、灌頂像は大阪市立美術館、他の7幅は奈良国立博物館に、それぞれ寄託されている。
最澄像(聖徳太子及び天台高僧像10幅のうち)平安時代(11世紀)
重要文化財
金堂(大悲閣、本堂)
護法堂
妙見堂
弁天堂
石造五輪塔
絹本著色阿弥陀如来像
絹本著色五明王像
銅造観音菩薩立像 2躯 - 秘仏本尊像とその前立ち像。
銅造観音菩薩立像 1躯 - 像高48.0 cm。7世紀にさかのぼる古像。頭部を大きく、手足を小さく造るプロポーションに特色がある。
木造法道仙人立像
木造僧形坐像
一乗寺本堂「大悲閣」
所在と交通
〒675-2222 兵庫県加西市坂本町821-17
姫路駅(JR西日本)または山陽姫路駅(山陽電車)から神姫バス「71 法華山一乗寺・別府経由 社」行きで37分、法華山一乗寺下車。
姫路駅から「71 別府経由 社」行きで30分、法華山口下車徒歩30分。
法華口駅(北条鉄道)から神姫バス「71 法華山一乗寺経由「姫路駅」行きで11分、法華山一乗寺下車。
JR神戸線(山陽本線)宝殿駅から「北条」行きで三口下車徒歩40分。
大阪駅桜橋口から中国ハイウェイバス(西日本ジェイアールバス・神姫バス)「北条バスセンター」行きで70分、アスティアかさい(北条町駅)下車。
アスティアかさい(北条町駅)から神姫バス「高砂」行きで20分、三口下車徒歩40分。
アスティアかさい(北条町駅)からタクシーで約20分。
2022年12月06日
2022年12月05日
厳島神社(いつくしまじんじゃ、公式表記:嚴島神社)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社
厳島神社(いつくしまじんじゃ、公式表記:嚴島神社)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。
古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。
平成8(1996)年12月にユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている。
祭神
祭神は次の3柱。3柱は「宗像三女神」と総称される。
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
市杵島姫命は神仏習合時代には仏教の女神の弁才天と習合し、隣接する大願寺と一体化して大伽藍を構成していた。現在、大願寺は「日本三大弁才天」の1つとされている。
文化財
国宝
建造物
厳島神社(1件6棟)
本社本殿、幣殿、拝殿(1棟)(附 玉垣(不明門を含む)、左右内侍橋)
本社祓殿
摂社客(まろうど)神社本殿、幣殿、拝殿(1棟)(附 玉垣)
摂社客神社祓殿
廻廊東廻廊
廻廊西廻廊
(本社の附)高舞台、平舞台、左右楽房、左右門客神社本殿、棟札4枚
(廻廊の附)棟札19枚
重要文化財
建造物
朝座屋
能舞台(附 橋掛及び能楽屋)
揚水橋
長橋
反橋
大鳥居(附 棟札2枚)
摂社大国神社本殿
摂社天神社本殿(附 宮殿1基、渡廊1棟、棟札1枚)
摂社大元神社本殿(附 宮殿3基、銘札2枚)
宝蔵(附 棟札1枚)
五重塔
多宝塔(附 棟札1枚)
末社荒胡子神社本殿(附 棟札1枚)
末社豊国神社本殿(千畳閣)(附 棟札2枚)
国の登録有形文化財
宝物館
国の特別史跡・特別名勝
厳島
世界遺産の登録
この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
現地情報
所在地
広島県廿日市市宮島町1-1
拝観時間
午前6時30分-午後5時
通常は午後5時に閉門となる。ただし、大鳥居については午後5時以降もライトアップされており、干潮であれば近づくことも可能である。
付属施設
宝物館 - 厳島神社の所有する国宝・重要文化財指定を含む宝物を展示。
交通アクセス
宮島口桟橋から宮島(宮島桟橋)まで
フェリー利用。宮島桟橋から拝観入口までは徒歩約10分。
JR西日本宮島フェリー 宮島航路 (乗船時間約10分)
宮島松大汽船 宮島航路 (乗船時間約10分)
宮島口桟橋までのアクセス
JR西日本山陽本線 宮島口駅 (徒歩5分)
広島電鉄宮島線 広電宮島口駅 (徒歩すぐ)
古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。
平成8(1996)年12月にユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている。
祭神
祭神は次の3柱。3柱は「宗像三女神」と総称される。
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
市杵島姫命は神仏習合時代には仏教の女神の弁才天と習合し、隣接する大願寺と一体化して大伽藍を構成していた。現在、大願寺は「日本三大弁才天」の1つとされている。
文化財
国宝
建造物
厳島神社(1件6棟)
本社本殿、幣殿、拝殿(1棟)(附 玉垣(不明門を含む)、左右内侍橋)
本社祓殿
摂社客(まろうど)神社本殿、幣殿、拝殿(1棟)(附 玉垣)
摂社客神社祓殿
廻廊東廻廊
廻廊西廻廊
(本社の附)高舞台、平舞台、左右楽房、左右門客神社本殿、棟札4枚
(廻廊の附)棟札19枚
重要文化財
建造物
朝座屋
能舞台(附 橋掛及び能楽屋)
揚水橋
長橋
反橋
大鳥居(附 棟札2枚)
摂社大国神社本殿
摂社天神社本殿(附 宮殿1基、渡廊1棟、棟札1枚)
摂社大元神社本殿(附 宮殿3基、銘札2枚)
宝蔵(附 棟札1枚)
五重塔
多宝塔(附 棟札1枚)
末社荒胡子神社本殿(附 棟札1枚)
末社豊国神社本殿(千畳閣)(附 棟札2枚)
国の登録有形文化財
宝物館
国の特別史跡・特別名勝
厳島
世界遺産の登録
この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
現地情報
所在地
広島県廿日市市宮島町1-1
拝観時間
午前6時30分-午後5時
通常は午後5時に閉門となる。ただし、大鳥居については午後5時以降もライトアップされており、干潮であれば近づくことも可能である。
付属施設
宝物館 - 厳島神社の所有する国宝・重要文化財指定を含む宝物を展示。
交通アクセス
宮島口桟橋から宮島(宮島桟橋)まで
フェリー利用。宮島桟橋から拝観入口までは徒歩約10分。
JR西日本宮島フェリー 宮島航路 (乗船時間約10分)
宮島松大汽船 宮島航路 (乗船時間約10分)
宮島口桟橋までのアクセス
JR西日本山陽本線 宮島口駅 (徒歩5分)
広島電鉄宮島線 広電宮島口駅 (徒歩すぐ)
2022年12月04日
観世音寺(かんぜおんじ)は、福岡県太宰府市観世音寺五丁目にある天台宗の寺院
観世音寺(かんぜおんじ)は、福岡県太宰府市観世音寺五丁目にある天台宗の寺院。山号は清水山。本尊は聖観音(しょうかんのん)。開基は天智天皇である。九州西国三十三箇所第三十三番札所。
九州を代表する古寺で、造営開始は7世紀後半にさかのぼる。奈良の東大寺・栃木の下野薬師寺とともに「天下三戒壇」の1つに数えられる。平安時代以降は徐々に衰退したが、仏像をはじめとする文化財を豊富に有する。
歴史
九州随一の仏像彫刻の宝庫である観世音寺の縁起は伝わっておらず、関連文書として最も古いものは延喜5年(905年)成立の「観世音寺資財帳」(東京藝術大学所蔵、国宝)である。
『続日本紀』の記述によると、観世音寺は、天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願したという。斉明天皇は661年に没していることから、それからほどなく造営が始められたと推定される。『二中歴』には観世音寺創建は白鳳年間(661年-683年)のことであるとの記事が見える。『続日本紀』の和銅2年(709年)の記事によると、この時点で造営はまだ完了しておらず、完了したのは発願から約80年も経った天平18年(746年)のこととされる。
観世音寺境内から出土した瓦のうち、創建時の瓦とされるものは、老司 I式と称され、飛鳥の川原寺や藤原京の瓦の系統を引く、複弁八弁蓮華文の軒丸瓦と偏行唐草文の軒平瓦の組み合わせからなるものである。この老司 I式瓦は現在の福岡市南区老司にあった瓦窯で焼造されたもので、7世紀にさかのぼる。また観世音寺に現存する梵鐘は、正確な鋳造年次は不明ながら、「戊戌年」(698年)の銘がある京都・妙心寺の梵鐘と同一の木型によって鋳造された兄弟鐘とみなされる。これらのことから、7世紀末ころまでにはある程度の寺観が整っていたものと推測される。
伽藍
かつて存在した門、回廊などは失われている。県道から並木道の参道を北へ進み、南門跡を過ぎると、やや小高くなった広場があり、左方に金堂、正面に講堂が建つ。この他、広場の東方に塔跡と鐘楼、その奥に宝蔵、講堂裏手に僧坊跡がある。また、寺の西に隣接して戒壇院が建つ。「天下三戒壇」の一とされた戒壇院の後身であるが、現在の戒壇院は観世音寺とは別法人であり、宗派も臨済宗である。
発掘調査の結果によると、創建当初の伽藍は東西93メートル、南北78メートルの回廊で囲まれた敷地の東に五重塔、西に金堂が建つもので、回廊の南面中央に中門、北面中央に講堂が建っていた。これら中心伽藍の南には南大門、北には東西に長い僧坊が建つほか、多くの付属建物があり、境内地は方三町に及んでいた。金堂は南でなく東を正面とし、五重塔と向かいあう形で建てられていた。金堂を東向きに建てる点は、飛鳥の川原寺とも共通している。川原寺は観世音寺と同じく斉明天皇ゆかりの寺であり、前述の出土瓦の形式等からも両寺の結びつきが推定される。五重塔は焼け残った心礎のみが残っており、塔は一辺が6mと推定されている。
仏像
観世音寺の金堂と講堂には、かつては多くの仏像が安置されていたが、1959年、境内に鉄筋コンクリート造の宝蔵が完成してからは、大部分の仏像がそちらへ移された。当寺所有の仏像で国の重要文化財に指定されているものは15件(18躯)を数えるが、このうち、聖観音立像は講堂に安置、阿弥陀如来立像は九州国立博物館に寄託されており、残りの13件(16躯)は宝蔵に移されている。これらの仏像はいずれも平安時代または鎌倉時代の作品であり、創建期(奈良時代)にさかのぼる仏像で完存するものはない。奈良時代の仏像関連遺品としては、かつて講堂に安置されていた塑造不空羂索観音立像(ふくうけんさくかんのんりゅうぞう、鎌倉時代に倒壊)の心木と面相部の断片、境内から出土した塑像の断片などが残るのみである。観世音寺では康平7年(1064年)と康治2年(1143年)に大火があり、現存する仏像の大部分はそれ以後の平安時代末期から鎌倉時代にかけての作である。一部に10世紀にさかのぼるとみられる像もあるが(兜跋毘沙門天立像、阿弥陀如来立像)これらの像の江戸時代以前の伝来は明らかではない。
木造聖観音坐像
文化財
国宝
梵鐘(工芸品)
奈良時代。京都・妙心寺鐘、奈良・當麻寺鐘等とならぶ日本最古の梵鐘の一つと考えられている。本鐘の正確な鋳造年次は不明であるが、戊戌年(西暦698年)の銘を有する妙心寺鐘と同じ木型を用いて鋳型を造った兄弟鐘と推定されている。妙心寺鐘と観世音寺鐘とは、龍頭(最上部のフック部分)や、上帯・下帯(じょうたい・かたい)の唐草文のデザインが異なるが、鐘身全体の寸法・形状などは細部まで一致している。観世音寺鐘には銘文はないが、笠形の上面に「天満」、口縁部の下面に「上三毛」などの文字が陰刻されている。鐘は現在も鐘楼に懸けられている。明治37年2月18日、当時の古社寺保存法に基づき旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定、昭和28年11月14日、文化財保護法に基づき国宝に指定。鐘の音は日本の音風景百選にも選ばれている。また菅原道真が大宰府にて書いた詩で「都府の楼には纔に瓦の色を看る 観音寺にはただ鐘の声をのみ聴く」と詠じられている。
国の史跡
観世音寺境内及び子院跡(附 老司瓦窯跡) - 昭和45年9月21日指定。
現地情報
所在地
福岡県太宰府市観世音寺五丁目6番1号
交通アクセス
鉄道
西日本鉄道(西鉄)太宰府線 西鉄五条駅 から徒歩約10分(800m)
西日本鉄道(西鉄)太宰府線 太宰府駅から徒歩約16分 (1300m)
西日本鉄道(西鉄)天神大牟田線 都府楼前駅 から徒歩約15分(1500m)
バス
都府楼前駅、太宰府駅、西鉄五条駅からまほろば号北谷回りに乗車し「観世音寺前」バス停下車徒歩すぐ
博多駅から西鉄バス(400系統)で「筑陽学園前」バス停下車、徒歩8分(700m)
自家用車
九州自動車道太宰府インターチェンジから3.8q
九州を代表する古寺で、造営開始は7世紀後半にさかのぼる。奈良の東大寺・栃木の下野薬師寺とともに「天下三戒壇」の1つに数えられる。平安時代以降は徐々に衰退したが、仏像をはじめとする文化財を豊富に有する。
歴史
九州随一の仏像彫刻の宝庫である観世音寺の縁起は伝わっておらず、関連文書として最も古いものは延喜5年(905年)成立の「観世音寺資財帳」(東京藝術大学所蔵、国宝)である。
『続日本紀』の記述によると、観世音寺は、天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願したという。斉明天皇は661年に没していることから、それからほどなく造営が始められたと推定される。『二中歴』には観世音寺創建は白鳳年間(661年-683年)のことであるとの記事が見える。『続日本紀』の和銅2年(709年)の記事によると、この時点で造営はまだ完了しておらず、完了したのは発願から約80年も経った天平18年(746年)のこととされる。
観世音寺境内から出土した瓦のうち、創建時の瓦とされるものは、老司 I式と称され、飛鳥の川原寺や藤原京の瓦の系統を引く、複弁八弁蓮華文の軒丸瓦と偏行唐草文の軒平瓦の組み合わせからなるものである。この老司 I式瓦は現在の福岡市南区老司にあった瓦窯で焼造されたもので、7世紀にさかのぼる。また観世音寺に現存する梵鐘は、正確な鋳造年次は不明ながら、「戊戌年」(698年)の銘がある京都・妙心寺の梵鐘と同一の木型によって鋳造された兄弟鐘とみなされる。これらのことから、7世紀末ころまでにはある程度の寺観が整っていたものと推測される。
伽藍
かつて存在した門、回廊などは失われている。県道から並木道の参道を北へ進み、南門跡を過ぎると、やや小高くなった広場があり、左方に金堂、正面に講堂が建つ。この他、広場の東方に塔跡と鐘楼、その奥に宝蔵、講堂裏手に僧坊跡がある。また、寺の西に隣接して戒壇院が建つ。「天下三戒壇」の一とされた戒壇院の後身であるが、現在の戒壇院は観世音寺とは別法人であり、宗派も臨済宗である。
発掘調査の結果によると、創建当初の伽藍は東西93メートル、南北78メートルの回廊で囲まれた敷地の東に五重塔、西に金堂が建つもので、回廊の南面中央に中門、北面中央に講堂が建っていた。これら中心伽藍の南には南大門、北には東西に長い僧坊が建つほか、多くの付属建物があり、境内地は方三町に及んでいた。金堂は南でなく東を正面とし、五重塔と向かいあう形で建てられていた。金堂を東向きに建てる点は、飛鳥の川原寺とも共通している。川原寺は観世音寺と同じく斉明天皇ゆかりの寺であり、前述の出土瓦の形式等からも両寺の結びつきが推定される。五重塔は焼け残った心礎のみが残っており、塔は一辺が6mと推定されている。
仏像
観世音寺の金堂と講堂には、かつては多くの仏像が安置されていたが、1959年、境内に鉄筋コンクリート造の宝蔵が完成してからは、大部分の仏像がそちらへ移された。当寺所有の仏像で国の重要文化財に指定されているものは15件(18躯)を数えるが、このうち、聖観音立像は講堂に安置、阿弥陀如来立像は九州国立博物館に寄託されており、残りの13件(16躯)は宝蔵に移されている。これらの仏像はいずれも平安時代または鎌倉時代の作品であり、創建期(奈良時代)にさかのぼる仏像で完存するものはない。奈良時代の仏像関連遺品としては、かつて講堂に安置されていた塑造不空羂索観音立像(ふくうけんさくかんのんりゅうぞう、鎌倉時代に倒壊)の心木と面相部の断片、境内から出土した塑像の断片などが残るのみである。観世音寺では康平7年(1064年)と康治2年(1143年)に大火があり、現存する仏像の大部分はそれ以後の平安時代末期から鎌倉時代にかけての作である。一部に10世紀にさかのぼるとみられる像もあるが(兜跋毘沙門天立像、阿弥陀如来立像)これらの像の江戸時代以前の伝来は明らかではない。
木造聖観音坐像
文化財
国宝
梵鐘(工芸品)
奈良時代。京都・妙心寺鐘、奈良・當麻寺鐘等とならぶ日本最古の梵鐘の一つと考えられている。本鐘の正確な鋳造年次は不明であるが、戊戌年(西暦698年)の銘を有する妙心寺鐘と同じ木型を用いて鋳型を造った兄弟鐘と推定されている。妙心寺鐘と観世音寺鐘とは、龍頭(最上部のフック部分)や、上帯・下帯(じょうたい・かたい)の唐草文のデザインが異なるが、鐘身全体の寸法・形状などは細部まで一致している。観世音寺鐘には銘文はないが、笠形の上面に「天満」、口縁部の下面に「上三毛」などの文字が陰刻されている。鐘は現在も鐘楼に懸けられている。明治37年2月18日、当時の古社寺保存法に基づき旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定、昭和28年11月14日、文化財保護法に基づき国宝に指定。鐘の音は日本の音風景百選にも選ばれている。また菅原道真が大宰府にて書いた詩で「都府の楼には纔に瓦の色を看る 観音寺にはただ鐘の声をのみ聴く」と詠じられている。
国の史跡
観世音寺境内及び子院跡(附 老司瓦窯跡) - 昭和45年9月21日指定。
現地情報
所在地
福岡県太宰府市観世音寺五丁目6番1号
交通アクセス
鉄道
西日本鉄道(西鉄)太宰府線 西鉄五条駅 から徒歩約10分(800m)
西日本鉄道(西鉄)太宰府線 太宰府駅から徒歩約16分 (1300m)
西日本鉄道(西鉄)天神大牟田線 都府楼前駅 から徒歩約15分(1500m)
バス
都府楼前駅、太宰府駅、西鉄五条駅からまほろば号北谷回りに乗車し「観世音寺前」バス停下車徒歩すぐ
博多駅から西鉄バス(400系統)で「筑陽学園前」バス停下車、徒歩8分(700m)
自家用車
九州自動車道太宰府インターチェンジから3.8q
2022年12月03日
福島県内唯一の国宝建造物・白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)
白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)は、福島県いわき市内郷白水町広畑にある平安時代末期建立の仏堂。同地所在の真言宗智山派の寺院・願成寺(がんじょうじ)が所有する。
福島県内唯一の国宝建造物である(2019年現在)。国宝指定名称は「阿弥陀堂(白水阿弥陀堂)」。浄土式庭園を含む境内地は白水阿弥陀堂境域(しらみずあみだどうきょういき)として国の史跡に指定されている。
概要
白水阿弥陀堂は、平安時代末期の1160年(永暦元年)に、岩城則道(岩城氏の祖)の妻・徳姫(藤原清衡の娘)によって建立された。徳姫は、夫・則道の菩提を弔うために寺を建てて「願成寺」と名付け、その一角に阿弥陀堂を建立した。阿弥陀堂はその後、後鳥羽上皇により勅願寺とされた。江戸時代には、徳川将軍家より寺領10石を与えられるなど、歴代の為政者に保護され、現在に至っている。
阿弥陀堂は明治35年(1902年)7月、当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定され、昭和27年(1952年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。堂は近くに所在する願成寺の所有である。ただし、池を含む浄土庭園の大部分はいわき市の所有・管理になる。
阿弥陀堂は方三間(正面・側面とも柱が4本立ち、柱間が3間となる)の単層宝形造で屋根はとち葺。堂内は内陣の天井や長押、来迎壁(本尊背後の壁)などが絵画で荘厳されていたが、現在は一部に痕跡を残すのみである。内陣の須弥壇上には阿弥陀如来像を中心に、両脇侍の観音菩薩像と勢至菩薩像、ならびに二天像(持国天像、多聞天像)の5体の仏像が安置されている。東北地方に現存する平安時代の建築は、岩手県平泉町の中尊寺金色堂、宮城県角田市の高蔵寺阿弥陀堂、当堂の3棟のみである。
阿弥陀堂は東・西・南の三方を池に囲まれ、正面に当たる南から中の島を経由して堂にいたる参拝道が設けられている。さらに北・東・西は山で囲まれており、阿弥陀堂を中心としたこれらの空間は平安時代末期に盛んだった浄土式庭園の様を成している。これらの構造は、徳姫が奥州藤原氏の娘であることも手伝って、毛越寺や無量光院といった平泉の寺院の構造に影響を受けている。「白水」という地名は、平泉の「泉」という文字を2つに分けたもので、岩城氏の本拠地であった平という地名の由来も平泉の「平」を取ったものだという説がある。
2011年3月11日に発生した東日本大震災による損傷を受け、阿弥陀堂の拝観が中止されたが、2012年7月に修復が終わり再開された。また、同時に損傷した所蔵の阿弥陀如来坐像と持国天像が京都に送られ修復作業が行われた。
文化財
国宝
阿弥陀堂
桁行と梁間はともに3間、一重の宝形造。屋根はとち葺である。1952年(昭和27年)3月29日、国宝(建造物)に指定された。
重要文化財(国指定)
木造阿弥陀如来及両脇侍像 3躯
木造持国天立像(寺伝広目天像)・木造多聞天立像 2躯
史跡(国指定)
白水阿弥陀堂境域
発掘調査によって、国宝阿弥陀堂が大きな池の中に設けられた中島に建てられ、浄土庭園の典型的な構成を示していることが判明した。1966年(昭和41年)9月12日、周辺山林や農地、民家敷地を含めた243,669平方メートルにわたる広大なエリアが国の史跡に指定された。
所在地・アクセス
所在地
白水阿弥陀堂 福島県いわき市内郷白水町広畑221
本坊願成寺 福島県いわき市内郷白水町広畑219
アクセス
鉄道
常磐線内郷駅より車で5分。
路線バス
いわき駅・内郷駅入口より新常磐交通「川平」行きバスで「あみだ堂」バス停下車。
道路
常磐自動車道いわき中央ICより国道49号旧道を経て、国道6号市街地線を水戸側に進む。
※毎月第4水曜日(12月は第2水・木曜日)は休みとなり、橋を渡って境内に入ることができない。
福島県内唯一の国宝建造物である(2019年現在)。国宝指定名称は「阿弥陀堂(白水阿弥陀堂)」。浄土式庭園を含む境内地は白水阿弥陀堂境域(しらみずあみだどうきょういき)として国の史跡に指定されている。
概要
白水阿弥陀堂は、平安時代末期の1160年(永暦元年)に、岩城則道(岩城氏の祖)の妻・徳姫(藤原清衡の娘)によって建立された。徳姫は、夫・則道の菩提を弔うために寺を建てて「願成寺」と名付け、その一角に阿弥陀堂を建立した。阿弥陀堂はその後、後鳥羽上皇により勅願寺とされた。江戸時代には、徳川将軍家より寺領10石を与えられるなど、歴代の為政者に保護され、現在に至っている。
阿弥陀堂は明治35年(1902年)7月、当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定され、昭和27年(1952年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。堂は近くに所在する願成寺の所有である。ただし、池を含む浄土庭園の大部分はいわき市の所有・管理になる。
阿弥陀堂は方三間(正面・側面とも柱が4本立ち、柱間が3間となる)の単層宝形造で屋根はとち葺。堂内は内陣の天井や長押、来迎壁(本尊背後の壁)などが絵画で荘厳されていたが、現在は一部に痕跡を残すのみである。内陣の須弥壇上には阿弥陀如来像を中心に、両脇侍の観音菩薩像と勢至菩薩像、ならびに二天像(持国天像、多聞天像)の5体の仏像が安置されている。東北地方に現存する平安時代の建築は、岩手県平泉町の中尊寺金色堂、宮城県角田市の高蔵寺阿弥陀堂、当堂の3棟のみである。
阿弥陀堂は東・西・南の三方を池に囲まれ、正面に当たる南から中の島を経由して堂にいたる参拝道が設けられている。さらに北・東・西は山で囲まれており、阿弥陀堂を中心としたこれらの空間は平安時代末期に盛んだった浄土式庭園の様を成している。これらの構造は、徳姫が奥州藤原氏の娘であることも手伝って、毛越寺や無量光院といった平泉の寺院の構造に影響を受けている。「白水」という地名は、平泉の「泉」という文字を2つに分けたもので、岩城氏の本拠地であった平という地名の由来も平泉の「平」を取ったものだという説がある。
2011年3月11日に発生した東日本大震災による損傷を受け、阿弥陀堂の拝観が中止されたが、2012年7月に修復が終わり再開された。また、同時に損傷した所蔵の阿弥陀如来坐像と持国天像が京都に送られ修復作業が行われた。
文化財
国宝
阿弥陀堂
桁行と梁間はともに3間、一重の宝形造。屋根はとち葺である。1952年(昭和27年)3月29日、国宝(建造物)に指定された。
重要文化財(国指定)
木造阿弥陀如来及両脇侍像 3躯
木造持国天立像(寺伝広目天像)・木造多聞天立像 2躯
史跡(国指定)
白水阿弥陀堂境域
発掘調査によって、国宝阿弥陀堂が大きな池の中に設けられた中島に建てられ、浄土庭園の典型的な構成を示していることが判明した。1966年(昭和41年)9月12日、周辺山林や農地、民家敷地を含めた243,669平方メートルにわたる広大なエリアが国の史跡に指定された。
所在地・アクセス
所在地
白水阿弥陀堂 福島県いわき市内郷白水町広畑221
本坊願成寺 福島県いわき市内郷白水町広畑219
アクセス
鉄道
常磐線内郷駅より車で5分。
路線バス
いわき駅・内郷駅入口より新常磐交通「川平」行きバスで「あみだ堂」バス停下車。
道路
常磐自動車道いわき中央ICより国道49号旧道を経て、国道6号市街地線を水戸側に進む。
※毎月第4水曜日(12月は第2水・木曜日)は休みとなり、橋を渡って境内に入ることができない。
2022年12月02日
金剛證寺(こんごうしょうじ)は、三重県伊勢市朝熊町岳にある臨済宗南禅寺派の寺院
金剛證寺(こんごうしょうじ)は、三重県伊勢市朝熊町岳にある臨済宗南禅寺派の寺院である。山号は勝峰山、院号は兜率院と称する。本尊は虚空蔵菩薩である。朝熊山(あさまやま)南峰(経ヶ峯)東腹にあり、「朝熊山」と呼ばれる場合がある。
金剛證寺本堂(重要文化財)
沿革
創建は6世紀半ば、欽明天皇が僧・暁台に命じて明星堂を建てたのが初めといわれているが、定かでない。平安時代の825年(天長2年)に空海が真言密教道場として当寺を中興したと伝えられている。なお鳥羽市河内町丸山539の庫蔵寺(真言宗御室派)は、空海が当寺の奥の院として建立したという。金剛證寺はその後衰退したが、14世紀末の1392年(明徳3年)に鎌倉建長寺5世の仏地禅師東岳文c(とうがくぶんいく)が再興に尽力した。これにより東岳文cを開山第一世とし、真言宗から臨済宗に改宗し禅宗寺院となった。
神仏習合時代、伊勢神宮の丑寅(北東)に位置する当寺が「伊勢神宮の鬼門を守る寺」として伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」とされ、伊勢・志摩最大の寺となった。虚空蔵菩薩の眷属、雨宝童子が祀られており、当時は天照大御神の化現と考えられたため、伊勢皇大神宮奥の院とされた。それらから、仏事に用いられる樒(しきみ)ではなく、神事に使われる榊(さかき)が供えられる、全国でも珍しい寺である。
関ヶ原の戦いから敗走したのちに答志島(現・鳥羽市)で自刃した九鬼嘉隆のゆかりの寺であり、嘉隆にまつわる所蔵品がいくつかある。嘉隆の三男有慶は嘉隆の菩提を弔い金剛證寺に出家し、金剛證寺第12世となった。
木造雨宝童子立像(重要文化財)、平安時代の作
文化財
国宝
伊勢国朝熊山経ヶ峯経塚出土品
陶経筒 1口 奉造立如法経亀事、承安三年八月十一日、伊勢大神宮権禰宜荒木田時盛在銘
(以上第一経塚)
銅経筒 2口
銅鏡 残欠共 2面分
青白磁盒子 1合
(以上第二経塚)
銅経筒 1口 平治元年己卯八月十五日在銘
経巻13巻 内1巻法華経巻三 平治元年八月十四日奥書 内1巻般若心経
線刻阿弥陀三尊来迎鏡像 2面
線刻阿弥陀三尊鏡像 1面
線刻阿弥陀如来鏡像 1面
銅提子 1口
土製外筒 1具
(以上第三経塚)
重要文化財
本堂(摩尼殿)
紙本著色九鬼嘉隆像
木造雨宝童子立像
木造地蔵菩薩立像
太刀〈銘不明伝吉包/拵黒漆太刀〉
銅造双鳳鏡
国の史跡
朝熊山経塚群
所在地 三重県伊勢市朝熊町岳548
位置 北緯34度27分26.68秒 東経136度47分7.56秒
山号 勝峰山
宗派 臨済宗南禅寺派
本尊 虚空蔵菩薩
創建年 (伝)6世紀中ば
開基 暁台上人
正式名 勝峰山 兜率院 金剛證寺
札所等 伊勢西国三十三所観音霊場2番
文化財 朝熊山経ヶ峯経塚出土品(国宝)
本堂、九鬼嘉隆像ほか(重要文化財)
国の史跡
金剛證寺本堂(重要文化財)
沿革
創建は6世紀半ば、欽明天皇が僧・暁台に命じて明星堂を建てたのが初めといわれているが、定かでない。平安時代の825年(天長2年)に空海が真言密教道場として当寺を中興したと伝えられている。なお鳥羽市河内町丸山539の庫蔵寺(真言宗御室派)は、空海が当寺の奥の院として建立したという。金剛證寺はその後衰退したが、14世紀末の1392年(明徳3年)に鎌倉建長寺5世の仏地禅師東岳文c(とうがくぶんいく)が再興に尽力した。これにより東岳文cを開山第一世とし、真言宗から臨済宗に改宗し禅宗寺院となった。
神仏習合時代、伊勢神宮の丑寅(北東)に位置する当寺が「伊勢神宮の鬼門を守る寺」として伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」とされ、伊勢・志摩最大の寺となった。虚空蔵菩薩の眷属、雨宝童子が祀られており、当時は天照大御神の化現と考えられたため、伊勢皇大神宮奥の院とされた。それらから、仏事に用いられる樒(しきみ)ではなく、神事に使われる榊(さかき)が供えられる、全国でも珍しい寺である。
関ヶ原の戦いから敗走したのちに答志島(現・鳥羽市)で自刃した九鬼嘉隆のゆかりの寺であり、嘉隆にまつわる所蔵品がいくつかある。嘉隆の三男有慶は嘉隆の菩提を弔い金剛證寺に出家し、金剛證寺第12世となった。
木造雨宝童子立像(重要文化財)、平安時代の作
文化財
国宝
伊勢国朝熊山経ヶ峯経塚出土品
陶経筒 1口 奉造立如法経亀事、承安三年八月十一日、伊勢大神宮権禰宜荒木田時盛在銘
(以上第一経塚)
銅経筒 2口
銅鏡 残欠共 2面分
青白磁盒子 1合
(以上第二経塚)
銅経筒 1口 平治元年己卯八月十五日在銘
経巻13巻 内1巻法華経巻三 平治元年八月十四日奥書 内1巻般若心経
線刻阿弥陀三尊来迎鏡像 2面
線刻阿弥陀三尊鏡像 1面
線刻阿弥陀如来鏡像 1面
銅提子 1口
土製外筒 1具
(以上第三経塚)
重要文化財
本堂(摩尼殿)
紙本著色九鬼嘉隆像
木造雨宝童子立像
木造地蔵菩薩立像
太刀〈銘不明伝吉包/拵黒漆太刀〉
銅造双鳳鏡
国の史跡
朝熊山経塚群
所在地 三重県伊勢市朝熊町岳548
位置 北緯34度27分26.68秒 東経136度47分7.56秒
山号 勝峰山
宗派 臨済宗南禅寺派
本尊 虚空蔵菩薩
創建年 (伝)6世紀中ば
開基 暁台上人
正式名 勝峰山 兜率院 金剛證寺
札所等 伊勢西国三十三所観音霊場2番
文化財 朝熊山経ヶ峯経塚出土品(国宝)
本堂、九鬼嘉隆像ほか(重要文化財)
国の史跡
2022年12月01日
瑞巌寺(ずいがんじ)は、宮城県宮城郡松島町にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院
瑞巌寺(ずいがんじ)は、宮城県宮城郡松島町にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院である。
瑞巌寺 本堂 (宮城県宮城郡松島町)
概要
日本三景の一つ、松島にあり、山号を含めた詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)。平安時代の創建で、宗派と寺号は天台宗延福寺、臨済宗建長寺派円福寺、現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷した。古くは松島寺とも通称された。
江戸時代前期の1689年に俳人松尾芭蕉が参詣したことにちなみ、毎年11月第2日曜日には芭蕉祭が行われる。また、大晦日には火防鎮護祈祷である「火鈴巡行」と一般も撞ける除夜の鐘が有名である。
境内には、「臥龍梅」と呼ばれる紅白二本の梅の木があり、伊達政宗の手植えと伝えられている。また、参道にはシンボルとも言える杉並木があったが、平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災の津波に見舞われ、その後の塩害によって立ち枯れが目立ったことから、約300本が伐採されることになった。
同じ東北地方にある平泉の中尊寺と毛越寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。
歴史
天台宗延福寺
平安時代の延福寺については、南北朝時代か室町時代初期の成立と思われる『天台記』が記すだけで、確かなことはわからない。それによれば、延福寺は天長5年(828年) 淳和天皇の勅願寺として慈覚大師円仁が開山した天台宗の寺であったという。円仁が開いたという話は他に正嘉元年(1257年)に書かれた『私聚百因縁集』に記されている。延福寺に限らず、平安時代まで遡ることが確実視される東北地方の古寺には、円仁の開山と伝えるところが多いが、事実ではないと考えられている。円仁は関東出身ではあるが活動の舞台は中央にあった。慈覚開山とされる寺は、慈覚を名目上の開山に立て実際に開いた僧が二世以降に下がった勧請開山とも言われる。
『天台記』はこの寺が奥州藤原氏の保護を受け、文治2年(1186年)に藤原秀衡が死ぬと、嫡子の頼平が栗原郡を寄進したと記す。が、一郡の寄進は信じがたいし、嫡子は頼平ではなく泰衡、秀衡の没年は文治3年である。
また、文治5年(1189年)に源頼朝が源義経を追討した時、延福寺の僧は頼朝のために義経を呪詛したという。松島から少し離れた(あるいは松島まで含めた)陸奥国府域は、奥州合戦勃発前に奥州藤原氏に離反したと推測されており、この伝承は荒唐無稽と言えないものがある。
参道
文化財
国宝
本堂(元方丈)御成玄関附属
庫裏及び廊下 2棟
重要文化財
御成門 附:太鼓塀2棟
中門 附:太鼓塀2棟
五大堂 附:厨子
本堂障壁画 161面、附:障壁画22面、杉戸絵28面(明細は後出)
木造五大明王像 5躯 五大堂安置
雲版
奥州御島頼賢碑 徳治二年(1307年)一山一寧撰並びに書
庫裏(国宝)
拝観
拝観時間
4-9月 8:00-17:00、3・10月 8:00-16:30、2・11月 8:00-16:00、1・12月 8:00-15:30
拝観料
大人 700円
小人 400円
交通アクセス
鉄道 : JR仙石線・松島海岸駅から徒歩5分、JR東北本線・松島駅から徒歩20分。
自動車 : 三陸自動車道・松島海岸ICより宮城県道144号赤沼松島線(長老坂)を経由して国道45号
宝物館(青龍殿) 障壁画など重要文化財の収蔵庫および展示室
所在地 宮城県宮城郡松島町松島字町内91
瑞巌寺 本堂 (宮城県宮城郡松島町)
概要
日本三景の一つ、松島にあり、山号を含めた詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)。平安時代の創建で、宗派と寺号は天台宗延福寺、臨済宗建長寺派円福寺、現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷した。古くは松島寺とも通称された。
江戸時代前期の1689年に俳人松尾芭蕉が参詣したことにちなみ、毎年11月第2日曜日には芭蕉祭が行われる。また、大晦日には火防鎮護祈祷である「火鈴巡行」と一般も撞ける除夜の鐘が有名である。
境内には、「臥龍梅」と呼ばれる紅白二本の梅の木があり、伊達政宗の手植えと伝えられている。また、参道にはシンボルとも言える杉並木があったが、平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災の津波に見舞われ、その後の塩害によって立ち枯れが目立ったことから、約300本が伐採されることになった。
同じ東北地方にある平泉の中尊寺と毛越寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。
歴史
天台宗延福寺
平安時代の延福寺については、南北朝時代か室町時代初期の成立と思われる『天台記』が記すだけで、確かなことはわからない。それによれば、延福寺は天長5年(828年) 淳和天皇の勅願寺として慈覚大師円仁が開山した天台宗の寺であったという。円仁が開いたという話は他に正嘉元年(1257年)に書かれた『私聚百因縁集』に記されている。延福寺に限らず、平安時代まで遡ることが確実視される東北地方の古寺には、円仁の開山と伝えるところが多いが、事実ではないと考えられている。円仁は関東出身ではあるが活動の舞台は中央にあった。慈覚開山とされる寺は、慈覚を名目上の開山に立て実際に開いた僧が二世以降に下がった勧請開山とも言われる。
『天台記』はこの寺が奥州藤原氏の保護を受け、文治2年(1186年)に藤原秀衡が死ぬと、嫡子の頼平が栗原郡を寄進したと記す。が、一郡の寄進は信じがたいし、嫡子は頼平ではなく泰衡、秀衡の没年は文治3年である。
また、文治5年(1189年)に源頼朝が源義経を追討した時、延福寺の僧は頼朝のために義経を呪詛したという。松島から少し離れた(あるいは松島まで含めた)陸奥国府域は、奥州合戦勃発前に奥州藤原氏に離反したと推測されており、この伝承は荒唐無稽と言えないものがある。
参道
文化財
国宝
本堂(元方丈)御成玄関附属
庫裏及び廊下 2棟
重要文化財
御成門 附:太鼓塀2棟
中門 附:太鼓塀2棟
五大堂 附:厨子
本堂障壁画 161面、附:障壁画22面、杉戸絵28面(明細は後出)
木造五大明王像 5躯 五大堂安置
雲版
奥州御島頼賢碑 徳治二年(1307年)一山一寧撰並びに書
庫裏(国宝)
拝観
拝観時間
4-9月 8:00-17:00、3・10月 8:00-16:30、2・11月 8:00-16:00、1・12月 8:00-15:30
拝観料
大人 700円
小人 400円
交通アクセス
鉄道 : JR仙石線・松島海岸駅から徒歩5分、JR東北本線・松島駅から徒歩20分。
自動車 : 三陸自動車道・松島海岸ICより宮城県道144号赤沼松島線(長老坂)を経由して国道45号
宝物館(青龍殿) 障壁画など重要文化財の収蔵庫および展示室
所在地 宮城県宮城郡松島町松島字町内91
2022年11月30日
旧吉松家住宅(きゅうよしまつけじゅうたく)は、宮崎県串間市にある建築物
旧吉松家住宅(きゅうよしまつけじゅうたく)は、宮崎県串間市にある建築物。主屋など各建築物は1919年(大正8年)に上棟した。屋敷全体の構成がすべて現存している点が評価され、2008年(平成20年)12月2日には重要文化財に指定された。
宮崎県串間市にある旧吉松家住宅の正面玄関
吉松氏
戦国末期に秋月種長が福岡から高鍋藩に移封された際に付き従ったのが吉松氏であるとされる。幕末に日向串間の庄屋であった吉松氏は、吉松卓蔵(1838年-1920年)、吉松忠敬(卓蔵の息子、1865年-1937年)、吉松忠俊(忠敬の息子、1885年-1941年)の3代が材木商などを営んで財を成した。吉松卓蔵は戊辰戦争や西南戦争に従軍し、初代福島村村長を務めた。吉松忠敬は北方村村長や福島村村長、宮崎県会議員、衆議院議員であった。吉松忠俊は福島町町長や宮崎県会議員であった。
吉松家の家紋(輪違い)
歴史
座敷部、居室部、大広間部、離れ部、台所部、奥座敷部からなる吉松家住宅の主屋は、吉松卓蔵が亡くなる直前の1919年(大正8年)に上棟された。内蔵、物置、外風呂及び外蔵も同年の上棟である。
1985年(昭和60年)頃までは、吉松家の邸宅として使用され、その後は空家となっていた。2003年(平成15年)に串間市当局が吉松家から購入し、2004年(平成16年)2月17日には登録有形文化財に登録された。串間市は2007年(平成19年)4月9日に資料館として公開を開始し、2008年(平成20年)12月2日には重要文化財に指定された。
「旧吉松家住宅を中心とした大正ロマンのまちづくり〜レトロ路面電車でまちをつなぐ〜」で、平成30年度手づくり郷土賞受賞。
建築
旧吉松家住宅の石塀と表門は、薩摩東部の志布志に至る志布志街道に面している。敷地面積は950坪である。
木造一部2階建ての主屋は大規模な近代和風建築であり、随所に洗練された意匠が凝らされている。また、主屋に加えて内蔵、物置、外風呂、外蔵など屋敷全体の構成がすべて現存している点も評価されている。
主屋の廊下の窓ガラスは、職人の手仕事による板ガラスである。外壁の白壁(漆喰)とは対照的に、内装には黒壁(砂鉄)が多用されており、シックかつモダンな雰囲気を醸し出している。廊下の梁には長さ10メートルを超える一本材が用いられている。土間には炊事場や農機具が展示されており、水汲み用の井戸もある。基本的には近代和風建築であるが、応接間の窓枠や照明は洋風である。
建物内では工芸品の展示会、書道展、写真展などが開催されることもある。毎年3月には「吉松邸ひなまつり」が開催される。
台所。土間に井戸
洋間
階段
玄関板戸絵
1921(大正10)年から1922(大正11年)にかけて、鹿児島在住の画家・今井玉芳によって描かれた。 旧吉松家の裏手にある愛宕山の竹林がモチーフになっており、三方全面に春の竹林の風景が描かれており、その中で雀の遊ぶ姿が見られる。
旧吉松家住宅玄関の間の板戸絵
板戸絵に描かれた雀
文化財
以下の建造物5棟及び土地が「旧吉松家住宅」の名称で国の重要文化財に指定されている。
主屋(座敷部、居室部、大広間部、離れ部、台所部、奥座敷部より成る)
内蔵
物置
外風呂
外蔵
土地(宅地、山林及び雑種地)2,874.10平方メートル(表門、愛宕門、井戸、石段、石塀及び石垣を含む)
利用案内
開館時間 : 9時 - 17時
休館日 : 毎週火曜日、祝日の翌日、年末年始
入場料 : 無料
アクセス : JR日南線串間駅より徒歩5分
用途 資料館
旧用途 住居
建築主 吉松卓蔵、吉松忠敬、吉松忠俊
構造形式 木造
階数 2階建
竣工 1919年(大正8年)
所在地 〒888-0001
宮崎県串間市大字西方5509番地
座標 北緯31度27分50.5秒 東経131度13分44.0秒
文化財 重要文化財
指定・登録等日 2008年12月2日
宮崎県串間市にある旧吉松家住宅の正面玄関
吉松氏
戦国末期に秋月種長が福岡から高鍋藩に移封された際に付き従ったのが吉松氏であるとされる。幕末に日向串間の庄屋であった吉松氏は、吉松卓蔵(1838年-1920年)、吉松忠敬(卓蔵の息子、1865年-1937年)、吉松忠俊(忠敬の息子、1885年-1941年)の3代が材木商などを営んで財を成した。吉松卓蔵は戊辰戦争や西南戦争に従軍し、初代福島村村長を務めた。吉松忠敬は北方村村長や福島村村長、宮崎県会議員、衆議院議員であった。吉松忠俊は福島町町長や宮崎県会議員であった。
吉松家の家紋(輪違い)
歴史
座敷部、居室部、大広間部、離れ部、台所部、奥座敷部からなる吉松家住宅の主屋は、吉松卓蔵が亡くなる直前の1919年(大正8年)に上棟された。内蔵、物置、外風呂及び外蔵も同年の上棟である。
1985年(昭和60年)頃までは、吉松家の邸宅として使用され、その後は空家となっていた。2003年(平成15年)に串間市当局が吉松家から購入し、2004年(平成16年)2月17日には登録有形文化財に登録された。串間市は2007年(平成19年)4月9日に資料館として公開を開始し、2008年(平成20年)12月2日には重要文化財に指定された。
「旧吉松家住宅を中心とした大正ロマンのまちづくり〜レトロ路面電車でまちをつなぐ〜」で、平成30年度手づくり郷土賞受賞。
建築
旧吉松家住宅の石塀と表門は、薩摩東部の志布志に至る志布志街道に面している。敷地面積は950坪である。
木造一部2階建ての主屋は大規模な近代和風建築であり、随所に洗練された意匠が凝らされている。また、主屋に加えて内蔵、物置、外風呂、外蔵など屋敷全体の構成がすべて現存している点も評価されている。
主屋の廊下の窓ガラスは、職人の手仕事による板ガラスである。外壁の白壁(漆喰)とは対照的に、内装には黒壁(砂鉄)が多用されており、シックかつモダンな雰囲気を醸し出している。廊下の梁には長さ10メートルを超える一本材が用いられている。土間には炊事場や農機具が展示されており、水汲み用の井戸もある。基本的には近代和風建築であるが、応接間の窓枠や照明は洋風である。
建物内では工芸品の展示会、書道展、写真展などが開催されることもある。毎年3月には「吉松邸ひなまつり」が開催される。
台所。土間に井戸
洋間
階段
玄関板戸絵
1921(大正10)年から1922(大正11年)にかけて、鹿児島在住の画家・今井玉芳によって描かれた。 旧吉松家の裏手にある愛宕山の竹林がモチーフになっており、三方全面に春の竹林の風景が描かれており、その中で雀の遊ぶ姿が見られる。
旧吉松家住宅玄関の間の板戸絵
板戸絵に描かれた雀
文化財
以下の建造物5棟及び土地が「旧吉松家住宅」の名称で国の重要文化財に指定されている。
主屋(座敷部、居室部、大広間部、離れ部、台所部、奥座敷部より成る)
内蔵
物置
外風呂
外蔵
土地(宅地、山林及び雑種地)2,874.10平方メートル(表門、愛宕門、井戸、石段、石塀及び石垣を含む)
利用案内
開館時間 : 9時 - 17時
休館日 : 毎週火曜日、祝日の翌日、年末年始
入場料 : 無料
アクセス : JR日南線串間駅より徒歩5分
用途 資料館
旧用途 住居
建築主 吉松卓蔵、吉松忠敬、吉松忠俊
構造形式 木造
階数 2階建
竣工 1919年(大正8年)
所在地 〒888-0001
宮崎県串間市大字西方5509番地
座標 北緯31度27分50.5秒 東経131度13分44.0秒
文化財 重要文化財
指定・登録等日 2008年12月2日
2022年11月29日
久遠寺(くおんじ)は、山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗の総本山(祖山)
久遠寺(くおんじ)は、山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗の総本山(祖山)。山号は身延山。
歴史
文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。
弘安4年(1281年)に十間四面の大坊が整備され、日蓮によって「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられたという[要出典]。日蓮は弘安5年(1282年)9月に湯治療養のため常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため身延山を下ったが、途中、信徒であった武蔵国の池上宗仲邸(現在の東京都大田区本行寺)にて病状が悪化したため逗留し、6人の弟子「六老僧」を定めて、同地において同年10月13日に死去した。「いづくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」との日蓮の遺言に従い、遺骨は身延山に祀られた。当地では足かけ9ヵ年の生活であった。
伽藍
伽藍は前述のとおり明治8年の大火で焼失し、現在立ち並ぶ堂宇は再建されたものが多い。
総門 - 久遠寺の最初の入り口(開会関)ここから聖域に入る。
三門 - 間口5間、奥行2間、高さ7丈。日本三大門の1つに数えられることもある。二王門ともいわれ金剛力士を祀り、上層には十六羅漢を祀る。三門を入り右側には本多日生上人像、その横に宮沢賢治の句碑がある。左側には永田紀美(大映社長永田雅一の母)の銅像があり、その後ろに聖徳太子を祀る太子堂がある。三門より菩提梯までの間に日朝上人お手植えの杉並木がある。仁王像(身延町指定文化財)は伝運慶若しくは定朝作で鎌倉期の名作。
菩提梯 - 全287段の石段。菩提=覚り、梯=かけはし。横の銅像は当時の地主南部実長(通称波木井公)。横の坂が男坂。その手前の坂が女坂。
本堂 - 1985年(昭和60年)落慶。本尊は日蓮聖人真筆大曼荼羅本尊を木造形式にしたいわゆる立体曼荼羅で、釈迦如来像・多宝如来像・四菩薩像・不動明王像・愛染明王像・四天王像・普賢菩薩像・文殊師利菩薩像・日蓮大聖人坐像などからなっている。作者は日蓮大聖人坐像を除き慶派の流れをくむ江里宗平・江里康慧親子である。(作者のwebサイト)冬季6時、夏季5時30分より朝の勤行が執り行われる。天井画の墨龍は加山又造の作。
宝物館 - 本堂地下に久遠寺に残る数々の書物、掛け軸、法要道具等を展示している。木曜休館日。
五重塔 - 現在の五重塔は3代目で2008年竣工、大成建設施工。2009年に落慶法要が行われた。初代の塔は元和5年(1619年)加賀前田利家の側室寿福院の建立による。寛文3年(1666年)移築、文政12年(1829年)焼失。2代目の塔は万延元年(1860年)起工、慶応元年(1865年)落慶、明治8年(1875年)焼失。
棲神閣祖師堂 - 日蓮聖人像を安置。申し込みにより開帳が行われる。明治14年建立、一部用材はかつての鼠山感応寺のもの。特には昭和天皇より下賜された「立正」の勅額あり。
仏殿 - 仏殿では朝、昼12時、夕方3時からの勤行と特別法要を営む建物。
釈迦殿・納牌堂 - 仏殿手前6階建の建物。本堂建立により釈迦堂を移した釈迦殿は6階にある。納牌堂は1階から5階までとなっており、全国の信徒の先祖の遺骨を安置してある建物。
御真骨堂 - 日蓮の「御真骨」を安置。右側に七面大明神、左側に三十番神を祀っている。深草元政上人は「何故に砕きし骨の名残とぞ思えば袖に玉ぞ散りける」と詠っている。
報恩閣 - 2002年(平成14年)立教開宗750年を記念し、信徒の受付業務、接待所として建立。2階は会議室。
開基堂 - 日蓮を身延に招いた波木井実長を祀っている。身延町指定文化財。
水鳴楼 - 歴代法主の住居。特に前庭が素晴らしいとされる。滝の上には永守稲荷を祀る。
枝垂桜 - 有名な久遠寺の枝垂れ桜は毎年3月下旬〜4月上旬にかけ境内に樹齢400年ともいわれる枝垂桜と久遠寺周辺数百本の桜が咲き乱れる。見物客、カメラマンが相当数来て、門前町の道路も大変渋滞する。
祖廟 - 日蓮聖人の墓所と日蓮聖人が住んだ庵の跡がある。向かって右側の墓は久遠寺歴代廟。左側は六老僧日興上人、富木常忍師母、阿仏坊日得上人、法寂院日円上人(南部公)、お万の方、徳川光圀母久昌院、高松城主松平頼重側室寿光院、会津城主保科正之母浄光院、刈谷城主三浦安次郎母寿応院、加賀前田利家側室寿福院。
奥之院思親閣 - 久遠寺裏山身延山山頂にあるお堂。日蓮は望郷の念おさえがたく、折にふれては身延山の頂上へ登り故郷房州(千葉県)安房の両親・師道善御房を思い回向した場所で古来は東孝閣とも呼ばれ現在は親を思うお堂思親閣と呼ばれている。また日蓮聖人自らお手植えと呼ばれている四本の杉も今でも育っている場所でもある。日蓮滅後、加賀前田利家側室寿福院の外護により堂宇が建立される。育恩の祖師と呼ばれる日蓮聖人像、六老僧像、参十番神、常護稲荷大菩薩、草分稲荷大菩薩、子安八幡大菩薩を祀っている。境内には京都深草元政上人が自らの髪の毛を埋めた元政塚がある。登山道には太田道灌墓所、各戦国武将墓所、鬼子母神堂、丈六堂、三光天子を祀る三光堂、日朗上人お手掘の井戸、養珠院お万の方寄進東照宮等がある。裏参道を下ると追分帝釈天を祀る感井坊、妙法両大善神を祀る十万部寺、七面山麓赤沢集落、身延山方面では妙石坊方面へ下ることが出来る。現在はロープウエイにて片道7分で標高1153mの山頂に着くため半分登山、半分ロープウエイという参拝者、登山者が増えてきている。晴れていると富士山、西伊豆、南アルプス、北岳、七面山、甲府盆地、八ヶ岳等が望める。元旦の御来光、春秋のダイヤモンド富士が鮮やかに望める場所でもある。平成23年11月思親閣境内に東日本大震災犠牲者の慰霊供養塔が建立された。
文化財
国宝
絹本著色夏景山水図 昭和30年6月22日国宝指定
唐物を積極的に輸入した室町幕府の三代将軍足利義満の収集した東山御物のひとつである山水図。京都の金地院に所蔵されている秋景山水図、冬景山水図とともに国宝指定。東山御物は幕府の財政窮乏に伴い散逸したものが多いが、当品も経緯は不詳であるが、寛文13年(1673)に遠江国浜松藩主の太田資宗から寄進されている。現在は東京上野の東京国立博物館に寄託されている。
縦118.5cm、横52.8cm。制作年代は中国、12世紀の北宋末代、あるいは対角線構図であることから13世紀の南宋代とも考えられている。画面中央に雄大な松の木が描かれ、下辺の左隅には山間の小道に杖を持つ高士が描かれている。高士の衣冠が風にたなびいていることから、夕立を描いているものとも考えられている。金地院本の二図と寸法や絹質が共通し、上下にはそれぞれ「仲明珍玩」「盧氏家蔵」の鑑蔵印があり、将軍義満の「天山」重廊朱文方印が見られる。また、画風にも共通点が認められることから、失われた春景山水図とともに四季の風景を描く一連の山水画四幅のうちのひとつと考えられている。
作者を示す落款や印章がなく、『御物御画目録』には北宋皇帝徽宗の作とされているが、久遠寺本には伝記不詳の画家「胡直夫」の作とする伝承がある。
重要文化財
絹本著色釈迦八相図 - 平成3年6月21日指定
鎌倉時代に盛んに制作された釈迦八相図のひとつ。根津美術館所蔵の1幅と一連の仏伝図であると考えられており、久遠寺本は3幅が現存している。
宋版礼記正義 2冊 - 昭和15年5月3日指定
北宋の頃に成立した五経のひとつである「礼記」の注釈書である『礼記正義』の写本。上下二巻(上巻は原本の63〜66巻、下巻は67〜70巻を収録)。で、日本国内では国宝の足利文庫本(国宝)が知られているが、身延文庫本は昭和3年に徳富蘇峰(猪一郎)により「本朝文粋」などとともに発見された。刊記欄外部分には金沢文庫の黒印があり、金沢文庫旧蔵本であったと考えられている。
本朝文粋(巻第一欠)13巻 - 昭和31年6月28日指定
平安時代の漢詩文集である『本朝文粋』の写本で、全14巻のうち巻第一が欠巻。
巻第十三に建治二年(1276年)の書写奥書があり、その他の巻もこの前後に書写されたものと推定される。各巻の本奥書によれば、身延本は鎌倉時代の建治年間に金沢文庫所蔵であった「文永写本」を基に書写されたという。これは北条時宗所持本で清原教隆の加点がある「相州御本」の写本で、身延本は第三写本にあたる。発起者は鎌倉時代に甲斐国守護であったと考えられている二階堂氏と推定されている。全巻に墨訓や朱点があり、清原隆教の加点した相州御本の原型を伝える写本として注目されている。
登録有形文化財
以下の建造物19件は、2018年5月10日に国の登録有形文化財に登録された。
祖師堂及び御供所(明治14年(1881年)建、1991年・1994年改修)
御真骨堂拝殿(明治14年(1881年)建、2001年改修)
仏殿納牌堂(1931年建、2013年改修)
大客殿(明治19年(1886年)建、明治後期・1971年改修)
法喜堂(明治16年(1883年)建、1971年・2011年改修)
旧書院(明治9年(1876年)建、2011年改修)
新書院(1931年)
大鐘楼(明治15年(1882年)建、1939年改修)
時鐘楼(1952年建、2013年改修)
甘露門及び門番所(明治元年(1868年)建、1941年移築)
太子堂(大正元年(1912年))
三門(明治40年(1907年))
本地堂(嘉永5年(1852年)建、2012年改修)
祖廟塔(1942年)
常唱殿(1958年)
三昧堂(文政5年(1823年)建、1941年移築)
水行堂(1952年)
瑞門(1953年)
思親閣仁王門(1935年)
本堂内陣
久遠寺への交通アクセス
公共交通機関
身延線(JR東海)身延駅から山梨交通で15分(終点「身延山」バス停下車後徒歩20分、または乗合タクシー「身延山乗合タクシー久遠寺線」で5分)
身延線身延駅からタクシーで10分
身延駅までは特急ふじかわ利用で甲府駅から約50分、静岡駅から約1時間25分。
バスタ新宿から中央高速バスで約3時間30分(1日6往復)
自家用車
中部横断自動車道身延山ICから車10分
久遠寺に一番近い身延山有料駐車場に停車すると徒歩3分。
身延山有料駐車場が満車の場合は門前町仲町有料駐車場(徒歩20分)または門前町総門有料駐車場(徒歩30分)。
イベント時は梅平にある身延町総合文化会館駐車場(無料)に停車し、当駐車場から「身延山」バス停まで臨時シャトルバスを利用。
七面山へのアクセス
自家用車なら登山口まで乗りつけ麓に駐車、公共交通機関利用時は身延駅(身延線)または飯富(中央高速バス)から早川町乗合バスかタクシーで七面山登山口下車。登山口からは全行程を徒歩で登る。登山道は険しく急坂ではある。冬場の参拝参籠は寒さが厳しく参道が雪道であるため要注意。
宿坊での食事は精進料理のみで、肉魚等の持ち込みも禁止されている。
所在地 山梨県南巨摩郡身延町身延3567
位置 北緯35度22分54.9秒 東経138度25分29.5秒
山号 身延山
院号 妙法華院
宗派 日蓮宗
寺格 総本山
本尊 三宝尊
創建年 1281年(弘安4年)
開山 日蓮
開基 南部実長
正式名 身延山妙法華院久遠寺
札所等 日蓮上人霊跡
日蓮宗57本山
甲斐百八霊場108番
文化財 絹本着色夏景山水図(国宝)
絹本着色釈迦八相図、宋版礼記正義 2冊、本朝文粋 13巻(重文)ほか
歴史
文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。
弘安4年(1281年)に十間四面の大坊が整備され、日蓮によって「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられたという[要出典]。日蓮は弘安5年(1282年)9月に湯治療養のため常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため身延山を下ったが、途中、信徒であった武蔵国の池上宗仲邸(現在の東京都大田区本行寺)にて病状が悪化したため逗留し、6人の弟子「六老僧」を定めて、同地において同年10月13日に死去した。「いづくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」との日蓮の遺言に従い、遺骨は身延山に祀られた。当地では足かけ9ヵ年の生活であった。
伽藍
伽藍は前述のとおり明治8年の大火で焼失し、現在立ち並ぶ堂宇は再建されたものが多い。
総門 - 久遠寺の最初の入り口(開会関)ここから聖域に入る。
三門 - 間口5間、奥行2間、高さ7丈。日本三大門の1つに数えられることもある。二王門ともいわれ金剛力士を祀り、上層には十六羅漢を祀る。三門を入り右側には本多日生上人像、その横に宮沢賢治の句碑がある。左側には永田紀美(大映社長永田雅一の母)の銅像があり、その後ろに聖徳太子を祀る太子堂がある。三門より菩提梯までの間に日朝上人お手植えの杉並木がある。仁王像(身延町指定文化財)は伝運慶若しくは定朝作で鎌倉期の名作。
菩提梯 - 全287段の石段。菩提=覚り、梯=かけはし。横の銅像は当時の地主南部実長(通称波木井公)。横の坂が男坂。その手前の坂が女坂。
本堂 - 1985年(昭和60年)落慶。本尊は日蓮聖人真筆大曼荼羅本尊を木造形式にしたいわゆる立体曼荼羅で、釈迦如来像・多宝如来像・四菩薩像・不動明王像・愛染明王像・四天王像・普賢菩薩像・文殊師利菩薩像・日蓮大聖人坐像などからなっている。作者は日蓮大聖人坐像を除き慶派の流れをくむ江里宗平・江里康慧親子である。(作者のwebサイト)冬季6時、夏季5時30分より朝の勤行が執り行われる。天井画の墨龍は加山又造の作。
宝物館 - 本堂地下に久遠寺に残る数々の書物、掛け軸、法要道具等を展示している。木曜休館日。
五重塔 - 現在の五重塔は3代目で2008年竣工、大成建設施工。2009年に落慶法要が行われた。初代の塔は元和5年(1619年)加賀前田利家の側室寿福院の建立による。寛文3年(1666年)移築、文政12年(1829年)焼失。2代目の塔は万延元年(1860年)起工、慶応元年(1865年)落慶、明治8年(1875年)焼失。
棲神閣祖師堂 - 日蓮聖人像を安置。申し込みにより開帳が行われる。明治14年建立、一部用材はかつての鼠山感応寺のもの。特には昭和天皇より下賜された「立正」の勅額あり。
仏殿 - 仏殿では朝、昼12時、夕方3時からの勤行と特別法要を営む建物。
釈迦殿・納牌堂 - 仏殿手前6階建の建物。本堂建立により釈迦堂を移した釈迦殿は6階にある。納牌堂は1階から5階までとなっており、全国の信徒の先祖の遺骨を安置してある建物。
御真骨堂 - 日蓮の「御真骨」を安置。右側に七面大明神、左側に三十番神を祀っている。深草元政上人は「何故に砕きし骨の名残とぞ思えば袖に玉ぞ散りける」と詠っている。
報恩閣 - 2002年(平成14年)立教開宗750年を記念し、信徒の受付業務、接待所として建立。2階は会議室。
開基堂 - 日蓮を身延に招いた波木井実長を祀っている。身延町指定文化財。
水鳴楼 - 歴代法主の住居。特に前庭が素晴らしいとされる。滝の上には永守稲荷を祀る。
枝垂桜 - 有名な久遠寺の枝垂れ桜は毎年3月下旬〜4月上旬にかけ境内に樹齢400年ともいわれる枝垂桜と久遠寺周辺数百本の桜が咲き乱れる。見物客、カメラマンが相当数来て、門前町の道路も大変渋滞する。
祖廟 - 日蓮聖人の墓所と日蓮聖人が住んだ庵の跡がある。向かって右側の墓は久遠寺歴代廟。左側は六老僧日興上人、富木常忍師母、阿仏坊日得上人、法寂院日円上人(南部公)、お万の方、徳川光圀母久昌院、高松城主松平頼重側室寿光院、会津城主保科正之母浄光院、刈谷城主三浦安次郎母寿応院、加賀前田利家側室寿福院。
奥之院思親閣 - 久遠寺裏山身延山山頂にあるお堂。日蓮は望郷の念おさえがたく、折にふれては身延山の頂上へ登り故郷房州(千葉県)安房の両親・師道善御房を思い回向した場所で古来は東孝閣とも呼ばれ現在は親を思うお堂思親閣と呼ばれている。また日蓮聖人自らお手植えと呼ばれている四本の杉も今でも育っている場所でもある。日蓮滅後、加賀前田利家側室寿福院の外護により堂宇が建立される。育恩の祖師と呼ばれる日蓮聖人像、六老僧像、参十番神、常護稲荷大菩薩、草分稲荷大菩薩、子安八幡大菩薩を祀っている。境内には京都深草元政上人が自らの髪の毛を埋めた元政塚がある。登山道には太田道灌墓所、各戦国武将墓所、鬼子母神堂、丈六堂、三光天子を祀る三光堂、日朗上人お手掘の井戸、養珠院お万の方寄進東照宮等がある。裏参道を下ると追分帝釈天を祀る感井坊、妙法両大善神を祀る十万部寺、七面山麓赤沢集落、身延山方面では妙石坊方面へ下ることが出来る。現在はロープウエイにて片道7分で標高1153mの山頂に着くため半分登山、半分ロープウエイという参拝者、登山者が増えてきている。晴れていると富士山、西伊豆、南アルプス、北岳、七面山、甲府盆地、八ヶ岳等が望める。元旦の御来光、春秋のダイヤモンド富士が鮮やかに望める場所でもある。平成23年11月思親閣境内に東日本大震災犠牲者の慰霊供養塔が建立された。
文化財
国宝
絹本著色夏景山水図 昭和30年6月22日国宝指定
唐物を積極的に輸入した室町幕府の三代将軍足利義満の収集した東山御物のひとつである山水図。京都の金地院に所蔵されている秋景山水図、冬景山水図とともに国宝指定。東山御物は幕府の財政窮乏に伴い散逸したものが多いが、当品も経緯は不詳であるが、寛文13年(1673)に遠江国浜松藩主の太田資宗から寄進されている。現在は東京上野の東京国立博物館に寄託されている。
縦118.5cm、横52.8cm。制作年代は中国、12世紀の北宋末代、あるいは対角線構図であることから13世紀の南宋代とも考えられている。画面中央に雄大な松の木が描かれ、下辺の左隅には山間の小道に杖を持つ高士が描かれている。高士の衣冠が風にたなびいていることから、夕立を描いているものとも考えられている。金地院本の二図と寸法や絹質が共通し、上下にはそれぞれ「仲明珍玩」「盧氏家蔵」の鑑蔵印があり、将軍義満の「天山」重廊朱文方印が見られる。また、画風にも共通点が認められることから、失われた春景山水図とともに四季の風景を描く一連の山水画四幅のうちのひとつと考えられている。
作者を示す落款や印章がなく、『御物御画目録』には北宋皇帝徽宗の作とされているが、久遠寺本には伝記不詳の画家「胡直夫」の作とする伝承がある。
重要文化財
絹本著色釈迦八相図 - 平成3年6月21日指定
鎌倉時代に盛んに制作された釈迦八相図のひとつ。根津美術館所蔵の1幅と一連の仏伝図であると考えられており、久遠寺本は3幅が現存している。
宋版礼記正義 2冊 - 昭和15年5月3日指定
北宋の頃に成立した五経のひとつである「礼記」の注釈書である『礼記正義』の写本。上下二巻(上巻は原本の63〜66巻、下巻は67〜70巻を収録)。で、日本国内では国宝の足利文庫本(国宝)が知られているが、身延文庫本は昭和3年に徳富蘇峰(猪一郎)により「本朝文粋」などとともに発見された。刊記欄外部分には金沢文庫の黒印があり、金沢文庫旧蔵本であったと考えられている。
本朝文粋(巻第一欠)13巻 - 昭和31年6月28日指定
平安時代の漢詩文集である『本朝文粋』の写本で、全14巻のうち巻第一が欠巻。
巻第十三に建治二年(1276年)の書写奥書があり、その他の巻もこの前後に書写されたものと推定される。各巻の本奥書によれば、身延本は鎌倉時代の建治年間に金沢文庫所蔵であった「文永写本」を基に書写されたという。これは北条時宗所持本で清原教隆の加点がある「相州御本」の写本で、身延本は第三写本にあたる。発起者は鎌倉時代に甲斐国守護であったと考えられている二階堂氏と推定されている。全巻に墨訓や朱点があり、清原隆教の加点した相州御本の原型を伝える写本として注目されている。
登録有形文化財
以下の建造物19件は、2018年5月10日に国の登録有形文化財に登録された。
祖師堂及び御供所(明治14年(1881年)建、1991年・1994年改修)
御真骨堂拝殿(明治14年(1881年)建、2001年改修)
仏殿納牌堂(1931年建、2013年改修)
大客殿(明治19年(1886年)建、明治後期・1971年改修)
法喜堂(明治16年(1883年)建、1971年・2011年改修)
旧書院(明治9年(1876年)建、2011年改修)
新書院(1931年)
大鐘楼(明治15年(1882年)建、1939年改修)
時鐘楼(1952年建、2013年改修)
甘露門及び門番所(明治元年(1868年)建、1941年移築)
太子堂(大正元年(1912年))
三門(明治40年(1907年))
本地堂(嘉永5年(1852年)建、2012年改修)
祖廟塔(1942年)
常唱殿(1958年)
三昧堂(文政5年(1823年)建、1941年移築)
水行堂(1952年)
瑞門(1953年)
思親閣仁王門(1935年)
本堂内陣
久遠寺への交通アクセス
公共交通機関
身延線(JR東海)身延駅から山梨交通で15分(終点「身延山」バス停下車後徒歩20分、または乗合タクシー「身延山乗合タクシー久遠寺線」で5分)
身延線身延駅からタクシーで10分
身延駅までは特急ふじかわ利用で甲府駅から約50分、静岡駅から約1時間25分。
バスタ新宿から中央高速バスで約3時間30分(1日6往復)
自家用車
中部横断自動車道身延山ICから車10分
久遠寺に一番近い身延山有料駐車場に停車すると徒歩3分。
身延山有料駐車場が満車の場合は門前町仲町有料駐車場(徒歩20分)または門前町総門有料駐車場(徒歩30分)。
イベント時は梅平にある身延町総合文化会館駐車場(無料)に停車し、当駐車場から「身延山」バス停まで臨時シャトルバスを利用。
七面山へのアクセス
自家用車なら登山口まで乗りつけ麓に駐車、公共交通機関利用時は身延駅(身延線)または飯富(中央高速バス)から早川町乗合バスかタクシーで七面山登山口下車。登山口からは全行程を徒歩で登る。登山道は険しく急坂ではある。冬場の参拝参籠は寒さが厳しく参道が雪道であるため要注意。
宿坊での食事は精進料理のみで、肉魚等の持ち込みも禁止されている。
所在地 山梨県南巨摩郡身延町身延3567
位置 北緯35度22分54.9秒 東経138度25分29.5秒
山号 身延山
院号 妙法華院
宗派 日蓮宗
寺格 総本山
本尊 三宝尊
創建年 1281年(弘安4年)
開山 日蓮
開基 南部実長
正式名 身延山妙法華院久遠寺
札所等 日蓮上人霊跡
日蓮宗57本山
甲斐百八霊場108番
文化財 絹本着色夏景山水図(国宝)
絹本着色釈迦八相図、宋版礼記正義 2冊、本朝文粋 13巻(重文)ほか
2022年11月28日
粉河寺(こかわでら)は、和歌山県紀の川市粉河にある粉河観音宗の総本山の寺院
粉河寺(こかわでら)は、和歌山県紀の川市粉河にある粉河観音宗の総本山の寺院。山号は風猛山(ふうもうざん、かざらぎさん)。本尊は千手千眼観世音菩薩。西国三十三所第3番札所。伝承によれば創建は宝亀元年(770年)、大伴孔子古(おおとものくじこ)によるとされる。
本尊真言:おん ばざら たらま きりく そわか
ご詠歌:ちちははの恵みも深き粉河寺 佛の誓ひたのもしの身や
本尊
粉河寺の本尊千手観音像は絶対の秘仏とされ、公開された記録はない。このため西国三十三所の札所などで見かける粉河寺の本尊の模造像や絵については、それが本物と相違しているか証明できる者はいないとされている。日本の仏教寺院では、本尊が秘仏である場合、「お前立ち」と称する代わりの像を本尊厨子の手前に安置する場合があるが、粉河寺においては「お前立ち」像も秘仏である。本尊像は火災を避けるために本堂下の地中に容器に入れて埋められているとされる。「お前立ち」像は年に一度、12月31日に僧籍にある関係者が掃除のために開扉するのみで、在家の者が拝観する機会はない。なお、内陣背面(後戸)に安置された「裏観音」と称する千手観音立像は拝観可能である。
2008年(平成20年)から2010年(平成22年)にかけて、花山法皇一千年忌を記念して、西国三十三所のすべての札所寺院において秘仏の結縁開扉が行われているが、粉河寺の本尊像はこの際にも開扉されることはなく、2008年(平成20年)10月に特別開扉されたのは、本堂の隣の千手堂の千手観音像である。なお、寺には高さ33センチメートルほどの木造の菩薩像頭部(11世紀頃の作)が所蔵され、これが旧本尊像の頭部であるともいわれている。
本堂後戸(うしろど)安置の千手観音立像は、2016年(平成28年)6月 - 7月に和歌山県立博物館で公開され、2020年(令和2年)7月 - 9月に京都国立博物館で開催される「西国三十三所草創1300年記念 特別展 聖地をたずねて ─ 西国三十三所の信仰と至宝 ─ 」にも出展される。
本堂
境内
JR粉河駅から徒歩10分ほどのところに大門が建つ。大門をくぐると参道は右手に曲がり、参道の右側は川、左側には本坊などの諸堂が並ぶ。参道の先には中門が建ち、そこからさらに一段高く造成された平地に本堂、千手堂などが建つ。本堂前の斜面は巨石を並べた庭園(国の名勝)になっている。
本堂(重要文化財)
西国三十三所の寺院の中で最大級の堂である。中門の先、一段高くなった敷地に建つ。享保5年(1720年)再建。本尊千手観音(秘仏)を安置する二重屋根の正堂(しょうどう)と、礼拝のための一重屋根の礼堂(らいどう)を前後に並べた形式になり、西国札所として多数の参詣者を収容する必要から礼堂部分を広く取っている。外観は高さの違う入母屋屋根を前後に並べて千鳥破風を付し、さらに唐破風造の向拝を正面に付した複雑な構成になっている。礼堂は入母屋造単層、本瓦葺き。柱間は正面9間、側面4間で、前半分の2間分を建具を設けない吹き放しとし、参詣者用の空間としている。正堂は入母屋造重層、本瓦葺き。柱間は正面7間、側面6間で、前方の2間分は礼堂に組み込まれている。様式的には、虹梁形の頭貫や台輪を使用する点、正堂の組物を詰組とする点など、細部に禅宗様の要素がみられる。正堂内部には正面3間、側面3間の内陣を設ける。内陣の正面1間分は須弥壇とし、千手観音の眷属である二十八部衆像と風神雷神像計30体を左右15体ずつ安置する。その奥の正面2間、側面2間は千手観音像の安置場所で、扉と壁で囲まれた閉鎖的なスペースとする。その内部は公開されていないが、土間床とし、中央に六角形の厨子を安置する。ここに安置する千手観音像は「お前立ち」像とされ、真の本尊は本堂下の地中に埋められているという。
大門
文化財
国宝
紙本著色粉河寺縁起絵巻 1巻(絵画) - 1953年(昭和28年)3月31日指定。詳細については「歴史」節で前述。鎌倉時代初期の作と思われる。当時の生活の様子がわかる風俗資料としても貴重なものである。全巻にわたり、料紙の上端と下端に焼損痕があり、絵や詞書の一部が失われている。京都国立博物館に寄託。
重要文化財
粉河寺 4棟(建造物) - 1996年(平成8年)12月10日指定。
本堂 附:指図3枚および文書1紙[12] - 正徳3年(1713年)の火災の後に再建された。
千手堂
中門 附:棟札1枚
大門
国の名勝
粉河寺庭園 - 1970年(昭和45年)4月23日指定。
中門
交通アクセス
和歌山線(JR西日本)粉河駅下車徒歩10分
阪和道の和歌山ICから国道24号を東へ、粉河交差点を左折、1.1kmで大門前
所在地 和歌山県紀の川市粉河2787
本尊真言:おん ばざら たらま きりく そわか
ご詠歌:ちちははの恵みも深き粉河寺 佛の誓ひたのもしの身や
本尊
粉河寺の本尊千手観音像は絶対の秘仏とされ、公開された記録はない。このため西国三十三所の札所などで見かける粉河寺の本尊の模造像や絵については、それが本物と相違しているか証明できる者はいないとされている。日本の仏教寺院では、本尊が秘仏である場合、「お前立ち」と称する代わりの像を本尊厨子の手前に安置する場合があるが、粉河寺においては「お前立ち」像も秘仏である。本尊像は火災を避けるために本堂下の地中に容器に入れて埋められているとされる。「お前立ち」像は年に一度、12月31日に僧籍にある関係者が掃除のために開扉するのみで、在家の者が拝観する機会はない。なお、内陣背面(後戸)に安置された「裏観音」と称する千手観音立像は拝観可能である。
2008年(平成20年)から2010年(平成22年)にかけて、花山法皇一千年忌を記念して、西国三十三所のすべての札所寺院において秘仏の結縁開扉が行われているが、粉河寺の本尊像はこの際にも開扉されることはなく、2008年(平成20年)10月に特別開扉されたのは、本堂の隣の千手堂の千手観音像である。なお、寺には高さ33センチメートルほどの木造の菩薩像頭部(11世紀頃の作)が所蔵され、これが旧本尊像の頭部であるともいわれている。
本堂後戸(うしろど)安置の千手観音立像は、2016年(平成28年)6月 - 7月に和歌山県立博物館で公開され、2020年(令和2年)7月 - 9月に京都国立博物館で開催される「西国三十三所草創1300年記念 特別展 聖地をたずねて ─ 西国三十三所の信仰と至宝 ─ 」にも出展される。
本堂
境内
JR粉河駅から徒歩10分ほどのところに大門が建つ。大門をくぐると参道は右手に曲がり、参道の右側は川、左側には本坊などの諸堂が並ぶ。参道の先には中門が建ち、そこからさらに一段高く造成された平地に本堂、千手堂などが建つ。本堂前の斜面は巨石を並べた庭園(国の名勝)になっている。
本堂(重要文化財)
西国三十三所の寺院の中で最大級の堂である。中門の先、一段高くなった敷地に建つ。享保5年(1720年)再建。本尊千手観音(秘仏)を安置する二重屋根の正堂(しょうどう)と、礼拝のための一重屋根の礼堂(らいどう)を前後に並べた形式になり、西国札所として多数の参詣者を収容する必要から礼堂部分を広く取っている。外観は高さの違う入母屋屋根を前後に並べて千鳥破風を付し、さらに唐破風造の向拝を正面に付した複雑な構成になっている。礼堂は入母屋造単層、本瓦葺き。柱間は正面9間、側面4間で、前半分の2間分を建具を設けない吹き放しとし、参詣者用の空間としている。正堂は入母屋造重層、本瓦葺き。柱間は正面7間、側面6間で、前方の2間分は礼堂に組み込まれている。様式的には、虹梁形の頭貫や台輪を使用する点、正堂の組物を詰組とする点など、細部に禅宗様の要素がみられる。正堂内部には正面3間、側面3間の内陣を設ける。内陣の正面1間分は須弥壇とし、千手観音の眷属である二十八部衆像と風神雷神像計30体を左右15体ずつ安置する。その奥の正面2間、側面2間は千手観音像の安置場所で、扉と壁で囲まれた閉鎖的なスペースとする。その内部は公開されていないが、土間床とし、中央に六角形の厨子を安置する。ここに安置する千手観音像は「お前立ち」像とされ、真の本尊は本堂下の地中に埋められているという。
大門
文化財
国宝
紙本著色粉河寺縁起絵巻 1巻(絵画) - 1953年(昭和28年)3月31日指定。詳細については「歴史」節で前述。鎌倉時代初期の作と思われる。当時の生活の様子がわかる風俗資料としても貴重なものである。全巻にわたり、料紙の上端と下端に焼損痕があり、絵や詞書の一部が失われている。京都国立博物館に寄託。
重要文化財
粉河寺 4棟(建造物) - 1996年(平成8年)12月10日指定。
本堂 附:指図3枚および文書1紙[12] - 正徳3年(1713年)の火災の後に再建された。
千手堂
中門 附:棟札1枚
大門
国の名勝
粉河寺庭園 - 1970年(昭和45年)4月23日指定。
中門
交通アクセス
和歌山線(JR西日本)粉河駅下車徒歩10分
阪和道の和歌山ICから国道24号を東へ、粉河交差点を左折、1.1kmで大門前
所在地 和歌山県紀の川市粉河2787
2022年11月27日
法華経寺(ほけきょうじ)は、千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山の寺院
法華経寺(ほけきょうじ)は、千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山の寺院である。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立。中山法華経寺(なかやまほけきょうじ)とも呼ばれる。山号は正中山。
概要
中山三法類(親師法縁、達師法縁、堺法縁)の縁頭寺であり、日蓮の説法と安息の地である。境内の鬼子母神も広く信仰を集め、江戸三大鬼子母神に含まれる。日蓮の書跡『観心本尊抄』、『立正安国論』は国宝、境内建造物の多くは重要文化財に指定されている。
日蓮はその布教活動の中で幾度と無く迫害を受けたが、その際千葉氏に仕えていた富木常忍や太田乗明は管轄していた八幡荘に日蓮を迎え入れ保護した。特に千葉氏の被官であった富木常忍は、日蓮のために若宮の自邸に法華堂を造営し安息の場を提供するとともに、文吏であったため紙筆を提供してその執筆を助けた。当寺に多くの日蓮の遺文が遺されているのはその縁であると言われている。
当寺を中心に門前町が広がり、正月や節分の際は大勢の参拝客で賑わう。
歴史
弘安5年(1282年)に日蓮が没した後、常忍は出家し自邸の法華堂を法花寺と改め初代住持・常修院日常となり、日蓮の有力な檀越であった太田乗明の子日高は、父の屋敷を本妙寺とし2代目住持となった。そして八幡庄の領主であり旧主である千葉胤貞の帰依を受け俗別当に迎え、胤貞猶子の日祐を3代目住持とした。
だが、肥前国小城郡においては胤貞の弟胤泰が九州千葉氏として存続したものの、下総国では敵対関係にあった貞胤流千葉氏が台頭し、胤貞流の千田氏は衰退して当寺も危機を迎えた。そのようななか、日祐は室町幕府との関係を強めこれを乗り切り、ここを拠点とする中山門流が成立することになった。
日高以来代々の住持は本妙寺と法花寺の両寺の兼務が慣わしとなっていたが、天文14年(1545年)古河公方足利晴氏より「諸法華宗之頂上」という称号が贈られ「法華経寺」という寺名が誕生し、法花寺と本妙寺の両寺を合わせた一つの寺院になった。
1945年(昭和20年)2月25日、アメリカ軍の空襲により、門前に焼夷弾が着弾。周囲の民家が全焼した。
境内
総門(黒門)
仁王門(赤門) - 大正時代に建造
祖師堂(重要文化財)
本院・大客殿
鬼子母神堂
荒行堂
五重塔(重要文化財)
日常上人像
銅造釈迦如来坐像(中山大仏)
刹堂
妙見堂
法華堂(重要文化財)
四足門(重要文化財)
宇賀神堂
清正公堂
太田稲荷社
宝殿門
聖教殿
蔣介石胸像 - 1972年(昭和47年)の日中共同声明に伴う日台断交時に当時の住職が日華友好を願い建立した。
文化財
国宝
観心本尊抄 日蓮筆
立正安国論 日蓮筆
重要文化財
五重塔
祖師堂 以前は三層錣屋根入母屋形式であったが現在は建造時の形状とされる比翼入母屋形式に復元されている(柿葺き)。
法華堂 日蓮宗の建築物中現存最古級で室町時代後期の建築。
四足門
絹本着色十六羅漢像 趙璚(王偏に「矞」)筆 八曲一双(うち4枚後補)
日蓮筆遺文 56巻、4冊、1帖、3幅
左『如来滅後五々百歳始観心本尊抄』(巻頭部分、日蓮撰・筆、法華経寺蔵、国宝)
右『立正安国論』(巻頭部分、日蓮撰・筆、法華経寺蔵、国宝)
交通
京成中山駅を越えると法華経寺まで続く参道に位置する門前町へ繋がる。参道では定期的に歩行者天国も実施している。
公共交通機関
鉄道
京成電鉄:京成本線京成中山駅から徒歩約3分(仁王門まで)
JR東日本:中央・総武緩行線下総中山駅から徒歩約8分(仁王門まで)
自動車
高速道路
首都高速7号小松川線・京葉道路
京葉市川インターチェンジ
原木インターチェンジ
一般道路
国道14号
千葉県道59号市川印西線(木下街道)
駐車場
無料駐車場あり
50台(9:00 - 16:00)
大型車は駐車不可
所在地 千葉県市川市中山二丁目10番1号
概要
中山三法類(親師法縁、達師法縁、堺法縁)の縁頭寺であり、日蓮の説法と安息の地である。境内の鬼子母神も広く信仰を集め、江戸三大鬼子母神に含まれる。日蓮の書跡『観心本尊抄』、『立正安国論』は国宝、境内建造物の多くは重要文化財に指定されている。
日蓮はその布教活動の中で幾度と無く迫害を受けたが、その際千葉氏に仕えていた富木常忍や太田乗明は管轄していた八幡荘に日蓮を迎え入れ保護した。特に千葉氏の被官であった富木常忍は、日蓮のために若宮の自邸に法華堂を造営し安息の場を提供するとともに、文吏であったため紙筆を提供してその執筆を助けた。当寺に多くの日蓮の遺文が遺されているのはその縁であると言われている。
当寺を中心に門前町が広がり、正月や節分の際は大勢の参拝客で賑わう。
歴史
弘安5年(1282年)に日蓮が没した後、常忍は出家し自邸の法華堂を法花寺と改め初代住持・常修院日常となり、日蓮の有力な檀越であった太田乗明の子日高は、父の屋敷を本妙寺とし2代目住持となった。そして八幡庄の領主であり旧主である千葉胤貞の帰依を受け俗別当に迎え、胤貞猶子の日祐を3代目住持とした。
だが、肥前国小城郡においては胤貞の弟胤泰が九州千葉氏として存続したものの、下総国では敵対関係にあった貞胤流千葉氏が台頭し、胤貞流の千田氏は衰退して当寺も危機を迎えた。そのようななか、日祐は室町幕府との関係を強めこれを乗り切り、ここを拠点とする中山門流が成立することになった。
日高以来代々の住持は本妙寺と法花寺の両寺の兼務が慣わしとなっていたが、天文14年(1545年)古河公方足利晴氏より「諸法華宗之頂上」という称号が贈られ「法華経寺」という寺名が誕生し、法花寺と本妙寺の両寺を合わせた一つの寺院になった。
1945年(昭和20年)2月25日、アメリカ軍の空襲により、門前に焼夷弾が着弾。周囲の民家が全焼した。
境内
総門(黒門)
仁王門(赤門) - 大正時代に建造
祖師堂(重要文化財)
本院・大客殿
鬼子母神堂
荒行堂
五重塔(重要文化財)
日常上人像
銅造釈迦如来坐像(中山大仏)
刹堂
妙見堂
法華堂(重要文化財)
四足門(重要文化財)
宇賀神堂
清正公堂
太田稲荷社
宝殿門
聖教殿
蔣介石胸像 - 1972年(昭和47年)の日中共同声明に伴う日台断交時に当時の住職が日華友好を願い建立した。
文化財
国宝
観心本尊抄 日蓮筆
立正安国論 日蓮筆
重要文化財
五重塔
祖師堂 以前は三層錣屋根入母屋形式であったが現在は建造時の形状とされる比翼入母屋形式に復元されている(柿葺き)。
法華堂 日蓮宗の建築物中現存最古級で室町時代後期の建築。
四足門
絹本着色十六羅漢像 趙璚(王偏に「矞」)筆 八曲一双(うち4枚後補)
日蓮筆遺文 56巻、4冊、1帖、3幅
右『立正安国論』(巻頭部分、日蓮撰・筆、法華経寺蔵、国宝)
交通
京成中山駅を越えると法華経寺まで続く参道に位置する門前町へ繋がる。参道では定期的に歩行者天国も実施している。
公共交通機関
鉄道
京成電鉄:京成本線京成中山駅から徒歩約3分(仁王門まで)
JR東日本:中央・総武緩行線下総中山駅から徒歩約8分(仁王門まで)
自動車
高速道路
首都高速7号小松川線・京葉道路
京葉市川インターチェンジ
原木インターチェンジ
一般道路
国道14号
千葉県道59号市川印西線(木下街道)
駐車場
無料駐車場あり
50台(9:00 - 16:00)
大型車は駐車不可
所在地 千葉県市川市中山二丁目10番1号