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2023年01月21日
粟飯原家住宅(あいはらけじゅうたく)は、徳島県名西郡神山町にある歴史的な建造物
粟飯原家住宅(あいはらけじゅうたく)は、徳島県名西郡神山町にある歴史的な建造物。国の重要文化財に指定。

歴史
1351年(慶応2年)に下総国より阿波国に派遣された上山谷の6箇村の大庄屋である粟飯原家の分家である。当時の一般農家が2間取りから3間取りが普通であったのに対し、粟飯原家は6間取りあり、支配階級の民家として貴重なものとされている。
建物は鮎喰川上流左岸の山裾に建っており、屋敷地は広く、前面に石垣が築かれている。建築年代は棟札により1710年(宝永7年)であることがわかる。粟飯原家住宅はこの地方における6間取りの平面をもつ家では最古の民家である。また1976年(昭和51年)5月20日に国の重要文化財に指定された。


交通
JR「徳島駅」より車で約45分。
所在地 徳島県名西郡神山町下分字栗生野125
位置 北緯33度57分55.3秒 東経134度19分33.6秒
形式・構造 寄棟造、鉄板葺、四面庇付、桟瓦葺
建築年 1710年(宝永7年)
文化財 国の重要文化財

歴史
1351年(慶応2年)に下総国より阿波国に派遣された上山谷の6箇村の大庄屋である粟飯原家の分家である。当時の一般農家が2間取りから3間取りが普通であったのに対し、粟飯原家は6間取りあり、支配階級の民家として貴重なものとされている。
建物は鮎喰川上流左岸の山裾に建っており、屋敷地は広く、前面に石垣が築かれている。建築年代は棟札により1710年(宝永7年)であることがわかる。粟飯原家住宅はこの地方における6間取りの平面をもつ家では最古の民家である。また1976年(昭和51年)5月20日に国の重要文化財に指定された。


交通
JR「徳島駅」より車で約45分。
所在地 徳島県名西郡神山町下分字栗生野125
位置 北緯33度57分55.3秒 東経134度19分33.6秒
形式・構造 寄棟造、鉄板葺、四面庇付、桟瓦葺
建築年 1710年(宝永7年)
文化財 国の重要文化財
2023年01月20日
迎賓館赤坂離宮(げいひんかんあかさかりきゅう)は、東京都港区にある日本の迎賓館
迎賓館赤坂離宮(げいひんかんあかさかりきゅう)は、東京都港区にある日本の迎賓館。

沿革
東京の元赤坂にある現在の迎賓館の建物は、東宮御所として1909年(明治42年)に建設された。鹿鳴館などを設計したお雇い外国人建築家ジョサイア・コンドルの弟子にあたる宮廷建築家片山東熊の設計により、元紀州藩の屋敷跡(明治6年宮城火災から明治21年の明治宮殿完成までの15年間、明治天皇の仮皇居が置かれていた。)に建てられた。しかしそのネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったことから、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がこの御所を使用することはほとんどなかった。嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められた。

施設
本館
日本が独自の文化を守りながらの西洋化と富国強兵に突き進んでいた時代を象徴して、天皇を「武勲の者」という印象を表現するために、正面玄関の屋根飾りや内装の模様などに鎧武者の意匠があるなど、建物全体に西洋の宮殿建築に日本風の意匠が混じった装飾になっている。イギリスのバッキンガム宮殿やフランスのヴェルサイユ宮殿が参考にされた[3]。また、ウィーンのホーフブルク宮殿(新宮殿)との類似性も見られる。
また、電気が珍しかった建築当時の日本において、イギリス製の自家発電装置を備え付けて照明に電気を使い、アメリカ製の自動温度調節機能付き暖房装置を設置した。ただし、この暖房装置は正常に作動せず、室温が突然上がったり下がったりするトラブルに幾度も見舞われたという。煉瓦石造で西欧様式の建物は高温多湿の日本の気候には全く適さず、晩春から早秋にかけては天候によっては室内の湿度が著しく上がり、暖房はあっても冷房はないために居住性が著しく低かった。これに対処するために片山東熊は電気式の除湿機を設置する計画も考えていたが、こちらは実行に移されなかった。
建築当初の調度品はタペストリーなど日本製の物もあったが、椅子などの家具の多くはドイツやフランスなどから輸入したものを使用していた。この建物が迎賓館になった際に建物から放出されたこれらの家具の一部は現在、博物館明治村に保存・公開されている。
1974年(昭和49年)の改修時に金箔張りの賓客用エレベーターを設置。



旧名称 東宮御所
用途 国賓等の歓迎、宿泊施設
旧用途 東宮御所
設計者 片山東熊
管理運営 内閣府
構造形式 鉄骨補強煉瓦石造
敷地面積 117,000 m2
延床面積 15,000 m2
高さ 地上2階、地下1階
竣工 1909年(明治42年)
所在地 東京都港区元赤坂二丁目1番1号(北緯35度40分48秒 東経139度43分43秒)

沿革
東京の元赤坂にある現在の迎賓館の建物は、東宮御所として1909年(明治42年)に建設された。鹿鳴館などを設計したお雇い外国人建築家ジョサイア・コンドルの弟子にあたる宮廷建築家片山東熊の設計により、元紀州藩の屋敷跡(明治6年宮城火災から明治21年の明治宮殿完成までの15年間、明治天皇の仮皇居が置かれていた。)に建てられた。しかしそのネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったことから、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がこの御所を使用することはほとんどなかった。嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められた。

施設
本館
日本が独自の文化を守りながらの西洋化と富国強兵に突き進んでいた時代を象徴して、天皇を「武勲の者」という印象を表現するために、正面玄関の屋根飾りや内装の模様などに鎧武者の意匠があるなど、建物全体に西洋の宮殿建築に日本風の意匠が混じった装飾になっている。イギリスのバッキンガム宮殿やフランスのヴェルサイユ宮殿が参考にされた[3]。また、ウィーンのホーフブルク宮殿(新宮殿)との類似性も見られる。
また、電気が珍しかった建築当時の日本において、イギリス製の自家発電装置を備え付けて照明に電気を使い、アメリカ製の自動温度調節機能付き暖房装置を設置した。ただし、この暖房装置は正常に作動せず、室温が突然上がったり下がったりするトラブルに幾度も見舞われたという。煉瓦石造で西欧様式の建物は高温多湿の日本の気候には全く適さず、晩春から早秋にかけては天候によっては室内の湿度が著しく上がり、暖房はあっても冷房はないために居住性が著しく低かった。これに対処するために片山東熊は電気式の除湿機を設置する計画も考えていたが、こちらは実行に移されなかった。
建築当初の調度品はタペストリーなど日本製の物もあったが、椅子などの家具の多くはドイツやフランスなどから輸入したものを使用していた。この建物が迎賓館になった際に建物から放出されたこれらの家具の一部は現在、博物館明治村に保存・公開されている。
1974年(昭和49年)の改修時に金箔張りの賓客用エレベーターを設置。



旧名称 東宮御所
用途 国賓等の歓迎、宿泊施設
旧用途 東宮御所
設計者 片山東熊
管理運営 内閣府
構造形式 鉄骨補強煉瓦石造
敷地面積 117,000 m2
延床面積 15,000 m2
高さ 地上2階、地下1階
竣工 1909年(明治42年)
所在地 東京都港区元赤坂二丁目1番1号(北緯35度40分48秒 東経139度43分43秒)
2023年01月19日
日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)は島根県出雲市の日御碕に鎮座する神社
日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)は島根県出雲市の日御碕に鎮座する神社。通称、みさきさん。出雲大社の「祖神(おやがみ)さま」として崇敬を集める。社殿12棟などが国の重要文化財に指定されている。

島根県出雲市にある日御碕神社。楼門(重要文化財)
歴史
当社は、上下の2社あり、上の宮を神の宮、下の宮を、日沈宮(ひしずみのみや、日沉の宮)と称し、2社を総称し日御碕神社(日御碕大神宮)と呼ばれる。古くは『出雲国風土記』に美佐伎社、『延喜式』に御碕社とあり、地元では「みさきさん」とよばれる。
社伝によると、素盞鳴尊は出雲の国造りの後、熊成峰に登り、鎮まる地を求めて、柏葉を風で占うと隠ヶ丘に止まった。そこで御子・天葺根命は御魂をその地で奉斎したと伝わり、隠ケ丘(古墳)が現・社殿の裏側にある。日沈宮は元は文島(現・経島)に鎮座し、天葺根命が文島にいたとき、天照大神が降臨し、「我天下の蒼生(国民)を恵まむ、汝速かに我を祀れ」との神勅によって奉斎したのが始まりと伝わる。
平安時代末期に後白河上皇が編纂した『梁塵秘抄』に「聖の住所(すみか)」として記される修験の聖地である。神の宮(上の宮)は、現・社殿の背後にある隠ヶ丘に鎮座していたが、安寧天皇13年(紀元前536年)に、勅命により現在地へ遷座し、日沈宮(下の宮)は、経島(日置島)に鎮座していたが、天暦2年(948年)に村上天皇の勅命により現在地に遷座したと伝わる。

日沈宮(下の宮) 拝殿(重要文化財)
祭神
以下の祭神を祀る。
日沈宮(下の宮)
主祭神
天照大御神
配祀神
天忍穂耳尊
天穂日命
天津彦根命
活津彦根命
熊野樟日命
神の宮(上の宮)
主祭神
素盞嗚尊
配祀神
田心姫命
湍津姫命
市杵島姫命

神の宮(上の宮) 拝殿(重要文化財)

日沈宮(下の宮) 拝殿(左)・本殿(右奥)・玉垣(本殿を囲う)

神の宮(上の宮) 本殿(左)・玉垣(本殿を囲う)・拝殿(右)
文化財
国宝
工芸品
白絲威鎧(しろいとおどしよろい) 兜・大袖付 1領 - 1953年(昭和28年)3月31日指定。
鎌倉時代作。胴高:63.6 センチメートル、兜鉢高:11.2 センチメートル、大袖高:39.4 センチメートル[6]。江戸時代には、源頼朝奉納の甲冑として知られていた。幕末には威糸(おどしいと)などの痛みが激しく、文化2年(1805年)、松江藩主・松平治郷の命により、江戸で、元の姿を損なうこと無く現状の形に補修されている。その際、破損部分の繕いに「文化二年修補」の文字を染めた白韋(しろかわ)が用いられ、取り外された威糸や紐などの残欠類は保管されている。修理を担当した寺本安宅により61ヶ条の修理記録「源頼朝卿御鎧修補註文」が記されている。東京国立博物館寄託。(塩冶高貞寄進)

交通アクセス
JR出雲市駅から一畑バスで57分
出雲大社バスターミナルから一畑バスで20分
(2022年10月時点)
所在地 島根県出雲市大社町日御碕455
位置 北緯35度25分46.4秒 東経132度37分45.5秒
主祭神 天照大御神
素盞嗚尊
社格等 式内社(小)
旧国幣小社
別表神社
創建 安寧天皇13年
本殿の様式 権現造
別名 通称「みさきさん」
札所等 出雲國神仏霊場20番
例祭 8月7日
主な神事 御寄神事、御饗神事、釿始祭、和布刈神事、例大祭/神幸祭、爪剥祭、神在祭/神去出祭、神劔奉天神事

島根県出雲市にある日御碕神社。楼門(重要文化財)
歴史
当社は、上下の2社あり、上の宮を神の宮、下の宮を、日沈宮(ひしずみのみや、日沉の宮)と称し、2社を総称し日御碕神社(日御碕大神宮)と呼ばれる。古くは『出雲国風土記』に美佐伎社、『延喜式』に御碕社とあり、地元では「みさきさん」とよばれる。
社伝によると、素盞鳴尊は出雲の国造りの後、熊成峰に登り、鎮まる地を求めて、柏葉を風で占うと隠ヶ丘に止まった。そこで御子・天葺根命は御魂をその地で奉斎したと伝わり、隠ケ丘(古墳)が現・社殿の裏側にある。日沈宮は元は文島(現・経島)に鎮座し、天葺根命が文島にいたとき、天照大神が降臨し、「我天下の蒼生(国民)を恵まむ、汝速かに我を祀れ」との神勅によって奉斎したのが始まりと伝わる。
平安時代末期に後白河上皇が編纂した『梁塵秘抄』に「聖の住所(すみか)」として記される修験の聖地である。神の宮(上の宮)は、現・社殿の背後にある隠ヶ丘に鎮座していたが、安寧天皇13年(紀元前536年)に、勅命により現在地へ遷座し、日沈宮(下の宮)は、経島(日置島)に鎮座していたが、天暦2年(948年)に村上天皇の勅命により現在地に遷座したと伝わる。

日沈宮(下の宮) 拝殿(重要文化財)
祭神
以下の祭神を祀る。
日沈宮(下の宮)
主祭神
天照大御神
配祀神
天忍穂耳尊
天穂日命
天津彦根命
活津彦根命
熊野樟日命
神の宮(上の宮)
主祭神
素盞嗚尊
配祀神
田心姫命
湍津姫命
市杵島姫命

神の宮(上の宮) 拝殿(重要文化財)

日沈宮(下の宮) 拝殿(左)・本殿(右奥)・玉垣(本殿を囲う)

神の宮(上の宮) 本殿(左)・玉垣(本殿を囲う)・拝殿(右)
文化財
国宝
工芸品
白絲威鎧(しろいとおどしよろい) 兜・大袖付 1領 - 1953年(昭和28年)3月31日指定。
鎌倉時代作。胴高:63.6 センチメートル、兜鉢高:11.2 センチメートル、大袖高:39.4 センチメートル[6]。江戸時代には、源頼朝奉納の甲冑として知られていた。幕末には威糸(おどしいと)などの痛みが激しく、文化2年(1805年)、松江藩主・松平治郷の命により、江戸で、元の姿を損なうこと無く現状の形に補修されている。その際、破損部分の繕いに「文化二年修補」の文字を染めた白韋(しろかわ)が用いられ、取り外された威糸や紐などの残欠類は保管されている。修理を担当した寺本安宅により61ヶ条の修理記録「源頼朝卿御鎧修補註文」が記されている。東京国立博物館寄託。(塩冶高貞寄進)

交通アクセス
JR出雲市駅から一畑バスで57分
出雲大社バスターミナルから一畑バスで20分
(2022年10月時点)
所在地 島根県出雲市大社町日御碕455
位置 北緯35度25分46.4秒 東経132度37分45.5秒
主祭神 天照大御神
素盞嗚尊
社格等 式内社(小)
旧国幣小社
別表神社
創建 安寧天皇13年
本殿の様式 権現造
別名 通称「みさきさん」
札所等 出雲國神仏霊場20番
例祭 8月7日
主な神事 御寄神事、御饗神事、釿始祭、和布刈神事、例大祭/神幸祭、爪剥祭、神在祭/神去出祭、神劔奉天神事
2023年01月18日
観音寺(かんのんじ)は、長崎県長崎市脇岬町にある曹洞宗の仏教寺院
観音寺(かんのんじ)は、長崎県長崎市脇岬町にある曹洞宗の仏教寺院。山号は円通山。円通山観音禅寺と号する。

歴史
寺伝によれば、和銅2年(709年)、僧行基により開かれたという。現在の観音堂は江戸時代に再建されたもので、堂内には平安時代末期の作とされる像高約2.5mの千手観音立像が安置されており、「みさきの観音」と称され江戸時代を通じ長崎市内からの参詣者が多かった。また、脇岬が長崎半島南端部にあり長崎へ出入りする唐船の風待ち港として用いられたことから、寺内寄進物の施主には長崎の町人・遊女のみならず中国貿易商人らも名を連ねている。

文化財等
木造千手観音立像(国の重要文化財)
観音堂内陣天井絵(県指定有形文化財) - 石崎融思・川原慶賀らの筆。
梵鐘(市指定有形文化財

アクセス
長崎自動車(長崎バス)で「観音寺入口」バス停留所下車、徒歩3分。
長崎市内より国道499号経由で車で約1時間。
所在地 長崎県長崎市脇岬町2330
位置 北緯32度35分02.7秒 東経129度46分28.8秒
山号 円通山
宗派 曹洞宗
本尊 千手観音
創建年 和銅2年(709年)
開山 行基
別称 観音禅寺

歴史
寺伝によれば、和銅2年(709年)、僧行基により開かれたという。現在の観音堂は江戸時代に再建されたもので、堂内には平安時代末期の作とされる像高約2.5mの千手観音立像が安置されており、「みさきの観音」と称され江戸時代を通じ長崎市内からの参詣者が多かった。また、脇岬が長崎半島南端部にあり長崎へ出入りする唐船の風待ち港として用いられたことから、寺内寄進物の施主には長崎の町人・遊女のみならず中国貿易商人らも名を連ねている。

文化財等
木造千手観音立像(国の重要文化財)
観音堂内陣天井絵(県指定有形文化財) - 石崎融思・川原慶賀らの筆。
梵鐘(市指定有形文化財

アクセス
長崎自動車(長崎バス)で「観音寺入口」バス停留所下車、徒歩3分。
長崎市内より国道499号経由で車で約1時間。
所在地 長崎県長崎市脇岬町2330
位置 北緯32度35分02.7秒 東経129度46分28.8秒
山号 円通山
宗派 曹洞宗
本尊 千手観音
創建年 和銅2年(709年)
開山 行基
別称 観音禅寺
2023年01月17日
鉄舟寺(てっしゅうじ)は、静岡県静岡市清水区にある臨済宗妙心寺派の寺院
鉄舟寺(てっしゅうじ)は、静岡県静岡市清水区にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は補陀落山。本尊は千手観音菩薩。

歴史
推古天皇の御代に秦氏の出身である久能忠仁が現在の久能山東照宮付近に建立した堂に始まり、その後奈良時代の僧行基が来山して久能寺と号したという(『久能寺縁起』)。平安時代に入って天台宗に改められ、建穂寺と駿河を二分する勢いで栄えた。1570年(永禄13年)武田信玄が久能山に城を作る(久能城)ため現在地に移され、宗旨も変わり新義真言宗(真言宗根来派)に属することになる。
江戸時代には朱印寺領として200石余りを与えられ、多くの支坊を有したが、江戸時代後期あたりから衰退し、明治に入ると無住(住職がいないこと)になって寺は荒廃してしまった。
その後、旧幕臣で明治以降に静岡藩権大参事も務めたこともある山岡鉄舟が、臨済寺から今川貞山を招いて復興し、寺号も鉄舟寺と改められた。そのため鉄舟の書跡の遺品も多い。

文化財等
国宝
法華経(久能寺経)19巻
現存最古の一品経(法華経二十八品を一巻毎に書写したもの)。現在は東京国立博物館に寄託。永治2年(1142年)待賢門院の出家に際して、鳥羽法皇や美福門院をはじめ、近臣や女房らが加わった、逆修供養のために結縁書写された。元は法華経二十八品に開教と結経を加えた三十巻か、或いは更に『阿弥陀経』『般若心経』を加えた三十二巻本だったと想定される。鉄舟寺にはそのうち17巻分伝わっており、他に五島美術館に2巻(重文)、東京国立博物館に3巻(重文)、個人に4巻(国宝[1])の計26巻が現存している。鉄舟寺所蔵品の員数は19巻だが、そのうち陀羅尼品第二十六と普賢菩薩勧発品第二十八の2巻は補配本と見なされる。
なぜこのように立派な経典が都から遠く離れた地に納められたのか、は不明である。諸説として、京の戦乱を避けるため東国武士によって移された、鳥羽法皇の離宮であった安楽寿院や上皇がしばしば詣でた熊野三山と久能寺との関係性、などが挙げられている。
「譬喩品」は待賢門院自らの結縁によるもので、その写経の筆者は近侍の女房中納言の弟で、当代屈指の能書で知られた藤原定信。また、書写名は不明だが「安楽行品」の書は穏やかで優美な行書気味の書風で、当時の能書の中でも特に優れた人物の手になる。
重要文化財(国指定)
錫杖 銘「康治元年九月八日久能寺念空」あり、1142年の作。

1142年作の錫杖(重要文化財)
所在地・アクセス
静岡県静岡市清水区村松2188
JR東海 東海道本線 清水駅から静鉄バス忠霊塔行きに乗車(約20分)、「鉄舟寺」下車。
位置 北緯34度59分33.6秒 東経138度28分59.0秒
山号 補陀落山
宗旨 臨済宗
宗派 妙心寺派
本尊 千手観音菩薩
文化財 法華経 19巻(国宝)
錫杖(重要文化財)ほか

歴史
推古天皇の御代に秦氏の出身である久能忠仁が現在の久能山東照宮付近に建立した堂に始まり、その後奈良時代の僧行基が来山して久能寺と号したという(『久能寺縁起』)。平安時代に入って天台宗に改められ、建穂寺と駿河を二分する勢いで栄えた。1570年(永禄13年)武田信玄が久能山に城を作る(久能城)ため現在地に移され、宗旨も変わり新義真言宗(真言宗根来派)に属することになる。
江戸時代には朱印寺領として200石余りを与えられ、多くの支坊を有したが、江戸時代後期あたりから衰退し、明治に入ると無住(住職がいないこと)になって寺は荒廃してしまった。
その後、旧幕臣で明治以降に静岡藩権大参事も務めたこともある山岡鉄舟が、臨済寺から今川貞山を招いて復興し、寺号も鉄舟寺と改められた。そのため鉄舟の書跡の遺品も多い。

文化財等
国宝
法華経(久能寺経)19巻
現存最古の一品経(法華経二十八品を一巻毎に書写したもの)。現在は東京国立博物館に寄託。永治2年(1142年)待賢門院の出家に際して、鳥羽法皇や美福門院をはじめ、近臣や女房らが加わった、逆修供養のために結縁書写された。元は法華経二十八品に開教と結経を加えた三十巻か、或いは更に『阿弥陀経』『般若心経』を加えた三十二巻本だったと想定される。鉄舟寺にはそのうち17巻分伝わっており、他に五島美術館に2巻(重文)、東京国立博物館に3巻(重文)、個人に4巻(国宝[1])の計26巻が現存している。鉄舟寺所蔵品の員数は19巻だが、そのうち陀羅尼品第二十六と普賢菩薩勧発品第二十八の2巻は補配本と見なされる。
なぜこのように立派な経典が都から遠く離れた地に納められたのか、は不明である。諸説として、京の戦乱を避けるため東国武士によって移された、鳥羽法皇の離宮であった安楽寿院や上皇がしばしば詣でた熊野三山と久能寺との関係性、などが挙げられている。
「譬喩品」は待賢門院自らの結縁によるもので、その写経の筆者は近侍の女房中納言の弟で、当代屈指の能書で知られた藤原定信。また、書写名は不明だが「安楽行品」の書は穏やかで優美な行書気味の書風で、当時の能書の中でも特に優れた人物の手になる。
重要文化財(国指定)
錫杖 銘「康治元年九月八日久能寺念空」あり、1142年の作。

1142年作の錫杖(重要文化財)
所在地・アクセス
静岡県静岡市清水区村松2188
JR東海 東海道本線 清水駅から静鉄バス忠霊塔行きに乗車(約20分)、「鉄舟寺」下車。
位置 北緯34度59分33.6秒 東経138度28分59.0秒
山号 補陀落山
宗旨 臨済宗
宗派 妙心寺派
本尊 千手観音菩薩
文化財 法華経 19巻(国宝)
錫杖(重要文化財)ほか
2023年01月16日
近江神宮(おうみじんぐう)は、滋賀県大津市神宮町にある神社
近江神宮(おうみじんぐう)は、滋賀県大津市神宮町にある神社。皇紀2600年を記念して同年に相当する1940年(昭和15年)に創祀された。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社で勅祭社でもある。

楼門
歴史
天智天皇6年(667年)に同天皇が当地に近江大津宮を営み[1]、飛鳥から遷都した由緒に因み、紀元2600年の佳節にあたる1940年(昭和15年)の11月7日、天智天皇を祭神として創祀され、官幣大社に列せられる。
太平洋戦争後、神道指令が発令された1945年(昭和20年)12月15日、戦後復興を祭神(天智天皇)に祈願した昭和天皇の勅旨により、同神宮は勅祭社に治定された。1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。

本殿
祭神
主祭神 - 天智天皇(又の御名:天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ))
神徳:時の祖神 開運・導きの大神、文化・学芸・産業の守護神

内拝殿
文化財
国宝
崇福寺塔心礎納置品- 京都国立博物館に寄託。
舎利 3粒
舎利容器 一具
金蓋碧瑠璃壺 1口
金製内箱 1口
銀製中箱 1口
金銅外箱 1口
瑠璃玉 一括
硬玉丸玉 3顆
金銅背鉄鏡 1面
無文銀銭 11枚
水晶粒 2顆
銅鈴(残欠共) 2口
金箔木片其他伴出物一切

手前から北神門、外透塀、外廻廊、神符授与所、楼門

外拝殿
交通アクセス
鉄道
京阪電気鉄道石山坂本線 近江神宮前駅から北西へ0.6km。
西日本旅客鉄道(JR西日本)湖西線 大津京駅から北西へ1.1km。
自動車
西大津バイパス 近江神宮ランプから南へ1.1km。皇子山ランプから北へ1.7km。
滋賀県道558号高島大津線柳が崎交差点から滋賀県道30号下鴨大津線(神宮道)に入り西へ1km。
所在地 滋賀県大津市神宮町1-1
位置 北緯35度01分56.8秒 東経135度51分04.4秒
主祭神 天智天皇
社格等 旧官幣大社
勅祭社
別表神社
創建 1940年(昭和15年)
本殿の様式 近江造
例祭 4月20日

楼門
歴史
天智天皇6年(667年)に同天皇が当地に近江大津宮を営み[1]、飛鳥から遷都した由緒に因み、紀元2600年の佳節にあたる1940年(昭和15年)の11月7日、天智天皇を祭神として創祀され、官幣大社に列せられる。
太平洋戦争後、神道指令が発令された1945年(昭和20年)12月15日、戦後復興を祭神(天智天皇)に祈願した昭和天皇の勅旨により、同神宮は勅祭社に治定された。1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。

本殿
祭神
主祭神 - 天智天皇(又の御名:天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ))
神徳:時の祖神 開運・導きの大神、文化・学芸・産業の守護神

内拝殿
文化財
国宝
崇福寺塔心礎納置品- 京都国立博物館に寄託。
舎利 3粒
舎利容器 一具
金蓋碧瑠璃壺 1口
金製内箱 1口
銀製中箱 1口
金銅外箱 1口
瑠璃玉 一括
硬玉丸玉 3顆
金銅背鉄鏡 1面
無文銀銭 11枚
水晶粒 2顆
銅鈴(残欠共) 2口
金箔木片其他伴出物一切

手前から北神門、外透塀、外廻廊、神符授与所、楼門

外拝殿
交通アクセス
鉄道
京阪電気鉄道石山坂本線 近江神宮前駅から北西へ0.6km。
西日本旅客鉄道(JR西日本)湖西線 大津京駅から北西へ1.1km。
自動車
西大津バイパス 近江神宮ランプから南へ1.1km。皇子山ランプから北へ1.7km。
滋賀県道558号高島大津線柳が崎交差点から滋賀県道30号下鴨大津線(神宮道)に入り西へ1km。
所在地 滋賀県大津市神宮町1-1
位置 北緯35度01分56.8秒 東経135度51分04.4秒
主祭神 天智天皇
社格等 旧官幣大社
勅祭社
別表神社
創建 1940年(昭和15年)
本殿の様式 近江造
例祭 4月20日
2023年01月15日
鏡神社(かがみじんじゃ)は、佐賀県唐津市の鏡山の麓にある神社
鏡神社(かがみじんじゃ)は、佐賀県唐津市の鏡山の麓にある神社である。
現在は松浦総鎮守鏡神社と呼ばれ、旧称は鏡尊廟宮、鏡宮、松浦宮、板櫃社、久里大明神。古来、鏡神社は松浦国の総社として尊崇され、松浦三社の一位に列せられていた。
遥かなる時を越え今も松浦地方の鎮守神として親しまれている。楊柳観音菩薩を始め立神様なども神道で祭祀をしており、神仏習合の名残を今も受け継いでいる神社である。

佐賀県唐津市、鏡神社の一宮。神后皇后を祀っている
祭神
本殿が2棟あり、一ノ宮に息長足姫命(神功皇后)、二ノ宮に藤原広嗣を祀る。『源氏物語』玉鬘の巻で肥後の豪族大夫監が玉鬘に宛てた歌に「松浦なる鏡の神」と詠まれている。

二ノ宮
歴史
社伝では、三韓征伐の際、神功皇后が鏡山山頂に戦勝を祈願して鏡を納めたが、その後この鏡が霊光を発したことから、それを聞いた神功皇后が自らの生霊を鏡に込めて祀ったのに始まると伝える。
また、三韓征伐の帰途、神功皇后は当地で陣痛に襲われたが、里人が差し出した湧き水を飲むと陣痛が治まり、宇美の地にて無事に応神天皇を産んだという。このことから安産の霊験もあるとされる。
藤原広嗣の乱により藤原広嗣が当地で処刑された10年後の天平勝宝2年(750年)、肥前国司に左遷された吉備真備により、広嗣を祀る二ノ宮が創建された。広嗣処刑の後、玄ムが筑紫に左遷されそこで歿したことから、これは広嗣の怨霊のせいであるとされ、それを慰めるためであった。
元は松浦宮・松浦廟宮と呼ばれ、空海(弘法大師)が鏡神社に改称したと伝える。
行事
歳旦祭 1月1日 - 3日
春季例大祭 4月9日(9日に近い日曜日)
雛供養祭(春季例大祭に併せて執り行われる)
夏越祭 7月最終土曜日
秋季例大祭(10月9日)
鏡くんちと呼ばれる事から、本来は10月9日であるが、近年では第3土曜日に行われる事がある。土日にわたって2台の曳き山笠が出る。
藤原祭 11月28日
除夜祭 12月31日

鏡くんち
文化財
重要文化財(国指定)
絹本着色楊柳観音像 - 高麗時代、佐賀県立博物館に寄託

楊柳観音像
所在地 佐賀県唐津市鏡1827
位置 北緯33度25分56秒 東経130度0分31秒
主祭神 息長足姫命
藤原広嗣
楊柳観音菩薩
社格等 旧県社
創建 応神天皇の御世
例祭 10月9日
現在は松浦総鎮守鏡神社と呼ばれ、旧称は鏡尊廟宮、鏡宮、松浦宮、板櫃社、久里大明神。古来、鏡神社は松浦国の総社として尊崇され、松浦三社の一位に列せられていた。
遥かなる時を越え今も松浦地方の鎮守神として親しまれている。楊柳観音菩薩を始め立神様なども神道で祭祀をしており、神仏習合の名残を今も受け継いでいる神社である。

佐賀県唐津市、鏡神社の一宮。神后皇后を祀っている
祭神
本殿が2棟あり、一ノ宮に息長足姫命(神功皇后)、二ノ宮に藤原広嗣を祀る。『源氏物語』玉鬘の巻で肥後の豪族大夫監が玉鬘に宛てた歌に「松浦なる鏡の神」と詠まれている。

二ノ宮
歴史
社伝では、三韓征伐の際、神功皇后が鏡山山頂に戦勝を祈願して鏡を納めたが、その後この鏡が霊光を発したことから、それを聞いた神功皇后が自らの生霊を鏡に込めて祀ったのに始まると伝える。
また、三韓征伐の帰途、神功皇后は当地で陣痛に襲われたが、里人が差し出した湧き水を飲むと陣痛が治まり、宇美の地にて無事に応神天皇を産んだという。このことから安産の霊験もあるとされる。
藤原広嗣の乱により藤原広嗣が当地で処刑された10年後の天平勝宝2年(750年)、肥前国司に左遷された吉備真備により、広嗣を祀る二ノ宮が創建された。広嗣処刑の後、玄ムが筑紫に左遷されそこで歿したことから、これは広嗣の怨霊のせいであるとされ、それを慰めるためであった。
元は松浦宮・松浦廟宮と呼ばれ、空海(弘法大師)が鏡神社に改称したと伝える。
行事
歳旦祭 1月1日 - 3日
春季例大祭 4月9日(9日に近い日曜日)
雛供養祭(春季例大祭に併せて執り行われる)
夏越祭 7月最終土曜日
秋季例大祭(10月9日)
鏡くんちと呼ばれる事から、本来は10月9日であるが、近年では第3土曜日に行われる事がある。土日にわたって2台の曳き山笠が出る。
藤原祭 11月28日
除夜祭 12月31日

鏡くんち
文化財
重要文化財(国指定)
絹本着色楊柳観音像 - 高麗時代、佐賀県立博物館に寄託

楊柳観音像
所在地 佐賀県唐津市鏡1827
位置 北緯33度25分56秒 東経130度0分31秒
主祭神 息長足姫命
藤原広嗣
楊柳観音菩薩
社格等 旧県社
創建 応神天皇の御世
例祭 10月9日
2023年01月14日
大沢家住宅(おおさわけじゅうたく)は、埼玉県川越市にある蔵造り建築
大沢家住宅(おおさわけじゅうたく)は、埼玉県川越市にある蔵造り建築。明治26年(1893年)の川越大火の焼失を免れた川越最古の蔵造りで、現存する関東地方最古の蔵造りでもある。国の重要文化財の指定を受けている。現在の屋号から「小松屋」とも呼ばれている。

正面から
歴史
寛政4年(1792年)に近江国出身で呉服太物の近江屋を営んでいた豪商・西村半右衛門が建てた蔵造りの店舗建築。川越大火で例外的に焼失を免れ、そこから川越商人が蔵造りの町家を次々に建設する契機となった。昭和46年(1971年)に国の重要文化財の指定を受け、また、平成元年(1989年)より5年間を費やし大規模な修理が行なわれ、創建当時の姿に甦った。

側面から
建築
建物は間口6間、奥行4間半。切妻造り平入り、桟瓦葺き。川越の重厚な蔵造りの中ではシンプルな町屋形式。総欅作りだが前面の人見の柱のみ松になっている(客を待つの意味)。1階の前面は下屋庇を出し、格子戸や土戸があり土間には防火用の用心戸まで備える。2階の前面は漆喰で塗り固めた土格子(どごうし)を一番外側に、漆喰戸、木戸、障子と三重の窓になっている。防火扉付きの小窓もある。2階への箱階段や、ゆるく波打つ階段側面の壁は、見事。壁面の厚さは30cm、縦と横に5pの丸竹を使い、あけびのつるで結束してある。内壁は孤を成している耐震構造。床の間は天井から漆喰が下がっている「吊り漆喰」。大黒柱は江戸建築でも最上の木材の1つで目を引く。

1階店舗正面

1階店舗側面

左階段入口

2階から階段を見る

2階の居間
所在地 埼玉県川越市元町1-15-2
位置 北緯35度55分28.1秒 東経139度28分59.53秒
類型 商家
形式・構造 木造、蔵造り、切妻造平入、桟瓦葺
建築年 寛政4年(1792年)
文化財 国の重要文化財

正面から
歴史
寛政4年(1792年)に近江国出身で呉服太物の近江屋を営んでいた豪商・西村半右衛門が建てた蔵造りの店舗建築。川越大火で例外的に焼失を免れ、そこから川越商人が蔵造りの町家を次々に建設する契機となった。昭和46年(1971年)に国の重要文化財の指定を受け、また、平成元年(1989年)より5年間を費やし大規模な修理が行なわれ、創建当時の姿に甦った。

側面から
建築
建物は間口6間、奥行4間半。切妻造り平入り、桟瓦葺き。川越の重厚な蔵造りの中ではシンプルな町屋形式。総欅作りだが前面の人見の柱のみ松になっている(客を待つの意味)。1階の前面は下屋庇を出し、格子戸や土戸があり土間には防火用の用心戸まで備える。2階の前面は漆喰で塗り固めた土格子(どごうし)を一番外側に、漆喰戸、木戸、障子と三重の窓になっている。防火扉付きの小窓もある。2階への箱階段や、ゆるく波打つ階段側面の壁は、見事。壁面の厚さは30cm、縦と横に5pの丸竹を使い、あけびのつるで結束してある。内壁は孤を成している耐震構造。床の間は天井から漆喰が下がっている「吊り漆喰」。大黒柱は江戸建築でも最上の木材の1つで目を引く。

1階店舗正面

1階店舗側面

左階段入口

2階から階段を見る

2階の居間
所在地 埼玉県川越市元町1-15-2
位置 北緯35度55分28.1秒 東経139度28分59.53秒
類型 商家
形式・構造 木造、蔵造り、切妻造平入、桟瓦葺
建築年 寛政4年(1792年)
文化財 国の重要文化財
2023年01月13日
朝倉神社(あさくらじんじゃ)は、高知県高知市朝倉にある神社
朝倉神社(あさくらじんじゃ)は、高知県高知市朝倉にある神社。式内社で、土佐国二宮と称される。旧社格は県社。俗称として「木の丸様」とも。

拝殿
祭神
祭神は次の2柱。
天津羽羽神 (あまつははがみ、天津羽々神)
天豊財重日足姫天皇 (あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと) - 第37代斉明天皇の和風諡号。
中世における本地仏は阿弥陀仏であったと伝わる。
祭神について
古くは『土佐国風土記』逸文に、
と見える社が朝倉神社を指すとされる。同文によると、祭神の天津羽羽神は天石門別神(天石帆別神)の子になる。この天津羽羽神は朝倉郷の開拓神であると伝えられており、元々はこの神のみを奉斎したと考えられている。もう1柱の斉明天皇は、斉明天皇の営んだ朝倉行宮を当地に比定する説(後述)による合祀とされる。
なお、『延喜式』神名帳では土佐国吾川郡に「天石門別安国玉主天神社」(論社2社)の記載が見え、天津羽羽神の父の天石門別神を祀る神社として朝倉神社との関連が指摘される。

本殿(国の重要文化財)
境内
本殿(国の重要文化財)
社殿のうち本殿は、江戸時代前期の明暦3年(1657年)、土佐藩第2代藩主の山内忠義による再建。明暦3年2月16日に着工し、同年8月に完工した。桁行三間・梁間二間で、屋根は柿葺。流造ではなく切妻造の屋根の前面に軒唐破風付きの向拝一間を付す、神社本殿としては珍しい形式になる。棟には置千木3個、勝男木5本を載せる。建物周囲では脇障子や壁板に絵画が施されているほか、随所に繧繝彩色、極彩色、漆塗、金鍍金が施され、全体的に華麗に彩られている。内部は内陣・外陣に分け、外陣にも彩色が施されている。本建物は、造営年(明暦3年)よりさかのぼる安土桃山時代の様式手法を示している。これは、土佐が地理的に中央から遠いため、中央文化の土佐への普及の遅れを表すとされる。この本殿は国の重要文化財に指定されている。
文化財
重要文化財(国指定)
本殿(附 棟札7枚)(建造物) - 昭和24年2月18日指定。

交通アクセス
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国)土讃線 朝倉駅 - 西へ400メートル。
とさでん交通伊野線 朝倉神社前停留場 - 北東へ300メートル。
所在地 高知県高知市朝倉丙2100
位置 北緯33度33分12.35秒 東経133度28分54.16秒
主祭神 天津羽羽神
天豊財重日足姫天皇
神体 赤鬼山(神体山)
社格等 式内社(小)
(伝)土佐国二宮
旧県社
創建 不詳
本殿の様式 三間社切妻造
別名 木の丸様
例祭 11月10日

拝殿
祭神
祭神は次の2柱。
天津羽羽神 (あまつははがみ、天津羽々神)
天豊財重日足姫天皇 (あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと) - 第37代斉明天皇の和風諡号。
中世における本地仏は阿弥陀仏であったと伝わる。
祭神について
古くは『土佐国風土記』逸文に、
土左の郡(こほり)。朝倉の郷(さと)あり。郷の中に社あり。神の名(みな)は天津羽々の神なり。天の石帆別(いはほわけ)の神、今の天の石門別(いはとわけ)の神の子なり。
− 『釈日本紀』所引『土佐国風土記』逸文
と見える社が朝倉神社を指すとされる。同文によると、祭神の天津羽羽神は天石門別神(天石帆別神)の子になる。この天津羽羽神は朝倉郷の開拓神であると伝えられており、元々はこの神のみを奉斎したと考えられている。もう1柱の斉明天皇は、斉明天皇の営んだ朝倉行宮を当地に比定する説(後述)による合祀とされる。
なお、『延喜式』神名帳では土佐国吾川郡に「天石門別安国玉主天神社」(論社2社)の記載が見え、天津羽羽神の父の天石門別神を祀る神社として朝倉神社との関連が指摘される。

本殿(国の重要文化財)
境内
本殿(国の重要文化財)
社殿のうち本殿は、江戸時代前期の明暦3年(1657年)、土佐藩第2代藩主の山内忠義による再建。明暦3年2月16日に着工し、同年8月に完工した。桁行三間・梁間二間で、屋根は柿葺。流造ではなく切妻造の屋根の前面に軒唐破風付きの向拝一間を付す、神社本殿としては珍しい形式になる。棟には置千木3個、勝男木5本を載せる。建物周囲では脇障子や壁板に絵画が施されているほか、随所に繧繝彩色、極彩色、漆塗、金鍍金が施され、全体的に華麗に彩られている。内部は内陣・外陣に分け、外陣にも彩色が施されている。本建物は、造営年(明暦3年)よりさかのぼる安土桃山時代の様式手法を示している。これは、土佐が地理的に中央から遠いため、中央文化の土佐への普及の遅れを表すとされる。この本殿は国の重要文化財に指定されている。
文化財
重要文化財(国指定)
本殿(附 棟札7枚)(建造物) - 昭和24年2月18日指定。

交通アクセス
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国)土讃線 朝倉駅 - 西へ400メートル。
とさでん交通伊野線 朝倉神社前停留場 - 北東へ300メートル。
所在地 高知県高知市朝倉丙2100
位置 北緯33度33分12.35秒 東経133度28分54.16秒
主祭神 天津羽羽神
天豊財重日足姫天皇
神体 赤鬼山(神体山)
社格等 式内社(小)
(伝)土佐国二宮
旧県社
創建 不詳
本殿の様式 三間社切妻造
別名 木の丸様
例祭 11月10日
2023年01月12日
豊楽寺(ぶらくじ)は高知県長岡郡大豊町にある真言宗智山派の仏教寺院
豊楽寺(ぶらくじ)は高知県長岡郡大豊町にある真言宗智山派の仏教寺院。山号は大田山。大田山大願院豊楽寺と号する。本尊は薬師如来。別名は柴折薬師で、日本三大薬師の一つに数えられる。薬師堂は国宝に指定されている。

国宝 薬師堂
歴史
724年(神亀元年)、吉野川北岸の険しい丘に聖武天皇の勅願所として行基が開創したと伝わる。寺号は聖武天皇が薬師本願経説の一節「資求豊足身心安楽」より名付けたとされる。
文化財
国宝
薬師堂
12世紀頃(平安時代末期 - 鎌倉時代初期)建立の四国最古の建造物。入母屋造り、柿葺き、単層、桁行(正面)5間、梁間(側面)5間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す)。内陣に如来像3体を安置。1952年に国宝指定。堂正面は中央3間を観音開きの板扉、両端間は連子窓に横板壁とする。側面は前端間を板扉とするほか横板壁、背面はすべて横板壁である。組物は舟肘木、垂木は疎垂木で全体に簡素な構えとする。堂内安置の薬師如来像の胎内に仁平元年(1151年)の年記とともに「五間四面薬堂造立」云々の記があり(「薬堂」は薬師堂の意)、これが薬師堂の建立時期を指すとも考えられる。建築史家の太田博太郎は、本建物の内陣(方3間)が、建物の中心ではなく後方寄りに設けられていること、内陣の柱と側柱(建物外周の柱)の柱筋が食い違っていることなどから、本建物の建立時期は平安時代までは上がらず、鎌倉時代初期とみている。いずれにしても、四国における現存最古級の建築である。

重要文化財(国指定)
木造薬師如来坐像 - 像高131.5cm[3]。、薬師堂内陣中央に安置、平安時代後期
木造薬師如来及び両脇侍像・二天王立像 - 中尊薬師如来坐像の像高133.5cm、薬師堂内陣向かって右に安置、平安時代後期。寺伝では釈迦如来像であるが、像内の銘文から、元来は薬師如来像として仁平元年(1151年)に作られたものであり、この像が本来の薬師堂本尊であったことがわかる。両脇侍像と二天王像は2010年に追加指定された。
木造阿弥陀如来坐像 - 像高131.5cm、薬師堂内陣向かって左に安置、平安時代後期
拝観情報
開門時間 - 9〜16時
交通アクセス - 土讃線 大田口駅 徒歩30分
所在地 高知県長岡郡大豊町寺内314
位置 北緯33度47分31.5秒 東経133度43分37.6秒
山号 太田山
宗派 真言宗智山派
本尊 薬師如来
創建年 伝・724年(神亀元年)
開基 伝・行基、聖武天皇(勅願)
正式名 大田山 大願院 豊楽寺
別称 柴折薬師
札所等 日本三大薬師
文化財 薬師堂(国宝)
薬師如来坐像、薬師如来及び両脇侍像・二天王像、阿弥陀如来坐像(国の重要文化財)

国宝 薬師堂
歴史
724年(神亀元年)、吉野川北岸の険しい丘に聖武天皇の勅願所として行基が開創したと伝わる。寺号は聖武天皇が薬師本願経説の一節「資求豊足身心安楽」より名付けたとされる。
文化財
国宝
薬師堂
12世紀頃(平安時代末期 - 鎌倉時代初期)建立の四国最古の建造物。入母屋造り、柿葺き、単層、桁行(正面)5間、梁間(側面)5間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す)。内陣に如来像3体を安置。1952年に国宝指定。堂正面は中央3間を観音開きの板扉、両端間は連子窓に横板壁とする。側面は前端間を板扉とするほか横板壁、背面はすべて横板壁である。組物は舟肘木、垂木は疎垂木で全体に簡素な構えとする。堂内安置の薬師如来像の胎内に仁平元年(1151年)の年記とともに「五間四面薬堂造立」云々の記があり(「薬堂」は薬師堂の意)、これが薬師堂の建立時期を指すとも考えられる。建築史家の太田博太郎は、本建物の内陣(方3間)が、建物の中心ではなく後方寄りに設けられていること、内陣の柱と側柱(建物外周の柱)の柱筋が食い違っていることなどから、本建物の建立時期は平安時代までは上がらず、鎌倉時代初期とみている。いずれにしても、四国における現存最古級の建築である。

重要文化財(国指定)
木造薬師如来坐像 - 像高131.5cm[3]。、薬師堂内陣中央に安置、平安時代後期
木造薬師如来及び両脇侍像・二天王立像 - 中尊薬師如来坐像の像高133.5cm、薬師堂内陣向かって右に安置、平安時代後期。寺伝では釈迦如来像であるが、像内の銘文から、元来は薬師如来像として仁平元年(1151年)に作られたものであり、この像が本来の薬師堂本尊であったことがわかる。両脇侍像と二天王像は2010年に追加指定された。
木造阿弥陀如来坐像 - 像高131.5cm、薬師堂内陣向かって左に安置、平安時代後期
拝観情報
開門時間 - 9〜16時
交通アクセス - 土讃線 大田口駅 徒歩30分
所在地 高知県長岡郡大豊町寺内314
位置 北緯33度47分31.5秒 東経133度43分37.6秒
山号 太田山
宗派 真言宗智山派
本尊 薬師如来
創建年 伝・724年(神亀元年)
開基 伝・行基、聖武天皇(勅願)
正式名 大田山 大願院 豊楽寺
別称 柴折薬師
札所等 日本三大薬師
文化財 薬師堂(国宝)
薬師如来坐像、薬師如来及び両脇侍像・二天王像、阿弥陀如来坐像(国の重要文化財)
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