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2023年01月15日

鏡神社(かがみじんじゃ)は、佐賀県唐津市の鏡山の麓にある神社

鏡神社(かがみじんじゃ)は、佐賀県唐津市の鏡山の麓にある神社である。

現在は松浦総鎮守鏡神社と呼ばれ、旧称は鏡尊廟宮、鏡宮、松浦宮、板櫃社、久里大明神。古来、鏡神社は松浦国の総社として尊崇され、松浦三社の一位に列せられていた。

遥かなる時を越え今も松浦地方の鎮守神として親しまれている。楊柳観音菩薩を始め立神様なども神道で祭祀をしており、神仏習合の名残を今も受け継いでいる神社である。

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佐賀県唐津市、鏡神社の一宮。神后皇后を祀っている

祭神
本殿が2棟あり、一ノ宮に息長足姫命(神功皇后)、二ノ宮に藤原広嗣を祀る。『源氏物語』玉鬘の巻で肥後の豪族大夫監が玉鬘に宛てた歌に「松浦なる鏡の神」と詠まれている。

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二ノ宮

歴史
社伝では、三韓征伐の際、神功皇后が鏡山山頂に戦勝を祈願して鏡を納めたが、その後この鏡が霊光を発したことから、それを聞いた神功皇后が自らの生霊を鏡に込めて祀ったのに始まると伝える。

また、三韓征伐の帰途、神功皇后は当地で陣痛に襲われたが、里人が差し出した湧き水を飲むと陣痛が治まり、宇美の地にて無事に応神天皇を産んだという。このことから安産の霊験もあるとされる。

藤原広嗣の乱により藤原広嗣が当地で処刑された10年後の天平勝宝2年(750年)、肥前国司に左遷された吉備真備により、広嗣を祀る二ノ宮が創建された。広嗣処刑の後、玄ムが筑紫に左遷されそこで歿したことから、これは広嗣の怨霊のせいであるとされ、それを慰めるためであった。

元は松浦宮・松浦廟宮と呼ばれ、空海(弘法大師)が鏡神社に改称したと伝える。

行事
歳旦祭 1月1日 - 3日
春季例大祭 4月9日(9日に近い日曜日)
雛供養祭(春季例大祭に併せて執り行われる)
夏越祭 7月最終土曜日
秋季例大祭(10月9日)
鏡くんちと呼ばれる事から、本来は10月9日であるが、近年では第3土曜日に行われる事がある。土日にわたって2台の曳き山笠が出る。
藤原祭 11月28日
除夜祭 12月31日

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鏡くんち

文化財
重要文化財(国指定)

絹本着色楊柳観音像 - 高麗時代、佐賀県立博物館に寄託

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楊柳観音像

所在地 佐賀県唐津市鏡1827
位置 北緯33度25分56秒 東経130度0分31秒
主祭神 息長足姫命
藤原広嗣
楊柳観音菩薩
社格等 旧県社
創建 応神天皇の御世
例祭 10月9日
posted by Kazu at 09:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐賀県

2023年01月14日

大沢家住宅(おおさわけじゅうたく)は、埼玉県川越市にある蔵造り建築

大沢家住宅(おおさわけじゅうたく)は、埼玉県川越市にある蔵造り建築。明治26年(1893年)の川越大火の焼失を免れた川越最古の蔵造りで、現存する関東地方最古の蔵造りでもある。国の重要文化財の指定を受けている。現在の屋号から「小松屋」とも呼ばれている。

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正面から

歴史
寛政4年(1792年)に近江国出身で呉服太物の近江屋を営んでいた豪商・西村半右衛門が建てた蔵造りの店舗建築。川越大火で例外的に焼失を免れ、そこから川越商人が蔵造りの町家を次々に建設する契機となった。昭和46年(1971年)に国の重要文化財の指定を受け、また、平成元年(1989年)より5年間を費やし大規模な修理が行なわれ、創建当時の姿に甦った。

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側面から

建築
建物は間口6間、奥行4間半。切妻造り平入り、桟瓦葺き。川越の重厚な蔵造りの中ではシンプルな町屋形式。総欅作りだが前面の人見の柱のみ松になっている(客を待つの意味)。1階の前面は下屋庇を出し、格子戸や土戸があり土間には防火用の用心戸まで備える。2階の前面は漆喰で塗り固めた土格子(どごうし)を一番外側に、漆喰戸、木戸、障子と三重の窓になっている。防火扉付きの小窓もある。2階への箱階段や、ゆるく波打つ階段側面の壁は、見事。壁面の厚さは30cm、縦と横に5pの丸竹を使い、あけびのつるで結束してある。内壁は孤を成している耐震構造。床の間は天井から漆喰が下がっている「吊り漆喰」。大黒柱は江戸建築でも最上の木材の1つで目を引く。

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1階店舗正面

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1階店舗側面

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左階段入口

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2階から階段を見る

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2階の居間

所在地 埼玉県川越市元町1-15-2
位置 北緯35度55分28.1秒 東経139度28分59.53秒
類型 商家
形式・構造 木造、蔵造り、切妻造平入、桟瓦葺
建築年 寛政4年(1792年)
文化財 国の重要文化財
posted by Kazu at 11:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 埼玉県

2023年01月13日

朝倉神社(あさくらじんじゃ)は、高知県高知市朝倉にある神社

朝倉神社(あさくらじんじゃ)は、高知県高知市朝倉にある神社。式内社で、土佐国二宮と称される。旧社格は県社。俗称として「木の丸様」とも。

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拝殿

祭神
祭神は次の2柱。
天津羽羽神 (あまつははがみ、天津羽々神)
天豊財重日足姫天皇 (あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと) - 第37代斉明天皇の和風諡号。
中世における本地仏は阿弥陀仏であったと伝わる。
祭神について
古くは『土佐国風土記』逸文に、
土左の郡(こほり)。朝倉の郷(さと)あり。郷の中に社あり。神の名(みな)は天津羽々の神なり。天の石帆別(いはほわけ)の神、今の天の石門別(いはとわけ)の神の子なり。
− 『釈日本紀』所引『土佐国風土記』逸文

と見える社が朝倉神社を指すとされる。同文によると、祭神の天津羽羽神は天石門別神(天石帆別神)の子になる。この天津羽羽神は朝倉郷の開拓神であると伝えられており、元々はこの神のみを奉斎したと考えられている。もう1柱の斉明天皇は、斉明天皇の営んだ朝倉行宮を当地に比定する説(後述)による合祀とされる。

なお、『延喜式』神名帳では土佐国吾川郡に「天石門別安国玉主天神社」(論社2社)の記載が見え、天津羽羽神の父の天石門別神を祀る神社として朝倉神社との関連が指摘される。

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本殿(国の重要文化財)

境内
本殿(国の重要文化財)
社殿のうち本殿は、江戸時代前期の明暦3年(1657年)、土佐藩第2代藩主の山内忠義による再建。明暦3年2月16日に着工し、同年8月に完工した。桁行三間・梁間二間で、屋根は柿葺。流造ではなく切妻造の屋根の前面に軒唐破風付きの向拝一間を付す、神社本殿としては珍しい形式になる。棟には置千木3個、勝男木5本を載せる。建物周囲では脇障子や壁板に絵画が施されているほか、随所に繧繝彩色、極彩色、漆塗、金鍍金が施され、全体的に華麗に彩られている。内部は内陣・外陣に分け、外陣にも彩色が施されている。本建物は、造営年(明暦3年)よりさかのぼる安土桃山時代の様式手法を示している。これは、土佐が地理的に中央から遠いため、中央文化の土佐への普及の遅れを表すとされる。この本殿は国の重要文化財に指定されている。

文化財
重要文化財(国指定)
本殿(附 棟札7枚)(建造物) - 昭和24年2月18日指定。

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交通アクセス
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国)土讃線 朝倉駅 - 西へ400メートル。
とさでん交通伊野線 朝倉神社前停留場 - 北東へ300メートル。

所在地 高知県高知市朝倉丙2100
位置 北緯33度33分12.35秒 東経133度28分54.16秒
主祭神 天津羽羽神
天豊財重日足姫天皇
神体 赤鬼山(神体山)
社格等 式内社(小)
(伝)土佐国二宮
旧県社
創建 不詳
本殿の様式 三間社切妻造
別名 木の丸様
例祭 11月10日
posted by Kazu at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 高知県

2023年01月12日

豊楽寺(ぶらくじ)は高知県長岡郡大豊町にある真言宗智山派の仏教寺院

豊楽寺(ぶらくじ)は高知県長岡郡大豊町にある真言宗智山派の仏教寺院。山号は大田山。大田山大願院豊楽寺と号する。本尊は薬師如来。別名は柴折薬師で、日本三大薬師の一つに数えられる。薬師堂は国宝に指定されている。

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国宝 薬師堂

歴史
724年(神亀元年)、吉野川北岸の険しい丘に聖武天皇の勅願所として行基が開創したと伝わる。寺号は聖武天皇が薬師本願経説の一節「資求豊足身心安楽」より名付けたとされる。

文化財
国宝
薬師堂
12世紀頃(平安時代末期 - 鎌倉時代初期)建立の四国最古の建造物。入母屋造り、柿葺き、単層、桁行(正面)5間、梁間(側面)5間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す)。内陣に如来像3体を安置。1952年に国宝指定。堂正面は中央3間を観音開きの板扉、両端間は連子窓に横板壁とする。側面は前端間を板扉とするほか横板壁、背面はすべて横板壁である。組物は舟肘木、垂木は疎垂木で全体に簡素な構えとする。堂内安置の薬師如来像の胎内に仁平元年(1151年)の年記とともに「五間四面薬堂造立」云々の記があり(「薬堂」は薬師堂の意)、これが薬師堂の建立時期を指すとも考えられる。建築史家の太田博太郎は、本建物の内陣(方3間)が、建物の中心ではなく後方寄りに設けられていること、内陣の柱と側柱(建物外周の柱)の柱筋が食い違っていることなどから、本建物の建立時期は平安時代までは上がらず、鎌倉時代初期とみている。いずれにしても、四国における現存最古級の建築である。

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重要文化財(国指定)
木造薬師如来坐像 - 像高131.5cm[3]。、薬師堂内陣中央に安置、平安時代後期
木造薬師如来及び両脇侍像・二天王立像 - 中尊薬師如来坐像の像高133.5cm、薬師堂内陣向かって右に安置、平安時代後期。寺伝では釈迦如来像であるが、像内の銘文から、元来は薬師如来像として仁平元年(1151年)に作られたものであり、この像が本来の薬師堂本尊であったことがわかる。両脇侍像と二天王像は2010年に追加指定された。
木造阿弥陀如来坐像 - 像高131.5cm、薬師堂内陣向かって左に安置、平安時代後期

拝観情報
開門時間 - 9〜16時
交通アクセス - 土讃線 大田口駅 徒歩30分

所在地 高知県長岡郡大豊町寺内314
位置 北緯33度47分31.5秒 東経133度43分37.6秒
山号 太田山
宗派 真言宗智山派
本尊 薬師如来
創建年 伝・724年(神亀元年)
開基 伝・行基、聖武天皇(勅願)
正式名 大田山 大願院 豊楽寺
別称 柴折薬師
札所等 日本三大薬師
文化財 薬師堂(国宝)
薬師如来坐像、薬師如来及び両脇侍像・二天王像、阿弥陀如来坐像(国の重要文化財)
posted by Kazu at 10:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 高知県

2023年01月11日

一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)は、群馬県富岡市一ノ宮にある神社

一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)は、群馬県富岡市一ノ宮にある神社。式内社(名神大社)、上野国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

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拝殿(左)・本殿(右奥)(いずれも国の重要文化財)

概要
群馬県南西部、鏑川左岸の河岸段丘上に鎮座し、信州街道に面する。物部君(毛野氏同族)が祖神を祀ったことに始まり、古代には朝廷から、中世以降は武家からも崇敬された。

境内は正面参道からいったん石段を上がり、総門を潜ったところから石段を下ると社殿があるという、いわゆる「下り宮」と呼ばれる配置となっている。社殿は江戸時代に第3代将軍徳川家光・第5代綱吉により整えられ、本殿・拝殿・楼門等が重要文化財に指定されている。また、鹿占習俗(国選択・県指定無形民俗文化財)を始めとした多くの特殊神事を行っている。

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表参道と大鳥居 大鳥居までは表参道の石段を上がる

祭神
祭神は以下の2柱。

経津主神(ふつぬしのかみ)
葦原中国(日本)平定に功績があったとされる神。貫前神社では物部氏の祖神と紹介している。
姫大神(ひめおおかみ)
祭神の名前は不詳。一説には、綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神とされる。
なお、『一宮巡詣記』では「本尊稚日女尊、相殿経津主命」と記載され主神は女神とされている。

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総門(惣門) 大鳥居と総門は同じ高さにある

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楼門 総門から先、楼門・社殿へは石段を下りる

歴史
創建
社伝によると、創建は安閑天皇元年(534年?)3月15日、鷺宮(現 安中市の咲前神社に比定)に物部君姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりといわれる。その後、天武天皇2年(私年号では白鳳2年、673年)に最初の奉幣が行われた。

一方、室町時代成立の『神道集』には、安閑天皇2年(535年?)3月中頃に抜鉾大明神が笹岡山に鉾を逆さに立てて御座、白鳳6年(677年)3月に菖蒲谷に社壇が建立されたと記載されている。

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拝殿(重要文化財)

文化財
重要文化財(国指定)
貫前神社 3棟(建造物) - 本殿は1912年(明治45年)2月8日指定、拝殿は1976年(昭和51年)5月20日指定、楼門は1976年(昭和51年)5月20日指定。
本殿(附 棟札2枚) - 江戸時代前期(1635年)造営。桁行三間、梁間三間、一重二階、入母屋造、妻入、向拝三間、檜皮葺。
拝殿(附 棟札1枚) - 江戸時代前期(1635年)頃造営。桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、正面軒唐破風付、檜皮葺。
楼門 - 江戸時代前期(1635年)造営。一間一戸楼門、入母屋造、銅板葺。
白銅月宮鑑(工芸品) - 宝物館保管。唐代の作。1912年(明治45年)2月8日指定。
銅鏡 2面(梅雀文様、竹虎文様)(工芸品) - 宝物館保管。鎌倉時代の作。1917年(大正6年)4月5日指定。

現地情報
所在地
群馬県富岡市一ノ宮1535
交通アクセス
鉄道
最寄駅:上信電鉄上信線 上州一ノ宮駅(徒歩約15分)
タクシー
富岡市観光乗合タクシー(JR松井田駅または上信線上州富岡駅から)で、「貫前神社」停留所下車(下車後徒歩すぐ)

駐車場:有り
上信越自動車道 富岡ICまたは下仁田ICから、どちらも約20分
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2023年01月10日

青井阿蘇神社(あおいあそじんじゃ)は、熊本県人吉市上青井町にある神社

青井阿蘇神社(あおいあそじんじゃ)は、熊本県人吉市上青井町にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。地元では親しみを込めて「青井さん」と称されている。

本殿など5棟の建造物は国宝に指定されている。

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楼門(国宝)

祭神
建磐龍命とその后神である阿蘇津媛命(あそつひめのみこと)、両神の御子神である国造速甕玉神(くにのみやつこはやみかたまのみこと)を祀る。この3神は阿蘇三社とも称される、熊本県阿蘇市の阿蘇神社の祭神12柱中の3柱である。

近世までは両部神道に基づく神仏習合が行われ、建磐龍命は十一面観音を、阿蘇津媛命は不動明王を、国造速甕玉神は毘沙門天を本地仏とし、神体として仏像を祀っていたが、寛文5年(1665年)に唯一神道へ改めてこれを改替した。なお仏形の神像絵は現も神社に保存されている。

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鳥居

歴史
大同元年(806年)9月9日に阿蘇神社の神主尾方権助大神惟基が神託により阿蘇神社から阿蘇三社の分霊を当地球磨郡青井郷に祀ったのに始まると伝える。その後天喜年中(11世紀中半)に再興され、建久9年(1198年)に領主として藤原(相良)長頼が当地へ下向した際にも再営して自家の氏神として尊崇、神領216石を寄進する等相良家歴代の篤い崇敬を受け、延徳3年(1491年)の同為続による社殿造営を始めとする数度の社殿の造営、修造が行われた。

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(左から)拝殿・幣殿・廊・本殿 (いずれも国宝)

境内
社殿
現存の本殿、廊、幣殿、拝殿の中心的社殿と楼門の計5棟は、人吉藩初代藩主相良長毎とその重臣相良清兵衛の発起により、慶長15年(1610年)から同18年にかけて造営されたものである。

本殿は三間社流造銅板葺。側面と背面の桟を×型とする点や長押上の小壁に格狭間(ごうざま)を設ける点などに球磨地方の社寺建築の特徴が見られる。廊は本殿と幣殿を連絡する社殿で、梁間1間、桁行1間切妻造銅板葺。左右両柱の持ち送りに龍の彫刻を施すが、これは南九州の近世社寺建築に影響を与えたとされる。幣殿は梁間3間、桁行5間の寄棟造妻入茅葺で前面は拝殿に接続する。内部外部ともに華麗な装飾が見られるが、内部小壁の装飾彫刻の図様が柱間内で完結せずに柱を超えてつながる点や餝金具の技法に特徴があり、これは当時の最先端技法をいち早く取り入れたものという。以上3棟は慶長15年の竣工。拝殿は慶長16年の竣工で、桁行7間、梁間3間、寄棟造平入茅葺。前面に1間の唐破風造銅板葺の向拝(こうはい)を付ける。梁間3間のうち手前1間通りを吹き放しとし、その奥は拝殿、神楽殿、神供所(じんくしょ)の3つに仕切られ、当地方独特の舞台装飾が施された神楽殿では、10月8日の夕刻に球磨神楽が演じられる。

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本殿

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拝殿

交通アクセス
JR九州肥薩線人吉駅より徒歩4分(300m)。
九州自動車道人吉インターチェンジより2.3q。

所在地 熊本県人吉市上青井町118
位置 北緯32度12分48.8秒 東経130度45分10.3秒
主祭神 建磐龍命
阿蘇津媛命
国造速甕玉神
社格等 旧県社
別表神社
創建 (伝)大同元年(806年)
本殿の様式 三間社流造銅板葺
例祭 10月8日
主な神事 夏越祭(陰暦6月晦日)
おくんち祭(10月3日 - 11日)
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2023年01月09日

足軽長屋(あしがるながや)は、新潟県新発田市にある江戸時代の新発田藩の足軽の長屋形式の住居

足軽長屋(あしがるながや)は、新潟県新発田市にある江戸時代の新発田藩の足軽の長屋形式の住居。国の重要文化財に指定されている。所有者は財団法人北方文化博物館。

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概要
江戸時代にはこの付近に4棟あったとされるが、現存するのは1棟のみ。茅葺の8世帯向け棟割長屋である。建造年代は不明だが、棟札に「天保十三年」(1842年)の文字が残されており、同年の建造と考えられている。

昭和44年(1969年)に解体修理が行われて整備されたが、その前年まで実際の住居として人が住んでいた。前述の棟札はこの解体修理の際に見つかった。

同市にある新発田市立歴史図書館の外観は、この足軽長屋の形をモチーフとしたものである。

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交通アクセス
JR羽越本線・白新線 新発田駅 徒歩約7分

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2023年01月08日

明通寺(みょうつうじ)は、福井県小浜市門前にある真言宗御室派の寺院

明通寺(みょうつうじ)は、福井県小浜市門前にある真言宗御室派の寺院。山号は棡山(ゆずりさん)。本尊は薬師如来。大同元年(806年)、坂上田村麻呂によって創建されたと伝えられる。本堂と三重塔は、建造物としては福井県内で唯一国宝に指定されている。2015年(平成27年)4月24日、「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 - 御食国(みけつくに)若狭と鯖街道 - 」の構成文化財として日本遺産に認定される。

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明通寺本堂と三重塔。国宝。

歴史
「明通寺縁起」(応安7年・1374年奥書)などによれば、大同元年(806年)、北陸地方を巡行中の坂上田村麻呂が創建したとされる。地方寺院の例に漏れず、中世以前の沿革はあまり判然としていない。現存する本堂、三重塔は鎌倉時代中期、13世紀のもので、中興の祖である僧・頼禅によって復興されたものである。

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伽藍
本堂(国宝)
正嘉2(1258)年上棟、文永2(1265)年落成。石垣の基壇上に建つ入母屋造、檜皮葺きの建物。平面は桁行(間口)5間(14.72m)、梁間(奥行)6間(14.87m)である(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語)。屋根や隅軒の悠然とした勾配は鎌倉時代の特色を示す。正面側を全て蔀戸(しとみど)とした住宅風の外観をもつ。和様を基調としつつ、内部の構架には禅宗様の要素も取り入れている。堂内は内部空間を内陣と外陣(礼堂)に明確に区画する中世仏堂特有の構成で、寛政11(1799)年に内陣を拡張したとの記録がある。大正12年(1923年)に解体修理。昭和28年(1953年)、国宝に指定。
堂内は前方の梁間3間分を外陣、後方の梁間3間分を内陣とし、両者の間は格子戸を立てて結界している。外陣は入側(建物外周から1間内側)にも1間ごとに柱が立ち、入側柱で囲まれた内側の部分は、その外側の部分よりも床高を一段高めている。内陣は左右両側を格子戸で仕切って脇陣としている。向かって右後方の脇陣はかつて堂蔵(どうぐら)と呼ばれる倉庫であった。内陣の来迎柱(須弥壇背後に立つ2本の柱)は、堂内の他の柱と柱筋が合っておらず、やや後退して立てられている(平面図参照)。

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三重塔(国宝)
文永7(1270)年上棟。総高22.12m。和様を基調としているが、初層に拳鼻(こぶしばな、部材の末端部に拳状の装飾彫刻を施したもの)を用いる点に大仏様(だいぶつよう)の要素が現れており、塔に拳鼻を用いた最古例とされている。初層内部は四天柱(仏壇を囲む4本の柱)が立ち、釈迦三尊像と阿弥陀三尊像を安置して仏堂風の扱いとする(心柱は初層天井裏から立つ)。柱や壁には十二天などの絵画を描くが、建立当初のものではない。天文8(1539)年と元禄15(1702)年に、それぞれ修理が行われた。明治27年(1894年)以降、屋根は瓦葺となっていたが、昭和32年(1957年)の修理の際、桧皮葺に戻された。昭和28年(1953年)、本堂とともに国宝指定。明通寺の創建1,200年を記念して、2006年4月から11月まで初層内部が一般公開された。

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所在地
〒917-0237 福井県小浜市門前5-22
交通アクセス
小浜線東小浜駅よりあいあいバスで約9分
posted by Kazu at 14:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 福井県

2023年01月07日

永保寺(えいほうじ)は、岐阜県多治見市虎渓山町にある臨済宗南禅寺派の寺院

永保寺(えいほうじ)は、岐阜県多治見市虎渓山町にある臨済宗南禅寺派の寺院。山号は虎渓山(こけいざん)。

雲水の修行道場(僧堂)である虎渓山専門道場を併設している。

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歴史
1295年頃、鎌倉の地で夢窓疎石と元翁本元が修行し、また土岐頼貞との接点が生まれた。1311年悟後の修行のため甲斐の龍山庵(浄居寺)に一時隠棲していた夢窓疎石は、1312年元翁本元とともに元翁の故郷である三河の大徳寺に逗留。1313年土岐頼貞の招きにより、頼貞の父・土岐光定(1281年4月8日没)の33回忌を定林寺で厳修した。その後土岐頼貞の別邸または砦があったと推察される長瀬山の麓に庵を結ぶ。

文化3年(1806年)刊の『虎渓山略縁起一人案内』によれば、正和2年(1313年)6月18日に長瀬山の麓を目指していた夢窓一行が道に迷い、白馬に乗った女性に道を尋ねた所、返事が無かった。そこで夢窓は「空蝉(うつせみ)の もぬけのからか 事問えど 山路をだにも 教えざりけり」と歌を詠んだ。すると女性は「教ゆとも 誠の道はよもゆかじ 我をみてだに 迷うその身は」と返歌して忽然と消え失せ、付近の補陀岩上に一寸八分の観世音菩薩像が出現した。夢窓はこの観世音菩薩像を本尊とし、1314年に水月場(観音堂、国宝)を建立した。

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境内
観音堂(国宝)
一重裳階(もこし)付き、入母屋造檜皮葺きの仏殿。南北朝時代。「水月場」とも称し、本尊の聖観世音菩薩坐像(毎年3月15日公開)が安置されている。身舎は方三間(間口、奥行ともに柱間が3間)で、その周囲に裳階を設ける。一重裳階付の外観、軒反りが強い屋根の形状、桟唐戸、柱間上方の弓欄間など禅宗様の要素が強い一方で、以下のような和様の要素も混在する。禅宗様では床は石敷き、天井は化粧屋根裏(天井板を張らず、構造材をそのまま見せる)とする例が多いが、この建物では床は板床、天井は板張りの鏡天井としている。柱上の組物は、禅宗様では複雑な「三手先」とする例が多いが、本建物では身舎が「出組」、裳階が「出三斗」という、外側への出の少ない簡素なものを用いている。禅宗様では「詰組」といって、柱と柱の間にも密に組物を配するのが通例だが、本建物の組物は柱の上のみに配置する。裳階は正面側一間通りを吹き放し(柱間に壁や扉を入れず開放とする)とするが、これも禅宗様仏堂としては異例である。以上のように、本建物は外観は禅宗様を基調としつつ、細部には和様の要素が濃い特異な建築である。軒裏は垂木を見せない「板軒」とするのも珍しい手法である。

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観音堂

開山堂(国宝)
入母屋造檜皮葺き。南北朝時代。永保寺開創の夢窓国師および開山仏徳禅師の頂相が安置されている。方一間(間口、奥行ともに柱間が1間)裳階付きの祠堂の前に方三間の昭堂(外陣、礼堂)が建ち、これらを相の間でつないで1棟とする特異な形式である。昭堂の奥に前述の祖師の頂相を安置し、奥の祠堂には開山の墓塔である石造宝篋印塔を安置する。昭堂は三手先の組物を詰組(柱と柱の間にも密に組物を配する)とし、垂木を扇垂木(隅の垂木を放射状に配置する)とし、堂内は石敷きの土間に化粧屋根裏とするなど、本格的な禅宗様の意匠になる。

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開山堂

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方丈

その他
2003年9月10日、本堂、大玄関、庫裏が火災で焼失。2007年8月29日、庫裏(約520m2)が再建され完成式が行われた。また、一般に本堂と呼ばれる方丈華藏庵と唐破風の大方玄関は平成23年4月18日に竣工した。

所在地
岐阜県多治見市虎渓山町1-40
交通機関
JR中央本線・太多線 多治見駅・多治見駅前バスターミナルから東鉄バス・小名田線「虎渓山」下車、徒歩で約10分
posted by Kazu at 10:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 岐阜県

2023年01月06日

高徳院(こうとくいん)は、神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺院

高徳院(こうとくいん)は、神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺院。本尊は国宝銅造阿弥陀如来坐像の鎌倉大仏。正式には大異山高徳院清浄泉寺(だいいざん こうとくいん しょうじょうせんじ)と号する。開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳。

2004年(平成16年)2月27日、境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定された。なお、大仏の造立経緯や、大仏殿の倒壊時期については諸説ある。

近世以前に造立された大仏について、東大寺大仏 (現存)、鎌倉大仏 (現存)、雲居寺大仏 (現存せず)、東福寺大仏 (現存せず)、方広寺の京の大仏 (現存せず)などの大仏が挙げられるが、天災や戦乱で失われたものが多く、鎌倉大仏は、造立当初の姿をよくとどめている貴重な存在である。

江戸時代には、鎌倉大仏 (像高約11.39m)、東大寺大仏 (像高約14.7m)、方広寺大仏(京の大仏)(像高約19m) の三尊が、日本三大仏と称されていた。

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鎌倉大仏 (国宝)

歴史
高徳院は、鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間(1711年 - 1716年)に江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである。

『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)、深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の寛元元年(1243年)に開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は、仁治3年(1242年)、完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。一方、『吾妻鏡』には、建長4年(1252年)から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し、この1252年から造立の開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である。なお、前述の1243年に開眼供養された木造の大仏と、1252年から造り始められた銅造の大仏との関係については、木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説があったが、後者の説が定説となっている。

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高徳院(鎌倉大仏)

鎌倉大仏
銅造阿弥陀如来坐像(国宝)
像高約11.39メートル(台座を含め高さ13.35メートル)、面長2.35メートル、眼長1メートル、眉長1.24メートル、口広0.82メートル、耳長1.9メートル、重量約121トン。
角張った平面的な面相、低い肉髻(にっけい、頭髪部の椀状の盛り上がり)、猫背気味の姿勢、体部に比して頭部が大きい点など、鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しており、鎌倉時代を代表する仏教彫刻として国宝に指定されている。また、後世の補修が甚大な奈良・東大寺の大仏と比べ、ほぼ造像当初の姿を保っている点も貴重である。像は衣を通肩(両肩を覆う着装法)にまとう。浄土教信仰に基づく阿弥陀像が多く来迎印(右手を挙げ、左手を下げる)を結ぶのに対し、本像は膝上で両手を組む定印(じょういん)を結んでおり、真言ないし天台系の信仰に基づく阿弥陀像であることがわかる。

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境内
観月堂 - 建屋は朝鮮王宮にあったものを、1924年に山一合資会社(後の山一證券)社長だった杉野喜精が寄贈した。内部には、江戸幕府2代将軍の徳川秀忠が所持していたとされる聖観音像を安置している。
与謝野晶子歌碑 - かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな の歌が刻まれている。なお、「釈迦牟尼」とあるが、鎌倉大仏は「阿弥陀如来」である。

交通
鉄道
江ノ島電鉄(江ノ電) 長谷駅から徒歩で9分
路線バス
江ノ島電鉄・京浜急行バス 鎌倉駅・藤沢駅から乗車、大仏前バス停下車すぐ。

所在地 神奈川県鎌倉市長谷4丁目2番28号
位置 北緯35度19分0.2秒 東経139度32分10.13秒
山号 大異山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 不詳
開基 不詳
正式名 大異山 高徳院 清浄泉寺
別称 鎌倉大仏
札所等 鎌倉三十三観音23番
文化財 銅造阿弥陀如来坐像(国宝)
鎌倉大仏殿跡(国の史跡
posted by Kazu at 09:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 神奈川県
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