大賀島寺(おおがしまじ)は岡山県瀬戸内市邑久町に所在する天台宗の寺院。山号は大雄山。本尊は千手千眼観世音菩薩。
大賀島寺 本堂
概要
邑久町西部に広がる千町平野の南部にある大雄山山上にある。
奈良時代前期、聖武天皇の時代に開創されたと伝えられている。その後、報恩大師によって開かれた備前四十八ヶ寺の一つとなったと伝えられる。戦国大名の宇喜多氏はこの辺りの出身と伝えられ、戦国時代には宇喜多氏の庇護を受け、宇喜多能家の時代に菩提寺となった。
元亀元年(1570年)火災により本堂などを焼亡した。慶長元年(1596年)に圓忠法印により復興した。江戸時代には岡山藩より寺領として82石3斗6升を受領した。江戸時代中期には13の僧坊があった。近年まで圓蔵院と蓮池院の2坊があったが、現在は蓮池院の1坊のみとなっている。
境内脇には大智明大権現神社があり、神仏習合の形態を残す寺院である。
文化財
重要文化財(国指定)
木造千手観音立像:9世紀前半(平安時代前期)の作と推定される。当寺院の本尊で秘仏で33年に一度開帳される。像高122.7cm。直立の体勢でなく、腰を軽くひねり、左脚を浮かせて歩み出すかのような体勢をとるのは千手観音像には珍しい。平安時代初期の檀像様(だんぞうよう)の系列に属する作品。平成23年(2011年)6月27日、国の重要文化財に指定。
瀬戸内市指定重要文化財
本堂:元亀元年(1570年)焼失。慶長元年(1596年)再建。現在のものは江戸時代中期の安永10年(1781年)に建造されたものである。
三宝荒神諸眷属画像
夜叉神形立像
所在地 岡山県瀬戸内市邑久町豊原2868
位置 北緯34度38分34.5秒 東経134度5分23.0秒
山号 大雄山
宗派 天台宗
本尊 千手観音
創建年 伝・奈良時代前期
文化財 千手観音立像(国の重要文化財)
本堂・三宝荒神諸眷属画像・夜叉神形立像(市重要文化財)
2023年02月04日
2023年02月03日
金剛寺(こんごうじ)は、大阪府河内長野市天野町にある真言宗御室派の大本山の寺院
金剛寺(こんごうじ)は、大阪府河内長野市天野町にある真言宗御室派の大本山の寺院。山号は天野山(あまのさん)。本尊は大日如来。五仏堂は新西国三十三箇所第7番札所で本尊は千手観音である。境内の多宝塔は平安時代後期の建立で、日本最古の多宝塔であると同時に大阪府最古の木造建築物である。
高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも呼ばれる。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている。また日本遺産『中世に出逢えるまち 〜千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫〜』の構成文化財のひとつでもある。
概要
南北朝時代(1336年 - 1392年)には、南朝の最重要拠点の一つとして、枢要の地位にあった。延元元年/建武3年(1336年)10月1日には、後醍醐天皇によって勅願寺に指定された。さらに、正平9年/文和3年(1354年)10月28日から正平14年/延文4年(1359年)12月まで、南朝第2代後村上天皇の行宮(仮の皇居)が置かれている。また、正平12年/延文2年(1357年)に後醍醐・後村上両帝の腹心で南朝最大の高僧・画僧の文観房弘真が入滅した地でもある。
境内
金堂(重要文化財) - 元応2年(1320年)再建。慶長10年(1605年)には豊臣秀頼により大修理されている。堂内には中央に本尊の金剛界大日如来坐像(国宝)、向かって右に不動明王坐像(国宝)、左に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)坐像(国宝)を安置する(いずれも2017年度に国宝に指定)。密教の曼荼羅の一つである尊勝曼荼羅を立体的に現したものでありこの金剛寺にしか存在しない。
木造大日如来坐像 - 平安時代後期。
木造不動明王坐像 - 鎌倉時代。修理時に像内銘が確認され、天福2年(1234年)、快慶の弟子、行快の作と判明した。
木造降三世明王坐像 - 鎌倉時代。降三世明王像は四面八臂三眼の立像として表すのが通例だが、本像は一面二臂二眼の坐像で、図像的に珍しい。像内銘はないが、作風から、不動明王像と同様、行快工房の作と推定される。
多宝塔(重要文化財) - 平安時代末の建立で多宝塔としては日本最古である。ただし、慶長11年(1606年)に豊臣秀頼により大改修されている。上層の隅行に日本の現存建築で唯一かつ最多となる九手先の組物がある。
経蔵(重要文化財)
宝蔵(重要文化財)
薬師堂(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により再建。
五仏堂(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により再建。新西国三十三箇所第7番札所で千手観音を祀る。
求聞持堂(重要文化財) - 元禄13年(1700年)に徳川綱吉により建立。
天野山八十八ヶ所巡り - 四国八十八箇所霊場石仏群がある。
閼伽井屋(重要文化財)
御影堂(重要文化財) - 慶長11年(1606年)に豊臣秀頼により再建。
観月亭(重要文化財) - 慶長11年(1606年)に豊臣秀頼により再建。御影堂に接続している。
法具蔵(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
護摩堂(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
開山堂(重要文化財) - 元禄13年(1700年)に徳川綱吉により建立。
光厳天皇陵(分骨所) - 宮内庁管轄。
北門
鐘楼(重要文化財) - 室町時代前期の再建。
食堂(重要文化財) - 室町時代前期の再建。南朝の政庁・天野殿。
南門
天照皇大神社(重要文化財)
八大龍王善女龍王社(重要文化財)
弁財天社(重要文化財)
築地塀(重要文化財)
楼門(重要文化財) - 鎌倉時代後期の再建。
摩尼院 - 塔頭。南朝行在所。
書院(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により再建。
表門(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により再建。
本坊
持仏堂(国登録有形文化財)
茶室(国登録有形文化財)
宝物館
庫裏
客殿(国登録有形文化財)
大玄関(国登録有形文化財)
渡廊下(国登録有形文化財)
奥殿(国登録有形文化財) - 北朝行在所。
庭園 - 蜂須賀家政の作とされる。
待合所
稲荷社
表門(国登録有形文化財)
南門(表門、重要文化財)
鎮守橋(国登録有形文化財) - この橋は天野川に掛かっており、ここを通って鎮守社に参拝する。
無量寿院
庫裏
籠堂(国登録有形文化財)
表門(旧真福院表門、重要文化財)
大講堂(国登録有形文化財)
大講堂食堂(国登録有形文化財)
表門(旧理趣院表門、重要文化財)
観蔵院 - 塔頭。北朝行在所。
吉祥院 - 塔頭。
天野山会館
総門(重要文化財)
水分明神社(重要文化財) - 鎮守社。慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
丹生高野明神社(重要文化財) - 鎮守社。慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
鎮守社拝殿(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
鎮守社鐘楼(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
戎社
金堂
多宝塔
アクセス
南海高野線および近鉄長野線 河内長野駅から南海バス天野山線「光明池駅行き(401系統)」「槙尾中学校前行き(402V系統)」「サイクルセンター行き(404系統:土休日のみ)」「天野山行き(401C系統)」のいずれかに乗車し、「天野山」バス停下車すぐ
所在地 大阪府河内長野市天野町996
位置 北緯34度25分46.42秒 東経135度31分44.57秒
山号 天野山
宗旨 古義真言宗
宗派 真言宗御室派
寺格 大本山
本尊 大日如来坐像(国宝)
創建年 伝・天平年間(729年 – 748年)
開山 伝・行基
開基 聖武天皇(勅願)
正式名 天野山金剛寺
別称 天野山寺、天野行宮、女人高野
札所等 新西国三十三箇所第7番
河泉二十四地蔵霊場第12番
河内飛鳥古社寺霊場第8番
神仏霊場巡拝の道第55番(大阪第14番)
文化財 延喜式神名帳、延喜式第十二残巻・第十四・第十六、紙本著色日月四季山水、剣 無銘、木造大日如来坐像・木造不動・降三世明王坐像 3躯(国宝)
楼門・金堂ほか(重要文化財)
高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも呼ばれる。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている。また日本遺産『中世に出逢えるまち 〜千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫〜』の構成文化財のひとつでもある。
概要
南北朝時代(1336年 - 1392年)には、南朝の最重要拠点の一つとして、枢要の地位にあった。延元元年/建武3年(1336年)10月1日には、後醍醐天皇によって勅願寺に指定された。さらに、正平9年/文和3年(1354年)10月28日から正平14年/延文4年(1359年)12月まで、南朝第2代後村上天皇の行宮(仮の皇居)が置かれている。また、正平12年/延文2年(1357年)に後醍醐・後村上両帝の腹心で南朝最大の高僧・画僧の文観房弘真が入滅した地でもある。
境内
金堂(重要文化財) - 元応2年(1320年)再建。慶長10年(1605年)には豊臣秀頼により大修理されている。堂内には中央に本尊の金剛界大日如来坐像(国宝)、向かって右に不動明王坐像(国宝)、左に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)坐像(国宝)を安置する(いずれも2017年度に国宝に指定)。密教の曼荼羅の一つである尊勝曼荼羅を立体的に現したものでありこの金剛寺にしか存在しない。
木造大日如来坐像 - 平安時代後期。
木造不動明王坐像 - 鎌倉時代。修理時に像内銘が確認され、天福2年(1234年)、快慶の弟子、行快の作と判明した。
木造降三世明王坐像 - 鎌倉時代。降三世明王像は四面八臂三眼の立像として表すのが通例だが、本像は一面二臂二眼の坐像で、図像的に珍しい。像内銘はないが、作風から、不動明王像と同様、行快工房の作と推定される。
多宝塔(重要文化財) - 平安時代末の建立で多宝塔としては日本最古である。ただし、慶長11年(1606年)に豊臣秀頼により大改修されている。上層の隅行に日本の現存建築で唯一かつ最多となる九手先の組物がある。
経蔵(重要文化財)
宝蔵(重要文化財)
薬師堂(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により再建。
五仏堂(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により再建。新西国三十三箇所第7番札所で千手観音を祀る。
求聞持堂(重要文化財) - 元禄13年(1700年)に徳川綱吉により建立。
天野山八十八ヶ所巡り - 四国八十八箇所霊場石仏群がある。
閼伽井屋(重要文化財)
御影堂(重要文化財) - 慶長11年(1606年)に豊臣秀頼により再建。
観月亭(重要文化財) - 慶長11年(1606年)に豊臣秀頼により再建。御影堂に接続している。
法具蔵(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
護摩堂(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
開山堂(重要文化財) - 元禄13年(1700年)に徳川綱吉により建立。
光厳天皇陵(分骨所) - 宮内庁管轄。
北門
鐘楼(重要文化財) - 室町時代前期の再建。
食堂(重要文化財) - 室町時代前期の再建。南朝の政庁・天野殿。
南門
天照皇大神社(重要文化財)
八大龍王善女龍王社(重要文化財)
弁財天社(重要文化財)
築地塀(重要文化財)
楼門(重要文化財) - 鎌倉時代後期の再建。
摩尼院 - 塔頭。南朝行在所。
書院(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により再建。
表門(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により再建。
本坊
持仏堂(国登録有形文化財)
茶室(国登録有形文化財)
宝物館
庫裏
客殿(国登録有形文化財)
大玄関(国登録有形文化財)
渡廊下(国登録有形文化財)
奥殿(国登録有形文化財) - 北朝行在所。
庭園 - 蜂須賀家政の作とされる。
待合所
稲荷社
表門(国登録有形文化財)
南門(表門、重要文化財)
鎮守橋(国登録有形文化財) - この橋は天野川に掛かっており、ここを通って鎮守社に参拝する。
無量寿院
庫裏
籠堂(国登録有形文化財)
表門(旧真福院表門、重要文化財)
大講堂(国登録有形文化財)
大講堂食堂(国登録有形文化財)
表門(旧理趣院表門、重要文化財)
観蔵院 - 塔頭。北朝行在所。
吉祥院 - 塔頭。
天野山会館
総門(重要文化財)
水分明神社(重要文化財) - 鎮守社。慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
丹生高野明神社(重要文化財) - 鎮守社。慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
鎮守社拝殿(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
鎮守社鐘楼(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
戎社
金堂
多宝塔
アクセス
南海高野線および近鉄長野線 河内長野駅から南海バス天野山線「光明池駅行き(401系統)」「槙尾中学校前行き(402V系統)」「サイクルセンター行き(404系統:土休日のみ)」「天野山行き(401C系統)」のいずれかに乗車し、「天野山」バス停下車すぐ
所在地 大阪府河内長野市天野町996
位置 北緯34度25分46.42秒 東経135度31分44.57秒
山号 天野山
宗旨 古義真言宗
宗派 真言宗御室派
寺格 大本山
本尊 大日如来坐像(国宝)
創建年 伝・天平年間(729年 – 748年)
開山 伝・行基
開基 聖武天皇(勅願)
正式名 天野山金剛寺
別称 天野山寺、天野行宮、女人高野
札所等 新西国三十三箇所第7番
河泉二十四地蔵霊場第12番
河内飛鳥古社寺霊場第8番
神仏霊場巡拝の道第55番(大阪第14番)
文化財 延喜式神名帳、延喜式第十二残巻・第十四・第十六、紙本著色日月四季山水、剣 無銘、木造大日如来坐像・木造不動・降三世明王坐像 3躯(国宝)
楼門・金堂ほか(重要文化財)
2023年02月02日
富貴寺(ふきじ)は、大分県豊後高田市田染蕗(たしぶふき)にある天台宗の仏教寺院
富貴寺(ふきじ)は、大分県豊後高田市田染蕗(たしぶふき)にある天台宗の仏教寺院。山号を蓮華山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基は仁聞と伝える。
富貴寺大堂(おおどう)は、近畿地方以外に所在する数少ない平安建築の一つとして貴重な存在であり、1952年11月22日に国宝に指定されている。また、2013年10月17日には、富貴寺境内が史跡に指定されている。
大堂(国宝)
歴史
富貴寺のある国東半島は、神仏習合の信仰形態を持つ宇佐八幡(宇佐神宮)と関係の深い土地であり、古くから仏教文化が栄えていた。
富貴寺は、国東半島の他の多くの寺と同様、養老2年(718年)、仁聞の開創と伝える。仁聞はほとんど伝説中の人物で確かな事績は不明だが、国東半島の六つの郷(武蔵、来縄(くなわ)、国東(くにさき)、田染(たしぶ)、安岐(あき)、伊美(いみ))に28の寺院を開創し、6万9千体の仏像を造ったといわれている。国東半島一帯にある仁聞関連の寺院を総称して「六郷山」または「六郷満山」といっている。
国東半島に点在する「六郷山」の寺院群については、古い時代の遺品や記録が乏しく成立経緯等はなお不明な点が多いが、日本古来の山岳信仰の霊地、修行の場としてあったものが、奈良時代末 - 平安時代初期頃から寺院の形態を取り始め、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の傘下に入ったものと推定される。弥勒寺は当初法相宗の寺院であったが、平安時代後期には天台宗となり、六郷山の寺院も比叡山延暦寺の末寺となった。仁安3年(1168年)の『六郷二十八山本寺目録』という文書によると、六郷山は本山(もとやま)8寺、中山(なかやま)10寺、末山10寺の28か寺のほかに37か寺の末寺があり、合計65か寺からなっていた。富貴寺はこの65か寺の1つで、「本山」の西叡山高山寺という寺の末寺とされている。
仁王門
富貴寺には、久安3年(1147年)の銘のある鬼神面があり、この頃までには寺院として存在していたと思われるが、それ以前の詳しいことはわかっていない。宇佐神宮大宮司の到津(いとうづ)家に伝わる貞応2年(1223年)作成の古文書のなかに「蕗浦阿弥陀寺(富貴寺のこと)は当家歴代の祈願所である」旨の記載があり、12世紀前半 - 中頃、宇佐八幡大宮司家によって創建されたものと推定されている。現存する大堂は12世紀の建築と思われ、天台宗寺院にしては、浄土教色の強い建物である。富貴寺を含め六郷山の寺院では神仏習合の信仰が行われ、富貴寺にも宇佐神宮の6体の祭神を祀る六所権現社が建てられていた。
天正年間(1573年 – 1592年)、キリシタン大名大友宗麟の時代に多くの仏教寺院が破壊されたが、富貴寺大堂は難を免れ、平安期の阿弥陀堂の姿を今に伝えている。
現在は大堂の隣に宿坊「旅庵蕗薹(ふきのとう)」を併設し、境内で泊まることができる。
文化財
国宝
富貴寺大堂 附旧棟木の部分
「おおどう」と読む。急な石段の上の、斜面を削平した小高い土地に建つ。屋根は宝形造(大棟のないピラミッド状の屋根形態)、瓦葺きである。この堂の瓦葺きは、上方がすぼまり、下方が開いた特殊な形の瓦を次々に差し込んでいくもので「行基葺き」と呼ばれる。堂は正面柱間が3間、側面が4間で、正面幅よりも奥行が長く、堂内後方に仏壇を置いて、その前方に礼拝のための空間を広く取っている。小規模な建築であり、扉など後世の修理で取りかえられた部分もあるが、九州に残る和様の平安建築として、また、六郷山の寺院群の最盛期を偲ばせる数少ない遺物として歴史的価値が高い。また、旧棟木の部分が追加指定されており、大堂の屋根の構造の履歴を知る貴重な資料になるだけではなく、富貴寺板碑にも見える学頭祐禅が、文和2年(1353年)の大堂の改修に携わったことなどが墨書で記してある。
史跡(国指定)
富貴寺境内
交通
タクシーなど自動車では大分空港から約40分、JR九州日豊本線宇佐駅より車で約30分。または、同駅、別府駅、大分駅より大分交通の定期観光バス利用。路線バスと豊後高田市の市民乗合タクシーでも行き来できる。
所在地 大分県豊後高田市田染字蕗2395
位置 北緯33度32分15.8秒 東経131度31分43.5秒
山号 蓮華山
宗派 天台宗
本尊 阿弥陀如来(重要文化財)
創建年 伝・養老2年(718年)
開基 伝・仁聞
正式名 蓮華山富貴寺
別称 蕗阿彌陀寺、蕗浦阿彌陀寺、蕗寺
文化財 大堂(国宝)
境内(国の史跡)
木造阿弥陀如来坐像・大堂壁画(国の重要文化財)
笠塔婆5基・木造仮面・板碑・石殿(県指定有形文化財)
富貴寺大堂(おおどう)は、近畿地方以外に所在する数少ない平安建築の一つとして貴重な存在であり、1952年11月22日に国宝に指定されている。また、2013年10月17日には、富貴寺境内が史跡に指定されている。
大堂(国宝)
歴史
富貴寺のある国東半島は、神仏習合の信仰形態を持つ宇佐八幡(宇佐神宮)と関係の深い土地であり、古くから仏教文化が栄えていた。
富貴寺は、国東半島の他の多くの寺と同様、養老2年(718年)、仁聞の開創と伝える。仁聞はほとんど伝説中の人物で確かな事績は不明だが、国東半島の六つの郷(武蔵、来縄(くなわ)、国東(くにさき)、田染(たしぶ)、安岐(あき)、伊美(いみ))に28の寺院を開創し、6万9千体の仏像を造ったといわれている。国東半島一帯にある仁聞関連の寺院を総称して「六郷山」または「六郷満山」といっている。
国東半島に点在する「六郷山」の寺院群については、古い時代の遺品や記録が乏しく成立経緯等はなお不明な点が多いが、日本古来の山岳信仰の霊地、修行の場としてあったものが、奈良時代末 - 平安時代初期頃から寺院の形態を取り始め、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の傘下に入ったものと推定される。弥勒寺は当初法相宗の寺院であったが、平安時代後期には天台宗となり、六郷山の寺院も比叡山延暦寺の末寺となった。仁安3年(1168年)の『六郷二十八山本寺目録』という文書によると、六郷山は本山(もとやま)8寺、中山(なかやま)10寺、末山10寺の28か寺のほかに37か寺の末寺があり、合計65か寺からなっていた。富貴寺はこの65か寺の1つで、「本山」の西叡山高山寺という寺の末寺とされている。
仁王門
富貴寺には、久安3年(1147年)の銘のある鬼神面があり、この頃までには寺院として存在していたと思われるが、それ以前の詳しいことはわかっていない。宇佐神宮大宮司の到津(いとうづ)家に伝わる貞応2年(1223年)作成の古文書のなかに「蕗浦阿弥陀寺(富貴寺のこと)は当家歴代の祈願所である」旨の記載があり、12世紀前半 - 中頃、宇佐八幡大宮司家によって創建されたものと推定されている。現存する大堂は12世紀の建築と思われ、天台宗寺院にしては、浄土教色の強い建物である。富貴寺を含め六郷山の寺院では神仏習合の信仰が行われ、富貴寺にも宇佐神宮の6体の祭神を祀る六所権現社が建てられていた。
天正年間(1573年 – 1592年)、キリシタン大名大友宗麟の時代に多くの仏教寺院が破壊されたが、富貴寺大堂は難を免れ、平安期の阿弥陀堂の姿を今に伝えている。
現在は大堂の隣に宿坊「旅庵蕗薹(ふきのとう)」を併設し、境内で泊まることができる。
文化財
国宝
富貴寺大堂 附旧棟木の部分
「おおどう」と読む。急な石段の上の、斜面を削平した小高い土地に建つ。屋根は宝形造(大棟のないピラミッド状の屋根形態)、瓦葺きである。この堂の瓦葺きは、上方がすぼまり、下方が開いた特殊な形の瓦を次々に差し込んでいくもので「行基葺き」と呼ばれる。堂は正面柱間が3間、側面が4間で、正面幅よりも奥行が長く、堂内後方に仏壇を置いて、その前方に礼拝のための空間を広く取っている。小規模な建築であり、扉など後世の修理で取りかえられた部分もあるが、九州に残る和様の平安建築として、また、六郷山の寺院群の最盛期を偲ばせる数少ない遺物として歴史的価値が高い。また、旧棟木の部分が追加指定されており、大堂の屋根の構造の履歴を知る貴重な資料になるだけではなく、富貴寺板碑にも見える学頭祐禅が、文和2年(1353年)の大堂の改修に携わったことなどが墨書で記してある。
史跡(国指定)
富貴寺境内
交通
タクシーなど自動車では大分空港から約40分、JR九州日豊本線宇佐駅より車で約30分。または、同駅、別府駅、大分駅より大分交通の定期観光バス利用。路線バスと豊後高田市の市民乗合タクシーでも行き来できる。
所在地 大分県豊後高田市田染字蕗2395
位置 北緯33度32分15.8秒 東経131度31分43.5秒
山号 蓮華山
宗派 天台宗
本尊 阿弥陀如来(重要文化財)
創建年 伝・養老2年(718年)
開基 伝・仁聞
正式名 蓮華山富貴寺
別称 蕗阿彌陀寺、蕗浦阿彌陀寺、蕗寺
文化財 大堂(国宝)
境内(国の史跡)
木造阿弥陀如来坐像・大堂壁画(国の重要文化財)
笠塔婆5基・木造仮面・板碑・石殿(県指定有形文化財)
タグ:国宝・富貴寺(ふきじ)
2023年02月01日
大宝寺(たいほうじ)は、愛媛県松山市にある真言宗豊山派の寺院
大宝寺(たいほうじ)は、愛媛県松山市にある真言宗豊山派の寺院である。山号は古照山。詳しくは、古照山 薬王院 大宝寺と号する。本尊は阿弥陀如来坐像(国の重要文化財)。本堂は愛媛県内最古の木造建築で国宝に指定されている。
本堂(国宝)
概要
寺伝によれば、飛鳥時代の大宝元年(701年)に地元の豪族小千(越智)伊予守玉興が創建したと伝えられている。寺号は創建されたとされる年号に由来する。
江戸時代には歴代松山藩主の祈願所となった。松平氏4代藩主松平定直によって貞享2年(1685年)本堂の修理が行われた。
うば桜伝説
角木長者伝説とも呼ばれる。その昔、この地に角木長者と呼ばれる豪族がいた。彼は子宝に恵まれなかった。薬師如来に祈りを捧げたところ娘が生まれた。娘の名を「露」と名付けた。露には「お袖」という名の乳母を雇い大切に育てた。お袖の乳の出が悪くなり、再び薬師如来に祈ると乳が出るようになった。そこで、お礼にお堂を建立した。これが大宝寺の始まりという。
露は15歳になった時に重病にかかった。お袖は自分の命と引き替えに露を助けて欲しいと薬師如来に祈った。すると露の病気は平癒した。その祝いの席でお袖は病に倒れた。お薬師様との約束と言って、お袖は薬も飲まず治療を拒み、とうとう亡くなった。亡くなる直前に「お薬師様へのお礼に桜の木を植えて下さい。」と言い残した。長者は約束どおりお堂の前に桜の木を植えた。その桜は枝が伸びないうちから幹に2〜3輪の花が咲いた。その花はお袖の乳房のような形で、母乳のような色であったという。その後、母乳の出が悪い女性が参拝に訪れるようになった。
この話は明治時代、小泉八雲によって英語に訳された。また、『怪談』にも納められている。
大宝寺のうば桜
文化財
国宝
大宝寺本堂1棟 附 厨子1基 棟札1枚
鎌倉時代前期の建立と推定されている。一重、寄棟造、桁行3間、梁間4間、本瓦葺。愛媛県内最古の木造建築である。間口・奥行とも同寸法(約9メートル)で、平面は正方形であるが、柱間は正面・背面を3間、側面を4間とする。内部は中央部の1間四方を内陣、その外側を外陣とし、平安時代末期に見られる阿弥陀堂の形式となっている。柱は全て円柱で、組物は隅柱上に舟肘木を用いるのみの簡素なものとする。正面は3間とも蔀戸(しとみど)とする。垂木は二軒(ふたのき)とするが、垂木割(垂木間の間隔)は一定しておらず、中世以前の古い様式を示す。堂内の厨子は室町時代の作で、正面3間、軒唐破風付、こけら葺。厨子は、貞享2年(1685年)再興の銘がある修理棟札と共に国宝の附(つけたり)として指定されている。毎年3月28日に内部が一般公開される。昭和28年(1953年)3月31日指定。
所在地 愛媛県松山市南江戸5-10-1
位置 北緯33度50分30.2秒 東経132度44分31.9秒
山号 古照山
宗派 真言宗豊山派
本尊 阿弥陀如来(国の重要文化財)
創建年 伝・大宝元年(701年)
開基 伝・小千伊予守玉興
正式名 古照山 薬王院 大宝寺
文化財 本堂(国宝)
阿弥陀如来坐像、釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像(国の重要文化財)
本堂(国宝)
概要
寺伝によれば、飛鳥時代の大宝元年(701年)に地元の豪族小千(越智)伊予守玉興が創建したと伝えられている。寺号は創建されたとされる年号に由来する。
江戸時代には歴代松山藩主の祈願所となった。松平氏4代藩主松平定直によって貞享2年(1685年)本堂の修理が行われた。
うば桜伝説
角木長者伝説とも呼ばれる。その昔、この地に角木長者と呼ばれる豪族がいた。彼は子宝に恵まれなかった。薬師如来に祈りを捧げたところ娘が生まれた。娘の名を「露」と名付けた。露には「お袖」という名の乳母を雇い大切に育てた。お袖の乳の出が悪くなり、再び薬師如来に祈ると乳が出るようになった。そこで、お礼にお堂を建立した。これが大宝寺の始まりという。
露は15歳になった時に重病にかかった。お袖は自分の命と引き替えに露を助けて欲しいと薬師如来に祈った。すると露の病気は平癒した。その祝いの席でお袖は病に倒れた。お薬師様との約束と言って、お袖は薬も飲まず治療を拒み、とうとう亡くなった。亡くなる直前に「お薬師様へのお礼に桜の木を植えて下さい。」と言い残した。長者は約束どおりお堂の前に桜の木を植えた。その桜は枝が伸びないうちから幹に2〜3輪の花が咲いた。その花はお袖の乳房のような形で、母乳のような色であったという。その後、母乳の出が悪い女性が参拝に訪れるようになった。
この話は明治時代、小泉八雲によって英語に訳された。また、『怪談』にも納められている。
大宝寺のうば桜
文化財
国宝
大宝寺本堂1棟 附 厨子1基 棟札1枚
鎌倉時代前期の建立と推定されている。一重、寄棟造、桁行3間、梁間4間、本瓦葺。愛媛県内最古の木造建築である。間口・奥行とも同寸法(約9メートル)で、平面は正方形であるが、柱間は正面・背面を3間、側面を4間とする。内部は中央部の1間四方を内陣、その外側を外陣とし、平安時代末期に見られる阿弥陀堂の形式となっている。柱は全て円柱で、組物は隅柱上に舟肘木を用いるのみの簡素なものとする。正面は3間とも蔀戸(しとみど)とする。垂木は二軒(ふたのき)とするが、垂木割(垂木間の間隔)は一定しておらず、中世以前の古い様式を示す。堂内の厨子は室町時代の作で、正面3間、軒唐破風付、こけら葺。厨子は、貞享2年(1685年)再興の銘がある修理棟札と共に国宝の附(つけたり)として指定されている。毎年3月28日に内部が一般公開される。昭和28年(1953年)3月31日指定。
所在地 愛媛県松山市南江戸5-10-1
位置 北緯33度50分30.2秒 東経132度44分31.9秒
山号 古照山
宗派 真言宗豊山派
本尊 阿弥陀如来(国の重要文化財)
創建年 伝・大宝元年(701年)
開基 伝・小千伊予守玉興
正式名 古照山 薬王院 大宝寺
文化財 本堂(国宝)
阿弥陀如来坐像、釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像(国の重要文化財)
2023年01月31日
犬山城(いぬやまじょう)は、尾張国と美濃国の境、木曽川南岸の地「犬山」にあった日本の城
犬山城(いぬやまじょう)は、尾張国と美濃国の境、木曽川南岸の地「犬山」にあった日本の城である。現在の場所で言えば愛知県犬山市にあり、天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつである。また天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)。城跡は「犬山城跡」として、国の史跡に指定されている。日本で最後まで個人が所有していた城(2004年まで個人所有)である。
概要
尾張国と美濃国の境にあり、木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城である。別名の白帝城は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで荻生徂徠が命名したと伝えられる。
前身となる岩倉織田氏の砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いた城であり、その後、池田恒興や織田勝長が入城、豊臣政権の時に石川貞清(光吉)が改修し現在のような形となった。また、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いにおける西軍の重要拠点となった。
江戸時代には尾張藩の付家老の平岩親吉が入城し、成瀬正成以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城とした。現存する天守が建てられた年代については天文期説、慶長期説などがあるが、現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した1617年(元和3年)ごろである。2004年(平成16年)3月末日までは日本で唯一の個人所有の城であったが、同年4月1日付けで設立された財団法人犬山城白帝文庫(現在は公益財団法人)に移管されている。2006年(平成18年)4月6日には、日本100名城(43番)に選定された。
天守
犬山城の天守は、外観3重、内部は4階、地下に踊場を含む2階が付く。天守南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式で、入母屋2重2階の建物の上に3間×4間の望楼部を載せた望楼型天守である。窓は突上窓と火灯窓、両開き窓なと、地階1・2階出入口を含めて、総延面積は698.775平方メートルに達する。 天守台石垣は野面積という積み方で、高さは5メートルある。天守の高さは19メートルある。
成瀬家7代の当主正壽がオランダ商館長と親しかったことから、天守の最上階に絨毯を敷いたと伝えられ、昭和の修理で再現された。
なお、2017年(平成29年)7月12日16時過ぎ、鯱が胴体から尾にかけて大きく破損しているのが見つかった。天守の北側にある避雷針が曲がっており、この日は午後から雷雨が降っていたため、犬山市は落雷が原因とみている。鯱は瓦製で作り直されて、2018年2月26日に天守へ設置。同年3月17日に記念式典が開かれた。
文化財指定
1935年(昭和10年)5月13日、当時の国宝保存法に基づき旧国宝(文化財保護法における重要文化財に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日付けで文化財保護法に基づく国宝(新国宝)に指定された。指定に係る告示は1952年(昭和27年)10月16日付けの官報に掲載され、指定名称は「犬山城天守 1棟」。構造・形式は「三重四階、地下二階付、本瓦葺、南面及び西面附櫓、各一重、本瓦葺」とある。所有者は公益財団法人犬山城白帝文庫。犬山市が文化財保護法に基づく管理団体に指定されている。
1階:納戸の間、東西9間・南北8間。床面積は282.752平方メートル。
2階:武具の間、東西9間・南北8間。床面積は246.006平方メートル。
3階:破風の間、東西3間・南北4間。床面積は81.936平方メートル。
4階:高欄の間、東西3間・南北4間。床面積は49.835平方メートル。
現地情報
所在地 - 〒484-0082 愛知県犬山市大字犬山字北古券65-2
交通アクセス - IY 名鉄犬山線 KM 名鉄小牧線犬山駅または IY 名鉄犬山線犬山遊園駅より徒歩15分
料金
大人:550円
小人:110円
犬山城と犬山市内5地域にある各有料施設(城とまちミュージアム+からくり展示館+どんでん館・庭園有楽苑・明治村・リトルワールド・日本モンキーパーク)とセットになった割引入場券も販売している。
概要
尾張国と美濃国の境にあり、木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城である。別名の白帝城は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで荻生徂徠が命名したと伝えられる。
前身となる岩倉織田氏の砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いた城であり、その後、池田恒興や織田勝長が入城、豊臣政権の時に石川貞清(光吉)が改修し現在のような形となった。また、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いにおける西軍の重要拠点となった。
江戸時代には尾張藩の付家老の平岩親吉が入城し、成瀬正成以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城とした。現存する天守が建てられた年代については天文期説、慶長期説などがあるが、現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した1617年(元和3年)ごろである。2004年(平成16年)3月末日までは日本で唯一の個人所有の城であったが、同年4月1日付けで設立された財団法人犬山城白帝文庫(現在は公益財団法人)に移管されている。2006年(平成18年)4月6日には、日本100名城(43番)に選定された。
天守
犬山城の天守は、外観3重、内部は4階、地下に踊場を含む2階が付く。天守南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式で、入母屋2重2階の建物の上に3間×4間の望楼部を載せた望楼型天守である。窓は突上窓と火灯窓、両開き窓なと、地階1・2階出入口を含めて、総延面積は698.775平方メートルに達する。 天守台石垣は野面積という積み方で、高さは5メートルある。天守の高さは19メートルある。
成瀬家7代の当主正壽がオランダ商館長と親しかったことから、天守の最上階に絨毯を敷いたと伝えられ、昭和の修理で再現された。
なお、2017年(平成29年)7月12日16時過ぎ、鯱が胴体から尾にかけて大きく破損しているのが見つかった。天守の北側にある避雷針が曲がっており、この日は午後から雷雨が降っていたため、犬山市は落雷が原因とみている。鯱は瓦製で作り直されて、2018年2月26日に天守へ設置。同年3月17日に記念式典が開かれた。
文化財指定
1935年(昭和10年)5月13日、当時の国宝保存法に基づき旧国宝(文化財保護法における重要文化財に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日付けで文化財保護法に基づく国宝(新国宝)に指定された。指定に係る告示は1952年(昭和27年)10月16日付けの官報に掲載され、指定名称は「犬山城天守 1棟」。構造・形式は「三重四階、地下二階付、本瓦葺、南面及び西面附櫓、各一重、本瓦葺」とある。所有者は公益財団法人犬山城白帝文庫。犬山市が文化財保護法に基づく管理団体に指定されている。
1階:納戸の間、東西9間・南北8間。床面積は282.752平方メートル。
2階:武具の間、東西9間・南北8間。床面積は246.006平方メートル。
3階:破風の間、東西3間・南北4間。床面積は81.936平方メートル。
4階:高欄の間、東西3間・南北4間。床面積は49.835平方メートル。
現地情報
所在地 - 〒484-0082 愛知県犬山市大字犬山字北古券65-2
交通アクセス - IY 名鉄犬山線 KM 名鉄小牧線犬山駅または IY 名鉄犬山線犬山遊園駅より徒歩15分
料金
大人:550円
小人:110円
犬山城と犬山市内5地域にある各有料施設(城とまちミュージアム+からくり展示館+どんでん館・庭園有楽苑・明治村・リトルワールド・日本モンキーパーク)とセットになった割引入場券も販売している。
2023年01月30日
中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院
中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院。奥州三十三観音番外札所。山号は関山(かんざん)、本尊は釈迦如来 。寺伝では円仁の開山とされる。実質的な開基は藤原清衡。
奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財を有する。
境内は「中尊寺境内」として国の特別史跡に指定されている[2]。2011年(平成23年)6月26日、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された[3]。
平泉毛越寺、松島瑞巌寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。
歴史
寺伝によると、嘉祥3年(850年)、円仁(慈覚大師)が関山弘台寿院を開創したのが始まりとされ、その後貞観元年(859年)に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったという。しかし、円仁開山のことは、確かな史料や発掘調査の結果からは裏付けられず、実質的には12世紀初頭、奥州藤原氏の初代・藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが、中尊寺の創建と見られる。
寺号
「中尊寺」の寺号については、天治3年(1126年)の経蔵文書が初出ともいうが、この文書自体に疑義がもたれている。そのため、確実な資料としては、歌人・西行が康治年間 (1142年 - 1144年)、この地を訪れて詠んだ歌の詞書(『異本山家集』所収)に「中尊と申所」云々とあるのが初出だとされている。
「中尊」は「奥州の中心に位置する」の意と解釈されている。中尊寺貫主を務めた多田厚隆は、「中尊」とは『法華経』「序品」にある「人中尊」に由来するとした。しかし、「人中の尊」という意味の語から「人」字を省いたのでは意味をなさないとして、これに反対する見解もある。
文化財
国宝
(金色院所有)
中尊寺金色堂(附:棟札4枚、納札1枚、旧組高欄6組、古材6点、旧飾金具2点)
金色堂堂内諸像及び天蓋 31躯、3面(附:木造阿弥陀如来坐像(右壇安置)、木造光背台座等残片一括)
金色堂堂内具(木造礼盤 1基、螺鈿平塵案 3基、磬架 1基(附 孔雀文磬 1面)、金銅幡頭 3枚、金銅華鬘 (迦陵頻伽文) 6枚)
(大長寿院所有)
紺紙金字一切経2,739巻(附 漆塗箱275合)
「中尊寺経」と通称される一切経には、初代清衡の発願になる「紺紙金銀交写経」(1行おきに金字と銀字で書写した経) と秀衡発願(寺伝では基衡発願)の「紺紙金字経」がある。前者は近世初頭にその大部分が寺外に流出し、中尊寺に残る金銀字経は15巻のみである。中尊寺旧蔵の金銀字経は、高野山金剛峯寺に4,296巻が所蔵され国宝に指定されているほか、大阪・観心寺、同・瀧安寺等にも分蔵されている。中尊寺所蔵の2,739巻のうち2,724巻は金字経である。各巻の見返し(巻頭部分)に金泥で描かれた絵は、平安時代の絵画資料としても貴重なものである。
螺鈿八角須弥壇
紺紙著色金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図 10幀(とう)
中尊寺経蔵堂内具(木造礼盤 1基、螺鈿平塵案 1基、磬架 1基(附 孔雀文磬 1面)、螺鈿平塵燈台 1基)
(地蔵院所有)
孔雀文磬
礼盤(らいばん) - 導師の坐る台座。
平塵(へいじん) - 漆工技法の一種。漆塗りの面にヤスリで卸した荒めの金粉をまばらに蒔き付け、装飾としたもの。平安時代以前に多く用いられた。
案(あん) - 「つくえ」とも読む。仏事に使用する仏具などを置く台。
磬(けい) - 「へ」の字形の金属板で、導師の脇に吊るし、叩いて音を出す。「磬架」はこれを吊るすためのもの。
拝観について
4/1〜11/10 8:00〜17:00 11/11〜3/31 8:30〜16:30
拝観料 金色堂・讃衡蔵共通で800円
アクセス
岩手県交通バス利用。
一関駅より「国道南線」
平泉駅より平泉町巡回バス「るんるん」
以上の路線に乗車し、「中尊寺」バス停下車。
岩手県北バス利用。
仙台空港より「ガイド付き路線バス」[20]に乗車し、「平泉レストハウス前」下車。
平泉駅より徒歩25分。
平泉前沢ICより車で15分。
所在地 岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
位置 北緯39度0分5.5秒 東経141度6分9.8秒
山号 関山(かんざん)
宗旨 天台宗
寺格 東北大本山
本尊 釈迦如来(本堂本尊)
創建年 (伝) 嘉祥3年(850年)
開山 (伝) 円仁(慈覚大師)
札所等 奥州三十三観音番外札所
四寺廻廊札所
文化財 金色堂、金色堂堂内諸像及び天蓋他(国宝)
金色堂旧覆堂他(重要文化財)
特別史跡
奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財を有する。
境内は「中尊寺境内」として国の特別史跡に指定されている[2]。2011年(平成23年)6月26日、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された[3]。
平泉毛越寺、松島瑞巌寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。
歴史
寺伝によると、嘉祥3年(850年)、円仁(慈覚大師)が関山弘台寿院を開創したのが始まりとされ、その後貞観元年(859年)に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったという。しかし、円仁開山のことは、確かな史料や発掘調査の結果からは裏付けられず、実質的には12世紀初頭、奥州藤原氏の初代・藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが、中尊寺の創建と見られる。
寺号
「中尊寺」の寺号については、天治3年(1126年)の経蔵文書が初出ともいうが、この文書自体に疑義がもたれている。そのため、確実な資料としては、歌人・西行が康治年間 (1142年 - 1144年)、この地を訪れて詠んだ歌の詞書(『異本山家集』所収)に「中尊と申所」云々とあるのが初出だとされている。
「中尊」は「奥州の中心に位置する」の意と解釈されている。中尊寺貫主を務めた多田厚隆は、「中尊」とは『法華経』「序品」にある「人中尊」に由来するとした。しかし、「人中の尊」という意味の語から「人」字を省いたのでは意味をなさないとして、これに反対する見解もある。
文化財
国宝
(金色院所有)
中尊寺金色堂(附:棟札4枚、納札1枚、旧組高欄6組、古材6点、旧飾金具2点)
金色堂堂内諸像及び天蓋 31躯、3面(附:木造阿弥陀如来坐像(右壇安置)、木造光背台座等残片一括)
金色堂堂内具(木造礼盤 1基、螺鈿平塵案 3基、磬架 1基(附 孔雀文磬 1面)、金銅幡頭 3枚、金銅華鬘 (迦陵頻伽文) 6枚)
(大長寿院所有)
紺紙金字一切経2,739巻(附 漆塗箱275合)
「中尊寺経」と通称される一切経には、初代清衡の発願になる「紺紙金銀交写経」(1行おきに金字と銀字で書写した経) と秀衡発願(寺伝では基衡発願)の「紺紙金字経」がある。前者は近世初頭にその大部分が寺外に流出し、中尊寺に残る金銀字経は15巻のみである。中尊寺旧蔵の金銀字経は、高野山金剛峯寺に4,296巻が所蔵され国宝に指定されているほか、大阪・観心寺、同・瀧安寺等にも分蔵されている。中尊寺所蔵の2,739巻のうち2,724巻は金字経である。各巻の見返し(巻頭部分)に金泥で描かれた絵は、平安時代の絵画資料としても貴重なものである。
螺鈿八角須弥壇
紺紙著色金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図 10幀(とう)
中尊寺経蔵堂内具(木造礼盤 1基、螺鈿平塵案 1基、磬架 1基(附 孔雀文磬 1面)、螺鈿平塵燈台 1基)
(地蔵院所有)
孔雀文磬
礼盤(らいばん) - 導師の坐る台座。
平塵(へいじん) - 漆工技法の一種。漆塗りの面にヤスリで卸した荒めの金粉をまばらに蒔き付け、装飾としたもの。平安時代以前に多く用いられた。
案(あん) - 「つくえ」とも読む。仏事に使用する仏具などを置く台。
磬(けい) - 「へ」の字形の金属板で、導師の脇に吊るし、叩いて音を出す。「磬架」はこれを吊るすためのもの。
拝観について
4/1〜11/10 8:00〜17:00 11/11〜3/31 8:30〜16:30
拝観料 金色堂・讃衡蔵共通で800円
アクセス
岩手県交通バス利用。
一関駅より「国道南線」
平泉駅より平泉町巡回バス「るんるん」
以上の路線に乗車し、「中尊寺」バス停下車。
岩手県北バス利用。
仙台空港より「ガイド付き路線バス」[20]に乗車し、「平泉レストハウス前」下車。
平泉駅より徒歩25分。
平泉前沢ICより車で15分。
所在地 岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
位置 北緯39度0分5.5秒 東経141度6分9.8秒
山号 関山(かんざん)
宗旨 天台宗
寺格 東北大本山
本尊 釈迦如来(本堂本尊)
創建年 (伝) 嘉祥3年(850年)
開山 (伝) 円仁(慈覚大師)
札所等 奥州三十三観音番外札所
四寺廻廊札所
文化財 金色堂、金色堂堂内諸像及び天蓋他(国宝)
金色堂旧覆堂他(重要文化財)
特別史跡
2023年01月29日
小山寺(おやまじ)は、茨城県桜川市富谷の富谷山中腹にある天台宗の寺院
小山寺(おやまじ)は、茨城県桜川市富谷の富谷山中腹にある天台宗の寺院。山号は施無畏山。別名富谷観音。十一面観世音菩薩坐像は茨城県指定有形文化財。
小山寺(富谷観音)の本堂
歴史
寺伝によれば、天平7年(735年)、聖武天皇の勅願によって行基を開基として建立されたという。寛正6年(1465年)、多賀谷朝経を大旦那として大工の宗阿弥家吉父子によって三重塔が建立された。明治39年(1906年)、三重塔が特別保護建造物(現在の重要文化財に相当)に指定された。昭和63年(1988年)から3年かけて三重塔の解体修理が行われた。
仁王門
境内
室町時代の三重塔の建築様式は和様を基本として細部に禅宗様を加味する。関東地方以北で同時代まで遡る仏塔は、同塔以外には栃木県芳賀郡益子町にある西明寺の三重塔のみである。また、本堂、楼門、鐘楼は茨城県指定有形文化財である。
文化財
重要文化財(国指定)
三重塔 - 室町時代中期(寛正6年(1465年))の建立。三間三重塔婆、とち葺。明治39年(1906年)4月14日指定。
茨城県指定有形文化財
本堂
仁王門
鐘楼
木造十一面観世音菩薩坐像
木造不動明王立像・毘沙門天立像
小山寺(富谷観音)の三重塔
交通アクセス
岩瀬駅からタクシーでおよそ10分
所在地 茨城県桜川市富谷2190
位置 北緯36度23分0.1秒 東経140度6分0.9秒
山号 施無畏山
院号 寶樹院(寶珠院)
宗旨 天台宗
正式名 施無畏山寶樹院小山寺
別称 富谷観音
長福禅寺
札所等 茨城百八地蔵尊霊場第三十二番札所
文化財 三重塔、本堂、楼門、鐘楼、仏像等
小山寺(富谷観音)の本堂
歴史
寺伝によれば、天平7年(735年)、聖武天皇の勅願によって行基を開基として建立されたという。寛正6年(1465年)、多賀谷朝経を大旦那として大工の宗阿弥家吉父子によって三重塔が建立された。明治39年(1906年)、三重塔が特別保護建造物(現在の重要文化財に相当)に指定された。昭和63年(1988年)から3年かけて三重塔の解体修理が行われた。
仁王門
境内
室町時代の三重塔の建築様式は和様を基本として細部に禅宗様を加味する。関東地方以北で同時代まで遡る仏塔は、同塔以外には栃木県芳賀郡益子町にある西明寺の三重塔のみである。また、本堂、楼門、鐘楼は茨城県指定有形文化財である。
文化財
重要文化財(国指定)
三重塔 - 室町時代中期(寛正6年(1465年))の建立。三間三重塔婆、とち葺。明治39年(1906年)4月14日指定。
茨城県指定有形文化財
本堂
仁王門
鐘楼
木造十一面観世音菩薩坐像
木造不動明王立像・毘沙門天立像
小山寺(富谷観音)の三重塔
交通アクセス
岩瀬駅からタクシーでおよそ10分
所在地 茨城県桜川市富谷2190
位置 北緯36度23分0.1秒 東経140度6分0.9秒
山号 施無畏山
院号 寶樹院(寶珠院)
宗旨 天台宗
正式名 施無畏山寶樹院小山寺
別称 富谷観音
長福禅寺
札所等 茨城百八地蔵尊霊場第三十二番札所
文化財 三重塔、本堂、楼門、鐘楼、仏像等
2023年01月28日
櫛引八幡宮(くしひきはちまんぐう)は、青森県八戸市にある神社(八幡宮)
櫛引八幡宮(くしひきはちまんぐう)は、青森県八戸市にある神社(八幡宮)である。旧社格は郷社。
概要
本殿など5棟の社殿が重要文化財に指定され、国宝や重要文化財の甲冑なども境内国宝館において一般公開されている。境内は「八幡山」と呼ばれ、樹齢100年以上の老杉が立ち並ぶ。
近年では櫛引八幡宮は一ノ宮であるという勘違いが進んでいるが、これは事実ではない。通常一ノ宮は、国の役人であった国司が赴任の際に参拝する順番が最初という意味であるが、櫛引八幡宮が自称する一ノ宮というのは、盛岡藩の南部家がとても大切にしていた神社という意味合いで用いられている。
実際八戸藩が成立しても、櫛引八幡宮は飛び地として盛岡藩の管理下にあり、八戸の神社にならなかった程に盛岡南部家は篤く崇敬しており、藩制が解体されるまでずっと盛岡の神社となっていた。
この南部総鎮守一ノ宮という言葉は、上記の様な背景の為八戸では何ら地盤を持っておらず、衰退していた神社を立て直す為、平成に入る前後あたりに観光戦略的に作られた櫛引八幡宮独自の造語で、盛岡にいる本家の南部氏が特に篤く崇敬したから南部の総鎮守と言えるだろう、同じく南部家にとっての一ノ宮と言っても良いだろうというネタで作られたキャッチフレーズである。
このキャッチフレーズは、現蕪嶋神社宮司が櫛引八幡宮禰宜時代創作したものであるが、本人は北東北に一ノ宮が存在するはずもないという歴史的常識を知らずにやってしまった為、詐欺のような行為だという周囲の批判が巻き起こってしまった。しかし、事実これによって櫛引八幡宮が立ち直った側面があるのも事実である。
実際の陸奥国一ノ宮は、志和彦神社鹽竈神社・馬場都都古和気神社・八槻都都古和気神社・石都都古和気神社の陸奥国一ノ宮論社四社と言われる神社が本当の一ノ宮であり、青森県内では新一宮として岩木山神社が全国一ノ宮会に属している。
祭神
八幡大神(誉田別命)を祀る。
歴史
仁安元年(1166年)に加賀美遠光が甲州南部庄(現山梨県南部町一帯)に八幡神を勧請して創祀し、緋威の鎧を殿内に納めたという八幡宮に起源を持ち、文治5年(1189年)の奥州合戦で戦功をたてたその息南部光行(南部氏の始祖)が糠部5郡(八戸・三戸・下北・鹿角・下北)の領地を任されて建久2年(1191年)に入部した折に、六戸の瀧ノ沢村に社殿を造営して南部庄から八幡宮を遷座し、さらに貞応元年 (1222年) に櫛引村の現在地に遷座したという。社伝の『櫛引八幡宮縁起旧記』によれば、瀧ノ沢村への遷座に際しては津島平次郎という家臣が甲州へ遣わされ、同村に仮宮を営んだのも同人であった事から、その子孫である滝沢家が「鍵守」として祭祀に与るようになったといい、また南部庄八幡宮の別当職であった宥鑁(ゆうばん)という僧も遷座に供奉し、当地に来住して普門院を開創、以後別当寺院として鍵守とともに祭祀を掌ったという。なお『櫛引八幡縁起』に、櫛引村には大同年間(806-10年)に坂上田村麻呂が創祀したという八幡宮の小社が鎮座していたためにそれと合祀したものともしている。その後は「櫛引八幡宮」として南部の総鎮守と崇められ、「南部一ノ宮」とも称された。
その後、建武年間に三戸南部家が衰退すると、当時陸奥国の国司代理として下向し、根城を築いた南部師行(根城南部氏4代目)が再興して南部氏の祈願所とした。
社殿
本殿 - 三間社流造、銅板葺。細部に施された彫刻や極彩色の文様等の華やかな意匠に桃山時代の遺風が認められる。
正門(南門) - 鳥居を入った正面に建つ切妻造銅板葺の四脚門。部材の木柄が太く、豪壮な感じを与えるものとなっている。
長所(旧拝殿) - 正門を入って左方に建つ。桁行7間梁間3間、入母屋造平入、銅板葺。かつての拝殿で、現拝殿の新築に伴って現在の場所に移築されたもの。
以上の3棟は正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもので、その後の補修工事も藩の直営事業として行われた。江戸時代前期の社殿形態を伝える遺構であり、拝殿左右に脇宮として祀られている神明宮と春日社の2棟を合わせて同時代の建造物群として残されている点が貴重であることから、平成5年(1993年)4月20日に国の重要文化財に指定された。
なお、現拝殿は昭和59年11月に竣功した桁行15間梁間8間入母屋造平入銅板葺の建物。
文化財
括弧内年月日は指定日
国宝
工芸品
赤糸威鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(昭和28年(1953年)11月14日)
鎌倉時代の大鎧。長慶天皇からの拝領と伝えられる。茜染めの組糸で小札(こざね)を威し(赤糸威)、八重菊枝模様を打出した鍍金金具を兜の鉢・鍬形台・吹返、大袖の裾板、草摺の裾板、鳩尾板(きゅうびのいた)、栴檀板(せんだんのいた)など随所に散らす。兜は鋲の頭を星に見立てた星兜で眉庇に八重菊枝文の鍬形台と大鍬形が付く。大袖には籬(まがき)に八重菊枝文の金具の上に「一」の字の飾金物を置くため「菊一文字の鎧」と呼ばれる。鎌倉時代の金工芸術の最高水準を示し、装飾性の豊かな点で奈良県春日大社所蔵の「赤糸威鎧」(竹に虎金物)と双璧をなすものと唱われる。天明8年(1788年)の江戸幕府巡見使に随行した地理学者・紀行作者の古川古松軒は「新羅三郎義光公の甲冑」と紹介している(『東遊雑記』)。大正4年(1915年)3月26日に古社寺保存法に基づき当時の国宝(旧国宝、現行法の重要文化財に相当)に指定。昭和28年に文化財保護法に基づく国宝に指定された。
白糸威褄取(つまどり)鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(昭和28年11月14日)
南北朝時代の大鎧。南北朝時代を代表する鎧であるとされ、白糸を卯の花に見立て、「卯の花威(うのはなおどし)」と呼ばれている。草摺と大袖の隅の部分を紫、薄紫、黄、萌黄、紅の色糸で褄取りに威す。兜は鋲の頭を星に見立てた星兜で、兜鉢の前後左右に鍍銀の板金を伏せた四方白(しほうじろ)とする。鍬形を欠くものの鉢正面の鎬垂(しのだれ)に堂々とした風格を示す。応永18年に南部光経(七戸光政)が奉納した2領の中の1領といい、光経の父信光が後村上天皇から拝領したものと伝えられる。赤絲威鎧同様、大正4年古社寺保存法に基づく旧国宝に、昭和28年、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
重要文化財
建造物
本殿(附鰐口1口)(平成5年4月20日)
旧拝殿(長所)(平成5年4月20日)
末社(脇宮)神明宮本殿(平成5年4月20日)
末社(脇宮)春日社本殿(平成5年4月20日)
南門(正門)(平成5年4月20日)
交通
JR東日本・青い森鉄道:八戸駅から車で10分
南部バス(司法センター前・八幡経由):「櫛引八幡宮前」バス停下車
所在地 青森県八戸市八幡字八幡丁3-2
位置 北緯40度29分25.2秒 東経141度26分05.2秒
主祭神 八幡大神
社格等 旧郷社
創建 伝建久年間(1190-99年)
本殿の様式 三間社流造銅板葺
例祭 旧暦4月15日(春季大祭)
旧暦8月15日(秋季大祭)
主な神事 お浜入り神事(5月14日)・流鏑馬(秋季大祭当日)
概要
本殿など5棟の社殿が重要文化財に指定され、国宝や重要文化財の甲冑なども境内国宝館において一般公開されている。境内は「八幡山」と呼ばれ、樹齢100年以上の老杉が立ち並ぶ。
近年では櫛引八幡宮は一ノ宮であるという勘違いが進んでいるが、これは事実ではない。通常一ノ宮は、国の役人であった国司が赴任の際に参拝する順番が最初という意味であるが、櫛引八幡宮が自称する一ノ宮というのは、盛岡藩の南部家がとても大切にしていた神社という意味合いで用いられている。
実際八戸藩が成立しても、櫛引八幡宮は飛び地として盛岡藩の管理下にあり、八戸の神社にならなかった程に盛岡南部家は篤く崇敬しており、藩制が解体されるまでずっと盛岡の神社となっていた。
この南部総鎮守一ノ宮という言葉は、上記の様な背景の為八戸では何ら地盤を持っておらず、衰退していた神社を立て直す為、平成に入る前後あたりに観光戦略的に作られた櫛引八幡宮独自の造語で、盛岡にいる本家の南部氏が特に篤く崇敬したから南部の総鎮守と言えるだろう、同じく南部家にとっての一ノ宮と言っても良いだろうというネタで作られたキャッチフレーズである。
このキャッチフレーズは、現蕪嶋神社宮司が櫛引八幡宮禰宜時代創作したものであるが、本人は北東北に一ノ宮が存在するはずもないという歴史的常識を知らずにやってしまった為、詐欺のような行為だという周囲の批判が巻き起こってしまった。しかし、事実これによって櫛引八幡宮が立ち直った側面があるのも事実である。
実際の陸奥国一ノ宮は、志和彦神社鹽竈神社・馬場都都古和気神社・八槻都都古和気神社・石都都古和気神社の陸奥国一ノ宮論社四社と言われる神社が本当の一ノ宮であり、青森県内では新一宮として岩木山神社が全国一ノ宮会に属している。
祭神
八幡大神(誉田別命)を祀る。
歴史
仁安元年(1166年)に加賀美遠光が甲州南部庄(現山梨県南部町一帯)に八幡神を勧請して創祀し、緋威の鎧を殿内に納めたという八幡宮に起源を持ち、文治5年(1189年)の奥州合戦で戦功をたてたその息南部光行(南部氏の始祖)が糠部5郡(八戸・三戸・下北・鹿角・下北)の領地を任されて建久2年(1191年)に入部した折に、六戸の瀧ノ沢村に社殿を造営して南部庄から八幡宮を遷座し、さらに貞応元年 (1222年) に櫛引村の現在地に遷座したという。社伝の『櫛引八幡宮縁起旧記』によれば、瀧ノ沢村への遷座に際しては津島平次郎という家臣が甲州へ遣わされ、同村に仮宮を営んだのも同人であった事から、その子孫である滝沢家が「鍵守」として祭祀に与るようになったといい、また南部庄八幡宮の別当職であった宥鑁(ゆうばん)という僧も遷座に供奉し、当地に来住して普門院を開創、以後別当寺院として鍵守とともに祭祀を掌ったという。なお『櫛引八幡縁起』に、櫛引村には大同年間(806-10年)に坂上田村麻呂が創祀したという八幡宮の小社が鎮座していたためにそれと合祀したものともしている。その後は「櫛引八幡宮」として南部の総鎮守と崇められ、「南部一ノ宮」とも称された。
その後、建武年間に三戸南部家が衰退すると、当時陸奥国の国司代理として下向し、根城を築いた南部師行(根城南部氏4代目)が再興して南部氏の祈願所とした。
社殿
本殿 - 三間社流造、銅板葺。細部に施された彫刻や極彩色の文様等の華やかな意匠に桃山時代の遺風が認められる。
正門(南門) - 鳥居を入った正面に建つ切妻造銅板葺の四脚門。部材の木柄が太く、豪壮な感じを与えるものとなっている。
長所(旧拝殿) - 正門を入って左方に建つ。桁行7間梁間3間、入母屋造平入、銅板葺。かつての拝殿で、現拝殿の新築に伴って現在の場所に移築されたもの。
以上の3棟は正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもので、その後の補修工事も藩の直営事業として行われた。江戸時代前期の社殿形態を伝える遺構であり、拝殿左右に脇宮として祀られている神明宮と春日社の2棟を合わせて同時代の建造物群として残されている点が貴重であることから、平成5年(1993年)4月20日に国の重要文化財に指定された。
なお、現拝殿は昭和59年11月に竣功した桁行15間梁間8間入母屋造平入銅板葺の建物。
文化財
括弧内年月日は指定日
国宝
工芸品
赤糸威鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(昭和28年(1953年)11月14日)
鎌倉時代の大鎧。長慶天皇からの拝領と伝えられる。茜染めの組糸で小札(こざね)を威し(赤糸威)、八重菊枝模様を打出した鍍金金具を兜の鉢・鍬形台・吹返、大袖の裾板、草摺の裾板、鳩尾板(きゅうびのいた)、栴檀板(せんだんのいた)など随所に散らす。兜は鋲の頭を星に見立てた星兜で眉庇に八重菊枝文の鍬形台と大鍬形が付く。大袖には籬(まがき)に八重菊枝文の金具の上に「一」の字の飾金物を置くため「菊一文字の鎧」と呼ばれる。鎌倉時代の金工芸術の最高水準を示し、装飾性の豊かな点で奈良県春日大社所蔵の「赤糸威鎧」(竹に虎金物)と双璧をなすものと唱われる。天明8年(1788年)の江戸幕府巡見使に随行した地理学者・紀行作者の古川古松軒は「新羅三郎義光公の甲冑」と紹介している(『東遊雑記』)。大正4年(1915年)3月26日に古社寺保存法に基づき当時の国宝(旧国宝、現行法の重要文化財に相当)に指定。昭和28年に文化財保護法に基づく国宝に指定された。
白糸威褄取(つまどり)鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(昭和28年11月14日)
南北朝時代の大鎧。南北朝時代を代表する鎧であるとされ、白糸を卯の花に見立て、「卯の花威(うのはなおどし)」と呼ばれている。草摺と大袖の隅の部分を紫、薄紫、黄、萌黄、紅の色糸で褄取りに威す。兜は鋲の頭を星に見立てた星兜で、兜鉢の前後左右に鍍銀の板金を伏せた四方白(しほうじろ)とする。鍬形を欠くものの鉢正面の鎬垂(しのだれ)に堂々とした風格を示す。応永18年に南部光経(七戸光政)が奉納した2領の中の1領といい、光経の父信光が後村上天皇から拝領したものと伝えられる。赤絲威鎧同様、大正4年古社寺保存法に基づく旧国宝に、昭和28年、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
重要文化財
建造物
本殿(附鰐口1口)(平成5年4月20日)
旧拝殿(長所)(平成5年4月20日)
末社(脇宮)神明宮本殿(平成5年4月20日)
末社(脇宮)春日社本殿(平成5年4月20日)
南門(正門)(平成5年4月20日)
交通
JR東日本・青い森鉄道:八戸駅から車で10分
南部バス(司法センター前・八幡経由):「櫛引八幡宮前」バス停下車
所在地 青森県八戸市八幡字八幡丁3-2
位置 北緯40度29分25.2秒 東経141度26分05.2秒
主祭神 八幡大神
社格等 旧郷社
創建 伝建久年間(1190-99年)
本殿の様式 三間社流造銅板葺
例祭 旧暦4月15日(春季大祭)
旧暦8月15日(秋季大祭)
主な神事 お浜入り神事(5月14日)・流鏑馬(秋季大祭当日)
2023年01月27日
秋田市立赤れんが郷土館(あきたしりつあかれんがきょうどかん)は、秋田県秋田市にある市立の郷土史料館・美術館
秋田市立赤れんが郷土館(あきたしりつあかれんがきょうどかん)は、秋田県秋田市にある市立の郷土史料館・美術館である。旧秋田銀行の本店として1912年(明治45年)に完成した赤れんが館(重要文化財)をメインに、新館、収蔵庫および少し離れたところにある分館、秋田市民俗芸能伝承館(通称ねぶり流し館)からなる。
施設について
赤れんが館・新館
赤れんが館の館内はかつての銀行時代の面影をよく遺しており、旧書庫では銀線細工など秋田市の伝統工芸品が常設展示されている。また旧会議室には重要無形文化財保持者(人間国宝)の鍛金家、関谷四郎の記念室があり、自宅アトリエが再現され、作品などが展示、紹介されている。
新館では秋田出身の版画家、勝平得之の記念室があり、郷土の自然や風俗をテーマにした作品が得之の生涯や業績とともに展示されている。
ねぶり流し館
分館にあたる民俗芸能伝承館(通称ねぶり流し館)は、赤れんが館とともに大町通りに面しているが、間に竿燈大通りをはさんでおり、赤れんが館との間には歩いて5分ほどの距離がある。正面に大きく竿燈の大若が展示されているのが特徴の建物である。内部は吹き抜けとなっており、1階では土崎神明社祭の曳山行事で使われる山車や太平山三吉神社の梵天祭りの梵天の展示が、2階では秋田市の民俗行事と芸能が紹介されている。また建物の吹き抜けを活かし、竿燈をあげる体験も行うことが出来る。
旧金子家住宅
ねぶり流し館に隣接する。建物は主屋一棟、土蔵一棟から構成され、市指定の有形文化財である。江戸時代後期の商家の様子を伝える伝統的な建物として、2005年(平成17年)から公開開始された。
入館料・開館時間等
開館時間
9:30-16:30
休館日
年末年始(12月29日 - 1月3日)および展示替期間
入館料
赤れんが郷土館 一般(高校生以上)200円
赤れんが郷土館・ねぶり流し館共通 一般(高校生以上)250円
ねぶり流し館 一般(高校生以上)100円
※ いずれも中学生以下は無料である
アクセス
徒歩
赤れんが郷土館・ねぶり流し館ともにJR秋田駅から徒歩約15分ほど。
バス
赤れんが郷土館 - 秋田中央交通新屋線、川尻割山線ほか「赤れんが郷土館前」下車すぐ、または県庁中央交通線ほか「川反入口」下車徒歩約1分。
ねぶり流し館・旧金子家住宅 - 秋田中央交通中心市街地循環バス「ぐるる」、新屋線、川尻割山線他「ねぶり流し館前」すぐ、あるいは、神田旭野線ほか「通町」下車徒歩約1分、または県庁中央交通線ほか「川反入口」下車徒歩約5分。
正式名称 秋田市民俗芸能伝承館
愛称 ねぶり流し館
専門分野 郷土芸能
事業主体 秋田市
管理運営 秋田市教育委員会
延床面積 1,340.02m2
開館 1992年8月4日
所在地 〒010-0921
秋田県秋田市大町1-3-30
位置 北緯39度43分13.50秒 東経140度7分1.35秒
アクセス 秋田中央交通バス「通町」下車徒歩約1分または「川反入口」下車徒歩約5分
施設について
赤れんが館・新館
赤れんが館の館内はかつての銀行時代の面影をよく遺しており、旧書庫では銀線細工など秋田市の伝統工芸品が常設展示されている。また旧会議室には重要無形文化財保持者(人間国宝)の鍛金家、関谷四郎の記念室があり、自宅アトリエが再現され、作品などが展示、紹介されている。
新館では秋田出身の版画家、勝平得之の記念室があり、郷土の自然や風俗をテーマにした作品が得之の生涯や業績とともに展示されている。
ねぶり流し館
分館にあたる民俗芸能伝承館(通称ねぶり流し館)は、赤れんが館とともに大町通りに面しているが、間に竿燈大通りをはさんでおり、赤れんが館との間には歩いて5分ほどの距離がある。正面に大きく竿燈の大若が展示されているのが特徴の建物である。内部は吹き抜けとなっており、1階では土崎神明社祭の曳山行事で使われる山車や太平山三吉神社の梵天祭りの梵天の展示が、2階では秋田市の民俗行事と芸能が紹介されている。また建物の吹き抜けを活かし、竿燈をあげる体験も行うことが出来る。
旧金子家住宅
ねぶり流し館に隣接する。建物は主屋一棟、土蔵一棟から構成され、市指定の有形文化財である。江戸時代後期の商家の様子を伝える伝統的な建物として、2005年(平成17年)から公開開始された。
入館料・開館時間等
開館時間
9:30-16:30
休館日
年末年始(12月29日 - 1月3日)および展示替期間
入館料
赤れんが郷土館 一般(高校生以上)200円
赤れんが郷土館・ねぶり流し館共通 一般(高校生以上)250円
ねぶり流し館 一般(高校生以上)100円
※ いずれも中学生以下は無料である
アクセス
徒歩
赤れんが郷土館・ねぶり流し館ともにJR秋田駅から徒歩約15分ほど。
バス
赤れんが郷土館 - 秋田中央交通新屋線、川尻割山線ほか「赤れんが郷土館前」下車すぐ、または県庁中央交通線ほか「川反入口」下車徒歩約1分。
ねぶり流し館・旧金子家住宅 - 秋田中央交通中心市街地循環バス「ぐるる」、新屋線、川尻割山線他「ねぶり流し館前」すぐ、あるいは、神田旭野線ほか「通町」下車徒歩約1分、または県庁中央交通線ほか「川反入口」下車徒歩約5分。
正式名称 秋田市民俗芸能伝承館
愛称 ねぶり流し館
専門分野 郷土芸能
事業主体 秋田市
管理運営 秋田市教育委員会
延床面積 1,340.02m2
開館 1992年8月4日
所在地 〒010-0921
秋田県秋田市大町1-3-30
位置 北緯39度43分13.50秒 東経140度7分1.35秒
アクセス 秋田中央交通バス「通町」下車徒歩約1分または「川反入口」下車徒歩約5分
2023年01月26日
重蔵神社(じゅうぞうじんじゃ)は、石川県輪島市河井町にある神社
重蔵神社(じゅうぞうじんじゃ)は、石川県輪島市河井町にある神社。
概要
輪島市の市街地に位置する。
祭神は、出雲から能登へ来臨し、同地を平定したとされる大国主の父天之冬衣命と、因幡の白兎で有名な心優しい大国主命。
式内社の鳳至比古神社、あるいは辺津比盗_社の論社の1つである。
歴史
社伝によれば創建は崇神天皇の治世(紀元前1世紀)と伝わる。
1918年(大正7年)県社となる。
祭神
主祭神
天冬衣命(あめのふゆきぬのみこと)
大国主命(おおくにぬしのみこと)
相殿神
五男神
正哉吾勝々速天忍穗耳命(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)
天之菩卑能命(あめのほひのみこと)
天津日子根命(あまつひこねのみこと)
活津日子根命(いくつひこねのみこと)
熊野久須毘命(くまののくすびこのみこと)
三女神(宗像三女神)
多紀理比売命(たぎりひめのみこと)
市杆嶋比売命(いちきしまひめのみこと)
田寸津比売命(たぎつひめのみこと)
文化財
重要文化財
木造菩薩面(東京国立博物館に寄託)平安末期〜鎌倉初期作の行道面。1900年(明治33年)に国宝指定され、1950年(昭和25年)に重要文化財に再指定される。
県指定無形民俗文化財
如月祭のお当行事 附 お当行事関係文書9点
旧本殿は1906年(明治39年)に古社寺保存法に基づく特別保護建造物(現行法の重要文化財に相当)に指定されたが、1910年(明治43年)の輪島大火で焼失した。
所在地 石川県輪島市河井町4-68
位置 北緯37度23分40.13秒 東経136度54分22.39秒
主祭神 天之冬衣命・大国主命
社格等 式内社(小)、県社
創建 (伝)崇神天皇の治世(紀元前1世紀)
例祭 8月23日
概要
輪島市の市街地に位置する。
祭神は、出雲から能登へ来臨し、同地を平定したとされる大国主の父天之冬衣命と、因幡の白兎で有名な心優しい大国主命。
式内社の鳳至比古神社、あるいは辺津比盗_社の論社の1つである。
歴史
社伝によれば創建は崇神天皇の治世(紀元前1世紀)と伝わる。
1918年(大正7年)県社となる。
祭神
主祭神
天冬衣命(あめのふゆきぬのみこと)
大国主命(おおくにぬしのみこと)
相殿神
五男神
正哉吾勝々速天忍穗耳命(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)
天之菩卑能命(あめのほひのみこと)
天津日子根命(あまつひこねのみこと)
活津日子根命(いくつひこねのみこと)
熊野久須毘命(くまののくすびこのみこと)
三女神(宗像三女神)
多紀理比売命(たぎりひめのみこと)
市杆嶋比売命(いちきしまひめのみこと)
田寸津比売命(たぎつひめのみこと)
文化財
重要文化財
木造菩薩面(東京国立博物館に寄託)平安末期〜鎌倉初期作の行道面。1900年(明治33年)に国宝指定され、1950年(昭和25年)に重要文化財に再指定される。
県指定無形民俗文化財
如月祭のお当行事 附 お当行事関係文書9点
旧本殿は1906年(明治39年)に古社寺保存法に基づく特別保護建造物(現行法の重要文化財に相当)に指定されたが、1910年(明治43年)の輪島大火で焼失した。
所在地 石川県輪島市河井町4-68
位置 北緯37度23分40.13秒 東経136度54分22.39秒
主祭神 天之冬衣命・大国主命
社格等 式内社(小)、県社
創建 (伝)崇神天皇の治世(紀元前1世紀)
例祭 8月23日