富貴寺大堂(おおどう)は、近畿地方以外に所在する数少ない平安建築の一つとして貴重な存在であり、1952年11月22日に国宝に指定されている。また、2013年10月17日には、富貴寺境内が史跡に指定されている。
大堂(国宝)
歴史
富貴寺のある国東半島は、神仏習合の信仰形態を持つ宇佐八幡(宇佐神宮)と関係の深い土地であり、古くから仏教文化が栄えていた。
富貴寺は、国東半島の他の多くの寺と同様、養老2年(718年)、仁聞の開創と伝える。仁聞はほとんど伝説中の人物で確かな事績は不明だが、国東半島の六つの郷(武蔵、来縄(くなわ)、国東(くにさき)、田染(たしぶ)、安岐(あき)、伊美(いみ))に28の寺院を開創し、6万9千体の仏像を造ったといわれている。国東半島一帯にある仁聞関連の寺院を総称して「六郷山」または「六郷満山」といっている。
国東半島に点在する「六郷山」の寺院群については、古い時代の遺品や記録が乏しく成立経緯等はなお不明な点が多いが、日本古来の山岳信仰の霊地、修行の場としてあったものが、奈良時代末 - 平安時代初期頃から寺院の形態を取り始め、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の傘下に入ったものと推定される。弥勒寺は当初法相宗の寺院であったが、平安時代後期には天台宗となり、六郷山の寺院も比叡山延暦寺の末寺となった。仁安3年(1168年)の『六郷二十八山本寺目録』という文書によると、六郷山は本山(もとやま)8寺、中山(なかやま)10寺、末山10寺の28か寺のほかに37か寺の末寺があり、合計65か寺からなっていた。富貴寺はこの65か寺の1つで、「本山」の西叡山高山寺という寺の末寺とされている。
仁王門
富貴寺には、久安3年(1147年)の銘のある鬼神面があり、この頃までには寺院として存在していたと思われるが、それ以前の詳しいことはわかっていない。宇佐神宮大宮司の到津(いとうづ)家に伝わる貞応2年(1223年)作成の古文書のなかに「蕗浦阿弥陀寺(富貴寺のこと)は当家歴代の祈願所である」旨の記載があり、12世紀前半 - 中頃、宇佐八幡大宮司家によって創建されたものと推定されている。現存する大堂は12世紀の建築と思われ、天台宗寺院にしては、浄土教色の強い建物である。富貴寺を含め六郷山の寺院では神仏習合の信仰が行われ、富貴寺にも宇佐神宮の6体の祭神を祀る六所権現社が建てられていた。
天正年間(1573年 – 1592年)、キリシタン大名大友宗麟の時代に多くの仏教寺院が破壊されたが、富貴寺大堂は難を免れ、平安期の阿弥陀堂の姿を今に伝えている。
現在は大堂の隣に宿坊「旅庵蕗薹(ふきのとう)」を併設し、境内で泊まることができる。
文化財
国宝
富貴寺大堂 附旧棟木の部分
「おおどう」と読む。急な石段の上の、斜面を削平した小高い土地に建つ。屋根は宝形造(大棟のないピラミッド状の屋根形態)、瓦葺きである。この堂の瓦葺きは、上方がすぼまり、下方が開いた特殊な形の瓦を次々に差し込んでいくもので「行基葺き」と呼ばれる。堂は正面柱間が3間、側面が4間で、正面幅よりも奥行が長く、堂内後方に仏壇を置いて、その前方に礼拝のための空間を広く取っている。小規模な建築であり、扉など後世の修理で取りかえられた部分もあるが、九州に残る和様の平安建築として、また、六郷山の寺院群の最盛期を偲ばせる数少ない遺物として歴史的価値が高い。また、旧棟木の部分が追加指定されており、大堂の屋根の構造の履歴を知る貴重な資料になるだけではなく、富貴寺板碑にも見える学頭祐禅が、文和2年(1353年)の大堂の改修に携わったことなどが墨書で記してある。
史跡(国指定)
富貴寺境内
交通
タクシーなど自動車では大分空港から約40分、JR九州日豊本線宇佐駅より車で約30分。または、同駅、別府駅、大分駅より大分交通の定期観光バス利用。路線バスと豊後高田市の市民乗合タクシーでも行き来できる。
所在地 大分県豊後高田市田染字蕗2395
位置 北緯33度32分15.8秒 東経131度31分43.5秒
山号 蓮華山
宗派 天台宗
本尊 阿弥陀如来(重要文化財)
創建年 伝・養老2年(718年)
開基 伝・仁聞
正式名 蓮華山富貴寺
別称 蕗阿彌陀寺、蕗浦阿彌陀寺、蕗寺
文化財 大堂(国宝)
境内(国の史跡)
木造阿弥陀如来坐像・大堂壁画(国の重要文化財)
笠塔婆5基・木造仮面・板碑・石殿(県指定有形文化財)
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