泉坂下遺跡(いずみさかしたいせき)は、茨城県常陸大宮市泉にある弥生時代の遺跡。2017年(平成29年)10月13日、国の史跡に指定された。また、出土品は同年9月15日に、国の重要文化財に指定されており、常陸大宮市歴史民俗資料館に保管されている。
概要
市域の東端付近を流れる久慈川とその支流玉川との合流点から北西に約3km、那珂台地から東に下った久慈川右岸の低位段丘上に立地している。
遺跡は、2006年(平成18年)の鈴木素行による学術目的調査によって確認された再葬墓遺跡である。再葬墓とは、土葬や風葬などによっていったん遺骸を処理し遺骨を土器等に入れて再び埋葬する葬法で、主に東日本の弥生時代中期中葉までに認められる墓制である。
この時の調査では7基の再葬墓を検出し、もっとも注目されたのは、1号墓坑から検出された4個体の土器のうちの1点が非常に大きな人面付壺形土器だったことである。
常陸大宮市教育委員会では、この遺跡の重要性に鑑み、2012年(平成24年)度から遺跡の範囲、内容を確認するための発掘調査を実施してきた。その結果、再葬墓30基を確認し、1基あたりの埋納土器は1個のものが7基、複数のものが23基で、最も多いのは15個に達し、確認できている土器は153個に及ぶ。このほか、16基の土坑が検出された。
墓域は大きく東西の2群に分かれていた。東群では24基の再葬墓が概ね、長辺20m、短辺15mの範囲に収まり、埋納土器が1個だけのものは4基、複数のものが20基で、再葬墓同士が近接して設けられて密集している。西群は、長辺20m、短辺10mの範囲に埋納土器が1個だけのものが3基、複数のものが3基の合計6基で構成され、分布密度は低い。これらはいずれも弥生時代中期前葉に属しているが、東西での分布の密集度に違いがあることが明らかとなった。
また、16基の土坑については、一次葬のためのものという観点から調査が進められた。土坑内から人骨の出土はなく、土壌のリン酸・カルシウム等の分析が行われたものの、人骨の存在を示す結果は出なかったが、一次葬のためのものである可能性が考えられている。
出土した土器のなかで、注目されるのは人面付壺形土器である。器高77.7cm、口径14cmで、この種の土器のなかでは最大であり、口縁部から頸部にかけて、人面の造作は著しく立体的で、特に顎の部分を大きく張り出している点を特徴とする優品である、赤色顔料が右眼下や右顎に部分的に認められることから、人面部は赤彩されていたと考えられる。
出土した土器153点のうち壺が145点である。取り上げた52点のうち、人面付壺形土器を含めて32点の器面の内外に炭化物の付着があり、煮沸痕が認められる。このほか、副葬品として、1基から滑石製の玉が6点出土している。
なお、他の再葬墓遺跡でも認められるものと同様に、当遺跡でも縄文時代後・晩期の遺物が非常に多く出土しており、特に晩期中葉の遺物が密である。
これまでの再葬墓は偶発的に発見されることや後世の削平を受けて遺存状況が良好でない例がみられる中、泉坂下遺跡は、弥生時代中期前葉の再葬墓遺跡として、遺構の残存状況は極めて良好で、墓域の全貌が判明した事例として貴重であり、現地に未調査の土器が多数遺存している。しかも、東西の2群に分かれ、再葬墓の密集度に違いがあることは、再葬墓が営まれた原理を知る事例を提供し、さらには、人面付壺形土器を発掘調査し、その出土状況が分かった。このように、本遺跡は弥生時代中期の東日本で特徴的に認められる再葬墓遺跡の様相を知ることができるという点で重要である。
2022年12月19日
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